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{{統合文字|薩}}
 
{{統合文字|祇}}
 
{{Battlebox
 
| battle_name  = 薩英戦争
 
| campaign      =
 
| colour_scheme =
 
| image        = [[ファイル:KagoshimaJapaneseDepiction.jpg|320px]]
 
| caption      =
 
| conflict      = 薩英戦争
 
| date          = 1863年8月15日 - 8月17日
 
| place        = 江戸幕府、[[薩摩国]]([[鹿児島湾]])
 
| result        = 引き分け。薩摩が賠償金を支払い講和。
 
| combatant1    = [[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25px]] [[薩摩藩]]
 
| combatant2    = {{flagicon|United Kingdom}}[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]
 
| commander1    = [[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25px]] [[島津茂久]]([[修理大夫]])<br/>[[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25px]] [[島津久光]](三郎)
 
| commander2    = {{flagicon|United Kingdom}} <!--[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]<br/>--><!-- 宣戦布告も政府訓令もなく出先の艦隊が巻き込まれた局地戦に、女王を総大将とするのはいかがなものかと --> [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]<br/>{{flagicon|United Kingdom}} [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ラッセル伯爵]]<br/>{{flagicon2|イギリス|naval}} [[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー提督]]
 
| strength1    = 薩摩藩
 
| strength2    = [[イギリス海軍]]
 
| casualties1  = 砲台の戦死1名{{refnest|『元帥公爵大山巌』p.136<ref group="注釈">「祇園洲砲台伍長税所淸太ただ一人の戦死者」</ref>}}<ref name="simazu_doc2"/><br/>負傷者9名<ref>『元帥公爵大山巌』pp.136-138</ref><br/>大砲8門<ref name="1863newspaper"/><br/>弾薬庫x2<ref name="1863newspaper"/><br/>市街の死傷者9人{{refnest|『元帥公爵大山巌』pp.136-138<ref group="注釈">「流弾により7月2日は守衛兵3人死亡、負傷5人、7月2日は守衛兵1人死亡」</ref>}}|
 
| casualties2  = 戦死13名<ref name="simazu_doc2"/><ref name="1863newspaper"/><br/>負傷者50名<ref name="simazu_doc2"/><ref name="1863newspaper"/><br/>負傷者の死亡7人<ref name="casualties1"/><br/>艦船大破1隻<ref name="simazu_doc2"/><br/>中破2隻<ref name="simazu_doc2"/>
 
|}}
 
'''薩英戦争'''(さつえいせんそう、[[文久]]3年[[7月2日 (旧暦)|旧暦7月2日]]–[[7月4日 (旧暦)|4日]]([[1863年]][[8月15日]]–[[8月17日|17日]]))は、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]と[[薩摩藩]]の間で戦われた戦闘。文久2年[[8月21日 (旧暦)|旧暦8月21日]]([[1862年]][[9月14日]])に[[武蔵国]][[橘樹郡]]生麦村で発生した[[生麦事件]]の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、[[攘夷]]実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。
 
  
薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、イギリス軍も旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死や戦艦の大破・中破など大きな損害を被った。この戦闘を通じて英国と薩摩国の双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。
+
'''薩英戦争'''(さつえいせんそう、[[文久]]3年[[7月2日 (旧暦)|旧暦7月2日]]–[[7月4日 (旧暦)|4日]]([[1863年]][[8月15日]]–[[8月17日|17日]]))
  
鹿児島では'''まえんはまいっさ'''(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が「前の浜」と呼ばれていたため){{refnest|『薩藩海軍史(中巻)』p.47<ref group="注釈">「英艦隊が前の浜に停泊するや、忠義公は軍役奉行[[折田平八]](年昭)、軍賦役[[伊地知正治]]、助教[[今藤新左衛門]](宏)、庭方[[重野安繹|重野厚之丞]](安繹)を旗艦に遣わし、その来意を問はしめたり、・・・」</ref>}}。
+
幕末,薩摩藩とイギリス艦隊との間にかわされた戦闘。文久2 (1862) 年8月の[[生麦事件]]に際し,イギリス代理公使 E.[[ニール]]は,幕府に対して事件の責任者処罰および 10万ポンドの賠償を請求したが,統治力の衰退した幕府は,賠償金を支払ったのみで犯人の引渡しを拒否する薩摩藩を従わせることができず,事件の解決は引延ばされた。そこでニールは,みずからの力で事態を解決しようとはかり,同3年6月 28日7隻の艦隊を率いて薩摩藩に迫った。これに対して薩摩藩が回答しなかったため,7月2日イギリス艦隊は鹿児島に砲撃を加え,ここに薩英戦争が始った。ちょうど台風襲来で,鹿児島城下は砲火を浴びて火の海と化し,イギリス側も暴風による損害や,武器,食糧の不足で勝敗不明のまま退去した。この戦争の結果,薩摩藩側は,外国の軍事力の強さを認識して攘夷の不可能を自覚し,イギリスと交渉を行い事件を解決した。またこの際,幕府の貿易独占を非難して薩摩藩も外国貿易を行う用意のあることを告げて,イギリスとの間に親善関係を樹立することに努め,以後,薩摩とイギリスとは急速に接近することとなった。
 
