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'''芦田 均'''(あしだ ひとし、[[1887年]]([[明治]]20年)[[11月15日]] - [[1959年]]([[昭和]]34年)[[6月20日]])
{{政治家
 
|人名 = 芦田 均
 
|各国語表記 = あしだ ひとし
 
|画像 = Hitoshi Ashida.jpg
 
|画像説明 = 芦田の肖像写真
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1887年]][[11月15日]]
 
|出生地 = {{JPN}} [[京都府]][[天田郡]][[中六人部村]]<br />(現:[[福知山市]])
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1887|11|15|1959|6|20}}
 
|死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[港区_(東京都)|港区]]
 
|出身校 = [[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]仏法科卒業
 
|前職 = [[日本大使館|在ベルギー日本大使館]][[参事官]]
 
|所属政党 = ([[立憲政友会]]→)<br />([[立憲政友会|正統派立憲政友会]]→)<br />(無所属→)<br />([[翼賛政治会]]→)<br />([[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]→)<br />([[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]→)<br />([[国民民主党 (日本 1950-1952)|国民民主党]]→)<br />([[改進党]]→)<br />([[日本民主党]]→)<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
 
|称号・勲章 = [[従二位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[博士(法学)|法学博士]](東京帝国大学・[[1912年]])
 
|配偶者 = 芦田寿美
 
|子女 = 長女:下河辺美世<br />次女:遠藤ルリ<br />長男:[[芦田治太郎]]<br />次男:[[芦田富]]
 
|親族(政治家) = [[下河辺孫一]](娘婿)<br />[[下河辺元春]](孫)
 
|サイン = AshidaH kao.png
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第47代 [[内閣総理大臣]]
 
|内閣 = [[芦田内閣]]
 
|就任日 = [[1948年]][[3月10日]]
 
|退任日 = 1948年[[10月15日]]
 
|元首職 = 天皇
 
|元首 = [[昭和天皇]]
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = [[副総理]]
 
|内閣2 = [[片山内閣]]
 
|就任日2 = [[1947年]][[6月1日]]
 
|退任日2 = 1948年[[3月10日]]
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第62代 [[外務大臣]]
 
|内閣3 = 片山内閣(副総理兼任)<br />芦田内閣(首相兼任)
 
|就任日3 = 1947年6月1日
 
|退任日3 = 1948年10月15日
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = 第14代 [[厚生省|厚生大臣]]
 
|内閣4 = [[幣原内閣]]
 
|就任日4 = [[1945年]][[10月9日]]
 
|退任日4 = [[1946年]][[5月22日]]
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = [[衆議院|衆議院議員]]
 
|選挙区5 = [[京都府第2区 (中選挙区)|京都府第2区]]
 
|当選回数5 = 11回
 
|就任日5 = [[1932年]][[2月21日]]
 
|退任日5 = 1959年6月20日
 
}}
 
  
'''芦田 均'''(あしだ ひとし、[[1887年]]([[明治]]20年)[[11月15日]] - [[1959年]]([[昭和]]34年)[[6月20日]])は、[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。[[位階]]は[[従二位]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。[[学位]]は[[博士(法学)|法学博士]]([[東京帝国大学]])。
+
政治家,法学博士,外交史家。[[内閣総理大臣]](首相。在任 1948.3.~10.)。1912年東京帝国大学卒業後,外務省に入り,外交官補,大使館書記官,大使館参事官を歴任。1932年退官して[[立憲政友会]]から[[衆議院議員総選挙]]に立候補して当選。1933~40年[[ジャパン・タイムズ]]社長。第2次世界大戦後,[[日本自由党]]の結成に参加したが脱党。1947年[[民主党]]結成に参加し総裁となり,[[日本社会党]][[国民協同党]]との連立内閣,[[片山哲]]内閣では副総理および外務大臣を務めた。1948年には同じ 3党連立で芦田内閣を組織し,修正資本主義,中道政治を標榜した。占領下([[対日占領]])における労働運動の高まりに対し,政令201号を発してこれを抑えた。しかし同 1948年10月,[[昭和電工事件]]に連座し内閣総辞職。のち党総裁の地位も退いた。
 
 
[[衆議院議員]](11期)、[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]]([[幣原内閣|第14代]])、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](第[[片山内閣|76]]・[[芦田内閣|77]]代)、[[副総理]]、[[内閣総理大臣]]([[芦田内閣|第47代]])などを歴任した。
 
