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{{特殊文字|説明=[[補助漢字|JIS X 0212]]、[[JIS X 0213]]など}}
 
{{基礎情報 皇族・貴族
 
|人名=聖徳太子 (厩戸皇子)
 
|各国語表記=
 
|家名・爵位=
 
|画像=Umayado Miko.jpg
 
|画像サイズ=220px
 
|画像説明=聖徳太子像([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』より)
 
|続柄=[[用明天皇]]第二皇子
 
|称号=上宮王、豊聡耳、<br />上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊聡耳聖<br />徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、<br />厩戸豊聰耳聖徳法王、<br />上宮厩戸、厩戸皇太子
 
|全名=厩戸皇子(厩戸王?)
 
|身位=
 
|敬称=皇子、太子
 
|お印=
 
|出生日=[[574年]][[2月7日]]([[敏達天皇]]3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]])
 
|生地=
 
|死亡日=[[622年]][[4月8日]]([[推古天皇]]30年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]])
 
|没地=
 
|埋葬日=
 
|埋葬地=磯長墓([[叡福寺北古墳]])
 
|配偶者1=[[菟道貝蛸皇女]]
 
|配偶者2=[[刀自古郎女]]
 
|配偶者3=[[橘大郎女]]
 
|配偶者4=[[膳部菩岐々美郎女|膳大郎女]]
 
|配偶者5=
 
|配偶者6=
 
|配偶者7=
 
|配偶者8=
 
|配偶者9=
 
|配偶者10=
 
|子女=[[山背大兄王]]、[[殖栗王]]、[[財王]]、[[日置王]]、[[白髪部王]]<br />[[長谷王]]、[[三枝王]]、[[伊止志古王]]、[[麻呂古王]]<br />[[片岡女王]]、[[手島女王]]、[[舂米女王]]、<br />[[久波太女王]]、[[波止利女王]]、[[馬屋古女王]]
 
|父親=[[用明天皇]]
 
|母親=[[穴穂部間人皇女]]
 
|役職=[[皇太子]]
 
}}
 
'''聖徳太子'''(しょうとくたいし、[[敏達天皇]]3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[574年]][[2月7日]]) - [[推古天皇]]30年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[622年]][[4月8日]]))・'''厩戸皇子'''(うまやどのみこ、うまやどのおうじ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%A9%E6%88%B8%E7%9A%87%E5%AD%90-441411 厩戸皇子 ウマヤドノオウジ]</ref>)は、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]・[[政治家]]。「聖徳太子」は、後世の[[諡号]]。[[用明天皇]]の第二皇子、母は[[欽明天皇]]の皇女・[[穴穂部間人皇女]]。
 
  
[[推古天皇]]のもと、[[蘇我馬子]]と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで[[遣隋使]]を派遣するなど進んでいる[[中国]]の文化・制度を学び[[冠位十二階]][[十七条憲法]]を定めるなど[[天皇]]を中心とした[[中央集権]]国家体制の確立を図った他、[[仏教]]を取り入れ[[神道]]とともに厚く信仰し興隆につとめた、とされる。
+
'''聖徳太子'''(しょうとくたいし、[[敏達天皇]]3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]][[574年]][[2月7日]]) - [[推古天皇]]30年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]][[622年]][[4月8日]]))・'''厩戸皇子'''(うまやどのみこ、うまやどのおうじ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%A9%E6%88%B8%E7%9A%87%E5%AD%90-441411 厩戸皇子 ウマヤドノオウジ]</ref>)
== 名称 ==
 
[[厩舎|厩戸]]前にて出生したので'''厩戸'''(うまやど・うまやと)と命名されたとの伝説がある{{Efn|『日本書紀』に生年は記述されていないが「生れましながら能く言ふ。聖の智有り」と記述されており、[[出産]]間近の間人皇女が宮中の厩の前を通りかかった時に急に産気づいて少しも苦しまずに安産したという。参考文献:小学館週刊『新設戦乱の日本史 第27号 蘇我・物部の決戦』{{要ページ番号|date=2017年2月}}}}。また母が実母・[[蘇我小姉君]]の実家(おじ・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。
 
  
'''豊聡耳'''(とよとみみ、とよさとみみ)、'''上宮王'''(かみつみやおう)との別名も有り[[顕真 (法隆寺)|顕真]]が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている[[慶雲]]3年([[706年]])頃に作られた「[[法起寺]]塔露盤銘」には'''上宮太子聖徳皇'''、『[[古事記]]』(和銅5年、[[712年]])では'''上宮之厩戸豊聡耳命'''、『[[日本書紀]]』(養老4年、[[720年]])では厩戸(豐聰耳)皇子のほかに'''豊耳聡聖徳'''、'''豊聡耳法大王'''、'''法主王'''、'''東宮聖徳'''と記されている。
+
古代,推古朝の摂政。厩戸皇子,豊聡耳 (とよとみみ) 皇子といい,また上宮太子とも称する。用明天皇の皇子,母は穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后。叔母推古天皇の皇太子となり,摂政として内政,外交,仏教の興隆に力を尽した。皇太子摂政の慣習はここに始ったが,これは従来大臣,大連にゆだねられてきた国政総理の職掌を皇室に取戻そうとしたものである。推古 11 (603) [[冠位十二階]]を,翌 12年『[[十七条憲法]]』を定め,豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための[[新羅征討]]が重大問題で,また新羅問題を有利にし先進文化を輸入するため隋とも国交を開始し,同 15年に[[小野妹子]]を派遣した。仏教を深く信仰し,これを弘通させることに努力し,[[法隆寺]],四天王寺などを建立し,仏典の注釈『三経義疏』を著わしたと伝えられる。墓は大阪府南河内郡太子町の磯長墓 (しながのはか) 。
 
+
   
'''聖徳太子'''という名称は死没129年後[[天平勝宝]]3年([[751年]])に編纂された『[[懐風藻]]』が初出と言われる{{Efn|懐風藻序「逮乎聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇釈教。未遑篇章。」}}。そして、[[平安時代]]に成立した史書である『[[日本三代実録]]<ref>巻二[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])五月十九日甲戌条、巻八貞観6年([[864年]])正月十四日辛丑条、巻卅八[[元慶]]4年([[880年]])十月廿日庚子条など。</ref>』『[[大鏡]]』『[[東大寺要録]]』『[[水鏡]]』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが伺える。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[713年]]-[[717年]]頃の成立とされる『[[播磨国風土記]]』印南郡大國里条にある[[生石神社]]の「[[石の宝殿]]」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 {{Smaller|厩戸}} 弓削大連 {{Smaller|守屋}} 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二[[丈]](つえ)、廣さ一丈五尺(さか、[[尺]]または[[咫]])、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は[[物部守屋]]、「聖徳の王('''聖徳王''')」は厩戸皇子<ref>『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年/平成9年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、間壁忠彦 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター 1996年/平成8年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、[[738年]]頃)には上宮太子の[[諡号]]を'''聖徳王'''としたとある。
 
 
 
== 日本書紀に見られる記述 ==
 
[[画像:Asuka dera Prince Shotoku.jpg|180px|thumb|聖徳太子立像([[飛鳥寺]])]]
 
 
 
