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{{Infobox 芸術家
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[[ファイル:藤田嗣治(1924頃).jpg|サムネイル]]
| name          = 藤田 嗣治
+
'''藤田 嗣治'''(ふじた つぐはる)
| image        = Foujita.jpg
 
| imagesize    = 250px
 
| alt          =
 
| caption      = 1917年パリにて
 
| birthname    =
 
| birthdate    = [[1886年]][[11月27日]]
 
| location      = {{JPN}} [[東京府]][[牛込区]][[新小川町]]
 
| deathdate    = {{死亡年月日と没年齢|1886|11|27|1968|1|29}}
 
| deathplace    = {{SUI}} [[チューリヒ]]
 
| nationality  = {{JPN}}<br />{{FRA}}(1955年帰化)
 
| field        = 画家、彫刻家
 
| years active  = [[1910年]] - [[1968年]]
 
| training      = [[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]卒
 
| movement      = [[エコール・ド・パリ]]
 
| works        = 『ジュイ布のある裸婦(1922年)』<br />『五人の裸婦(1923年)』<br />『秋田の行事(1937年)』<br />『アッツ島玉砕(1943年)』<br />『カフェ(1949年)』
 
| patrons      =
 
| influenced by = [[パブロ・ピカソ]]、[[モイズ・キスリング]]、[[アメデオ・モディリアーニ]]
 
| influenced    = [[カンディド・ポルチナーリ]]
 
| awards        = [[レジオンドヌール勲章]]、[[朝日文化賞]]、第1回トリステ宗教美術展金賞、[[勲一等瑞宝章]]
 
| elected      = [[サロン・ドートンヌ]]<br />近代日本美術総合展
 
| website      =
 
}}
 
  
'''藤田 嗣治'''(ふじた つぐはる、[[1886年]][[11月27日]] - [[1968年]][[1月29日]])は[[日本]]生まれの[[画家]]・[[彫刻家]]。[[第一次世界大戦]]前より[[フランス]]の[[パリ]]で活動、[[ネコ|猫]]と[[女]]を得意な画題とし、[[日本画]]の技法を[[油絵|油彩画]]に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた[[エコール・ド・パリ]]の代表的な画家である。[[フランス]]に[[帰化]]後の[[洗礼名]]は'''レオナール・フジタ'''({{lang|fr|Léonard Foujita}})。
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[]&nbsp;1886.11.27. 東京
  
== 生涯 ==
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[]&nbsp;1968.1.29. チューリヒ
=== 家柄 ===
 
1886年([[明治]]19年)、[[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]])[[新小川町]]の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・[[藤田嗣章]](つぐあきら)(1854-1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として[[台湾]]や[[朝鮮]]などの外地衛生行政に携り、[[森鴎外]]の後任として最高位の陸軍[[軍医総監]](中将相当)にまで昇進した人物。兄の[[藤田嗣雄|嗣雄]]は法制学者・[[上智大学]]教授で、陸軍大将[[児玉源太郎]]の四女と結婚。また、義兄に陸軍軍医総監となった[[中村緑野]]([[中原中也]]の名づけ親(当時父が中村の部下であった)がいる。[[小山内薫]]は嗣治の従兄、舞踊評論家の[[蘆原英了]]と建築家の[[芦原義信|蘆原義信]]は甥にあたる。
 
  
=== パリに至るまで ===
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フランス国籍の洋画家。のちに軍医総監になった藤田嗣章のニ男。 1905年東京美術学校に入学し黒田清輝,和田英作に学ぶ。 1910年に同校を卒業,1913年渡仏。 P.ピカソ,A.モジリアニらを知り,[[エコール・ド・パリ]]の一員として認められ 1917年個展。 1919年サロン・ドートンヌに出品した6点全部が入選し同会会員に推され,精妙な陶器の肌を思わせる白い絵具のマチエールと,的確なデッサン力をもった流麗な線描による表現は高く評価された。一方国内では 1922年以降帝展に出品し,1924年帝展審査員,1934年[[二科会]]会員となり,1941年帝国芸術院会員になるが 1955年に辞任。その間 1929,1933年に帰国したものの三たび渡仏。 1940年戦争のため帰国し,第2次世界大戦中は多くの戦争記録画を描いた。 1949年日本画壇と決別して渡仏,1955年フランス国籍を得,1959年カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで[[熊本市]]で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の[[熊本大学教育学部附属小学校|熊本大教育学部附属小]])<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/jigyou/Leonard_fujita/ 『藤田嗣治の肖像』西日本新聞. 2009年3月3日朝刊]</ref>に通った。[[1900年]]、高等師範附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校|筑波大附属小]])を、[[1905年]]に高等師範附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大附属中学・高校]])を卒業。その頃には、画家として[[フランス]]へ留学したいと希望するようになる。
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1966年フランスのノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の建物を設計し,キリスト伝の壁画,ステンドグラスを描いたが,まもなく病没。主要作品は『パリ風景』 (1917,東京国立近代美術館) ,『五人の裸婦』 (1923,同) ,『舞踏会の前』 (1925,大原美術館),『ドルドーニュの家』 (1940,ブリヂストン美術館) ,『わが夢』 (1947) 。
  
1905年(明治38年)、[[森鴎外]]の薦めもあって[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]][[美術学部]])西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した[[黒田清輝]]らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる[[印象派]]や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下であった。表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。[[1910年]]に同校を卒業。卒業に際して製作した[http://ameblo.jp/art-mood/entry-10534870139.html 自画像](東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれている<ref>この自画像については、[[2007年]][[8月19日]]放送の[[ETV特集]]「[http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2007/0819.html 日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~]」で紹介された</ref>。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった[[文展]]などでは全て落選している。
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{{テンプレート:20180815sk}}  
 
 
1911年(明治44年)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描いた(現存)。この頃女学校の美術教師であった[[鴇田登美子]]と出会って、2年後の[[1912年]]に結婚。新宿[[百人町]]に[[アトリエ]]を構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
 
 
 
=== パリでの出会い ===
 
[[ファイル:Foujita-in-his-atelier-1918.jpg|thumb|パリのアトリエにて(1918年)]]
 
[[ファイル:Ismael Nery - Retrato de Foujita, déc. 1930.jpg|thumb|藤田の肖像([[イスマエル・ネリ]]、1930年代)]]
 