 
 
== 概観 ==
 
外交官を経て政界入りし、[[立憲政友会]]に所属して[[外務省]]とのパイプを務めた。軍国主義が広まる議会において[[リベラリスト]]として活動した。戦後は[[鳩山一郎]]を中心とする[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]の結成において、指導的役割を果たした。[[幣原内閣]]に入閣しながら、総選挙後の“居座り”に対して厳しく対応し、単独[[閣僚]]を辞任して[[内閣総辞職]]に至らしめた。
 
 
 
[[第1次吉田内閣]]時代に、衆院憲法改正特別委員長として憲法9条が現在の形になるのに深く関与した。[[1947年]](昭和22年)には自由党を離党して[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]を創設しみずから総裁に就任した。[[片山内閣]]成立にあたっては、これに反対する[[幣原喜重郎]]らを抑えて、[[日本社会党]]・民主党・[[国民協同党]]による3党連立内閣を実現させ、[[副総理]]格の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として入閣。さらに社会党の内紛によって片山内閣が崩壊した後は、禅譲の形で首相に就任した。しかし内閣は[[昭和電工事件]]により、わずか7か月余りの短命内閣に終わった。首相在任中には戦後日本の針路を基礎づける重要な法案が多く成立しているが、その中で自身が首相としてイニシアチブを取った形跡はほとんどない。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 前半生 ===
 
[[ファイル:Hitoshi Ashida 1931.jpg|thumb|left|200px|[[1931年]]、[[外交官]]時代]]
 
芦田は[[1887年]][[11月15日]]、[[京都府]][[天田郡]][[中六人部村]](なかむとべ村、現在の[[福知山市]])に生まれた。生家は豪農であった。社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナーであり、大学時代の同級生でもあった[[片山哲]]は、芦田の死後に衆議院本会議で行った[[追悼演説]]において芦田が政界に入るまでをこのように述べている。
 
 
 
{{quotation|芦田君は、(中略)元本院議員[[芦田鹿之助]]氏の次男として生まれ、長じて第一高等学校を経て東京大学法学部に学ばれました。(中略)在学中、すでに外交官及び領事官試験に合格せられたのであります。明治四十五年、卒業とともに、露国在勤の外交官補として赴任せられ、外交官生活の第一歩を踏み出されたのであります。その後、大使館三等書記官、外務書記官兼参事官、大使館一等書記官として欧州各国に歴任せられたのでありますが、(中略)昭和七年、[[ベルギー]]在勤の大使館参事官を最後として退官し、当時横暴をきわめておりましたる軍部外交と戦わんがために、直ちに[[立憲政友会]]に入党し、同年二月の[[第18回衆議院議員総選挙|第十八回衆議院議員総選挙]]に京都府第二区から立って、みごと当選の栄冠を得られたのであります。|片山哲|「第32回国会 衆議院本会議 1959(昭和34)年6月24日」<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/032/0512/03206240512002a.html 衆議院会議録情報 第032回国会 本会議 第2号]</ref>}}
 
 
 
芦田は東京帝国大学を卒業後、[[1912年]]に[[外務省]]に入り外交官となった。最初の勤務地[[ロシア]]では[[ロシア革命]]に接し、[[1918年]]に赴任した[[フランス]]では[[パリ講和会議]]を目にしている。[[1925年]]には一等書記官として、日土間の国交樹立にともない[[トルコ]]・[[イスタンブール]]に開設された日本大使館<ref group="注釈" name="matsutani140-142">1925年当時、各国大使館の多くはオスマン帝国時代の首都イスタンブールから移転しておらず、日本も新首都[[アンカラ]]ではなくイスタンブールに大使館を開設した。松谷『イスタンブールを愛した人々』、pp.140-142.</ref>へ赴任した。[[1928年]]10月から[[1929年]]11月にかけて初代駐トルコ大使である[[小幡酉吉]]の帰朝にともない臨時代理大使を務め、この間に[[参事官]]へと昇格した<ref name="matsutani130">松谷『イスタンブールを愛した人々』、p.130.</ref>。トルコでの芦田は「海峡問題」([[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の通航制度)やバルカン諸国などについて研究し、両海峡の通航制度史と当時の通航制度であった[[ローザンヌ条約]]の問題点をまとめた学位請求論文「国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位」を執筆すると、母校である東京帝国大学に提出して1929年に法学博士を授与された。なお、この論文は翌年『君府海峡通航制度史論』として出版されている。[[1930年]]からは駐ベルギー大使館勤務となり、[[1932年]]に退官して帰国すると、政界へ転身した。
 
