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{{Infobox 力士
 
|名前 = 若乃花幹士 (初代)
 
|画像 = [[File:Wakanohana I 1961 Scan10003.JPG|250px]]
 
|説明 = 若乃花(1961年)
 
|四股名 = 若ノ花 義美 → 若ノ花 勝治 → 若乃花 勝治 → 若乃花 幹士
 
|本名 = 花田 勝治
 
|愛称 = オオカミ、土俵の鬼<ref name="nishonoo22"/>
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1928|3|16|死去}}
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1928|3|16|2010|9|1}}
 
|出身 = {{JPN}}・[[青森県]][[弘前市]]青女子
 
|身長 = 179cm
 
|体重 = 107kg
 
|BMI = 33.40
 
|所属部屋 = [[二所ノ関部屋 (1911-2013)|二所ノ関部屋]]→[[芝田山部屋]]→[[花籠部屋]]
 
|得意技 = 左四つ、上手投げ、呼び戻し
 
|現在の番付 = 引退
 
|最高位 = 第45代[[横綱]]
 
|生涯戦歴 = 593勝253敗70休4分(65場所)
 
|幕内戦歴 = 546勝235敗4分55休(57場所)
 
|優勝 = 幕内最高優勝10回<br>三段目優勝1回<br>序二段優勝1回
 
|賞 = [[殊勲賞]]2回<br>[[敢闘賞]]2回<br>[[技能賞]]1回
 
|初土俵 = [[1946年]]11月場所<ref name="nishonoo22"/>
 
|入幕 = [[1950年]]1月場所<ref name="nishonoo22"/>
 
|引退 = [[1962年]]5月場所<ref name="nishonoo22"/>
 
|引退後 = [[貴乃花部屋|二子山部屋]]師匠<br>[[日本相撲協会]]第6代理事長
 
|他の活動 =
 
|趣味 = 映画<ref name="osu">ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』21ページから22ページ</ref>
 
|備考 = [[金星 (相撲)|金星]]6個([[羽黒山政司|羽黒山]]2個、[[東富士欽壹|東富士]]2個、[[千代の山雅信|千代の山]]2個)
 
|作成日時 = [[2014年]][[3月22日]]
 
}}
 
初代 '''若乃花 幹士'''(わかのはな かんじ)本名:'''花田 勝治'''(はなだ かつじ)、[[1928年]](昭和3年)[[3月16日]] - [[2010年]](平成22年)[[9月1日]])は、[[青森県]][[弘前市]]青女子(あおなご)出身で、入門当時は[[二所ノ関部屋 (1911-2013)|二所ノ関部屋]]([[1953年]]に[[花籠部屋]]の独立とともに移籍)に所属した[[大相撲]][[力士]]、第45代[[横綱]]。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。'''土俵の鬼'''と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。<ref>[http://www.e-shiki.jp/page.yokozuna.htm 歴代横綱一覧]</ref>(歴代史上最軽量は[[栃木山守也|栃木山]]の103kg)<ref name="nishonoo22">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p22</ref>
 
  
引退後[[貴乃花部屋|二子山部屋]]を創設し、弟である[[大関]]・[[貴ノ花利彰|初代貴ノ花]](のち[[藤島 (相撲)|藤島]]→[[二子山 (相撲)|二子山]])、横綱・[[若乃花幹士 (2代)|2代若乃花]](のち[[間垣]])、横綱・[[隆の里俊英|隆の里]](のち[[鳴戸]])、大関・[[若嶋津六夫|若嶋津]](のち[[松ヶ根]]→[[二所ノ関]])らを育て、[[日本相撲協会]]の理事長もつとめた<ref name="nishonoo22"/>。
+
初代 '''若乃花 幹士'''(わかのはな かんじ)本名:'''花田 勝治'''(はなだ かつじ)、[[1928年]](昭和3年)[[3月16日]] - [[2010年]](平成22年)[[9月1日]])
 
 
第65代横綱・[[貴乃花光司|貴乃花]]([[一代年寄]]・貴乃花親方)と第66代横綱・[[花田虎上|3代若乃花]](のち藤島、現[[実業家]]・[[タレント]]の花田虎上)の二人は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が[[藤島部屋 (1982-1993)|藤島部屋]]に入門し、1989年3月初土俵。若剛志の四股名で[[幕下]]まで昇進した([[1997年]]1月に引退)<ref>韓国名・朴祐賛。1972年7月誕生、韓国・ソウル生まれ。1985年12月に養子縁組を行い13歳で日本へ移住。引退後の2002年5月に父・初代若乃花から認知してもらい、花田河成を名乗ると同時に帰化。その後、起業して日韓を往来している。自著『花田家の隠し子―アボジと呼ばせて』(主婦と生活社)では、移住してから民族差別を受けたことで素行が荒れた結果として高校進学が困難になったため藤島部屋に身を寄せ、大相撲時代には従兄にあたる[[花田虎上|3代若乃花]]の付き人を務めていたことが語られている。暴露の内容としては嫡外子、そして韓国人としての境遇を強いた父・初代若乃花への恨みがつづられており、自身が引退したと同時に初代若乃花が若剛志の母への仕送りを打ち切ったことが認知を求める動機であったとも明かされている。他に、3代若が遺産を相続放棄した背景には初代若が入れ知恵をしたという説も唱えている。叔父であり師匠でもあった[[貴ノ花利彰|藤島]]や当時女将を務めていた[[藤田紀子]]への恩義も語られている。</ref>。 
 
 
 
== 略歴 ==
 
=== 誕生から横綱昇進まで ===
 
青森の[[リンゴ]]園[[農家]]に、10人兄弟の長男(上に姉が1人いた)として生まれた。しかし、[[1934年]]の[[室戸台風]]のため作物が全滅、一家は破産状態で北海道[[室蘭市|室蘭]]に移住した<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)57ページから59ページ</ref>。[[沖仲仕]]などの力仕事を行い、戦争で傷痍軍人になった父に代わって家計を支えていた。普通の男が70~110kgの鉄鉱石や石炭を担ぐところを国民学校を卒業したばかりの花田は既に150kgもかついで何度も往復し、ついに仕事で担ぐ荷物の重さが200kgに達するなど後に相撲で発揮する身体能力の片鱗を見せていた。大人の倍は稼いだ一方で、鉱石の入っているタンクに落ちて「死んで行くのはこういう気持ちか」と思うこともあり、3000ボルトの電圧に触れて頭をハンマーで殴られたように吹っ飛ばされたこともあるなど、入門前から何度も生死の境をさまよう経験をしていた<ref name="ref49">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO13865860R00C10A9000000/ 荷役で鍛えた下半身 土俵の鬼、「栃若時代」築く 元横綱初代若乃花が死去(1/2ページ)] 日本経済新聞 2010/9/1 22:05</ref>。
 
 
 