[[1913年]]([[大正]]2年)に渡仏しパリの[[モンパルナス]]に居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだ[[アメデオ・モディリアーニ]]や[[シャイム・スーティン]]らと知り合う。また彼らを通じて、後の[[エコール・ド・パリ]]の[[ジュール・パスキン]]、[[パブロ・ピカソ]]、[[オシップ・ザッキン]]、[[モイズ・キスリング]]らと交友を結びだす。フランスでは「'''ツグジ'''」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。
 
 
 
また、同じようにパリに来ていた[[川島理一郎]]や、[[島崎藤村]]、[[薩摩治郎八]]、[[金子光晴]]ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
 
 
 
パリでは既に[[キュビズム]]や[[シュールレアリズム]]、[[素朴派]]など、新しい[[20世紀]]の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っている。
 
 
 
=== 第一次世界大戦 ===
 
[[1914年]]、パリでの生活を始めてわずか1年後に[[第一次世界大戦]]が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした[[1917年]]3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになった。
 
 
 
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であった[[アンドレ・サルモン]]([[:en:André Salmon]])が序文を書きよい評価を受けた。すぐに絵も高値で売れるようになった。翌[[1918年]]に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となった。
 
 
 
=== パリの寵児 ===
 
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。[[サロン・ドートンヌ]]の審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
 
 
 
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中には[[マン・レイ]]の愛人であった[[アリス・プラン|キキ]]も含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、[[1922年]]の[[サロン・ドートンヌ]]でセンセーションを巻き起こし、8000[[フラン (通貨)|フラン]]以上で買いとられた。
 
 
 
このころ、藤田はフランス語の綴り「'''Fou'''jita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスから[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]、[[ベルギー]]から[[レオポルド]]勲章を贈られた。
 
 
 
===南アメリカへ===
 
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性[[ユキ・デスノス=フジタ|リュシー・バドゥ]]と結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人の[[ロベール・デスノス]]と愛人関係にあり<ref>[http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-07/nishikawa.pdf 「異邦人の視線 -金子光晴とジャン・コクトー」西川正也]</ref>、その後離婚する。
 
 
 
[[1931年]]には、新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった[[南アメリカ]]で初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、[[アルゼンチン]]の[[ブエノスアイレス]]では6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
 
 
 
=== 日本への帰国 ===
 
その後[[1933年]]に南アメリカから日本に帰国、1935年に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。[[1938年]]からは1年間[[小磯良平]]らとともに従軍画家として[[日中戦争]]中の中国に渡り、[[1939年]]に日本に帰国した。
 
 
 
[[ファイル:Co-president of the Army Art Association.jpg|thumb|陸軍美術協会理事長時代の藤田]]
 
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には[[第二次世界大戦]]が勃発し、翌年[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]にパリが[[ナチス・ドイツによるフランス占領|占領]]される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。その後[[太平洋戦争]]に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、[[戦争画]](下参照)の製作を手がけ、南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』や『[[アッツ島]]玉砕』などの作品を書いた。
 
 
 
このような振る舞いは、終戦後の連合国軍の占領下において「戦争協力者」と批判されることもあった。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]からも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の[[味噌]][[醸造]]業者の元に匿われていたこともあった<ref>遠山彰『日本ダービー物語』p11([[丸善]]、1993)</ref>。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、[[1949年]]に日本を去ることとなる。
 
 
 
=== フランスに帰化 ===
 
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか[[亡命]]しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったが、その後もいくつもの作品を残している。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。[[1955年]]にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、[[1957年]]フランス政府から[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章]]シュバリエ章を贈られた。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
[[ファイル:Chapelle Foujita 002.JPG|thumb|フジタ礼拝堂|代替文=|左]]
 
[[ファイル:Chapelle Foujita Reims 2015 intérieur.jpg|サムネイル|240x240ピクセル|フジタ礼拝堂内部; 壁全面が藤田の宗教画で覆われている。]]
 
[[1959年]]には[[ランス]]の[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ノートルダム大聖堂]]で[[カトリック教会|カトリック]]の[[洗礼]]を受け、[[シャンパン]]「マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、'''レオナール・フジタ'''となった。またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「[[フジタ礼拝堂]]」の設計と内装のデザインを行った。[[1968年]][[1月29日]]に[[スイス]]の[[チューリヒ]]において、ガンのため死亡した。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬された<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.fondation-foujita.org/wp-content/uploads/sites/8/2016/06/Foujita-Monumental-Enfer-et-Paradis-MARS-2010-DP.pdf|title=DOSSIER DE PRESSE – mars 2010, Foujita Monumental ! Enfer et Paradis|accessdate=2018年9月14日|publisher=}}</ref>。[[日本政府]]から[[勲一等瑞宝章]]を没後追贈された。
 
 
 
===死後===
 
[[ファイル:Foujita.JPG|サムネイル|メゾン・アトリエ・フジタ]]
 
藤田の最期を看取った君代夫人は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外の{{仮リンク|ヴィリエ・ル・バクル|fr|Villiers-le-Bâcle}}に旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力、晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に[[東京国立近代美術館]]アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開<ref>[http://www.momat.go.jp/art-library/foujita/foujita.html 東京国立近代美術館アートライブラリ所蔵 藤田嗣治旧蔵書]。</ref>された。藤田の死去から40年余りを経た[[2009年]]4月2日に、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬された<ref name=":0" />。君代夫人が所有した藤田作品の大半は[[ポーラ美術館]]と[[ランス美術館]]に収蔵されている。
 
 
 
[[2011年]]、君代夫人が所蔵していた藤田の日記([[1930年]]から[[1940年]]、[[1948年]]から[[1968年]]までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている<ref>{{cite news |title=藤田嗣治の日記・写真6000点 東京芸大に寄贈「生涯知る資料」 |newspaper=[[日本経済新聞]]夕刊 |date=2011-02-09 |url= |accessdate=2011-02-17}}</ref>。
 
== 名前の表記揺れについて ==
 
藤田は名前の表記ゆれが多い画家である。まず「嗣治」の名前であるが、一般に「つぐはる」と読まれるが前述のように「つぐじ」と読む場合もある。これについては、元々次男だったこともあり「つぐじ」と読んでいたが、父から「画家として名を成したら「つぐはる」と読め」といわれ、パリで成功したあと藤田は「つぐはる」と名乗るようになったと言う逸話が知られる。しかし、10代の頃から親友への手紙に「つぐはる」と記した例や、藤田の戦後のアメリカ・フランス行きを支援した[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の印刷・出版担当官[[フランク・エドワード・シャーマン]]宛の手紙に「つぐじ」と署名するなど例外もあり、藤田がどういう意図をもって使い分けていたかは判然としない。
 