 
 
上記の追悼演説で、片山は[[政界]]入り後の芦田の政治活動について高く評価している。第一に外交問題について軍部の圧力に屈しがちな政府の外交方針に鋭く迫ったこと、第二に[[1936年]]、[[天皇機関説]]排斥運動が起きたとき、[[美濃部達吉]]を擁護するため率先して奔走したこと、第三に[[1940年]]、[[大政翼賛会]]運動が起こったときには、議会政治を否定するものとして敢然としてこれに反対し、[[翼賛議員同盟]]の結成に参加せず、[[尾崎行雄]]、鳩山一郎、[[川崎克]]らと「[[同交会]]」を組織し、翌[[1941年]]の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]には非推薦で出馬し当選したことを挙げている。芦田はこのように戦前・戦中を通してリベラルな政治姿勢で知られており、[[斎藤隆夫]]の[[反軍演説]]の際には、[[牧野良三]]や[[宮脇長吉]]らとともに除名に反対票を投じた。議会の外では言論人としても活躍し、外交官時代の『君府海峡通航制度史論』のほか、政治家への転身後も執筆活動を続け時局や外交に関する著書を多く発表している。政界入り後の[[1933年]]から[[1939年]]にかけて[[ジャパンタイムズ]]の社長を務めたほか、[[ダイヤモンド社]]の[[石山賢吉]]などとも親交を持った。
 
 
 
=== 戦後の活動 ===
 
終戦とともに、筋金入りのリベラリスト・議会政治家である芦田が活躍できる時代が始まった。終戦直後の芦田の大活躍は、芦田時代の到来を予感させた。しかし、芦田には不運がつきまとっていた。
 
 
 
==== 憲法9条と芦田修正====
 
戦後まもなく、衆議院[[帝国憲法改正小委員会]]の憲法改正草案の審議において、「芦田修正」と呼ばれる修正が行われた。この修正は芦田の試案などが重要なたたき台となっており、芦田の意図なども含め、後の憲法論議における重要な論点となっている。詳細は[[日本国憲法#芦田修正について|芦田修正]]参照。
 
 
 
==== 民主党の結党と片山内閣 ====
 
{{要出典範囲|date=2016年6月|その頃、芦田が属した自由党の総裁は外務省の6年先輩で[[鳩山一郎]]前総裁の[[公職追放]]によって招聘された[[吉田茂]]総理大臣兼外務大臣(当時は[[貴族院 (日本)|貴族院議員]])であった。だが、外交官としては先輩でも政治家としては後輩である吉田との反目するようになった芦田は1947年(昭和22年)には吉田に不満を持つ他の議員とともに自由党を離党して公職追放で幹部を多数失った[[日本進歩党]]と合同して[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]を創設しみずから総裁に就任した。[[第23回衆議院議員総選挙]]の結果、自由党に代わって日本社会党が第一党になり、紆余曲折の末に片山内閣成立が成立することになると、芦田は日本社会党・民主党・国民協同党による3党連立内閣実現に向けて奔走し、これに反対する幣原喜重郎らを抑えて副総理格の外務大臣として入閣した。だが、民主党内では芦田と幣原の、日本社会党では右派と左派による主導権争いが激化し、片山内閣は10か月で総辞職に追い込まれた。}}
 
 
 
=== 芦田内閣の発足 ===
 
[[ファイル:Shidehara cabibet.jpg|thumb|l200px|[[1945年]][[10月9日]]、[[幣原内閣]]の閣僚らと]]
 
[[ファイル:Cabinet of Ashida.jpg|thumb|200px|[[1948年]][[3月10日]]、[[芦田内閣]]の閣僚らと]]
 