[[1946年]]、[[大関]][[佐賀ノ花勝巳|佐賀ノ花]]ら[[二所ノ関一門]]の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、本職の力士を数名倒してみせた。当時の花田は上背はあったものの体重は70kgぐらいと推定され、本職の力士を倒したとはいえ自分よりはるかに体格の良い人間にはかなわず、そのころの花田を草相撲で倒した経験のある人物の中には、[[復員]]してきたばかりでのちに[[JRA顕彰馬]][[マルゼンスキー]]を生産し、元[[スピードスケート]]選手・[[参議院議員]]の[[橋本聖子]]の実父でもある橋本善吉もいた<ref>「私が軍隊から戻って一番元気なときだよ。若乃花は上背はあったがせいぜい70キロ台、こっちら22~23歳で100キロ近くあって鍛えに鍛えていたからね。17~18歳の細っこいアンちゃんじゃ勝てっこないよ」(横尾一彦「マルゼンスキー(1) やっぱりダービーを走らせたかった」『優駿』1994年8月号、日本中央競馬会、1994年、p.77)</ref>。
 
 
 
とはいえ、本職の力士を倒したことが[[大ノ海久光|大ノ海]](のちの師匠・[[花籠]])の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って上京し、杉並の[[真盛寺]]に間借りしていた[[二所ノ関部屋]]に大ノ海の内弟子として入門した。条件は「3年で[[関取]]になれなければ帰る」というものだったという。「若ノ花」の[[四股名]]は大ノ海の若い時の名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花・若乃花は全部で何人か」という問題が取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方が一般的ではあるが、自身は「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。
 
 
 
入門後は「二所一門の荒稽古」によって力を付けた。当時の部屋の幕内には、神風、力道山、佐賀ノ花、琴錦など分家独立を念頭に置いて内弟子を厳しく鍛えていた者が多く、稽古は本場所さながらの様子を呈していた<ref name="100retsu"/>。入門直後に開催された[[双葉山定次|双葉山]]の引退相撲を3階から見学すると、上から見た世紀の大横綱が意外に小さく見えて、小さい身体の自分でも努力すればやれるのではと奮起した
 
<ref>日本経済新聞1988年(昭和63年)2月7日「私の履歴書」</ref>。
 
最も彼をしごいたのは後に[[プロレス]]入りする[[力道山]]で、これは成績不振に陥った場所後に景気付けに兄弟子の琴ヶ濱と[[蕎麦]]を食べに行こうとしたところを力道山に見付かり、夜逃げと勘違いされて目を付けられたからであるという<ref>ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ</ref>。ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺されると力道山の脛にかみ付き<ref name="100retsu"/>、[[廻し]]姿のまま部屋から脱走して近くの[[隅田川]]に飛び込んだという逸話がある。一説には、のちの[[プロレスラー]]力道山のトレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためだったともいう<ref name="nishonoo6970">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p69-70</ref>。本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。
 
 
 
後に大関となる[[琴ヶ濱貞雄|琴ヶ濱]]との稽古も凄まじいものだったという。当時は[[高砂部屋|高砂]]と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かったので、[[東富士欽壹|東富士]]にも可愛がられた。[[鏡里喜代治|鏡里]]もまた若ノ花によく稽古をつけていた。
 
 
 
[[1946年]]11月場所の[[初土俵]]から各段優勝に近い成績で、[[1949年]]5月場所に家族と約束した3年より約半年早く[[十両]]に昇進、[[二所ノ関一門]]の創始者である大師匠・[[玉錦三右エ門|玉錦]]の明け荷が贈られた<ref>日本経済新聞1988年(昭和63年)2月7日「私の履歴書」</ref>
 
。この間、初めて番付に載った[[1947年]]5月場所で一度だけ負け越したが(2勝3敗)、その後は幕内上位に進出するまで負け越すことはなかった。
 
 
 
大兵相手にもがっぷり四つで対抗する力士であった<ref name="nishonoo22"/>。下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉の付き方は見事であり、これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い「[[呼び戻し]]」<ref name="nishonoo22"/>を実際に食った体験者である[[鳴門海一行|鳴門海]]などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。俵に足がかかってもそれ以上は後ろに下がらない足腰を指して「かかとに目がある」と評されたこともある<ref name="osu"/>。
 
 
 
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。一説に力道山の脛に咬み付いた際の様子がオオカミのようだったからとも言う。後に「ウルフ」のあだ名を持つ[[千代の富士貢|千代の富士]]が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。角界には“動物のあだ名が付くと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝えを証明するかのように[[番付]]を上げていった。
 
 
 
[[1953年]]、師匠の大ノ海が引退と共に二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は[[芝田山部屋]])を創設するとそれに従うが、当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。巡業も引き受け先が見付からず、「日本一の貧乏部屋」と言われながら辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。
 
 
 
[[1955年]]9月場所、西[[関脇]]で10勝4敗1分。この1[[引分 (相撲)|引分]]は横綱[[千代の山雅信|千代の山]]と[[水入り]][[取り直し]]の計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。この相撲を評価され、場所後に関脇[[松登晟郎|松登]]と共に[[大関]]に昇進する<ref name="osu"/>。昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29に等しいが)なので、現在の目安で言えば甘い昇進だったことになる。当人も大関になれるとは思いもよらず、番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを、新聞記者<ref>当時[[TBS]]の大相撲担当アナウンサー・[[小坂秀二]]の著書「栃若時代」によれば、この時若乃花宅の玄関先で偶然、旅装の一家に出くわし、出発を止めたのは小坂自身である。</ref>に呼び止められたという逸話が残る。慌てて伝達式に駆けつけたことと当時[[昇進伝達式]]の口上が定型化していなかったことが重なって大関昇進伝達式では「ありがたくお受けします」とのみ発して推挙状を受けたという<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/12/01/kiji/K20111201002145860.html 昭和の大関昇進口上は短め…輪島は“ド忘れ” ] Sponichi Annex  2011年12月1日 06:00</ref>。1955年11月には父が死去し、母に懇願されて室蘭の家族を引き取った。こうして室蘭の家族6人と自身の家族4人、合わせて10人の生活が新大関となった自身の肩にのしかかった<ref name="100retsu"/>。しかし、新大関の[[1956年]]1月場所は他の2大関が負け越す中、優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝2敗、大関推挙が失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続[[負け越し]]で大関を陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星を付けたのは若乃花である)。
 
 
 
翌3月場所場所も12勝3敗で[[優勝決定戦_(相撲)|優勝決定戦]]に出場。他の出場者は関脇[[朝潮太郎_(3代)|朝汐]]と東前頭15枚目[[若羽黒朋明|若羽黒]]で、これは昭和生まれで最初の幕内優勝を争う決定戦ともなった<ref>昭和生まれの決定戦出場は同年1月場所での[[鶴ヶ嶺昭男|鶴ヶ嶺]]が第1号。横綱[[鏡里喜代治|鏡里]]に破れ優勝同点。</ref>。若ノ花は若羽黒には勝ったが朝汐に破れ、朝汐がそのまま若羽黒にも連勝して優勝を決めた。次の5月場所も12勝3敗で前頭9枚目・[[大晃定行|大晃]]とのこれも昭和生まれ同士となる決定戦を制して初優勝。朝汐に遅れること一場所で二人目の昭和生まれの幕内優勝力士になった。両国を離れて山の手に優勝旗が運ばれたのは初めてのことで、[[青梅街道]]には数十万の見学者が集まったことで都電はストップ、 若乃花を乗せたオープンカーは、新宿西口から阿佐ヶ谷の花籠部屋まで3時間かかるほどの大騒ぎとなった<ref>日本経済新聞1988年(昭和63年)2月17日「私の履歴書」</ref><ref>杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11</ref>。
 