 
 
作品のサインも「Foujita」と「Fujita」の二通りある。[[フランス語]]としては前者が正しくパリ時代のものは同様に署名しているが、日本滞在中などでは後者の例が多い。
 
 
 
フランス帰化後の表記も、「レオナール・フジタ」と「レオナルド・フヂタ」の揺れがある。今日、前者で呼ばれる方が一般的であるが、これは君代夫人の意向が大きく働いている。しかし、藤田自身はそもそも[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]への尊敬から後者で呼ばれることを好み、手紙類の日本語署名は全て「レオナルド(フヂタ) 」である<ref>矢内(2015)pp.183-184。</ref>。
 
 
 
== 戦争画 ==
 
[[ファイル:Fujita, Miyamoto, Koiso.jpg|thumb|南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、[[宮本三郎]]、[[小磯良平]]([[1942年]])藤田は黒いシャツを着ているように見えるが、よく見ると後の修正で、実際は上半身裸だったと考えられる。]]
 
日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画([[戦争画]])を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、クリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。
 
 
 
[[1945年]]8月の終戦で戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に[[日本共産党]]に入党した[[内田巌]]などにより、半ば[[スケープゴート]]に近いかたちで「戦争協力者」と非難された藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると「'''絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい'''」との言葉を残しフランスへ移住、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。
 
 
 
その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。
 
 
 
パリでの成功後も戦後も、存命中には日本社会から認められることはついになかった。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」や「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきた。死後に日本でも藤田の評価がされるようになり、展覧会なども開かれるようになった。
 
 
 
== 乳白色の肌の秘密 ==
 
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、[[硫酸バリウム]]を下地に用い、その上に[[炭酸カルシウム]]と[[鉛白]]を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた<ref>木島 林(2010)pp.72-85。</ref>。炭酸カルシウムは[[油]]と混ざるとほんのわずかに[[黄色]]を帯びる。さらに絵画の下地表層からは[[滑石|タルク]]が検出されており、その正体は[[和光堂]]の[[シッカロール]]だったことが[[2011年]]に発表された<ref>{{cite news |title=藤田嗣治、あの乳白色はベビーパウダー |newspaper=[[読売新聞]] |date=2011-01-12 |url=http://otona.yomiuri.co.jp/news/news110113_03.htm |accessdate=2011-02-15}}</ref>。
 
 
 
タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上し、[[膠]]での箔置きも可能になる。この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した[[土門拳]]による[[1942年]]の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の[[岡鹿之助]]が以前から報告している<ref>岡鹿之助 「藤田嗣治―ドランブル時代」『みづゑ』593号、1955年1月。岡鹿之助 『フランスの画家たち』 [[中央公論美術出版]]、2004年、p.115、に再録。</ref><ref>内呂博之 「「かたち」への挑戦―[[岡田三郎助]]と藤田嗣治」([[東京文化財研究所]]編 『「かたち」再考 開かれた語りのために』 平凡社、2014年12月17日、pp.162-165)。</ref>。
 
 
 
反面、藤田の技法は脆弱で経年劣化しやすい。水に反応し、絵肌は割れやすく、広い範囲に及ぶ網目状の亀裂の発生が度々観察される<ref>木島 林(2010)p.49。</ref>。また、多くの藤田作品には地塗り表面に特徴的な気泡の穴が多数散見され([[贋作]]にはこの気泡は無いという)、これは油絵の具に混ぜた炭酸カルシウムと油が反応して発生したガスの穴だと考えられる<ref>木島 林(2010)p.105。</ref>。
 
 
 
== 作品 ==
 
藤田の作品は、日本国内では東京の[[ブリヂストン美術館]]、[[東京国立近代美術館]]、[[国立西洋美術館]]、箱根の[[ポーラ美術館]]、秋田市の[[秋田県立美術館 平野政吉コレクション|平野政吉美術館]]で見ることができる。
 
 
 
関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵…」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。現在は秋田県立美術館に展示されており、藤田が設計に携わった平野政吉美術館での展示から秋田県立美術館での展示になったことへの批判も存在する。
 
 
 
晩年に手がけた最後の大作は、死の直前に描きあげた[[ランス (マルヌ県)|ランス]]の教会における装飾画である。
 
 
 
藤田は挿画本作家としても独自の地位を得ている。[[ピエール・ロティ]]、[[ラビンドラナート・タゴール]]、[[ギヨーム・アポリネール]]、[[ポール・クローデル]]、[[ピエール・ルイス]]、[[ジャン・ジロドゥ]]、[[キク・ヤマタ]]、[[ジャン・コクトー]]等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せ、出版社も多数にのぼる。挿画本は、絵と文に共通するテーマを設定し、それぞれの立場から表現する事を目指す共作であり競作で、挿画は単なる[[挿絵]]ではない。藤田は装画本のこうした特性をよく理解し、文を理解しつつもこれに負けない独自の表現を追求している。なかでも、フォーブール・サン=トノレ通りの歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作である。
 
 
 
また藤田は多くのエッセイを書き残し没後出版されている。藤田の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに、「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」がある。
 
 
 
藤田は当時の男性としては珍しく、裁縫や木工など身の回りの様々な物を手作りしていた。藤田本人は「デパートなどで売っているのは全て商品に過ぎないという主張で、芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべし」と言い<ref>{{Citation|和書|author=林洋子|date=2010-3-9|title=藤田嗣治 手しごとの家|page=60|publisher=集英社|isbn=978-4-08-720519-0}}</ref>
 
、自身をアーティストではなく[[アルチザン]]であると語っていた。製作した物は自分が着用する服や帽子、自分の絵に使う額縁、象嵌細工を施した机や小箱など多岐に亘る。象嵌細工の机は[[目黒区美術館]]が所蔵<ref>{{Citation|和書|author=林洋子|date=2010-3-9|title=藤田嗣治 手しごとの家|page=69-70|publisher=集英社|isbn=978-4-08-720519-0}}</ref>する物の他に同一デザインのものが5点ほど存在する<ref>{{Cite web|date=2016-8-16|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20160816/03.html|title=[[開運なんでも鑑定団]] 2016年8月16日放送 レオナール・フジタの円形机|publisher=テレビ東京|accessdate=2016-09-23}}</ref>。
 
