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(人物)
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'''足利 尊氏'''(あしかが たかうじ)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。[[室町幕府]]の初代[[征夷大将軍]](在職:[[1338年]] - [[1358年]])。[[足利将軍家]]の祖。
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'''足利 尊氏'''(あしかが たかうじ)
 
 
== 概要 ==
 
[[足利貞氏]]の次男として生まれる。[[足利氏]]の慣例に従い、初めは[[得宗]]・[[北条高時]]の[[偏諱]]を受け'''高'''氏(たかうじ)と名乗っていた。[[元弘]]3年([[1333年]])に[[後醍醐天皇]]が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、[[丹波国]]篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、[[六波羅探題]]を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を'''尊'''氏(たかうじ)に改める。
 
 
 
後醍醐天皇の独裁体制である[[建武の新政]]が急速に人心を失っていくなか、鎌倉方の残党が起こした[[中先代の乱]]により窮地に陥った弟・[[足利直義]]救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも[[鎌倉]]に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやった。天皇側の反攻により一時は九州に都落ちしたものの、再び[[太宰府天満宮]]を拠点に上洛して京都を制圧、[[光明天皇]]を擁立して[[征夷大将軍]]に[[補任]]され新たな[[武家政権]]([[室町幕府]])を開いた。後醍醐天皇は捕虜となったものの[[吉野]]に脱出し[[南朝 (日本)|南朝]]を創始することになった。
 
 
 
幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し[[観応の擾乱]]を引き起こす。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇の崩御後はその菩提(ぼだい)を弔うため[[天竜寺]]を建立している。[[新千載和歌集]]は尊氏の執奏により[[後光厳天皇]]が撰進を命じたものであり、以後の[[勅撰和歌集]]は、[[二十一代集]]の最後の[[新続古今和歌集]]まですべて将軍の執奏によることとなった。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 誕生から鎌倉幕府滅亡まで ===
 
尊氏は[[嘉元]]3年([[1305年]])7月27日に[[足利貞氏]]の次男として生まれた。生誕地は母の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷'''[[上杉荘]]'''(現・[[京都府]][[綾部市]])とされる<ref group="注釈">京都府の[[安国寺 (綾部市)]]に産湯とされる井戸や尊氏の産髪・産着で作った袈裟が現存する。</ref>。また、旧来は栃木県の足利荘([[足利市]])出生とされる事が多かったが、足利荘説は傍証資料に乏しく近年(90年代以降)では概ね否定されている。
 
 
 
母は貞氏側室の[[上杉清子]](兄に貞氏正室の[[北条顕時]]の娘が産んだ[[足利高義]]がいる)。後世に編纂された『[[難太平記]]』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。[[元応]]元年([[1319年]])[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]、15歳にして[[従五位下]]に叙し[[治部省|治部大輔]]に任ぜられる。また、同日に[[元服]]をし、得宗・[[北条高時]]の偏諱を賜り'''高氏'''(通称は又太郎)と名乗ったとされる<ref group="注釈">『[[続群書類従]]』第五輯上所収「足利系図」の尊氏の付記に「元應元年叙從五位下。同日任治部大輔。<small>'''十五歳元服。無官。号足利又太郎。'''</small>」とある(参考:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(所収:『中央史学』二、1979年)P.11))。</ref>。15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた<ref name="maeda">前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(初出:阿部猛 編『中世政治史の研究』(日本史史料研究会、2010年)/所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0</ref>。そして北条氏一族の有力者であった[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流北条氏]]の[[北条守時|赤橋(北条)守時]]の妹[[赤橋登子]]を正室に迎える。その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。『難太平記』は、高氏と同じく足利頼氏側室の上杉氏が産んだ祖父・[[足利家時|家時]]が、自分の寿命を縮めることと引き替えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取ることを祈願して自刃したと伝えている。[[元弘]]元年/[[元徳]]3年([[1331年]])、父・貞氏が死去する。足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。
 
 
 
元弘元年/元徳3年(1331年)、[[後醍醐天皇]]が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した([[元弘の乱]])。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と[[楠木正成]]の拠る[[下赤坂城]]の攻撃に参加する。このとき、父[[足利貞氏|貞氏]]の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。『[[太平記]]』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとする。また、足利氏は承久の乱で足利義氏が大将の1人として北条泰時を助けて勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが嘉例とされ、幕府及び北条氏はその嘉例の再来を高氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった<ref name=maeda/>。勝利に貢献した高氏の名声は高まったが、不本意な出陣だったためか、同年11月他の大将を置いて朝廷に挨拶もせずさっさと鎌倉へ戻っており、[[花園天皇|花園上皇]]を呆れさせている(『[[花園天皇宸記]]』)。
 
 
 
