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{{otheruseslist|武蔵国にあった'''地名'''、'''地域'''、'''都市'''|当地にあった'''城郭'''|江戸城|当地に拠点を置いた'''武家政権'''|江戸幕府|日本の'''歴史区分'''のひとつ|江戸時代|日本の'''氏族'''|江戸氏|'''惑星'''|江戸 (小惑星)|日本国有鉄道→東日本旅客鉄道が保有した'''和式客車'''|江戸 (鉄道車両)}}
 
[[画像:Edo_P.jpg|thumb|right|300px|江戸図屏風に見る、初期の江戸]]
 
[[画像:Edo 1844-1848 Map.jpg|thumb|right|350px|弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図]]
 
[[File:Edo (1853).jpg|thumb|300px|1853年の[[青山通り]]宮益坂上(左)~[[青山_(東京都港区)|青山]]2丁目(右)、[[麻布]]長谷寺(中央下)近辺。根岸信輔蔵。]]
 
'''江戸'''(えど) <ref>外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり</ref>は、[[東京]]の旧称であり、[[1603年]]から[[1867年]]まで[[江戸幕府]]が置かれていた都市である。
 
  
現在の[[東京都区部]]の中央部に位置し、その前身及び原型に当たる。
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'''江戸'''(えど) <ref>外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり</ref>
  
==概要==
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東京の旧名。東京都の中央部にあたる。江戸時代の幕府の本拠地。江戸とは「入江の口」の意味で,「江の門戸」の略語といい,また荏 () の多く生えた土地,すなわち荏土から出たともいう。また古く武蔵国豊島郡の一部江戸郷から出たともいう。江戸の名称が文献に初めてみえるのは,治承4 (1180) 年,江戸太郎重長の名で,江戸氏は平安時代末期秩父平氏の一族重継が初めて称したという。以来,南北朝時代頃までこの地にあって,現在の麹町台地の一画に館を構えていた。室町時代には上杉氏の領有となり,その家臣[[太田道灌]]が長禄1 (1457) 年ここに江戸城を築き,城下町が形成されるにいたった。戦国時代の大永4 (1524) 年以降は北条氏の領有に帰したが,北条氏滅亡ののち,天正 18 (90) 年8月1日 (八朔) [[徳川家康]]が入封してこの城を修築し,関八州統治の本城とした。江戸は慶長8 (1603) 年家康の幕府開設とともに,政治の一大中心地となった。徳川氏は,寛永年間 (24~44) 頃までに,江戸城の改築,武家屋敷,寺院,町家などの整備を終え,さらに[[五街道]]を設置して交通制度を拡充するなど,城下町としての町づくりを完成した。明暦3 (57) 年の大火で町の大半は焼失したが,市区改正事業の実施で市街地は一変し,町奉行の支配地は,東は今戸橋,南は高輪,北は坂本まで拡張された。元禄 10 (97) 年頃には,麻布,赤坂,青山,千駄谷,大久保,四谷,小石川,駒込,本郷,浅草,本所などの地を開き,正徳3 (1713) 年には,百姓町家を町奉行の支配下におき,府下の町数は 933に達したという。この間,町人の生成,商業の発達も著しく,商業の中心地として発展するにいたった。享保年間 (16~36) には,江戸の区域は隅田川以東にも及び,江戸時代末期には町数 2770あまり,人口 100万をこえたという。明治維新前後の動乱期には一時衰えたが,明治1 (1868) 年7月 17日,江戸は東京と改称され,翌年には首都と定められ,新しい日本の政治,経済,文化の中心地となるにいたった。
江戸は、[[江戸時代]]に江戸幕府が置かれた[[日本]]の[[政治]]の中心地(行政首都)として発展した。また、[[江戸城]]は[[徳川氏]]の[[征夷大将軍|将軍]]の居城であり、江戸は[[幕府]]の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も[[天領]]を支配する領主である徳川氏([[徳川将軍家]])の[[城下町]]でもあり、'''武陽'''(ぶよう)と呼ばれることもあった。
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徳川氏は関ヶ原の戦いに勝利し1603年に征夷大将軍となると、徳川氏の本拠地の江戸は一気に重要性を増し、徳川家に服する武将([[大名]])に江戸の市街地普請を命じ、山の切り崩しや入り江や湾の埋め立て等を行い、江戸の大規模な拡張を行い、[[旗本]]・[[御家人#近世の御家人|御家人]]などの[[武士]]、家臣、その家族らが数多く居住するようになるとともに、[[町人]]が呼び寄せられ、江戸は急速に拡大した。[[1612年]](慶長17年)には[[江戸町割]]が実施され<ref>『慶長記』</ref>、[[1623年]]元和9年には武家地に町人が住むことが禁じられた。[[1635年]](寛永12年)に[[参勤交代]]が始まると、新たに大名とその家族のための武家屋敷が建設された。
 
 
 
[[1657年]]3月2日(明暦3年旧暦1月19日)には、[[明暦の大火]]が発生し、多大な被害が生じたが、その後も市街地の拡大が続いた。
 
 
 
江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる町([[山の手]])と、東の[[隅田川]]をはじめとする数々の河川・堀に面した町([[下町]])に大別される。江戸時代前期には、「山の手が[[武家屋敷]]で、下町が町人の町」と一般的に言われていたが、江戸時代中期以降の人口増加によって、山の手に町人町が存在([[千代田区]]の一部が挙げられる)したり、逆に下町に多くの武家屋敷が存在するなど、実際はかなり複雑な様相を示していた。江戸の都市圏内には非常に多数の(そして多様な)町が存在するようになり「江戸八百八町」とも言われるようになり、[[18世紀]]初頭には<u>人口が百万人を超え、世界有数の大都市</u>(一説によると当時の世界一)へと発展を遂げた。膨大な数の庶民によって多彩な文化が開花した。また、江戸は循環型社会([[リサイクル]]が根付いている社会)であった<ref>石川英輔『大江戸リサイクル事情』 講談社 1997年</ref>。江戸の住人は「江戸者」「江戸衆」「江戸人」などと言ったが、江戸で生まれ育った生粋(きっすい)の江戸の人や、根っから江戸者らしい性質(小さなことにこだわらず、だが意地張りで、しばしばせっかちで短気、等々)を備えた町人が[[江戸っ子]]と呼ばれた。→[[#江戸の生活と文化]]
 
