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'''水戸藩'''(みとはん)は、[[常陸国|常陸]]にあって現在の[[茨城県]]中部・北部を治めた[[藩]]。藩庁は[[水戸城]]([[水戸市]])に置かれた。
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'''水戸藩'''(みとはん)
 
 
== 藩史 ==
 
=== 水戸徳川家以前 ===
 
常陸は[[佐竹氏]]が[[豊臣秀吉]]によって支配をそのまま認められていたが、[[関ヶ原の戦い]]の際に[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]は徳川方に加担しなかったため、[[慶長]]7年([[1602年]])に[[出羽国|出羽]][[久保田藩|久保田]]21万石に減転封された。
 
 
 
佐竹氏の後、水戸城には[[下総国|下総]][[佐倉藩]]より[[徳川家康]]の五男[[武田信吉|松平(武田)信吉]]が15万石で入ったが、翌[[1603年]]に信吉は21歳で病死した。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸([[徳川頼宣]])が新たに20万石で水戸に入封する。1604年、5万石の加増を受け25万石となる。1606年、頼宣は[[元服]]した際に常陸介に叙任されているが、1609年に[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・東[[三河国|三河]]([[駿府藩]])50万石を与えられて転封し、1619年には[[紀州藩]]55万石に転封した。頼宣は[[紀州徳川家]]の祖となった。
 
 
 
頼宣は2歳から8歳まで水戸藩主であったが、この間一度も水戸に入っておらず、駿府にて家康の膝元で過ごしたといわれている。実務は財政面を[[蘆沢信重]]が、行政面を[[関東郡代]][[伊奈忠次]]が執った。[[1607年]]([[1602年]]、[[1615年]]とも)の秋に、小生瀬村(現:[[大子町]]小生瀬)で、年貢を巡る農民と藩役人の行き違いにより、藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった([[生瀬騒動]])。藩の役人が年貢を取りに来て農民は納めたが、また別の役人が年貢を取りに来たこと(年貢の二重取り)に対して怒った農民たちが、後から来た役人を偽物と判断してその一人を殺害した。これに対し10月10日、蘆沢信重が藩兵を出兵させて生瀬村の農民を皆殺しにしたという。この事件に関しては、藩の公式記録には一切触れられず、伝承と関連した地名が残るのみである。
 
 
 
=== 水戸徳川家時代 ===
 
{{See also|水戸徳川家}}
 
頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男で当時6歳の鶴千代丸([[徳川頼房]])が下総[[下妻藩]]より25万石で入った。頼房以降の藩主家を[[水戸徳川家]]と呼ぶ。頼房も頼宣と同様に、幼少年時は水戸に赴かず駿府・江戸にあり、[[1619年]]に初めて水戸に入る。[[1622年]]、3万石を加増され28万石となる。のち3代藩主[[徳川綱條|綱條]]時代の[[1701年]]、新田開発の分を含めるとして[[表高]]を35万石に改めたが、この高直しはかなり無理があったようである。
 
 
 
水戸藩は[[徳川御三家]]の中でも唯一[[参勤交代]]を行わない江戸[[定府]]の藩であり、万が一の変事に備えて[[征夷大将軍|将軍]]目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、[[内高]]が[[表高]]を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
 
 
 
頼房は事情により三男の[[徳川光圀|光圀]]を継嗣とし、長男の[[松平頼重]]は[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]12万石を与えられた。光圀は学問を好み、『[[大日本史]]』の編纂を開始し、水戸藩に[[尊王論|尊王]]の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた[[水戸学]]は[[幕末]]の[[尊皇攘夷|尊皇攘夷運動]]に強い影響を与えた。
 
 
 