元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。[[後醍醐天皇]]も廃位され、代わって[[持明院統]]の[[光厳天皇]]が[[践祚]]した。元弘2年/[[正慶]]元年([[1332年]])3月には後醍醐天皇は[[隠岐島]]に配流された。幕府は高氏の働きに、従五位上の位階を与えることで報いた(『花園天皇宸記』裏書)。
 
 
 
[[ファイル:Shinomura-hachimangū kyoheihi.JPG|thumb|200px|right|足利高氏旗あげの地碑<br />([[京都府]][[亀岡市]]の[[篠村八幡宮]])]]
 
元弘3年/正慶2年([[1333年]])後醍醐天皇は隠岐を脱出して[[伯耆国]][[船上山]]に籠城した。高氏は当時病中だったが再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために[[名越高家]]とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの[[足利義詮|義詮]])を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の[[丹波国]][[篠村八幡宮]]([[京都府]][[亀岡市]])で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、[[播磨国]]の[[赤松則村|赤松円心]]、[[近江国]]の[[佐々木道誉]]らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に[[六波羅探題]]を滅亡させた。関東では、同時期に上野国の御家人である[[新田義貞]]を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加している。一方で、高氏の庶長子・[[足利竹若丸|竹若丸]]は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の物に捕まり殺害されている。
 
 
 
=== 建武の新政から南北朝動乱へ ===
 
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、[[従四位下]]に叙され、[[鎮守府将軍]]・[[兵衛府|左兵衛督]]に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。元弘3年/正慶2年([[1333年]])[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]には[[従三位]]に[[昇叙]]、[[武蔵守]]を兼ねるとともに、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け'''尊氏'''と改名した<ref group="注釈">『[[公卿補任]]』に「<sup>足利</sup>源尊氏<small>二十九</small> 八月五日叙。元左兵衛督從四位下。今日以高字爲尊。同日兼武蔵守。」とある([[国史大系|新訂増補国史大系本]]より)。『足利家官位記』(『[[群書類従]]』第四輯所収)にも「元弘三年……同八月五日叙從三位。越階。同日兼武蔵守。今日以高爲尊。」と同様の記述が見られる。『[[太平記]]』でも「是のみならず、忝も[[後醍醐天皇|天子]]の[[偏諱|御諱の字]]を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とあり、後醍醐天皇からの一字拝領であることが窺える。但しこの文章は、巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」にあり、すなわち2年後の[[中先代の乱]](詳細は本文を参照)の時の改名としているが、実際には『公卿補任』や『足利家官位記』が示す1333年8月5日が正確と考えられている([[後藤丹治]]・釜田喜三郎・[[岡見正雄]]校注 『太平記』、[[日本古典文学大系]]、[[岩波書店]])。</ref>。尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である[[高師直]]、その弟・[[高師泰|師泰]]をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。
 
 
 
元弘3年/正慶2年([[1333年]])、義良親王(のちの[[後村上天皇]])が[[陸奥守|陸奥太守]]に、[[北畠顕家]]が[[鎮守府将軍|鎮守府大将軍]]に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、[[成良親王]]を[[上野守|上野太守]]に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった[[護良親王]]は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、[[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]])には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。
 
 
 
建武2年([[1335年]])[[信濃国]]で北条高時の遺児[[北条時行]]を擁立した北条氏残党の反乱である[[中先代の乱]]が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく[[征東将軍]]の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し[[相模川の戦い]]で時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。
 
 
 
直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に[[尊良親王]]をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する<ref group="注釈">尊氏は以後も出家や遁世の願望を口にしたり文章や絵画で表現することが多く、また太平記には劣勢となった尊氏が切腹をしようとしては周囲に止められたといったエピソードが多く収録され、非常に精神的に不安定であったことが伺える。</ref> が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を[[箱根・竹ノ下の戦い]]で破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年([[1336年]])正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は[[比叡山]]へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の[[大友貞順|大友近江次郎]]に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津[[豊島河原の戦い]]で新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。
 
 
 
九州への西下途上、[[長門国]]赤間関([[山口県]][[下関市]])で[[少弐頼尚]]に迎えられ、筑前国[[宗像大社]]の[[宗像氏範]]の支援を受ける。[[延元]]元年/建武3年([[1336年]])宗像大社参拝後の3月初旬、筑前[[多々良浜の戦い]]において天皇方の[[菊池武敏]]らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の[[鞆の浦|鞆]]で光厳上皇の[[院宣]]を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の[[湊川の戦い]]で新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した([[延元の乱]])。
 
 
 
尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている<ref group="注釈">この願文は文法や文字に乱れが大きい。</ref>。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟[[光明天皇]]に神器を譲り、その直後の11月7日、[[建武式目]]十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したがこれは直義の意向が強く働いたものとされる。実質的には、このときをもって[[室町幕府]]の発足とする。尊氏は[[源頼朝]]と同じ[[権大納言]]に任じられ、自らを「[[鎌倉殿]]」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野([[奈良県]][[吉野郡]][[吉野町]])へ逃れ、光明に譲った[[三種の神器]]は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷([[南朝 (日本)|南朝]])を樹立した。
 
 
 
=== 観応の擾乱から晩年まで ===
 
[[ファイル:Toujiin AshikagaTakauji haka.jpg|thumb|220px|尊氏の墓([[等持院]])]]
 
[[ファイル:足利尊氏3596.JPG|thumb|180px|足利尊氏邸跡・京都市中京区高倉通御池上ル東側]]
 
[[延元]]3年/[[暦応]]元年([[1338年]])、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で[[崩御]]すると、尊氏は慰霊のために[[天龍寺]]造営を開始した。造営費を支弁するため、[[元 (王朝)|元]]へ[[天龍寺船]]が派遣されている。さらに諸国に[[安国寺]]と[[利生塔]]の建立を命じた。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児[[楠木正行|正行]]などが次々に戦死し、[[小田治久]]、[[結城親朝]]は南朝を離反して幕府に従ったほか、[[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年([[1348年]])には[[高師直]]が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。
 
 
 
新政権において、尊氏は政務を直義に任せ自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。[[佐藤進一]]はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。しかし、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに[[観応の擾乱]]と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていた。[[正平 (日本)|正平]]4年/[[貞和]]5年([[1349年]])、直義が師直を襲撃しようとするも師直側の反撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなった。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説もあるが、後の直義の言動より、直義の師直襲撃にも尊氏は言質を与えていたものと思われ、尊氏は優柔不断に直義にも師直にもいい顔をしていたとの説もある。
 
 
 
師直は直義に代わって政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、尊氏は代わりに次男・[[足利基氏|基氏]]を下して[[鎌倉公方]]とし、東国統治のための[[鎌倉府]]を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の[[足利直冬|直冬]]が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年/[[観応]]元年([[1350年]])、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、[[桃井直常]]、[[畠山国清]]ら直義派の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も[[光明寺合戦]]や[[打出浜の戦い]]で敗れた。尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年([[1351年]])に和議が成立した。この交渉において尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てたが、氏直には直義に「師直の殺害を許可する」旨を伝えるように尊氏は命じたという記録が残っている<ref group="注釈">こうしたことから尊氏は直義と師直の争いを利用して巧妙に直義も師直も排除する陰謀を張り巡らしたと見る向きもある。しかし尊氏の性格から、単に投げ出しただけとも取れる。</ref>。和睦後、師直兄弟とともに京に戻るが、この時尊氏は出家姿になってみすぼらしい二人と一緒に上洛するのは「見苦しい」と言って嫌い、彼らに行列の後ろから3里(約2km)ばかり離れてついてくるようにと指示を出していた(『観応二年日次記』)。師直ら高一族は尊氏に見捨てられたような形で、護送中に彼らを父の敵として恨んでいた[[上杉能憲]]により殺害された。
 
 
 
直義は、義詮の補佐として政務に復帰した。上記の通り、この一連の戦闘の勝者は直義、敗者は尊氏であり、尊氏の権威は大きく失墜してもおかしくないはずである。ところが尊氏は全く悪びれる様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞うようになる。[[論功行賞]]では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高氏を滅ぼした上杉能憲の死罪を主張し、直義との交渉の末これを流罪にした。また、謁見に現れた直義派の[[細川顕氏]]を降参人扱いし、太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞い、勝ち戦で上機嫌だった顕氏は尊氏の不思議な迫力に気圧され一転して恐怖に震えたという。そもそも尊氏は細かいことに拘らない性格だったが、今回の敗戦も尊氏と直義の戦いではなく、あくまで師直と直義の戦いだと、自分の都合のいいように考えていたようだ<ref>清水(2013)p.80。</ref>。更に、直義の[[北条泰時]]を理想とする守旧的な政治は、幾度の戦乱を経て現実に即しているとは言い難かったため、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し、敗者だった尊氏側が実際には優勢であるという情勢ができてゆく。このような情勢の中で、直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が洛中で続発し、終には直義は政務から再び引退するに至る。尊氏は[[佐々木道誉]]の謀反を名目に近江へ、義詮は[[赤松則祐]]の謀反を名目として播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、実際には尊氏はむしろ直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の[[崇光天皇]]は廃されることになった。そして尊氏は直義を追って東海道を進み、[[薩た峠の戦い (南北朝時代)]]([[静岡県]][[静岡市]][[清水区]])、相模早川尻([[神奈川県]][[小田原市]])の戦いなどで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、正平7年/観応3年([[1352年]])2月に急死した。『太平記』は尊氏による毒殺の疑いを記している。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。
 