 
 
なお、江戸には一千を超える仏教寺院が存在した。
 
 
 
===江戸の行政・司法(および警察)===
 
最初、江戸の「町方支配場」の行政・司法は[[江戸町奉行]]([[南町奉行]]および[[北町奉行]])が管理した。町奉行が管理したのは あくまで町方のみであり、神社や寺院の私有地である「寺社門前地」や江戸城・大名屋敷等の「武家地」は町奉行の管理(支配)は及ばなかった。
 
 
 
だがその後、[[1745年]](延享2年)に寺社門前地内の町屋を江戸町奉行が管理することが正式に通達され、門前町町屋・寺社領町屋440箇所、寺社境内借家有の分127箇所、合計567箇所が町奉行の支配となった。江戸町方支配場・寺社門前地の町数は享保8年(1723年)に1672町、延享3年(1746年)に1678町、天保19年(1843年)には1719町に増えた。『[[江戸図説]]』によると天明年中(1785年頃)の江戸町数1650余町の内、町方分1200余町、寺社門前地分400余町で、他に大名上屋敷265ヶ所、中屋敷・下屋敷466ヶ所<ref group="注">ただし[[御三卿]]屋敷並びに抱屋敷の分を除いた</ref>、「神社凡そ200余社」「寺院凡1000余所」との記述がある。
 
 
 
町奉行の管理領域だけでなく、「江戸御府内」の範囲も時代によって変化があり、特に寺社門前地をどう取り扱うかについては幕府役人の間でも混乱があったことを伺わせる書簡が残っている。[[1818年]](文政元年)には江戸御府内を「朱引」、町奉行の支配領域を「墨引」と呼び、江戸御府内であっても町奉行の支配下ではない地域が郊外にできた(これらの地域は武家屋敷と武家所領、寺社門前地と寺社所領などで、御府内であっても一部で代官支配体制が続いており、武家屋敷と共にかなりの[[農地]]が存在し、また一部では[[町屋]]を形成していたと考えられている)。また[[1854年]]安政元年以降は[[新吉原]]・[[品川]]・三軒地糸割符猿屋町会所までが町奉行の支配下に入った。
 
 
 
===幕末の江戸と明治初頭の東京===
 
徳川幕府は実に260年ほども続いたが、[[幕末]]には内政でも外政でも、また後継者選び等でも問題が山積の状態となり混乱を来たした。
 
 
 
[[1862年]](文久2年)に参勤交代が緩和され、江戸の武家人口が激減。政治的中心も京都に移り、15代将軍[[徳川慶喜]]は将軍としては江戸に一度も居住しないような状態であった。徳川家と敵対する勢力によって一連の軍事的また政治的クーデターである[[明治維新]]が行われ、[[1868年]](明治元年)に発せられた[[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書]]によって江戸は「[[東京]]」と改称され、東京への改称とともに[[町奉行]]支配地内を管轄する[[東京府]]庁が開庁された。また天皇の[[東京行幸]]により[[江戸城]]が東京の[[皇居]]とされた。
 
 
 
明治維新により徳川将軍家が静岡に転封された際にも人口が減少した。明治2年([[1869年]])に東京府は新たに朱引を引き直し、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めた。この時の朱引の範囲は江戸時代の「墨引」の範囲におおむね相当し、安政年間以降一時的に江戸に組み込まれた品川などは、東京とは別の町として扱われ、町数も1048(『府治類集』)に減った。翌年には、最初は京都にあった明治新政府も東京に移され、(江戸時代の200年以上、江戸は行政首都であったわけであるが、再び)日本の事実上の首都となった。[[1871年]]に[[廃藩置県]]が行われ、東京府は新・東京府に置き換わった。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 徳川氏以前の江戸 ===
 
「'''江戸'''」という地名は、[[鎌倉幕府]]の歴史書『[[吾妻鏡]]』が[[史料]]上の初見で、おおよそ[[平安時代]]後半に発生した地名であると考えられている。
 
 
 
平安時代中期([[930年代]]頃)に成立した『[[和名類聚抄]]』にはまだ江戸と言う地名は登場せず、豊島郡に「湯島郷」「日頭郷」、荏原郡に「桜田郷」が存在したと記されている。湯島郷は現在の[[文京区]][[湯島]]、日頭郷は同区[[小日向]]、桜田郷は千代田区[[霞が関]]の旧称である[[桜田 (千代田区)|桜田]]であったと推定されている。江戸は元々は湯島郷もしくは日頭郷に属する小地名であったと考えられている<ref name="yamada">山田邦明「古代・中世の江戸」(初出:藤田覚・大岡聡 編『街道の日本史20 江戸』(吉川弘文館、2003年) ISBN 978-4-642-06220-6 /所収:山田『鎌倉府と地域社会』(同成社、2014年) ISBN 978-4-88621-681-6)</ref>。後述の[[江戸氏]]は、他の武士の名乗りと同様に江戸を所領としていために「江戸」と称した考えられるため、江戸氏が歴史上登場する平安時代末期には既に江戸という地名が存在したと言える<ref name=yamada/>。
 
 
 
地名の[[語源|由来]]は諸説あるが、'''江'''は川あるいは入江とすると、'''戸'''は入口を意味するから「'''江の入り口'''」に由来したと考える説が有力である。また、「戸」は港町の名称に用いられる例が多いことから、「江の港」とする説<ref group="注">この場合「江戸湊」は語源が忘れられた後に出来た[[重言]]とされる。</ref><ref name=okano>岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』教育出版、1999年</ref>もある。あるいは、江戸の近郊にあったとされる今津・亀津・奥津という地名が、現在では[[今戸]]・[[亀戸]]・[[奥戸]]と称されている事から、「江の津」とする説<ref name=yamada/>もある。当時の江戸は、[[武蔵国]]と[[下総国]]の国境である'''隅田川'''の河口の西に位置し、[[日比谷入江]]と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。
 
 
 