 
 
[[画像:Wakanohana monogatari dohyou no oni poster.jpg|200px|right|thumb|映画『若ノ花物語・土俵の鬼』(1956年)に出演した若乃花(上)]]
 
翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男が[[ちゃんこ鍋]]をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる<ref name="100retsu"/>。稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した[[数珠]]をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目[[出羽錦忠雄|出羽錦]]をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、[[扁桃]]腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、千秋楽には出場の意欲を見せ横綱[[栃錦清隆|栃錦]]と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗<ref>実弟貴ノ花、甥の貴乃花も1場所2度の不戦敗を記録したことがある。</ref>)に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。翌[[1957年]]には[[日活]]が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。先輩横綱の羽黒山は「若ノ花が立ち直れたのは全盛期の頂点にあったからこそであり、これがもし下り坂での出来事ならガタガタと落ちていった」という趣旨のコメントを残している<ref name="meiretsu53"> ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p53</ref>。
 
 
 
同年9月場所より「若乃花」に改名。画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。
 
 
 
1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点で、翌[[1958年]]1月場所は13勝2敗で2回目の優勝を果たし、場所後45代横綱に推挙される。ちょうど昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した[[横綱審議委員会]]の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。[[昭和]]生まれで最初、かつ戦後に初土俵を踏んだ最初の横綱である<ref>のちに甥である3代若乃花が昭和に初土俵を踏んだ最後の横綱となる。</ref>。
 
 
 
横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はないため、自分が養うべき家族のことを考えて、推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという(大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、それは横綱には許されず、横綱が負け越せば引退のみである)<ref name="100retsu"/>。
 
 
 
若乃花は横綱推挙を受けることにしたが、問題があった。横綱は自分専用の三ツ揃え[[廻し#化粧廻し|化粧廻し]]が新調されるまでは[[一門 (相撲)|一門]]の先輩横綱から借りるのが通例だが、[[二所ノ関一門]]からは[[玉錦三右エ門|玉錦]]以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦の三つ揃いの化粧廻しは戦時中の[[空襲]]で焼けてしまって使用不能であるばかりか、困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。横綱昇進に際してどうしたら良いか判らずにいた若乃花を助けたのは、理事長の[[双葉山定次|時津風]]<ref>厳密には時津風の命を受けて[[木村庄之助 (21代)|12代立田川]]が指導を行った形である。角界の伝統により、一門に横綱土俵入りを指導する協会在籍の横綱経験者がいないために一門の行司が横綱土俵入りを指導する場合もある。</ref>とその弟子鏡里だった。事情を知った時津風は自ら土俵入りの指導を引き受けてくれたばかりか、戦災で唯一焼けずに完全な形で残っていた自身の三ツ揃えの化粧廻しを貸し出すという計らいをしてくれた<ref>この時の横綱土俵入りの指導が、後に [[若乃花幹士 (2代)|2代若乃花]]→[[貴乃花光司|貴乃花]]と二所ノ関一門内を伝わり、さらに[[2014年]]3月場所後の[[鶴竜力三郎|鶴竜]]に伝えられたことで、元の時津風一門に還元された。鶴竜の際も一門内では柏戸以来45年ぶりの横綱誕生だったため、指導する先輩横綱がおらず、貴乃花が引き受けることになったためである。</ref>。
 
 
 
=== 栃・若時代 ===
 
{{See also|栃錦清隆#横綱昇進と「栃若時代」}}
 
栃錦と若乃花の両者共に入門当初は親方衆から「十両から、せいぜい小結まで」と予想されるなど出世に対する期待は凡百のものであった。<ref name="nhk">[http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/147198.html 視点・論点「大鵬の時代」]NHK解説委員会 2013年02月06日(水)東京工業大学名誉教授・[[芳賀綏]]の記述</ref>のちの[[柏戸剛|柏]][[大鵬幸喜|鵬]]や[[曙太郎|曙]][[貴乃花光司|貴]]が入幕前から注目を集めたのに対して、栃若戦が角界を背負ってたつ看板カードになると予想した者は少なかった。[[1950年]]9月場所では栃錦が東前頭3枚目、若乃花が東4枚目と番付で並びながら取組が組まれなかった。それでも、[[1951年]]5月場所の初対決がいきなりの大勝負、次の対戦も水入りの末二番後取り直しと、栃錦との取組は常に大熱戦であった。技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了し、当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいものであった。北の富士によると、栃若の取り組みを見たいがために30万円(2016年時点の貨幣価値で200万円に相当)でダフ屋からチケットを買った人がいるほどである<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P185</ref>。
 
 
 
初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、常に惜しいところで栃錦のために星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。大関昇進、初優勝とも栃錦の休場で対戦のなかった場所で、優勝や昇進のかかる相撲で若乃花がはじめて栃錦に勝ったのは、横綱昇進を決めた[[1958年]]1月場所でのことだった。お互いに横綱となってからも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に年6場所となった1958年以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高くこれを上回るものはまだない(朝潮、[[大内山平吉|大内山]]など強くて個性的な力士が多数居た事も含めて)と考える人も多い。
 
 
 
1958年7月場所千秋楽は栃錦と相星対決を行ったが、1909年6月場所の優勝額制度開始以降、横綱同士の千秋楽相星対決は史上初<ref name="toshiwakahatsuno">『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p44-46</ref>。この一番は、立合いサッと左四つ、栃錦が先に右上手を取ってそのままがっぷり四つ。栃錦が吊り身に攻めたものの、若乃花は難なく残すと体を開き、左下手からひねりながらの強烈な右上手で若乃花の勝利<ref name="toshiwakahatsuno"/>。
 
 
 
[[1959年]]5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。これは史上初めてのケースだった。
 
 
 
[[1960年]]3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を[[寄り切り]]で制して、初の全勝優勝を達成。当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」と言われた。この決戦の前夜、若乃花は緊張と不安でどうしても落ち着かず、少しでも気分をまぎらわそうと映画館へ向かった。中に入ると、やけに大きな体をした人物が前の席に座っている、頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。これを見て、栃錦も自分と同じように不安な気持ちなのだと知った若乃花は、すっかり緊張が解けて気分が楽になり、翌日は落ち着いた気持ちで決戦に臨むことができ、見事に勝利をつかむことができたという。<ref>参考資料  [[相撲 (雑誌)|『相撲』]]2012年3月号83頁</ref>後日談として、この時の映画は、若乃花は「[[西部劇]]だった」と言い、栃錦は「[[ドイツ]]の[[恋愛映画]]だった」と、証言が食い違っている。一説には[[ジョン・ウェイン]]の「[[アラモ (1960年の映画)|アラモ]]」だったのではないか<ref>参考資料 『[[KINENOTE]]』のその項その他により、「アラモ」の日本封切り年月日は1960年12月24日であるため、明らかにこれは誤りである。</ref>とされている。栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24。直接の対戦でも若乃花の15勝19敗だが、うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗であり、若乃花にはほかに[[優勝決定戦 (相撲)|決定戦]]での1勝があって、これらを踏まえると実質16勝18敗とほぼ互角だった。大関昇進までは11勝4敗の成績が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、横綱時代には.794と地位が上がるにつれて強みを増していった。
 