 
 
== 主な作品 ==
 
{| class="wikitable sortable"
 
!タイトル
 
!制作年
 
!技法・素材
 
!サイズ(cm)
 
!所蔵先
 
!備考
 
|-
 
 
 
|にわとりとタマゴ
 
|1901年頃
 
|油彩・キャンバス
 
|22x16
 
|個人(パリ)
 
|
 
|-
 
 
 
|婦人像
 
|1909年
 
|油彩・キャンバス
 
|60.3x45.7
 
|東京芸術大学
 
|面貌から像主は最初の妻とみか。
 
|-
 
 
 
|父の像
 
|1909年
 
|油彩・キャンバス
 
|59.0x44.0
 
|東京芸術大学
 
|
 
|-
 
 
 
|[[自画像]]
 
|1910年
 
|油彩・キャンバス
 
|60.6x45.5
 
|東京芸術大学
 
|
 
|-
 
 
 
|朝鮮風景
 
|1913年
 
|油彩・キャンバス
 
|78.1x114.7
 
|[[下関市立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|スーチンのアトリエ
 
|1913年
 
|油彩・キャンバス
 
|41.0x33.0
 
|[[ランス美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|キュビズム風静物
 
|1914年
 
|キャンバス・油彩
 
|54.2x81.4
 
|[[ポーラ美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|巴里城門
 
|1914年
 
|キャンバス・油彩
 
|33.7x41.7
 
|ポーラ美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|トランプ占いの女
 
|1914年
 
|水彩・紙
 
|30.5x22.5
 
|[[徳島県立近代美術館]]
 
|キュビズム
 
|-
 
 
 
|収穫
 
|1917年
 
|油彩・キャンバス
 
|92.0x73.2
 
|個人<ref>『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第7図。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|断崖の若いカップル
 
|1917年
 
|油彩・キャンバス
 
|73x92.4
 
|[[ベルナール・ビュフェ美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|雪のパリの街並み
 
|1917年
 
|油彩・キャンバス
 
|45.5x38.0
 
|ベルナール・ビュフェ美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|ル・アーヴルの港
 
|1917年
 
|油彩・キャンバス
 
|45.8x60.9
 
|[[横須賀美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|パリ風景
 
|1918年1月
 
|油彩・キャンバス
 
|84.0x103.5
 
|[[東京国立近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|モンルージュ、パリ
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|41.0x33.5
 
|[[静岡県立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|巴里風景
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|46.0x55.2
 
|[[ブリヂストン美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|風景
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|46.2x38.0
 
|[[名古屋市美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|聖誕 於巴里
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|114.0x146.0
 
|[[松岡美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|二人の子供と鳥籠
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|81.0x65.0
 
|松岡美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|ドランプル街の中庭、雪の印象
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|27.6x35.4
 
|個人(日本)<ref>『没後50年 藤田嗣治展』第10図。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|花を持つ少女
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|65.4x54.0
 
|[[栃木県立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|二人の女
 
|1918年
 
|油彩・キャンバス
 
|92.2x73.3
 
|[[北海道立近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|聖母子
 
|1918年頃
 
|油彩・金箔、キャンバス
 
|58.0x48.0
 
|[[ヴァチカン美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|自画像
 
|1921年
 
|油彩・キャンバス
 
|100.0x80.5
 
|[[ベルギー王立近代美術館]]
 
|同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
 
|-
 
 
 
|私の部屋、目覚まし時計のある静物
 
|1921年
 
|油彩・キャンバス
 
|130x97
 
|フランス[[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]]([[ポンピドゥー・センター]]内)
 
|同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦と猫
 
|1921年
 
|油彩・キャンバス
 
|72x115
 
|[[プティ・パレ]]美術館(パリ)
 
|同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点の可能性がある。
 
|-
 
 
 
|私の部屋、アコーディオンのある静物
 
|1922年
 
|油彩・キャンバス
 
|130x97
 
|フランス国立近代美術館([[ナンシー美術館]][[寄託]])
 
|同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの1点。他は《裸婦》《学校》という題名は判明しているものの、作品は特定されていない。
 
|-
 
 
 
|寝室の裸婦キキ
 
|1922年
 
|油彩・キャンバス
 
|130x195
 
|[[パリ市立近代美術館]]
 
|その大きさから、同年のサロン・ドートンヌ出品作3点のうちの《裸婦》の可能性がある。
 
|-
 
 
 
|ジュイ布のある裸婦
 
|1922年
 
|油彩・キャンバス
 
|
 
|パリ市立近代美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦
 
|1922年
 
|油彩・キャンバス
 
|72.5x115
 
|[[ニーム美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|エミリー・クレイン・シャドボーンの肖像
 
|1922年
 
|テンペラ、銀箔・キャンバス
 
|89.5x146.1
 
|[[シカゴ美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|バラ
 
|1922年
 
|油彩・キャンバス
 
|81.0x65.0
 
|ユニマットグループ
 
|
 
|-
 
 
 
|アントワープ港からの眺め
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|170.0x224.0
 
|[[鳥取県立石見美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|裸婦像、長い髪のユキ
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|100.0x65.0
 
|ユニマットグループ
 
|
 
|-
 
 
 
|裸婦
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|144x87.5
 
|[[フォール美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|裸婦
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|54.5x100
 
|公益財団法人 [[ひろしま美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|五人の裸婦
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|169x200
 
|[[東京国立近代美術館]]
 
|同年秋のサロン・ドートンヌ出品
 
|-
 
 
 
|座る女性と猫
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|114.0x77.0
 
|[[鹿児島市立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|タピスリーと裸婦
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|130.0x96.0
 
|[[京都国立近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|室内、妻と私
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|145.8x114.0
 
|[[笠間日動美術館]]
 
|ソシエテ・ナショナルのサロン出品作
 
|-
 
 
 
|人形を抱く少女
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|73.4x54.3
 
|[[群馬県立近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|ヴァイオリンをもつ子ども
 
|1923年
 
|油彩・キャンバス
 
|116x73
 
|[[熊本県立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|友情
 
|1924年
 
|油彩・キャンバス
 
|146.0x89
 
|フランス国立近代美術館([[リブルヌ美術館]]寄託)
 