 
== 生麦事件 ==
 
文久2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1862年]][[9月14日]]) - 生麦事件が発生する。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で島津家の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の[[奈良原喜左衛門]]、[[海江田信義]]らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。
 
 
 
この種の事件は、不平等条約を強制された国々で発生せざるを得ない特徴的な事件である。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されている。居留地外では当該国の法に従う事になる。そして、居留地に居住する外国人は遊歩区域が認められている。横浜では「神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里」とされていた。このグレーゾーンでは、正統性が両国の力関係で決定される。このような紛争を介して欧米列強は、どの国においても「内地自由通行権」の獲得に力を注ぐことになる<ref>宮地正人著 『幕末維新変革史 上』 岩波書店 2012年 381ページ</ref>。
 
{{Main|生麦事件}}
 
 
 
== 交渉 ==
 
[[ファイル:ColonelNeale1863.JPG|thumb|イギリス公使代理[[ジョン・ニール]]]]
 
交渉までの経緯については、[[#備考|備考]]を参照のこと。
 
 
 
文久3年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]](1863年6月24日)、イギリス[[公使]]代理の[[ジョン・ニール]]は幕府から生麦事件の賠償金10万[[スターリング・ポンド|ポンド]]を受け取った。
 
 
 
[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[8月6日]])、ジョン・ニールは薩摩国との直接交渉のため、7隻の艦隊([[旗艦]][[ユーライアラス (蒸気フリゲート)|ユーライアラス]](艦長・司令J・ジョスリング一等海佐 (Captain)<ref group="注釈" name="一等海佐">当時のイギリス海軍には少佐 (Lieutenant-Commander) に相当する階級が無く、佐官は“Captain”と“Commander”二等級であった。19世紀前半までの“Captain”は「勅任艦長」、“Commander”は「[[海尉]]艦長」と一般的に訳されるが、この頃にはこれらは階級へと変化しており、役職名であるそれらの訳語も不適切である。よって、“Captain”は一等海佐とする。</ref>)、[[コルベット]]「[[パール (蒸気コルベット)|パール]]」(艦長J・ボーレイス一等海佐 (Captain)<ref group="注釈" name="一等海佐"/>)、同「[[パーシュース (蒸気スループ)|パーシュース]]」(艦長A・キングストン[[海尉]] (Lieutenant-Commander)<ref group="注釈" name="海尉">当時のイギリス海軍では、“Lieutenant-Commander”は正式の階級ではなく、古参の“Lieutenant”に許される称号であった。また、尉官は(現在でも)二等級なので、“Lieutenant”は「海尉」とする。</ref>)、同「アーガス」(艦長L・ムーア海尉 (Lieutenant-Commander)<ref group="注釈" name="海尉"/>)、[[砲艦]]「レースホース」(艦長C・ボクサー海尉 (Lieutenant-Commander)<ref group="注釈" name="海尉"/>)、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー海尉 (Lieutenant-Commander)<ref group="注釈" name="海尉"/>)、同「ハボック」(艦長G・プール海尉 (Lieutenant)<ref group="注釈" name="海尉"/>)、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官[[オーガスタス・レオポルド・キューパー]][[海軍少将]])と共に横浜を出港。[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[8月11日]])にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。薩摩は総動員体制に入り、[[寺田屋事件]]関係者の謹慎も解かれた。
 
 
 
[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[8月12日]])、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要求。島津家は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。
 
 
 
[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[8月13日]])、イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める。
 
 
 
島津家は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否。イギリス艦隊は桜島の横山村・小池村沖に移動した。
 
 
 
一方、奈良原喜左衛門らはイギリス艦が[[薪水給与令|薪水・食料]]を求めたのに対して奇襲を計画し、海江田信義、[[黒田清隆]]、[[大山巌]]らが、国書に対する答使と果物・[[スイカ]]売りに変装し艦隊に接近した。使者を装った一部は乗艦に成功したが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去した。
 
 
 
[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]([[8月14日]])、ニール代理公使は島津家の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告した。島津家は開戦を覚悟し、当主・[[島津茂久]]と後見役[[島津久光]]は、[[鹿児島城]]が英艦隊の艦砲の射程内と判断されていたため、新たに本営と定めた鹿児島近在[[西田 (鹿児島市)|西田村]](現・鹿児島市[[常盤 (鹿児島市)|常盤]])の[[千眼寺]]に移った。
 