3代藩主[[徳川綱條|綱條]]は、宝永2年に浪人の[[松波良利|松波勘十郎]]を登用して財政改革を実施したが、宝永6年(1709年)の[[百姓一揆]]で3000人もの百姓が江戸へ出て様々な集団的示威行動を取ったため、やむなく年貢増徴の撤回や松波の罷免を行い、改革は挫折した<ref>深井雅海『綱吉と吉宗』2012年、吉川弘文館</ref>。宝永の改革に失敗し、4代藩主[[徳川宗堯|宗堯]]が短い期間の統治で没し、5代藩主[[徳川宗翰|宗翰]]が幼少で水戸藩を継承したおりには、8代将軍[[徳川吉宗]]により[[御附家老|付家老]][[中山信昌]]ほかの水戸家の重臣が呼び出され、幼君の輔育と一和忠勤を直接命じられた。さらに、吉宗以降に御三家の幕府による統制が強化される中、[[寛延]]2年には、[[御連枝]](支藩の藩主)の[[松平頼寛]]([[陸奥国|陸奥]][[守山藩]])と[[松平頼済]](常陸[[常陸府中藩|府中藩]])が[[老中]][[堀田正亮]]の役邸に呼び出され、財政改革の実施を命じられた。このため宗翰は宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を実施し、[[太田資胤]]に命じて財政再建を進めたが、宝暦6年に資胤が致仕すると頓挫した。安永7年には、幕府が再び水戸藩の家老に直接細かい指示を与えて財政再建を命じた。6代藩主[[徳川治保|治保]]は幕命に従って倹約に努め、藩主就任以来24年ぶりにお国入りを果たして寛政の改革に乗り出したが、[[天明の大飢饉]]によって財政はさらに悪化した。
 
 
 
尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより、[[御三卿]]や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では支藩からの養子により藩祖の血統を守った。継嗣なく死去した8代藩主[[徳川斉脩|斉脩]]の後継問題では、[[清水徳川家|清水家]]から恒之丞([[徳川斉彊]])を養子に迎えようとする派閥と、[[藤田幽谷]]の門人らを中心とした藩祖血統の維持派が対立し、斉脩の三弟である[[徳川斉昭|斉昭]]が家督を継いだ。
 
 
 
9代藩主[[徳川斉昭|斉昭]]は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行うとともに、藩内の保守派の中心となり幕府との連携を果たそうとする付家老の勢力を削ぐため、一般家臣と同じ知行制に組み込んだ。財政を圧迫した藩主と付家老の江戸定府制度についても、1年ごとの交代制に改めた。教育改革についても[[弘道館]]を建設して整備を行い、[[水戸学]]が藩論に強い影響を与えることになった。しかし、強い尊王攘夷傾向のため幕府に疎まれ、長男の[[徳川慶篤|慶篤]]に家督を譲って隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で新規召し抱えを行ったため、藩財政は窮乏を極めた。斉昭の隠居後には改革派の[[藤田東湖]]らも免職・蟄居となった。
 
 
 
10代藩主となった[[徳川慶篤|慶篤]]は、3連枝(高松藩主[[松平頼胤]]、守山藩主[[松平頼誠]]、府中藩主[[松平頼縄]])の後見のもとで藩政を行った。なお、15代将軍[[徳川慶喜]]は慶篤の実弟であるが、[[御三卿]]の一つ[[一橋徳川家|一橋家]]を継いでから将軍になった。斉昭には他にも多くの男子があり、親藩・外様を問わず多くの藩に養子に出されている。
 
 
 
水戸藩は幕末には斉昭が存在感を示したものの、藩内では保守派([[諸生党]])と改革派([[天狗党]])の抗争から統制を失い、藩士による[[桜田門外の変]]、[[天狗党の乱]]、[[弘道館戦争]]を招くとともに、藩論統一と財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができなかった。
 
 
 
水戸藩領は[[廃藩置県]]により、水戸県を経て、茨城県に編入された。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
;武田(松平)家
 
[[親藩]] - 15万石
 
#[[武田信吉]]
 
 
 
;徳川(紀州)家
 
親藩 - 20万石→25万石
 
#[[徳川頼宣]]
 
 
 
;徳川(水戸)家
 
親藩 - 25万石→28万石→35万石 ※[[1636年]](寛永13年)7月以前は松平姓
 
#[[徳川頼房]]
 
#[[徳川光圀]]
 
#[[徳川綱條]]
 
#[[徳川宗堯]]
 
#[[徳川宗翰]]
 
#[[徳川治保]]
 
#[[徳川治紀]]
 
#[[徳川斉脩]]
 
#[[徳川斉昭]]
 
#[[徳川慶篤]]
 
#[[徳川昭武]]
 
 
 