[[敏達天皇]]3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は[[蘇我稲目]]の娘[[蘇我堅塩媛|堅塩媛]]を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・[[蘇我小姉君|小姉君]]であり、つまり厩戸皇子は[[蘇我氏]]と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも[[欽明天皇]]を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の[[兄弟姉妹婚|キョウダイ婚]]によって生まれた子供とされている。
 
 
 
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
 
 
 
用明天皇元年([[585年]])、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した([[用明天皇]])。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の[[蘇我馬子]]と排仏派の[[物部守屋]]とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年([[587年]])、用明天皇は崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す[[穴穂部皇子]]を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は[[河内国]][[渋川郡]]の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は[[迹見赤檮]]に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
 
 
 
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた([[崇峻天皇]])。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年([[592年]])、馬子は[[東漢駒]]に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた([[推古天皇]])。天皇家史上初の[[女帝]]である。厩戸皇子は[[皇太子]]{{Efn|[[荒木敏夫]]は皇太子制を[[飛鳥浄御原令]]での成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年{{要ページ番号|date=2017年2月}}))が、[[河内祥輔]]は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。だが、竹田皇子の急死後に竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が没するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく死去した)とする{{refnest|『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)pp.49-54}}。}}となり、馬子と共に天皇を補佐した。
 
 
 
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、[[摂津国]][[大阪|難波]]に[[四天王寺]]を建立した。四天王寺に[[施薬院]]、療病院、[[悲田院]]、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年([[594年]])、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年([[595年]])、[[高句麗]]の僧[[慧慈]]が渡来し、太子の師となり「[[隋]]は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
 
 
 
推古天皇5年([[597年]])、吉士磐金を[[新羅]]へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年([[600年]])[[新羅]]征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる{{Efn|開皇20年(600年)『[[隋書]]』に、{{補助漢字フォント|俀}}國の「{{補助漢字フォント|俀}}王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩{{JIS2004フォント|雞}}彌」から初めて[[遣隋使]]がきた記事がある。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「{{補助漢字フォント|俀}}」と表記したとする説が有力である。}}。
 
 
 
推古天皇9年([[601年]])、[[斑鳩宮]]を造営した。
 
 
 
推古天皇10年([[602年]])、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・[[来目皇子]]を将軍に[[筑紫]]に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・[[当麻皇子]]が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族([[秦氏]]や[[膳氏]]など)が九州各地に[[部民]]を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の[[大宰府]]の元になった[[筑紫大宰]]も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある<ref>酒井芳司「九州地方の軍事と交通」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P236-238</ref>。書生を選び、来日した[[観勒]]に[[暦]]を学ばせる。
 
 
 
推古天皇11年([[603年]])[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、いわゆる[[冠位十二階]]を定めた。[[氏姓制]]ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
 
 
 
推古天皇12年([[604年]])[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる[[十七条憲法]]を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。{{Efn|日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。日本書紀は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。}}
 
 
 
推古天皇13年([[605年]])、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
 
 
 
推古天皇15年([[607年]])、[[屯倉]]を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。[[小野妹子]]、[[鞍作福利]]を使者とし随に国書{{Efn|日本書紀は随を大唐国としている。また、日本書紀には国書の内容(「日出る処…」)の記述はない。}}を送った。翌年、返礼の使者である[[裴世清]]が訪れた{{Efn|『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の[[天子]]、書を日没する処の[[天子]]に致す(「{{lang|zh|聞海西菩薩天子重興佛法}}」「{{lang|zh|日出處天子致書日沒處天子無恙云云}}」「{{lang|zh|卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國}}」)」との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の[[煬帝]](開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「{{lang|zh|帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞}}」)と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。この国書は{{補助漢字フォント|俀}}國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の{{補助漢字フォント|俀}}國と結ぶ必要があった。}}。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す){{Efn|『隋書』にこの記述はない。}}とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」{{Efn|どの時代から「天皇」という語が使用されているかについては諸説ある。}}としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、[[高向玄理]]、[[南淵請安]]、[[旻]]ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
 
 
 
推古天皇20年([[612年]])、百済人味摩之が[[伎楽]]を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
 
 
 
推古天皇21年([[613年]])、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり<ref>{{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |page=86|isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}</ref>、現在の[[竹内街道]]とほぼ重なる。
 
 
 
推古天皇22年([[614年]])、[[犬上御田鍬]]らを隋へ派遣する。最後の[[遣隋使]]となる。
 
 
 
厩戸皇子は[[仏教]]を厚く信仰し、推古天皇23年([[615年]])までに[[三経義疏]]を著した。
 
 
 
推古天皇28年([[620年]])、厩戸皇子は馬子と議して『[[国記]]』、『[[天皇記]]』、『[[臣連伴造国造百八十部并公民等本記]]』を編纂した。
 
 
 
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・[[膳部菩岐々美郎女|膳大郎女]]が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった([[日本書紀]]では、同29年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]([[621年]]))。享年49。
 
 
 
== そのほかの伝説 ==
 
[[画像:Araiyakushi Prince Shotoku right.jpg|240px|thumb|16歳の聖徳太子像([[新井薬師寺]])]]
 
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
 
 
 
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている[[古事記]]や[[日本書紀]]の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『[[聖徳太子伝暦]]』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている{{Efn|田村圓澄は「その太子像は荒唐無稽な異聞奇瑞(きずい)で満たされている」とする。作者を[[藤原兼輔]]とする説が有力であったが、今日では疑問視されている(日本大百科全書(小学館{{要ページ番号|date=2017年2月}}) )。}}。
 
 
 
=== 出生について ===
 
「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」([[受胎告知]])などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に[[中国]]に伝来していた[[景教]]([[キリスト教]]の[[ネストリウス派]])の[[福音書]]の内容などが日本に伝わり、その中から[[イエス・キリスト]]誕生の逸話が[[貴種]]出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者([[久米邦武]]が代表例)もいる{{Efn|久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。[[佐伯好朗]]は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い[[秦氏]]と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。さらに空想をたくましくして秦氏と[[古代イスラエル]]民族と直接に関連するという[[日ユ同祖論]]を唱える極端な仮説([[手島郁郎]]『[[太秦]]の神-八幡信仰とキリスト景教』([[1971年]]{{要ページ番号|date=2017年2月}})が代表例)も存在する。}}。
 
 
 
しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の[[干支]]は[[甲午]](きのえうま)でいわゆる[[午]]年であるし、また古代中国にも[[観音]]や[[神仙]]により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の[[釈迦]]出生の際の逸話にも似ている)。出生地は[[橘寺]]、またはその付近とされる。[[橘寺]]は[[田道間守|タヂマモリ]]が[[垂仁天皇]]の御世に[[常世の国]]から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。
 
 
 
=== 豊聡耳 ===
 
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった{{Efn|[[妙法蓮華経]]法師功徳品(ほっしくどくほん)は「千二百の耳の功徳」について説いている。(爾時仏告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華経。若讀若誦若解説若書寫。是人当得八百眼功徳。千二百耳功徳。八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄。是善男子善女人。父母所生清浄肉眼。見於三千大千世界。内外所有山林河海。下至阿鼻地獄上至有頂。亦見其中一切衆生。及業因縁果報生処。悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。)(無数種人聲。聞悉能解了。)}}。
 