[[1948年]]2月の[[片山内閣]]崩壊とともに芦田の出番がきたが、芦田の行く手に立ち塞がったのは[[吉田茂]]だった。片山内閣崩壊後の内閣のあり方について、片山は「崩壊の原因は社会党の党内事情によるものであって連立政権の政策そのものが行き詰まったわけではない」との立場から、芦田への政権移譲は当然だと主張した。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[民政局]]も片山を支持し、社会・民主・国協の中道連立政権の存続を望んでいた。だが、吉田自由党は片山から芦田への移行は「政権のたらい回し」であるとして芦田の登場を厳しく批判した。新聞各紙もこれに同調し、国民世論も芦田の登場に疑問を持った。芦田政権はスタート時に大きくつまずいたのである。
 
 
 
2月21日の首班指名選挙は、衆院は芦田216、吉田180の僅差だった。[[参議院]]では芦田102、吉田104で逆転された。衆参両院の議決が異なったため[[両院協議会]]が開かれたが不調に終わり、衆議院の優位性の憲法規定により芦田内閣は発足した。だが、対する[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]は、芦田内閣に反対する[[田中角栄]]・[[原健三郎]]・[[佐々木秀世]]・[[小平久雄]]・[[中山マサ]]など幣原派の若手議員を糾合して社会党を上回る第1党に成長した。
 
 
 
当時の政府は目下の重要課題―食糧問題の解決、[[インフレーション]]の克服、生産の増強、失業の解決―を多く抱えており、その対処に忙殺されていた。その一方、芦田内閣においては戦後日本の基礎となる多くの法律が成立している。新憲法に基づく[[刑事訴訟法]]の全面改正や警察組織の抜本改革([[警察法#旧警察法の制定|旧警察法]]の制定)、[[国家行政組織法]]とそれに基づく[[中小企業庁]]・[[石炭庁]]・[[建設省]]・[[海上保安庁]]・[[水産庁]]・[[経済企画庁|経済調査庁]]といった各行政庁の設置法、[[教育委員会法]]、[[日本学術会議]]法、[[警察官職務執行法]]、[[行政代執行法]]、[[地方財政法]]、[[検察審査会法]]、[[軽犯罪法]]、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風営法]]などがそれである。しかし、芦田自身が総理大臣として、そうした課題に積極的に取り組んだ形跡はほとんど見られない。
 
 
 
芦田は当時こう書いている。「私の見る所によれば、占領軍治下における政府としては、誰が政局を担当しても、連合国の占領政策の線に沿って政治を行う以外に道はない」。これは一面の真理ではあるが、同じく占領政策の枠内にありながら、マッカーサーや、しばしば米国政府とも直接渡り合って自らの政策実現に尽力した吉田茂首相の姿勢とは著しい対照をなしているといえよう。
 
 
 
なお、前任の片山が、社会党委員長でかつ熱心な[[クリスチャン]]でありながら、[[昭和天皇]]の護持に心を砕いたのに対し、芦田は「新憲法になって以後、余り陛下が内政外交に御立入りになる如き印象を与えることは、皇室のためにも、日本のためにも良いことではない」と、憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任当時、芦田は、これ以降閣僚の[[上奏]]を取り止める旨を奏上した。芦田自身も外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、[[鈴木一]][[侍従次長]]が「陛下は外交問題について御宸念遊ばしてゐる(中略)外務大臣が内奏に見えないのか(中略)見えるなら土曜日でもよろしい」と、当時の[[岡崎勝男]][[外務事務次官]]に漏らしていた。それを聞いた芦田は「御上の思召」なら行くべきだと宮中へ参内した。
 
 
 
=== 芦田内閣の崩壊 ===
 
しかし芦田内閣は西尾献金問題と[[昭和電工事件]]で惨憺たる結末を迎える。西尾献金問題とは、[[西尾末広]]社会党[[書記長]]が土建業者から50万円を受領した事件である。西尾は[[政令]]違反と偽証罪に問われたが、結果は無罪だった。昭和電工事件は、復興融資など、[[昭和電工]]が利便を得るために[[日野原節三]]社長によって行われた、政官財工作に伴う贈収賄事件であった。この事件で、[[栗栖赳夫]][[経済安定本部]]総務長官と西尾末広前副総理が逮捕され(来栖有罪、西尾一審有罪・二審無罪)、芦田内閣は瓦解した。その上、芦田自身が内閣総辞職後に収賄罪で逮捕され起訴された。しかし、判決は「金をもらって昭和電工に対して便宜を図らせることを栗栖大蔵大臣に働きかけていた」ことは認定したが、「外務大臣の芦田には職務権限はない」として無罪だった。このことを受けて、1958年に刑法改正で[[斡旋収賄罪]]が設けられた。
 