== 支藩 ==
 
水戸藩には頼房の子を藩祖とし、いざという時に本家を継承する支藩(当主が[[御連枝]]と呼ばれる)が4家(四連枝)あった。
 
* [[讃岐国|讃岐]][[高松藩]] - [[松平頼重|松平讃岐守頼重]](徳川光圀の兄)を祖とする。[[高松城 (讃岐国)|高松城]]に居城を置く。[[伺候席#溜間|溜間詰]]。
 
* [[陸奥国|陸奥]][[守山藩]] - [[松平頼元|松平刑部大輔頼元]]を祖とする。[[1661年]](寛文元年)に2万石を与えられ、常陸[[額田藩|額田]]に[[陣屋]]を置いたのに始まる。[[1700年]](元禄13年)に2代[[松平頼貞|大学頭頼貞]]が陸奥守山転封となり、以降明治維新まで続く。代々の当主は、連枝大名として[[伺候席#大広間|大広間]]に詰めた。また、江戸定府として参勤交代は行わなかった。極官は従四位下侍従であり、代々の当主は嫡子のうちに従四位下に任官し、家督相続後に侍従に昇進している。
 
* 常陸[[常陸府中藩|府中藩]] - [[松平頼隆|松平播磨守頼隆]]を祖とする。1661年(寛文元年)に2万石を与えられ、常陸保内に陣屋を置いたのに始まる。1700年(元禄13年)に同国府中に陣屋を移す。守山藩と同様、大広間詰め連枝大名、江戸定府であった。官位の格も守山家と同じである。
 
* 常陸[[常陸宍戸藩|宍戸藩]] - [[松平頼雄 (宍戸藩主)|松平大炊頭頼雄]]を祖とする。[[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年)に1万石を与えられ、常陸宍戸に陣屋を置いたのに始まる。連枝大名であるが、[[1711年]]([[正徳 (日本)|正徳]]元年)に2代[[松平頼道|筑後守頼道]]が[[譜代大名|譜代]]に列せられ[[帝鑑の間|帝鑑間]]詰となってより、幕府からは譜代大名として遇せられる。官位は従五位下。
 
 
 
== 家老 ==
 
* [[中山氏]] - [[松岡城 (常陸国)|松岡城]]2万5千石([[茨城県]][[高萩市]]); [[御附家老|附家老]]、維新後[[男爵]]
 
* 山野辺氏(1万石) ※戦国大名・[[最上氏]]の子孫・義観より[[助川海防城|助川海防城主]]
 
*:[[山野辺義忠]]([[最上義光]]の四男)- [[山野辺義堅|義堅]]=[[山野辺義清|義清]]-[[山野辺義逵|義逵]]-[[山野辺義胤|義胤]]=[[山野辺義風|義風]]=[[山野辺義質|義質]]-[[山野辺義観|義観]]-[[山野辺義正|義正]]=[[山野辺義芸|義芸]]
 
* 鈴木(石見守)氏(5000石→4500石) ※三河豪族・[[井伊谷三人衆]]・[[鈴木重時]]の子孫
 
*:[[鈴木重好]]-([[鈴木重辰|重辰]])(安中藩家臣)-[[鈴木重政(石見守)|重政]]-重賢-重道-好賢-重安-重郷-重矩-[[鈴木重棟|重棟]]
 
* 松平氏(3000石・藩主一門) ※家老格、頼譲より[[長倉陣屋]]に移住、維新後[[士族]]
 
*:[[松平頼泰]]([[徳川頼房|頼房]]の八男)-[[松平頼福|頼福]]-頼匡-頼忠-頼脩=[[松平保福|保福]]([[徳川宗翰|宗翰]]の八男)-[[松平頼紹|頼紹]]-[[松平頼善|頼善]]=[[松平頼位|頼位]]=頼譲=頼寧=頼功=頼遵
 
* [[太田氏]](2000石) ※[[里見氏]]旧臣。初代頼房の准母[[英勝院]]の一門
 
*:[[太田正重]]-資正-資真-一学=資富=資胤-資厚=資敬=資原-資春-資信
 
* [[雑賀党鈴木氏|鈴木(雑賀)氏]](3000石→600石) 称:雑賀姓
 
*:[[鈴木重朝]]-[[鈴木重次|重次]]=[[鈴木重義 (雑賀鈴木家)|重義]]([[徳川頼房|頼房]]の十一男)=雑賀重春-雑賀重護-重教-重堅-重明-重孚
 