江戸の開発は、[[平安時代]]後期に武蔵国の[[秩父]]地方から出て[[川越市|河越]]から[[入間川 (埼玉県)|入間川]](現[[荒川 (関東)|荒川]])沿いに平野部へと進出してきた[[桓武平氏]]を称する秩父党の一族によって始められた。[[12世紀]]に[[秩父氏]]から出た[[江戸重継]]は、江戸の地を領して桜田の高台に[[城館]]を構え(のちの江戸城)<ref>山田邦明「古代・中世の江戸」では、桜田は本来は(平川流域地域を指した)江戸の一部ではなく、江戸氏の勢力拡大や太田道灌の江戸城築城に伴う「江戸」の拡大よって本来属していた荏原郡から切り離されて豊島郡江戸の一部になったとしている。また、山田は江戸氏の館も後の江戸城ではなく、平川流域の現在の[[水道橋 (神田川)|水道橋]]付近にあったとする説を提示している。</ref>、江戸の地名をとって'''江戸太郎'''を称し、江戸氏を興す。重継の子である[[江戸重長]]は[[1180年]]に[[源頼朝]]が挙兵した時には、当初は[[伊勢平氏|平家]]方として頼朝方の[[三浦氏]]と戦ったが、後に和解して[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]となった。[[弘長]]元年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]([[1261年]])、江戸氏の一族の一人であった[[地頭]][[江戸長重]]が[[正嘉の飢饉]]による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の[[東京駅]]周辺)を[[北条氏]][[得宗家]]に寄進してその[[被官]]となり、[[1315年]]までに得宗家から[[円覚寺]]に再寄進されていることが記録として残されている。ここにおいて、『和名類聚抄』の段階では存在しなかった「江戸郷」という地名を見ることが出来る。また、[[弘安]]4年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]([[1281年]])に長重と同族とみられる平重政が作成した[[譲状]]<ref>「深江文書」</ref>には「ゑとのかう(江戸郷)」にある「しハさきのむら」にある在家と田畠の譲渡に関する記述が出てくる。この江戸郷芝崎村(もしくは柴崎村)は前島村の北側、今の[[神田 (千代田区)|神田]]付近と推定されている<ref name=yamada/>。この頃の[[鎌倉]]からの奥州への街道は、日比谷入江に注ぐ'''平川'''にかかる高橋を渡り、鳥越(現・[[鳥越神社]]付近)、[[浅草]]へ通っていた。この平川沿いには早くから村ができていたようである<ref>内藤昌『江戸の町』(上)p.6-7</ref>。なお過去、平川は当初から日本橋川を流れたとされたが、現在は江戸城三ノ丸の堀付近を日比谷入江へ注いだと認識されている<ref>岡野友彦「「静勝軒寄題詩序」再考」江戸遺跡研究会編『江戸の開府と土木技術』吉川弘文館、2014年</ref>。芝崎村の西側にある平川の河口部には平川村が存在していたが、後には平川村及び平川流域も江戸郷の一部として認識されるようになっていった。
 
 
 
鎌倉幕府が滅びると、江戸氏一族は[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の騒乱において[[新田義貞]]に従って[[南朝 (日本)|南朝]]方についたりしたが、[[室町時代]]に次第に衰え、戦国末期には[[多摩郡]]喜多見で活動している。また、[[応永]]27年([[1420年]])紀州熊野神社の御師が書き留めた「江戸の苗字書立」によれば、さらに多摩川下流の大田区[[蒲田]]・六郷・[[久が原|原]]・[[鵜の木]]・[[丸子]]や隅田川下流域の[[下谷|金杉]]・[[清川 (台東区)|石浜]]・[[向島 (墨田区)|牛島]]、江戸郷の[[麹町|国府方]]、[[大手町 (千代田区)|柴崎]]、古川沿いの[[飯倉 (東京都港区)|飯倉]]、小石川沿いの小日向、渋谷川沿いの[[渋谷]]、善福寺川沿いの[[中野 (中野区)|中野]]、[[阿佐谷]]にも江戸氏一族が展開した。
 
 
 
[[画像:Outa Doukan.jpg|thumb|right|太田道灌]]
 
代わって江戸の地には、[[関東管領]][[上杉氏]]の一族[[扇谷上杉家]]の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの'''[[太田道灌]]''')が入り、江戸氏の居館跡に'''[[江戸城]]'''を築く。江戸城は、一説には[[康正]]2年([[1456年]])に建設を始め、翌年完成したという(『[[鎌倉大草紙]]』)。太田資長は[[文明 (日本)|文明]]10年([[1478年]])に剃髪し道灌と号し、文明18年([[1486年]])に謀殺されるまで江戸城を中心に[[南関東]]一円で活躍した。道灌の時代も平川は[[日比谷入江]]へ注いでおり、江戸前島を挟んで西に日比谷入江、東に[[江戸湊]](ただし『[[東京市史稿]]』は日比谷入江を江戸湊としている)があり、[[浅草湊]]や[[品川湊]]と並ぶ中世武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は[[利根川]](現在の[[古利根川]]・[[中川]])や[[荒川 (関東)|荒川]]などの[[河口]]に近く、[[北関東]]の内陸部から[[水運]]を用いて鎌倉・[[小田原城|小田原]]・[[西国]]方面に出る際の中継地点となった。
 
 
 
太田道灌の時代、長く続いた[[応仁の乱]]により荒廃した[[京都]]を離れ、権勢の良かった道灌を頼りに下向する学者や僧侶も多かったと見られ、平川の村を中心に[[城下町]]が形成された<ref>内藤昌『江戸の町(上)』p8-9。</ref>。[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]は当時の城下町のはずれにあたる現在の[[大手町 (千代田区)|大手町]]付近にあり、江戸時代初期に移転を命じられるまで同寺の周辺には墓地が広がっていた(現在の「東京駅八重洲北口遺跡」)。平河山を号する[[法恩寺 (墨田区)|法恩寺]]や[[浄土寺 (東京都港区)|浄土寺]]も縁起からかつては城の北側の平川沿いの城下町にあったとみられている。また、戦国時代には「大橋宿」と呼ばれる宿場町が形成された。更に江戸城と[[河越城]]を結ぶ[[川越街道]]や小田原方面と結ぶ[[矢倉沢往還]]もこの時期に整備されたと考えられ、[[万里集九]]・[[宗祇]]・[[宗牧]]など多くの文化人が東国の旅の途中に江戸を訪れたことが知られている<ref name="saitou">[[齋藤慎一]]『中世東国の道と城館』([[東京大学出版会]]、2010年)第三章「南関東の都市と道」(2004年発表)/第一五章「中近世移行期の都市江戸」(新稿)</ref>。
 