 
 
昭和電工事件で事情聴取された者は約2,000人、逮捕者64人(うち現職国会議員10人)。裁判の結果は有罪2名のみだった。昭和電工事件について『自由民主党史』は次のように記述している。
 
{{quotation|こうした(事件追及の)司法の動きの背景には、この頃の米国の対日政策の‘改革から復興へ‘という漸次的転換に伴って、それまでGHQ内で圧倒的な力を持っていた民政局に対抗して、G2(参謀第2部)を中心とする反民政局勢力が無視しえない発言力を持つようになったという状況の変化があった。すなわち、芦田連立政権の倒壊は、民政局とG2の権力争いによりGHQが全体として‘指導力‘を弱体化させてきたことを物語っている。}}
 
 
 
占領軍内部の勢力争いに日本の政治が翻弄されたのである。民政局は社会・民主中道政権を好み、バックアップした。しかし、GHQ内の反民政局派であるG2の力が強まり、民政局派対G2派の権力争いが激化し、昭和電工事件がこの抗争に利用されたのである。民政局と関係の良かった芦田はこの抗争の犠牲になった。芦田内閣崩壊後に吉田首班阻止を狙った[[山崎首班工作事件]]は民政局側の最後の反撃だったが、これは成功しなかった。国が占領下に置かれていたがゆえの政局混乱であった。
 
 
 
また、西尾献金問題が派生して政党創設問題が浮上して、芦田自身も[[証人喚問]]をされた。
 
 
 
=== 首相退任後 ===
 
政治的な動きとしては、[[1955年]]の[[保守合同]]に参加し、[[自由民主党_(日本)|自由民主党]]の外交調査会長に就任。[[ハンガリー動乱]]の際にはソ連に批判的な立場から「日本ハンガリー救援会」を組織している。占領期以降の晩年は、歴史書を書き残す事に重点を置いた。『芦田日記』は占領期の歴史を当事者の立場で書く為の備忘録であったが、1959年に『第二次世界大戦外交史』を病床で口述筆記により完成させた。同年6月20日、芝・白金の自宅において現職の衆議院議員のまま死去。4日後の[[6月24日]]には衆議院本会議で片山哲による追悼演説が行われた。なお地盤は[[谷垣専一]]が引き継いだ。
 
 
 
著書『革命前夜のロシア』は、会話文を駆使した、ほとんど小説の趣がある回想録で、日本の現役政治家の著書としてはきわめて異色である。[[鴨下信一]]は『忘れられた名文たち』(1998)で2頁半もの引用の後「ああ、これはそっくりチェホフだ。日本にはこういう文章を書く政治家もいたのである」と評している。
 
 
 
== 年譜 ==
 
* 1887年([[明治]]20年):現在の[[京都府]][[福知山市]]に生まれる。当時は、天田郡中(なか)六人部(むとべ)村。
 
* [[1904年]](明治37年):[[兵庫県立柏原高等学校|旧制兵庫県立柏原中学校]]を卒業、[[第一高等学校 (旧制)|旧制第一高等学校]]に入学。
 
* [[1907年]](明治40年):[[東京大学|東京帝国大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]仏法科に入学。
 
* [[1910年]](明治43年)第二次『[[新思潮]]』に[[アナトール・フランス]]の短篇小説の翻訳を寄稿。これが原因で第二次『新思潮』は発売禁止処分を受け、終焉を迎える。
 
* [[1912年]]([[大正]]元年):東大を卒業し、[[外務省]]に入省。
 
* [[1914年]](大正3年):[[サンクトペテルブルク]]に赴任。1918年(大正7年)1月まで同地に滞在し、その間に[[ロシア革命]]を目撃。
 
* [[1932年]]([[昭和]]7年):退官して[[立憲政友会]]公認で[[衆議院]]選挙に立候補し当選する。
 
* [[1939年]](昭和14年):政友会の分裂に際し、[[久原房之助]]や[[鳩山一郎]]らとともに正統派に属する。
 
* [[1941年]](昭和16年):[[同交会]]の結成に参加。
 
* [[1946年]](昭和21年):[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]から出馬し当選。憲法改正特別委員会委員長に就任し、[[芦田修正|芦田修正条項]]を入れる。
 