* [[宇都宮氏]](1000石)[[下野宇都宮氏]]の子孫。墓所は先祖と同じ下野国益子にある。
 
*:[[宇都宮隆綱]] - [[宇都宮宏綱|宏綱]] - [[宇都宮壽綱|壽綱]] -
 
<!--- *:[[肥田大助]] 土岐肥田伊豆守―肥田二郎(豆州肥田氏祖)―肥田政勝の子孫 ([[肥田氏]])
 
--->
 
 
 
== 藩校 ==
 
* [[弘道館]]
 
 
 
== 藩邸 ==
 
* 上屋敷:[[文京区]][[後楽]](現在の[[小石川後楽園]]、[[東京ドーム]]、[[後楽園遊園地]])
 
* 中屋敷:[[台東区]][[池之端]](現在の[[東京大学本郷地区キャンパス#浅野キャンパス|東京大学本郷地区キャンパス浅野地区]]<ref>[http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v16n1/v16n1_nishiaki.html 東京大学本郷キャンパス浅野地区の史跡], [[東京大学総合研究博物館]], 2018年4月8日閲覧</ref>)
 
* 下屋敷:[[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]](現在の[[隅田公園]]<ref>[http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h10/syougun.html 特別展・将軍が撮った明治のすみだ 小梅水戸邸物語], [[墨田区]], 2018年4月8日閲覧</ref>)
 
* 京屋敷:[[京都市]][[上京区]]下長者町通烏丸西入北側<ref>[https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka010.html KA010 水戸藩邸跡], 京都市歴史資料館情報提供システム「フィールド・ミュージアム京都」, 2018年4月8日閲覧</ref>
 
* 蔵屋敷:[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[中之島 (大阪府)|中之島]](現在の[[日本銀行]]大阪支店<ref>[http://www3.boj.or.jp/osaka/_userdata/ayumi0222.pdf 日本銀行大阪支店のあゆみ], 日本銀行大阪支店, 2018年4月8日閲覧</ref>)
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
* [[常陸国]]
 
** [[那珂郡]] - 127村
 
** [[久慈郡]] - 141村
 
** [[茨城郡]]のうち - 115村
 
** [[多賀郡]]のうち - 34村
 
** [[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]のうち - 6村
 
** [[行方郡 (茨城県)|行方郡]]のうち - 25村
 
** [[新治郡]]のうち - 14村
 
* [[下野国]]
 
** [[那須郡]]のうち - 16村
 
 
 
[[明治維新]]後に、茨城郡21村([[天領|幕府領]]6村、[[地方知行|旗本領]]17村)、新治郡1村(旗本領)、[[相模国]][[三浦郡]]1村([[寺社領]])、[[鎌倉郡]]11村(寺社領6村、幕府領5村、旗本領2村)、[[天塩国]][[苫前郡]]、[[天塩郡]]、[[中川郡 (天塩国)|中川郡]]、[[上川郡 (天塩国)|上川郡]]、[[北見国]][[利尻郡]]が加わった。なお[[相給]]も存在するため、村数の合計は一致しない。
 
 
 
== 備考 ==
 
関ヶ原の戦いの結果、[[佐竹氏|佐竹家]]は[[久保田藩|秋田]]へ[[転封]]されるにあたって水戸の美女を根こそぎ連れていったと俗説されるが{{要出典|date=2012年2月|title=学術的に信頼できる典拠は?}}、これは秋田の都道府県別日照時間が日本で最も低い<ref>[http://www.stat.go.jp/data/nenkan/zuhyou/y0110000.xls 気象庁。2014年3月閲覧。]</ref>ため色白の者が溢れているように見えたことから、左遷の合理化で流された無根拠の謬説と捉えるのが妥当である<ref>[[遺伝学]]的に、美女の遺伝子([[X染色体]])を女児しか受け継がないなどということは考えられないため。美女の母を持つ水戸の男性が美女の遺伝子(X染色体)を後世に伝えたはずなので「美女を根こそぎ連れて行った」ことは[[生物学]]上ありえず、明らかに事実ではない。また十分に多い水戸の総人口及び転封時の構成人数から考えても、佐竹家臣団が水戸の美女を取りこぼしなく募って全員移民させる事は当時の交通網では限りなく不可能でもある。</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references/>
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[山川菊栄]]『<small>覚書</small> 幕末の水戸藩』([[岩波文庫]]、1991年) ISBN 4-00-331624-X
 