 
 
『[[上宮聖徳法王帝説]]』、『[[聖徳太子伝暦]]』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。
 
『[[日本書紀]]』と『[[日本現報善悪霊異記]]』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある{{要出典|date=2014年4月|title=出典を求める理由や求める出典内容}}。
 
 
 
=== 兼知未然===
 
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「[[未来記]](日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。『[[平家物語]]』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『[[太平記]]』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には[[楠木正成]]が未来記を実見し、[[後醍醐天皇]]の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす[[偽書]]であるとして幕府により[[禁書]]とされ、編纂者の[[潮音]]らが処罰された『[[先代旧事本紀大成経]]』にある『[[未然本記]]』も未来記を模したものとみることができる。
 
 
 
=== 南嶽慧思の生まれ変わり ===
 
「[[南嶽慧思後身説]](慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は[[天台宗]]開祖の[[智ギ|天台智顗]]の師の[[衡山|南嶽]][[慧思]](515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『[[四天王寺障子伝]](=『[[七代記]]』)』、『[[上宮皇太子菩薩伝]]』、『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。
 
 
 
中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており[[鑑真]]渡日の動機となったとする説もある<ref>『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』王勇 大修館書店、1994年{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
 
 
 
=== 飛翔伝説 ===
 
『[[聖徳太子伝暦]]』や『[[扶桑略記]]』によれば、太子は[[推古天皇]]6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い[[甲斐の黒駒]]を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、[[富士山]]を越えて[[信濃国]]まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
 
 
 
=== 片岡飢人(者)伝説 ===
 
{{main|片岡山伝説}}
 
 
 
『日本書紀』によると次のようなものである。
 
 
 
[[推古天皇]]21年[[12月 (旧暦)|12月]][[庚午]][[朔]](613年)皇太子が片岡([[片岡山]])に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
 
{{Quotation|「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」|}}
 
{{Quotation|しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て  臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ|}}
 
 
 
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
 
 
 
『[[万葉集]]』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。
 
 
 
{{Quotation|上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首<br/>(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古)<br/>「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人[立心偏+可]怜」|}}
 
{{Efn|万葉集(『萬葉集』巻三 415)では片岡山ではなく[[龍田山]]とある。}}
 
 
 
{{Quotation|家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ|}}
 
 
 
また、『[[拾遺和歌集]]』には聖徳太子作として次の歌がある{{Efn|拾遺和歌集巻20哀傷1350 この歌と返し歌をもって『拾遺和歌集』最終巻は終わる。『[[源氏物語]]』 第20帖 朝顔(あさかほ)にて、光源氏が老婆となった今も衰えぬ[[源典侍]]にかけた言葉「その世のことは みな昔語りになりゆくを はるかに思ひ出づるも 心細きに うれしき御声かな 親なしに臥せる旅人と 育みたまへかし(あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥(ふ)せる旅人』と思ってください。 [[与謝野晶子]]訳)」はこの歌をふまえたものである。返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」}}。
 
 
 
{{Quotation|しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし|}}
 
 
 
後世、この飢人は[[達磨]]大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に[[達磨寺 (北葛城郡王寺町)|達磨寺]]が建立されている{{Efn|『日本書紀』編纂当時は、死穢・触穢を忌避する観念、風習は未発達であると考えられるが(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条参照)、疫病は恐れられていた。『[[荘子 (書物)|荘子]]』大宗師篇第六に「真人」について詳説する部分がある。また、遺体の消滅は[[仙人]]の[[尸解仙]](しかいせん)にも類似し、『[[新約聖書]]』も想起させる。大山誠一は、『日本書紀』の推古紀と[[道教]]に関心が深かった長屋王や道慈との関係について仮説を提示している{{要出典|date=2017年2月}}。}}。
 
 
 
=== 箸の奨励について===
 
[[隋]]へ派遣した[[小野妹子]]からの報告をきっかけに、宮中での[[箸]]の使用を奨励したという<ref>
 
一色八郎 『箸の文化史 世界の箸・日本の箸』 御茶の水書房, 1998年、p.54</ref>。
 
 
 
== ゆかりの寺院 ==
 
[[File:Horyu-ji36s3200.jpg|240px|thumb|夢殿([[法隆寺]])]]
 
日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる[[寺院]]が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、[[境野黄洋]]は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている<ref>[[境野黄洋]] 『聖徳太子伝』 (丙午出版社、1917年)、p.128</ref>。
 
; 四天王寺
 
: [[大阪市]][[天王寺区]]。『日本書紀』によれば、[[蘇我氏]]と[[物部氏]]の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、[[四天王]]を安置する寺院を建てると誓願を立てた。見事勝利したので、[[摂津国]][[大阪|難波]]に[[四天王寺]]を建てた。『書記』によれば593年(推古天皇元年)のことという。四天王寺には、敬田院、[[施薬院]]、療病院、[[悲田院]]の4つの四箇院を設置したという。なお、聖徳太子の佩刀とされる[[七星剣]]と[[丙子椒林剣]]が現在、四天王寺に保管されている。本尊は救世観音で、[[四天王寺]]では聖徳太子の念持仏の[[如意輪観音]]とも同一視される。
 
; 法隆寺(斑鳩寺)
 
: [[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]]。[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|金堂薬師如来像光背銘]]によれば、[[法隆寺]]は[[用明天皇]]が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ[[推古天皇]]と聖徳太子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。『[[日本書紀]]』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、[[若草伽藍]]の発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ[[斑鳩宮]]の旧地に建てられている。
 
; [[斑鳩寺 (兵庫県太子町)|斑鳩寺]](播磨)
 
: [[兵庫県]][[揖保郡]][[太子町 (兵庫県)|太子町]]。聖徳太子は推古天皇から賜った[[播磨国]][[揖保郡]]の地を「鵤荘」と名付け、[[伽藍]]を建立し、法隆寺に寄進をした。これが[[斑鳩寺 (兵庫県太子町)|斑鳩寺]]の始まりと伝えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に[[天台宗]]へ改宗した。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「[[聖徳太子の地球儀]]」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている。聖徳太子生誕地の[[橘寺]]と、墓所の[[叡福寺]]を結んだライン延長上にこの太子町の斑鳩寺が位置している。
 
; 太子建立七大寺 
 
: [[四天王寺]]、[[法隆寺]]、[[中宮寺]](中宮尼寺)、[[橘寺]]、蜂岡寺([[広隆寺]])、池後寺([[法起寺]])、[[葛木寺]](葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。
 
; 河内三太子
 
: 聖徳太子ゆかりの寺院とされる[[叡福寺]]、[[野中寺]]、[[大聖勝軍寺]]はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「河内三太子」と総称されている{{Efn|叡福寺の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」七幅(南北朝-室町時代に制作された)は2008年に修復が完成した。}}。
 
 
 
== ゆかりの神社==
 
敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。[[四天王寺]]境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。
 
* [[四天王寺七宮]] - 聖徳太子創建。 [[小儀神社]](四天王寺東門前)、[[土塔神社]](同南門前)、[[河堀稲生神社]](天王寺区大道)、[[久保神社]](同勝山)、[[大江神社]](同夕陽丘町)、[[堀越神社]](同茶臼山町)、[[上野王子 (大阪市)|上之宮神社]](同上之宮町)
 
* [[玉造稲荷神社]](大阪市中央区玉造) - 聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
 
* [[龍田神社]](奈良県生駒郡[[斑鳩町]]龍田) - 聖徳太子が[[法隆寺]]の建設地を探していたとき、白髪の老人の姿をした龍田大明神が「斑鳩の里が仏法興隆の地である。私はその守護神となる」と託宣したので、その地を選び、鎮守社とした。
 
* [[綱敷天満神社 (神戸市)|御影の綱敷天満宮]](神戸市[[東灘区]][[御影 (神戸市)|御影]]) - [[四天王寺]]創建の際、[[六甲山]]の御影石を切り出し、その際、蒼稲魂神を合せ祠る。その御神体と、聖徳太子の所持していた笏と駒角が現存する。
 
* 竜王宮(滋賀県竜王町鏡山) - 山頂付近に聖徳太子26歳の時、自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。 雨の神・水の神ともいわれる[[八大竜王]]が龍王宮として祀られ、寺院の守護をした。
 
* 飽波神社(生駒郡安堵町) - 聖徳太子が牛頭天王を祀ったのが創建と伝えられ、飽波宮のあった場所と比定する説もある。主祭神は素戔嗚尊。
 
* 森之宮神社(鵲森宮〈かささぎもりみや〉、大阪市中央区[[森之宮]]) - [[用明天皇]]と[[間人皇后]]を祀る。聖徳太子創建。
 
* 福王神社(三重県三重郡[[菰野町]]田口) - 聖徳太子の命により[[毘沙門天]]が安置され、国の鎮護と[[伊勢神宮]]の守りとしたと伝わる。
 
* 御沢神社(おさわじんじゃ、滋賀県[[東近江市]]上平木町) - 主祭神は市杵嶋姫命、弁財天女、聖徳太子、八大龍王。聖徳太子が蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾されたとき、用水の溜め池として清水(きよみず)池・白水(はくすい)池・泥水(にごり)池をつくり、神社を創建したと伝わる。
 
* 白龍大神天宮塚([[宝塚市]]) - 円錐形の山容をした天宮塚は中山連山の一つで、聖徳太子御修行遺跡。聖徳太子創建の[[中山寺]]{{要曖昧さ回避|date=2016年2月}}と関わる。
 
 
 
== 墓 ==
 
[[File:Eifukuji Kita Kofun, haisho-1.jpg|220px|thumb|{{center|聖徳太子 [[叡福寺北古墳|磯長墓]]<br />([[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]])}}]]
 
[[陵墓|墓]]は、[[宮内庁]]により[[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]]の[[叡福寺]]境内にある'''磯長墓'''(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「[[叡福寺北古墳]]」で、円墳である。『日本書紀』には「磯長陵」と見える。[[穴穂部間人皇女]]と[[膳部菩岐々美郎女]]を合葬する三骨一廟である。なお、 明治時代に内部調査した際の記録を基にした[[横穴式石室]]の復元模型が[[大阪府立近つ飛鳥博物館]]に存在する。
 
 
 
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、[[宮内庁書陵部]]によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている<ref>「聖徳太子墓はやや小さめ 宮内庁が研究者に公開」 共同通信 2002年11月14日{{要ページ番号|date=2017年2月}}、「「聖徳太子墓」を初めて研究者に公開 宮内庁」 asahi.com 2002年11月15日</ref>{{Efn|[[徒然草]]第六段に次の一文がある。「聖徳太子の御墓(みはか)を、かねて築(つ)かせ給(たま)ひける時も、「ここをきれ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍(はべ)りけるとかや。」}}。
 
 
 
== 系譜 ==
 
; 先祖
 
{{ahnentafel top|聖徳太子の系譜|width=100%}}
 
{{ahnentafel-compact5
 
|style=font-size: 90%; line-height: 110%;
 
|border=1
 
|boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0;
 
|boxstyle_1=background-color: #fcc;
 
|boxstyle_2=background-color: #fb9;
 
|boxstyle_3=background-color: #ffc;
 
|boxstyle_4=background-color: #bfc;
 
|boxstyle_5=background-color: #9fe;
 
|1= 1. 聖徳太子
 
|2= 2. [[用明天皇|第31代 用明天皇]]
 
|3= 3. [[穴穂部間人皇女]]
 
|4= 4. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=6)
 
|5= 5. [[蘇我堅塩媛]]
 
|6= 6. [[欽明天皇|第29代 欽明天皇]](=4)
 
|7= 7. [[蘇我小姉君]]
 
|8= 8. [[継体天皇|第26代 継体天皇]](=12)
 
|9= 9. [[手白香皇女]](=13)
 
|10= 10. [[蘇我稲目]](=14)
 
|12= 12. [[継体天皇|第26代 継体天皇]](=8)
 
|13= 13. [[手白香皇女]](=9)
 
|14= 14. [[蘇我稲目]](=10)
 
|16= 16.[[彦主人王]](=24)
 
|17= 17.振媛(=25)
 
|18= 18. [[仁賢天皇|第24代 仁賢天皇]](=26)
 
|19= 19. 春日大娘皇女(=27)
 
|20= 20. [[蘇我高麗]](=28)
 
|24= 24. [[彦主人王]](=16)
 
|25= 25. 振媛(=25)
 
|26= 26. [[仁賢天皇|第24代 仁賢天皇]](=18)
 
|27= 27. 春日大娘皇女(=19)
 
|28= 28. [[蘇我高麗]](=20)
 
}}</center>
 
{{ahnentafel bottom}}
 
 
 
; 兄弟姉妹
 
* 母・''穴穂部間人皇女''(欽明天皇の皇女。のち田目皇子の妃)
 
** '''厩戸皇子(聖徳太子)'''
 
** [[来目皇子]]
 
** [[殖栗皇子]]
 
** [[茨田皇子]]
 
* 母・[[蘇我石寸名]]([[蘇我稲目]]の娘)
 
** [[田目皇子]](用明天皇の第一皇子)
 
*** [[佐富女王]](母は[[穴穂部間人皇女]])
 
* 母・[[葛城廣子]]([[葛城直磐村]]の娘)
 
** [[麻呂子皇子]]
 
** [[酢香手姫皇女]]
 
; 妻子
 
* [[菟道貝蛸皇女]]([[敏達天皇]]・[[推古天皇]]の皇女)
 
* [[橘大郎女]]([[尾張皇子]]の娘。菟道貝蛸皇女の姪)
 
** [[白髪部王]]
 
** [[手島女王]]
 
* [[刀自古郎女]]([[蘇我馬子]]の娘)
 
** [[山背大兄王]]
 
** [[財王]]
 
** [[日置王]]
 
** [[片岡女王]]
 
* [[膳部菩岐々美郎女|膳大郎女]]([[膳傾子|膳臣傾子]]の娘)
 
** [[泊瀬王]](妻は佐富女王)
 
** [[三枝王]]
 
** [[伊止志古王]]
 
** [[麻呂古王]]
 
** [[舂米女王]](山背大兄王の妃)
 
** [[久波太女王]]
 
** [[波止利女王]]
 
** [[馬屋古女王]]
 
 
 
== 著作 ==
 
[[Image:Lotus Sutra written by Prince Shōtoku.jpg|right|thumb|140px|法華義疏]]
 
ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。ただ、聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書も多い{{Efn|[[1675年]]([[延宝]]3年)、聖徳太子の憲法には「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法が存在し、「通蒙憲法」が十七条憲法であると説く『聖徳太子五憲法』と称する書が現れた。『聖徳太子五憲法』は[[1679年]](延宝7年)に現れた[[偽書]]『[[先代旧事本紀大成経]]』巻七十「憲法本紀」と同じ内容である。}}ため注意が必要である。
 
 
 
* 『[[三経義疏]]』。このうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが[[御物]]となっており、現存する書跡では最も古く、[[書道史]]においても重要な筆跡である。
 
* 『[[四天王寺]]縁起』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世([[平安時代]]中期)の仮託と見られている。
 
* 『[[十七条憲法]]』は、『[[日本書紀]]』(推古天皇12年(604年))中に全文引用されているものが初出。『上宮聖徳法王帝説』には、乙丑の年(推古13年(605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。
 
* 『[[天皇記]]』、『[[国記]]』、『[[臣連伴造国造百八十部并公民等本記]]』は、『[[日本書紀]]』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
 
* 『[[先代旧事本紀]]』は、序文で聖徳太子と[[蘇我馬子]]が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。その中には全85条からなり、神職、僧侶、儒者、政治家、公務員へ向けた5種類の[[十七条憲法]]が掲載されている。(十七条五憲法)
 
* 『[[未来記]]』は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する[[鎌倉時代]]に頻出する[[偽書]]群。
 
 
 
== 太子信仰 ==
 
[[ファイル:Kakogawa Kakurinji16n4592.jpg|thumb|240px|[[太子堂]]([[鶴林寺 (加古川市)|鶴林寺]])]]
 
聖徳太子の聖人化は、『[[日本書紀]]』に既にみえており、8世紀には「本朝(日本)の[[釈迦]]」と仰がれ、[[鎌倉時代]]までに『[[聖徳太子伝暦]]』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝([[中世太子伝]])が成立した<ref>『日本大百科全書』(小学館)聖徳太子の項</ref>。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。
 
 
 
太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った[[太子堂]]が各地の寺院にある。聖徳太子は[[観音菩薩]]の化身として尊ばれた<ref>宮城 顗『和讃に学ぶ:正像末和讃』p.222。</ref>。なお、「聖徳太子は[[観音菩薩]]の生まれ変わりである」とする考えもある。
 
 
 
その他、室町時代の終わり頃から、太子の[[祥月命日]]とされる[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]を「[[太子講]]」の日と定め、大工や木工職人の間で[[講]]が行なわれるようになった。これは、[[四天王寺]]や[[法隆寺]]などの巨大建築に太子が関わり[[聖徳太子諸職|諸職]]を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった<ref>能門伊都子「特定の職業・人に信仰される神々」、『大法輪』第72巻1号、[[法藏館]]、[[2005年]](平成17年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
 
 
 
現在は、聖徳太子を開祖とする[[宗派]]として[[聖徳宗]](法隆寺が本山)が存在している。
 
 
 
=== 親鸞 ===
 
[[ファイル:Rokkakudo.jpg|thumb|180px|[[頂法寺|六角堂(頂法寺・本堂)]]]]
 
[[親鸞]]は、太子信仰を有していた<ref>本多弘之 監修『知識ゼロからの親鸞入門』pp.30-31。</ref>。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『[[三帖和讃#正像末和讃|正像末和讃]]』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している<ref>名畑應順『親鸞和讃集』p.313</ref>。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて(略){{Efn|原文:「佛智不思議の誓願を 聖德皇のめぐみにて 正定聚に歸入して 補處の彌勒のごとくなり」}}」と阿弥陀如来の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと<ref>名畑應順『親鸞和讃集』p.194</ref>詠われ、「和国の教主聖徳皇{{Efn|原文:和國の敎主聖德皇 廣大恩德謝しがたし 一心に歸命したてまつり 奉讚不退ならしめよ}}」と太子を日本に生まれて正法を興した主である{{Efn|和国の教主とは、日本に生まれて正法を興した主。釈尊を教主世尊と崇めるのに準じて、太子を日本の教主と尊称する。(名畑應順『親鸞和讃集』p.198より引用。)}}詠われた。親鸞の聖徳太子に纏わる夢告はいくつかあるが、[[六角堂]]に参篭した際の救世観音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていったと考えられる<ref>宮城 顗『和讃に学ぶ:正像末和讃』pp.188-189</ref>。
 
 
 
親鸞は救世観音菩薩が聖徳太子として示現されたと敬った。親鸞の妻である[[恵信尼]]は、自身の消息の中の一通{{Efn|自身の消息の中の一通とは、ここでは「[[恵信尼#恵信尼消息|恵信尼消息]]」第三通のこと。}}で、下総の坂井にいた時の夢告にて、師の法然は[[勢至菩薩]]、夫の親鸞が[[観音菩薩]]と示現され、その後は普通の方とは見なかったと書き記している。このことは太子信仰とは直接の関係はないが、この恵信尼の夢告に鑑みると、親鸞と阿弥陀如来の誓願に導く観音菩薩のはたらきとの関係性がより明確になる。
 
 
 
== 後世の評価 ==
 
[[関晃]]は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、[[十七条憲法]]の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」<ref>『世界大百科事典第二版』平凡社{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
 
 
 
[[田村圓澄]]は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」<ref>『日本大百科全書』小学館{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
 
 
 
[[内藤湖南]]は『[[隋書]]』「{{lang|zh|卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國}}」に記述された{{補助漢字フォント|俀}}王[[多利思比孤|多利思北孤]]による「{{lang|zh|日出處天子致書日沒處天子無恙云云}}」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と推定している{{Efn|「それに國書の如きも隋書に載れる  日出處天子致書日沒處天子無恙云々  の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。」(「聖徳太子」『内藤湖南全集第九巻』(筑摩書房 1976年{{要ページ番号|date=2017年2月}}))}}。
 
 
 
== 紙幣の肖像など ==
 
[[Image:Taishi 10000JPY.jpg|thumb|280px|聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)]]
 
[[画像:Shotoku taishi revenue 500Yen 1948.jpg|thumb|right|聖徳太子の肖像が描かれた500円収入印紙(1948年発行)]]
 
聖徳太子の肖像画は[[1930年]](昭和5年)、[[紙幣]]([[日本銀行券]])の絵柄として[[百円紙幣]]に初めて登場して以来、[[千円紙幣]]、[[五千円紙幣]]、[[一万円紙幣]]と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる[[1958年]](昭和33年)から[[1984年]](昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる[[唐本御影]]から採られている。[[1948年]](昭和23年)発行の500円[[収入印紙]]にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。
 
 
 
== 虚構説 ==
 
{{参照方法|date=2011年4月|section=1}}
 
=== 研究史 ===
 
[[ファイル:Prince Shotoku.jpg|180px|thumb|「[[唐本御影]]」聖徳太子が描かれた肖像画。(この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある。)]]
 