 
 
しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]の存在である。1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があった。1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、(結果的に)[[全6場所制覇]]をなしとげるところだったが、敗れてしまう。1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝は阻まれた。1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったからであるし、1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。このように影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立っていたと見ることもできる。
 
 
 
==== 栃若 全対戦一覧 ====
 
栃若両雄の対戦は、1951年5月場所~1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦1不戦勝含む)し、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(うち、相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は、水入りになることが多かった。
 
<br/>
 
'''千秋楽'''(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
 
 
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!場所              !!対戦日!!栃錦勝敗<br/>(通算成績)        !!若乃花勝敗<br/>(通算成績)      !!優勝力士!!備考
 
|-
 
|1951年5月場所||8日目||●(0)||○(1)||千代の山||初対戦
 
|-
 
|1951年9月場所||12日目||○(1)||●(1)||東富士||
 
|-
 
|1952年1月場所||12日目||●(1)||○(2)||羽黒山||
 
|-
 
|1952年5月場所||6日目||○(2)||●(2)||東富士||
 
|-
 
|1952年9月場所||-||-||-||'''栃錦(1)'''||対戦なし。
 
|-
 
|1953年1月場所||初日||○(3)||●(2)||鏡里||栃錦新大関
 
|-
 
|1953年3月場所||7日目||○(4)||●(2)||'''栃錦(2)'''||
 
|-
 
|1953年5月場所||4日目||○(5)||●(2)||時津山||
 
|-
 
|1953年9月場所||3日目||●(5)||○(3)||東富士||
 
|-
 
|1954年1月場所||10日目||●(5)||○(4)||吉葉山||
 
|-
 
|1954年3月場所||11日目||●(5)||○(5)||三根山||
 
|-
 
|1954年5月場所||12日目||○(6)||●(5)||'''栃錦(3)'''||
 
|-
 
|1954年9月場所||14日目||○(7)||●(5)||'''栃錦(4)'''||
 
|-
 
|1955年1月場所||12日目||●(7)||○(6)||千代の山||栃錦新横綱
 
|-
 
|1955年3月場所||千秋楽||○(8)||●(6)||千代の山||
 
|-
 
|1955年5月場所||12日目||○(9)||●(6)||'''栃錦(5)'''||
 
|-
 
|1955年9月場所||-||-||-||鏡里||栃錦休場により対戦なし。
 
|-
 
|1956年1月場所||9日目||○(10)||●(6)||鏡里||若乃花新大関
 
|-
 
|1956年3月場所||千秋楽||●(10)||○(7)||朝潮||
 
|-
 
|1956年5月場所||-||-||-||'''若乃花(当時若ノ花)(1)'''||栃錦休場により対戦なし。
 
|-
 
|1956年9月場所||千秋楽||□(11)||■(7)||鏡里||
 
|-
 
|1957年1月場所||14日目||○(12)||●(7)||千代の山||
 
|-
 
|1957年3月場所||千秋楽||●(12)||○(8)||朝潮||
 
|-
 
|1957年5月場所||12日目||○(13)||●(8)||安念山||
 
|-
 
|1957年9月場所||13日目||○(14)||●(8)||'''栃錦(6)'''||
 
|-
 
|1957年11月場所||14日目||○(15)||●(8)||玉乃海||
 
|-
 
|1958年1月場所||14日目||●(15)||○(9)||'''若乃花(2)'''||
 
|-
 
|1958年3月場所||14日目||●(15)||○(10)||朝潮||若乃花新横綱
 
|-
 
|1958年5月場所||14日目||○(16)||●(10)||'''栃錦(7)'''||
 
|-
 
|1958年7月場所||'''千秋楽'''||●(16)||○(11)||'''若乃花(3)'''||'''千秋楽2敗同士相星決戦'''。
 
|-
 
|1958年9月場所||-||-||-||'''若乃花(4)'''||栃錦休場により対戦なし。
 
|-
 
|1958年11月場所||-||-||-||朝潮||栃錦休場により対戦なし。
 
|-
 
|1959年1月場所||'''千秋楽'''||●(16)||○(12)||'''若乃花(5)'''||
 
|-
 
|1959年3月場所||'''千秋楽'''||○(17)||●(12)||'''栃錦(8)'''||'''千秋楽栃錦1敗、若乃花2敗で対戦'''
 
|-
 
|1959年5月場所||'''千秋楽'''||●(17)||○(13)||'''若乃花(6)'''||'''千秋楽栃錦全勝、若乃花1敗で対戦''' 優勝決定戦も若乃花勝利。若乃花優勝。
 
|-
 
|1959年7月場所||'''千秋楽'''||○(18)||●(13)||'''栃錦(9)'''||
 
|-
 
|1959年9月場所||'''千秋楽'''||●(18)||○(14)||'''若乃花(7)'''||'''千秋楽栃錦2敗、若乃花1敗で対戦''' 
 
|-
 
|1959年11月場所||'''千秋楽'''||○(19)||●(14)||若羽黒||千秋楽両者3敗で対戦 栃錦勝利。(千秋楽対決は年間最多勝をかけた対戦であった。)
 
|-
 
|1960年1月場所||-||-||-||'''栃錦(10)'''||若乃花休場により対戦なし。
 
|-
 
|1960年3月場所||'''千秋楽'''||●(19)||○(15)||'''若乃花(8)'''||'''千秋楽全勝同士の相星決戦''' 最後の栃若対戦。
 
|-
 
|}
 
* 若乃花横綱昇進前まで(1958年1月場所まで)の対戦成績は、'''栃錦の15勝9敗。'''
 
* 両者横綱同士の対戦成績(1958年3月場所以降)は、'''若乃花の6勝4敗。'''
 
 
 
=== 現役末期~引退 ===
 
栃錦の引退直後は3場所連続で13勝2敗、2度の優勝を果たすなど、栃若拮抗時代から第一人者として一時代を築くかと思われた。しかし1960年11月場所を9日目から途中休場、翌場所こそ12勝3敗と健在を示したものの、その後は優勝争いにからむこともなくなっていき、11勝前後の成績が多くなる。体力的な衰えというより、栃錦というライバルを失い気力の張りがなくなったことが大きかったという。新鋭の[[柏戸剛|柏戸]]の鋭い出足に脅かされることも増え、その大関昇進前までは若乃花の4勝2敗に対して大関昇進後は2勝4敗と、若い力の台頭にも押され始めた。
 
 
 
このように「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは、[[1962年]]1月場所、後に第49代横綱となる関脇の[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]に負けた相撲であった。倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花が、栃ノ海の見事な連続技([[蹴手繰り]]・[[巻き落とし]]・[[突き落とし]]を一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされたのだった。「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」と若乃花は語ったという。
 
 
 
[[1962年]][[5月1日]]、花籠部屋で記者会見を開き、『昭和37年5月場所の土俵に上がらず、体力の限界』を理由に現役を引退することを表明した<ref>「“土俵の鬼” 引退!」[[相撲 (雑誌)|相撲]] 昭和37年6月 夏場所総決算号 ベースボールマガジン社</ref>。
 
 
 
横綱として最後の9場所優勝なしでの引退は、栃錦のそれと比較され批判もあったが、現役中から[[二枚鑑札]]で[[春日野部屋]]を継承していた栃錦と違い引退後の独立に備えなくてはいけなかったこと、後輩横綱の朝潮が後を託すには安定感を欠いていたこと<ref>結局若乃花より先に引退する。</ref>などの事情があってのものだった。
 
 
 
幕内通算546勝は、栃錦の513勝を更新する当時の最多勝記録だった<ref>2013年現在の記録は[[魁皇博之]]の879勝。</ref>。
 
 
 
== 引退後、親方として ==
 
引退と同時に[[年寄]]・二子山を襲名し、花籠部屋から独立して[[貴乃花部屋|二子山部屋]]を興す。独立に際して師匠花籠とは連れて行く弟子について話をつけていたのでついて行きたいと志願しても連れて行けない弟子数名を泣く泣く突き放したともいう(その中にのちの[[龍虎勢朋|龍虎]]がいた)。部屋での指導の厳しさは大変なもので、稽古の時間になっても起きない弟子がいれば布団を剥がして起きるまで竹箒で殴り、それでも起きなければ布団が赤くなるまで殴りつけたという。親方としてはまだ若かった頃は自らもまわしをつけて稽古土俵に降りて指導をしたこともある。取り方は自由であったが、稽古は一日50番行うことを前提としており、技術指導に関しては井筒部屋の元幕下・神光で実業家の村上光昭が「素質があれば、相撲の型なんか、教えないで放っといても身につく」と二子山本人が語っていたことを座談会で明かしている<ref>『大相撲中継』2017年5月27日号91頁</ref>。弟子たちがあっさり土俵を割ると「俵の外は千尋の谷底だと思え。落ちたら死ぬんだぞ。そう思えば、もっと頑張れるはずだ」と怒り、本場所で土俵際で負けた力士には「土俵際こそ相撲の醍醐味じゃないか。そこで力を抜くバカがいるのか」と叱咤した<ref name="nishonoo71">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p71</ref>。
 
 
 
一方で[[糖尿病]]を患った[[隆の里俊英|隆の里]]に対し、まだ幕下以下の力士であった頃から糖尿病治療食のメニューを認めるというきわめて異例な計らいを行う等、弟子思いの一面もあった。同じ一門の放駒部屋の横綱である[[大乃国康|大乃国]]に対しては、[[琴櫻傑將|佐渡ヶ嶽]]が横綱土俵入りの指導をしている最中に「好きにやれ。横綱がやれば、それが横綱土俵入りだ。」と一喝するという大らかかつ豪快な助言を行い<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=hyaku_00001_20170127&p=hyaku001-jpp12890093 時事ドットコムニュース 「鬼」と「おしん」と稀勢の里]</ref><ref>「負けるも勝ち」p120~121</ref>
 
<ref>一方で二子山(若乃花)の現役中に土俵入りの指導を受けた[[大鵬幸喜]]は、「目の位置や出から終わりまでの間合いなど文字通り手取り足取りで若乃花関に指導された」と『大鵬自伝』(大鵬幸喜著、ベースボールマガジン社刊、1972年)、P120-P121に記している。</ref>、[[1989年]]9月場所に7勝8敗と横綱で皆勤負け越しを喫した際に引責引退を慰留するなどかなり理解ある態度を示していた。
 
 
 
実弟である大関・貴ノ花が横綱・[[北の湖敏満|北の湖]]と優勝決定戦の末に初優勝([[1975年]]3月場所)した際、当時まだ審判部副部長であったが、[[高砂 (相撲)|高砂]]審判部長(元横綱朝潮)の粋な計らいで、優勝旗授与の代役を任された(公式には、高砂の発熱によるものとされていた)。
 
 
 
[[1976年]]理事に当選すると、かつてのライバル[[栃錦清隆|春日野]]理事長は二子山を重用し、[[両国国技館|両国新国技館]]建設の頃は、春日野理事長、二子山理事長代行として相撲協会を引っ張り、'''幹部の栃・若時代'''と呼ばれたこともある。この背景には、1974年の春日野理事長選出時に、[[佐賀ノ花勝巳|二所ノ関]]が[[照國萬藏|伊勢ケ浜]]を反出羽海候補として擁立しようとした中で、師匠の花籠と共に二所ノ関と袂を分かって春日野理事長誕生を支持して主流派入りした経緯がある<ref>石井代蔵「土俵の修羅」</ref>。NO2の事業部長時代には理事長の春日野と共に両国新国技館を請け負った鹿島建設の社長に、「きょうは社長を負かしに来た。横綱5人掛かり(5人の力士が続けざまに横綱と対戦する)というのがあるが、社長には栃若2人掛かりです。」と交渉し、建設費を11億5千万円減額させた<ref>[https://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki26/index-j.html  鹿島の軌跡 第26回 国技館―伝統と技術が融合した相撲の殿堂]</ref><ref>[https://www.jiji.com/sp/v4?id=dohyouhyakei-0021_200910190003 時事ドットコム 「コラム 国技館100年]</ref>。両国新国技館落成当時の春日野・二子山の二人を追跡した[[NHK特集]]『「栃若」~新国技館を動かす親方たち~』というドキュメンタリー番組(1985年1月13日放送)も制作されたこともあった<ref>[http://nhk.jp/chronicle/?B10001200998501130130073 NHK特集 栃若 ~新国技館を動かす親方たち~] NHKアーカイブス</ref>。
 
 
 
両国国技館の完成から3年後の[[1988年]]2月、春日野は[[定年|停年]]まで余力を残して、あっさり[[相談役]]に退き、二子山に理事長を禅譲した。角界の保守本流である[[出羽海一門]]が何人も就任した理事長に、「万年野党」と言われた二所ノ関一門のしかも傍流である二子山が理事長になったことは画期的なことだった。現役時代は小部屋の悲哀を味わったが、部屋頭として引っ張った花籠部屋、自らが創設した二子山部屋、[[放駒部屋]]から、二子山が理事長に就任する時点で5横綱・3大関をはじめ大勢の関取を輩出して、'''阿佐ヶ谷勢'''と称される一大勢力を築き上げた実績を春日野以下出羽海一門も高く評価したこと<ref>杉並区立郷土博物館編「大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史」1991.11</ref>、1974年の理事長選出とその後の春日野体制への協力に対する御礼、将来の[[佐田の山晋松|出羽海]]体制の基盤強化なども踏まえ、春日野が理事長を禅譲したと言われる<ref>石井代蔵「土俵の修羅」</ref>。理事長就任直後の4月24日には国技館で[[還暦土俵入り]]を披露した。露払い・[[鳴戸]](第59代横綱・隆の里)、太刀持ち・[[間垣]](第56代横綱・2代若乃花)と、横綱に育て上げた自らの弟子を従えた。理事長としての業績は、土俵の美を追求して[[立合い]]の正常化に努め、「[[待った]]」の制裁金導入(後に廃止)や[[行司]]に「手をついて」と掛け声させたことが特筆される。
 