 
 
尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。[[宗良親王]]・[[新田義興]]・[[新田義宗|義宗]]・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は[[武蔵国]]へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した([[武蔵野合戦]])。一方、畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、足利政権の正当性は失なわれるという危機が発生する。しかし近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し([[八幡の戦い]])、佐々木道誉が[[後光厳天皇]]擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下った[[山名時氏]]と[[楠木正儀]]が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。
 
 
 
正平9年/[[文和]]3年([[1354年]])には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受ける。翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退して京を奪還した。この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。
 
 
 
尊氏は[[島津師久]]の要請に応じて自ら直冬や[[畠山直顕]]、[[懐良親王]]の征西府の討伐を行なうために[[九州]]下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった<ref name="足利直冬p174">瀬野精一郎 著『人物叢書‐足利直冬』吉川弘文館、2005年、p.174</ref>。正平13年/[[延文]]3年([[1358年]])4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市[[下京区]])にて死去した<ref name="足利直冬p174"/>。享年54<ref name="足利直冬p174"/>。
 
『[[後深心院関白記]]』によると[[延文]]3年([[1358年]])5月2日庚子の条に、尊氏の葬儀が[[真如寺 (京都市)]] で行われたとあり、5月6日甲辰の条の初七日からの[[中陰]]法要は、[[等持院]]において行われたことがわかる。
 
墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。
 
そして、尊氏の死から丁度百日後に、孫の[[足利義満|義満]]が生まれている。
 
 
 
== 年表 ==
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!style="width:6em;"|和暦
 
!style="width:6em;"|南朝
 
!style="width:6em;"|北朝
 
!style="width:4em;"|西暦
 
!style="width:5em;"|月日<br />([[旧暦]])
 
!内容<!--内容は簡潔に記してください-->
 
!style="width:5em;"|出典
 
|-
 
|[[嘉元]]3年
 
|[[後二条天皇]]
 
|後二条天皇
 
|[[1305年]]
 
|7月27日
 
|生誕。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|[[元応]]元年
 
|[[後醍醐天皇]]
 
|後醍醐天皇
 
|[[1319年]]
 
|10月10日
 
|[[従五位下]][[治部省|治部大輔]]に叙任。
 
|[[公卿補任]]
 
|-
 
|元応2年
 
|後醍醐天皇
 
|後醍醐天皇
 
|[[1320年]]
 
|9月5日
 
|治部大輔辞任。
 
|公卿補任
 
|-
 
|[[元徳]]2年
 
|後醍醐天皇
 
|後醍醐天皇
 
|[[1330年]]
 
|6月18日
 
|嫡子[[足利義詮|義詮]]誕生。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|[[元弘]]2年<br />[[正慶]]元年
 
|[[光厳天皇]]
 
|光厳天皇
 
|[[1332年]]
 
|6月6日
 
|[[従五位上]]に昇叙。
 
|公卿補任
 
|-
 
|rowspan="4"|元弘3年<br />正慶2年
 
|rowspan="4"|後醍醐天皇
 
|rowspan="4"|後醍醐天皇
 
|rowspan="4"|[[1333年]]
 
|6月5日
 
|[[鎮守府将軍]]。内昇殿許される。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|6月12日
 
|[[従四位下]][[兵衛府|左兵衛督]]に昇叙転任。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|8月5日
 
|[[従三位]]に昇叙し、[[武蔵守]]兼任。名を尊氏と改める。
 
|公卿補任
 
|-
 
|&nbsp;
 
||[[元弘の乱]](~)
 
|&nbsp;
 
|-
 
|rowspan="2"|[[建武 (日本)|建武]]元年
 
|rowspan="2"|後醍醐天皇
 
|rowspan="2"|後醍醐天皇
 
|rowspan="2"|[[1334年]]
 
|1月5日
 
|[[正三位]]に昇叙。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|9月4日
 
|[[参議]]に補任。左兵衛督如元。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|rowspan="4"|建武2年
 
|rowspan="4"|後醍醐天皇
 
|rowspan="4"|後醍醐天皇
 
|rowspan="3"|[[1335年]]
 
|7-8月
 
|[[中先代の乱]]
 
|&nbsp;
 
|-
 
|8月9日
 
|[[征東将軍]]宣下。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|8月30日
 
|[[従二位]]に昇叙。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|[[1336年]]
 
|11月26日
 
|征東将軍を止む。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|rowspan="4"|[[延元]]元年<br />建武3年
 
|rowspan="4"|後醍醐天皇
 
|rowspan="4"|[[光明天皇]]
 
|rowspan="4"|[[1336年]]
 
|2月頃
 
|[[北朝 (日本)|北朝]]方、[[多々良浜の戦い]]
 