 
 
道灌の死後、扇谷上杉氏の当主である[[上杉朝良]]が[[長享の乱]]の結果、隠居を余儀なくされて江戸城に閉居することになった。ところが、その後朝良は実権を取り戻して江戸で政務を行い、後を継いだ[[上杉朝興|朝興]]も江戸城を河越城と並ぶ扇谷上杉氏・武蔵国支配の拠点と位置付けた。だが、扇谷上杉氏は[[高輪原の戦い]]で[[後北条氏]]に敗れ、江戸城も後北条氏の支配下に移った。既に相模国・伊豆国を支配していた後北条氏の江戸支配によって東京湾(江戸湾)の西半分を完全に支配下に置き、これに衝撃を受けた東半分の房総半島の諸勢力([[小弓公方]]・[[里見氏]])に後北条氏との対決を決意させたと言われている<ref>[[佐藤博信]]「小弓公方足利氏の成立と展開」『中世東国政治史論』[[塙書房]]、2006年(1992年発表)</ref>。後北条氏末期には[[北条氏政]]が直接支配して[[太田氏]]や[[千葉氏]]を統率していた。支城の支配域としては、[[東京都区部|東京23区]]の[[隅田川]]以西・以南及び[[墨田区]]・[[川崎市]]・[[多摩地区]]の各々一部まで含まれている。
 
 
 
従来、徳川家康入城当時の江戸はあたかも全域が寒村のようであったとされてきた。だが近年になって、太田道灌及びその後の扇谷上杉氏・後北条氏の記録や古文書から、徳川氏入部以前より江戸は交通の要衝としてある程度発展しており、こうした伝承は徳川家康・江戸幕府の業績を強調するために作られたものとする見方<ref name=okano/>が登場するようになった。その一方で、太田道灌時代の記録にも道灌を称える要素が含まれているため、家康以前の記録についてもその全てを史実として受け取ることに懐疑的な意見もある<ref>代表的なものとして、平野明夫「太田道灌と江戸城」東京都教育委員会『文化財の保護』21号、1989年、など</ref>。とはいえ、現在では中世に達成した一定の成果の上に徳川家康以後の江戸の発展があったと考えられており、中世期文書の研究に加えて[[歴史考古学]]による調査の進展によって家康以前の江戸の歴史に関する研究が進展することが期待されている<ref name="saitou"/>。
 
 
 
=== 徳川時代の江戸 ===
 
[[画像:Tokugawa Ieyasu2.JPG|thumb|right|300px|徳川家康]]
 
ありきたりの地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物は、[[徳川家康]]であった。
 
 
 
[[1590年]]、[[後北条氏]]が[[小田原征伐]]で[[豊臣秀吉]]に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた徳川家康は、[[関東地方]]の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[八朔]])、家康は[[駿府]]から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は[[江戸城]]本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、'''神田山'''を削り、'''日比谷入江'''を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また'''[[道三堀]]'''の開削や'''[[平川]]'''{{要曖昧さ回避|date=2016年6月}}の'''江戸前島'''中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。
 
 
 
家康が[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]に勝利して天下人となり、[[1603年]]に[[征夷大将軍]]に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸[[大名]]の屋敷が設けられた。江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の[[旗本]]・[[御家人#近世の御家人|御家人]]などの[[武士]]が数多く居住するようになるとともに、[[町人]]を呼び寄せて、町が急速に拡大した。江戸城とその堀は幕府から諸大名に課せられた[[手伝普請]]によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な[[惣構]]が構築された。(都市開発の歴史については後の[[#都市|都市]]の章で述べる。)
 
 
 
{{wide image|Panorama of Edo bw.jpg|1666px|『[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]から見た江戸のパノラマ』 撮影者:[[フェリーチェ・ベアト]] 1865-1866頃}}
 
 
 
[[1657年]]の'''[[明暦の大火]]'''の後、再建事業によって市域は'''[[隅田川]]'''を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、[[18世紀]]初頭には人口が百万人を超え、'''大江戸八百八町'''といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は、江戸を[[東日本]]における大消費地とし、日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である[[上方]]([[近畿地方]])と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。当時の江戸は、『[[東都歳時記]]』、『[[富嶽三十六景]]』にみる葛飾北斎の両国(現在の墨田区)からの作品などからも見られるように、漢風に「'''東都'''」とも呼ばれる大都市となっていた。18世紀末から[[19世紀]]初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や[[参勤交代]]を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。
 
 
 
=== 江戸の人口 ===
 
{{main|江戸の人口}}
 
 
 
== 江戸の範囲 ==
 
{{main2|幕府によって定められた市域については[[朱引]]も}}
 
[[画像:Karte Tokia MKL1888.png|thumb|282px|江戸の墨引(≒明治期の朱引)の範囲を引き継いだ明治期の東京市街(1888年)。江戸城の東、現在の[[丸の内]]・[[東京駅]]付近を中心とする半径4kmほどの円状を為す。]]
 
 
 
江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。その支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。<ref>竹内誠・古泉弘・池上裕子・加藤貴・藤野敦『東京都の歴史』山川出版 2003年 168-170頁</ref> この範囲外は朱引外(しゅびきそと)と称した。
 
元々は平安時代に存在した[[荏原郡]]桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]江戸郷と呼ばれるようになっていた。
 
 
 
江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の[[東京都]][[千代田区]]とその周辺であり、[[江戸城]]の外堀はこれを取り囲むよう建造された。[[明暦の大火]]以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるようになる。1818年、[[朱引]]の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった<ref name="hani">[http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0609k_kiyo04.pdf 江戸の範囲 (レファレンスの杜)] 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月</ref>。今日「[[大江戸]]」としてイメージされるのは、一般にこの範囲である<ref name="oyedo">[http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0606dayori06.pdf 江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜)] 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月</ref>。
 
 
 
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
 
|+江戸の市街地の拡大
 
(内藤昌 「江戸―その築城と都市計画―」 月刊文化財 175号(1978年))
 