 
 
== 戦闘について ==
 
イギリス艦隊の旗艦には幕府から得た賠償金が積まれていたが、イギリス側は島津家との賠償金の交渉を有利にするために薩摩[[汽船]]3隻を掠奪した{{refnest|『薩藩海軍史(中巻)』p.491<ref group="注釈">「・・・然れども未た宣戦の布告なきに、何を以て我が船を掠奪せんとするやと、抗論して肯ぜざりしも、・・・」</ref>}}。これに激発した薩摩方の砲台との間で戦闘が開始された。
 
 
 
=== 戦闘詳報 ===
 
[[File:KagoshimaBirdView.jpg|thumb|イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘]]
 
7月2日(8月15日) - 夜明け前、「[[パール (蒸気コルベット) |パール]]」、「アーガス」、「レースホース」、「コケット」、「ハボック」の艦隊5隻は、薩摩の蒸気船の天佑丸 (England)、白鳳丸 (Contest)、青鷹丸 (Sir George Grey) を重富の脇元浦(現在の[[姶良市]]脇元付近)において、これら3隻の舷側に接舷するとイギリス艦より50, 60人の兵が乱入した{{refnest|『薩藩海軍史(中巻)』p.491<ref group="注釈">「・・・突然にこの汽船の舷側に横着し、五六十人乱入したり。我が船員驚き一方ならず、しかして五代、松木等の船長にそれ引き渡しを要請せり。然れども未た宣戦の布告なきに、何を以て我が船を掠奪せんとするやと、抗論して肯ぜざりしも、遂に彼等の威嚇に力及ばず・・・」</ref>}}。薩摩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷<!-- これが本当だとすれば、英国側が当然薩摩側の反撃を予想すると思いますが、その後の攻撃に対して効果的な反撃ができていません。また、死傷者の蘭にも拿捕時の死傷者数が記載されていませんが --><!--行方不明(生死不明)ためでは?-->するなどして3隻の乗組員を強制的に陸上へ排除して船を奪取した{{refnest|『薩藩海軍史(中巻)』p.491<ref group="注釈">「・・・天佑丸にては、乗組員中に抵抗する者もありたるに依り之を捕縛し、・・・太鼓役の師匠本田彦次郞の如きは、敵の士官と闘争せんとしたる為め銃剣に突かれ、海中に飛び込み行方不明となれり、・・・吉留直次朗は佩刀を渡せ渡さぬと争ひしが背後より英兵に剣を以て突かれ、・・・」</ref>}}<!-- 厳密には拿捕とは戦時などに法に基づき乗組員ごと船を奪う行為で、薩摩で行ったイギリス海軍の行為は海賊に近い -->。このとき、天佑丸の船奉行添役[[五代友厚|五代才助]]や青鷹丸の船長[[寺島宗則|松本弘庵]]も捕虜として拘禁された<ref>『元帥公爵大山巌』pp.128-129</ref>。
 
 
 
午前10時、捕獲された3隻は{{refnest|『藩海軍史(中巻)』p.491<ref group="注釈">「捕獲に向かいたる五艦は脇元沖に至り、・・・」</ref>}}、「コケット」、「アーガス」、「レースホース」の各艦の舷側に1隻毎に結わえられて牽引され、[[桜島]]の小池沖まで曳航された<ref>『元帥公爵大山巌』p.128</ref><ref name="simazu_doc2"/>。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩方は7箇所の[[砲台]]([[台場]])に追討の令を出す<ref name="simazu_doc2">日本史籍協会『島津久光公實記(二)』pp.60-79</ref>。
 
 
 
[[ファイル:Bombing of Kagoshima Map - 1863.PNG|thumb|right|当時の新聞による戦況図]]
 
[[正午]]、湾内各所に設置した砲台の中で薩摩本営に最も近い天保山砲台 (Battery Point) へ追討令の急使として[[大久保利通|大久保一藏]]が差し向けられ、到着する間もなく[[ユーライアラス (蒸気フリゲート)|旗艦ユーライアラス]]に向けて砲撃が開始された。一方、対岸の桜島側の袴腰砲台(桜島横山)は城下側での発砲を知ると、眼下のイギリス艦「[[パーシュース (蒸気スループ)|パーシュース]]」に対して砲撃を開始した。この砲台の存在を知らなかった「パーシュース」の艦長は、砲台からの命中弾に慌てふためき[[錨]]の切断を下令すると艦はその場より逃走した<ref>『元帥公爵大山巌』pp.129-130</ref><ref name="simazu_doc2"/>。
 
 
 
不意を突かれたキューパー提督(海軍少将)は艦隊の戦列を整えるために、桜島小池沖の艦隊5隻へ「ハボック」一艦のみを残し、薩摩船3隻の焼却命令を信号により発令した<ref>『元帥公爵大山巌』pp.129-130</ref>。イギリス側の乗組員は天佑丸、白鳳丸、青鷹丸から貴重品を略奪すると、砲撃を行った上でこれらの蒸気船3隻に放火し「ハボック」が焼却・沈没を見届けた。
 
 
 
[[File:KagoshimaJapaneseDepiction.jpg|thumb|right|祇園之洲・新波戸砲台の[[絵巻物]]]]
 
その後イギリス艦隊は戦列を整え、旗艦ユーライアラスを先頭に[[単縦陣]]で、第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)に向けて両舷側の[[旋回砲|自在砲]]([[110ポンドアームストロング砲]])を用いて発砲(戦況図参照)。艦隊の107門の砲は21門が最新式の[[40ポンドアームストロング砲|40ポンド]]・110ポンドアームストロング砲であり、これを用いて陸上砲台([[沿岸砲|沿岸防備砲]]・台場)に接近しての砲撃を行った。これに対して薩摩の砲台・台場からの応戦による大砲の発砲は数百発に及び、接近する艦隊に小銃隊も砲撃の合間を縫って狙撃を行った<ref name="simazu_doc2"/>。
 
 
 
イギリス艦隊の第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)への攻撃では、精確な射撃により薩摩側の大砲8門を破壊した。薩摩側は暴雨風の影響による砲台への浸水やイギリス艦隊の砲に比べると備砲の射程距離が短いなど性能も劣っていたが、薩摩砲台に接近する艦隊は午前よりの荒天や機関故障による操艦の誤りなど、薩摩側への有利な戦闘展開となった。薩摩側も敵艦への突撃・追撃用に上荷船の船首に18斤単銅砲や24斤単銅砲を1門備えた11人乗り小型艇数艘(総数12艘)の水軍隊は、辨天波戸より出動し砲撃を試みたが荒天のため船内への浸水などで退却した。
 
 
 
午後3時前、辨天波戸砲台の[[臼砲|29拇臼砲]](ボンベン砲)の弾丸1発が旗艦ユーライアラスの甲板に落下{{refnest|『元帥公爵大山巌』p.132<ref group="注釈">「旗艦の砲門に命中して甲板上に炸裂し、艦橋に在って指揮せる艦長・・・」</ref>}}、軍議室(艦橋)で破裂・爆発、居合わせた艦長・司令 (Captain Josling) や副長 (Commander Wilmot) などの[[士官]]が戦死<ref name="simazu_doc2"/><ref name="1863newspaper"/>。キューパー提督(司令官)は艦長や指揮官などと居合わせたが、その場から撃ち倒されて共に転落するも左腕に傷を負ったのみで助かった{{refnest|『藩海軍史(中巻)』p.636<ref group="注釈">「・・・船将外一人と3人で檣棚に上り、望遠鏡を以て砲台より発射することを認め、急に号令して各船戦闘の準備をなさしめる中、一丸飛来て第二の船将を打たおし棚をも打砕き、余外一人も墜落、その時左腕を傷め今なおかくのごとしと疵所を示せり。」</ref>}}。
 
 
 
午後3時10分、祇園之洲砲台に接近して砲撃中の「レースホース」は、折からの強い波浪や機関故障により吹き流され、砲台手前の200ヤードで座礁・擱坐すると大きく傾き、大砲の発砲が出来なくなり小銃で砲台への攻撃を行った<ref>『元帥公爵大山巌』p.132</ref>{{refnest|『藩海軍史(中巻)』p.498<ref group="注釈">「午後3時10分頃、200碼(ヤード)まで進撃して、遂に砲台前の浅瀬に擱坐し、船体はなはだ傾斜し、大砲を発射することは能はず、・・・或は伝ふ同艦は機械に故障あり、運転の自由を欠きしが、遂に吹き流され座州したるものなりと。」</ref>}}。しかし、既に祇園之洲砲台の大砲の殆どが破壊されており、この砲台からの大砲による応戦は行われなかった。また、薩摩側はイギリス艦の座礁とは想定せず、艦より[[カッターボート|端艇]]が下ろされたことにより、陸戦は必定と上陸に備えて台場の陰で敵の襲来を待ち構えた。
 
 
 
午後4時頃、イギリス艦隊の3隻(コケット、アーガス、ハボック)は僚艦「レースホース」の救出・援護のために祇園之洲砲台に砲撃を加えながら僚艦の離礁を試みた。これに対して新波戸砲台がイギリス艦隊に盛んに砲撃を加え、「アーガス」に3発の命中弾を浴びせたが、「レースホース」は他の僚艦により曳航され、5時半頃には救出され離礁した<ref>『元帥公爵大山巌』p.135</ref>。
 