|太平記
 
|-
 
|5月25日
 
|北朝方、[[湊川の戦い]]
 
|太平記
 
|-
 
|11月7日
 
|北朝方、[[建武式目]]制定。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|11月26日
 
|北朝方、[[大納言|権大納言]]に転任。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|延元3年<br />[[暦応]]元年
 
|後醍醐天皇
 
|光明天皇
 
|[[1338年]]
 
|8月11日
 
|北朝方、[[正二位]]に昇叙。[[征夷大将軍]]宣下。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|[[興国]]元年<br />暦応3年
 
|[[後村上天皇]]
 
|光明天皇
 
|[[1340年]]
 
|3月5日
 
|次男[[足利基氏|基氏]]誕生、兵庫に福海寺(福海興国禅寺)建立。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|[[正平 (日本)|正平]]5年-6年<br />[[観応]]年間
 
|後村上天皇
 
|[[崇光天皇]]
 
|[[1350年]]<br />-[[1351年|51年]]
 
|&nbsp;
 
|[[南朝 (日本)|南朝]]方、[[観応の擾乱]]。征夷大将軍解任。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|正平7年<br />[[文和]]元年
 
|後村上天皇
 
|
 
|[[1352年]]
 
|2月26日
 
|弟[[足利直義|直義]]死去。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|rowspan="2"|正平13年<br />[[延文]]3年
 
|rowspan="2"|後村上天皇
 
|rowspan="2"|[[後光厳天皇]]
 
|rowspan="2"|[[1358年]]
 
|4月30日
 
|死去。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|6月3日
 
|贈[[従一位]][[左大臣]]。
 
|&nbsp;
 
|-
 
|[[弘和]]元年<br />[[永徳]]元年
 
|[[長慶天皇]]
 
|[[後円融天皇]]
 
|[[1381年]]
 
|4月28日
 
|贈[[太政大臣]]。
 
|&nbsp;
 
|}
 
 
 
== 尊氏の肖像 ==
 
[[ファイル:Ashikaga Takauji.JPG|thumb|220px|騎馬武者像]]
 
[[ファイル:Taira Shigemori.jpg|thumb|220px|尊氏像とする説もある伝平重盛像]]
 
[[京都国立博物館]]所蔵の「騎馬武者像<ref>e国宝に画像と解説有り([http://www.emuseum.jp/detail/101003/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E9%A8%8E%E9%A6%AC&class=&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=1&num=1 外部リンク])</ref>」は、京都守屋家の旧蔵品だったことから、現在でも他の尊氏像と区別する必要もあって守屋家本と呼ばれる。「騎馬武者像」は[[松平定信]]編纂の『[[集古十種]]』で尊氏の肖像として紹介されたことから一般に広く知られ、2000年代頃までは学校用の歴史教科書でも尊氏の肖像として掲載されていた。しかし、2代将軍[[足利義詮|義詮]]の[[花押]]が像上部に据えられていることや、騎馬武者の馬具に描かれている輪違の紋が足利家ではなく[[高氏|高]]家の家紋であるなどの理由から、像主を[[高師直]]とする説<ref>[[藤本正行]] 『鎧をまとう人びと』[[吉川弘文館]]、2000年、pp.164-189、ISBN 978-4-642-07762-0。</ref><ref>下坂守 「守屋家本騎馬武者像の像主について」『京都国立博物館学叢』第4号所収、1982年。[http://www.kyohaku.go.jp/jp/kankou/gaku/pdf_data/4/004_ronbun_b.pdf 京博公式サイトに掲載]([[PDF]])</ref>、もしくは子[[高師詮|師詮]]<ref>[[黒田日出男]] 『肖像画を読む』 角川書店、1998年</ref>、[[高師冬|師冬]]とする説などが出ている。こうした動きがあることから、2000年代頃から各教科書では尊氏の肖像として掲載されなくなり、「騎馬武者像」として掲載されるにとどまっている<ref>[http://www.sankei.com/west/news/130327/wst1303270057-n1.html 見慣れた肖像画は別人?「足利尊氏像」→「騎馬武者像」 源頼朝像の真偽も…] - 産経新聞WEST、2013年3月27日</ref>。反面、『梅松論』における多々良浜の戦いに臨む尊氏の出で立ちが本像に近く、京都に凱旋した尊氏がこの時の姿を画工に描かせたという記録が残る<ref>武田左京亮文秀像に寄せた[[蘭坡景し|蘭坡景茝]]の賛文(『雪樵独唱集』収録)</ref> ことから、やはり尊氏像で正しいとする意見もある<ref>[[宮島新一]] 『肖像画』 吉川弘文館、1994年、pp.235-240、ISBN 4-642-06601-2。同『肖像画の視線』 吉川弘文館、2010年、pp.29-35、ISBN 978-4-642-06360-9。</ref>。『太平記』によると、尊氏は後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたといい、「騎馬武者像」の「一束切」の姿は、その後翻意して挙兵した際の姿を髣髴とさせるものではあり、その点をもって尊氏像と見なされてきたと考えられている。『太平記』では挙兵の際に味方の武士たちがみな尊氏にならって元結を切り落としたエピソードも伝えている。
 