 
 
なお、春日野は[[1990年]]1月場所中の同年1月10日、停年目前の64歳で脳梗塞により逝去。記者会見に臨んだ当時の二子山理事長は言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてくれ」と一旦退席。数分後席に戻るも「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を溢し、かつて最大の好敵手だった春日野の死を惜しんでいた。
 
 
 
1991年11月、[[紫綬褒章]]受章。
 
 
 
クライマックスは[[1992年]]1月場所、理事長最後の場所で甥であり孫弟子にあたる[[貴乃花光司|貴花田]]が初優勝、実弟大関貴ノ花の初優勝時の計らいと違い、理事長として堂々と自らの手で天皇賜杯を孫弟子に授与することができ、「夢のまた夢」と語って理事長の有終の美を飾った。この時感極まって涙を流しており、「鬼の目にも涙」と言われた。NHKの大相撲中継で解説を務めていた[[出羽錦忠雄|出羽錦]]は「'''嬉しさや最後の賜杯甥の手に'''」と詠んだ。
 
 
 
停年直前であった[[1993年]]1月場所後に自身の二子山の[[年寄名跡]]を実弟の貴ノ花が持つ藤島と交換し、同年3月に相撲協会を停年退職した。この際、それまでの二子山部屋は[[藤島部屋 (1982-1993)|藤島部屋]]に吸収される形で合併したが、二子山部屋の看板自体は存続した<ref>年寄名跡の交換によって実弟貴ノ花に二子山を継がせた上で、それまで二子山部屋の所属だった力士などを藤島部屋の建物に移籍させ、看板を替えて「新生」二子山部屋とした。旧・二子山部屋はそのまま初代若乃花の専用自宅となった。</ref><ref>通例では、部屋の存続として、部屋付き親方を新師匠として継承させる、もしくは部屋内部に適任者がいなければ同じ一門の親方を迎え入れて擁立するという形が多い。こうした継承が叶わない場合は部屋の存続を断念し、一門内の違う部屋へ力士などをまるごと移籍させることになる。そうなれば移籍した力士たちの所属は、当然、移籍先の部屋名に変わるのが通常である。しかしこの1993年の二子山継承では、年寄名跡の売買価格が特に高騰していた時期にあって、二子山の名跡も部屋本体もスムーズに継承させることは困難であった。そのため、若貴全盛期で部屋の隆盛を誇っていた実弟の藤島部屋の看板を替えさせてまでも、二子山の名跡と部屋をセットで継承させる結果となった。こうした苦肉の策により、一代で名門に築き上げられた二子山部屋の看板が維持されたが、皮肉にもこのことが3年後の申告漏れ発覚、そして兄弟そろっての要職辞任にもつながった。</ref>。
 
 
 
== 停年退職後 ==
 
退職後は[[相撲博物館]]館長に就任するが、[[1996年]]9月に二子山の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘されたことで辞任し、相撲界から去った。
 
 
 
現役時代のライバルが還暦前後で次々逝去し、また弟子として手をかけた末弟貴ノ花も[[2005年]]5月に55歳で先立たれてしまったが、自身は65歳の停年を無事に迎え、横綱経験者としては[[鏡里喜代治|鏡里]](80歳10ヶ月没)を抜いて、長寿第2位となった。
 
 
 
二子山部屋第1号の関取だった[[二子岳武|二子岳]]が年寄・[[荒磯 (相撲)|荒磯]]として停年を迎えた際のパーティーでは、「私は多くの弟子を育て、その中には師匠になった者も多くいるが、無事停年を迎えたのはこの荒磯がはじめてです」とコメントしている。
 
 
 
[[2010年]][[9月1日]]、[[東京都]][[新宿区]]の[[慶應義塾大学病院]]で[[腎細胞癌]]のため死去。享年83({{没年齢|1928|3|16|2010|9|1}})<ref>{{Cite news
 
|url=http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=30191
 
|title=土俵の鬼」初代若乃花 死去…82歳
 
|work=Yomidr.(ヨミドクター)
 
|newspaper=[[読売新聞]]
 
|date=2010-09-02
 
|accessdate=2010-09-02
 
|language=日本語
 
}}</ref>。因みに、横綱最高齢記録は[[梅ヶ谷藤太郎 (初代)|初代梅ヶ谷]]の83歳3ヶ月没で、あと9ヶ月生きれば初代梅ヶ谷を超えて史上最高齢だった<ref>なお初代梅ヶ谷の生年月日をグレゴリオ暦に直した場合、梅ヶ谷最後の誕生日が若乃花の生年月日である。</ref>。同年に起きた[[大相撲野球賭博問題]]の心労もあったという。
 
 
 
長男を亡くした後から[[霊友会]]に入信しており、他の花田一族も信徒であるという。
 
 
 
2010年[[9月4日]]、通夜の当日に初代若乃花の柩を載せた霊柩車は旧[[蔵前国技館]]跡地と両国国技館を回った。両国国技館では日本相撲協会幹部と全幕内力士が霊柩車を出迎えて一礼した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2010/09/05/06.html 「土俵の鬼」初代若乃花、両国国技館に別れ…] スポーツニッポン 2010年9月5日閲覧</ref>。その後、霊柩車は葬儀会場の[[宝仙寺]]([[東京都]][[中野区]])へと向かった。[[葬儀]]が2010年[[9月5日]]に[[宝仙寺]]で行われた。出棺の際には「ワカノハナー」や「さようなら、若乃花」の掛け声をかけた600人のファンに見守られながら別れを告げた。その後若乃花幹士は[[新宿区]]の[[落合斎場]]で[[荼毘]]に付された。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は「'''巍勝院釋治道(ぎしょういんしゃくちどう)'''」。
 
 
 
== エピソード ==
 
=== 相撲関連 ===
 
*入門当時は敗戦直後の混乱の中で相撲人気が大きく衰えた時期であり、相撲協会は[[両国国技館|旧両国国技館]]を[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に接収され興行も各地を転々として行われた。[[1947年]]6月場所は[[明治神宮外苑]]で行われたが、そのとき隣の[[明治神宮野球場]]で開催された学生野球の方に客が集まるのを見て以来、「野球は商売敵」と言って、頑として野球はやらなかったという。
 
*引退会見の時、NHKアナウンサーから'''「横綱のあの豪快な[[上手投げ]]や[[呼び戻し]]が見られないのは本当に寂しいんですけどもねぇ」'''と訊かれ、'''「まぁ、そのうちにまた出て来ますよ、そういう人が」'''と答えたが、この時、タバコを吸いながら会見に応じていた。
 