* [[1947年]](昭和22年):自由党から一派を率いて離党し、[[日本進歩党]]と共に[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]を結党。党総裁に就任。[[片山哲]]内閣の外務大臣就任
 
* [[1948年]](昭和23年):[[3月10日]]に内閣総理大臣に就任するが、[[昭和電工事件]]により[[10月5日]]に総辞職、[[12月7日]]芦田自身も逮捕。以後、民主党野党派、[[国民民主党 (日本 1950-1952)|国民民主党]]、[[改進党]]、[[日本民主党]](最高委員)と[[保守傍流]]政党に属する。
 
* [[1955年]](昭和30年): [[自由民主党_(日本)|自由民主党]]結成に参加。
 
* [[1957年]](昭和32年):衆議院議員勤続25年の表彰を受ける。
 
* [[1958年]](昭和33年):[[昭和電工事件]]の無罪判決が確定。
 
* 1959年(昭和34年):71歳で死去。死後、[[谷垣專一]]([[谷垣禎一]]の父)が芦田の地盤を引き継いで代議士となった。
 
* [[2002年]]([[平成]]14年)5月18日:芦田均の功績や資料を展示する福知山市芦田均記念館が[[福知山市]]にオープン。
 
 
 
== 栄典 ==
 
* [[1920年]](大正9年)[[9月7日]] - [[旭日章|勲五等双光旭日章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref>
 
 
 
== 親族関係 ==
 
芦田均はよく「私は丹波の[[百姓]]の息子で…」と言って[[吉田茂]]の貴族趣味・名門びいきに対抗していたが<ref>佐藤『閨閥』、p.292.</ref>、芦田家は[[農家]]といっても[[豪農]](綾部藩の大庄屋)であり、父・[[芦田鹿之助|鹿之助]]も衆議院議員を務めた政治家でもあった。均は寿美夫人との間に2男2女をもうけたが<ref name="日本の総理 30">『池上彰と学ぶ日本の総理 30』、p.25.</ref>、長女・美世は日本鉱業(現・[[ジャパンエナジー]])の社長を務めた[[下河辺建二]]の次男・[[下河辺三史|三史]]に<ref name="日本の総理 30"/><ref name="閨閥 293頁">佐藤『閨閥』、p.293.</ref><ref name="財界家系譜大観">『財界家系譜大観』 第6版 - 第8版。</ref>、次女・ルリは大蔵[[官僚]]の[[遠藤胖]]に嫁いだ<ref name="閨閥 293頁"/>。長男・[[芦田治太郎|治太郎]]は9歳で早世<ref name="日本の総理 30"/>、次男・[[芦田富|富]]は[[海上自衛隊]]に入った<ref name="日本の総理 30"/>。
 
 
 
芦田の娘婿・下河辺三史の兄にあたる[[下河辺孫一|孫一]](建二の長男)は[[下河辺牧場]]の創業者であり<ref name="閨閥 293頁"/><ref name="財界家系譜大観"/>、下河辺孫一の次女・[[小沢牧子|牧子]]は[[ドイツ文学者]]の[[小澤俊夫|小沢俊夫]]に嫁いだ<ref name="閨閥 293頁"/><ref name="財界家系譜大観"/><ref name="日本の有名一族">小谷野『日本の有名一族』、pp.47-49.</ref>。[[ミュージシャン]]の[[小沢健二]]は俊夫・牧子夫妻の次男である<ref name="日本の有名一族"/>。
 
 
 
また下河辺三史・美世夫妻の長男で、芦田の孫にあたる[[下河辺元春]]は[[国際政治学者]]の[[進藤榮一]]とともに『芦田均日記』(全7巻 岩波書店)の編纂にあたったことで知られている<ref name="日本の総理 30"/>。下河辺元春の弟・[[下河辺晴三|晴三]](三史・美世夫妻の三男)は[[音楽プロデューサー]]となった<ref name="財界家系譜大観"/>。
 
 
 
== 著書 ==
 
*『君府海峡通航制度史論』(厳松堂書店、1930年)
 
:※芦田が東京帝国大学に提出した博士学位論文、戦前に著作は『バルカン』([[岩波新書]])ほか、約十数冊が出された。
 
*『最近世界外交史』(全3巻、[[明治図書]]、1934年)、改訂復刻:時事通信社(1965年)
 