 
 
[[鎌倉時代]]に[[藤原隆信]]が描いたとされる[[神護寺三像]]のうちの「伝平重盛像」は、[[平重盛]]を描いたものと考えられてきたが、[[1995年]]に美術史家の[[米倉迪夫]]や歴史学者の[[黒田日出男]]らによって尊氏像であるとの説が提示された。すぐさま[[美術史家]]から、画風や様式が南北朝期に下るものではないとする反論が出て激しい論争になったが、近年は総じて新説が認められる傾向にある。
 
 
 
その他、(右最上部に掲示)[[広島県]][[尾道市]]の[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]]に尊氏を描いたと伝える[[束帯]]姿の肖像画が所蔵されている。また、守屋家本とは異なる騎馬姿の尊氏像が[[神奈川県立歴史博物館]]にあり、「征夷大将軍源朝臣尊氏卿」と明記された[[江戸時代]]後期の肖像画が現存している。
 
 
 
江戸時代に描かれた[[錦絵]]には、[[歌川国芳]]の「太平記兵庫合戦」(兵庫[[福海寺]]で尊氏を探す白藤彦七郎<ref>[[国立国会図書館]]デジカル化資料([{{NDLDC|1312571}} 外部リンク])。</ref>)、[[歌川芳虎]]の「太平記合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)、[[橋本周延]]の「足利尊氏兵庫合戦図」(尊氏、兵庫福海寺に避難する図)等がある。
 
 
 
尊氏の木像は、[[大分県]][[国東市]]の[[安国寺 (国東市)|安国寺]]([[重要文化財]])のものが最も古い。面貌表現が写実的で理想化が少なく、尊氏の生前か死後間もなく造像されたと見られる。尊氏の木像というと、足利氏の菩提寺である京都市[[北区 (京都市)|北区]]の[[等持院]]のものがよく知られている。こちらは体部の表現にやや時代が下る造形が見られるものの、頭部は安国寺木像や浄土寺肖像と共通する図様で造られており、中世を下らない時期の作品と考えられる。他には、[[静岡県]][[静岡市]]の[[清見寺]]([[文明 (日本)|文明]]17年([[1485年]])以前の作)、京都市[[右京区]]の[[天龍寺]]([[16世紀]]の作)、[[栃木県]][[さくら市]]の[[龍光寺 (さくら市)|龍光寺]]([[寛文]]6年([[1666年]])の再興像)、[[神奈川県]][[鎌倉市]]の[[長寿寺 (鎌倉市)|長寿寺]]([[元禄]]2年([[1689年]])の再興像)、栃木県[[足利市]]の[[鑁阿寺]]([[江戸時代]]・[[19世紀]]の作)、同市の[[善徳寺 (足利市)|善徳寺]]、同県[[真岡市]]の[[能仁寺 (真岡市)|能仁寺]]などに所蔵されている。また、現代になって作られた銅像が足利市鑁阿寺参道と京都府[[綾部市]]安国寺町に設置されている。
 
 
 
== 系譜 ==
 
* 父:[[足利貞氏]]
 
* 母:[[上杉清子]]
 
* 異母兄:[[足利高義]]
 
* 弟:[[足利直義]]
 
* 正室:[[赤橋登子]]
 
** 男子:[[足利義詮]]
 
** 男子:[[足利基氏]]
 
** 女子:[[鶴王]](没後に従二位と「頼子」の名が与えられ(『師守記』貞治4年5月8日条)、[[崇光天皇]]の后妃に擬えられている<ref name=taniguti/>)
 
* 側室:[[加古基氏|加古六郎基氏]]の女(『尊卑分脈』)
 
** 男子:[[足利竹若丸|竹若丸]](長男とされる)
 
* 側室?(『太平記』では「越前局」とするが未詳)
 
** 男子:[[足利直冬]]
 
* その他生母不明の子女
 
** 女子:某([[康永]]元年([[1342年]])10月2日、6歳で死去)
 
** 男子:[[足利聖王丸|聖王丸]](康永4年([[1345年]])8月1日、7歳で死去)
 
** 女子:某([[足利直義|直義]]養女。法名了清。[[貞和]]3年([[1347年]])10月14日、5歳で死去)
 
** 女子:某(貞和2年([[1346年]])7月9日、3歳で死去(『師守記』『門葉記』)、彼女も赤橋登子所生の可能性がある<ref name=taniguti/>)
 
** 男子:[[英仲法俊]]
 
{{足利尊氏の系譜}}
 
 
 