*若乃花引退相撲の際に、呼び出しの[[永男 (呼出)|永男]]が作った[[相撲甚句]]『若乃花一代記』が反響を呼び、これ以後、各地の好角家による相撲甚句愛好の動きが全国に広がっていったことが語られている<ref>[http://homepage2.nifty.com/kanda-zatsugaku/031121/1121.htm#2 「若乃花一代記」から盛り上がった甚句人気] 神田雑学大学講義録 2003年11月21日付</ref>。
 
*1991年秋頃に年寄衆と関取衆全員による緊急会議を開き、そこで「無気力相撲」に対する警告を行った。当時[[相撲競技監察委員会|監察委員長]]の役職を務めていた[[佐田の山晋松|出羽海]]に至っては金銭のやり取りにも言及していた。また、1989年9月の力士会会合を録音したテープによって、日本相撲協会事務局長(当時)の森島信一が「無気力、いわゆる八百長という言葉で一般的には言っていますが」と発言した事実が明らかとなった。このことから当時より角界内部では「無気力相撲は八百長である」という見解を持っていたとも解釈できる<ref>[http://www.j-cast.com/tv/2008/10/25029174.html 八百長の有無「待ったなし」 新「証拠」のインパクト ] J CASTテレビウォッチ 2008/10/25 08:01</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=BSEvuVNBSr0]実際の録音を扱った動画]</ref>。2011年2月12日のNHKスペシャルでは概ね「無気力相撲は敢闘精神に欠けた怠慢な相撲、八百長は事前に申し合わせた不正な相撲」という見解が出された<ref>2011年2月12日 NHKスペシャル『八百長はなぜ起きたのか』二子山理事長の発言</ref>。
 
=== 酒関連 ===
 
*関取昇進時、弟弟子たちと夜通し祝杯をあげていて、金が足りなくなり、慌てて東富士に金の無心をした。東富士としては、前記の通り可愛がっていた相手であり、すぐに金を出してやって店の方とはそれですんだが、後で相撲協会の側で「新十両の分際で酒代が足りなくなって横綱に借金を申し込むとは」と問題視された。中には[[除名]]まで主張する意見もあったが、[[羽黒山政司|羽黒山]]のとりなしもあって救われた。「あの2人(東富士と羽黒山)には足を向けて寝られません」と後々まで語っていたが、やがて入幕してこの恩人2人から[[金星 (相撲) |金星]]を奪い[[恩返し (相撲)|恩を返して]]いる。横綱会では毎回真っ先に立浪親方(羽黒山)に酌をして、「あの時助けてくれたおかげで今の自分がいます」と言っていた。ちなみにこの時もっとも強硬に厳罰を主張したのが大関の[[汐ノ海運右エ門|汐ノ海]]で、その汐ノ海にも幕内で2戦2勝している。
 
*無類の日本酒好きであり、取組前には酒を口に含んで体に霧吹きをしてタオルで磨いていたという。体に赤みがかかり香りがつく効果を利用し、土俵上での華麗さを演出するための行為であったとされる<ref>『相撲』2013年12月号92頁</ref>。酒豪ぶりと合わせて健啖家でも知られ、弟子の若秩父と博多の屋台を3軒ハシゴしては材料切れになって酒も肴も出ないようにしてしまったという伝説も残っている。「力士はウイスキーを飲むと腰が軽くなる」という持論を持っており、弟子には日本酒を勧めていたが自身はウイスキーを飲むことの方が多かった。前述の通り日本酒の方を好んでいたが、旨すぎて際限なく飲んでしまうという理由でウイスキーの方を主に飲んでいたという<ref>[http://www.jiji.com/jc/v?p=sumo-syugou_001a 大相撲酒豪番付2014年東銀座場所] 時事ドットコム</ref>。
 
*自身の部屋持ち時代の各相撲部屋内における未成年飲酒が横行していた背景には「酒で体を作る」という迷信が角界に蔓延していたからであるといい、当時の風潮があったにせよ二子山部屋では特にそれが顕著だったと伝わる。入門当初、まだ15歳にも拘らず二子山によって無理やり酒を流し込まれた少年期の貴ノ花は小児性胃炎にかかり、これによって生涯肝臓の不調に悩まされた事実が小説家の[[石井代蔵]]によって明かされており、これは汚点として後年まで残っている<ref name="daizou">石井代蔵『大関にかなう』(文春文庫、1988年)</ref>。
 
 
 
=== 破天荒さ ===
 
社会の常識にかからない破天荒さでも知られており、一般の新聞紙や専門の文献に限ってもその種の逸話はいくつか確認される。特に実弟・貴ノ花に対する理不尽かつ苛烈な指導は有名である。
 
*ある時の地方場所開催中、整髪料の買い出しを若い衆に頼んだがまだ朝8時で店が開いていないと聞かされるや否や「なに!そういうときは店の人を叩き起こすんだ。それも社会勉強だ。それ行くんだ」と無理を言って周囲を震え上がらせたという<ref name="ref49"></ref>。
 
*親方時代のある日、部屋の2階にボウリングの球が転がっているのを見つけるなり周囲の確認もせず階下に放り投げたという<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO13865860R00C10A9000000/?df=2 荷役で鍛えた下半身 土俵の鬼、「栃若時代」築く 元横綱初代若乃花が死去] 日本経済新聞 2010/9/1 22:05 (2/2ページ)</ref>。
 
*夫人との馴れ初めは一目惚れである。よく遊びに行っていた夫妻の姪が、ある時期から夫妻と同居し始めたので一層その家に足しげく通うようになったという。だが相手の両親が若ノ花を将来性の無い札付きであるかのように断じ、娘を若乃花から引き離すために呼び戻してしまった。すぐさま相手の故郷である茨城行きの列車に乗ろうと着流しと下駄履きのまま駅まで駆けたが、すでに終列車は出発した後だった。そこで貨物列車に相手の故郷の最寄駅でスピードを緩めるように頼んで便乗し、目的の駅を通過する列車から駅のホームに飛び降り、その足で実家まで乗り込んだ<ref>石井代蔵『大相撲親方列伝』(文春文庫、1993年)</ref>。
 
*前述のように実弟・貴ノ花には強引に酒を飲ませたことで知られている。他にも本人の意向を無視して験担ぎのために7回も改名したことで、当時の専門家は最終の四股名を正確に把握することに苦労したという<ref name="daizou"/>。
 
 
 
== 主な成績 ==
 
* 通算成績:593勝253敗4分55休 勝率.701
 
* 幕内成績:546勝235敗4分55休 勝率.699
 
:引分が減少した戦後の力士の中にあって4分は多い部類に入る。そのうち3度までが出羽錦との取組であり、残り1度は前述の延べ17分15秒もの大相撲を取った千代の山戦である。特筆すべきは4分中3分が1955年に集中しており実に4場所中3場所で1分ずつ記録した点である。
 