 
 
近代における実証的研究には[[久米邦武]]の『上宮太子実録』<ref>『久米邦武歴史著作集 第1巻 聖徳太子の研究』 吉川弘文館 1988年{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>がある。
 
 
 
また、[[十七条憲法]]を太子作ではないとする説は江戸後期の[[考証学]]者[[狩谷鍵斎]]らに始まり、[[津田左右吉]]は十七条憲法を太子作ではないと主張した<ref>1930年の『日本上代史研究』による。津田左右吉『日本古典の研究』(岩波書店、1972年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。戦後、[[井上光貞]]、[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]や[[関晃]]らは津田説に反論している<ref>井上光貞『飛鳥の朝廷』(講談社学術文庫 1974年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、坂本太郎『聖徳太子』(吉川弘文館 1979年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>{{Efn|[[関晃]]は偽作説の根拠はあまり有力とはいえない」とする。『世界大百科事典第二版』平凡社{{要ページ番号|date=2017年2月}}}}。一方、[[森博達]]は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている<ref>森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書 1999年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
[[高野勉]]の『聖徳太子暗殺論』([[1985年]])は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・[[蘇我善徳|善徳]]が真の聖徳太子であり、後に[[天智天皇|中大兄皇子]]に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が[[蘇我入鹿]]であると主張している。また[[石渡信一郎]]は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』([[1992年]])を出版し、[[谷沢永一]]は『聖徳太子はいなかった』([[2004年]])を著している。近年は歴史学者の[[大山誠一]]らが主張している(後述)。
 
 
 
=== 大山誠一による聖徳太子虚構説 ===
 
[[1999年]]、[[大山誠一]]『「聖徳太子」の誕生』が発表された<ref>『「聖徳太子」の誕生』吉川弘文館</ref><ref name="kokai-koza">[https://web.archive.org/web/20090927144109/http://www.aoyama-matsudo.com/shohtoku-taishi-ishda.htm 公開講演『聖徳太子は実在するか』](2009年9月27日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち[[冠位十二階]]と[[遣隋使]]の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても、『[[隋書]]』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた、そうすると[[推古天皇]]の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり{{Efn|高森明勅(國學院大學講師)は「大山氏の方法論の致命的な欠陥は、「日本書紀以前に確実な史料がなければ、日本書紀に描かれた人物であっても虚構だ」、と言っていること」と述べている(「歴史教科書10の争点」レポート
 
高森明勅「日本の国柄をつくった聖徳太子」{{要ページ番号|date=2017年2月}} )。}}{{Efn|安本美典は次のように述べている。「失敗をくり返してきた19世紀的文献批判学に対して、海外では、すでに多くの再批判がおこなわれ、たとえば、『数理哲学の歴史』の著者のG・マルチンは、「自分自身に対して無批判な批判」と鋭く論評してる。しかし、日本では、いまもなお、津田左右吉流の擬古派的な主張をする学者が少なくない。擬古派的な考え方は、くりかえし、事実によって粉砕されてきたが、日本では、第二次世界大戦中の『古事記』『日本書紀』をそのまま信ずべしとする教育に対する反動から、擬古的な考えがいまだに強く、結果的に世界の趨勢からいちじるしくたちおくれた議論が、あいかわらず強調される傾向が続いている。「聖徳太子は実在しなかった」「大化の改新は偽りである」など、擬古派の立場でさまざまな本が出版される背景には、日本のこのような事情があるのである。」(邪馬台国の会 講演会記録第249回聖徳太子は実在した (2006.9.24{{要ページ番号|date=2017年2月}}))}}、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「[[法隆寺金堂薬師如来像光背銘|法隆寺薬師像光背銘文]]、[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘|法隆寺釈迦三尊像光背銘文]]、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
 
 
 
大山は、[[飛鳥時代]]に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、[[藤原不比等]]らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している<ref>ほか『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)。大山誠一「聖徳太子」研究の再検討(上・下)(『弘前大学國史研究 100』1996年3月、10月)</ref>。
 
 
 
大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは[[藤原不比等]]、[[長屋王]]、僧 道慈らである。十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]の後、[[光明皇后]]らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と[[救世観音]]を本尊とする[[夢殿]]、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」<ref>『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>{{Efn|また、用明、祟峻、推古の王朝とされる時期には蘇我馬子の王権が存在したとする仮説(蘇我王権説)を提示している}}
 
 
 
大山説は雑誌『[[東アジアの古代文化]]』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年) にまとめられている。[[石田尚豊]]は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している<ref name="kokai-koza"/>。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。[[三浦佑之]]など大山説に賛同を表明する研究者もいる{{Efn|三浦佑之(立正大学教授)は大山の聖徳太子論に賛成している[http://web.archive.org/web/20140720193528/http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kinin-gizou-jiken.html]}}。
 
 
 
また、[[岡田英弘]]、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から聖徳太子虚構説を論じている<ref>岡田英弘『日本史の誕生』(筑摩書房、2008年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、宮脇淳子『淳子先生の歴史講座―こんなの常識!日本誕生①つくられた聖徳太子』(WiLL2009年7月号別冊 『歴史通』 NO.2{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
=== 大山説への反論 ===
 
[[仁藤敦史]]([[国立歴史民俗博物館]]研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している{{Efn|「奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与える[[諡]]とする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていた」と指摘した{{要出典|date=2017年2月}}。}}。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている<ref>仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校 歴史のしおり』帝国書院 2005年9月{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
 
 
 
[[遠山美都男]]は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している<ref>遠山美都男『天皇と日本の起源』講談社 2003年{{要ページ番号|date=2017年2月}})。ほか[[遠山美都男]] 『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』([[2000年]]{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
ほか、[[和田萃]]{{Efn|和田は、聖徳太子が日本書紀の編纂段階で理想化されたことは多くの人が認めており、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする。日本経済新聞2004年1月10日{{要ページ番号|date=2017年2月}}}}や、[[曽根正人]]<ref>[[曽根正人]]『聖徳太子と飛鳥仏教』([[2007年]]{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>{{Efn|「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい」とする(毎日新聞東京夕刊2007年6月4日{{要ページ番号|date=2017年2月}})。}}らの批判がある。
 
 
 
[[平林章仁]]は、日本書紀はそもそも[[舎人親王]]が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。
 
 
 
[[倉本一宏]]は、「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は[[南都七大寺]]で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している<ref>『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2013年11月号、256頁、257頁</ref>。
 
 
 
聖徳太子虚構説に対する反論としては、[[直木孝次郎]]「厩戸王の政治的地位について」、[[上田正昭]]「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)([[2001年]])、[[森田悌]]『推古朝と聖徳太子』([[2005年]])、などがある。
 
 
 
大山は2009年、これまでに十分な学術的な反論はないなどとしているが<ref>『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>、上記の学者らの批判を学術的とみなさず、また大山の'''史料の恣意的な用い方'''や美術史の成果を無視する等の問題により、現在の歴史学会では無視されている<ref>石井公成「聖徳太子: 実像と伝説の間」2016/1/21{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
 
 
 
=== 虚構説の論点と歴史的資料 ===
 
[[ファイル:Tenjyukoku embroidery.jpg|240px|thumb|天寿国繍帳]]
 
聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「[[十七条憲法]]」、『[[古事記]]』{{Efn|[[用明天皇]]の子として名前(上宮之厩戸豊聰耳命)が記されている。}}、『[[三経義疏]]』、『[[上宮聖徳法王帝説]]』、[[天寿国繍帳]](天寿国曼荼羅繍帳)、[[法隆寺]][[薬師如来]]像および[[釈迦三尊像]]の光背銘文、同三尊像台座内墨書、[[伊予湯岡碑|道後湯岡碑銘文]]、[[法起寺]]塔露盤銘、『[[播磨国風土記]]』、『[[上宮記]]』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。
 
 
 
====日本書紀における聖徳太子像====
 
大山説は藤原不比等と[[長屋王]]の意向を受けて、僧[[道慈]](在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、[[森博達]]は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある{{誰|date=2011年4月}}。森博達は[[文武天皇]]朝(697年-707年)に[[文章博士]]の[[山田史御方]]がβ群の述作を開始したとする<ref>森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書 1999年)、[https://web.archive.org/web/20070423005319/http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon14.html 謎解き日本史](2007年4月23日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
 
 
 
====『勝鬘経義疏』====
 
* 『[[勝鬘経]]』の注釈書である『勝鬘経義疏』について[[藤枝晃]]は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので<ref>藤枝晃「勝鬘経義疏」『聖徳太子集』(岩波書店 1975年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>、大山はこれが筆写されたものとしている<ref>『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
* 『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶[[行信]]が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。
 
* [[安本美典]]は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。
 
* [[王勇]]は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする<ref>王勇「東アジアにおける「三経義疏」の流伝」『中国の日本研究』第2号(浙江大学日本文化研究所 2000年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。また[[花山信勝]]は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している<ref>『大日本仏教全書』(鈴木学術財団{{要ページ番号|date=2017年2月}})、花山信勝『法華義疏の研究―聖徳太子御製』(東洋文庫{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
====『上宮聖徳法王帝説』の系譜====
 
『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、[[家永三郎]]は『おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている<ref>『日本思想大系2 聖徳太子集』(岩波書店 1975年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
====天寿国繍帳====
 
[[天寿国繍帳]]について大山は天皇号、[[和風諡号]]などから推古朝成立を否定している。また、[[金沢英之]]は天寿国繍帳の銘文に現れる[[干支]]が日本では持統4年(690年)に採用された[[儀鳳暦]](麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、[[大橋一章]]は図中の[[服制]]など、幾つかの理由から推古朝のものとしている<ref>大橋一章『天寿国繍帳の研究』(吉川弘文館 1995年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。[[義江明子]]は1989年に天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする<ref>義江明子「天寿國繍帳銘系譜の一考察」『日本史研究』325号 1989年{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。[[石田尚豊]]は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
 
 
 
====法隆寺釈迦三尊像光背銘文====
 
[[法隆寺]][[釈迦三尊]]像光背銘文について、大山説が援用する[[福山敏男]]説では後世の追刻ではないかとする<ref>福山敏男「法隆寺金石文に関する二、三の問題 金堂薬師像・釋迦像・同寺小釋迦像の光背銘」(夢殿第13册 法隆寺の銘文 1935年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。一方、1979年に[[志水正司]]は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする<ref>志水正司『古代寺院の成立』(六興出版 1979年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
====道後湯岡碑銘文====
 
[[伊予湯岡碑|道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)]]についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた([[牧野謙次郎]],1938年{{Efn|「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるもの」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた」。牧野謙次郎 述/[[三浦叶]] 筆記『日本漢學史』(世界堂書店 1938年{{要ページ番号|date=2017年2月}})}})。
 
 
 
大山は、道後湯岡碑銘文<ref>外部リンク[http://www.geocities.jp/kituno_i/iyoyuokahibun.html 伊予湯岡碑文の考察]。伊予国風土記逸文による道後湯岡碑銘文([[駢儷体]]の詩文)[http://221.130.193.65/japanese/book/hanxueshi/07.htm 日本漢學史 道後温泉碑]{{リンク切れ|date=2011年4月}}</ref>{{Efn|「法王大王」は聖徳太子を指す。万葉集巻三239 [[柿本人麻呂]]の詠める「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而・・」のように大王は皇子に使用される例がある。[[山部赤人]]が伊豫温泉([[道後温泉]])を訪れて詠んだ歌([[万葉集]]巻三 322)について、道後湯岡碑銘文または伊予国風土記の内容を踏まえたものとする説がある{{要出典|date=2011年4月}}。}}における[[法興]]6年という年号について、法興は日本書紀に現れない年号([[逸年号]]、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している<ref>『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
また大山は[[仙覚]]『万葉集註釈』(文永年間(1264年-1275年)頃)と『[[釈日本紀]]』(文永11年-正安3年頃(1274年-1301年頃))の引用([[伊予国風土記]]逸文)が初出であるとして、[[鎌倉]]時代に捏造されたものとする。一方、[[荊木美行]]は伊予国風土記逸文を[[風土記]](和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている<ref>荊木美行『風土記逸文の文献学的研究』(皇學館出版部 2002年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。
 
 
 
====法起寺塔露盤銘====
 
慶雲3年(706年)に彫られたとされる[[法起寺]]塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁一年(1238年)頃に[[顕真 (法隆寺)|顕真]]が著した『聖徳太子伝私記<ref>古今目録抄〔法隆寺本〕</ref>』にしか見出せないことなどから偽作とする。
 
 
 
但し、大橋一章の研究では、嘉禄三年(1227年)に[[四天王寺]]東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている<ref>大橋一章「法起寺の発願と造営」早稲田大学大学院文学研究科紀要 2003年[http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8543/1/81027_49.pdf 「法起寺の発願と造営」]</ref>。
 
 
 
また[[直木孝次郎]]は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土[[木簡]]における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている<ref>直木孝次郎「万葉集と木簡に見える「皇」」『東アジアの古代文化』 108号(大和書房 2001{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している<ref>2004年1月10日日本経済新聞{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
 
 
 
====『播磨国風土記』の記述====
 
『[[播磨国風土記]]』([[713年]]-[[717年]]頃の成立とされる)印南郡大國里条にある[[生石神社]]の「[[石の宝殿]]」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 {{Smaller|厩戸}} 弓削大連 {{Smaller|守屋}} 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二[[丈]](つえ)、廣さ一丈五尺(さか、[[尺]]または[[咫]])、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は[[物部守屋]]、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら<ref>『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年{{要ページ番号|date=2017年2月}})、間壁忠彦 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター 1996年{{要ページ番号|date=2017年2月}})</ref>、『播磨国風土記』は物部守屋が[[大連]]であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、[[738年]]頃)には上宮太子の[[諡号]]を「聖徳王」としたとある。
 
 
 
====教育における記述====
 
一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば[[山川出版社]]の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して尊皇派が反発し批判を展開している{{Efn|小林よしのりは自身の著書「天皇論」にて「聖徳太子」という[[諡号]]をカッコ括りの記述にするのは皇室を蔑ろにするものと批判している(120頁にて)}}{{Efn|「厩戸王」は大山説でも使用されているが、'''史料には見られない。'''日本書紀は「厩戸皇子」。[[日本書籍]]の教科書を執筆した[[吉村武彦]]は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年/平成16年1月10日日本経済新聞{{要ページ番号|date=2017年2月}})。}}{{Efn|ただし、歴史記述の際に、君主や皇族について、没後に定められた諡や追号を使用するのはよくあることである。「[[推古天皇]]」「[[後白河天皇]]」「[[魏 (三国)|魏]]の[[曹操|武帝]]」など。また、平安時代以降は後白河天皇を後白河院と[[院号]]で呼ぶのが一般的であったし、[[長慶天皇]]や仲恭天皇のように同時代には即位自体が公認されず、没後数百年を経て政治的に追認された例もある。また、当時の正式名称ではない呼称を、後日の区別のために用いる例もあり、中国の王朝名の「[[前漢]]」「[[後漢]]」「[[蜀漢]]」「[[南漢]]」はみな[[国号]]は「漢」である}}。2013年(平成25年)3月27日付朝日新聞<ref>{{Cite news|title=
 
聖徳太子は実在せず? 高校日本史教科書に「疑う」記述|url=http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html#Contents|newspaper=朝日新聞|date=2013-03-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130327130342/http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html|archivedate=2013-03-27|accessdate=2015-08-31}}</ref>によれば清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた'''聖徳太子虚構説'''(従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた。(その内容については本記事の虚構説の節を参照のこと。→[[#虚構説]])歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない。)
 
 
 
なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度小学校へ、2021年度中学校に導入される予定の[[学習指導要領]]案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された<ref>{{Cite web |date=2017-03-20 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG20H3H_Q7A320C1CR8000/ |title=「聖徳太子」復活を検討 次期指導要領で文科省 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2017-03-22}}</ref>。
 
 
 
== 聖徳太子を題材とした作品 ==
 
; 漫画
 
*『[[日出処の天子]]』(1980年-1984年、[[山岸涼子]])
 
; テレビドラマ
 
* [[聖徳太子 (テレビドラマ)|聖徳太子]](2001年、NHK、演:[[本木雅弘]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
 
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist|2}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2|}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]『聖徳太子』 人物叢書:[[吉川弘文館]] ISBN 4642050019
 
* 曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』2007 吉川弘文館 ISBN 4642056289
 
* 瀧藤尊教『以和為貴 聖徳太子の信仰と思想』 善本社
 
* [[前田恵学]]、引田弘道『人間聖徳太子』講談社
 
* 石田尚豊『聖徳太子辞典』 柏書房 ISBN 4760115404
 
* 新川登亀男『聖徳太子の歴史学』2007 講談社 ISBN 4062583828
 
* [[谷沢永一]] 「聖徳太子はいなかった」2004 新潮新書 ISBN 978-4106100628
 
* 家永三郎ほか『聖徳太子論争』2006 新版 新泉社 ISBN 4787706055
 
* 梅原猛『聖徳太子』2003 小学館、1993 集英社文庫
 
* 梅原猛『隠された十字架 法隆寺論』1986 新潮社 ISBN 4101244014
 
* 遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』2000 角川書店 ISBN 4043551010
 
* 森田悌『推古朝と聖徳太子』2005 岩田書院 ISBN 4872943910
 
* 吉村武彦『聖徳太子』2002 岩波新書 岩波書店 ISBN 4004307694
 
* 王勇『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』1994 大修館書店 ISBN 4469290696
 
* 梅原猛・黒岩重吾・上田正昭ほか『聖徳太子の実像と幻像』2001 大和書房 ISBN 4479840591
 
* 小林惠子『聖徳太子の正体 英雄は海を渡ってやってきた』1990 文藝春秋 ISBN 4163447202
 
* 田中英道『聖徳太子虚構説を排す』2004 PHP ISBN 4569638279
 
* 宮東斎臣『聖徳太子に学ぶ十七絛五憲法』1995 文一総合出版 ISBN 482991100X
 
* 恵美嘉樹『図説 最新日本古代史』 2008 学習研究社 ISBN 4054038344
 
* 大山誠一『長屋王家木簡と金石文』 ISBN 4642023259
 
* 大山誠一『長屋王家木簡と奈良朝政治史』1992 吉川弘文館 ISBN 4642021671
 
* 大山誠一『「聖徳太子」の誕生 歴史文化ライブラリー』1999 吉川弘文館 ISBN 4642054650
 
* 大山誠一『聖徳太子と日本人』2001 風媒社 ISBN 4833105209
 
* 大山誠一(編集・共著)『聖徳太子の真実』2003 平凡社 ISBN 4582469043
 
* 大山誠一『聖徳太子と日本人 ― 天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像』2005 角川書店 ISBN 4043782012
 
* 『聖徳太子の実像と幻像』2001 大和書房 ISBN 4479840591
 
* {{Cite book|和書|author=名畑應順 校注|year=1976|title=親鸞和讃集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫 青318-3|isbn=4-00-333183-4}}
 
* {{Cite book|和書|author=本多弘之 監修|year=2009|title=知識ゼロからの親鸞入門|publisher=幻冬舎|isbn=978-4-344-90148-3}}
 
* {{Cite book|和書|author=宮城 顗|year=2003|title=和讃に学ぶ-正像末和讃|publisher=真宗大谷派宗務所出版部|isbn=4-8341-0306-4}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Prince Shōtoku}}
 
{{Wikiquote}}
 
* [[日本の仏教]]
 
* [[十七条憲法]]
 
* [[日本の書道史]]
 
* [[日本の書家一覧]]
 
* [[聖徳太子霊跡]]
 
* [[聖徳太子流]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1527/taisinosisonn.html 聖徳太子の兄弟・子供・孫の古典の記載状況表]
 
* [http://www.shitennoji.or.jp/ 和宗総本山 四天王寺]
 
* [http://www.shigisan.or.jp/ 総本山 信貴山朝護孫子寺]
 
* [http://www2.plala.or.jp/cygnus/R35.html 隋書倭国伝]
 
* [http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/wa.htm 隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國]
 
* [http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/new_tou/nihon.htm 新唐書卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本]
 
* [{{NDLDC|780715/1}} 皇太子未来記 未然本記]
 
 
 
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{{Normdaten}}
 
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聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ[1]

古代,推古朝の摂政。厩戸皇子,豊聡耳 (とよとみみ) 皇子といい,また上宮太子とも称する。用明天皇の皇子,母は穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后。叔母推古天皇の皇太子となり,摂政として内政,外交,仏教の興隆に力を尽した。皇太子摂政の慣習はここに始ったが,これは従来大臣,大連にゆだねられてきた国政総理の職掌を皇室に取戻そうとしたものである。推古 11 (603) 年冠位十二階を,翌 12年『十七条憲法』を定め,豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討が重大問題で,また新羅問題を有利にし先進文化を輸入するため隋とも国交を開始し,同 15年に小野妹子を派遣した。仏教を深く信仰し,これを弘通させることに努力し,法隆寺,四天王寺などを建立し,仏典の注釈『三経義疏』を著わしたと伝えられる。墓は大阪府南河内郡太子町の磯長墓 (しながのはか) 。



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