== 偏諱を与えた人物 ==
 
{{col-begin}}
 
{{col-2}}
 
* [[粟飯原氏光|粟飯原'''氏'''光]]([[粟飯原氏]])
 
* [[饗庭氏直|饗庭'''氏'''直('''尊'''宣)]](近臣・寵童)
 
* [[伊東氏祐|伊東'''氏'''祐]]<ref group="注釈">「南家伊東氏藤原姓大系図」伊東祐重項の傍注に「……祐重継家尊氏公賜御字改氏祐」とある。同系図は、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『[[宮崎県]]地方史研究紀要』三輯、1977年)や『[[伊東市]]史 史料偏 古代・中世』(2006年)にて活字化されている。</ref>(別名:祐重、[[日向伊東氏]]第8代当主で[[伊東祐安 (室町時代)|伊東祐安]]の父)
 
* [[宇都宮氏綱|宇都宮'''氏'''綱]]<ref>江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』([[戎光祥出版]]、2011年)P.13)。</ref>
 
* [[大友氏泰|大友'''氏'''泰]]
 
* [[大友氏時|大友'''氏'''時]]
 
* [[小俣氏連|小俣'''氏'''連]]
 
* [[小俣尊光|小俣'''尊'''光]]
 
* [[小山氏政|小山'''氏'''政]]
 
* [[金山氏実|金山'''氏'''実]]
 
* [[吉良尊義|吉良'''尊'''義]](初め義貴)
 
{{col-2}}
 
* [[高坂氏重|高坂'''氏'''重]]([[高坂氏]])
 
* [[斯波氏経|斯波'''氏'''経]]
 
* [[斯波氏頼|斯波'''氏'''頼]]
 
* [[島津氏久|島津'''氏'''久]]
 
* [[曽我氏助|曽我'''氏'''助]]
 
* [[千葉氏胤|千葉'''氏'''胤]]
 
* [[土岐氏光|土岐'''氏'''光]]([[土岐頼遠]]の子。[[今岑氏]]を称する)
 
* [[富樫氏春|富樫'''氏'''春]]([[富樫氏]]、[[富樫昌家]]の父)
 
* [[宮氏信|宮'''氏'''信]]
 
* [[吉見氏頼|吉見'''氏'''頼]]([[吉見氏]])
 
* [[六角氏頼|六角'''氏'''頼]]<ref>『瑞石歴代雑記』。詳細は当該項目(六角氏頼の項)を参照のこと。</ref>
 
{{col-end}}
 
;(補足)
 
# 「尊」の字は前述の通り、元々[[後醍醐天皇]](名は尊治)から1字を与えられたものであり、これを与えられた饗庭尊宣、吉良尊義の両名に関しては、尊氏から破格の待遇を受けていたことがうかがえる。
 
# [[渋川義宗|吉見'''尊'''頼]]([[吉見義世]]の子、のち[[渋川直頼]]の猶子となり渋川義宗を称す)の「尊」に関しては尊氏から受けたものというよりは、尊氏と同じく後醍醐天皇から1字を受けたものと推測される。
 
# 曾孫の[[尊満|'''尊'''満]]([[足利義満]]の[[庶長子]])や[[足利義尊|足利義'''尊''']](直冬の孫)をはじめ、子孫にも尊氏に肖って「尊」の字を用いる人物が見られる。
 
 
 
== 関連作品 ==
 
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
 
;小説
 
* [[吉川英治]]『[[私本太平記]](全13巻)』毎日新聞社 1959年~1962年。講談社からは、「吉川英治歴史時代文庫」の一環として、全7巻にて1990年2月~同年4月の間に発刊。
 
** 『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』(1991年[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、主演:[[真田広之]]) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
 
* [[山岡荘八]]『新太平記(全5巻)』講談社 1971年~1972年。また、1986年8月~同年11月の間に「山岡荘八歴史文庫」の一環として全5巻で発刊。
 
* [[大森隆司]]『足利尊氏:室町幕府を開いた男(上)(下)』下野新聞社、1989年6月。
 
* [[村上元三]]『足利尊氏(上)(下)』(徳間文庫)徳間書店 1991年4月。
 
* [[童門冬二]]『足利尊氏』富士見書房 1994年12月。
 
* [[杉本苑子]]『風の群像(上)(下)』日本経済新聞社 1997年6月。 
 
* [[桜田晋也]]『足利尊氏』祥伝社 1999年9月 ※1988年角川書店発刊の「足利高氏」の改訂版として発刊。
 
* [[森村誠一]]『太平記(1)~(6)』(角川文庫)角川書店 2004年12月ー2005年2月
 
;テレビドラマ
 
* 『[[怒濤日本史]](足利尊氏)』(1966年、[[MBS]]、演:[[神山繁]])
 