* 大関成績:117勝32敗1休 勝率.785
 
* 横綱成績:254勝66敗1分54休 勝率.794
 
* 現役在位:64場所(番付上は65場所)
 
* 幕内在位:56場所(番付上は57場所)
 
* 横綱在位:25場所(番付上は26場所)
 
* 大関在位:10場所
 
* 三役在位:11場所(関脇8場所、小結3場所)
 
* 対横綱戦勝利:43勝([[大鵬幸喜|大鵬]]と並び歴代1位タイ)
 
* [[年間最多勝]](1957年設立):1958年(75勝14敗1分)
 
* 連続6場所勝利:79勝(1958年7月場所~1959年5月場所)
 
* 通算(幕内)連続[[勝ち越し]]記録:24場所(当時[[玉錦三右エ門|玉錦]]に次いで2位・現在歴代12位、1955年3月場所~1959年11月場所)
 
** 但し1955年1月場所で7勝7敗1[[引分 (相撲)|引分]]の五分があり、「負け越しなし」の見方では、1952年9月場所~1959年11月場所の34場所(現在歴代で4位相当の記録)となる。
 
* 幕内連続2桁勝利記録:22場所(当時1位・現在歴代5位、1955年9月場所~1959年11月場所)
 
* 幕内12勝以上連続勝利記録:6場所(1958年7月場所~1959年5月場所)
 
 
 
=== 各段優勝 ===
 
* 幕内最高優勝:10回 (1956年5月場所、1958年1月場所、1958年7月場所、1958年9月場所、1959年1月場所、1959年5月場所、1959年9月場所、1960年3月場所、1960年7月場所、1960年9月場所)(全勝1回)<ref name="nishonoo22"/>
 
* 三段目優勝:1回(1948年6月場所)
 
* 序二段優勝:1回(1947年11月場所)
 
 
 
=== 三賞・金星 ===
 
* 三賞:5回
 
** 殊勲賞:2回 (1954年1月場所、1954年9月場所)
 
** 敢闘賞:2回 (1950年1月場所、1951年1月場所)
 
** 技能賞:1回 (1955年9月場所)
 
* 金星:6個(羽黒山2個、東富士2個、千代の山2個)
 
 
 
===場所別成績===
 
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== 改名歴 ==
 
=== 四股名 ===
 
* 若ノ花 義美(わかのはな よしみ):1946年11月場所 - 1947年11月場所
 
* 若ノ花 勝治(わかのはな かつじ):1948年5月場所 - 1957年5月場所
 
* 若乃花 勝治(わかのはな かつじ):1957年9月場所 - 1958年3月場所
 
* 若乃花 幹士(わかのはな かんじ):1958年5月場所 - 1962年5月場所
 
 
 
=== 年寄名 ===
 
* 二子山 勝治(ふたごやま かつじ):1962年7月場所 - 1993年1月場所
 
* 藤島 勝治(ふじしま かつじ):1993年3月場所
 
 
 
== 初代若乃花をテーマにした作品 ==
 
* 「若ノ花物語・土俵の鬼」([[1957年]]/[[日活]] 若乃花幹士本人主演)
 
* 「土俵の鬼・若乃花物語」([[1992年]][[10月5日]]/[[テレビ朝日]])
 
:* [[倉田てつを]] - 青年期(花田勝治役)
 
:* [[滝田栄]] - 現役時代~引退後(若乃花幹士~二子山勝治)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[横綱一覧]]
 
  
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第45代横綱。本名花田勝治。1946年11月に初土俵を踏み,1950年1月に新入幕。軽量ながら強靭な足腰でがっぷりと組むとびくともしなかった。正攻法の四つ相撲を通し,左四つの右上手投げ,右四つの豪快な呼び戻しはファンを熱狂させ,「土俵の鬼」の異名をとった。1958年1月場所後に横綱に昇進,ライバルの横綱栃錦([[栃錦清隆]])とともに「栃若時代」を築いた。1962年5月引退,優勝 10回のうち全勝 1回。花籠部屋から独立して二子山部屋を創設し,2代目若乃花,隆の里の 2[[横綱]],実弟の貴ノ花,若嶋津の 2[[大関]]ら多くの関取を育てた。貴ノ花の息子である 3代目若乃花,貴乃花の兄弟横綱の伯父。1988年春日野清隆理事長の勇退をうけて[[日本相撲協会]]理事長に就任,1992年に勇退して相談役となる。1993年二子山部屋と藤島部屋とを合併し,年寄名も兄弟で交換した。1993年3月に相撲協会を定年退職したのち相撲博物館館長に就任,1996年まで務めた。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|3}}
 
{{Reflist|3}}
  
== 外部リンク ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
*[http://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010294_00000 若乃花幹士|NHK人物録|NHKアーカイブス]
 
{{大相撲幕内優勝力士}}
 
{{年間最優秀力士賞}}
 
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{{日本相撲協会理事長}}
 
{{歴代横綱|第45代|1958年3月-1962年5月}}
 
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{{デフォルトソート:わかのはな かんし1}}
 
{{デフォルトソート:わかのはな かんし1}}
 
[[Category:青森県出身の大相撲力士]]
 
[[Category:青森県出身の大相撲力士]]
 
[[Category:横綱]]
 
[[Category:横綱]]
[[category:二所ノ関部屋]]
 
[[Category:芝田山部屋]]
 
[[Category:花籠部屋]]
 
[[Category:二子山部屋]]
 
 
[[Category:青森県出身の人物]]
 
[[Category:青森県出身の人物]]
 
[[Category:北海道出身の人物]]
 
[[Category:北海道出身の人物]]
[[Category:霊友会の人物]]
 
[[Category:日本相撲協会理事長]]
 
[[category:紫綬褒章受章者]]
 
[[category:力道山]]
 
 
[[Category:1928年生]]
 
[[Category:1928年生]]
 
[[Category:2010年没]]
 
[[Category:2010年没]]

2018/10/1/ (月) 23:01時点における最新版

初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ)本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日

第45代横綱。本名花田勝治。1946年11月に初土俵を踏み,1950年1月に新入幕。軽量ながら強靭な足腰でがっぷりと組むとびくともしなかった。正攻法の四つ相撲を通し,左四つの右上手投げ,右四つの豪快な呼び戻しはファンを熱狂させ,「土俵の鬼」の異名をとった。1958年1月場所後に横綱に昇進,ライバルの横綱栃錦(栃錦清隆)とともに「栃若時代」を築いた。1962年5月引退,優勝 10回のうち全勝 1回。花籠部屋から独立して二子山部屋を創設し,2代目若乃花,隆の里の 2横綱,実弟の貴ノ花,若嶋津の 2大関ら多くの関取を育てた。貴ノ花の息子である 3代目若乃花,貴乃花の兄弟横綱の伯父。1988年春日野清隆理事長の勇退をうけて日本相撲協会理事長に就任,1992年に勇退して相談役となる。1993年二子山部屋と藤島部屋とを合併し,年寄名も兄弟で交換した。1993年3月に相撲協会を定年退職したのち相撲博物館館長に就任,1996年まで務めた。

脚注



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