!年号
 
!西暦
 
!総面積
 
!武家地
 
!町人地
 
!寺社地
 
!その他
 
|-
 
|align="left"|正保年中||align="left"|1647年頃||43.95 km<sup>2</sup>||34.06 km<sup>2</sup><br />(77.4%)||4.29 km<sup>2</sup><br />(9.8%)||4.50 km<sup>2</sup><br />(10.3%)||1.10 km<sup>2</sup><br />(2.5%)
 
|-
 
|align="left"|寛文10~13年||align="left"|1670~1673年||63.42 km<sup>2</sup>||43.66 km<sup>2</sup><br />(68.9%)||6.75 km<sup>2</sup><br />(10.6%)||7.90 km<sup>2</sup><br />(12.4%)||5.1 km<sup>2</sup><br />(8.1%)
 
|-
 
|align="left"|享保10年||align="left"|1725年||69.93 km<sup>2</sup>||46.47 km<sup>2</sup><br />(66.4%)||8.72 km<sup>2</sup><br />(12.5%)||10.74 km<sup>2</sup><br />(15.4%)||4.00 km<sup>2</sup><br />(5.7%)
 
|-
 
|align="left"|慶応元年||align="left"|1865年||79.8 km<sup>2</sup>||50.7 km<sup>2</sup><br />(63,5%)||14.2 km<sup>2</sup><br />(17.8%)||10.1 km<sup>2</sup><br />(12.7%)||4.8 km<sup>2</sup><br />(6.0%)
 
|-
 
|align="left"|明治2年||align="left"|1869年||56.36 km<sup>2</sup>||38.65 km<sup>2</sup><br />(68.6%)||8.92 km<sup>2</sup><br />(15.8%)||8.80 km<sup>2</sup><br />(15.6%)||
 
|-
 
|}
 
 
 
以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。
 
 
 
* [[神田 (千代田区)|神田]]、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]、[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]、[[本郷 (文京区)|本郷]]、[[下谷]]、[[上野 (台東区)|上野]]、[[浅草]]、[[本所 (墨田区)|本所]]、[[深川 (江東区)|深川]]、[[両国 (墨田区)|両国]]、[[向島 (墨田区)|向島]]
 
 
 
実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は[[15世紀]]の粗末な造りのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。
 
 
 
しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる[[砂州]]を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に新たに町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが江戸本町、今の[[日本銀行]]本店や[[三越]]本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の[[芝 (東京都港区)|芝]]、北の[[浅草]]や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。
 
 
 
[[画像:Edo hori.png|thumb|267px|江戸中心部の主要な門と橋、寺社。青部分は江戸を敵から守る堀と神田川、隅田川。]]
 
江戸は「の」の字形に設計された<ref>[[内藤昌]]説</ref>ことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である[[大御所 (江戸時代)|大御所]]が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である[[徳川御三家|御三家]]の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に[[譜代大名]]の屋敷、南の桜田門の外に[[外様大名]]の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に[[旗本]]・[[御家人]]が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。
 
 
 
家康の死後、2代将軍[[徳川秀忠]]は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋([[秋葉原]])の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人工の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である[[神田川 (東京都)|神田川]]である。この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の[[日本橋川]]となるのは[[明治時代]]のことである。
 
 
 
更に3代将軍[[徳川家光]]はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は[[1636年]]に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。
 
 
 
城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に[[風水]]の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の[[玄武]]は[[麹町]]台地、東の[[青竜|青龍]]は[[神田川 (東京都)|平川]]、南の[[朱雀]]は[[日比谷入江]]、西の[[白虎]]は[[東海道]]、江戸の拡大後は、玄武に[[本郷 (文京区)|本郷]]台地、青龍に大川([[隅田川]])、朱雀に[[江戸湾]]、白虎に[[甲州街道]]と[[四神相応]]に則っている点とされる<ref>[[柳営秘鑑]]</ref>。関東の独立を掲げた武将で、代表的な[[怨霊]]でもある[[平将門]]を祭る[[神田明神]]は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の[[鬼門]]にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また、江戸城の建設に伴って城内にあった山王権現(現在の[[日枝神社_(千代田区)|日枝神社]])は裏鬼門である赤坂へと移される。更に、家康の帰依していた[[天台宗]]の僧[[天海]]が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである[[比叡山]]に倣って堂塔を建設し、[[1625年]]に[[寛永寺]]を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は[[延暦寺]]と同じように建立時の[[年号]]から取られている。
 
 
 
江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、[[井戸]]を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、[[井の頭池]]を水源とする[[神田上水]]が造られた。やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。このために造られた[[水道]]が[[1653年]]完成の[[玉川上水]]である。水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。
 
 
 
[[1640年]]には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、[[1657年]]に[[明暦の大火]]が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための[[火除地]]として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。
 
 
 
大名屋敷が再建され、[[参勤交代]]のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の[[上野 (台東区)|上野]]、[[浅草]]が盛り場として発展、さらに外側には[[吉原遊郭|新吉原遊郭]]が置かれていた。
 
<!--
 
 
 
=== 江戸の水運 ===
 
-->
 
== 神社仏閣 ==
 
<div style="float:right">[[画像:Edo jisha.png]]</div>
 
 
 
=== 神社 ===
 
* [[神田明神]]
 
* [[日枝神社 (千代田区)|山王権現]](日枝神社)
 
* [[根津権現]]([[根津神社]])
 
* [[富岡八幡宮]]
 
* [[築土神社]]
 
* [[鳥越神社]]
 
* [[湯島天神]]
 
 
 
=== 寺院 ===
 
* [[浅草寺]]
 
* [[寛永寺]]
 
* [[増上寺]]
 
* [[天王寺 (台東区)|感應寺]]
 
* [[伝通院]]
 
* [[護国寺]]
 
* [[泉岳寺]]
 
<!--* [[深川不動尊]] - [[成田山]]別院 深川不動尊は江戸時代には富岡八幡宮で行われた成田山の出開帳。不動堂の建立は明治-->
 
[[File:Brooklyn Museum - Inside the Courtyard of the Toeizan Temple at Ueno - Katsushika Hokusai.jpg|thumb|200px|right|[[葛飾北斎]]筆 東叡山中堂之図]]
 
 
 
=== 廟 ===
 
* [[湯島聖堂]]
 
* [[徳川家霊廟]]
 
 
 
=== 江戸近郊 ===
 
* 目黒不動([[瀧泉寺]])
 
* [[池上本門寺]]
 
* [[柴又帝釈天]]
 
* [[東海寺 (品川区)|東海寺]]
 
* [[豪徳寺]] - 彦根井伊家の菩提寺
 
* [[深大寺]]
 