;マスコット
 
*たかうじ君 - 足利市の[[ゆるキャラ]]<ref>[http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/page/takaujikun.html 足利市イメージキャラクター「たかうじ君」]</ref>
 
  
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室町幕府初代将軍 (在職 1338~58) 。貞氏の子。母は上杉清子。初名は高氏。[[元弘の乱]]に際し,元弘3=正慶2 (1333) 年5月六波羅探題を攻め滅ぼし,建武政府が成立すると,高氏は従三位,武蔵守に叙任され,天皇の諱の1字を賜って尊氏と改名した。しかし建武2 (1335) 年,建武政府にそむき,建武3 (1336) 年光明天皇を擁立して幕府を創設。後醍醐天皇は吉野に逃れ,南北朝の動乱が始まった。延元3=暦応1(1338) 年征夷大将軍,以後累進して正二位権大納言にいたる。当初は弟直義と二元政治をとったが,正平7=観応3 (1352) 年直義を殺し,将軍への権力集中に成功した。法号は等持院仁山妙義。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2015年9月8日}}
 
;書籍
 
* [[瀬野精一郎]]『足利直冬』(人物叢書)吉川弘文館、[[2005年]] ISBN 464205233X
 
* [[山路愛山]] 『足利尊氏』岩波書店 (岩波文庫) 1949年
 
* [[桑田忠親]] 『足利将軍列伝』 秋田書店 1975年
 
* [[高柳光寿]] 『足利尊氏』(新装版)春秋社 1987年9月 ISBN 4-393-48207-7
 
* 松崎洋二 『足利尊氏』 新人物往来社 1990年3月 ISBN  9784404017031
 
* [[会田雄次]]ほか 『足利尊氏』 思索社 1991年1月 ISBN 4-7835-1161-6
 
* [[小松茂美]] 『足利尊氏文書の研究』(研究篇、図版篇、解説篇、目録・資料篇の全4冊) 旺文社 1997年9月 ISBN 4-01-071143-4
 
* [[上島有]] 『足利尊氏文書の総合的研究.(本文編・写真編)』 国書刊行会 2001年2月 ISBN 4-336-04284-5
 
* 佐藤和彦監修 『足利尊氏』 ポプラ社(徹底大研究日本の歴史人物シリーズ4) 2003年4月 ISBN 4-591-07553-2
 
* 櫻井彦・[[樋口州男]]・錦昭江編 『足利尊氏のすべて』 新人物往来社 2008年9月 ISBN 978-4-404-03532-5
 
* [[峰岸純夫]] 『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』 [[吉川弘文館]]([[歴史文化ライブラリー]]) 2009年 ISBN 978-4-642-05672-4
 
* 峰岸純夫 江田郁夫編 『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』 吉川弘文館、2011年 ISBN 978-4-642-08065-1
 
* [[栃木県立博物館]]発行・編集 『開館三〇周年特別企画展 足利尊氏 その生涯とゆかりの名宝』展図録、2012年 ISBN 978-4-88758-069-5
 
* 清水克行 『人をあるく 足利尊氏と関東』 吉川弘文館、2013年11月、ISBN 978-4-642-06772-0
 
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|足利尊氏}}
 
{{commons|Category:Ashikaga Takauji}}
 
 
* 『[[太平記]]』
 
* 『[[太平記]]』
 
* 『[[梅松論]]』
 
* 『[[梅松論]]』
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2018/8/27/ (月) 00:21時点における版

足利 尊氏
時代 鎌倉時代末期 - 室町時代初期
生誕 嘉元3年7月27日1305年8月18日
死没 正平13年/延文3年4月30日1358年6月7日)
幕府 室町幕府初代征夷大将軍(在任:1338年 - 1358年
氏族 足利氏足利将軍家

足利 尊氏(あしかが たかうじ)

室町幕府初代将軍 (在職 1338~58) 。貞氏の子。母は上杉清子。初名は高氏。元弘の乱に際し,元弘3=正慶2 (1333) 年5月六波羅探題を攻め滅ぼし,建武政府が成立すると,高氏は従三位,武蔵守に叙任され,天皇の諱の1字を賜って尊氏と改名した。しかし建武2 (1335) 年,建武政府にそむき,建武3 (1336) 年光明天皇を擁立して幕府を創設。後醍醐天皇は吉野に逃れ,南北朝の動乱が始まった。延元3=暦応1(1338) 年征夷大将軍,以後累進して正二位権大納言にいたる。当初は弟直義と二元政治をとったが,正平7=観応3 (1352) 年直義を殺し,将軍への権力集中に成功した。法号は等持院仁山妙義。

脚注

注釈

出典

関連項目





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