* 瀬谷義彦・鈴木暎一『流星の如く <small>幕末維新・水戸藩の栄光と苦境</small>』([[日本放送出版協会]]、1998年) ISBN 4-14-080347-9
 
* 高橋裕文『幕末水戸藩と民衆運動 <small>尊王攘夷運動と世直し</small>』(青史出版、2006年) ISBN 4-921145-30-X
 
* 乾宏巳『水戸藩天保改革と豪農』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0618-8
 
* [[長山靖生]]『天下の副将軍 <small>水戸藩から見た江戸三百年</small>』(新潮選書、2008年) ISBN 978-4-10-603606-4
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Mito_Domain}}
 
{|
 
|valign="top"|
 
* [[水戸黄門]] (創作)
 
* [[彰考館]]
 
* [[水府系纂]]
 
|valign="top"|
 
* [[常磐共有墓地]]
 
* [[酒門共有墓地]]
 
* [[回天神社]]
 
* [[水戸の三ぽい]]
 
|}
 
 
 
'''水戸藩に関連する武術流派'''
 
* [[北辰一刀流]][[玄武館]]
 
* [[新田宮流]]
 
* [[神道無念流]]
 
* [[真之真石川流]]
 
  
{{s-start}}
+
江戸時代,[[常陸国]] (茨城県) 茨城郡水戸地方を領有した藩。天正 18 (1590) 年江戸氏を滅ぼした佐竹義宣が 54万 6000石で立藩。[[佐竹氏]]は関ヶ原の戦いで西軍に内通したため出羽秋田 (秋田県) 20万 5800石に減転封され,代って松平信吉 (家康の5子) が下総佐倉 (千葉県) から 15万石で入封。慶長8 (1603) 年信吉が没し,嗣子なく除封。代って徳川頼宣が2万石で入封,同14年頼宣は駿河 (静岡県) 府中へ移封し,家康の 11子徳川頼房が 25万石で常陸下妻より入封。のち3万石加封,水戸徳川家の初代藩主となった。第2代藩主は水戸黄門で知られる光圀で,彼が編纂を開始した『大日本史』は,その後の水戸学の礎となったばかりか幕末の尊攘派に多大な影響を与えた。次の綱条(つなえだ) が元禄 14 (1701) 年7万石の加増を受けて 35万石となった。第9代藩主斉昭 (なりあき) は藤田東湖などの人材を登用して藩政改革に尽力し尊攘派の急先鋒となったが,井伊直弼 (なおすけ) と対立し失意のまま没した。その後,藩内では尊攘派と佐幕派の対立が激化し,分裂したまま明治維新を迎えた。[[御三家]],江戸城大廊下詰。
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2019/4/30/ (火) 01:27時点における最新版

水戸藩親藩35万石の位置
水戸藩
親藩
35万石
水戸藩の位置

水戸藩(みとはん)

江戸時代,常陸国 (茨城県) 茨城郡水戸地方を領有した藩。天正 18 (1590) 年江戸氏を滅ぼした佐竹義宣が 54万 6000石で立藩。佐竹氏は関ヶ原の戦いで西軍に内通したため出羽秋田 (秋田県) 20万 5800石に減転封され,代って松平信吉 (家康の5子) が下総佐倉 (千葉県) から 15万石で入封。慶長8 (1603) 年信吉が没し,嗣子なく除封。代って徳川頼宣が2万石で入封,同14年頼宣は駿河 (静岡県) 府中へ移封し,家康の 11子徳川頼房が 25万石で常陸下妻より入封。のち3万石加封,水戸徳川家の初代藩主となった。第2代藩主は水戸黄門で知られる光圀で,彼が編纂を開始した『大日本史』は,その後の水戸学の礎となったばかりか幕末の尊攘派に多大な影響を与えた。次の綱条(つなえだ) が元禄 14 (1701) 年7万石の加増を受けて 35万石となった。第9代藩主斉昭 (なりあき) は藤田東湖などの人材を登用して藩政改革に尽力し尊攘派の急先鋒となったが,井伊直弼 (なおすけ) と対立し失意のまま没した。その後,藩内では尊攘派と佐幕派の対立が激化し,分裂したまま明治維新を迎えた。御三家,江戸城大廊下詰。



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