**副題は順に、ビスマルクより世界大戦まで、世界大戦より戦後の欧洲まで、米国参戦より聯盟脱退まで
 
*『革命前夜のロシア』([[文藝春秋]]新社、1950年)。新版(自由アジア社、1958年)
 
*『第二次世界大戦前史』([[時事通信]]社、1959年)
 
*『第二次世界大戦外交史』([[時事通信社]]、1960年 新版1975年)。([[岩波文庫]](上下)、2015年)、解説[[井上寿一]]
 
*『芦田均日記 (全7巻)』、([[進藤栄一]]・[[下河辺元春]]編、岩波書店、1986年、復刊1992年)
 
*『芦田均日記 一九〇五-一九四五 (全5巻)』、([[福永文夫]]・下河辺元春編、[[柏書房]]、2012年)
 
*『制定の立場で省みる日本国憲法入門 第一集』([[書肆心水]]、2013年)
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
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<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
* 『<small>新訂</small> 政治家人名事典 <small>明治~昭和</small>』([[2003年]]、編集・発行 - [[日外アソシエーツ]]、16頁)
 
* [[松谷浩尚]] 『[[イスタンブールを愛した人々]]』 [[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、1998年
 
* 宮野澄 『最後のリベラリスト 芦田均』 [[文藝春秋]]、1987年
 
* 『財界家系譜大観 第6版』 現代名士家系譜刊行会、1984年、432頁
 
* 『財界家系譜大観 第7版』 現代名士家系譜刊行会、1986年、382頁
 
* 『財界家系譜大観 第8版』 現代名士家系譜刊行会、1988年、404頁
 
* 『週刊 池上彰と学ぶ日本の総理 30 幣原喜重郎・片山哲・芦田均』 [[小学館]]、2012年
 
* [[佐藤朝泰]] 『閨閥 <small>日本のニュー・エスタブリッシュメント</small>』 [[立風書房]]、1981年
 
* [[小谷野敦]] 『日本の有名一族 <small>近代エスタブリッシュメントの系図集</small>』[[幻冬舎]]〈[[幻冬舎新書]]〉、2007年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[芦田内閣]]
 
* [[長谷川才次]] 
 
* [[日本国憲法第9条]]
 
** 第2項「前項の目的を達成するため―」のくだりを付けのちの論争の原因を作った(芦田条項)。芦田は後に息子と兵学校で同期だった信太正道(最後の特攻隊員、「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」代表)に会った際、「軍隊のない国家は国家ではない、交戦権否定など言語道断。いずれ改憲しなくては」と語ったという [http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20090817.html 戦中・戦後の戦争体験とその教訓(法学館憲法研究所)]。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.kisnet.ne.jp/~matikado/ashida01.html 福知山市芦田均記念館]
 
* [http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/life/facilities/entries/000599.html 福知山市 施設案内 観光・文化施設 芦田均記念館]
 
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/352.html 芦田均 | 近代日本人の肖像] - [[国立国会図書館]]
 
*[http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/ashidahitoshi.php 国立国会図書館 憲政資料室 芦田均関係文書(寄託)]
 
* [http://www.ndl.go.jp/jikihitsu/part3/s3_1.html#n125 第3章 日記 | あの人の直筆] - 国立国会図書館
 
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芦田均.jpg

芦田 均(あしだ ひとし、1887年明治20年)11月15日 - 1959年昭和34年)6月20日

政治家,法学博士,外交史家。内閣総理大臣(首相。在任 1948.3.~10.)。1912年東京帝国大学卒業後,外務省に入り,外交官補,大使館書記官,大使館参事官を歴任。1932年退官して立憲政友会から衆議院議員総選挙に立候補して当選。1933~40年ジャパン・タイムズ社長。第2次世界大戦後,日本自由党の結成に参加したが脱党。1947年民主党結成に参加し総裁となり,日本社会党国民協同党との連立内閣,片山哲内閣では副総理および外務大臣を務めた。1948年には同じ 3党連立で芦田内閣を組織し,修正資本主義,中道政治を標榜した。占領下(対日占領)における労働運動の高まりに対し,政令201号を発してこれを抑えた。しかし同 1948年10月,昭和電工事件に連座し内閣総辞職。のち党総裁の地位も退いた。



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