* [[武蔵国分寺跡|国分寺]]
 
 
 
== 江戸の生活と文化 ==
 
[[Image:100 views edo 024.jpg|thumb|250px|江戸のさまざまな場所から富士山を見ることができ、江戸の住人は富士山を愛した。江戸には[[富士見坂]](=富士が見える坂)という名がついた坂も多い。[[浮世絵]]も多数描かれた。また富士山を信仰する'''[[富士講]]'''も非常にさかんとなり、江戸には多数の富士構信者がいた。その結果、わざわざ富士山まで行くことができない住民らのために[[富士塚]]が多数作られ、近所で日々富士登山ができるようになった。富士塚は現在でも多数残っている。この浮世絵は、目黒に二つあった富士塚のうちのひとつの新富士(現存せず)と富士山を描いたものである(『目黒新富士』[[名所江戸百景]]より。歌川広重:江戸後期)。]]
 
 
 
=== 娯楽 ===
 
[[Image:Inasegawa Seizoroi no Ba.jpg|300px|thumb|江戸の歌舞伎。[[市村座]]での『[[青砥稿花紅彩画]](白浪五人男)』より稲瀬川勢揃いの場([[歌川豊国]]:1862年(文久2年))。江戸時代の町人文化を代表する歌舞伎。本作の時代には作者[[河竹黙阿弥]]が活躍し、江戸歌舞伎が隆盛を極めた。]]
 
;歌舞伎
 
1624年(寛永元年)には[[中村勘三郎]]([[猿若]])が京都から江戸に移り、町奉行所の許可を得て「[[猿若座]]」を開き、江戸の[[芝居小屋]]が始まった。最初は江戸・中橋(現在の日本橋と京橋の中間あたり)にあったが、やがて[[堺町]](今の[[人形町]])へ移転。[[元禄時代]](1688~1704年頃)には江戸の[[歌舞伎]]は隆盛となり、芝居小屋は猿若座(堺町)、市村座([[葺屋町]]=現 人形町)、森田座([[木挽町]]=現在の[[歌舞伎座]]のあたり)、山村座(木挽町)の4つとなった(「江戸四座」と言う)。
 
 
 
* [[歌舞伎]] - [[市川團十郎]] - [[十八番]]、[[浄瑠璃]](人形浄瑠璃、常磐津など)
 
 
 
;江戸落語
 
江戸の落語は17世紀後半(貞享・元禄年間)に[[鹿野武左衛門]]によって始められ、18世紀後半には[[烏亭焉馬]]の会咄を経て、[[三笑亭可楽]](初代)によって寄席芸能として確立したと言われている。
 
 
 
;他
 
* [[講談]]
 
* 行楽(参詣、花見、月見、紅葉狩り、雪見など)
 
** 江戸近郊 - [[飛鳥山]]、[[武蔵野]]、[[深大寺]]詣で、[[小金井桜]]、[[富士塚]]
 
** 江戸から関東各地 - [[大山 (神奈川県)|大山]]詣で、[[富士講]]
 
* [[錦絵]]
 
* [[浮世絵]] - [[葛飾北斎]]、[[歌川広重]]、[[東洲斎写楽]]
 
* [[黄表紙]]本 - [[戯作]]、[[洒落本]]
 
* [[俳諧]] - [[松尾芭蕉]]、[[小林一茶]]
 
* [[花火]] - [[玉屋]]、[[鍵屋]]
 
* [[風呂]]
 
 
 
=== 服装 ===
 
* [[着物]]
 
** [[振袖]]
 
** [[浴衣]]
 
* [[履物]]
 
** [[下駄]] [[足駄]] [[草履]] [[雪駄]]
 
 
 
=== 食 ===
 
* [[江戸前寿司]]([[にぎり寿司]]・[[海苔巻き]])
 
* [[蕎麦]]
 
* [[天ぷら]]
 
* [[百珍物]]([[豆腐百珍]]、卵百珍、大根百珍、甘藷百珍、蒟蒻百珍)
 
* 初([[カツオ|鰹]]、[[茄子]]、[[酒]]、蕎麦)
 
* [[沢庵漬け]]
 
* [[棒手振]]・[[振売]]・[[行商人]](塩・味噌・[[納豆汁]]・豆腐・蜆など)
 
* [[どじょう]] ([[柳川鍋]]、[[どぜう鍋]]、[[揚げる|唐揚げ]])
 
* [[鰻]](江戸前)
 
* [[どらやき]]、[[今川焼き]]
 
* [[佃煮]]
 
* [[納豆]]
 
* [[茶漬け]]
 
* [[新香]]
 
* [[目刺し]]
 
* [[しじみ]]汁
 
* [[鹿]]・[[猪]]<ref>[http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no170.html 江戸食文化紀行]</ref>
 
* 壷焼塩(上流階級)
 
* [[白米]]
 
* [[豚カツ]]など(牛肉料理に替わる'''豚肉'''料理)<ref>[[宮崎昭]]の『食卓を変えた肉食』で、(1)[[カレー]]の牛肉を豚肉に替える食文化が出来た。(2)カツレツを豚肉で作ると特においしい事が知られた。(3)牛肉は豚肉にとって替わられていった。と、変化の状況を説明。 </ref><ref>[[吉田忠]]の『牛肉と日本人』ISBN 978-4540911064で、(1)東京人は真っ先に豚肉によって食肉の消費が増加。 (2)豚カツをはじめ豚肉の消費が多様化。(3)牛肉料理を豚肉に変えたらどうかと工夫を重ねる。最初は江戸において変化が起こった。</ref><ref>[[農林省]]畜産局の『本邦の養豚』、全国で(1)1916年 337,891頭。(2)1925年 672,583頭。と、9年倍増のデータで前述の変化を裏付</ref>
 
 
 