|同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
 
|-
 
 
 
|ユキ(雪の女王)
 
|1924年
 
|油彩・キャンバス
 
|
 
|プティ・パレ美術館
 
|同年のサロン・ドートンヌ出品作2点のうちの1点。
 
|-
 
 
 
|エレーヌ・フランクの肖像
 
|1924年3月
 
|油彩・キャンバス
 
|142.0x115.0
 
|イセ文化基金
 
|
 
|-
 
 
 
|動物群
 
|1924年
 
|油彩・キャンバス
 
|97x145.5
 
|[[目黒区美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|10人の子どもたち
 
|1924年
 
|油彩・キャンバス
 
|114.0x144.3
 
|目黒区美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|貝殻のある静物
 
|1924年
 
|油彩・キャンバス
 
|73.0x61.0
 
|[[高知県立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|ギターを持つ少年と少女
 
|1924年
 
|油彩・キャンバス
 
|72.8x60.0
 
|樋田コレクション<ref>『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第26図。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|砂の上で
 
|1925年
 
|油彩・キャンバス
 
|70.3x160.8
 
|[[姫路市立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|座る裸婦
 
|1925年
 
|油彩・キャンバス
 
|73x60
 
|[[アンドレ・マルロー]]美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|舞踏会の前
 
|1925年
 
|油彩・キャンバス
 
|168.5x199.5
 
|[[大原美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦(夢)
 
|1925年
 
|油彩・キャンバス
 
|142x123
 
|[[国立国際美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|夢から醒めて
 
|1925年
 
|油彩・キャンバス
 
|142.0x123.0
 
|[[テレビ朝日]]
 
|
 
|-
 
 
 
|夢
 
|1925年
 
|油彩・キャンバス
 
|142.3x123.4
 
|[[岐阜県美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|青衣の女
 
|1925年
 
|油彩・キャンバス
 
|55.0x38.0
 
|[[愛知県美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|二人の女
 
|1926年
 
|油彩・キャンバス
 
|92x73
 
|プチ・パレ美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|[[栃木山守也|横綱栃木山]]の肖像
 
|1926年
 
|水彩、木炭・絹
 
|115.2x89.5
 
|[[グルノーブル美術館]]
 
|同年のサロン・ドートンヌ出品作
 
|-
 
 
 
|アトリエの自画像
 
|1926年
 
|油彩・キャンバス
 
|81.0x61.0
 
|[[リヨン美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|インク壺の静物
 
|1926年
 
|油彩・キャンバス
 
|22x26.9
 
|ブリヂストン美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|アンナ・ド・ノアイユの肖像
 
|1926年頃
 
|油彩・キャンバス
 
|167.1x108.4
 
|[[DIC川村記念美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|シュジー・ソリドールの肖像
 
|1927年
 
|油彩、金箔・キャンバス
 
|97x63
 
|カーニュ=シュル=メール・シャトー美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|裸婦
 
|1927年
 
|油彩・キャンバス
 
|63.5x98.5
 
|ベルギー王立美術館
 
|[[薩摩治郎八]]が、外交官[[安達峰一郎]]の仲介を経て王立美術館に寄贈
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦
 
|1927年
 
|油彩・キャンバス
 
|81.0x100.0
 
|[[茨城県近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|猫のいる自画像
 
|1927年頃
 
|油彩・キャンバス
 
|54.3x45.5
 
|[[三重県立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|受胎告知・三王礼拝・十字架降下
 
|1927年
 
|油彩、金箔・キャンバス
 
|前2者が150.0x100.0<br />後者が150.0x150.0
 
|公益財団法人 ひろしま美術館
 
|三連祭壇画を意識して制作されたと推測される。
 
|-
 
 
 
|ライオンのいる構図
 
|1928年
 
|油彩・キャンバス
 
|300x300
 
|エソンヌ県議会
 
|
 
|-
 
 
 
|犬のいる構図
 
|1928年
 
|油彩・キャンバス
 
|300x300
 
|エソンヌ県議会
 
|
 
|-
 
 
 
|争闘1
 
|1928年
 
|油彩・キャンバス
 
|300x300
 
|エソンヌ県議会
 
|
 
|-
 
 
 
|争闘2
 
|1928年
 
|油彩・キャンバス
 
|300x300
 
|エソンヌ県議会
 
|
 
|-
 
 
 
|裸婦
 
|1928年
 
|油彩・キャンバス
 
|73.0x101.0
 
|個人(名古屋市美術館寄託)<ref>『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第40図。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|座る女
 
|1929年
 
|油彩、金箔・キャンバス
 
|110.0x125.0
 
|[[国立西洋美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|自画像
 
|1929年
 
|油彩、鉛筆、金箔・キャンバス
 
|81.4x65.5
 
|名古屋市美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|自画像
 
|1929年
 
|油彩・キャンバス
 
|61.0x50.2
 
|東京国立近代美術館
 
|同年10月の第10回帝展出品
 
|-
 
 
 
|欧人日本へ渡来の図
 
|1929年
 
|油彩、金箔・板パネル張り
 
|300x600
 
|[[パリ日本館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|馬の図
 
|1929年
 
|油彩、金箔・板パネル張り
 
|235x462
 
|パリ日本館
 
|
 
|-
 
 
 
|二人の友達
 
|1929年
 
|油彩・キャンバス
 
|81x54
 
|DIC川村記念美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|二人の裸婦
 
|1929年
 
|油彩・キャンバス
 
|178.0x94.2
 
|[[富山県美術館]]<ref>『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第44図。</ref><ref>富山県美術館編集・発行 『TAD 富山県美術館』 2017年、第12図。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|二人裸婦
 
|1930年
 
|油彩・キャンバス
 
|143.0x125.0
 
|[[神奈川県立近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|三人の女
 
|1930年
 
|油彩・キャンバス
 
|142.5x124.6
 
|エソンヌ県議会
 
|
 
|-
 
 
 
|死に対する生命の勝利
 
|1930年
 
|油彩・キャンバス
 
|161.0x183.5
 
|[[パーフェクト リバティー教団]]
 
|
 
|-
 
 
 
|調教師とライオン
 
|1930年
 
|油彩・キャンバス
 
|147x91
 
|プチ・パレ美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦と猫
 
|1931年
 
|油彩・キャンバス
 
|73.2x116.2
 
|[[埼玉県立近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦と猫
 
|1931年
 
|油彩・キャンバス
 
|73.2x116.2
 
|[[埼玉県立近代美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|仰臥裸婦
 
|1931年
 
|油彩・キャンバス
 
|96.9x162.2
 
|[[福岡市美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦
 
|1932年
 
|油彩・キャンバス
 
|71.5x91
 
|個人<ref>『藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』第59図。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|横たわる裸婦と猫
 
|1932年
 
|油彩・キャンバス
 
|65.0x100.0
 
|ブリヂストン美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|カーニバルの後
 
|1932年
 
|油彩・キャンバス
 
|98.5x79.0
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|
 
|-
 
 
 
|室内の女二人
 
|1932年
 
|油彩・キャンバス
 
|95.0x77.0
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|
 
|-
 
 
 
|婦人像(リオ)
 
|1932年
 
|油彩・キャンバス
 
|81.2x65.0
 
|[[広島県立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|家族の肖像
 
|1932年
 
|鉛筆、パステル・紙
 
|86.5x67.2
 
|名古屋市美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|ラマと四人の人物
 
|1933年
 
|水彩・紙
 
|155x95
 
|[[三重県立美術館]]
 
|翌年の二科展出品
 
|-
 
 
 
|大地
 
|1934年
 
|油彩・キャンバス
 
|244.6x968.0
 
|公益財団法人 [[ウッドワン美術館]]
 
|元は[[銀座]]聖書館ビル内ブラジルコーヒー陳列所を飾った幅15メートルを超える壁画。6年後に依頼主だったブラジルのアッスムソン邸に移設され、この時3割ほど切り取られた<ref name="woodone">ウッドワン美術館編集 『ウッドワン美術館所蔵 近代日本絵画の巨匠立たち』 [[青幻舎]]、2011年2月10日、pp.105-111,187-188、ISBN 978-4-86152-295-6。</ref>
 
|-
 
 
 
|メキシコに於けるマドレーヌ
 
|1934年
 
|油彩・キャンバス
 
|91.0x72.5
 
|京都国立近代美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|力士と病児
 
|1934年
 
|油彩・キャンバス
 
|116.8x91.0
 
|[[大日本印刷株式会社]]
 
|
 
|-
 
 
 
|空の上の空中戦
 
|1934年
 
|油彩・キャンバス
 
|100x81
 
|法人<!--ギャルリーためなが--><ref>『[[芸術新潮]]』2018年8月号、p.97。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|北平の力士
 
|1935年
 
|油彩・キャンバス
 
|180.9x225.4
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|第22回二科展出品
 
|-
 
 
 
|五人女
 
|1935年
 
|油彩・キャンバス
 
|192.5x128.5
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|第22回二科展出品
 
|-
 
 
 
|Y夫人の肖像
 
|1935年
 
|油彩・キャンバス
 
|92x117.5
 
|個人
 
|第22回二科展出品
 
|-
 
 
 
|葡萄畑の女性・母と娘・ポプラ並木の女性と楽士・犬を抱く女性と楽士・貴婦人と召使い・女性と天使
 
|1935年
 
|油彩・キャンバス
 
|131.0x188.0(各)
 
|[[赤坂迎賓館]]
 
|元は銀座コロンバン洋菓子店2階サロン天井画。迎賓館開館時に6点すべて同館に寄贈された。作風は18世紀[[ロココ]]様式を代表する画家・[[アントワーヌ・ヴァトー]]に倣っている。
 
|-
 
 
 
|ノルマンディーの春
 
|1936年
 
|油彩・キャンバス
 
|221.5x291.8
 
|[[関西日仏学館]]玄関ホール
 
|
 
|-
 
 
 
|野あそび
 
|1936年
 
|油彩・キャンバス
 
|160x350
 
|[[志摩観光ホテル]]
 
|京都の丸物百貨店喫茶店装飾画として制作。都ホテル東京を経て、2002年現在の場所に移った<ref>『[[芸術新潮]]』2018年8月号、pp.92-93。</ref>。
 
|-
 
 
 
|自画像
 
|1936年
 
|油彩・キャンバス
 
|127.7x191.9
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|
 
|-
 
 
 
|秋田の行事
 
|1937年
 
|油彩・キャンバス
 
|365.0x2050.0
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|
 
|-
 
 
 
|一九〇〇年
 
|1937年
 
|油彩・キャンバス
 
|144x110.5
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|
 
|-
 
 
 
|那覇の客人
 
|1938年
 
|油彩・キャンバス
 
|114.5x89.5
 
|公益財団法人 平野政吉美術財団
 
|第25回二科展出品
 
|-
 
 
 
|孫
 
|1938年
 
|油彩・キャンバス
 
|100.0x80.5
 
|[[沖縄県]]
 
|
 
|-
 
 
 
|ディナー・パーティー
 
|1939年
 
|油彩・キャンバス
 
|88.5x129.6
 
|公益財団法人 ウッドワン美術館<ref name=woodone />
 
|
 
|-
 
 
 
|青いドレスの女
 
|1939年
 
|油彩・キャンバス
 
|57.6x71.2
 
|島根県立石見美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|サーカスの人気者
 
|1939年
 
|油彩・キャンバス
 
|100.0x80.6
 
|[[島根県立美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|猫のいる風景
 
|1939-40年
 
|油彩・キャンバス
 
|80.6x99.9
 
|ブリヂストン美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|ドルドーニュの家
 
|1940年
 
|油彩・キャンバス
 
|45.5x53.3
 
|ブリヂストン美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|カルポーの公園
 
|1940年
 
|油彩・キャンバス
 
|31.8x40.9
 
|ブリヂストン美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|猫(闘争)
 
|1940年
 
|油彩・キャンバス
 
|78.7x98.5
 
|東京国立近代美術館
 
|第27回二科展出品
 
|-
 
 
 
|人魚
 
|1940年
 
|油彩・キャンバス
 
|63.5x99.5
 
|個人(香港)<ref>『没後50年 藤田嗣治展』第76図。</ref>
 
|
 
|-
 
 
 
|[http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=11434 哈爾哈河畔之戦闘]
 
|1941年
 
|油彩・キャンバス
 
|140.0x448.0
 
|東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与)
 
|翌年7月の第2回聖戦美術展出品
 
|-
 
 
 
|[http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=11437 アッツ島玉砕]
 
|1943年
 
|油彩・キャンバス
 
|193.5x259.5
 
|東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与)
 
|同年9月の決戦美術展出品
 
|-
 
 
 
|仏印風景
 
|1943年
 
|油彩・キャンバス
 
|60.5.2x72.8
 
|島根県立美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|仏印メコンの広野
 
|1944年
 
|油彩・キャンバス
 
|53.2x73.0
 
|[[日本赤十字社]]
 
|[[徳川圀順]]が日本赤十字社社長在任中に社長室を飾った作品。退任後そのまま赤十字社に寄贈<ref>[[徳島県立近代美術館]]企画・構成 今に生きる「人道博愛の心」展実行委員会 徳島県立近代美術館 日本赤十字社徳島県支部編集 『日本赤十字社徳島県支部創立130周年記念展 今に生きる「人道博愛の心」ー美術に見る日本赤十字社の歩みー図録』 今に生きる「人道博愛の心」展実行委員会、2017年4月22日、p.11。</ref>。
 
|-
 
 
 
|[http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=11445 サイパン島同胞臣節を全うす]
 
|1945年
 
|油彩・キャンバス
 
|181.0x362.0
 
|東京国立近代美術館保管(アメリカ合衆国無期限貸与)
 
|同年4月の「戦争美術展 昭和19年度陸軍作戦記録画」出品。[[バンザイクリフ]]の凄惨な情景を描いた作品で、その残酷さから児童生徒には公開されなたっという。
 
|-
 
 
 
|無題
 
|1946年
 
|油彩・キャンバス
 
|70.0x88.5
 
|[[熱田神宮]]
 
|風景画
 
|-
 
 
 
|優美神
 
|1946-48年
 
|油彩・キャンバス
 
|127.3x191.0
 
|[[聖徳大学]]川並記念図書館
 
|
 
|-
 
 
 
|私の夢
 
|1947年
 
|油彩・キャンバス
 
|64.3x99.0
 
|[[新潟県立万代島美術館]]
 
|同年5月の[[東京都美術館]]開館20周年記念現代美術展覧会出品
 
|-
 
 
 
|カフェ
 
|1949年
 
|油彩・キャンバス
 
|76x64
 
|フランス国立近代美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|美しいスペイン女
 
|1949年
 
|油彩・キャンバス
 
|76.0x63.5
 
|[[豊田市美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|占いの老女
 
|1949年
 
|油彩・キャンバス
 
|101.6x76.0
 
|公益財団法人 ウッドワン美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|姉妹
 
|1950年
 
|油彩・キャンバス
 
|60.8x45.3
 
|[[ポーラ美術館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|夢見る女
 
|1951年
 
|油彩・キャンバス
 
|
 
|ベルナール・ビュフェ美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|ジャン・ロスタンの肖像
 
|1955年
 
|油彩・キャンバス
 
|100x81
 
|[[カルナヴァレ博物館]]
 
|
 
|-
 
 
 
|校庭
 
|1956年
 
|油彩・キャンバス
 
|65.3x54.1
 
|ポーラ美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|家馬車の前のジプシー娘
 
|1956年
 
|油彩・キャンバス
 
|
 
|山王美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|誰と戦いますか?
 
|1957年
 
|油彩・キャンバス
 
|130x195
 
|エソンヌ県議会
 
|同年の「時代の証人たち」展出品
 
|-
 
 
 
|[[カルチェ・ラタン]]のビストロ
 
|1958年
 
|油彩・キャンバス
 
|97.5x156
 
|カルナヴァレ博物館
 
|
 
|-
 
 
 
|庭園の子供達
 
|1958年
 
|油彩・キャンバス
 
|94.2x94.8
 
|聖徳大学
 
|
 
|-
 
 
 
|アージュ・メカニック(機械の時代)
 
|1958-59年
 
|油彩・キャンバス
 
|114.0x146.0
 
|パリ市立近代美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|花の洗礼
 
|1959年
 
|油彩・キャンバス
 
|130.5x97.5
 
|パリ市立近代美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|聖母子
 
|1959年10月14日
 
|油彩・キャンバス
 
|81.7x54.2
 
|[[ランス大聖堂]](ランス美術館寄託)
 
|
 
|-
 
 
 
|EVE
 
|1959年
 
|油彩・キャンバス
 
|61.0x38.0
 
|公益財団法人 ウッドワン美術館<ref name=woodone />
 
|
 
|-
 
 
 
|キリスト降架
 
|1959年クリスマス
 
|油彩・キャンバス
 
|112.0x144.0
 
|パリ市立近代美術館(ランス美術館寄託)
 
|翌年の第1回「国際宗教美術展」([[イタリア]]・[[トリエステ]])金賞
 
|-
 
 
 
|磔刑
 
|1960年
 
|油彩・キャンバス
 
|145.0x88.0
 
|パリ市立近代美術館(ランス美術館寄託)
 
|
 
|-
 
 
 
|アッシジ
 
|1961年
 
|油彩・キャンバス
 
|38x61.2
 
|ひろしま美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|礼拝
 
|1963年
 
|油彩・キャンバス
 
|114.8x147
 
|パリ市立近代美術館
 
|
 
|-
 
 
 
|マドンナ
 
|1964年
 
|油彩・キャンバス
 
|60.9x38.2
 
|ランス市立美術館
 
|
 
|-
 
|}
 
 
 
== 著作 ==
 
* 『猫の本 藤田嗣治画文集』(講談社、2003年)
 
* 『腕(ブラ)一本・巴里の横顔』(近藤史人編、[[講談社文芸文庫]]、2005年)。旧版は講談社、1984年
 
* 『藤田嗣治随筆集 地を泳ぐ』 ([[平凡社ライブラリー]]、2014年)。旧版は講談社、1984年
 
* 『藤田嗣治 妻とみへの手紙 1913-1916』(上・下、[[人文書院]]、2016年)。林洋子監修・加藤時男校訂
 
* 『藤田嗣治 戦時下に書く 新聞・雑誌寄稿集 1935~1956年』([[ミネルヴァ書房]]、2018年)。林洋子編
 
 
 
== 関連図書 ==
 
{{参照方法|date=2015年11月|section=1}}
 
* [[田中穣]] 『評伝藤田嗣治』(芸術新聞社、1988、改訂版2015)
 
* [[近藤史人]] 『藤田嗣治「異邦人」の生涯』([[講談社]]、2002/[[講談社文庫]]、2006)
 
* [[湯原かの子]] 『藤田嗣治 パリからの恋文』([[新潮社]]、2004)
 
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 藤田嗣治』(2006年5月号、[[青土社]]) 
 
* [[蘆原英了]] 『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫』 ([[田之倉稔]]解説、新宿書房 新版2007)
 
* [[林洋子]] 『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』([[名古屋大学出版会]]、2008)
 
* 木島隆康・林洋子編 『藤田嗣治の絵画技法に迫る:修復現場からの報告』([[東京藝術大学]]出版会、2010)
 
* 矢内みどり 『藤田嗣治とは誰か』(求龍堂、2015)
 
* 佐野勝也 『フジタの白鳥 画家藤田嗣治の舞台美術』(エディマン、2017)
 
* 『猫と女とモンパルナス 藤田嗣治』(オクターブ、2018)。写真アルバム
 
 
 
; 小著
 
* 『藤田嗣治 手しごとの家』(林洋子解説、[[集英社新書]]ヴィジュアル版、2009.11)
 
* 『藤田嗣治 本のしごと』(林洋子解説、[[集英社]]新書ヴィジュアル版、2011.6)
 
* 『藤田嗣治 手紙の森へ』(林洋子解説、集英社新書ヴィジュアル版、2018.1)
 
* 『もっと知りたい 藤田嗣治 生涯と作品』(林洋子監修、東京美術「アート・ビギナーズ・コレクション」、2013)
 
*  [[布施英利]]『藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』([[NHK出版新書]]、2018.8)
 
* 『旅する画家 藤田嗣治』(林洋子監修、新潮社<[[とんぼの本]]>、2018.9)
 
 
 
; 画集
 
* 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(藤田君代監修、講談社、2002)
 
* 『藤田嗣治画集』(全3巻、林洋子監修、[[小学館]]、2014)
 
* 『藤田嗣治の少女』([[会田誠]]編、講談社、2018)
 
* 『藤田嗣治作品集』([[清水敏男 (美術評論家)|清水敏男]]編、東京美術、2018)
 
 
 
; 展覧会図録
 
* 尾崎正明ほか編集 『生誕120年 藤田嗣治展 パリを魅了した異邦人』 NHKプロモーション・[[日本経済新聞社]]、2006年
 
* 村上哲・ブレーントラスト編 『藤田嗣治渡仏100周年記念 レオナール・フジタとパリ 1913-1931』 藤田嗣治渡仏100周年記念「レオナール・フジタとパリ 1913-1931」カタログ委員会、2013年
 
* 公益財団法人 平野政吉美術財団編 『秋田県立美術館 開館記念特別展 壁画《秋田の行事》からのメッセージ 藤田嗣治の1930年代』<ref>関連図書に、渡部琴子『平野政吉 世界のフジタに世界一巨大な絵を描かせた男』(新潮社、2002年)がある。</ref> 秋田協同印刷株式会社、2013年9月
 
* 名古屋市美術館ほか編 『生誕130年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画』 中日新聞社、2016年
 
* 中村水絵編 『レオナール・フジタとモデルたち』 株式会社キュレイターズ、2016年、ISBN 978-4-901745-24-6
 
* 林洋子監修・[[西宮市大谷記念美術館]]ほか編 『没後50年 藤田嗣治 本のしごと 文字を装う絵の世界展図録』 キュレイターズ、2018年
 
* 東京都美術館ほか編 『没後50年 藤田嗣治展』 朝日新聞社・NHKプロモーション、2018年
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[エコール・ド・パリ]]
 
* [[アメデオ・モディリアーニ]]
 
* [[シャイム・スーティン]]
 
* [[アリス・プラン|キキ]]
 
* [[パブロ・ピカソ]]
 
* [[ポルチナーリ]]
 
* [[ユキ・デスノス=フジタ]]
 
* [[ラ・ブーム]] - 1980年公開のフランス映画。
 
* [[FOUJITA]] - 2015年公開の日仏合作伝記映画。
 
* [[フランク・エドワード・シャーマン]] - 戦後の支援者の一人。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.ippusai.com/hp_home/sunset/fujita.htm 藤田の「戦争画」紹介]
 
* [http://kingendaikeizu.net/huzitatuguharu.htm 家系図]
 
 
 
{{Normdaten}}
 
 
{{デフォルトソート:ふした つくはる}}
 
{{デフォルトソート:ふした つくはる}}
 
[[Category:フランスの画家]]
 
[[Category:フランスの画家]]

2019/4/26/ (金) 09:46時点における最新版

藤田嗣治(1924頃).jpg

藤田 嗣治(ふじた つぐはる)

[生] 1886.11.27. 東京

[没] 1968.1.29. チューリヒ

フランス国籍の洋画家。のちに軍医総監になった藤田嗣章のニ男。 1905年東京美術学校に入学し黒田清輝,和田英作に学ぶ。 1910年に同校を卒業,1913年渡仏。 P.ピカソ,A.モジリアニらを知り,エコール・ド・パリの一員として認められ 1917年個展。 1919年サロン・ドートンヌに出品した6点全部が入選し同会会員に推され,精妙な陶器の肌を思わせる白い絵具のマチエールと,的確なデッサン力をもった流麗な線描による表現は高く評価された。一方国内では 1922年以降帝展に出品し,1924年帝展審査員,1934年二科会会員となり,1941年帝国芸術院会員になるが 1955年に辞任。その間 1929,1933年に帰国したものの三たび渡仏。 1940年戦争のため帰国し,第2次世界大戦中は多くの戦争記録画を描いた。 1949年日本画壇と決別して渡仏,1955年フランス国籍を得,1959年カトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。

1966年フランスのノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の建物を設計し,キリスト伝の壁画,ステンドグラスを描いたが,まもなく病没。主要作品は『パリ風景』 (1917,東京国立近代美術館) ,『五人の裸婦』 (1923,同) ,『舞踏会の前』 (1925,大原美術館),『ドルドーニュの家』 (1940,ブリヂストン美術館) ,『わが夢』 (1947) 。



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