 
 
午後7時頃、砲撃戦に不参戦の「ハボック」は単独で砲台の無い磯に移動し、停泊中の[[琉球王国|琉球船]]3隻と[[日向国]][[那珂郡 (日向国)|那珂郡]] の[[赤江地域自治区|赤江船]]2隻を襲い焼却する。その後、僚艦「パーシュース」も加わり、砲撃や[[ロケット弾]](火箭)用いて盛んに近代工場群を備えた藩営[[集成館事業|集成館]]の一帯を攻撃してことごとく破壊した。攻撃後、2艦は艦隊の停泊する桜島[[桜島横山町|横山村]]・[[桜島小池町|小池村]]沖に戻った。
 
 
 
午後8時頃、上町方面の城下では先の「パーシュース」のロケット弾などによる[[艦砲射撃]]で火災が迫り、民家(350余戸)、侍屋敷(160余戸)、寺社(浄光明寺、不断光院、興国寺、般若院)などの多くが焼失した<ref>『元帥公爵大山巌』p.136</ref>。
 
 
 
7月3日(8月16日)、前日の戦闘で戦死した旗艦艦長や副長などの11名を錦江湾で[[水葬]]にする<ref>『薩藩海軍史(中巻)』p.538</ref>。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地および島津屋敷を延焼させた(島津屋敷は誤認であり、実際には寺院<ref>『薩藩海軍史(中巻)』p.540</ref>)。また、砲撃により第11台場(赤水台場)および突出台場(天保山砲台)の火薬庫が爆発して、天保山砲台(砂揚場)より反撃があったが、その後台場よりの反撃は収まり、沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、[[谷山市|谷山]]沖に停泊し艦の修復を行う。
 
この時、薩摩方により沖小島と桜島(燃崎)の間付近に、集成館で[[島津斉彬]]公の時代に製造した電気点火装置の水中爆弾3基(地上より遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、沖小島台場の砲撃によりイギリス艦隊は進路を変更したため近寄らず失敗した。
 
 
 
7月4日(8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料の消耗や多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦(レースホース<ref name="casualties1"/>)は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、[[南大隅町|小根占]]の洋上に停泊して修理を行っていたが、この艦を7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航して行った<ref name="simazu_doc2"/>。
 
 
 
7月11日(8月24日)、全艦隊が横浜に帰着。
 
 
 
=== 戦闘の結果 ===
 
薩摩側の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡)に及んだ。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)<ref name="simazu_doc2"/>のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した<ref>『元帥公爵大山巌』pp.136-137</ref>。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した<ref>『元帥公爵大山巌』p.138</ref>。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、[[琉球王国|琉球船]]3隻、[[那珂郡 (日向国)|赤江船]]2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。
 
 
 
朝廷は島津家の攘夷実行を称えて褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。
 
 
 
当時、世界最強を謳われたイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時の[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」と評している<ref>The Progress of the Japanese War. October 4, 1863., New York Times.</ref>。
 
 
 
本国の[[イギリス議会]]や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。
 
 
 
=== イギリス艦艇一覧 ===
 
1863年8月15日、鹿児島攻撃時の戦闘隊列でのイギリス艦隊を一覧で表す。死傷者の無かったハボック (Havock) は砲撃戦に参加せず、[[琉球王国|琉球船]] (Loochoo I. Junks) 3隻と[[赤江地域自治区|赤江船]]2隻を襲う。
 
 
 
{| class="wikitable" style="width:100%"
 
|-
 
! 艦名 !! 艦種 !! 建造年 !! トン数 !! 乗員<br>{{refnest|name="crewmen1"|『藩海軍史(中巻)』pp.362-363<ref group="注釈">文久3年6月22日(1863年8月6日)出帆時とされる乗組員数を上段に引用(上段:総数1418人、下段との誤差89人)。</ref>}} !! 出力 !! 備砲 !! 損害<br><ref name="1863newspaper">アジア歴史資料センター、鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・全(画像資料:[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2007071715432250213& Ref.A07060050900] pp26-34)</ref>{{refnest|name="casualties1"|『元帥公爵大山巌』p.136<ref group="注釈">「この日の戦、旗艦「ユリアラス」号に於いては、艦長、副艦長を始め即死10人、傷者21人(内死亡士官2人)合計死傷31人を出し、「パール」号にては傷者7人(内死亡士官1人)、「パーシュース」号にては即死1人、傷者9人(内重傷到死4人)、合計死傷10人、「アーガス」号にては傷者6人、「レースホース」号にては傷者3人、「コケット」号にては即死2人、傷者4人を出し、合計即死者13人、傷者50人(内7人死亡)総合計死傷63人を算すると共に最小艦「ハボック」を除く外、他の6艦悉くその艦體に大破小破を蒙り、中にも擱坐したる「レースホース」号は独自の航行力を失った。」</ref>}}
 
|-
 
| [[ユーライアラス (蒸気フリゲート)|ユーライアス]]<br>Euryalus || [[フリゲート]]<br>蒸気スクリュー || 1853年<br>(改造) || 積載量2371トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量3125英トン || 600<br><ref name="crewmen1"/><br>540 || 400NHP || [[110ポンドアームストロング砲]]x5<br>[[40ポンドアームストロング砲]]x8<br>その他22門<br>鹿児島砲撃時に[[カロネード砲]]x16を追加 || 戦死10名<br>負傷21名
 
|-
 
| [[パール (蒸気コルベット)|パール]]<br>Pearl || [[コルベット]]<br>蒸気スクリュー || 1855年 || 積載量1469トン(bmトン)<br>排水量2187英トン || 245<br><ref name="crewmen1"/><br>400 || 400NHP || 68ポンド砲x1<br>10インチ砲x20 || 負傷7名
 
|-
 
| コケット<br>Coquette || [[砲艦]]<br>蒸気スクリュー || 1855年 || 積載量677トン(bmトン) || 78<br><ref name="crewmen1"/><br>90 || 200NHP || 110ポンドアームストロング砲x1<br>10インチ砲x1<br>32ポンド砲x1<br>20ポンド砲x2 || 戦死2名<br>負傷4名
 
|-
 
| アーガス<br>Argus || [[スループ#戦闘用のスループ|スループ]]<br>蒸気外輪 || 1852年 || 積載量981トン(bmトン)<br>排水量1630英トン || 170<br><ref name="crewmen1"/><br>175 || 300NHP || 110ポンドアームストロング砲x1<br>10インチ砲x1<br>32ポンド砲x4 || 負傷6名
 
|-
 
| [[パーシュース (蒸気スループ)|パーシュース]]<br>Perseus || スループ<br>蒸気スクリュー || 1861年 || 積載量955トン(bmトン)<br>排水量1365英トン || 172<br><ref name="crewmen1"/><br>175 || 200NHP || 40ポンドアームストロング砲x5<br>32ポンド砲x12 || 戦死1名<br>負傷9名<br>内死亡4人
 
|-
 
| レースホース<br>Racehorse || 砲艦<br>蒸気スクリュー || 1860年 || 積載量695トン(bmトン)<br>排水量877英トン || 103<br><ref name="crewmen1"/><br>90 || 200NHP || 110ポンドアームストロング砲x1<br>10インチ砲x1<br>32ポンド砲x1<br>20ポンド砲x2 || 艦体大破<br/> 負傷3名
 
|-
 
| ハボック<br>Havock || ガンボート<br>蒸気スクリュー || 1856年 || 積載量232トン(bmトン) || 50<br><ref name="crewmen1"/><br>37 || 60NHP || 68ポンド砲x2 || なし
 
|}
 
 
 
== 戦争の処理 ==
 
[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]([[11月11日]]) - 第1回和睦の談判、横浜の[[在外公館|英国公使館]]の応接室にて島津家の[[重野安繹|重野厚之丞]](安繹)が主導、補佐として同[[岩下方平|岩下左次右衛門]]、[[佐土原藩|佐土原島津家の]][[家老]]の[[樺山久舒]](舎人)、能勢二郎左衛門(直陳)などが同席。代理公使[[ジョン・ニール|ニール]]大佐との談判では、薩摩側はイギリス艦の薩摩汽船を掠奪した件を追求し、イギリス側は[[生麦事件]]を挙げて紛糾・決裂したが、幕府側の仲裁で次回談判を取り決めた。重野らと同行した[[高崎五六|高崎猪太郎]]は一橋卿の内命にて京都に居たため同席せず。
 
 
 
[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[11月14日]]) - 第2回和睦の談判、島津家の岩下、重野は、前回と同じくイギリス側の非を責めるが、ニール公使も同様に全く自説を変える様子も無く談判は紛糾・決裂し、次回談判となる。
 
 
 
[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]([[11月15日]]) - 第3回和睦の談判、本家を憂慮する和睦派の佐土原島津家の樺山、能勢らは幕府側の説得を受け入れて薩摩側への和睦を促し、重野らはイギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すべしと議を決した。イギリス側は軍艦購入の斡旋を承諾。
 
 
 
島津家は2万5000ポンドに相当する6万300[[両]]を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されず。
 
 
 
イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使[[ハリー・パークス]]が薩摩を訪問しており、通訳官[[アーネスト・サトウ]]は多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。
 
 
 
== 備考 ==
 
=== 交渉までの経緯 ===
 
生麦事件発生以前にも2度にわたる[[駐日英国大使館|イギリス公使館]]襲撃([[東禅寺事件]])などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生に[[初代ラッセル伯ジョン・ラッセル|ジョン・ラッセル]]外相(後の[[イギリス首相|首相]])は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた[[東洋艦隊 (イギリス)|東インド・極東艦隊]]司令官の[[ジェームズ・ホープ]]中将に対して対抗措置を指示していた。実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には[[関門海峡]]・[[大坂湾]]・[[江戸湾]]などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。当時、日本には砲台は存在していたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸家にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。
 
 
 
実際に文久2年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1863年[[1月9日]])に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]臨席で開かれた[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[3月22日]])、幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償問題(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。
 
 
 
江戸幕府は、[[フランス]]公使[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール|デュシェーヌ・ド・ベルクール]]に英国との仲介を依頼し、文久3年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]([[6月24日]])にニールと江戸幕府代表の[[小笠原長行]]との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは、日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である島津家との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。
 
 
 
なお、ホープは海上封鎖を行っても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都・大坂・江戸を占領する計画をも検討していたが、仮に占領可能であったとしても[[天皇]]や[[征夷大将軍|将軍]]が山岳部に逃げ込んで[[ゲリラ戦]]に持ち込まれた場合は不利であると結論しており、事実上断念している。また、当時の英国に十分な数の陸兵を日本に派遣する余裕はなかった。実際ニールは横浜防衛のために2000人の陸兵派遣要請をしたが、それすらも拒否されている。
 
 
 
=== その他、諸説など ===
 
<!--
 
==== 五代友厚の活動 ====
 
[[File:Godai_Tomoatsu.gif|thumb|五代友厚]]
 
[[鹿児島]]へのイギリス艦隊派遣を[[長崎]]で知った[[五代友厚]]は、イギリス艦隊の燃料補給は長崎で行われると推測し、捨て身の覚悟での[[ジョン・ニール|イギリス代理公使ニール大佐]]との直接談判を画策していたが、艦隊は石炭補給を長崎で行わず、鹿児島に直接回航したため、五代は馬を駆って鹿児島に戻ったが既に藩は開戦を覚悟しており、代理公使との直接談判には失敗した。しかし、艦隊による薩摩汽船の掠奪の際には、決死の覚悟で薩摩汽船に火を掛けようとしたが[[寺島宗則|松本弘安]]に諫められ、下船せずに松木と共にイギリス側に投網で捕らえられ捕虜となった。また、捕らえられた五代は懐剣で[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|艦隊司令官キューパー提督]]と刺し違える覚悟であったが、身体検査で短剣が見つかり目的は果たせなかった。代理公使ニールと艦隊司令官キューパーの尋問に対しては、「古来日本の士風は死を見ることなお帰するが如きものがある。ことにわが薩藩は武をもってなり、いわんや今回は国家の大事にのぞみ、陸上十万の精鋭は一人として生を欲するものがいない。しかも陸戦はそのもっとも得意とする所であるから、貴国水兵の陸戦隊の上陸を決死奮戦の意気込みでまちかまえている」と答えたとされる<ref>『五代友厚伝 第3章薩英戦争』pp.26-35</ref>。-->
 
 
 
==== アームストロング砲 ====
 
当時の最新鋭兵器として期待されていた[[アームストロング砲]]は、この戦闘で暴発や不発([[不発弾]])が多い事が実戦で判明したため、イギリス海軍から全ての注文をキャンセルされた。さらに輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる<ref>『日本の戦艦』p144~p147、「1863年、薩英戦争における新式アームストロング砲の大事故」</ref>。
 
 
 
なお、当時の事件を伝える新聞(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳)では<ref name="1863newspaper"/>、イギリス艦隊側の負傷者氏名と傷の詳細や戦闘の様子が掲載され、その戦死者の負傷状況などからも[[榴弾|破裂弾]]の着弾爆発による被害を物語っているなど、この新聞記事(従軍記者の記述)ではアームストロング砲の暴発については一切触れられていない。また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり<ref name="1863newspaper"/>、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる<ref group="注釈">暴発での負傷の程度を示すものとして、当時、戦闘に参加したイギリス士官の暴発についての逸話が残っており、[[40ポンドアームストロング砲#海軍での運用]]、[[110ポンドアームストロング砲#実戦]]の各記事引用で、暴発での負傷者が殆ど無かったことへの言及もある。</ref>。
 
 
 
アームストロング砲暴発の拡大解釈を招く事象として、薩摩側の10インチ砲弾によりユーライアラスの甲板に備えた第3番砲が直撃弾を受けており、その砲員らが一度に死傷している{{refnest|『薩藩海軍史(中巻)』p.497<ref group="注釈">「また我が砲台より発射したる一弾は第三番砲側に破裂し、そばに居合わせたる士官ならびに砲員の全部を死傷せしめ、その無事なる者はただ一人のみなりき。」</ref>}}{{refnest|『藩海軍史(中巻)』pp.534-538<ref group="注釈">「<71横浜英字新聞> 十インチの榴弾、我が甲板上に備えたる三番砲の傍らにて破裂し、其の処にある者七人死し、「リューテナント、セフリン」並びに外五人創を被れり。」</ref>}}。
 
 
 
==== 異説 ====
 
* 薩摩藩は処罰の対象を[[藩主]]だと認識していたため交渉は決裂したが、英国側の資料によれば、処罰を求めていたのは事件の現場にいた責任者である。(文翻訳を担当した[[福澤諭吉]]が急いで原文を直訳した結果、事件の責任者と藩主の区別があいまいになったため)<ref>NHK総合『その時歴史が動いた』2006年6月21日放送分『幻の大艦隊 〜イギリスから見た薩英戦争〜』</ref>
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist|2}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[アジア歴史資料センター]][http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2007071715432250213& Ref.A07060050900]([[国立公文書館]])、[[鹿児島]]戦争之英文新聞紙翻訳・全、1863年8月26日(文久3年7月13日)
 
*編者:大山[[元帥]]傳編纂委員会(代表[[尾野実信|尾野實信]])、『元帥[[公爵]][[大山巌]]』(大山元帥傳刊行会[[1935年]]3月10日)。
 
*編者:公爵[[島津家]]編纂所『薩藩海軍史(中巻)』(原書房、[[1968年]])。 ISBN 4-562-00164-X
 
*[[宮本又次]]著『[[五代友厚]]伝』(有斐閣、1981年1月10日)。
 
*[[石井孝]]著『明治維新と自由民権』(有隣堂、[[1993年]]) ISBN 4-89660-115-7
 
*編者:日本史籍協会『[[島津久光]]公實記(二)』(財団法人 東京大学出版会、[[1997年]])。ISBN-10: 4130978888
 
*鵜飼政志著[http://www.h-web.org/mrugai/private/1999a.html 『幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー』] 明治維新史学会編『明治維新と西洋国際社会』(吉川弘文館、1999年)、P92 - 115
 
*鵜飼政志著[http://www.h-web.org/mrugai/private/1999ba.html 『一八六三年前後におけるイギリス海軍の対日政策』] 学習院史学(学習院大学史学会)第37号、P40 - 58、1999年
 
*[[萩原延壽]]著『旅立ち 遠い崖1 [[アーネスト・サトウ]]日記抄』(朝日新聞社、2007年)。ISBN 978-4022615435
 
*同『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』(朝日新聞社、2007年)。ISBN 978-4022615442
 
*アーネスト・サトウ『一外交官の見た[[明治維新]](上)』(坂田精一訳、[[岩波文庫]]、2014年7月15日)。ISBN 4-00-334251-8
 
*泉江三著『<small>軍艦メカニズム図鑑</small> 日本の戦艦』下(グランプリ出版、2001年) ISBN 4-87687-222-8
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[生麦事件]]
 
*[[ジョン・ニール]]
 
*[[五代友厚]]
 
*[[アーネスト・サトウ]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
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[[Category:薩英戦争|*]]
 
[[Category:薩英戦争|*]]

2018/12/24/ (月) 18:14時点における版

薩英戦争(さつえいせんそう、文久3年旧暦7月2日4日1863年8月15日17日))

幕末,薩摩藩とイギリス艦隊との間にかわされた戦闘。文久2 (1862) 年8月の生麦事件に際し,イギリス代理公使 E.ニールは,幕府に対して事件の責任者処罰および 10万ポンドの賠償を請求したが,統治力の衰退した幕府は,賠償金を支払ったのみで犯人の引渡しを拒否する薩摩藩を従わせることができず,事件の解決は引延ばされた。そこでニールは,みずからの力で事態を解決しようとはかり,同3年6月 28日7隻の艦隊を率いて薩摩藩に迫った。これに対して薩摩藩が回答しなかったため,7月2日イギリス艦隊は鹿児島に砲撃を加え,ここに薩英戦争が始った。ちょうど台風襲来で,鹿児島城下は砲火を浴びて火の海と化し,イギリス側も暴風による損害や,武器,食糧の不足で勝敗不明のまま退去した。この戦争の結果,薩摩藩側は,外国の軍事力の強さを認識して攘夷の不可能を自覚し,イギリスと交渉を行い事件を解決した。またこの際,幕府の貿易独占を非難して薩摩藩も外国貿易を行う用意のあることを告げて,イギリスとの間に親善関係を樹立することに努め,以後,薩摩とイギリスとは急速に接近することとなった。



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