=== 江戸の識字率 ===
 
江戸の[[成人]]男性の[[識字率]]は[[幕末]]には'''70%'''を超え、同時期のロンドン (20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。[[ロシア]]人革命家[[レフ・メーチニコフ|メーチニコフ]]や、[[ドイツ]]人の考古学者[[ハインリヒ・シュリーマン|シュリーマン]]らが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も[[和歌]]を嗜んだと言われており、その背景には[[寺子屋]]の普及があったと考えられ、高札等でいわゆる『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を読む事が出来たと考えられている。ただし識字率が高い武士階級の人口も多いため、識字率がかさ上げされているのも間違いなく、当時、全国平均での識字率は20%から50%程度と推定されている<ref>[[鈴木理恵]], "江戸時代における識字の多様性", [[史学研究]], 209号 (1995), pp. 23–40. 江戸時代の識字率は状況証拠(文書による支配の徹底、年貢村請制の実現、商品経済の浸透、寺子屋の隆盛、欧米人の旅行記の記載、出版業の隆盛、多量多彩な文書の蓄積)から推定されたものであり、批判も多い。また、ヨーロッパでの識字率の低さは、字が読めることが男らしくない、格好悪いとされた騎士道の時代の考え方の名残という文化的背景や、自分の名前がかける程度の者は非識字とカウントしている点なども考慮しなくてはならない</ref>。また、明治時代に入ってからの話であるが、徴兵制施行時の調査では、事務処理が出来る実用的なレベルの読み書きが出来るものは20%程度だったという。
 
 
 
=== 諺・故事成語 ===
 
* [[江戸前]]
 
* 火事と喧嘩は江戸の華 >>[[江戸の火事]]
 
(火事のときは周りの家を倒して広がるのを防いだ。木造建築なので火が移りやすいため。)
 
* 江戸の敵を[[長崎]]で討つ
 
* 江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ
 
* 江戸っ子は5月の鯉の吹き流し
 
* 江戸っ子の梨を食うよう
 
* 江戸っ子の初もの食い
 
* 江戸っ子の産れ損なひ金を貯め
 
* 京の着だおれ、大坂の喰いだおれ、江戸の呑みだおれ(京の人はファッションにお金を使い、大坂の人はグルメにお金を使い、江戸の人は酒を呑んで酔いつぶれている)<ref>[[朝日ジャーナル]]編、「大江戸曼荼羅」、p.211、[[朝日新聞社]]、1996年。</ref>
 
 
 
== 江戸から東京へ ==
 
<!--[[画像:Meiji tenno1.jpg|thumb|right|200px|明治天皇]]-->
 
慶応4年/明治元年旧暦1月3日([[1868年]]1月27日)に[[戊辰戦争]]が起こり、[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕府軍が敗れると、[[薩摩藩|薩]][[長州藩|長]]軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。幕臣[[勝海舟]]は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる[[西郷隆盛]]と交渉、同年旧暦4月11日(5月3日)に最後の将軍[[徳川慶喜]]は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の[[上野戦争]]を例外として、江戸は戦火を免れた([[江戸開城|江戸無血開城]])。
 
 
 
同年旧暦5月12日(7月1日)に町地を中心に「[[江戸府]]」が設置された。同年旧暦7月17日(9月6日)には「江戸」は「[[東京]]」と改称され、「江戸府」は「[[東京府]]」となった([[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書]])。同年旧暦10月13日(11月26日)に[[明治天皇]]が[[東京行幸]]した際、「江戸城」は「東京城」と改称された。翌明治2年旧暦2月19日([[1869年]]3月31日)には新たに朱引きの範囲が定められ、旧暦3月16日(4月27日)には町地に五十番組制(五十区制)が敷かれた。旧暦3月28日(5月9日)には、明治天皇が二度目の行幸を行い、「東京城」を「皇城」と称し、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった([[東京奠都]])。旧暦11月2日(12月4日)には武家地を含めた地域が東京府の管轄となった。明治4年旧暦6月9日([[1871年]]7月26日)には朱引が改定され、[[大区小区制]]に基づく六大区制が導入された。
 
 
 
同年旧暦7月14日(8月29日)の[[廃藩置県]]以降、段階的に周辺の地域が東京府に併合され、明治4年旧暦12月27日([[1872年]]2月5日)には武家地・町地という名称が廃止された。明治7年([[1874年]])3月4日には東京十一大区制へ再編され、明治11年([[1878年]])11月2日には[[東京15区|東京十五区]]制に落ち着く。以降、東京の町並が[[東京市]]、[[東京都]]へと変遷しつつ[[東京都市圏]]に拡大してゆく過程で、かつての江戸のうち隅田川以東の本所・深川を除いた地区は都心となり、その中核としての役割を果たしている。
 
 
 
 
 
== 江戸を題材にした作品 ==
 
=== 小説 ===
 
* [[岡本綺堂]]『半七捕物帳』光文社文庫
 
* [[池波正太郎]]『鬼平犯科帳』文春文庫
 
* [[宮部みゆき]]『本所深川ふしぎ草紙』新人物往来社
 
* [[司馬遼太郎]]『菜の花の沖』全六巻 文春文庫
 
* [[半村良]]『小説 浅草案内』新潮文庫
 
* [[宇江佐真理]]『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』文春文庫
 
* [[那須正幹]] 『お江戸の百太郎』岩崎書店
 
* [[畠中恵]] 『しゃばけ』シリーズ新潮文庫
 
 
 
=== 随筆 ===
 
* [[エドワード・サイデンステッカー]]『東京 下町 山の手』
 
* [[宮部みゆき]]『平成お徒歩日記』新潮社
 
* [[山本博文]]『鳶魚で江戸を読む 江戸学と近世史研究』中公文庫
 
* 山本博文『江戸を楽しむ 三田村鳶魚の世界』中公文庫
 
 
 
=== 映画・テレビドラマ ===
 
* 『[[写楽 (映画)|写楽]]』 監督:[[篠田正浩]]
 
* [[忠臣蔵]]関連作品
 
* [[鬼平犯科帳]]シリーズ
 
* [[銭形平次 捕物控|銭形平次]]シリーズ
 
* [[半七捕物帳]]シリーズ
 
* [[水戸黄門]]シリーズ
 
* [[大江戸捜査網]]シリーズ
 
* [[長七郎江戸日記]]シリーズ
 
* [[暴れん坊将軍]]シリーズ
 
* 『[[赤ひげ]]』、監督:[[黒澤明]]
 
その他多数あり。
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
* [[沼間守一]] - [[政治家]]、[[ジャーナリスト]]。牛込
 
