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中国古来の詩文,また日本人がそれにならって[[漢字]]のみを用いてつくった詩文。初め大陸からの[[渡来人]]が書き,やがて在来の日本人もそれを範としたとみられる。推古4(596)年の伊予道後温湯碑文,推古12(604)年の[[十七条憲法]]が最初期の[[漢文]]で,[[奈良時代]]には漢詩集『[[懐風藻]]』が編纂された。[[平安時代]]前期にも勅撰漢詩集が 3集つくられ,作者には[[空海]],[[都良香]],[[菅原道真]]らがいた。中期には『[[本朝文粋]]』などが編まれ,中国の『[[白氏文集]]』『[[文選]]』が大きな影響を与えた。[[鎌倉時代]]はやや衰えたが,末期から[[室町時代]]にかけて五山禅僧によって[[五山文学]]がつくられた。江戸時代は儒学([[儒教]])の全盛期で,前期には[[伊藤仁斎]]の古学派,[[荻生徂徠]]の古文辞学派,[[山崎闇斎]]の崎門学派(きもんがくは),[[中江藤樹]],[[熊沢蕃山]]らの陽明学派などがあり,中期には[[服部南郭]],[[菅茶山]],後期には[[頼山陽]],[[斎藤拙堂]]らの優れた作家が出た。明治になると西洋の文学に圧倒され,衰退した。
 
中国古来の詩文,また日本人がそれにならって[[漢字]]のみを用いてつくった詩文。初め大陸からの[[渡来人]]が書き,やがて在来の日本人もそれを範としたとみられる。推古4(596)年の伊予道後温湯碑文,推古12(604)年の[[十七条憲法]]が最初期の[[漢文]]で,[[奈良時代]]には漢詩集『[[懐風藻]]』が編纂された。[[平安時代]]前期にも勅撰漢詩集が 3集つくられ,作者には[[空海]],[[都良香]],[[菅原道真]]らがいた。中期には『[[本朝文粋]]』などが編まれ,中国の『[[白氏文集]]』『[[文選]]』が大きな影響を与えた。[[鎌倉時代]]はやや衰えたが,末期から[[室町時代]]にかけて五山禅僧によって[[五山文学]]がつくられた。江戸時代は儒学([[儒教]])の全盛期で,前期には[[伊藤仁斎]]の古学派,[[荻生徂徠]]の古文辞学派,[[山崎闇斎]]の崎門学派(きもんがくは),[[中江藤樹]],[[熊沢蕃山]]らの陽明学派などがあり,中期には[[服部南郭]],[[菅茶山]],後期には[[頼山陽]],[[斎藤拙堂]]らの優れた作家が出た。明治になると西洋の文学に圧倒され,衰退した。
  
*[[漢詩文]]
 
 
*[[五山文学]]
 
*[[五山文学]]
 
*[[日本文学]]
 
*[[日本文学]]

2018/7/27/ (金) 20:35時点における版

かんしぶん

中国古来の詩文,また日本人がそれにならって漢字のみを用いてつくった詩文。初め大陸からの渡来人が書き,やがて在来の日本人もそれを範としたとみられる。推古4(596)年の伊予道後温湯碑文,推古12(604)年の十七条憲法が最初期の漢文で,奈良時代には漢詩集『懐風藻』が編纂された。平安時代前期にも勅撰漢詩集が 3集つくられ,作者には空海都良香菅原道真らがいた。中期には『本朝文粋』などが編まれ,中国の『白氏文集』『文選』が大きな影響を与えた。鎌倉時代はやや衰えたが,末期から室町時代にかけて五山禅僧によって五山文学がつくられた。江戸時代は儒学(儒教)の全盛期で,前期には伊藤仁斎の古学派,荻生徂徠の古文辞学派,山崎闇斎の崎門学派(きもんがくは),中江藤樹熊沢蕃山らの陽明学派などがあり,中期には服部南郭菅茶山,後期には頼山陽斎藤拙堂らの優れた作家が出た。明治になると西洋の文学に圧倒され,衰退した。