* [[大田南畝]] - [[戯作者]]。牛込
 
* [[夏目漱石]] - [[作家]]。早稲田
 
* [[津田梅子]] - [[教育者]]。南御徒町
 
* [[青木昆陽]] - [[儒教|儒学]]者、[[蘭学]]者。日本橋
 
* [[中沢彦吉]] - 政治家、[[実業家]]。京橋
 
* [[星亨]] - 政治家。築地小田原町
 
* [[榎本武揚]] - [[幕臣]]・政治家、[[蝦夷共和国|蝦夷島政府]]総裁、[[第1次松方内閣|第7代]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]ほか[[国務大臣|大臣]]を歴任。下谷御徒町
 
* [[成島柳北]] - ジャーナリスト、戯作者。浅草御廐河岸
 
* [[幸田露伴]] - [[小説家]]。下谷三枚橋横町
 
* [[高村光雲]] - [[彫刻家]]。下谷
 
* [[河合浩蔵]] - [[建築家]]。本所
 
* [[佐々木東洋]] - 洋方医、内科医。本所
 
 
 
== 小江戸 ==
 
川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された[[栃木市]]、埼玉県[[川越市]]、千葉県[[香取市]]の旧[[佐原市]]の市街地などの[[関東地方]]の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「[[小江戸]]」と呼ばれている。
 
 
 
なお上記とは別用法として、初期の江戸城下町を、後年の広域化した江戸城下町を意味する「大江戸」に対して「小江戸」と称する用法もある。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
;注
 
<references group="注"/>
 
 
 
;出典や注など
 
{{reflist}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://homepage3.nifty.com/oohasi/ 江戸城史跡めぐり]
 
* [http://homepage2.nifty.com/oohasi/ 江戸の町今と昔]
 
* [http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog251.html 国柄探訪: 花のお江戸の市場経済]
 
* [http://www.viva-edo.com/ ビバ!江戸]
 
* [http://map.goo.ne.jp/history/index.html goo古地図 江戸(切絵図)]
 
* [http://www.geocities.jp/yumetoikiru/edo/edo-1.html 江戸3DCG『江戸Edo』]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{ウィキポータルリンク|江戸}}
 
{{Wiktionary|江戸}}
 
{{wikiquote|江戸}}
 
{{Commonscat|Edo}}
 
* [[江戸氏]]
 
* [[徳川氏]]
 
* [[太田道灌]]
 
* [[江戸城]]
 
* [[江戸学]]
 
* [[江戸東京博物館]]
 
*[[深川江戸資料館]]
 
* [[都営地下鉄大江戸線]]
 
* [[火消]]
 
* [[江戸町奉行]]
 
* [[江戸っ子]]
 
* [[江戸言葉]]
 
* [[江戸前]]
 
* [[江戸見坂]]
 
* [[三田村鳶魚]] - 江戸文化・風俗の研究者
 
* [[斎藤月岑]] - 江戸の町名主、考証家
 
* [[八朔]] - 徳川家康が初めて公式に江戸城に入城
 
* [[伝統的工芸品]]
 
*  [[江戸切子]]
 
* [[東京都]]
 
* [[東京特別区]]
 
* [[東京市]]
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
* [[谷畑美帆]] 『江戸八百八町に骨が舞う 人骨から解く病気と社会』 [[吉川弘文館]] (2006年)ISBN 4642056130
 
* [[鈴木理生]] 『江戸の橋』 [[三省堂]] ISBN 4-385-36261-0
 
* [[矢田挿雲]] 『江戸から東京へ』 全9巻、[[中公文庫]]、新版1999年
 
* 『[[江戸名所図会]]』 全8巻、[[ちくま学芸文庫]] 1997年、2009年復刊
 
* [[川田寿]] 『江戸名所図会を読む』 正続 [[東京堂出版]] 1990. 95年
 
* [[法政大学]]建築学科『東京のまちを読む―都市・建築の構成原理に関する史的考察』 東京のまち研究会 1980年
 
* [[スーパームック]]CG日本史シリーズ / CG再現 3江戸の暮らし(07/9) 5江戸の風景(08/1) 7江戸の遊び(08/4) 9大奥と江戸の女たち(08/9/25) 17大江戸事件帳(09/4)  [[双葉社]]
 
 
 
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2018/11/2/ (金) 08:26時点における最新版

江戸(えど) [1]

東京の旧名。東京都の中央部にあたる。江戸時代の幕府の本拠地。江戸とは「入江の口」の意味で,「江の門戸」の略語といい,また荏 (え) の多く生えた土地,すなわち荏土から出たともいう。また古く武蔵国豊島郡の一部江戸郷から出たともいう。江戸の名称が文献に初めてみえるのは,治承4 (1180) 年,江戸太郎重長の名で,江戸氏は平安時代末期秩父平氏の一族重継が初めて称したという。以来,南北朝時代頃までこの地にあって,現在の麹町台地の一画に館を構えていた。室町時代には上杉氏の領有となり,その家臣太田道灌が長禄1 (1457) 年ここに江戸城を築き,城下町が形成されるにいたった。戦国時代の大永4 (1524) 年以降は北条氏の領有に帰したが,北条氏滅亡ののち,天正 18 (90) 年8月1日 (八朔) 徳川家康が入封してこの城を修築し,関八州統治の本城とした。江戸は慶長8 (1603) 年家康の幕府開設とともに,政治の一大中心地となった。徳川氏は,寛永年間 (24~44) 頃までに,江戸城の改築,武家屋敷,寺院,町家などの整備を終え,さらに五街道を設置して交通制度を拡充するなど,城下町としての町づくりを完成した。明暦3 (57) 年の大火で町の大半は焼失したが,市区改正事業の実施で市街地は一変し,町奉行の支配地は,東は今戸橋,南は高輪,北は坂本まで拡張された。元禄 10 (97) 年頃には,麻布,赤坂,青山,千駄谷,大久保,四谷,小石川,駒込,本郷,浅草,本所などの地を開き,正徳3 (1713) 年には,百姓町家を町奉行の支配下におき,府下の町数は 933に達したという。この間,町人の生成,商業の発達も著しく,商業の中心地として発展するにいたった。享保年間 (16~36) には,江戸の区域は隅田川以東にも及び,江戸時代末期には町数 2770あまり,人口 100万をこえたという。明治維新前後の動乱期には一時衰えたが,明治1 (1868) 年7月 17日,江戸は東京と改称され,翌年には首都と定められ,新しい日本の政治,経済,文化の中心地となるにいたった。



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  1. 外国語では、Edo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり