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(首相退任後)
 
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{{政治家
 
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|人名 = 森 喜朗
 
|人名 = 森 喜朗
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'''森 喜朗'''(もり よしろう、[[1937年]]([[昭和]]12年)[[7月14日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]会長。
 
'''森 喜朗'''(もり よしろう、[[1937年]]([[昭和]]12年)[[7月14日]] ‐ )は、[[日本]]の[[政治家]]。[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]会長。
 
[[衆議院議員]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]([[第2次中曽根内閣|第105代]])、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]([[宮澤内閣 (改造)|第56代]])、[[建設大臣]]([[村山内閣 (改造)|第62代]])、[[内閣総理大臣]](第[[第1次森内閣|85]]・[[第2次森内閣|86]]代)、[[自由民主党政務調査会長]]、[[自由民主党幹事長]]、[[自由民主党総務会長]]、[[自由民主党総裁]](第19代)などを歴任した。
 
[[衆議院議員]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]([[第2次中曽根内閣|第105代]])、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]([[宮澤内閣 (改造)|第56代]])、[[建設大臣]]([[村山内閣 (改造)|第62代]])、[[内閣総理大臣]](第[[第1次森内閣|85]]・[[第2次森内閣|86]]代)、[[自由民主党政務調査会長]]、[[自由民主党幹事長]]、[[自由民主党総務会長]]、[[自由民主党総裁]](第19代)などを歴任した。
 
== 経歴 ==
 
=== 政界入りまで ===
 
[[ファイル:Vladimir Putin 25 March 2001-10.jpg|thumb|150px|[[2001年]][[3月25日]]、父の墓参りに訪れた森。]]
 
[[石川県]][[能美郡]][[根上町]](現在の[[能美市]])に、根上[[町長]]を務めた[[森茂喜]]と、妻の薫([[1944年]][[11月]]病死)との間に、長男として生まれる。小中時代は[[いじめ]]の常連で何度も職員室に引っ張られたと講演で回顧している。中学時代の教師は森が悪いことをして[[交番]]に連れて行かれると、[[日本の警察官|警官]]の前で森を怒鳴り、殴りつけた。父親の立場を慮って貰い受けに来た手前、必要だったものらしく、自転車の後ろに森を乗せて帰る途中「頭が痛かったら先生の背中にこすりつけろや」と言ってくれたと言う。こうしたやりとりから師弟の情愛が生まれ、その教師は後年森が立候補する頃には教組の幹部になっていたが「お前のお陰で教組を辞めなきゃいかんようになった。今まで[[自由民主党 (日本)|自民党]]にだけは入れないできたが、とうとう自民党に入れることになってしまった。困った奴だ」と森に協力した。その後恩師は石川県中学校長会の会長になったという<ref group="注釈">中学時代のエピソードについては『月刊自由民主』1986年4月P49,およびP51</ref>。
 
 
==== ラグビーへの思い入れと挫折 ====
 
本人によれば上述のように勉強は出来なかったが、子供の頃より生涯に渡って強い関心を持ち続けることになったのが[[ラグビー]]である。『森喜朗全人像』『あなたに教えられ、走り続けます』『自民党と政権交代』など森の著書やインタビューによれば、ラグビーに最初に興味を示したのは父の茂喜であり、戦時中[[トラック島空襲]]後同島に派遣された際には、部下を引き連れて捕虜と試合に興じて人心掌握にも有効活用したと言う<ref group="注釈">補給も碌にない最前線の孤島であるため、娯楽は非常に限られていた。空腹のため[[ラグビーボール]]も最後には皆で食べてしまった程であると言う。</ref>。
 
 
戦後の1948年(昭和23年)、喜朗が小学5年生の時分に早稲田大学のラグビー部がOBである父を頼って根上町に合宿にやって来た。この時の練習試合の様子を見て喜朗はラグビーに興味を持ち、早稲田大学に行ってラグビーをやろうと決意し、練習に励むようになった。元々根上町からは学区制の関係でラグビーが強く進学校である[[石川県立金沢二水高等学校]]には進学できなかったが、金沢市立高岡中学校に越境入学し、根上町から汽車通学していた。高岡中学校にはラグビー部がなく、[[バスケットボール]]部に所属していた。中学校卒業後予定通り名門金沢二水高校に進学し、ラグビー部に入部。煙草を吸って処分された前任者に代わり、父親がPTAの会長であるから事件でぐらついた部を主導せよという理由でラグビー部のキャプテンを務め、北陸三県大会で[[富山県立魚津高等学校]]と決勝戦にすすんだものの敗退した。その活躍から、<!--とうてい早稲田大学のどの学部にも合格する学力はなかったのだが-->父の知人であった当時の早稲田大学ラグビー部監督[[大西鉄之祐]]の[[スポーツ推薦]]を得て、[[早稲田大学]][[第二商学部]]に入学する。しかし、全国から集まった強豪選手の中で、練習は過酷を極め、文化の違いもあって精神的にも参ってしまい、ある日吐血したため病院へ行ったところ[[胃潰瘍]]と診断され、医者から半年間練習を休むように言われた。半年もの間練習を休めばラグビー選手として終わりだと悟った森は入学から4ヶ月で退部を決心する。同時に、自分がラグビー部の推薦により大学へ入学した点を重く見て退学を決意するが、大西監督に「バカもの!」「ラグビーだけが大学じゃないぞ、森君。縁あって早稲田に入ったんだ。早稲田精神を身につけて少しでも世の中の役に立つ人間になろうと君は思わないのか。将来、ラグビーに恩返しができるような立派な人間になってみろ」と叱責され、退学を思いとどまる<ref>{{Cite news | title = 私の履歴書(5)早大入学 体調崩しラグビー断念 | agency = 日本経済新聞 | date = 2012-12-05}}</ref>。
 
 
==== 早稲田大学雄弁会への入会 ====
 
結局、森は、早稲田大学ラグビー部こそ退部したが、郷里出身の早稲田大学大学院にいた先輩が森を見かね、[[早稲田大学雄弁会|雄弁会]]に入るように薦めた。森は2年生になると同時に雄弁会に入会し、やがて政治家を志すようになる。当時の雄弁会は現役の[[国会議員]]、特に[[野党]]の代議士が話をしに来てくれることが多く、国政の当事者に接することが出来るという恵まれた環境で生の政治を学んでいった。森自身演説の練習も行ったがそれを聴衆の前で披露する機会は在学中には訪れなかった。当時の雄弁会には、[[青木幹雄]]、[[西岡武夫]](当時代表幹事会議長)、[[深谷隆司]]、[[玉澤徳一郎]]、[[小渕恵三]]などが揃い、部室は[[梁山泊]]の様相を呈していた。この時期は雄弁会の黄金期である。
 
 
なお、ラグビー退部後も、勉強も優秀だが練習のため授業に出られないラグビー部員達のために教授に掛け合うなど、同部との関わりは続き、教授達とも一緒に飲みに行き講話にじかに接していた。早稲田祭で後輩の学生達に語ったところによれば、森達は部室(会室)には毎日出ていたが、教室にはいかないことから「大学周辺居住者」と呼ばれていたが、必要な単位は4年間で全て取得したと言う<ref>[http://www.wasedasai.net/2005/ob/mori/index.html 早稲田大学OB・OGインタビュー 前内閣総理大臣 森 喜朗先輩] 早稲田祭2005<br/>なお、上述の経緯から、インタビュアーの後輩が他大学に併願したことを聞き出すと、「早稲田と上智と学習院じゃ校風や伝統も違う。「自民党と民主党と社民党、入れてくれるならどこだっていい」というみたいなことに似ている。どこでもいいなんていうのは、大学に失礼だと思わないか。」と母校への思いを語っている。</ref>。
 
 
==== 日本工業新聞時代 ====
 
早稲田大学を[[1960年]]に卒業し、[[水野成夫]]の口利きで[[産業経済新聞社]]にコネ入社した。配属先は[[日本工業新聞]]に勤務し、のちに移籍する。<ref group="注釈">大学時代、森は東京都内の各大学の弁論部有志で結成した「学生同友会」([[左派]]に対抗して、安保賛成の声を盛り上げることを目指していた)に加わっていた。この団体を指導していた自民党治安対策特別委員長の[[千葉三郎]](元労相)を通じて[[水野成夫]]を紹介してもらい、一旦は水野が「産経の担当者に話しておこう」と就職を約束するかのような発言をしたものの、卒業が近づいても何の連絡も来なかったため、森が問い合わせたところ「水野社長はそう言ったかもしれないが、うちは経営再建中で新人採用予定はない」と回答された。これに対して森は怒り、「天下の水野成夫がうそをつくとは何だ」と反論したところ、しばらくして「採用試験をやるから受けろ」との連絡があった。森は「試験は受けない」と言い張ったが、「試験を受けないと採用しない」と言われ、試験では白紙答案を提出して「天下の水野社長は前途有為な[[青年]]をつぶしてはならない」と書き加えた。その後、産経新聞から採用通知が来た(出典:2012年12月7日付『[[日本経済新聞]]』「[http://www.nikkei.com/article/DGKDZO49243650W2A201C1BC8000 私の履歴書 森喜朗(7)産経入社「本田が4輪進出」特ダネ 日本工業新聞で企業取材]」)。</ref>。「今日あるのも産経のおかげ」と語っている<ref group="注釈">創刊80周年に寄せて 森喜朗元首相「産経が日本のマスコミの論調変えた」産經新聞6月20日号</ref>。
 
 
雄弁会時代以来の付き合いである牧千恵子と1961年11月に結婚。[[百合丘]]の[[公団住宅]]に当たり、1DKの新婚生活を始めた。記者時代は昼夜の別なく取材先を飛び回っており、妻・千恵子によれば、日本工業新聞での担当は自動車や機械などであり、取材先の会社の社長に可愛がられたりもしたのか、情報やニュースもかなり獲得し、1面トップ記事を書いたり、社長賞も貰ったと語っている<ref name ="morichieko">森千恵子「夫・森喜朗 人は「愚宰相」というけれど」『THEMIS』2000年7月</ref>。
 
 
=== 議員初当選 ===
 
政治家に転じるきっかけは、農機具メーカー・[[井関農機]]の取材中に[[岸信介]]側近の衆議院議員・[[今松治郎]]と知り合ったことだった。井関農機の創業者である井関邦三郎と今松は同郷の同級生であり、邦三郎の息子・昌孝は[[青年会議所]]に所属していた。昌孝と親しくなった森は、「今松の選挙を手伝ってみないか」と持ちかけられ、承諾した<ref name ="morichieko"/>。なお、[[牛尾治朗]]とも昌孝を通じて1963年頃に知り合っている。
 
 
今松の秘書を務めた後、[[1969年]]の[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[石川県第1区 (中選挙区)|旧石川1区]]から立候補。この選挙は10人が乱立する混戦模様で(自民党3、[[日本社会党|社会党]]1、[[公明党]]1、[[民社党]]1、[[日本共産党|共産党]]1、[[保守]]系無所属1、[[革新]]系無所属1、その他[[無所属]]1)、森は[[泡沫候補]]と見られていた。実際、[[田中角栄]][[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]は森を「泡沫候補」と呼んで公認を与えなかった。
 
 
自民党の公認は既に満杯だった。自民前職2人([[坂田英一]]と[[井村重雄]])が健康上の理由で出馬を断念したが、[[別川悠紀夫]]と[[奥田敬和]]が新たに公認を受け、森は公認を得られなかったため、保守系無所属で出馬することになった。
 
 
出馬に際し、森は今松の秘書を務めていた縁から、岸信介元[[内閣総理大臣|首相]]による応援を岸の秘書である[[中村長芳]]を通じて要請。岸は森の要請を快諾し、はるばる石川まで応援に駆けつけた。[[安保闘争#60年安保|60年安保闘争]](森は「安保騒動」と呼ぶ)による悪影響を懸念する声もあった。森の親族も父と同じく出馬に反対の意見が大勢であったが、選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の[[北陸地方]]は[[仏教]]への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。また、根上町内の森町長への信頼感と森を認めてこなかった既存の自民党組織・地方議員や奥田などへの反発から、町内では住民総出で選挙運動に協力する雰囲気となり、昼は老人と子供しか残っていないという有様であった。加えて、岸の応援で地元での人気が上昇し、下馬評を覆してトップ当選した。森は、無名の[[泡沫候補]]に過ぎない自分の応援のためにわざわざ駆けつけた岸に対し、終生恩義を忘れない姿勢を示しており、後年岸の外孫である[[安倍晋三]]が首相に就任した際は、後見人として安倍を支えることになる<ref group="注釈">火事の一件と地元の選挙協力については平河卓『森喜朗・全人像』に詳しい。岸の応援についての経緯は『自民党と政権交代』で語られている。</ref>。
 
 
森の当選後、田中自民党幹事長は森を党本部に呼び、金を渡そうとした。森が反発すると、[[二階堂進]]が「([[追加公認]]の)公認料および貸付金」と説明して、森に金を受け取らせた。森は田中の態度を見て、「この人とは絶対に席を同じにはできない」というものの金を返却することはなかった。帰途[[福田赳夫]]邸に寄って、さらなる資金援助を期待したものの、相手にされず空振りに終わった。
 
 
この選挙では同じ選挙区で奥田敬和も初当選しており、2人のライバル関係はのちに「[[森奥戦争]]」と呼ばれるようになる。石川1区では森の追加公認も併せて自民党が議席を独占したが、唯一の前職、[[桂木鉄夫]]は落選した。
 
 
なお、立候補前より青年会議所についても、地元の小松支部にも代議士になりたい者が何人もいたため最初は完全にライバル視され入れて貰えなかった。会議所が企画した催し物でもスピーカーを抑えて話をさせないようにされたと言う。それに憤った人達は「青朗会」を立ち上げ、森の選挙運動での中心組織となっていった。森が青年会議所に入れたのは国会議員当選後、牛尾の引きによってであった。当初はまだ小松支部がライバル視故に反対していたが、「東京で引き受ける」と会頭だった牛尾が啖呵を切って、あわてた小松支部が森を受け入れたという<ref group="注釈">牛尾と青年会議所の話については「森の清談 森喜朗 [[ウシオ電機]]会長 牛尾治朗 2人そろって[[團十郎]]の応援団」『BOSS』2008年9月</ref>。
 
 
=== 官房副長官就任まで ===
 
当選後は岸の勧めに従い福田派([[清和政策研究会|清和会]]の前身の紀尾井会)に入会。[[福田赳夫内閣 (改造)|福田赳夫改造内閣]]では[[内閣官房副長官]]に就任し、首相の[[福田赳夫|福田]]や[[内閣官房長官|官房長官]]の[[安倍晋太郎|安倍]]を補佐した。
 
 
当選から間もない頃、1972年の[[沖縄返還]]に先んじて[[日米繊維協定]]が締結されると、従来型の繊維産業が集中していた石川県は大打撃を受け、雇用不安なども発生した。そこで[[東レ]]が県内に工場を進出させた。この工場は自動化工場のはしりで、規模に比較して雇用吸収力は小さかったことは森も東レ側も互いに理解していたが、それでも経済的には助かる結果となった。後年、森は誘致に応じた東レに感謝の言葉を述べている<ref>「森の清談(第4回)ゲスト [[東レ]]名誉会長 前田勝之助 苦しい時代を乗り越えたから繊維メーカーは猛者ばかり」『BOSS』2008年5月</ref>。
 
 
=== 文部大臣時代 ===
 
[[1983年]][[第2次中曽根内閣]]では[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]として初入閣した。
 
 
文部大臣就任直後のインタビューにて、日教組に対しては話し合いは是とするものの、教育の場に政治運動を持ち込むことに対しては対決姿勢を鮮明にしている<ref name="asahi1984-1-1">「新閣僚 焦点インタビュー [[学制]]改革幅広く検討 戦後教育に行きすぎも 森文相」『朝日新聞』1984年1月1日<br/>「特に大学入試が問題ではないか。高校でゆとりある教育を進めようとしても、入試で難問、奇問が出るようではうまくいくはずがない。生徒会、スポーツ、ボランティア活動などを評価してもらえないか。大学の先生も頭を切り替えてほしい」<br/>「教育関係者とはできるだけ話し合っていきたい。(中略)政治的な動きをされることは容認しえない」などと述べている。</ref>。
 
 
==== 産学官共同研究の強化 ====
 
文部大臣の時に諮問機関である[[学術審議会]]が「学術研究体制の改善のための基本的施策について」という答申を提出した。これは産学官共同を強化する内容であり、研究者の育成・支援体制の整備など「頭脳・技術立国」を目指すものであった<ref>「「産学官協同」強める 技術立国 国立大を軸に促進 学術審が答申」『朝日新聞』1984年2月7日1面</ref>。文部大臣退任後も北陸の政財界要人等とこの方向での教育問題に尽力し、6年後の1990年10月、先端科学技術分野における国際的水準の研究を行うための国立大学院大学として、[[北陸先端科学技術大学院大学]]の開学に漕ぎ着けた<ref>[http://www.jaist.ac.jp/general_info/outline/2010.pdf 大学広報誌「JAIST概要」 - 北陸先端科学技術大学院大学] 7ページの「特徴」に開学の経緯が簡単に書かれている。</ref>。
 
 
==== 臨時教育審議委員会の設置 ====
 
中曽根内閣は教育のあり方の再検討を目玉の一つに据え、「[[臨時教育審議会]]」の設置を図った。これに対して、[[日本教職員組合|日教組]]や[[日本社会党|社会党]]は日教組代表を委員に加えるように要求していたが、森は「特定の団体を代表する人を入れるのは適当でない」と答弁し、初期から拒否の姿勢を明らかにした<ref>「日教組代表加えず 臨教審で文相示唆」『朝日新聞』1984年4月18日</ref>。この委員会は立法措置により根拠を与えることとなり臨時教育審議会設置法案が提出された。中曽根内閣は1984年の夏までには成立させることを目標として、趣旨を守りつつこれを通すことが森に課せられた任務となった。法案に対して[[野党]]は阻止を図ったが、中曽根と森は「柔軟な対応」を取るとして法案の修正には応じるが日教組の参加を認めない点を貫徹することとした<ref>「首相、文相が柔軟姿勢確認 臨教審法案修正」『朝日新聞』1984年5月8日</ref>。その目標通りに事態は推移し、自民の他当時野党であった公明、[[民社党|民社]]が修正協議に応じ、7月に日教組を外す方針のまま三党合意が図られ<ref>「臨教審法で三党修正案 国会報告を盛る」「日教組代表を委員に入れぬ」『朝日新聞』1984年7月6日</ref>、8月に法案は成立した。なお、当時論議となった内容は入試制度、学制、[[幼保一元化]]、極端な[[学歴社会]]化の緩和などであった<ref>「浮かんだ臨教審の課題 6・3の区切りも的に 改革の行方阻む財政難」『朝日新聞』1984年8月7日</ref>。
 
 
==== その他 ====
 
その他、文相時代には、他大学での履修制度拡充<ref>「他大学での履修もっと 単位互換 実施2割の現状改革」『朝日新聞』1984年10月16日1面<br/>単位互換拡大方針を決めた際「"開かれた大学"をめざして大学間の交流と協力を促進する必要がある」と述べている。</ref> や入試多様化の一環として[[共通一次試験]]の改革が議論されている。また、大臣として訪米した際、当時の日本の国家的隆盛から教育にも関心が向けられていることを意外な感を持ったことなどから、[[アメリカ合衆国教育長官|アメリカの教育長官]]と諮った上で日米の教育を相互に比較する研究が着手されている。これは折からの臨教審での審議の参考にも供された<ref>「学者ら33人で発足 日米教育比較研究」『朝日新聞』1984年11月26日</ref>。
 
 
上記のような実績を挙げたことで、以降自民党文教族の実力者として頭角を現した。
 
 
=== 自民党での地歩 ===
 
[[1988年]]の[[リクルート事件]]で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。
 
 
福田派を継いだ安倍派では[[三塚博]]、[[塩川正十郎]]、[[加藤六月]]と並んで[[安倍派四天王]]の一人に称され、[[ネオ・ニューリーダー]]としての地歩を固める。しかし安倍にリクルートの[[江副浩正]]を紹介したのは森といわれており(森自身は否定)、晩年の安倍は森と距離を置いていた。[[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]後、[[第2次海部内閣]]の組閣人事で、[[海部俊樹]][[内閣総理大臣|首相]]は「リクルート関係議員は入閣させない」と公言しているにもかかわらず、安倍は森を入閣候補として推薦した。しかし、安倍は本気で森を推したのではなく、むしろ森を晒し者にしようとしたのではないかと[[薬師寺克行]]は指摘している{{Sfn|五百旗頭真|2007|p=295}}。結果、森は入閣辞退を余儀なくされた。
 
 
=== 自民党の政権転落と奪還 ===
 
安倍死去後の[[三六戦争]](三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは[[自由民主党政務調査会#政務調査会長|党政調会長]]、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]、[[自由民主党幹事長|党幹事長]]、[[建設大臣]](村山改造内閣)、[[自由民主党総務会#総務会長|党総務会長]]と重要役職を次々と歴任した。
 
 
[[1993年]]7月より、清和会出身議員として4年ぶりの党幹事長を務めた際には、[[細川内閣]]が成立し、自民党が野党に転落した中での就任だった。入れ替わりとなる前任の[[梶山静六]]は辞任の際、残っていた党職員の忠誠心が高いことを失念して猜疑心から当り散らしたが、森は職員をいたわる機会が多かったと言う。総裁=総理大臣とは言えない状況下での後継者選びでは、自民党は[[河野洋平]]を総裁に選んだ。森が取った策は地方組織を丹念に回って地盤を固めてその意向を汲み取ることと、[[非自民・非共産連立政権|連立政権]]各派への切り崩し工作であった。これは次に述べる[[政治改革四法]]の採決で効果を挙げ始め、連立政権内に亀裂を走らせることになった<ref>奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』</ref>。
 
 
[[細川内閣]]が成立を目指した、[[衆議院]]の[[小選挙区比例代表並立制]]導入を柱とする、[[政治改革]]関連4法案は、[[日本社会党|社会党]]の一部などの造反により否決された。首相の[[細川護熙]]は、河野とのトップ会談で妥協を図ろうとした。細川には[[小沢一郎]]が、河野には森が同席した。細川内閣案は[[比例代表制|比例区]]は全国1区、自民党案は47都道府県に分けていた。森は、妥協案として全国11ブロックにすることを提案し、小沢の同意を得た。なお、森はブロック制にしたのは共産党対策だと述べている。[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]では、もし全国1区ならば[[日本共産党|共産党]]は実際に獲得した26議席に加え、少なくともあと5〜6、多くて7〜8議席とっていたと森は述べている<ref>{{Harvnb|五百旗頭真|2007|pp=154-155}}。比例代表制は、定数が少なくなるほど1議席に必要な得票率が上がるため、比例代表の要素が弱まり、小政党が不利になる。実際には1996年総選挙における共産党は第四党だったので、全国1区なら共産党が得たはずの議席を、第一〜第三党である自民党、[[新進党]]、[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]が奪うことができたという意味になる。</ref>。
 
 
この後、社会党と新党さきがけを排除して羽田内閣が成立した。森、亀井、[[白川勝彦]]らは[[日本社会党委員長|社会党委員長]]の[[村山富市]]や、[[野坂浩賢]]など、社会党で連立政権に不満を持つ議員への接触を試みていた。自民党内にも、[[YKK (政治同盟)|YKK]]([[山崎拓]]、[[加藤紘一]]、[[小泉純一郎]])の了解を取るなどの根回しを行ったが、[[中曽根康弘|中曾根康弘]]らには最後まで知らせなかった。[[6月28日]]、森は社会党の[[久保亘]][[書記長]](彼は連立残留派だった)と会談し、自民党は村山首班で行くと持ち出した。久保は「今の話は絶対に外に漏らさないで下さい」と言い、森は「<u>私は</u>漏らしません」と答えたが、「私」ではない[[小里貞利]]にそれとなく言うように仕向け、自民党の村山首班構想が明らかになった。[[6月29日]]、小沢は自民党から海部を首班候補として引き抜き、首班指名は村山と海部の争いになったが、決選投票の結果村山261、海部214で村山が指名された。こうして[[村山内閣]]が成立し、社会党、[[新党さきがけ]]との3党連立として、自民党は与党復帰を果たした。
 
 
=== 村山内閣時代 ===
 
[[村山内閣 (改造)|村山改造内閣]]では建設大臣として入閣した。当初、自由民主党総裁の河野洋平は、自身が[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]から外れ、後任の外務大臣として森を推薦する意向を示していたが、村山は、河野外務大臣、[[橋本龍太郎]]通商産業大臣、[[武村正義]]大蔵大臣の留任を強く望んだ。このため河野は、森を無任所の総合経済対策担当大臣として入閣させたい意向を示したが、経済企画庁を中心に反対論が起こり、最終的に建設大臣としての入閣で落着した。後任の幹事長ポストには[[三塚博]]が就いた。閣内での仕事としては[[阪神・淡路大震災]]の教訓を踏まえた建築物の耐震化を促進するための「[[建築物の耐震改修の促進に関する法律]]」案の提出などがあり、同法は特に小中学校に配慮した内容として成立している。また、経済対策の一環として立ち遅れている大都市の[[社会資本]]整備を促進し、耐災害性の向上のため、一般[[公共事業]]と別枠で約6000億円の公共用地取得促進対策を実施した<ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/morisouri/mori_profile/2-5.html ●安心して暮らせる国づくり・まちづくり(建設大臣:平成7年8月8日〜平成8年1月11日)] 内閣府HP</ref>。
 
 
1995年夏になると1996年度予算の概算要求に向けた動きが活発化してきた。当時、[[自衛隊]]の存在を合憲と認めたとは言え、社会党内には拒否反応が依然として存在し、防衛予算の抑制要求として党内から突き上げがあった。その最中、アメリカは[[トマス・ハバード (外交官)|ハバード]]米国務次官補代理を訪日させ、森と会談した。米側が要望したのは当時日米が共同開発していた次期支援戦闘機([[F-2|FSX]])の量産へ向けた予算や[[在日米軍]]駐留経費の十分な確保であり、森は「[[自社さ連立政権|連立政権]]には自民党が入っているから大丈夫だ」などと協力的な姿勢を確約している<ref>防衛費の抑制を懸念 米国務次官補代理、森幹事長と会談 『朝日新聞』1995年08月03日</ref>。1995年9月に[[沖縄米兵少女暴行事件]]が発生し、在日米軍にとり逆風となったものの、12月の大蔵原案内示も無事通過し、1996年度の防衛予算は前年度比2.58%増と[[バブル崩壊]]後最大の伸びを示した(以降2009年8月に自民党が政権を失うまでこれほどの高い比率の伸びは無かった)。
 
 
[[1998年]][[7月]]には、新たに総理、総裁に就任した[[小渕恵三]]のもと、再び幹事長に任命される。また、同年[[12月]]、三塚に派閥の継承許可を求め、「[[清和政策研究会|森派]]」とした。
 
 
=== 首相時代 ===
 
[[ファイル:Yoshiro Mori meets William Cohen 2.jpg|thumb|250px|[[アメリカ合衆国国防長官]][[ウィリアム・コーエン]]と会談する内閣総理大臣森喜朗([[2000年]][[9月22日]]、[[東京都]][[千代田区]]の[[総理大臣官邸]]にて)]]
 
[[ファイル:Mori and bush.jpg|thumb|250px|[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]]と会談する内閣総理大臣森喜朗([[2001年]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ホワイトハウス]]にて)]]
 
[[File:Vladimir Putin 25 March 2001-7.jpg|thumb|250px|2001年3月、森喜朗首相、[[小池百合子]]議員らと[[ウラジーミル・プーチン]]・ロシア大統領に会う]]
 
 
==== 就任の経緯 ====
 
[[2000年]]4月5日、3日前に[[脳梗塞]]で倒れ緊急入院した[[小渕恵三]]首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。清和会議員の総理総裁就任は[[福田赳夫]]以来22年ぶりであった。このときの連立与党は[[自由民主党 (日本)|自民党]]、[[公明党]]、[[保守新党|保守党]]であり、メディア等では「自公保」と略称した。
 
 
森の首相就任は、当時の自民党有力議員5人(森喜朗本人、[[青木幹雄]]、[[村上正邦]]、[[野中広務]]、[[亀井静香]])が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれ、西側諸国の報道でも旧ソ連のクレムリン並みの密室人事と揶揄された。これらの論評に対して、森自身は「マスコミが密室と言いたがるだけ」と反論した。:{{main|五人組 (自由民主党 2000年)}}
 
 
===就任後===
 
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという<ref>「総理と言うのは不自由なもんだ」『文藝春秋』2000年10月 p.166</ref>。
 
 
政策では小渕政権の政治目標を継承することを重視し、小渕が学生時代から取り組んでいた沖縄問題の一つの到達点と目していた[[第26回主要国首脳会議|沖縄サミット]]を完遂や、小渕が望んでやまなかった[[景気]]回復を目指した。この他対[[ロシア]]外交、[[教育基本法]]問題なども小渕と森が最後に話をした4月1日に政治課題として意識していた<ref>沖縄サミットと景気回復を政治課題としたことについては例えば『文藝春秋』2000年10月<br/>対ロシア外交と教育基本法を政治課題としたことについては{{Harvnb|五百旗頭真|2007|p=214}}</ref> し、対[[アフリカ]]外交についても小渕が計画していたものであるとの指摘がある<ref name ="kankai2001-05-oyama" />。
 
&nbsp;&nbsp;ソ連に抑留された後に親善に努めてきた父親の遺骨の半分のあるシベリアの墓地を訪れて日露関係改善のきっかけを作ったのは森喜朗元首相だった最初の外国訪問地にロシアを選択し、シベリアにある父の墓地を参拝した。[[中央日報]]は徹底的に計算された行動であり、&nbsp;[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領は[[東方経済フォーラム]]で「我々の過去が未来に進むことを妨げてはいけない」と発言させ安倍晋三首相の意中を伝達する窓口を2013年以後は務めていてプーチン大統領とお互い「ヨシ」「ワロージャ」という愛称で呼び合う関係だと報道している<ref>http://japanese.joins.com/article/604/221604.html?servcode=100&sectcode=120</ref>。
 
 
また、[[所信表明演説|所信表明]]直後に前から予定されていた医師の診断を受けたところ[[前立腺]]に[[ガン]]が発見された(後述)。そのため数々の「失言」が槍玉に挙がって批判がヒートアップする前から自分の政権は短命であると自覚しており、「何かきちんとのこさないといけないと思った」という<ref>森の清談『諸君!』2003年10月 p.172</ref>。4年後の論座での証言では癌を理由に「就任時から1年で辞めることを決めていた」と述べた<ref>癌と1年で辞める発言については{{Harvnb|五百旗頭真|2007|p=267}}</ref>。癌であることが発覚すると首相が二代連続して健康問題に晒されることになるため、森は抗がん剤で症状を抑えつつガン告知を黙ったまま首相を務めることにしたが、論座編集部は『自民党と政権交代』のあとがきで指導者という地位が持つ孤独性として印象的であると述べている。『自民党と政権交代』では辞意についてプーチンと2001年3月に[[イルクーツク]]で行った会談で伝えたのが最初であった{{Sfn|五百旗頭真|2007|p=231}}。だが、その半年ほど前に『文藝春秋』でのインタビューにて[[小渕恵三]]から引き継いだ政治課題を達成したら総理を辞めてもよい旨を語っている<ref>「総理と言うのは不自由なもんだ」『文藝春秋』2000年10月 p.168。正確な発言は「私はこの二つをやり遂げたら、いつまでも総理大臣の座にすがりつこうなんて思わない。私は私が選ばれた経緯からして、「小渕恵三」がやり得なかったことをきちっとやればいいと、それだけを考えた」</ref>。
 
 
なお、総裁選を経て[[内閣総理大臣|首相]]となった小渕についてはマスコミを絡めて「小渕さんも随分口汚く罵られていましたよね。マスコミ攻撃までも引き継いでしまったようでした」と語っている。また、この不規則登板の中終始バックアップしてくれた人物として政調会長の任にあった[[亀井静香]]を挙げ、首相辞任の際に「本当のことを言えず、彼のポストの手伝いも出来なかった」と述べている<ref>「森の清談」『[[諸君!]]』2001年8月号P37</ref>。
 
 
==== 批判 ====
 
* 就任早々、あいさつまわりに訪れた[[橋本龍太郎]]元首相の事務所で、「[[首相動静]]」について「ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」と発言した(真意は後述)。マスコミの抗議に対して森は平身低頭の態度を取らなかったため、マスコミの態度も硬化していった。
 
* [[2000年]][[5月15日]]、「日本は[[天皇]]を中心とした神の国」と発言し、大きな波紋を呼ぶ。[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]はこれに対し「日本は神の国? いいえ、民の国です」と批判するCMを打った。6月の「[[無党派]]層は寝ていてくれればいい」<ref>「自民党に投票してくれないだろうから、投票日には寝ていてくれればいいのだが、そうもいかないしな」と述べたのだが、「寝ていてくれればいい」と言う部分だけが誇張されて報道された(『ニュース解説室へようこそ!2008年版』 清水書院 ISBN:978-4-389-21462-3)</ref> 発言や、10月に[[イギリス]]・[[トニー・ブレア|ブレア]][[イギリスの首相|首相]]との会談における「北朝鮮による日本人拉致被害者を第三国で行方不明者として発見する案の暴露」など数々の発言で、「首相としての資質に欠ける」との批判が各層から噴出した。
 
* 歴代内閣総理大臣の中で、森ほどマスコミが発言に対する批判を集中した例はなく、ついには総理の資質に欠けるとまでされた。[[総理大臣官邸]]での公式記者会見時、総理番記者が森に対し「今問われているのは総理の資質だと思うのですが?」という異例の質問をしたこともあった。
 
* これを見かねた政治評論家の[[三宅久之]]が衆議院選挙の後、森に「世論の動向を的確に把握するためにも、誰かスタッフを置いたらいかがですか」と手紙を送った。それにより中村慶一郎が広報担当として[[内閣官房参与]]という形で加わり、[[内閣広報官]]の[[宮脇磊介]]と協力して仕事をすることとなった。しかし、「官邸が大部屋方式ではない」「広報官は内閣記者会の窓口に過ぎず政府の広報面での政策形成に関与していない」など組織運営上の問題から、十分な目的は達せられなかった。
 
: 中村は、マスコミの質問の仕方にも大きな問題があり、森のマスコミ批判と同じく針小棒大で失言を作り出すことを指摘し「[[紅衛兵]]」と揶揄している。また、朝日新聞について「[[内閣改造]]の際、テレビ受けを狙い、全閣僚に靖国公式参拝の是非を質問して限られた質問時間を浪費した」と批判した<ref group="注釈">中村によれば[[牧太郎]]も『毎日新聞』2000年5月8日夕刊にて同種の批判をしていると言う。</ref>。当時の「ぶら下がり」担当の記者は首相が歩くのについていきながら質問するスタイルだった(小泉政権より場所を決めて質問を受けるスタイルとなる)ことについても、「金魚の排泄物」と評している。
 
: [[警察庁]]出身の秘書官は、[[李登輝]]訪日[[パスポート|ビザ]]発給の理由を執拗に聞き続けたある記者の態度を見かね、首相が[[総理大臣公邸|公邸]]に入った後に平手打ちを見舞った。中村は、「実力行使は良くないが、憤懣を溜めるような横柄な姿勢を取り続けた記者に原因がある」旨を述べた<ref>中村慶一郎「森喜朗VS番記者の二七〇日戦争」『文藝春秋』2001年7月</ref>。
 
 
==== 官房長官の交代 ====
 
[[2000年]][[10月27日]]、第2次森内閣で[[内閣官房長官]]に就任したばかりの[[中川秀直]]が愛人問題や[[右翼]]幹部との交際、警察情報漏洩などのスキャンダルで辞任。後任には当時森派の派閥会長だった[[小泉純一郎]]から推された[[福田康夫]]が就任した。閣僚経験皆無での起用には疑問の声もあったが、森が頻繁にマスコミの批判を浴び、そのたびに福田が火消しに回る、という構図ができあがるにつれ、その執務能力の高さが明らかになった。福田は、後の小泉純一郎内閣も含めると内閣官房長官在任日数歴代最長(当時)となった。
 
 
==== 加藤の乱 ====
 
{{Main|加藤の乱}}
 
[[2000年]][[11月21日]]、[[衆議院]][[本会議]]において森[[内閣不信任決議案]]が野党から提出された。当時[[宏池会]]会長で自民党の次期総裁候補の一人と目されていた[[加藤紘一]]は、森不信任は国民の多数が支持すると考え、[[YKK (政治同盟)|YKK]]の盟友、[[山崎拓]]とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した。このとき、加藤は[[渡邊恒雄]]と自民党重鎮等が集まる懇談に出席した際、政権内の内閣参与である中村慶一郎がいる前で反乱の意向を明らかにしたため、この情報はただちに森に筒抜けとなった。YKKの残る1人で、森派会長を務めていた[[小泉純一郎]]は率先して加藤の倒閣の動きを党内で拡散して加藤に近い若手の動きを牽制、[[野中広務]]らも猛烈な切り崩し工作を展開した。結果、宏池会で加藤に従った者は一部に留まり、内閣不信任決議案は否決された。
 
 
==== えひめ丸事故 ====
 
{{see also|えひめ丸事故}}
 
[[2001年]][[2月10日]]、[[ハワイ]]沖で日本の高校生の練習船「えひめ丸」が、[[アメリカ海軍]]の[[原子力潜水艦]]と衝突して沈没、[[日本人]]9名が死亡するという「[[えひめ丸事故]]」が発生した。森は第一報が入ったとき[[ゴルフ場]]におり、連絡は[[セキュリティポリス|SP]]の[[携帯電話]]を通じて入った。衝突により日本人が多数海に投げ出されたことや、相手が[[アメリカ軍]]であることも判明していたが、森は第二報のあとの第三報が入るまで1時間半の間プレーを続け、これが[[危機管理]]意識上問題とされた。国会でも採り上げられ、詳細が議事録に残っている<ref>[http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/001815120010219008.htm?OpenDocument 第151回国会 予算委員会 第8号(平成13年2月19日)] など。</ref>。
 
 
午前10時50分に第一報を受けたあと午後0時20分の第三報まで、3ホールほどを回った<ref>『「政治のふるさと」感謝 政界引退の森喜朗元首相 愛媛を語る』 [[愛媛新聞]] 2013年5月3日</ref> とのことである<ref>{{Harvnb|五百旗頭真|2007}}では「第一報の時点であと2ホールほどまで来ていた」と証言している。</ref>。森の主張によると、えひめ丸事故の一報が入った時、ある関係者から直ぐにはその場を離れないように言われたのでゴルフ場で待機していたとのことである<ref group="注釈">『論座』主宰によるオーラルヒストリー『森喜朗 : 自民党と政権交代』ではそれが誰か名を明かすことは拒否し、いずれ公表する旨を答えている</ref>。連絡は携帯電話を通して伝えられた。この事故の[[報道]]で森のゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため悪印象が増幅した(ただし、この映像は当日とは別の、夏の日に撮影されたものである{{Sfn|五百旗頭真|2007}}。マスコミにこのことを問いただされた森が「プライベートだ」と答えたことで批判は拡大した。当日プレーしていたゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)の会員権は知人から無償で借り受けて自分名義としており、このことも批判を増幅させた。ただし、[[岡崎久彦]]のように「ゴルフであと三ホール回ったから「資質」がないという。何と低次元の話だろう」とマスコミ批判が新聞に載ったこともある<ref>[http://www.okazaki-inst.jp/04032001sankei.html 私はあえて「森喜朗氏」を推す 得失を顧みず政策断行の好機]『産経新聞』2001年4月3日付朝刊 岡崎久彦HPに転載されたもの</ref>。
 
 
事故を起こした[[アメリカ合衆国|アメリカ]]側は[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が「事故の責任は全てアメリカにある」と謝罪。マスコミはこれを異例の素早い対応と評価、日本の事後処理の印象を一層悪いものとした。
 
 
[[佐々淳行]]は、2001年2月14日に自身のHPのコーナー『危機管理小論』にて「えひめ丸・米潜水艦衝突事故と危機管理」という小論文を掲載し森政権の対応について議論している<ref>[http://sassaoffice.com/cn16/pg77.html えひめ丸・米潜水艦衝突事故と危機管理 (2001年2月14日)]</ref>。また、2004年に出版した著書『重大事件に学ぶ「危機管理」』などにて、この時の森の対応に関して述べている。それらによれば「危機管理には総理が陣頭指揮すべき『クライシス・マネイジメント<!-- 出典の記載のとおり"マネイジメント"と表記しました -->』と、各省庁が[[国家行政組織法]]の定めに基づき対処すべき『インシデント・マネイジメント(事件処理)』と『アクシデント・マネイジメント(事故処理)』とがある。(えひめ丸事故が大きな国際的事故であったとしても)すべて総理の責任とするのは日本の法制上から言って誤りである。[[日米安保条約]]と日米外交問題は[[外務省]]所管だが、一般論から言えば海難事故は[[国土交通省]]とその指揮下にある[[海上保安庁]]の所管であり、「えひめ丸」が水産高校の実習船であることを考えると[[文部科学省]]の所管でもある。このように責任官庁が複合するようなときは、指揮命令系統の統一のために[[内閣官房]]を所管とする安全保障会議を開催するのが常道であって、外務省が動いた後に所管は内閣官房に移るので、森総理はゴルフ場からでもひと言「所管大臣は[[内閣官房長官|官房長官]]」と指示しておくだけでよかった。森総理が言うとおり、「えひめ丸」の衝突は事故であるが「総理の危機管理」ではない<ref>ここまで、重大事件に学ぶ「危機管理」佐々淳行 文春文庫 p218, p219</ref>。さらに、森総理は早く戻ってきた方で、私の経験からすればもっと狼狽した総理はたくさんおられる<!-- ←これはどこから? -->」と危機管理の責任上の面から森を擁護している(これは岡崎も上記産経新聞にて指摘していることで、村山富市の阪神大震災時の対応と比較している)。もっとも佐々は同じ著書で「総理自身の言動が、『事故』であった一件を『危機』にまで増幅させてしまった。」とも述べている<ref>重大事件に学ぶ「危機管理」佐々淳行 文春文庫 p213</ref>。また、実際の第一次対処をする部局の一つである、防衛官僚の参集が早かったことも評価した。佐々は別の著書『後藤田正晴と12人の総理たち』では「後藤田が森を庇っていた」とも書いており、米軍に謝罪、賠償などへの迅速な協力を提案したのも佐々などの日本サイドであり、ブッシュ政権はそれをすぐに実行したと言う。
 
 
==== 支持率 ====
 
上記のいきさつにより就任当初はそれなりの支持があったものの、「失言」が報じられると支持率は急降下した。任期を通して[[内閣支持率]]は低く、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「[[蜃気楼]]内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた洒落)と揶揄する事もあった。また、民主党の[[鳩山由紀夫]]からは「(支持率が)[[消費税]](5%)並みになった」と揶揄された。[[御厨貴]]は「森氏はとにかく人気がなかった。」、[[後藤謙次]]は「えひめ丸事故当時森氏はゴルフのプレー中。初動の対応の悪さに批判が殺到し、世論調査では支持率8%、不支持率82%まで達しました。」と述べている<ref>[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 [[御厨貴]]/[[後藤謙次]]、170頁</ref>。政権末期には一部新聞が一面トップで「退陣の公算」と報じたことが退陣の流れを導いたとも言われる([[新聞辞令]])。[[2001年]][[4月26日]]、就任からちょうど1年で首相を退任した。後継総理総裁は自派閥出身の[[小泉純一郎]]になった。発足当初の小泉内閣の支持率は80%を超える史上最高記録を樹立したが、その背景には先代の森内閣の不人気ぶりの反動があったとする見方もある。
 
 
==== メディアへの反論等 ====
 
* [[首相動静]]について「嘘を言ってもいいんだろ」と言う発言の全体は「起床や就寝の時間については嘘を言ってもいいんだろう」である。これは、実際番記者がいい加減な動静を報じていたことによる。
 
: この発言の背景として、就任当初は前総理の小渕が病床にあり、小渕の家族も公邸からの引越しどころではなかったため、森は7月頃までは私邸から通っていたことがある。番記者はそれを追いかけていたが、深夜、早朝は時事、共同の代表取材であった。だが、森によれば「彼らは、自分たちでちっとも努力をしないのに、形だけにはこだわる」と言う。起床、就寝時間もいちいち確認に来るが、『新潮45』に書いたところによれば「私はいつも二時頃までは起きていて家人を先に休ませるから、家人に私の寝る時間がわかるわけがない」状態だった。『経営塾』のインタビューでは「寝た人がどうして伝えられるんですか」と述べている。根本的な問題として「私の寝る時間が国政とどんな関係があるのか」とも書いている。実際には夫人の千恵子が「じゃあ○時ということにしてください」と、記者達にとりなしていた。「自分たちが早く帰りたいものだから、十一時半に帰って来たら、十五分後に「何時にお休みでしょうか」と訊ねてきたこともあった」ため、彼らにも気の毒になり、半ば番記者たちのことを思って橋本龍太郎との会話で「嘘を言っても〜」という発言したところ、「嘘をついていい」と報じられたという。
 
: また、森が重要人物と会う際に、見つからないように官邸でなく[[総理大臣公邸|公邸]]で会うことにしていたのも一因だった。記者たちはこうしたことを全て見落としており、首相動静には本当のことは出ていなかったと言う<ref>「嘘を言ってもいいんだろ」についての反論は『経営塾』2001年6月P33-34<br/>「マスコミとの387日戦争」『新潮45』2001年6月P90-91</ref>。
 
* [[言葉狩り]]についても森は批判している。地元に帰って挨拶をした際「まもなく総選挙だが、私はなかなか帰れないので、銃後のことをよろしく頼みます」と述べたところ、朝日新聞などが「[[戦争]]用語を使うとは何事か」とバッシングした。「出陣式」「必勝祈願」と言った言葉は選挙の際には常套句であるため、森は「こうした言葉は単なる比喩に過ぎない」と述べている。また、「銃後」という言葉の意味も、書き方も知らない記者もいたという<ref name ="sinchou45-2001-06">「マスコミとの387日戦争」『新潮45』2001年6月</ref>。
 
* 「幹事長時代は新聞社やテレビ局でも対談の申し込みがあれば受けていた」が、首相時代はそれが簡単にできない仕組みになっていた事を森は語っている。たとえばテレビで直接話す(なお、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の場合は[[炉辺談話]]の頃からこの種の対話は行われている)場合、『総理が語る』という番組が慣習的に制作されてきたが、この番組の放映はNHKと主要民放計7局による輪番制であり、「2ヶ月に1度行っても1年に1度ひとつの局を回るかどうか」と述べている。さらにこの種の番組の放送前には必ず新聞社との間でグループインタビューが必要というカルテルがあり、制約となっていた。さらに『総理が語る』は視聴率が取れないため、放映時間帯も大半は条件が悪く、且つ日本マスコミには「首相が出演する単独企画はしない」という申し合わせも存在すると言う。[[田原総一朗]]は『[[サンデープロジェクト]]』にて「森さん、電話をかけてくれ」と呼びかけたが、前任者の小渕がテレビ朝日に電話をかけた際、同社は協定破りで記者会で処分を受けており、首相がかけられないことを分かっての呼びかけであった。そのため森は電話に出ないでいたが、「逃げている」と思われて色々なところから自宅に電話がかかり、最後には電話が壊れたという<ref>『経営塾』2001年6月P34</ref>。なお、後述のように首相辞任後は雑誌の対談などにも幾つも応じている。
 
* [[料亭]]通いについても批判された。この件については、林真理子との週刊朝日での対談にて日本テレビや読売グループの首脳も料亭通いの常連であることを挙げている他、別の雑誌では「細川総理の頃から、料亭がよくないというようになってしまった。細川さんは、会合には料亭ではなくホテルを使う、といっていたけれど、ホテルのほうが機密性が高い。料亭のほうが、障子があったり、襖があったり、外に音も洩れるから、秘密めいた話なんかできませんよ。」と述べ、料亭に付随する芸者を入れての宴会というイメージについても否定し、畳の消費量は石川県と富山県が日本でも多く、食器に使われる[[九谷焼]]や[[輪島塗]]などの焼き物、[[加賀友禅]]のような着物など、自身の出身地である北陸に根付いた日本文化を支える産業を賞賛している<ref>『経営塾』2001年6月P35</ref>。
 
* 森は「本来ならもっと重要な話題は沢山ある」と述べている。その一例として、2000年秋に原油価格の値上がりが問題となっていた際、[[イラン]]の[[モハンマド・ハータミー|ハタミ]][[イランの大統領|大統領]]が来日し<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaJ/kaidan/yojin/arc_00/ir_kyodo.html 21世紀に向けた日本とイラン・イスラム共和国との間の協力に関する共同声明(仮訳)] 日本国外務省HP</ref>、[[アーザーデガーン油田|アサデガン]]油田の優先交渉権を獲得した件<ref>野崎英二 [http://www.watch.impress.co.jp/finance/news/2000/11/02/doc915.htm イラン大油田の優先交渉権獲得〜大盤振る舞いの通産省]『IMPRESS』2000/11/02</ref> を挙げている。背景として2000年2月に[[アラビア石油]]が[[カフジ油田]]に持っていた権益が失効しており、森内閣に切り替わった春頃より、日本側は新油田の獲得に向け交渉を加速させていた<ref>[[中嶋猪久生]]『資源外交、連戦連敗 アザガデン油田の蹉跌』P39-40</ref>。この件について、[[日本経済新聞|日経]]と[[日本放送協会|NHK]]は扱いがあったが民放は報道に消極的で、官房長官を辞任した中川秀直が[[右翼]]と酒を飲んでいるという映像の放送に注力していた件を挙げている<ref>『経営塾』2001年6月P34-P35。なお、対談時点でアメリカの姿勢について森は言及しているが、その後イランの核問題が深刻化した影響などもあり、日本側は2006年に権益を75%から10%へ大幅縮小するに至った。対談が行われたのはそれより5年前の時点であり、森が述べているのはエネルギー政策から見たニュースバリューについてである。<!--http://sankei.jp.msn.com/life/environment/090801/env0908011207001-n1.htm--> 2009年8月11日の『産経新聞』の報道などによれば、その後中国が同油田に進出し後釜に座る形となっている。</ref>。
 
* [[アフリカ]]を歴訪した際は日本の新聞に「正月から名刺でも配りに行くのか」と揶揄されるなどと批判され、歴訪の意義については[[CNN]]の方が先に注目したと言う。また、訪問先の内[[ケニア]]では[[自然公園]]と[[難民キャンプ]]が訪問先に入っていたが、次のようなエピソードを語って苦言を呈している。
 
: 自然公園を訪れた際にはたまたま象が居なくて案内係が萎縮していた。その案内係のネクタイには象の絵が描かれていたため、森は「象が居ないはずですよ。あなたのネクタイの中にみんな集まっているのですから」とジョークを言って場を収めた。しかし翌日の日本の新聞は「軽口を叩いた」と批判した<ref name ="sinchou45-2001-06" />。
 
: 難民キャンプを訪れた際に、[[マラリア]]に罹っている乳児を母親が注射をしてもらいに来ていた。森が患者達と話しているとマスコミは患者や母親を蹴飛ばすように動き回り、苦しんでいる患者の周囲で平然とカメラを回し続けた。森は無作法さにいたたまれなくなり、「報道陣は出て行ってください」と言った。マスコミがこの一件を「森が怒鳴りつけて摩擦を起こした」ように報じたため、森は後で「私の悪いところは書きたければ書けばいい。しかし、記者である前に日本人であれ。相手国に対して礼を失しないように書いてほしい」と苦言を呈した<ref name ="shokun-2001-03">「森の清談」『諸君!』2001年3月</ref>。
 
: 森がアフリカ歴訪から日本に帰国したのは2001年1月15日だった。帰国直後ということもあり、1月17日早朝の[[阪神大震災]]記念式典には欠席した。このことを新聞は被災者の孤独死を挙げて「後ろめたくないのか」と批判した。早坂茂三は森との対談の中で、自分にもコメントを求める電話がかかってきたが、[[国土交通大臣|国土交通相]]や防災担当相が出席していることを挙げて弁護した旨を述べている<ref name ="shokun-2001-03" />。
 
* 2001年1月末に[[スイス]]で開かれた[[世界経済フォーラム|ダボス会議]]についても、歴代の首相は[[予算委員会]]と重なるため出席見合わせが続いていた。森は経済面の重要性から出席を決めてハードスケジュールを組み[[チューリヒ]]に飛んだ。飛行機の到着は夜となり、車でリゾート地である[[ダボス]]の会議場に行くと3時間かかり、ヘリも飛ばせなかったため、その日はチューリヒで一泊した。マスコミは「ダボスのパーティをサボり、チューリヒで食事をしていた」と批判した<ref name ="shokun-2001-03" />。会議出席後、所感について語りたかったが、ぶら下がり記者からの質問はなかったという<ref>『経営塾』2001年6月P34-P35</ref>
 
* えひめ丸事件でゴルフを批判された。このときの背景についても森によれば次のような事情があった。元々事件の一報が入った2月10日は群馬にある[[福田赳夫]]の墓参りをする予定だったが[[警備]]の都合で取り止めとなった。当時は予算委員会などの対応で[[総理大臣官邸|官邸]]スタッフは疲労しており、森は取り止めで予定が空いたのを、皆を休養させる機会と考え、自身もゴルフに行くことを決めた。場所は東京から近いところを条件とし、4、5年行ってなかった戸塚に決めた。その日に事件が発生したが、森のゴルフ批判の際に使われたのは上述のように、事件当時の映像ではなく夏に撮影されたものであった。それを見た森は「マスメディアが私のイメージを落とそうと、総がかりで襲ってきたな」と感じ、「マスコミがつくりだす「世論」にはもう抗えない」と認識した。そのため、辞任を決めた最も直接のきっかけはえひめ丸事件だという。もっとも、森は運命論を信じる面があり、就任の時も辞任の時も「運命だな」と思ったという<ref name ="sinchou45-2001-06" />。
 
: また、事故前に妻の千恵子は次のように語っている。
 
: 「主人はああ見えて、総理になって少し痩せました。いまは体重95キロぐらいじゃないでしょうか。ワイシャツの襟がダブダブになりました。ああやっぱり、この人でも痩せるんだわ、と思いましたけど。健康についてはやはり心配で、ゴルフを唯一の楽しみにしていた主人がとてもそんな時間などなくて「足の筋肉がおとろえてきたなあ」などと足をさすっているのを見ると、「家の中でウォーキングマシンでもやったら」と主人にいったんですが、主人に「そんなことしている時間があるか」と言われました。やはり心配ですね」<ref name ="morichieko" />
 
* いわゆる[[新聞辞令]]についても森は批判している。批判の対象は[[朝日新聞]]が2001年3月7日に「森首相、辞意固める」と報じたことであった。その日は日米首脳会談の日取りが正式発表される日だったが、この報道で仕切り直しになったという。森は伝聞と断った上でその朝刊を朝日のワシントン支局の幹部が[[ホワイトハウス]]関係者に持っていき、ブッシュ新大統領(当時)と合わせないように工作していたという趣旨の説を紹介し、「国益に関わることだ。総理を辞めさせるための世論操作を一商業誌がやってよいのだろうか」「三月十三日の党大会で、何らかの意思表示をする腹はすでに固めていた。しかし自らの進退を一新聞に指図されるいわれはない」と批判しており、下記のように訪米を実行した<ref name ="sinchou45-2001-06" />。
 
 
==== 報道等 ====
 
* 2000年5月、アメリカ大統領[[ビル・クリントン]]との会談で出鱈目な英語の挨拶を行ったという報道が、7月末開催の[[九州・沖縄サミット]]への揶揄と併せて、『[[株式新聞]]』、『[[フライデー (雑誌)]]』、『週刊文春』により報じられた<ref>「蔵出し特集 嘘みたいな本当の話 サミットで首脳夫人にも嫌われた森喜朗首相の英会話」『週刊文春』2000年8月5日</ref>。なお、『[[週刊朝日]]』はこの話に当初から懐疑的であった<ref>中村真理子「森首相、クリントン大統領に「フー・アー・ユー」失言の真偽」『週刊朝日』2000年8月11日</ref>。事実は毎日新聞論説委員高畑昭男による創作であり<ref>[http://ryukyushimpo.jp/modules/icontent/inPages/imagesLibrary/forum/pdf/200501ryukyu_forum.pdf 「ブッシュ再選と今後の日米関係」]『第141回琉球フォーラム』[[琉球新報]]社 2004年8月11日<br />この講演にて高畑は創作である旨を認めた。</ref>、森はこのデマを批判している<ref name ="sinchou45-2001-06" />。
 
{{Main|Who are you ?捏造報道}}
 
* 雑誌「FRIDAY」2000年9月29日号 で『森喜朗「疑惑の”買春”犯歴照会状」これが現物だ』として早稲田大学二部学生時代の買春検挙歴について報じられた。
 
* 森政権時代より小泉政権にかけて政治評論家の[[森田実]]と[[福岡政行]]はたびたび対談を行い、「森のせいで総選挙によって自民党が下野する<ref>福岡政行vs.森田実緊急対談 「これが最後の自民党政権だ」6月総選挙なだれこみ/自公保議席大激変 (総力特集 森内閣の明暗) 『週刊朝日』2000年4月21日</ref>」「自民が200議席を割る<ref>総選挙情勢激変 全選挙区当落予想/投票率70%で自民200割れ 60%なら学会支配政権だ!? 福岡政行vs森田実『週刊朝日』2000年6月21日</ref>」「連立政権が過半数を失う<ref>長野ショック 2001年参院選大予測 非拘束名簿は自民の「命取り」だ 1人区もボロボロ、自公保過半数割れ必至 『週刊朝日』2000年11月13日</ref>」などといった予想を繰り返した。しかし[[第42回衆議院議員総選挙]]、[[第19回参議院議員通常選挙]]の選挙結果は異なり、彼らの予測は外れた。
 
* 「週刊朝日」<ref>[[林真理子]]「マリコのここまで聞いていいのかな ゲスト森喜朗前首相」『週刊朝日』2001年8月17日</ref> によると「首相辞任直前に[[日本テレビ]]の番組にて、コメンテーターが行政評論家の肩書きで「何故総理は辞意表明をしたのにやめないのか」と題して、後何日か続けると退職金が700万円になるからその金目当てではないかと解説した。夫人の智恵子はテレビをつけたところ、この番組の解説が目に入ったため激怒し、日本テレビに抗議の電話をした。驚いた日本テレビは局内で検討した後、森に確認の電話をかけた」とあった。しかし、実際の退職金は約143万円であり、日本テレビの誤報であった。日本テレビは全面的に非を認め、森に謝罪を申し入れた<ref group="注釈">『経営塾』2001年6月でも退職金の誤報について語っている。「行政評論家」の肩書きなどについてはそちらを参照した。</ref>。
 
* [[日経平均株価]]についても、森政権発足時には2万円前後で推移していたものが2001年初頭には12000〜13000円台まで下落したため、辞任前に批判がなされた。[[田原総一朗]]は「森が辞めれば株価は5000円上がる」と主張した。[[鳩山由紀夫]]、[[菅直人]]なども同様の主張をおこない、国会で株価にも言及した<ref>「菅直人が大断言!「わが政権で株価を2万円に上げる」 独占インタビュー(森退陣!誰が日本を救う)」『週刊現代』2001年3月24日</ref><ref>[http://www.hatoyama.gr.jp/minutes/010305.html 2001年3月5日(月)森内閣不信任決議案趣旨弁明] 鳩山由紀夫公式HP</ref>。後年、森は小泉政権下でも株価が下落を続けたことを挙げ、小泉政権下の経済政策については担当閣僚間の意見の違いや省益固執にも理由がある旨を述べ、この時は自民党が勢力を得ていたこともあり、[[内閣改造]]は構造改革より経済の建て直しを優先するチャンスだという見解をとった<ref>「森の清談 松茸竹中疑惑を語る」(『諸君!』2002年10月)株価の件で田原のほか、鳩山と管にも触れている。</ref>。
 
 
=== 首相在任中の活動 ===
 
==== 組織 ====
 
* 小渕急死の教訓から[[内閣法]]9条に基づき、首相臨時代理として5閣僚を指定し、[[危機管理]]対策をとった。順番は官房長官を内閣を統括し、総理と一心同体になって国政に関わるという理由から筆頭とし、2番目以降は当時の閣僚歴、議員歴、所属政党を考慮したと述べている<ref name ="kankai2000-11">「森政権六ヶ月の「功」の部分」『月刊官界』2000年11月</ref>。{{Main|内閣総理大臣臨時代理}}
 
==== 口蹄疫 ====
 
* 南九州で発生した[[口蹄疫]]問題の処理を小渕政権から引き継いだ。上記のように政治の混乱を最小限に抑えるという森をはじめとする五人組の意向のため閣僚は軒並み留任しており、農林水産大臣で自派の[[玉澤徳一郎]]も同様であった。この時は農水省の他、現地家畜保健衛生所、宮崎県庁、北海道庁、農林水産省畜産局衛生課などに口蹄疫防疫対策本部が設立され、組織検査の結果で陽性と出た日の[[自民党農林部会]]には、「畜産三羽ガラス」と呼ばれた[[江藤隆美]](宮崎選出)、[[堀之内久男]](宮崎選出)、[[山中貞則]](鹿児島選出)が出席、江藤は農林省幹部に「口蹄疫は火事みたいなもんなんだから、ぼやのうちに消さないと大変なことになるぞ。こんなときは100億円つけますとか言わなきゃダメなんだよ」と叱咤した。その翌日、農林省は旧畜産振興事業団が牛肉・オレンジ輸入自由化交渉で使った資金の残金を投入することを決定し、「カネのことは気にせずにやれることはすべてやれ」との号令のもと、直ちにワクチン手配が実施された。そのため小規模な被害で伝染を押さえ込んで短期間で終息に持ち込んでいる。当時は短期間で収束させたという事実だけが伝えられたが、それから10年後、[[2010年日本における口蹄疫の流行]]で後手に回って大きな損害を出したことから、組織再編などで現場に負荷をかけなかった小渕、森政権の迅速な対応が一部で回顧されており、『日経ビジネス』は「農水相は族議員が大半 「[[赤松広隆|ずぶの素人]]には無理」」などと小見出しをつけて批判した<ref>口蹄疫問題について 前沖縄県議会議員 [[小渡亨]]公式ブログ 2010年05月11日</ref><ref>「国の無策 感染拡大のさなかに外遊 のんきな素人大臣」『日経ビジネス』2010年6月12日<br/>「族議員については以前から批判が根強い。しかし、その道の専門家であることは否定しようがなく、今回と10年前を比べてみれば、どちらの対応が適切だったのか議論の余地は無いだろう」などと述べられている。</ref>。森自身は4月の「[[太平洋・島サミット]]」のレセプションで口蹄疫に触れたり、宮崎牛を食すなどしてイメージ回復に努めている<ref>[http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?itemid=29520 ■全国規模催し定着を 九州観光推進機構評議員会議長・中馬章一氏] 県内経済人に聞く 『宮崎日日新聞』2010年7月30日</ref>。
 
 
==== 外交 ====
 
[[ファイル:Vladimir Putin at G8 Summit 2000-4.jpg|thumb|250px|森喜朗と各国首脳([[2000年]]沖縄サミット)]]
 
===== サミットの完遂 =====
 
* 小渕の遺志を継ぐとの目標通り[[沖縄サミット]]を無事開催した。この中で太平洋戦争時の対戦国であるアメリカ大統領のクリントンが中東和平交渉のからみで欠席の動きを見せたときも熱心に交渉し、沖縄戦の犠牲者の名を刻んだ平和の礎の前でクリントンに演説をさせることが出来た<ref name ="kankai2001-05-oyama">小山宏次「&lt;検証&gt;森総理は本当にダメだったか 資質を問われながらこれだけのことをした」『月刊官界』2001年5月</ref>。
 
===== 多数の外遊 =====
 
* [[ロシア連邦]]、[[アフリカ]]諸国や[[南アジア]]諸国などに対し積極的な外交交渉を行い、[[国際連合]]内での発言力向上に貢献した。一年余りの在任ながら首相による外遊の回数が非常に多いことでも知られる。
 
: 海外出張は11回。延べ54日間。24カ国。総飛行距離194,240km。会った回数は下記の通り<ref>主要国首脳との会談回数、出張回数、飛行距離等は『月刊経営塾』2001年6月号P31</ref>。
 
: クリントン大統領:5回(ブッシュJr:1回)
 
: プーチン大統領:6回
 
: シラク大統領:4回
 
: 金大中大統領:7回
 
: この他サミットを除いても、ドイツ、イギリス、カナダ、インド、パキスタン、南アフリカ、ケニア、ナイジェリアなどを訪問している。
 
===== 対アフリカ =====
 
* アフリカ歴訪を行った日本国首相は森が最初であるが、アフリカ外交は小渕が外相時代に計画したものを発展的に引き継いだものであるとの指摘がある<ref name ="kankai2001-05-oyama" />。森は、沖縄サミットの前に各国首脳が東京に立ち寄る際を利用してアフリカ首脳を交えた会談の場を設けることを発案し、3カ国の首脳の訪日が実現させて歴訪の下地を作った。外務省は歴訪に乗り気ではなかったが森が強い意思を通す形で実現した。対露、対印外交と並び、アフリカ外交は首相辞任後も森のライフワークとなっている。首相辞任後に述べたことだが、自民党自体はアフリカへの外遊頻度で野党に抜かれることがある点を指摘しており、野党への対抗の意味も込めて訪問を続けている<ref>「アフリカ問題の解決なくして21世紀の平和と安定はない」『月刊自由民主』2004年8月号</ref>。
 
===== 対インド =====
 
* 後年『月刊自由民主』で語ったところによれば、2000年8月の訪印についても最初外務省は良い顔をしなかったという。しかしIT革命を推進する中で有識者に話を聞いたところ、同国がIT産業の集積地として成長著しかったことを知ったことがきっかけのひとつであった。森はその頃インドは親日度が高いという調査結果も読んでおり、そのような国に対して国内の関心がいまひとつであったことへの対策として、訪印に返礼の意味を含ませた。また、同国が民主的傾向の強い国家であることから、同じ大人口を有しながら一党独裁である中国に対抗して協力関係を構築するための一手であった<ref>「首相としてなしえた独自の外交政策」『月刊自由民主』2007年10月</ref>。インドについても、辞任後も重ねて訪問しており、インドの関係者の訪日時も応対している。
 
: 本人の言では「日本がもし何もアクションを起こさないでいる間に、アメリカが頭越しにインドへ行っていたら、丁度ニクソンの訪中と同じことになったんじゃないかな」「あれ以来、インドの国会議員にどれだけ会ったかな。この5年間ぐらいの間にありとあらゆる経済団体や国会議員が日本にみえました」とのこと<ref>「インドを大切に思う、その理由は」『月刊自由民主』2007年12月P47</ref>。
 
: また同時に1990年代末のパキスタンとの核開発競争で両国が緊迫し、日本を含む先進各国が経済制裁を課す中、矛を収めることと経済封鎖の解除を取引材料に交渉し、パキスタンに対してもこの目的で訪問している。結果、両国から「[[包括的核実験禁止条約|CTBT]]の発効まで核実験を凍結する」という同意を引き出した<ref name ="kankai2000-11"/>。インドについては2001年の春頃より制裁解除に向けた準備を進めていたが<ref>日本政府の制裁解除の準備については[[西ヶ廣渉]](元インド[[公使]])[http://www.okinawa-culture.com/sub3-bunkatuusin/index-0509.html 「躍進するインド経済」]『東京沖縄文化通信』2005年9月</ref>[[アメリカ同時多発テロ事件]]後、各国が続々経済制裁を解除する中で、日本も2001年10月26日に援助を再開したが、それに合わせて小泉首相の特使として訪印し[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー|パジパイ]]首相(当時)と会談している<ref>制裁解除日については [http://www.jica.go.jp/press/archives/jbic/autocontents/japanese/news/2002/000053/attach.htm 参考(インドとの円借款契約調印について)] 2002年度 独立行政法人[[国際協力機構]]<br/>同時期の特使としての訪印については [http://www.mori-yoshiro.com/History/Overseas/20011000.html 「訪印でアフガン復興へ協力要請」] 2001年(平成13年)10月 国外での活動 森喜朗公式ウェブサイト</ref><!--パキスタンもOEFには参加していると思いますが、援助がどうなったかご存知の方御記入ください。--><ref>[http://matsushima-midori.jp/column/2005/050405.html 日本とインド]「気ままにコラム」2005年4月5日[[松島みどり]]HP</ref>。後年、[[上海協力機構]]のオブザーバにパキスタンが参加し、戦略的に中国の側に大別されてしまったことを挙げて、「友好関係」を示していくことの重要性を指摘している<ref>「首相としてなしえた独自の外交政策」『月刊自由民主』2007年10月P34-35</ref>。
 
===== 対太平洋諸国 =====
 
* 太平洋の島嶼国に対しても、親日的傾向と小国ながら国連では一票を持っていること着目して積極的に外交関係拡大に努めた<ref>「首相としてなしえた独自の外交政策」『月刊自由民主』2007年10月 P35-36</ref>。辞任後特派大使として[[パラオ]]に出向いた際には、途中立ち寄ったグアムとパラオにて太平洋戦争の戦没者の為献花を行った<ref>[http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/kaidan/others/palau_09/gaiyo.html 森喜朗特派大使のパラオ大統領就任式典出席(概要と評価)] 2009年1月16日 日本国外務省HP</ref>。
 
===== 対中華人民共和国 =====
 
* 2000年10月、中華人民共和国総理であった[[朱鎔基]]が来日する際、記者会見で次のようなメリハリをつけた。つまり、経済協力はこれまでODAの9割が集中した沿海地区ではなくて開発の遅れている内陸部での[[西部大開発]]に重きを置くこと、IT分野での協力について「日中IT総合展示会」などを挙げた。一方で、朱が試乗まで行なう熱心さを示した[[中央新幹線|山梨実験線]]の[[リニアモーターカー]]について、記者からドイツと同じく中華人民共和国に実験線を建設する気は無いか問われた際には、当時コストダウンや長期耐久性に課題があったため、これを理由として「別途海外において実験線を建設しえる状況ではない」と回答した<ref>『北京週報』2000年10月24日</ref> 会談では北京・上海間の高速鉄道の方については21世紀のシンボルとしたいと答えた<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaJ/kaidan/yojin/arc_00/c_shu_sk.html 朱鎔基総理の訪日 日中首脳会談(概要)] 2000年10月13日 日本国外務省HP</ref><ref>[http://j.people.com.cn/2000/10/13/newfiles/a1210.html 森喜朗首相のインタビュー、日中経済協力について][[人民日報]]日文版2000年10月13日</ref>。
 
* 1990年代に入って徐々に高まっていった[[ODA]]批判に対応し、2000年5月外務省経済協力局長の私的懇談会扱いで「二十一世紀に向けた対中経済協力のあり方に関する懇談会」を設けた。懇談会は2000年12月28日に提言を出し、対中ODAの特別優遇措置を取り消し、ODAを戦略的に運用する旨、6項目の重点課題を挙げた<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china/sei_1_13_2.html 「21世紀に向けた対中経済協力のあり方に関する懇談会」提言] 日本国外務省</ref>。この背景としては提言にもあるように、「[[中国脅威論]]」の隆盛があり、[[中華民国]][[国立政治大学]]の柯玉枝は、日本の二国間援助額で1、2位を争う程に成長したにもかかわらず、同国が巨額の軍事費を支出したり、中華人民共和国自身がアフリカへ援助を行い減免した例も指摘されたこと、それらを日本のマスメディアが報じたことにより国民の関心を引くようになり、国民の意向を無視できなくなったことなどが挙げられているが、同時に1990年代の同国の[[核実験]]に抗議して日本がODAの無償援助を凍結した際に、中華人民共和国には何の外交的効果も発揮しなかった事例を引き合いに、「日本の国際政治の無能さを浮き彫りにさせた」と指摘し、「ODAという外交手段で中国の内外政策を制約またはコントロールしようとすることは、極めて達成しがたい」と指摘している<ref>「日本の対中ODA政策転換についての分析」『問題と研究』2001年8月</ref>。
 
 
===== 対韓国 =====
 
* [[2000年]]に[[ソウル特別市|ソウル]]で開催された[[アジア欧州会合]](ASEM)首脳会議で、[[日韓トンネル]]の共同建設を[[韓国]]側に提案した。<ref>{{cite web
 
| url = http://www.jk-tunnel.or.jp/qa/qa_1.html
 
| title = Q&A 日韓トンネルに関する質問と答え 政治・経済
 
| publisher = [[日韓トンネル研究会]]
 
| accessdate = 2010-03-29
 
}}</ref>
 
===== 対アメリカ =====
 
* [[ビル・クリントン|クリントン]]政権時の[[2000年]][[10月]]、[[マデレーン・オルブライト|オルブライト]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]](当時)訪朝前に、米政府が北朝鮮のテロ支援国指定解除を真剣に検討、解除に極めて近い状況だった際に、日本政府としては拉致問題等を理由に指定解除の阻止を図っていたことが分かっている<ref group="注釈">指定解除の阻止については『時事通信』2006年12月27日、『Yahoo!ニュース』等にも配信</ref>。なお、[[マスゲーム]]の歓待を賞賛したことが引き金となってオルブライトはアメリカ国内で世論の反感を買い、訪朝は失敗に終わった<ref>[[重村智計]]「ブッシュ勝利で苦境に立つ二人の「金」」『中央公論』2001年12月号 [http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00997/contents/00336.htm 『日本財団』内への転載]</ref>。
 
* ブッシュ新政権(当時)との間では日米同盟の強化に努めた。その中には当時まだ実用段階に達していた兵器が少なく、導入国も少なかった[[ミサイル防衛]]分野での、緊密な協議への留意が含まれている。この路線も後継内閣に引き継がれ、日本のMD導入、開発への一部参加への素地を作った<ref>[http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/kaidan/kiroku/s_mori/arc_01/us01/kyodo.html 森喜朗総理大臣とジョージ・W・ブッシュ大統領による共同声明(仮訳)] 2001年3月19日 日本国外務省HP</ref>。なお、森は日本の[[核武装]]について否定的でアメリカの[[核の傘]]を評価している<ref>森の核への姿勢については次の記事による。聞き手田崎喜朗「トップインタビュー 前内閣総理大臣 森喜朗」『財界人』2005年1月</ref>。また、在日米軍駐留経費([[思いやり予算]])について、日本側の人件費負担者数の据え置きと光熱費の一部アメリカ側負担に成功し、33億円の負担減を実現した<ref name ="kankai2001-05-oyama" />。
 
===== 対台湾 =====
 
* [[2001年]][[4月]]、[[李登輝]]の訪日ビザ発給要請に対し、“一つの中国”論との齟齬を懸念した[[河野洋平]][[外務大臣 (日本)|外務大臣]]が「発給を認めるなら辞任する」と激しく抵抗し、[[福田康夫]]内閣官房長官も強く反対したが、森は「李は当時既に私人であり心臓病の治療という目的があったのでビザ発給を断る理由はない」と判断し、李の訪日が実現した。この時は殆どの全国紙が賛意を示したと回顧している<ref>「森の清談」『諸君!』2001年8月号P38</ref>。
 
===== 対ロシア =====
 
* 2000年4月、首相就任後初の外遊先にロシアを選び、プーチン大統領と初の首脳会談をおこなった。また2001年3月、退任前の最後の外遊でもロシアを訪問しプーチン大統領と会談をおこなっている<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/kiroku/s_mori/ 森総理大臣の外交記録] [http://www.mofa.go.jp/mofaj/ 外務省ホームページ]</ref>。
 
 
==== 内政一般 ====
 
* [[IT革命とその周辺|IT革命]]を謳い[[e-japan戦略]]を策定、[[IT基本法]]および関連法案約40本を超党派で成立させていくきっかけとした。具体的な政策の検討を行なうため[[IT戦略会議]]、産業構造の転換を図るため[[産業新生会議]]を設置し、外部から[[出井伸之]]をはじめとする複数の有識者を招いた。[[インターネット博覧会]](インパク)の開催などの振興策を推進した。
 
* 教育改革を掲げた森は諮問機関として[[教育改革国民会議]]を発足、[[江崎玲於奈]]を座長に据え、2000年9月には中間報告を提出するに至った。会議では[[三浦朱門]]の言動が度々物議を醸した。また、[[奉仕活動]]を義務化させる方針を盛り込むことについては、森が文教族の大ボス的存在であったことから様々な議論を呼んだ。
 
* [[犯罪被害者等の権利利益の保護を図るための刑事手続に付随する措置に関する法律|犯罪被害者保護法]]の立法、[[検察審査会法]]の改正(審査会への申し立てを被害者が死亡した場合には遺族にも認めるようにした)、[[ストーカー行為等の規制等に関する法律|ストーカー行為規制法]]の立法、[[児童虐待防止法]]の立法、[[少年法]]の改正(刑事罰対象年齢の引き下げ)なども森内閣での成立であり、森の教育・治安などへの持論にもある程度沿ったものであった<ref name ="kankai2001-05-oyama" />。
 
 
==== 国防 ====
 
アメリカとの交渉など対外的な事項は「外交」節で記述。
 
* 1970年代末に法制化の研究が開始されて以来20年余り店晒しとなっていた[[有事法制]]について、2000年4月7日の所信表明演説にて立法化の必要性に言及し、翌2001年1月の第151回通常国会での施政方針演説にて立法化に向けた検討を開始すると述べた<ref>おおまかな経緯については[[田村重信]]「[http://www.okazaki-inst.jp/yuji.tamura.html 有事法制について]」『岡崎研究所』による</ref>。森は元々岸の流れを汲むタカ派の面があったが、仮野忠男によれば、2000年にまとめられた[[リチャード・アーミテージ]]が[[ジョセフ・ナイ]]等と超党派で作成した政策提言(いわゆる「アーミテージ・レポート」)にて後にブッシュJr政権で採用される[[米軍再編]]のアイデアや日本への法制化の要望が盛り込まれており、これらに森が強い興味を示し、参考にしたことが一因であると指摘されている。また、仮野は内閣末期においてはえひめ丸事故等で退陣要求を強めていた野党の共闘体制に楔を打ち込む狙いがあったと分析している。野党共闘の切り崩しにはそれほどの効果を挙げなかったものの、2001年2月6日の与野党代表質問で社民、共産両党が反対の意思と撤回を要求したのに対しては「有事法制は平時にこそ備えておくべきものだ。(中略)検討は憲法の範囲内で行うもので戦前の[[国家総動員法]]のような法制について検討することはない。」と拒否し、2001年3月18日の[[防衛大学校]]卒業式での訓示においても同様の認識を示した。自民党国防部会は2001年3月23日、「わが国の安全保障政策の確立と日米同盟」という文書をまとめている<ref>仮野忠男「24年ぶりの検討 どうなる有事法制の策定作業」『月間官界』2001年5月</ref>。法案提出前に森内閣は終焉したが、策定への流れは小泉内閣でも継承され法案提出に至り、一度廃案になったものの、その後民主党が賛成に回ったこともあり、2003年に[[武力攻撃事態法]]が成立した。
 
* 防衛関係としてはその他、森政権が5年に1回改定されていた[[中期防衛力整備計画 (2001)|中期防衛力整備計画]]策定の年に当たっていたことが挙げられる。同計画は12月に[[閣議決定]]した。計画では期間中の予算伸び率は0.7%だったが、小泉政権は予算面では防衛予算は減額傾向に転じた為、装備の調達実績は計画を下回ったものが多い<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01257/contents/118.htm 次期防は総額横ばい25兆円、空中給油機盛る 閣議決定] 2000年12月15日『朝日新聞』夕刊 『日本財団』HPへの転載</ref>。[[周辺事態法]]の一環としてセットでの整備が構想されてきた[[周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律|船舶検査活動法]]の成立も森内閣の時である。
 
 
==== 公共事業 ====
 
* [[整備新幹線]]は、財政構造改革路線で抑制方針とされていたものを、小渕政権下方針転換となっていた。その内の1線である[[北陸新幹線]]については、スーパー特急方式の下石川県内など3ヵ所で難工事の予想されるトンネル区間を中心に1990年代前半から中盤にかけて工事着手もされていた<ref>[http://www.pref.nagano.jp/doboku/douken/kousoku/sinkan/sinkakense3.htm 北陸新幹線ニュースレター 1998年10月27日] 長野県企画局新幹線・交通対策課</ref>。1998年1月に森は「上越まで区切った新規着工の枠組みは、糸魚川-魚津間など既着工区間の工事が進ちょくすれば、三-五年以内に見直さざるを得ない」と述べていた<ref>『[[新潟日報]]』1998年1月22日([http://www.lib.itoigawa.niigata.jp/np/1998-6.htm 糸魚川市民図書館による写し])</ref>。地元の協力もあり2000年頃までに事業着手された区間の用地取得は順調であり、トンネル工事の進捗も順調であった。7月、森は森田運輸相(当時)に要望を伝え<ref>「整備新幹線の新規着工、検討を」森首相が注文 『朝日新聞』2000年7月18日</ref>、2000年(平成12年)末の政府・与党申合せで、[[九州新幹線]]と共に、富山までのフル規格での建設が決まっている。この時森は金沢までの着工を要求したが、野中広務に釘をさされて<ref>野中の森批判については「北陸新幹線 フル規格に自民理解」『北国新聞』2000年11月9日<br/>九州新幹線と同時にフル規格化し、3新幹線での着工が決定を報じたのは『南日本新聞』2000年12月18日<br/>更に詳細な情報は『[[交通新聞]]』2000年12月20日</ref> 富山までの開業、石川県内の白山車両基地への着工に短縮された経緯がある。この件については石川県が森の地元であり、建設促進の立場で運動してきたこともあったが、整備新幹線の中では最も採算性が良いと試算されていたこと、[[北陸新幹線]]の建設単価が国鉄時代の東北・上越新幹線より大幅に下がったこと<ref>「歴代総裁が語る」わが国の鉄道建設と鉄道公団のあゆみ」『日本鉄道建設公団30年史』P12-13<br/>[[長野オリンピック]]という期限が設定されたことで買収遅延の防止に工夫を凝らしたこと、VVVF車両、[[NATM工法]]、32番高速分岐器などの技術開発成果の取り込み、急勾配採用によるルート短縮、過大な設備の縮小や地平駅の採用などが主要要素である。「北陸新幹線の建設費の低減」によれば、1993年5月価格で揃えた比較で、上越がキロ当たり94.2億円に対して北陸は63.2億円、トンネル区間でのキロ当たり単価に至っては上越の36%に過ぎない。この説明には当時の首相、橋本龍太郎も驚いたという。</ref>、同新幹線開業による時間短縮効果で旅客量が上向いたこと、JR各社が過重な負担を負わないスキームであった為、前向きな姿勢を示していたことといった背景があった。このような開発効果を重視する立場と、財政への負担や[[ストロー効果]]、平行在来線切り離しなどを問題とする批判的な立場との間で議論となることも多い。
 
: 辞任後も歴代の首相は皆北陸新幹線建設に理解を示し続けた<ref name ="seibi-shinkansen-kozato">『新世紀へ夢を運ぶ整備新幹線』<br/>なお、同書の「発刊に寄せて」は森の手になる。</ref>。森と同様整備新幹線について運動してきた[[小里貞利]]は、安倍晋三が首相だった2007年の参院選で福井を遊説した際、機内で偶然乗り合わせた森が安倍に対して新幹線の延伸に触れるようにアドバイス行ったことを明かしている<ref name ="seibi-shinkansen-kozato" />。金沢までの開業を2014年度に目標とすることとなったが、その後も福井県敦賀までの延伸のため、運動を続けている<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20070529002.htm ◎予算編成までに検討委 北陸新幹線 建設促進大会で森氏] 2007年5月29日 [[北国新聞]]</ref><ref>[http://218.231.32.4/cms_sec/1003/kj00006551-003-03.html 平成20年秋の中央要請] 北陸新幹線建設促進同盟会からのお知らせ &gt; 要請活動 富山県HP内</ref>。森は平行在来線の地元負担についてはJRの立場を理解しつつもすべて地方負担とする必要はないのではないかという趣旨のコメントをしている<ref>[http://www2.asahi.com/senkyo2007/localnews/fukui/OSK200707040060.html 〈参院選に訴える:1〉北陸新幹線 熱帯びる県内延伸運動] 2007年7月4日『朝日新聞』</ref>。(詳細は[[北陸新幹線]]参照)
 
* 以前、不祥事で辞任した中尾建設相の印象を和らげるために保守党の[[扇千景]]を起用した。内閣支持率が低迷する中で中尾事件で接待を受けた建設官僚の名前を公表し、建設白書や防災服デザインの見直しなどの施策を打ち出したことで、内閣のイメージアップ策に寄与した<ref name ="kankai2000-11"/>。なお、扇の初期の仕事の一つには2000年6月末から噴火し段階的に拡大していった[[三宅島]]の全島民避難(9月2日より実施)の指揮が含まれている<ref name ="kennsetsugyoukai2004-1">[http://www.dokokyo.or.jp/ce/ce0401/tokusyu_01.html 日本が歩むべき道 -将来に希望を持てる国にするために-] 梅田貞夫(日本土木工業会会長)扇千影『建設業界』2004年1月<br />公共工事入札・契約適正化法成立の裏事情等が語られている。</ref>。
 
* 一方で、[[公共事業]]全般については景気回復のため予算の増加を図った反面、世論の批判に応える形で、2000年夏には効果の乏しい無駄な事業に着目していた<ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/morisouri/mori_speech/2000/0806hirosimakaiken.html 森内閣総理大臣記者会見録] 2000年8月6日</ref>。「二、三年経過したものも見直せないのか、思い切ってやってほしい」と自民党などに対しても指示した。また、背景として1990年代末には、運輸省などで[[費用便益分析]]に基づいた事業評価を制度化していたという事実もある。検討の結果、2001年度予算編成においては
 
:# 事業採択後5年を経過しても未着工
 
:# 完成予定を20年以上経過しても未完成
 
:# 現在凍結されている事業
 
:# 調査をはじめてから10年以上経過しても未採択
 
: の4条件の見直し基準を決定。その上で233件の事業の中止勧告を行い、[[中海]]本庄工区の干拓など中止とした案件もある<ref name ="kankai2000-11"/>。
 
*また当時、扇が気にかけていたのは職員の士気が停滞しており、世間ではマスコミの報道によって「公共工事」イコール「悪」という認識が広まっていたことで、扇の起用理由も中尾元大臣の[[石橋産業事件|若築建設汚職事件]]であることは意識していた。これらの問題を解決する為、汚職の原因である入札制度について、フランス、ドイツ、イタリアで施行されている「公共工事基本法」を参考とし入札の透明化を図る為、[[公共工事の入札及び契約の適正化の促進に関する法律|公共工事入札契約適正化法]]を作成することを課題とした。法案提出に当たっての問題は、公共工事の所管が各省庁に分散しており、調整作業を通常の慣行で実施した場合5年はかかると見込まれたことであった。そこで扇は森に直訴したところ、森は「扇君が建設大臣として公共工事の基本法をつくろうとしているから、関係の省庁は挙げて協力するように」と閣議で指示した。その結果、法案提出は3ヶ月で達成され、同法は成立に至った<ref name ="kankai2000-11"/><ref name ="kennsetsugyoukai2004-1"/>。扇自身は本人の予想に反し、国土交通大臣となってから、小泉内閣時代にもこの人選は認められ続け続投、3年余り大臣を務めることになる。
 
* [[一坪地主]]の跋扈を問題視する観点から、[[土地収用法]]改正案を[[第151回国会]]に提出した。それまで、土地買収の最終段階である「補償金支払い」は持参払いとする旨定められていたが、反対運動側が関係人を意図的に膨らませることにより、僅かな金額の支払いに膨大な労力と時間が使われるケースが続出していた。法案の趣旨は支払い方式を[[現金書留]]も可とし、事業認定に際して事前説明の制度を強化する内容であった。様々な公共事業反対運動に手を焼いていた東京都は小渕政権時代から働きかけをしていたという事情もあった<ref>[[青山やすし]]「こんな不合理は放っておけない 土地収用法の改正」『石原都政副知事ノート』</ref>。後述するように、森は小泉への政権交代の際には、マスコミ批判を意識して民意を重視し、総裁選を前倒し実施したことを「森の清談」等で回顧している。だが、その総裁選のために審議時間が空費され、また政府のIT関連法優先処理の方針に従い、土地収用法改正案の優先順位は下げられ廃案の危機に逢った。しかし、国交省や東京都の実務担当者が悪質な遅滞戦術を取った案件についての資料を材料に、与野党の国会議員へ説得の根回しを行ったおかげで、野党議員からも賛成を取り付け、小泉内閣の下で6月末に可決した<ref>[http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1D5B202.htm 議案名「土地収用法の一部を改正する法律案」の審議経過情報]『衆議院』HP 「第151回国会議案の一覧」下</ref>。
 
* 都市部での公共事業については、扇が度々都知事であった石原慎太郎と当時懸案であった計画の視察に訪れて関心を喚起した他、森自身も石原と[[東京都道311号環状八号線|環状8号線]]を視察した。当時は[[井荻トンネル]]の一部が供用中であったが、全体では未完成だった。森は渋滞解消に向けて努力することを述べている<ref>「ウォッチング石原」森首相と環8視察『東京新聞』2001年2月2日</ref>。
 
 
==== その他 ====
 
* [[2000年]][[10月30日]]、同年[[8月]]に[[シドニーオリンピック]]女子[[マラソン]]で優勝した[[高橋尚子]]に、陸上競技での日本女子選手初の金メダルを獲得し国民に深い感動と勇気を与えた功として[[国民栄誉賞]]を与えた。
 
 
=== 首相退陣後の動向 ===
 
森の首相退陣後、政権は小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫へと受け継がれ清和会から四代続けて総理総裁が誕生。小泉政権時代に清和会は平成研(橋本派)を抜いて最大派閥となり、森は事実上の清和会オーナーとして隠然たる求心力を保ち続けた。それが批判的ニュアンスで報じられることが多かったからか、本人は「下らんスポーツ紙みたいなこと」<ref name ="shokun-seidan2006-5">「森の清談 「ポスト小泉は」中国と靖国に振り回されるな」『諸君!』2006年5月号</ref>「私はあまり、陰でいろいろやってたことはないんだけどなあ」などと否定している<ref>『読売新聞』2009年10月7日配信</ref>。実際、新聞にコメントが載ることも多く、「森の清談」シリーズを始めとした各雑誌への寄稿、対談回数も増加しており、過去の出来事については内情を公表するなど、森の意図についてはかなりの頻度で確認することが可能である。
 
 
==== 小泉政権 ====
 
===== 小泉政権影の生みの親 =====
 
首相辞任後に自民党の総裁選挙が行われたが、森は総裁選挙のルールを変更した。それまでは国会議員票が1票、自民党の各都道府県連が各1票ずつであったが、2001年の総裁選からは自民党の地方票を3票に増やし1位になった候補が3票を獲得する勝者総取り方式を取った。それにより、総裁選前は橋本龍太郎総理再任濃厚と書いたマスコミであったが、国民の圧倒的な人気もあり、小泉が橋本に対し地方票で120近い差を付けた。国会議員もこの結果から小泉の圧倒的有利と考え、不利といわれた国会議員票でも橋本を上回る得票を獲得し、総理大臣に就任する。実際1票のままだった場合は小泉41票に対し橋本5票であり、組織力のある橋本派の力で逆転される可能性は十分にありえたため、ルールを変更した森は小泉政権影の生みの親といわれている<ref group="注釈">総裁選ルールを変更した経緯については『自民党と政権交代』などで明かしている</ref>。
 
 
「変人宰相」と言われた小泉にとって森は貴重な兄貴分的存在だった。小泉が内閣改造に際して各派閥の意向を無視した一本釣り人事を行うと党内から不満が噴出し森も小泉の手法を批判したが、小泉の閣僚人事は総体的に森派からの起用が多かった。
 
 
元々「小泉総裁の間は私が支えます」というのが派閥会長としての約束で小泉の任期が終わったら退任する意向だったという<ref name ="shokun-seidan2006-5" />。また、小泉退任後、「小泉さんは聞くことは聞いてくれるんですよ。ただ私は、あまり言うことを聞いたとは言わないようにしているんです。「小泉は何でも森の言うことを聞いてやっている」となればそれはよくない。言うことを聞かないやつだという言い方をしているほうがいい」と語っている<ref name ="shokun-seidan2007-10">「直言対談 安倍総理を叱る」森喜朗VS三宅久之『月刊BOSS』2007年10月</ref>。
 
 
===== 小泉純一郎に対する評価 =====
 
小泉については「良い意味での合理主義者」と評し、それ故「党の役職をお願いしても逃げ回っていた」と述べている<ref name ="shokun-seidan2001-8">「森の清談」『諸君!』2001年8月号</ref>。このような行動様式は小沢一郎と類似点があるという見方をしているが、郵政民営化、道路公団改革のいずれもかなり以前より公約していたのに対して、小沢は細川連立政権時代の国民福祉税構想などを例示して、「何の前触れもなく、突然えげつないことをやってのける傾向がある」と評している<ref name ="shokun-seidan2006-5" />。
 
 
ただし、小泉は自身が総理の時に派閥の統率を仕切り、加藤の乱のときにも収拾に奔走してくれたため、その件については感謝の気持ちを明らかにしていた。内閣発足当初の異常な人気については初期から自民党には冷静な対応が求められるとの見解であった。それは、小泉個人の支持が党への支持と必ずしもリンクしていないこと、周到に図った上での演出でしかなく、選挙において決め手は個人個人の地道な戦いであると見ていたことによる<ref name ="shokun-seidan2001-8" />。また、徹底した反田中の派閥政治家であるとも見なしており、道路公団改革も郵政民営化も田中派の金城湯池をつぶすことが第一の目標だったと見ていた<ref>「森の清談」『諸君!』2002年8月号</ref>。ただし、論座でのインタビューでは結果として田中派への打撃になったが、それだけが目的ではなく、小泉ならではの正義感に従った行動だという旨の分析も示している{{Sfn|五百旗頭真|2007|pp=203-204}}。
 
 
ただし、内閣発足時、および初期の内閣改造の際に、田中派の後継組織である[[平成研究会]]を冷遇した際には、「やり過ぎ」と釘を刺している<ref>「森の清談」『諸君!』2002年12月号</ref>。また、靖国神社に参拝して中国・韓国との関係を悪化させたことにも批判的であった{{Sfn|五百旗頭真|2007}}。小泉は2003年7月10日発売の『中央公論』8月号でも「秋の総裁選の公約が総選挙の公約になる」などと強気の発言をしていたが、官邸で森が「総選挙の票読みをしてみると決してうまくいかないよ」と話した際には、投げやりで無責任な返事をした。中川秀直が「国家に対する責任はどうするんですか。あなたは自民党が壊れればいいんですか」と気色ばんで迫り、小泉は「物の譬えだ」と詰まらせていたと言う<ref>「森の清談」『諸君!』2003年10月号 p.169</ref>。
 
 
また、小泉が田中派的な業界団体を叩くことができたのは、地元の横須賀の経済が[[横須賀海軍施設|米軍]]と[[横須賀基地 (海上自衛隊)|自衛隊の基地]]から落ちる予算で持っており、公共事業で経済を活性化させる類の苦労が少なかったことも一因だと指摘している。森も地元に[[小松飛行場|小松基地]]があるため、ある程度似た事情を抱えている<ref>「森の清談」『諸君!』2004年6月号P87</ref>。これは旧[[防衛施設庁]](2007年防衛省に統合)による「[[防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律]]」等による周辺対策事業を指す。本来の目的は基地という全国レベルの国防サービスに使用する[[公共財]]が特定の場所に存在することによる[[外部不経済]]の緩和であった。対象地域には根上町も含まれ、父の茂喜は地元自治体と防衛施設協会の対談で心情を語っている。{{Main|森茂喜}}
 
 
首相を支える立場上、テレビ番組では小泉のことを「圧力団体にも選挙区にもペコペコしない」と弁護したが、実際に選挙区に戻る頻度が少なく、後援会長の一人は一年で小泉と会う頻度より森と合う頻度の方が高かったと言う<ref>「森の清談」『諸君!』2003年10月号 p.170</ref>。
 
 
===== 田中真紀子に対する評価 =====
 
小泉は最初の組閣の際、総裁選の2枚看板として働いた[[田中真紀子]]の入閣を望み、また田中も熱心に閣僚の地位を欲しがったと言われる。しかし、森の真紀子観は自己中心的な人物であり人望のない「お姫様」であった<ref>人望のない「お姫様」については「森の清談」『諸君!』2003年10月P176</ref>。過去、党務をないがしろにし、3000人を会場に待たせた応援演説をドタキャンしたり、応援するべき候補者や自民党を罵倒して目的を果たさず、先方からは苦情ばかりでその後始末に奔走させられた経験からであった。また小渕改造内閣で[[政務次官]]、第2次森改造内閣時には、閣僚にしてもらえるように重鎮と目される代議士に猟官運動を盛んに行っていたが、相手にしない者も多く、森も閣僚にしようとは全く考えなかった<ref>「森の清談」『諸君!』2001年8月</ref>。
 
 
そのため、田中が重要閣僚へ入閣することについては最後まで反対したが小泉は田中の外務大臣での入閣を押し切った。その後森達が危惧した通り内閣時代に田中の行動が問題視され、森時代の李登輝訪日についても否定的なコメントを出した。従って森の田中に対する評価は、清和会系とライバル関係にあった田中派の系譜に属する政治家達への中でもとりわけ厳しい。自分のためには動いても組織や国のために貢献する気持ちがないこと、派閥間での調整能力に全く欠けていること、官僚を全く使いこなせないことなどが理由に挙げられている。また、森との対談を行なった[[早坂茂三]]は「角さんの名誉のため」この醜聞を墓まで持っていくつもりでそれまで出版した著書・講演でも一切触れてこなかったと述べたが、政治問題化したことを受け国益を損ねるとして森の意見に全面的に同意、自らも同じような後始末をしてきたことを公表し始めた。森はかつて新聞記者であり、『自民党と政権交代』の後書きで論座編集部からその証言が「ある意味でジャーナリスティックでもあった」と言われることになるが、ある意味では森は歴史の証人から公の場で言質を得ることにも貢献した<ref>田中真紀子観に関しては「森の清談」『諸君!』2001年8月、2002年8月、2003年10月他</ref>。田中が更迭された後には、「テレビの評論家達で肩を持ってたやつがいっぱいいたでしょう。全員に総懺悔してもらいたいね」と述べた<ref>総懺悔については『諸君!』2002年8月号P47</ref>。
 
 
===== 買春疑惑 =====
 
大学時代に売春等取締条例([[売春防止法]]の前身)による[[検挙]]歴があると報道されたことに対して、森は「事実無根」であるとし、『[[噂の真相]]』を民事提訴した。しかし、『噂の真相』側が、[[警視庁]]に犯罪歴を照会し逮捕歴の有無を確認するよう提案したところ、森側が「犯罪歴は[[個人情報]]なので照会すべきでない」と主張した。その為、逮捕歴の事実の有無が確認されることなく結審され、2001年4月に東京地裁は、噂の真相側に300万円支払えとの森側勝訴の判決を下した。その後、噂の真相側は判決を不服として控訴。控訴審では、噂の真相側は森の手形色紙を使った塚本宇兵の「誤差は実に500万分の1以下という確率で森喜朗の指紋番号と一致する」という鑑定結果を提出。2002年3月1日、東京高裁において和解が成立したものの、和解の条件は明らかにされていない。
 
 
===== その他 =====
 
[[2002年]]7月、首相就任直前に、[[前立腺がん]]の疑いがあると診断されていたことを明らかにし、手術した。当時、首相として手術はできず、発表もできない状況下、[[放射線治療]]で抑えていたという。
 
 
2003年9月、第3回[[アフリカ開発会議]]議長を務めた。
 
 
2004年3月12日、[[硫黄島の戦い]]の戦没者を慰霊するため同島で行われた日米合同慰霊式に出席し「玉砕した方々の祖国愛を思う時、あらためて深い悲しみ、畏敬(いけい)、感謝の念を禁じ得ない。日米両国がインド洋やイラクで世界の平和のために努力し合う姿と今日の日米再会の情景を重ね合わせると感慨深い」と挨拶した。森は遺骨収集の迅速化に取り組む議員連盟「硫黄島問題懇話会」の会長も務めており、慰霊施設の改修作業の視察も行っている<ref>[http://www.47news.jp/CN/200403/CN2004031201003323.html 「硫黄島で日米合同慰霊式 森前首相ら300人参列」]『共同通信』2004年3月12日配信</ref>。
 
 
[[2004年]]10月から、自民党新憲法起草委員会の委員長を務めている。
 
 
2005年6月15日、[[サンクトペテルブルク]]郊外でのトヨタロシア工場の起工式に出席した。式典には大統領であったプーチンも出席している。森は[[日ロ賢人会議]]の日本側代表としての参加のようである<ref>[http://response.jp/article/2005/06/15/71609.html 「トヨタがロシア工場の起工式…世界生産1000万台に布石」]『レスポンス自動車ニュース』2005年6月15日配信</ref>。
 
 
==== 郵政解散 ====
 
{{Main|郵政国会|郵政解散}}
 
2005年8月、自民党内は小泉首相が成立を目指す郵政民営化法案の採決を巡って分裂していた。同法案は衆議院では辛うじて可決されたものの、参議院では自民党内の反対派の動き次第で、法案が否決される可能性があった。会期中の成立を絶対とする小泉は、参議院で否決された場合は衆議院を解散し、総選挙では造反議員を推薦しないとしていたため、自民党内では小泉の手法に対して賛否が真っ二つに分かれていた。
 
 
小泉の後見人を自認する森は、[[8月2日]]に「参議院で否決された場合に衆議院を解散するなら派閥会長を辞める」と発言した。[[8月6日]]には[[内閣総理大臣]]公邸へ赴いて小泉と会談し、法案が否決されても衆議院を解散しないよう説得を試みた。森は「元々反対の人までが努力して協力している。その人たちを苦しめて何の意味があるんだ」と情を説いたが、説得は失敗に終わった。この会談のあと、森は報道陣の前に缶ビールと[[ミモレット]]を手にして会見し、「夕食時だから[[寿司]]でも取るのかと思ったら、出されたのが缶ビールと[[スモークサーモン]]、干からびたチーズ一切れだけだった」とぼやき(実際には高級品である)、このような対応に小泉のことを「変人以上」(狂人)と評するなど怒りを隠さなかった。しかし、この行動は、小泉の決心が固いと言うことを示すパフォーマンスだったと選挙後に明かした。これにより、[[加藤紘一]]元[[自民党幹事長]]ら一部から郵政解散は「干からびたチーズ解散」とも呼ばれた。小泉は後日「今度ミモレットの出るおいしいフレンチレストランにご招待したい」というコメントを出した。
 
 
[[8月8日]]の採決で、自民党からは21人の造反議員が出て法案は否決され、この結果を受けて小泉首相は衆議院の解散を決定した。同日夜、衆議院解散が決まった直後、森は派閥会長辞任発言を撤回した。
 
 
森は、派閥会長辞任発言について、「『法案が否決されれば解散もある』との意味をこめた造反組への最後警告の芝居だった」と説明したという。
 
 
==== 安倍、福田、麻生政権 ====
 
===== 政局関係 =====
 
[[ファイル:Russel Mori 2007.jpg|thumb|250px|2007年10月、アメリカの大阪[[領事]][[ダニエル・R・ラッセル]]とパーティーで談笑する森。]]
 
 
小泉の退任が確実視されると後継総裁選びへの布石が水面下で進められるようになってきた。この時有力視されていたのは[[安倍晋三]]と[[福田康夫]]であったが両者は同じ森派であった。{{要出典範囲|[[2006年]][[1月19日]]、森は自ら会長を務める森派の総会で発言し、ポスト小泉総裁候補について安倍晋三支持を公言している同派の参議院議員[[山本一太]]を批判し、特定の人物を支持する発言を慎むよう注意した。今後も安倍支持の発言をやめなければ森派から退会させると言い切ったが、山本は安倍支持の言動を今後も何ら改めるつもりは無いと発言した|date=2014年1月}}。結局何も変わらず派閥の分裂等も起こらないまま安倍が総裁(総理)に就任した<ref group="注釈">なお、山本は2009年に森派の後継である町村派を退会している。</ref>。
 
 
なお、{{要出典範囲|意中の後継会長候補には福田が有力とされたが|date=2014年1月}}、[[2006年]][[10月18日]]、会長職を[[町村信孝]]へ譲って派閥の名前も“町村派”と変わった。退任会見で「小泉政権が終わり、私が派閥会長である役割も終わった」と語った。10月26日の町村派の総会で、同派名誉会長に就任した。名誉会長就任後初の新規入会者は同じ北陸([[福井1区]])で自身と同じ早大卒で、前年に初当選した[[稲田朋美]](元[[防衛大臣]])。
 
 
2006年10月31日、産経新聞のインタビューにて「[[知事]]は必ず[[全日本自治団体労働組合|自治労]]と[[日本教職員組合|日教組]]と妥協するんです。それで次の選挙で応援させる。(中略)だから日教組、自治労を壊滅できるかどうかということが[[第21回参議院議員通常選挙|次の参院選]]の争点だろうね」と発言した<ref>「森元首相に聞く 参院選争点は「日教組壊滅できるか」[[産経新聞]]2006年[[10月31日]][http://unkotamezo.exblog.jp/4851171/ 紙面の全文写し]</ref>。
 
 
[[2007年]][[10月4日]]、清和政策研究会最高顧問に就任([[清和政策研究会#森・小泉政権と自民党内最大派閥への躍進|清和政策研究会]]も参照)。同年、自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道された。{{main|大連立構想 (日本 2007)}}
 
 
===== 外交力強化に関する特命委員会 =====
 
元々2000年代後半の外務省は外交力強化に向けた人員・公館等の増勢を目標とし、2006年8月21日付け毎日新聞などでも報じられていた<ref>中内康夫「外交力強化とサミット、アフリカ開発会議の成功に向けて 平成20年度外務省予算の注目点」『立法と調査』(通号 277) 2008年2月<br/>[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a165038.htm 外務省の二千名増員計画に関する質問主意書] 提出者 鈴木宗男 衆議院ウェブサイト<br/>内容としては「今後十年間で同省定員を二千人増やすとともに、大使館数を百十七から百五十以上に拡充する」というもの。2006年8月2日付毎日新聞によれば外務大臣だった[[麻生太郎]]は「中国がアフリカ四十五カ国に大使館を置いているのに対し日本は二十四カ国」などと具体的数値を挙げて比較している</ref>。この流れを強化するため森は自民党の「外交力強化に関する特命委員会」委員長として有識者から意見聴取を行った後緊急提言をまとめた<ref>「外交力強化に関する特命委員会、10年間の行動計画提言「総合的な外交力強化へのアクション・プラン10」正式決定」『日本経済新聞』2007年5月30日<br/>[http://www.motegi.gr.jp/proposal/image/proposal8.pdf 「外交力強化へのアクション・プラン10」-主張する外交を積極的に推進するために-] 自由民主党政務調査会 交力強化に関する特命委員会 2007年6月6日</ref>。その後もバックアップを行っている<ref>[http://www.jimin.jp/jimin/daily/07_03/14/190314e.shtml 議員外交のあり方について議論 外交力強化に関する特命委員会] 自民党 2007年3月14日<br/>森は「経費を削減し、予算を有効に使うことと、議員特権で海外に行くことをやめ、意識改革が必要」などと述べている。</ref> こうした要求の結果、福田、麻生政権下においては一定の要求が認められている。
 
 
===== 外交活動 =====
 
2006年11月に訪台し総統の[[陳水扁]]と会談、李登輝の訪日、訪日する台湾観光客に対するノービザ措置の恒久化、台湾の国際組織への加盟などに協力したことを理由として、特種大綬景星勲章を授与された。『台湾週報』によれば陳とはプライベートでも非常に親しいと言う。これに対して中華人民共和国は外交部を通じ強い不満を表明、「特に「台湾独立」勢力といかなる政治的往来も行わないことを要求する」とコメントした<ref>[http://www.roc-taiwan.org/ct.asp?xItem=44428&ctNode=3591&mp=202&nowPage=62&pagesize=50 「森元首相が訪台、陳総統より特種大綬景星勲章を授与」]『台湾週報』2006年11月21日<br/>[http://j.peopledaily.com.cn/2006/11/24/jp20061124_65278.html 森喜朗元首相の台湾訪問について 外交部]『[[人民網]]日文版』2006年11月24日9時23分(北京時間)配信</ref>。
 
 
2007年8月2日、日本の技術を[[タイ王国|タイ]]に伝承するため、[[バンコク]]にて[[泰日工業大学]]の開学式典に出席した。[[シリントーン|シリントン]]王女が臨席するもと、日本から安倍首相の代理としての訪泰であると言う<ref>[http://www.daido-it.ac.jp/news/2007/070802inoue.html 井上茂樹副学長「泰日工業大学開学記念式典」に参列] 『[[大同大学]]』HP 2007年8月2日</ref>。
 
 
福田内閣下、2008年の冒頭に訪韓し、次期大統領であった[[李明博]]と会談している。小泉政権で冷却し中断状態にあったシャトル外交の復活と、前政権の[[太陽政策]]で温度差を生じてしまった対北朝鮮問題の連携強化が目的であった<ref>李明博との会談については<!--[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080110/plc0801102124008-n1.htm--> 「シャトル外交再開で一致 森元首相が韓国新大統領と会談」『産経新聞』2008年1月10日</ref>。
 
 
2009年3月中旬にトルコで開催された[[世界水フォーラム]]に参加した。『Globe』は日本でも国際的な水ビジネスが話題になり始めた時期であったためこれを取り上げた。それによれば、当時の日本の売りは森が懇意にし地元に工場がある東レの薄膜技術などだったが、日本の各省庁が個別にブースを設けていたのを見て「他国は政府一丸となって取り組んでいるのに」と苦言を呈した<ref>「[http://globe.asahi.com/feature/090525/02_2.html &#91;Part2&#93; 水メジャーに追いつけるか日本の水戦略]」『GLOBE』第16号 朝日新聞ウェブサイト 2009年5月25日</ref>。
 
 
衆議院選挙告示直前の2009年7月28日、[[日本ラグビーフットボール協会]]による長年の努力が実を結び、[[ラグビーワールドカップ日本招致活動]]で[[ラグビーワールドカップ]]第9回(2019年開催予定)の開催地に日本が選出された。専門誌などによれば、2005年に行われた2011年ワールドカップの決選投票で日本が[[ニュージーランド]]に敗れた翌朝、当時の[[ワールドラグビー|国際ラグビー評議会]]会長シド・ミラー会長のもとに乗り込み、そこで「仲間内だけでパスを回すのか」と、まくしたてた。記事ではこのような、はっきりと意見を言う努力をしていることを紹介し「森会長の存在なくして招致は実現しなかったことは確か」であると述べている<ref>「ラグビーに乾杯」『ラグビーマガジン』2009年10月<br/>[http://blog.mori-yoshiro.com/index.php?e=38 感慨深い「ラグビーW杯」招致成功(7月28日)]『森喜朗ブログ』2009年7月28日</ref>。
 
 
===== 麻生内閣に対する評価 =====
 
麻生内閣下、2009年に行われた[[第171回国会]]での党首討論について、1回目は上々だが、2回目は鳩山ペースになったと評している(なお、自身もかつて鳩山由紀夫と党首討論をしたことがあった)。[[ソマリア沖の海賊]]、北朝鮮問題、[[集団的自衛権]]について、民主党の矛盾点を追及することに軸足を置くべきであるとのこと。他には[[教育基本法]]の問題などを挙げた<ref>「自民党は正面突破作戦しかない」『Will』2009年8月</ref>。麻生下ろしについては批判的であり、若手や中堅の議員を批判した。その流れに乗ろうとした山崎拓については小泉政権時代の「森の清談」同様、評価していない<ref>[http://blog.mori-yoshiro.com/index.php?m=200902&PHPSESSID=83109b6e9f65bb060d88dd73d9e271ff おしゃべり議員(2月19日)]『森喜朗ブログ』</ref><ref>[http://blog.mori-yoshiro.com/index.php?m=200902&PHPSESSID=83109b6e9f65bb060d88dd73d9e271ff 船底のネズミの話(2月23日)]『森喜朗ブログ』</ref>。
 
 
ただし政局に関して、麻生については後述するニコニコ動画内の番組でマスコミが漢字の読み間違い程度のことで難詰している旨のコメントをした[[松嶋初音]]の発言に同意している。また同番組では、第171国会にて廃案となった[[貨物検査法案]]について、民主党が超党派で一致して可決した後に(国会開会期間を消費することになった)首相の問責決議案を提出していれば、一流の政党として認められたであろうといった感想を残した<ref group="注釈">同法案は翌年[[韓国哨戒艦沈没事件]]の影響を受けて急遽再提出され成立を見た。</ref>。なお、記者クラブに拠らないITメディアからのぶら下がりを受け付けたことを毎コミジャーナルは注目している<ref>2009年8月11日「“生”帯番組「とりあえず生中(仮)」『森喜朗チャンネル』ニコニコ動画<br/>石田哲也 [https://news.mynavi.jp/articles/2009/08/19/mori/index.html 「【レポート】森元首相、ネット規制・選挙については「TPO」 ニコニコ動画に生出演」]『[[毎コミジャーナル]]』2009年08月19日</ref>。
 
 
===== 北陸振興策 =====
 
短命に終わった3政権の間に行われた北陸地区の振興策では次のようなものに協力的であった(整備新幹線、航空関係等は別記)。森は2008年11月より水深12mで暫定供用(最終的には水深13mを予定)された[[金沢港]]多目的国際ターミナル(着工は2006年7月)の供用式典に出席し「金沢はシベリア鉄道を利用した日欧の物流ラインの起点となる」と述べた。一番船は当時海外輸出にウェイトを置いていたコマツの建設機械を載せている<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20081103101.htm 「◎国際物流拠点へ出航 金沢港多目的ターミナル 大水深岸壁が暫定供用 」] 石川のニュース『北国新聞』2008年11月3日</ref>。そのコマツは2007年1月、岸壁のある大浜地区の隣接地に金沢工場を着工したが、森はその際にも起工式に出席している<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20070130002.htm 「◎コマツ金沢工場が起工 大型プレス機、金沢港で生産 」]『北国新聞』2007年1月30日</ref>。コマツは工場新設を検討していた際、輸出に適した港湾地域に候補を絞り「一カ所なら茨城県[[ひたちなか市]]」に傾いていたと言う。会長の坂根が後年明かしたところによればに2005年の夏に森と会談した際「金沢港は水深10メートルしかなく大型は輸出できない。このままではコマツはますます石川県から逃げていきますよ」と直言したと言う。そのため、金沢工場の建設は金沢港の大水深化を視野に入れたものであったことを垣根のコメントを掲載した新聞記事は伝えている<ref>[http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/economy/hotspot/CK2009052902000199.html 「金沢からもっと出したい コマツ 坂根正弘会長」]『中日新聞』2009年5月29日</ref>。
 
 
森は港湾や後述する空港ばかりだけではなく北陸地区から内陸部への物流ルートの充実にも関心を示し、2006年3月には[[地域高規格道路]]として計画された[[小松白川連絡道路]]の地元陳情に同行し、「来年の[[東海北陸自動車道|東海北陸]]全線開通を見据え、[[加賀温泉]]郷への誘客や物流の促進を図るためにも小松白川連絡道路の早期整備が不可欠だ」と述べている<ref>[http://www.komatcci.or.jp/jr9ctk/06.03.15tinnzyou/tinjo.htm 「小松白川連絡道路のルートの早期確定と専任体制を要望」] 加賀飛騨道路の建設推進会議『小松商工会議所』HP 2006年3月15日</ref>。
 
 
===== その他 =====
 
[[週刊新潮]]2007年3月1日号にて[[山中湖]]に[[別荘]]を持っているかのように書かれたことに対し、事実無根であるとして訴えた裁判に勝訴した<ref>[http://www.mori-yoshiro.com/History/Others/20080205.html 「週刊新潮」事実と相違]『森喜朗公式HP』2008年2月5日</ref>。
 
 
2008年8月5日には、北國新聞社が金沢市の本社隣接地に建設した「[[北國新聞赤羽ホール]]」の開館記念式典に出席した<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20080805001.htm 「街と環境にやさしいホール」 北國新聞赤羽ホールが開館 芸術、文化の創造拠点に] 石川のニュース『北國新聞』2008年8月5日配信<br/>森は「赤羽ホールを新しい石川の文化をつくり上げていく拠点にしてほしい」と述べている。</ref>。
 
 
==== 第45回衆議院議員総選挙 ====
 
[[2009年]]の夏に行われた[[第45回衆議院議員総選挙]]では民主党は新人の[[田中美絵子]]を石川2区に擁立した。マスコミは注目区として取り上げ、苦戦を報じたが、森は苛立ちを見せた。[[戦略投票#アナウンス効果|報道による相乗効果]]を恐れたからである。そのような中で8月2日には2010年の閉鎖が決まった[[コマツ]]小松工場の一般公開で企画されたトークショーに出演した<ref>[http://www.toyama.hokkoku.co.jp/subpage/H20090803104.htm 1万6千人、別れ惜しむ コマツ小松工場 閉鎖前、最後の開放]『北国新聞』2009年8月3日<br/>トークショーにはコマツ会長[[坂根正弘]]なども出席している。同地での操業は88年間に及んでいたため、地元への経済効果は大きかった。田中美絵子の出席は不明。</ref>。[[8月8日]]には、朝日新聞記者をめがけてペットボトルのお茶をぶちまけた。当時自民党は民主党への批判を前面に立てた内容の宣伝を行っていたが、森陣営も選挙ビラで「[[労働者派遣事業|非正規]]社員<ref group="注釈">田中美絵子が、かつて派遣社員であったことを指す。</ref> や労働組合の事務員、[[キャバクラ]]嬢<ref group="注釈">[[太田和美 (政治家)|太田和美]]のこと。</ref> に至るまで、あまりにも国政をまかすには如何かと思われる」と民主党の候補者を非難した。
 
 
ただし、森は「マスメディア」の全ての活動に否定的な訳ではない。選挙を控えた時期、『WILL』2009年8月号では「確かに新聞は昔ほどひどくはなくなりました」と述べ、批判の矛先は取材もなしに記事を書くスポーツ紙や大騒ぎするテレビ番組であった。ITメディアについては、2008年末より[[ニコニコ動画]]に森喜朗チャンネルを開設して政策のアピールに利用しており、2009年8月11日には“生”帯番組「とりあえず生中(仮)」に出演し、[[角谷浩一]]とのトークを行なった(角谷は民主党よりであることを度々公言し、本番組でも自民党と距離を置いてきた旨断りも入れている)。その中で上述のように「ぶら下がり」も受け付けている<ref group="注釈">記者のタイピング速度の差から、質問を素早く入力出来たのは全てネットを拠点にするメディアであった</ref>。同番組で、森はマスコミへの苦言の他、[[ドワンゴ]]がニコニコ動画上で行なった調査や自民党で行なった世論調査を比較するなど、冷静なコメントを残している。また当時、民主党は[[マニフェスト]]などで二酸化炭素排出量の大幅な削減策を掲げていたが、森はこれに関連して2004年まで[[京都議定書]]の[[批准]]を見送っていたロシアに訪ロした際の打ち明け話も披露した。当時森は読売新聞のロシア関連記事をプーチンに手渡し、エネルギー供給大国としての国際的な責任や信用の重要性を説いたと言う(その後、ロシアは批准し、議定書も発効した)。なお、地元マスコミである『北陸中日新聞』が出した当落予想についても批判している<ref>出演時の告知 [http://info.niwango.jp/news/pdf/2009/20090805.pdf ニコニコ動画の“生”帯番組「とりあえず生中(仮)」に自民党 森喜朗・元総理がスペシャルゲスト出演]</ref>。
 
 
以前より森は組織固めを重視した選挙を続けてきたが、「(後援会の人間が)5人集まると森さんが来る」<ref>日本経済新聞 2009年8月20日朝刊</ref> といわれたほどの[[ドブ板選挙]]の結果、森は約4000票差で勝利し小選挙区の議席を維持したが、投票日は地元(『[[北國新聞]]』と『[[北陸中日新聞]]』)以外のマスコミを選挙事務所から閉め出し、締め出された朝日や新潮の記者は批判した<ref>{{cite news
 
| author = [[粟野仁雄]]
 
| url = http://www.asahi.com/kansaisq/kaihou/no118/opinion/
 
| title = オピニオン これが日本の総理大臣だったのか 唖然とした森喜朗氏の衆院選開票日の言動
 
| work = [[朝日21関西スクエア]]
 
| date = 2009-10-01
 
| accessdate = 2010-03-25
 
}}</ref>。『[[中日新聞]]』は、繊維族としても知られる森の再選を業界団体が支持したことを報じている<ref>{{cite news
 
| url = http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/economy/news/CK2009090102000182.html
 
| title = 不況の経済界 政権交代へ反応 投資効果ある対策を
 
| newspaper = [[中日新聞]]
 
| date = 2009-09-01
 
| accessdate = 2010-03-22
 
}}</ref>。なお、産経新聞は当選に沸く森陣営の撮影を許可された<ref>「辛勝の森元首相、「小泉さんへのアンチテーゼ」『産経新聞』地方・石川 2009年8月31日 02時01分配信<br />森陣営の写真が掲載。屋内か屋外かは不明。</ref>。
 
 
なお、森は繊維分野でも地道な活動を続けており、2000年には「着物産地の振興へ、開会日は和服を着よう」と言う超党派の『[[和装]]振興議員連盟』を発展させ、国会への[[着物]]姿での登院を実施<ref>[http://www.kimono-consul.org/outline.shtml 社団法人 きものコンサルタント協会の沿革]</ref>、その会長に就任している。これは教育分野にも関連があり、『きものコンサルタント協会』が20年間請願していた和装教育の中学教育取り入れにも森は協力し、2002年4月に実現している<ref>[http://www.kimono-consul.org/naiyou.shtml これまでの歴史]『きものコンサルタント協会』</ref>。2009年の[[第171回国会]]開会日にも[[袴]]姿で登院していた<ref>[http://blog.mori-yoshiro.com/index.php?e=15&PHPSESSID=83109b6e9f65bb060d88dd73d9e271ff 今年も和装振興から(1月5日)] 森喜朗ブログ2009年1月5日<br/>[http://www.sodo.or.jp/info/200901.html 平成21年1月 国会議員、きもの姿で登院 新春の国会開会式に超党派の議員が和装振興をアピール]「お知らせ」『装道きもの礼法学院』</ref>。2009年7月には東レ石川工場の[[炭素繊維]][[プリプレグ]]新工場のスタート式にも出席している<ref>{{cite news
 
| url = http://apalog.com/sen-i-news/archive/1934
 
| title = 東レ石川工場 スタート式典開く
 
| newspaper = [[繊維ニュース]]
 
| publisher = [[アパレルウェブ]]
 
| date = 2009-07-13
 
| accessdate = 2010-03-22
 
}}</ref>。当選後も見本市を視察し「石川の繊維産業は堅実に新しい素材を次々に開発している」とコメントしている<ref>{{cite news
 
| url = http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20091008302.htm
 
| title = 繊維産地の技術売り込む 石川の15社 素材に海外の流行を反映
 
| newspaper = [[北國新聞]]
 
| date = 2009-10-08
 
| accessdate = 2010-03-22
 
}}</ref>。
 
 
選挙後の総括としては2010年10月、産経新聞に「小選挙区制は政党と政党、[[マニフェスト]] とマニフェストの戦いだ」と喧伝(けんでん)され、人物を隠されてしまった。だから民主党でとんでもない候補者がいっぱい当選してきたでしょ。国民を愚弄(ぐろう)しているよ。でもまあ、小泉純一郎元首相が平成17年の郵政選挙で使った手法でもある」と述べた<ref>衆院選総括のコメントについては<!--http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091015/stt0910150129002-n1.htm-->「【単刀直言】森喜朗元首相 民主のトライアングルに論戦挑め 参院選は負けられない 現職も厳しく査定すべき (1/4ページ)」『産経新聞』2009年10月15日1時27分配信</ref>。
 
 
==== 2009年自由民主党総裁選挙 ====
 
[[2009年自由民主党総裁選挙]]では、有力候補と見られた[[舛添要一]]は不出馬だったが事前に森と会談したことを強調した<ref>舛添と森の会談については<!--[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090902/stt0909021148007-n1.htm--> 「自民ますます混迷か 舛添、総裁選“不出馬”宣言」『産経新聞』2009年9月2日11時43分配信</ref>。また、『週刊文春』は2009年3月、森が麻生の後継に自派の町村を据えたがっているといった内容の推測記事を掲載していた<ref>[http://bunshun.jp/shukanbunshun/thisweek_pol/090312.html 「森喜朗元首相が頭を痛める党、派閥、地元の「三重苦」」]『週刊文春』「THIS WEEK 政治」内 2009年3月12日</ref>。これに対して森は「若手は森、青木の野郎が(舛添厚労相の立候補を)つぶしたと言っているが、私が放り出せと言ったのではない。町村信孝前官房長官を総裁にしようとも思っていない。党の諸君は『親の心子知らず』だ。文句を言っていないでおれを呼べ」と、これらの観測を否定し、若手候補への期待論を語っている<ref>[http://www2.asahi.com/senkyo2009/news/TKY200909110432.html 「「愚痴だけ言わず理想掲げろ」森元首相が若手を鼓舞」]『朝日新聞』2009年9月12日11時19分配信</ref>。
 
 
この総裁選の立候補者の[[河野太郎]]からは「悪しき体質」として名指しで批判された。河野は以前より[[ODA]]を利権の温床で無駄が多いので半減するべきだと主張しており、そのことでも森を批判している<ref>[http://www.taro.org/2009/02/post-509.php ODAを半減せよ] 2009年2月9日 河野太郎ブログ</ref>。河野は総裁選で敗れたものの、[[日刊ゲンダイ]]はライブドアニュースに配信したニュースで世間からは喝采を浴びたと主張している<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/4368452/ livedoor ニュース - 「森喜朗政界追放」だけが痛快だった自民党総裁選] 配信元は『日刊ゲンダイ』</ref>。森は総裁選後「自分が勝つために人を傷つけ、仲間や先輩を陥れるなんて政治家である前に人としていかがなものか」と河野を批判している<ref name ="saknei2009-1015-3page" />。
 
 
[[首相指名選挙]]、自民党総裁選での自民党の対応全般については「小沢さんの権謀術数に勝つには国会で堂々と論陣を張り、相手の政策矛盾をさらけ出すしかない。6年に自民党が政権に復帰した時も最初から処方箋(せん)があったわけじゃない。ラグビーでスクラムを繰り返してチャンスを作るのと同じように、何度もぶつかっていけば、どこかに穴が見つかるものなんですよ」「総裁選も自民党の層の厚さを見せつけるチャンスだったんだ。だから鳩山政権発足前に一気にやればよかった。政権発足後しばらくはご祝儀相場となり、国民が自民党に関心を持つはずがない。首相指名選挙でもめることもなかったんだ。今回の総裁は谷垣さんしかいないと思っていた。でも、この機会に「自民党にはこんなに素晴らしい若い政治家がいる」というコンクールにしたかったな」と総括した<ref name="saknei2009-1015-3page">総裁選での党の対応、若手へのコメントは<!--[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091015/stt0910150129002-n3.htm-->「【単刀直言】森喜朗元首相 民主のトライアングルに論戦挑め 参院選は負けられない 現職も厳しく査定すべき (3/4ページ)」『産経新聞』2009年10月15日1時27分配信</ref>。
 
 
==== 民主党政権時代 ====
 
[[2009年]][[11月28日]]、地元の金沢で開催された「ニコニコ動画(9)全国ツアー」にゲスト出演し、[[ドワンゴ]]取締役の[[夏野剛]]、[[西村博之|ひろゆき]]と10数分トークライブを行った。夏野は学生時代自民党にて森の下でアルバイトをしており、昔話に花を咲かせる一幕もあった。[[鳩山由紀夫内閣]]の政策については、当時話題になっていた[[行政刷新会議]]による[[事業仕分け]]などを批判した。読売新聞によればネット上の放送は2万6840人が閲覧したと言う<ref>[http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20404422,00.htm 森元首相も登場、ひろゆき氏がお姫様だっこ--盛りだくさんのニコニコ動画全国ツアー in 金沢]『[[CNET|CNET JAPAN]]』<br/>『読売新聞』2009年11月29日配信</ref>。
 
 
[[2010年]][[1月2日]]、父茂喜の再婚相手で、森の育ての母、秋子が死去(享年83)し、[[葬儀]]で喪主を務めた<ref>[http://www.asahi.com/obituaries/update/0102/OSK201001020016.html 「森喜朗元首相の母、秋子さん死去」]『朝日新聞』2010年1月2日17時17分配信<br/>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201001/2010010200105 「森秋子さん死去(森喜朗元首相の母)」]『時事通信』2010年1月2日20時33分配信</ref>。遺骨は同年夏にロシアに分納した<ref>[http://japanese.ruvr.ru/2010/08/19/16458621.html 森元首相、イルクーツクに母の遺骨を分納] 『The Voice of Russia』2010年8月19日14時27分配信</ref>。
 
 
[[2010年]][[3月18日]]、[[日印協会]]の会長を務める森は、[[インド]]の[[ニューデリー]]で[[マンモハン・シン]]首相を表敬訪問した<ref>{{cite news
 
|url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100318/plc1003182332016-n1.htm
 
|title = 森元首相がインド首相を表敬
 
|newspaper = MSN産経ニュース(産経新聞)
 
|date = 2010-03-18
 
|accessdate = 2010-03-19
 
}}</ref>。訪問では首相経験者のインド主要都市訪問にバランスをもたらすためチェンナイからスタートした。同地は日本企業170社が進出している有力な投資先であることを意識したもので、コマツ、東芝、日産をチェンナイ郊外に視察した。3月17日は日産・ルノー工場の開所式に当たっており、これにも出席している<ref>[http://www.japan-india.com/release/view/102 森喜朗日印協会会長、久々にインドを訪問]「日印グローバル・パートナーシップ」創始者は各地で大歓迎される [[日印協会]]</ref>。この訪問について興味を持った自動車サイトが質問を行ったところ[[日印協会]]から回答があり、開所式への出席はルノー・日産サイドからの要請であることや、会長職が無給であることの他、「訪問のための費用一切は日印協会が負担しており、念のためですが、ルノー・日産にはご負担をおかけしておりません。」などと言う回答がなされている<ref>[http://carkingdom.jp/2010/03/post-333.html 続報!森喜郎元首相、日産工場開所出席の謎]-自動車王国-</ref>。
 
 
2010年3月26日には地元能美市の新工業団地で[[日本碍子|日本ガイシ]]の自動車排ガス浄化用[[セラミックス]]の新工場の起工式に出席した。社長の[[松下雋]]は能美市に進出した理由について、大地震などの災害に備えたリスク分散を挙げ、「県、市の熱意もあった」と語ったと言う。同工場は2011年10月に本格稼働した。将来的に建機向けの需要も見込む<ref>[http://www.ngk.co.jp/news/2010/0325.html 石川工場の建設に着工] 2010年のニュース 2010年03月25日『日本ガイシ株式会社』HP<br/>[http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20100326305.htm 「来年7月に操業開始 日本ガイシ、石川工場着工 」]『北国新聞』2010年3月26日配信</ref>。
 
 
森は2010年[[3月14日]]執行の[[石川県知事]]選挙において、清和会所属で姪の夫にも当たる[[岡田直樹]]の擁立に動いたものの、自民党内の調整がつかず断念したとされる。その経緯から、自民党内で「身内を立候補させることもできなかった」として影響力の低下を指摘する見方があった<ref>{{Cite journal|和書
 
| date = 2010年4月14・21日号
 
| title = 漂流する巨大政党
 
| journal = [[SAPIO]]
 
| volume = 22
 
| issue = 06
 
| pages = p.17
 
| publisher = [[小学館]]
 
}}</ref>。なお、その後岡田は2010年7月の[[第22回参議院議員通常選挙]]にて選挙区から立候補し当選した。
 
 
2010年4月11日に放送された『[[たかじんのそこまで言って委員会]]』に出演した。番組冒頭で自身も上記のように揶揄された『SAPIO』4月21日号などが映し出され、テーマは自民党の溶解であった。官僚団、小沢一郎、民主党などへの評価はそれまでの著述とそう変わる内容ではなかったが、当時話題となっていた[[日米核持ち込み問題]]について「それを晴天白日に晒されて、日本にとってプラスがあるんですか?マイナスがあるんですか?」「必要に応じて、その時によって、やはりそれは言えない事もあると思います」と述べ、沖縄返還には必要なものであったと言う立場を取った。また[[トヨタ自動車の大規模リコール (2009年-2010年)|トヨタリコール問題]]については、「鳩山さんが率先して日本の企業を守ったり、日本の技術を売り込んでると言うことをやられたことがあります?」と民主党の姿勢を批判し、自民党で議員団を訪米させて水面下で説得工作をすることを[[トヨタ]]に相談したが、トヨタ側から「もうちょっと見ていて下さい、なんとかいけます」と断られたことを明かし、トヨタの製造業としてのポテンシャルを評価する姿勢をとっている<ref group="注釈">なお、番組冒頭で映し出された『SAPIO』4月21日号でもリコール問題で日本政府を批判する記事が掲載されている。森が同誌を読んだ上でのコメントしたかは不明。</ref>。
 
 
2010年4月16日、東レと北陸三県を中心にした繊維関連企業集団「[[東レ合繊クラスター]]」が東京にて開催した初の総合展示会に訪れた<ref>[http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/economy/news/CK2010041702000169.html 「東レ合繊クラスター展示会 海外でも開催検討」]『中日新聞』2010年4月17日</ref>。
 
 
2010年5月18日、[[フランス]]より[[レジオン・ドヌール勲章]]グラントフィシエを贈呈された。フランス大使公邸にて叙勲式が行われ、[[憲仁親王妃久子]]などが出席した。[[駐日フランス大使館|フランス大使館]]ウェブサイトでは森の事績として「日本水フォーラム」会長としての活動や、フランス人のロイック・フォーションが会長を務める[[世界水会議]]への参加や、JWFファンド(Japan Water Forum Fund)を通して、途上国の水と衛生を改善する活動を支援してきたことなどが挙げられている<ref>[http://www.ambafrance-jp.org/spip.php?article3968 森喜朗元総理大臣がレジオン・ドヌール勲章グラントフィシエを受章] 在日フランス大使館公式ウェブサイト</ref>。
 
 
2010年[[8月]]、自由民主党参議院議員会の会長選挙では、自派閥である清和政策研究会に所属する[[谷川秀善]]を推し、派内の所属議員に支援を訴えた<ref name="asahi20100812">「自民参院会長に中曽根氏――派閥調整崩壊――くじ引き決着」『[http://www.asahi.com/politics/update/0811/TKY201008110184.html asahi.com(朝日新聞社):自民参院会長に中曽根氏 派閥調整崩壊 くじ引き決着 - 政治]』[[朝日新聞社]]、[[2010年]][[8月12日]]。</ref>。しかし、派内の[[安倍晋三]]らが造反し、対立候補である[[中曽根弘文]]を支援した<ref name="asahi20100812"/>。開票結果は谷川と中曽根が同票数となり、[[籤引き]]により中曽根が当選した<ref name="asahi20100812"/>。翌月、清和政策研究会の幹部会にて、森は「(谷川氏を支持した)額賀、古賀両派に顔向けできない!」<ref name="sankei20100903">「町村派のお家騒動深刻――森氏が『退会届』」<!--http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100903/stt1009030021000-n1.htm 町村派のお家騒動深刻 森氏が「退会届」--> 『MSN産経ニュース』[[産経デジタル]]、[[2010年]][[9月3日]]</ref> と述べたうえで、退会届を提出した。また、谷川に対しては「会長選に出たくないのに出てもらった。すまないことをした」<ref name="sankei20100903"/> と謝罪した。会長の町村信孝らが慰留したものの森の意思は変わらなかったため、清和政策研究会により森の退会が承認された<ref name="sankei20101211">「森元首相が町村派を退会」『<!--[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101211/stt1012111214005-n1.htm 森元首相が町村派を退会 -->MSN産経ニュース』[[産経デジタル]]、[[2010年]][[12月11日]]</ref>。退会にともない、相談役など派内の役職を全て退き、正会員としての資格も喪失した。そのため、今後は会友と位置づけられることになった<ref name="sankei20101211"/>。
 
 
2010年12月、日本はベトナムでの原発2期工事の受注に成功したが、その背景として東京財団研究員の畔蒜泰助などにより、鳩山由紀夫と共に競争相手のロシアに外交交渉を行い、現職首相の菅に代わって[[トップセールス]]役を務めたことが指摘されている。畔蒜は森とプーチンの親密さについては認めたうえで「本当の裏の立て役者は、ベトナムに長年食い込んでいる民間人でしょう」と述べたが、記事を書いた恩田は「ベトナム共産党トップとじかに話ができる隠れた民間人が、日本の政治家をつないだ可能性」を指摘している<ref>恩田勝亘 [http://www.data-max.co.jp/2010/12/post_12788.html 日本のベトナム原発受注 鳩山由紀夫と森喜朗が果たしたのは(下)] 深層WATCH 『NETIBニュース』2010年12月4日 8:00配信</ref>。
 
 
[[2011年]]、民主党内で鳩山の後任となった[[菅直人]]と、鳩山、小沢らの亀裂が大きくなっていたことから、4月中旬から森は[[伊吹文明]]らと共に鳩山、小沢らに接触。谷垣総裁に「[[内閣不信任決議|不信任]]可決に必要な数がそろっている」との見通しを伝え、[[菅内閣 (第2次改造)|菅内閣]]不信任案提出を促した。そこで自民党は、公明党、[[たちあがれ日本]]と共同で[[6月1日]]に不信任案を提出した。しかし、[[6月2日]]、菅の早期退陣を条件に、土壇場で鳩山が翻意したことから小沢も賛成には回らず欠席。同日、不信任案は否決された<ref>『読売新聞』2011年6月2日23時42分 [http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110602-OYT1T00921.htm 早期退陣否定に石原氏「あきれて物が言えない」]</ref>。
 
 
2011年3月に[[日本体育協会]]会長を退任したが、同年9月には[[東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会]]評議会議長に就任し、以後[[2020年夏季オリンピック]]東京大会の招致活動に関わる。同年12月5日、[[日本体育大学]]より史上5人目の名誉博士号を授与される。
 
 
==== 代議士引退へ ====
 
2012年7月23日、[[第46回衆議院議員総選挙]]に出馬せず、『若い人に後を譲りたい』とし任期終了を以て代議士を引退する意思を表明した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/news/20120723-OYT1T00299.htm?from=main2 森元首相、次期衆院選に不出馬の意向] 読売新聞 2012年7月23日閲覧</ref>。同年11月16日に[[2012年衆議院解散|衆議院が解散]]されたことにより失職、代議士生活に別れを告げた。
 
 
==== 引退後 ====
 
代議士引退後も政治活動は継続しており、自民党内を中心に政界になお一定の影響力を維持している。2012年12月10日、[[第46回衆議院議員総選挙]]に際して[[茨城県第7区]]から立候補した無所属(自民党会派には所属)前職の[[中村喜四郎]]の応援に駆けつけ、演説を行う。中村の依頼によるものといい、中村は森の支援に感謝と喜びの意を表明した。一方同じ選挙区には自民党公認の前職(当選は比例代表北関東ブロックの復活当選)[[永岡桂子]]も立候補しており、永岡は自民党公認候補を支援せず対立候補を公然と支援した森に対し自民党茨城県連を通じて抗議したものの、森側は「もう議員を辞めたのだから個人の自由だ」と突き放したという<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2012/news2/20121211-OYT1T00313.htm 「裏切られた気分」…森元首相、無所属候補激励] 読売新聞 2012年12月11日閲覧</ref>。選挙結果は中村が小選挙区、永岡が比例代表にて両方とも当選した。第46回衆議院議員総選挙に際して中村は初めて[[公明党]]の推薦を得ていたため、自民党側も森の応援演説を介して中村に対し一定の支持を見せることによって、全国的に選挙協力を展開していた公明党への配慮を示した形となった。
 
 
総選挙後発足した[[第2次安倍内閣]]の下でも議員在職中同様外交に関する活動を継続しており、2013年2月、首相特使として[[ロシア]]を訪問<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121222-OYT1T01081.htm?from=popin ロシアに森元首相を派遣へ…大統領に親書]  読売新聞 2012年12月23日閲覧。</ref>、[[プーチン]]大統領と会談した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121231-OYT1T00264.htm?from=popin 森元首相、露に派遣へ…プーチン大統領と会談]  読売新聞 2012年12月31日閲覧。</ref>。プーチン大統領に安倍首相の[[親書]]を手渡し、[[北方地域|北方領土]]問題を中心に意見交換。2013年5月に行われた安倍首相とプーチン大統領との首脳会談に向け環境整備を図った<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130105-OYT1T00763.htm?from=y10 北方領土「安倍首相はやるだろう」と森元首相]  読売新聞 2013年1月5日閲覧。</ref>。北方領土問題については同年11月、[[札幌市]]内で開催された「読売ビジネス・フォーラム2013」講演会において、首相在任中の[[2001年]]、自身がプーチン大統領に提案した「[[歯舞諸島]]・[[色丹島]]の返還」「[[国後島]]・[[択捉島]]の帰属確認」を分離して協議する「並行協議」方式に触れつつ、「いつまでも金科玉条のように4島全島返還から一歩も下がるなと言っていると、政府が動きにくい」、「ロシア側が求めている経済協力を日本が行えば、日本にとっても国益となる」等と述べた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20131114-OYT1T00184.htm 森元首相「4島返還だけでは動きにくい」] 読売新聞 2013年11月14日閲覧。</ref>。また同年3月には[[バチカン]]に派遣され、新[[ローマ法王]][[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]の就任式に政府代表として列席した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130315/plc13031511260009-n1.htm 新ローマ法王就任式、森元首相を派遣] MSN産経ニュース 2013年3月15日閲覧。</</ref>、同年4月には[[イギリス]]の故[[マーガレット・サッチャー]]元首相の葬儀に[[特派大使]]として参列した。同年6月には第5回[[アフリカ開発会議]]副議長並びに日本政府代表を務めた。2013年6月、自伝『私の履歴書 森喜朗回顧録』を出版。同年7月、[[東京都]]内で開かれた出版記念会では安倍首相から「森元首相は私にとって政治の師。[[ジョン・F・ケネディ]]大統領に対して『ラーニング・プレジデント』、学びつつある大統領というあだ名がついた。森氏は『ティーチング・プライムミニスター』。周りに教えながら首相としての役割を果たした」と賞賛された<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130703-OYT1T00249.htm?from=blist 安倍首相「森氏は教えながら首相の役割果たす」] 読売新聞 2013年7月3日閲覧。</ref>。
 
 
東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会評議会議長として代議士引退後も[[オリンピック]]招致活動に携わった。2013年9月7日(現地時間)に[[アルゼンチン]]の[[ブエノスアイレス]]で行われた[[第125次IOC総会]]に際しては安倍首相・[[竹田恆和]][[日本オリンピック委員会]]会長・[[猪瀬直樹]]東京都知事らとともに現地入り、[[東京オリンピック (2020年)]]開催決定の瞬間に立ち会った。またこれに先立つ[[2013年]]8月には、[[国立霞ヶ丘競技場]]内にある[[秩父宮記念スポーツ博物館]]にて開催される特別展「SAYONARA国立競技場」の内覧会に招かれるなど、国内スポーツ界での影響力も維持している。五輪招致決定後、森は[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]の会長について、企業の協力・協賛やスポンサー集めを円滑に進める目的から「財界人の起用が望ましい」という考えを表明していたが、政界や日本オリンピック委員会関係者からは森の就任を求める声が上がった。日本オリンピック委員会は[[張富士夫]](森の後を受け日本体育協会会長に就任)ら財界人に会長就任を打診したものの不調に終わったため、改めて森に就任を求めた。[[2014年]]1月、森が東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任した。また、[[2015年]]に[[日本財団]]会長の[[笹川陽平]]が発起人となり設立された[[日本財団パラリンピックサポートセンター]]の最高顧問に就任している。
 
 
このほか[[公益財団法人]]日印協会会長、[[一般社団法人]]太平洋協会名誉会長など様々な団体の役職を務めながら、講演活動やテレビの報道番組出演等マスコミにも登場し、活発な発言を続けている。2013年9月、[[札幌市]]内での講演の中で、[[特急電車]]の脱線火災事故や保線の不良など不祥事が相次ぐ[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]について「赤字路線を多く抱える北海道では、利益を上げるのは難しい」「お金がないから、[[線路 (鉄道)|線路]]の補修もできない。[[JR|JRグループ]]の稼ぎ頭[[東海旅客鉄道|JR東海]]にJR北海道を買わせたら良い」と述べ、[[1987年]]の[[国鉄分割民営化]]についても「もうからない代表がJR北海道と[[四国旅客鉄道|JR四国]]、[[日本貨物鉄道|JR貨物]]だった。赤字になる会社は分かっていた」と説明。[[2027年]]の開業が計画されている[[リニア中央新幹線]]の総工費9兆円をJR東海が全額自社負担することを引き合いに出し、「そんなにお金があるならせめて1割でも良いから、JR北海道を少し手伝ってやってくれないだろうか。公平ではない」と訴え、JR北海道の立て直し策について意見を述べた<ref>[http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/493800.html 森元首相「JR東海にJR北海道を買わせたら」 札幌で持論] 北海道新聞 2013年9月25日</ref>。
 
 
[[2013年]]1月22日、石川県より名誉県民の称号が贈られることが決まり<ref>[http://www.minpo.jp/globalnews/detail/2013012201001245 森元首相を名誉石川県民に]  福島民報 2013年1月23日閲覧。</ref>、同年3月29日、贈呈された。
 
 
2013年12月22日、[[アジアラグビーフットボール協会]]より、ARFUラグビースピリット賞が贈られる<ref>[http://www.rugby-japan.jp/news/2013/id23126.html]</ref>。
 
 
[[2015年]]3月30日、左肺のがん摘出手術を受けたことを東京五輪組織委の理事会の席上で明らかにし<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20150331k0000m040033000c.html 森元首相:肺がん手術受ける] 毎日新聞 2015年03月30日</ref>、この際、会長続投の意向を示した。
 
 
2017年3月31日、年度末に歌舞伎座にて第38回俳優祭観劇。「月光姫恋暫」でカメラに抜かれる。後半、照明が明るくなる前に退席。
 
 
[[2017年]][[4月29日]]付の春の[[叙勲]]で、[[桐花大綬章]]を受章<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20170428-OYT1T50183.html 春の叙勲4080人受章…小説家佐藤愛子さんら] -  読売新聞(YOMIURI ONLINE)2017年4月29日</ref>。
 
 
== 発言 ==
 
[[マスメディア|マスコミ]]により多くの発言が問題(失言)として報道され、首相時代には失言(「こりゃ失言失言」{{要出典|date=2009年3月}})が流行語となるほどであり、退任後も時折発言が槍玉に挙げられた。実際の活動については退任後に段階的に明かされて来ているが、在任当時からこうした点について秘匿性の低い件は反論なども少数なされている<ref>[[高市早苗]]「OPINION なぜ森首相は誤解されるのか」(『[[正論 (雑誌)|正論]]』2001年3月号)</ref><ref>[[西部邁]]「大衆民主主義(マスデモクラシー)の罠 森首相への鎮魂歌」『[[諸君!]]』2001年5月</ref><ref>「閣僚インタビュー 経済が軌道に乗るまで森首相で行くべきだった 経済産業大臣 平沼赳夫」[[月刊官界]]2001年5月</ref>。
 
=== 首相就任前 ===
 
* [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]全国組織委員長時代の[[1988年]][[4月3日]]、[[京都市]]でのパーティーで「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。言葉は悪いが、たんつぼだ」と発言した。夫人の千恵子は「たとえが適切じゃないですよ」とたしなめたという<ref>森千恵子「夫・森喜朗 人は「愚宰相」というけれど」『THEMIS』2000年7月P28</ref><ref group="注釈">一般に都市部では無関心層が多く地方より投票率が相対的に低いこと自体は指摘されており、森もニコニコ動画での“生”帯番組「とりあえず生中(仮)」で自身の選挙区を含む、地方の投票率の高さを賞賛している。また、かつて[[共産王国]]といわれた京都も都市部の選挙区があるがこの低迷は同傾向にあり、そのことを問題視する大学研究もある。<br/>[http://inabalab.soc.hit-u.ac.jp/thesis/2002rits/2003fujiwara 効果的な選挙啓発:京都市の投票率を向上させるためのコミュニケーション方法の考察] 2002年度 藤原昌弘 一橋大学大学院社会学研究科・社会学部稲葉研究室
 
</ref>。
 
* [[1995年]][[5月10日]]、自民党幹事長時代、[[総理大臣公邸]]での話として「村山首相は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言した。この発言に飛びついた[[読売新聞社]]が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。これにより、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受ける。それにともない、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。森によれば、「いつも言うように、マスコミは片言隻句だけをとらえて報道してるんだ。あのときも僕はそんな風に言っていない。(中略)「大変つらい、大変な仕事だと総理は言っている」と言っただけで、別に「辞めたい」と具体的に言ったわけじゃあない」と言う。なお、1995年7月23日の参議院選挙の晩に連立政権が議席減となったことが判明すると、村山は党首会談で河野に首相交代を提案する騒ぎがあった<ref>{{Harvnb|五百旗頭真|2007}}P185-186、参院選後の村山辞意発言についてはP191-192</ref>。
 
* {{要出典範囲|[[1997年]][[1月24日]]、[[ナホトカ号重油流出事故]]で、[[日本海]]沿岸に[[重油]]が流出した際「重油は山口や九州の方に流れていけばいい」と発言したと言われている。|date=2010年7月}}しかし、当時この発言を報じた新聞は皆無であり、各社のデータベース、[[G-search]]等にも一切収録されず、新聞各紙が首相時代に過去の発言を問題視した際にも取り上げていない<ref group="注釈">タブロイド紙はデータベース化されていないため不明</ref>。当時報じられていたのは事故発生直後の1月10日に運輸省を訪れて「第八、第九管区の[[海上保安本部]]の所管範囲の境界が石川、福井県境にあるため、海上の重油処理が円滑に進められていないのではないか」と広域的な処理活動を要請したこと<ref>「石川沖の油帯 ゆっくり北上」『北國新聞』1997年1月10日夕刊1面<br />[http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/h9haku/1-1-2.htm 平成9年海上保安白書第1章] によれば、1月6、7日には関係省庁連絡会議、10日には「応急対策を関係行政機関相互の密接な連携と協力の下に強力に推進するため」閣議口頭了解により、運輸大臣を本部長とする「ナホトカ号海難・流出油災害対策本部」が設置されている。</ref> や、1月23日に首相の橋本等と共に日本海産の魚介類のイメージ回復のため、報道陣の前で蟹を食べて見せたことであり、菅直人が[[カイワレ]]を食したひそみに倣ったものだとされた<ref>『朝日新聞』1997年1月23日</ref>。また、文部大臣の時分からボランティアを評価するよう提言していた<ref name="asahi1984-1-1" /> 森は後日、首相時代に阪神大震災のボランティアと共に重油回収に当たったボランティアを第149回国会の所信表明演説で引用したほか、官邸ウェブサイトにても「阪神・淡路大震災やナホトカ号重油流出事故のときに全国から若者たちが集まってきたのは、あれは何も教育がよかったからとか教育が悪かったからじゃないはずです。献身的にボランティア活動をしていた姿というのは、これはさすが日本の若者だと私は大変感動しました。そういう子どもたちは、本来そういうすばらしいものを持っているんですよ。それをどう引き出してあげるかということだったと思うんです。」と賞賛している<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/149/0001/14907280001001a.html 本会議 第1号] 第149回(臨時会)における 所信表明演説 衆議院会議録2000年7月28日<br/>[http://www.kantei.go.jp/jp/morisouri/mori_chat/0816kyouiku.html 教育について(平成12年8月16日)] 総理からのひとこと 首相官邸ウェブサイト</ref>。
 
* [[2000年]][[1月13日]]、福井県敦賀市で行われた講演において「初めて選挙に出たときは泡沫候補だった。選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」と発言し、民主党などから批判された<ref>[http://www.dpj.or.jp/news/?num=948 自民・森幹事長がエイズ患者蔑視の暴言 「ただちに謝罪を」今井担当大臣が談話] 2000年1月14日 民主党公式サイト</ref>。民主党は[[2001年]]の[[国際連合|国連]]エイズ総会へ森が派遣された時にも批判した。エイズ自体については森は以前から関心を持っており、沖縄サミットでは[[マラリア]]、[[結核]]などとともに例年になく大きく扱われ、撲滅対策に総額30億ドルの協力を約束している。また、国連ミレニアムサミットで「アフリカ問題の解決なくして21世紀の平和と安定はない」と演説し、森は対アフリカ外交を活発に推進していったが、その主軸に据えられているのはエイズ(およびその一因である衛生教育の不備)の撲滅であった。森の提唱で[[エイズ基金]]を呼びかけ、ジェノバ・サミットで実現もしている<ref>『月刊自由民主』2004年8月</ref>。
 
=== 首相時代 ===
 
* {{要出典範囲|2000年[[5月14日]]、[[日本放送協会|NHK]]「[[日曜討論]]」において、当時存命中であり文教族の先輩として自らも指導を受けた元衆議院議長の[[坂田道太]]について「亡くなられた坂田さん」と発言し、物故者扱いにして物議を醸した。また、2008年にはニコニコ動画の森喜朗チャンネルにおいて坂田道太のことを[[坂田英一]]と言った。これは同じ時期に自民党の衆議院議員であった元[[農林大臣]]の坂田英一と混同したものである|date=2013年12月}}。
 
* 2000年[[5月15日]]、[[神道政治連盟]]国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会で演説し、「日本の国、まさに[[天皇]]を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」と発言。NHKなどが大々的に報道して大きな波紋を呼んだ。{{main|神の国発言}}
 
* {{要出典範囲|2000年[[6月3日]]、自民党奈良県連の緊急集会で「[[日本共産党|共産党]]と組むんですか、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]さん、と私は言いたいです。共産党は綱領は変えないとおっしゃっている。[[天皇制]]も認めないでしょうし、[[自衛隊]]は解散だ。[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障]]も容認しないという立場でしょうし。そういう政党とどうやって、日本の安全を、日本の[[国体]]を守ることができるのだろうか」と発言。20日には、衆議院選挙の選挙演説で「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言したと報道された|date=2013年12月}}。
 
: 後日、森は次のように述べている。「家内は、僕の話し方が良くないという。僕は全体を聞いてもらいたいんですね。ところがどこか部分だけ抜き出せば問題にできる」「あのときの世論調査の結果は、告示されて二日か三日目の調査でしたから、これからあと一週間あるのに、こんな自民党有利の数字を見て喜んではいけませんよと。これは前回の参議院もそう書かれて惨敗したわけですからね。だから、「このまま誰も投票に行かないで寝ていてくれればいいかもしれないが、そうはいかないでしょう。だからこれから頑張らないと」といった趣旨の話をした。「寝ていたらそうなるかもしれないが、そうすべきではないし、だから頑張ろう」という意味で言ったのですが、しかし、「寝てたほうがいい」で発言を止めちゃっているわけです」<ref>「総理というのは不自由なもんだ」『文藝春秋』2000年10月 p.172</ref>。
 
* [[九州・沖縄サミット]]の開催前の6月19日の3党合同演説の場において「九州・沖縄サミット」のことを「沖縄万博」と連呼した。なお、大手新聞・通信社の中では[[朝日新聞]]{{要出典範囲|のみが|date=2013年12月}}この件を報じた<ref>「沖縄万博、IC、ただいま昭和12年 首相語連発 2000総選挙」『朝日新聞』2000年6月23日4面<br />なお、ICはITの言い間違い、昭和12年は平成12年の言い間違いを同紙が揶揄したものである。</ref>。
 
* [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]は2000年頃に西欧に積極外交を行い、かなりの国と国交を結んでいた<ref>[http://www.mofa.go.jp/Mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/02_2_2.pdf 北朝鮮とEU・EU加盟国との関係] 外務調査月報2002</ref>。その流れに[[イギリス]]も乗りつつあった中、森は2000年[[10月20日]]、イギリス首相の[[トニー・ブレア]]との会談に臨んだが、その中で北朝鮮との国交樹立の難しさの一例として、当時北朝鮮が否定し続けていた[[日本人拉致問題]]について、「人道上の大きな『石』を取り除かなければ、国民の理解は得られない」と述べ、拉致された日本人を行方不明者として第三国で発見するという解決策を北朝鮮との協議で提案していたことを公表した<ref>『毎日新聞』2000年10月21日</ref>。
 
** 回顧の内容は次のようなものである。即ち、[[1997年]]に日本政府が北朝鮮を訪問した際の訪朝団団長だった森は、北朝鮮との交渉の場でこの解決策を提案した。この解決策を考えたのは[[外務省]]で、協議の場で発言したのは副団長の[[中山正暉]]だった。メンツを重んじる北朝鮮に配慮したものだったという。しかしこの時は、北朝鮮からは行方不明者はいないという回答だった<ref>毎日新聞2000年10月21日</ref>。なお、「私や政府が今、そう考えているわけではない」と付言したが、毎日は現行案のように報じ、「釈明した」と書いた。なお、会談相手のイギリスは12月に北朝鮮と国交を樹立した。
 
** そのためバッシングが起こりつつも、報道の焦点は提案者や各々の関係者政策のスタンスにスライドしていった。森や官房長官だった中川は記者会見や衆院本会議で、この提案は中山の私案だと言った。中山は事前の打ち合わせなしにこの発言をしたことは認めたが、訪朝団は政治家として自分を信頼してくれていた旨のコメントを残している。なお、森は中山から抗議を受けて後に陳謝した<ref>「拉致第三国案「個人見解」発言撤回 中山正暉氏に聞く」 『産経新聞』朝刊 2000年10月25日 [http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2001/00997/contents/00252.htm 『日本財団』HPへの転載]</ref>。外交関係としての観点では、北朝鮮の協議の場で誰が発言したかは問題ではないのだが、中山の名を挙げて批判をかわそうとした姿勢は、さらに批判を招いた。なお、中山自身は親北的な姿勢が度々見られ、救う会よりその点を指摘され、公開質問を受けている<ref>「中山正暉代議士に公開質問状」救う会全国協議会ニュース(2002.03.25)</ref> 上、森との関係を含めたラジオ番組での発言も「ほとんど支離滅裂で、正常な神経の持ち主とは思えません」と切り捨てられる形で紹介されており、拉致問題での発言の信用に疑問が持たれてもいる<ref>「&lt;資料&gt;中山発言」救う会全国協議会ニュース(2002.07.24)</ref>。
 
* IT革命(アイティーかくめい)のことを就任当初の官僚との打ち合わせの場でイット革命と述べたり、開発途上国会議で「電気がなくとも[[iモード]]は使える」といった発言を残す。なお、ニコニコ動画などで自身が機械音痴であることは度々認めている。首相在任当時は米クリントン政権の打ち出したNII(National Information Infrastructure:全米情報基盤)構想が成果を挙げ始めたり、或いは1990年代末の[[インターネットバブル]]による一時的な景気過熱などがあり、一方で日本がIT産業、情報通信インフラ等で諸外国に遅れを取っていることは専門家の間でも日頃から憂慮されてきたことであった。情報機器の複雑性が中高年への普及を妨げてきたことへの指摘も常々なされることである(詳細は[[情報格差]])。政治家としての森はこうした問題があることについては理解を示し、[[e-Japan]]戦略の策定を決めた。後年、ニコニコ動画の森喜朗チャンネルにて、これらのことに触れている。
 
 
=== 首相退任後 ===
 
* [[2003年]]6月26日、鹿児島市内で開かれた「全国私立幼稚園連合会の討論会」にて「子どもを沢山つくった女性が、将来国がご苦労様でしたといって、面倒を見るのが本来の福祉です。ところが子どもを一人もつくらない女性が、好き勝手、と言っちゃなんだけど、自由を謳歌して、楽しんで、年とって・・・税金で面倒見なさいというのは、本当におかしいですよ」と発言し、社民党の議員や出生率向上へ誘導する政策などに反対する一部女性団体の抗議を受けた<ref>[http://www.soshiren.org/shiryou/20030708.html 私たちは、森喜朗氏に以下の発言の撤回と女性への謝罪、議員辞職を求めます。]『SOSHIREN・女(わたし)のからだから』</ref><ref>[http://www1.ocn.ne.jp/~keiko-y/yk_etc/kokkai0307/index.html 7月1日〜4日 森喜朗議員等の一連の女性差別発言に抗議][[山内恵子]]事務所HP</ref>。
 
* 2007年7月、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の外務次官・[[金桂冠]]は同年6月に訪朝したアメリカのヒル国務次官補に対し、日朝関係について「参院選の結果をみて考えたい」と伝えた。発言は、北朝鮮問題で強硬路線を採っている安倍政権の[[第21回参議院議員通常選挙|第21回参院選]]における苦戦が予測されている状況を踏まえたものと受け取られた<ref>「拉致問題も参院選次第 北朝鮮次官がヒル氏に」『中国新聞』2007年7月17日</ref>。7月23日には[[朝鮮労働党]]機関紙『[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]』で日本の第21回参院選について「安倍一味(政権)は腐敗政治と決別し、自ら権力の座から退くのが良いだろう」「参院選での惨敗を意識した責任論も台頭している」と論評していることが報じられた。当時は[[6カ国協議]]に参加していたアメリカがテロ支援国の指定解除に舵を切り始め、日本と溝が生まれ始めていたという背景も指摘されている<ref>「北朝鮮メディアが安倍首相退任促す論評」『日刊スポーツ』2007年7月23日12時50分配信 大阪市会議員 [http://tsujiyoshitaka.spaces.live.com/blog/cns!ED30C85C44D4F589!597.entry?&_c02_owner=1 辻よしたかHPへの転載]<br/>宇恵一郎(編集委員)
 
[http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/feature/0014/fe_014_070725_01.htm 「北への対応 危機感薄く」]『読売新聞』2007年7月25日</ref>。
 
: 2日後の[[7月25日]]、選挙中、森は[[金沢市]]で行った[[街頭演説]]の中で「北朝鮮は安倍さんが潰れてくれる事を願っている。そんな北朝鮮の不埒なやり方に黙っていてはいけない。安倍さんを勝たせるしかない」と発言した。読売新聞によれば民主党筋からは森の発言に「北朝鮮の拉致問題は超党派で取り組んでいる課題」と反発する声も出たと言う<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/news/20070725ia22.htm 「北朝鮮は自民大敗を願っている」森元首相、金沢で演説] 2007年7月25日22時30分 読売新聞</ref>。更に7月27日、野党が過半数を獲得した場合の国会運営について森は「国民のためにやらなければならない政策(の法案)が全然成立しなくなる。結局、だんだん追い込まれていって、(衆院を)解散せざるを得なくなる」と述べた。読売新聞は衆院の早期解散の可能性を示したものと解釈して報道した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/news/20070727iaw2.htm 「森元首相、「野党過半数なら追い込まれ解散」]『読売新聞』2007年7月27日10時18分配信</ref>。参院選は自民党が敗退したが、北朝鮮サイドはこの結果を歓迎。「安倍政権は朝日関係改善に取り組む姿勢が見られなかった。過去を正しく清算する意思がないなら相手にする必要はない」とコメントし、森が演説で述べた、安倍政権に対する北朝鮮側の評価自体は事実であることが選挙後にも改めて立証された<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin2007/news/20070730id05.htm 「自民大敗は当然の帰結」…北朝鮮] 2007年7月30日13時41分 読売新聞</ref>。さらに、3年後、安倍政権で政策秘書官を務めた[[井上義行]]が、選挙前の2007年4月、北朝鮮が拉致問題で協議したい意向を申し入れていたが、参院選後の再協議を予定したものの、自民党敗北により立ち消えになったことを明かし、「北朝鮮側は当時、安倍内閣の支持率を気にしていた印象があり、選挙で勝っていれば本格的な協議が始まった可能性もあった」と分析している<ref>井上義行による打ち明け話については『毎日新聞』2010年2月8日10時25分配信</ref>。なお、安倍政権の対北姿勢は参院選敗北後も変化無く<ref>安倍政権の対北姿勢維持については『AFP』2007年7月30日配信</ref>、2ヵ月後の退任まで継続し、後継政権はほぼ任期一杯になるまで衆院解散を選択しなかったため、国会運営は[[ねじれ国会|ねじれ現象]]が顕著となっていった。
 
* 2007年8月17日、[[防衛事務次官]]人事をめぐる[[守屋武昌]]と[[小池百合子]]防衛相の対立について、「辞めなければならないと(守屋氏が)自分で分かっていて、『武士の最後の華だ』と切腹しようとしたら、小池氏が後ろから刀で切りつけた感じだ」「(女性の)小池氏に言っていいのか分からないが、武士(もののふ)のたしなみがない」と述べ、小池の行動を批判した<ref name="47news20070817">{{Cite news
 
| url = http://www.47news.jp/CN/200708/CN2007081701000792.html
 
| title = 後ろから切りつけた感じ 森氏、小池氏に不快感
 
| agency = [[共同通信社]]
 
| publisher = [[47NEWS]]
 
| date = 2007-08-17
 
| accessdate = 2012-09-19
 
}}</ref>。守屋については、沖縄の基地問題に生涯をささげてきた立派な人物と評価した<ref name="47news20070817"/>。
 
* 2011年、[[東日本大震災]]に対する[[菅直人]]政権の対応への批判を述べながら1995年の[[阪神・淡路大震災]]当時を振り返り「思えば[[村山富市]]元首相は偉かったな。阪神大震災で初動が悪かったとずいぶんマスコミにたたかれたけどそんなことなかった。決断力もあった。[[小里貞利]]さんをすぐに震災対策担当相に任命して現地で陣頭指揮を執らせ、自分は首相官邸でドンと構えてね。首相が被災地でパフォーマンスする必要なんてないんだよ。被災者のみなさんに迷惑をかけるだけじゃないか」と村山元首相を評価した。
 
* 2014年2月9日、[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]会長として[[冬季五輪]]開催中の[[ソチ]]で会見し、執行部が高齢で語学力に乏しいことについて、「第2次大戦時、英語は敵国語だった」「昔はボール、ストライクも『よし』『駄目』と日本語を使わされて野球をやっていた。私の世代はよほど特別に勉強した方じゃないと外国語をよく理解しない」と説明した<ref>[http://www.daily.co.jp/olympic/sochi/2014/02/10/0006697928.shtml 森喜朗会長「英語は敵国語だった」] 2014年2月10日デイリースポーツ</ref>。
 
* 2014年2月20日、ソチオリンピックのSPで[[浅田真央]]に転倒が相次いだことに関して、「見事にひっくり返った。あの子、大事なときには必ず転ぶ」と福岡市での講演で述べた。フィギュアスケート団体への出場に関しても「負けるとわかっていた」とし出場するべきではなかったとの主張を展開した<ref>[http://www.sanspo.com/sochi2014/news/20140220/soc14022016130047-n1.html 森元首相、真央に「あの子、大事なときには必ず転ぶ」] サンスポ 2014年2月20日</ref><ref>[http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/02/post-259.html 森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起こし] - 荻上チキ・Session-22、2014年2月21日</ref>。アイスダンスの[[キャシー・リード]]、[[クリス・リード]]組に関しても「(米国代表として)五輪出場の実力はなかったが、帰化させて日本選手団として出した」と述べた(リード兄弟は日米両方の国籍を有していたが日本国籍を選んでおり、帰化したわけではない)<ref>[http://www.sanspo.com/sochi2014/news/20140220/soc14022017280049-n1.html 森元首相、リード組に「五輪出場の実力なかった」] サンスポ 2014年2月20日</ref>。浅田は帰国後の会見の中で「私は別に今なんとも思っていないですけど、たぶん(森さんが)ああいう発言をしてしまったことについて森さんは今少し後悔をしているのではないかなというふうに、少しは思っています。」と感想を語った<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=dS898JcSR2w&t=32m10s  FCCJ - PRESS CONFERENCE: Mao Asada, Figure Skater and Sochi Olympian Mao Asada Figure Skater and Sochi Olympian] 外国特派員協会 2014年2月25日</ref>。
 
* 2016年7月に自チャンネルでリオデジャネイロの壮行会で日本人選手が国歌を斉唱しなかったことを「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」と批判したが、実際には'''独唱'''であり誤解である。<ref>[http://lite-ra.com/2016/07/post-2388.html  森喜朗が“独唱”を“斉唱”と取り違え五輪代表に「国歌を歌え」! でも政権とネトウヨに怯えるマスコミは一切批判せず]</ref>
 
 
== 西松建設からの政治資金提供 ==
 
準大手ゼネコンの[[西松建設]]から、同社のOBらを代表とした政治団体(『新政治問題研究会』・『未来産業研究会』)を隠れ蓑に多額の政治献金を受けていた1人だったことが2008年12月末に表面化した<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-21/2008122115_01_0.html 裏金疑惑の西松建設 関連政治団体政界に4億2000万円 森・二階・小沢氏ら] しんぶん赤旗 2008年12月21日(2009年3月12日閲覧)</ref>。森はこの疑惑に関連して西松建設関係者や小沢民主党代表の公設第1秘書が[[政治資金規正法]]違反容疑で逮捕されたあとの[[2009年]][[3月5日]]に、提供を受けていた約400万円を返却する意向を表明した。森は返却について「道義的観点からであり、(献金などの)違法性を認める趣旨ではない」と説明している<ref>[http://s01.megalodon.jp/2009-0312-2129-54/news.goo.ne.jp/article/jiji/politics/jiji-090305X046.html 森元首相も返却へ=西松OB団体からの資金] 時事通信 2009年3月5日(2009年3月12日閲覧)</ref>。{{See also|西松建設事件}}
 
 
== 航空業界との関わり ==
 
=== 能登空港関係 ===
 
地元石川県では[[能登空港]]の開港(2003年)を支援したことでも知られる。森が自身の政権政策のベースとした小渕政権も公共事業による財政出動を行ったが、2000年度予算では空港の用地造成費37億円が満額認められた<ref>[[草野厚]]『歴代首相の経済政策全データ』P212<br/>草野は当時森が自民党幹事長だったことと絡めて書いている。</ref>(空港全体の建設費は約240億円<ref name ="kankai200208">「能登空港と松山空港が石川県の未来を変える」『月刊官界』2002年8月</ref>)。その後、当時山梨県にあった[[学校法人日本航空学園|日本航空学園]]が移転先を探していた際には地元の政治家で同学園の理事である[[赤池誠章]]と懇意となり、山梨校の開校記念式などにも顔を見せていた(その後、赤池は2005年の衆院選挙で自民党公認で当選し、2006年1月に清和研への入会を認めている。)<ref>『前衆議院議員 [http://akaikemasaaki.spaces.live.com/?_c11_BlogPart_BlogPart=blogview&_c=BlogPart&partqs=amonth%3d1%26ayear%3d2006 赤池まさあきの国政ニュース_2006年1月19日]』</ref>。同学園は名乗りを挙げた候補地の中から能登空港を選び、開港と同時に移転した。これは学園が落とす[[地方税]]や発着料を通じ、地方経済や空港の経営にもプラスの材料となると共に地元の過疎対策にもなった<ref name ="nikkeib_ol20080714">[[森功]]「[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080714/165324/ 閉ざされる日本の空 第13回 1日2往復便の能登が元気な理由]」『日経ビジネスオンライン』2008年7月14日</ref>。
 
 
また、県が更新期を迎えていた土木事務所など、能登半島の出先機関を空港に集約する、日本の地方空港で初めて搭乗割保証制度を設定し、観光客の誘致に努力する、[[道の駅]]に指定する、などの努力を続けた結果、一般的な赤字空港批判の中でも、一目置かれる存在となっている<ref name ="nikkeib_ol20080714" /><ref>[[平賀尉哲]]「地域振興に貢献する能登空港の素顔」『[[鉄道ジャーナル]]』2006年5月</ref><ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/life/archive/news/2009/20090909org00m040011000c.html 増える空港 かさむ赤字/3 がんばって旅客を増やしている空港もある]『毎日新聞』2009年9月9日</ref>。ただし、当初の想定利用者数が大阪、名古屋便を見込んだものであったのに就航したのは羽田便のみで実績は下回り、赤字分は県の補填を受けているため、朝日新聞のように批判的な報道もある<ref>[http://www.asahi.com/special/060206/TKY200602140422.html 地方空港「駆け込み」開港 利用客奪い合い、税補填も]『朝日新聞』2006年2月14日</ref>。
 
 
=== 小松空港関係 ===
 
==== カーゴルックス航空の誘致 ====
 
1985年から福岡空港に貨物便を就航させていた[[ルクセンブルク]]の[[カーゴルックス航空]]が日本便の貨物取り扱い量が伸び悩み、撤退も含めて再検討をしていた際、3000m級の滑走路がある他の拠点として小松空港に着目した。小松空港サイドは森を押し立てて運輸省に陳情を行い、1994年よりカーゴルックスは小松に移転した。当初は週2便、その後徐々に扱い量が増加し、2001年には3便から5便までの枠が認められ、2000年代前半には年2万トンを超す扱いがあったが<ref name ="kankai200208" /> リーマンショック以降1万トンを切る水準まで落ち込み、その後の景気回復で再び増加に転じている<ref>「ルクセンブルク 貨物を週1便増 小松」マイタウン石川『朝日新聞』2010年04月10日配信</ref>。しかし朝日新聞によればカーゴルックス側の本音は[[関西国際空港]]への就航であり、同空港への枠を認めない国土交通省の姿勢に森を初めとする石川県の陳情、政治圧力を批判的に指摘されてもいる<ref>[http://globe.asahi.com/feature/091123/03_1.html 「しがらみだらけの航空行政 政権交代で転換できるか」] The Asahi Shinbun Globe『朝日新聞』</ref>。
 
とは言え、小松空港から首都圏・中京圏・関西圏の日本の三大都市圏には高速道路を使えば比較的早く到達することができるのは事実である。{{要出典範囲|そう言う三大都市圏のどこにもアクセスしやすい立地環境を評価する意見もある|date=2010年10月}}。
 
 
==== 台湾便就航 ====
 
森は首相辞任後も慎重論がある中で訪[[中華民国|台]]をおこなっている1人だが<ref>「森喜朗・前首相、[[陳水扁]]総統と会見」[http://www.iris.dti.ne.jp/~taitsu/9301.htm#ddd 『週刊台湾通信』第9203号] 2003年1月8日 辞任後最初の訪問で首相経験者としては福田赳夫に次いで2番目である。[[中華航空]]機を利用している。</ref>、その後小松空港への台湾からの航空便誘致活動が顕著となってきた。北国新聞はこの件について何度か報じているが、2005年12月に増便された小松-上海便について森は「当面は中国側の利用増が見込めない」などと指摘し、台湾便については「台湾の観光客が温泉を好む傾向があり、能登空港のチャーター便で和倉温泉や加賀温泉郷の旅館を訪れていること」を挙げている<ref>「小松空港の台湾便誘致に本腰を 森前首相、本社で見解」『北国新聞』2006年1月8日 [http://shukuei.blog19.fc2.com/blog-entry-181.html 『青森日台交流会』による転載]</ref>。実際石川県を訪れる外国人観光客の内、約半数が台湾からの渡航という背景もあった<ref name ="tai-niti_20080602">[http://www.taiwanembassy.org/JP/fp.asp?xItem=60333&ctNode=3522&mp=202 6月1日に台北―小松間の長栄航空定期便が就航、台湾写真展なども記念開催]『台日交流』2008年6月2日 台北駐日経済文化代表処HP</ref>。この頃、日台間の航空交渉にて増便の方針は決まっており、一時は小松-[[台湾桃園国際空港|台北]]便に中華航空が内定しかけていたが、2007年8月に[[チャイナエアライン120便炎上事故|那覇で中華航空機が事故を起こした]]ため、計画は暗礁に乗り上げた。そこで森は台湾の駐日代表部に相当する[[台北経済文化代表処|台北駐日経済文化代表処]]の[[許世楷]]と会談した<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20071121001.htm ◎「エバー就航に全力」 台北駐日経済文化代表処、許代表が森氏に表明]『北国新聞』2007年11月21日</ref>。水面下で[[エバー航空]]に就航を打診していたとも報じられている<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20071121001.htm ◎エバー航空最有力 小松と台湾の定期便 来春にも就航] 「石川のニュース」欄『北国新聞』2007年11月21日</ref>。森の仲介もあり、当時は原油価格上昇という厳しい局面にあったが、エバー側も小松便の設定を決断した。社長の陳欣徳は2008年4月、訪台した県議に「森喜朗元首相ら多くの方々の尽力があり、コスト高の中で一大決心をしたので、多大な支援をお願いする」と述べている<ref>「知事「エバーと運命共同体」協力を確認」『北国新聞』2008年4月22日 ひもの義昭(石川県議)ウェブサイト [http://www.himono-yoshiaki.jp/04/05s_16.html#2004 台北便就航記念・交流促進訪問【H20.4.20〜H20.4.24】] に転載</ref>。そして、2008年6月1日より週2便を基本としてエバー便が就航した。就航の際、石川県は台湾の振興イベントを企画し、森も小松空港での記念式典に出席している<ref name ="tai-niti_20080602"/>。
 
 
== 党内への影響力 ==
 
首相退任後も清和会から小泉・安倍・福田が続けて総理総裁に選出され、安倍の就任直後までは派閥会長として、会長退任後も名誉会長として影響力を行使した。福田退任後は派閥からの総裁選立候補は控えたものの、2007年の『自民党と政権交代』では今後について「晴耕雨読という訳にはいかんだろうな」と語ってインタビューを締めている。
 
 
自身と緊密な関係にある[[麻生太郎]]が総理総裁に選出されると、党内基盤が弱い麻生を支援したが、人事や政策決定に対して積極的に公の場で論評するなど、半ば公然と介入した{{要出典|date=2013年9月}}。
 
 
== 主な所属団体・議員連盟 ==
 
* [[日本教職員組合問題究明議員連盟]](最高顧問)
 
* [[神道政治連盟国会議員懇談会]](顧問)
 
* [[地下式原子力発電所政策推進議員連盟]](顧問)
 
* [[北京オリンピックを支援する議員の会]](顧問)
 
* [[ラグビーワールドカップ2019日本大会成功議員連盟]](最高顧問)
 
** 若手時代には[[青嵐会]]に属すなど、[[中華民国|台湾]]ロビーの一員とされたこともある。
 
* [[天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟]](会長)
 
* 平城遷都1300年記念事業推進議員連盟(会長)
 
* [[日韓議員連盟]](会長)
 
* 日本・アフリカ連合議員連盟(会長)
 
* [[公共放送のあり方について考える議員の会]]
 
* [[みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会]]
 
* [[自民党国際人材議員連盟|外国人材交流推進議員連盟]]
 
 
[[2007年]]夏の[[第21回参議院議員通常選挙|参院選]]後に、[[古賀誠]]元幹事長・[[二階俊博]]国対委員長らと新たな[[日中友好議員連盟]]の結成を予定していると報じられた。2007年7月4日、[[中華人民共和国]]の[[王毅]]大使と中国大使公邸で懇談し、協力を求めた。日中国交正常化35周年に合わせて日本と中国が進める「2万人交流」プロジェクトが今秋にも達成されるのに合わせ、双方で記念式典を開催することで一致したとされる<ref>毎日新聞 2007年7月5日 東京朝刊</ref>。
 
 
== 人物 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2009年4月|ソートキー=人}}
 
[[ファイル:Naikakufu1.jpg|thumb|200px|[[内閣府]]の銘板は森の[[揮毫]]を基に作成された]]
 
* 身長175cm、体重103kg。
 
* 愛妻家である。妻の千恵子と知り合ったのは、2人が通う早稲田大学の学生時代であった。当時体を壊してラグビー部を退部していた森は「国際学友会」と言う、早稲田大学の主に[[東南アジア]]からの留学生との交流を深めるサークルに所属しており、ここで横浜出身の教育学部国語国文学科の学生の千恵子と出会った。当時千恵子は水泳をしており真っ黒に日焼けしていたのを見た森が「アナタ、お国はどちらですか?」と千恵子を[[東南アジア]]からの留学生だと勘違いして話し掛けたのが初対面だったらしい。現在でも出張などで森が自宅を離れた際にも、森の方から1日1回以上特に用事がなくても「元気かな?」などと電話が掛かってくるとの事。千恵子も代議士夫人の会で「子供のためにも死ねるけれど、夫のためにも死ねるわ」と発言するなど現在でもラブラブ夫婦のようである。因みに千恵子の方が半年余り年上の姉さん女房である<ref name ="morichieko" />。
 
* 妻の千恵子によると森は潔癖症、整理魔で今でも寝る前に翌日着る服を下着からきちんと順番通りに枕元に置いて寝るらしい。机の上もすぐに整理してしまうとのこと<ref>独占手記 「首相夫人 森智恵子」『週刊宝石』2000年7月6日</ref>。
 
* 代議士になりたての33歳の時、小松の自宅に侵入した泥棒を捕まえたことがある。その泥棒は午前3時半に森家に侵入したが最初に千恵子に気づかれた。喜朗は裸足で300m追いかけて泥棒を捕まえ、[[小松警察署|小松署]]に引き渡している。『自民党と政権交代』などには描かれていないが、当時の新聞には載っている<ref>「森代議士(石川)泥棒を捕える<!--見出しは原文ママ-->」『朝日新聞』1970年7月22日22面</ref>。
 
* 内閣官房副長官時代、時の総理である[[福田赳夫]]と並んで歩いた際SP([[セキュリティポリス]])と間違えられそうになったため、福田からもっと離れて歩くように言われたことを回顧したことがある{{Sfn|五百旗頭真|2007}}。
 
* 日本コスタリカ友好議員連盟の重鎮である。[[衆議院]]に[[小選挙区比例代表並立制]]が導入された際、同一[[中選挙区制|中選挙区]]に同一[[政党]]の候補者が複数いる場合、候補者を[[小選挙区]]と[[比例代表]]から交互に立候補させる方式を考案し、[[コスタリカ方式]]と命名する(ただし、[[コスタリカ]]の制度は連続再選を禁止するというもので、比例転出により連続当選を前提とする森の方式とは別物である)。
 
* 文部大臣時代には視察先の小学校で子どもたちの人気者であった<ref>視察先の小学校で人気だった件の出典は 八幡和郎『歴代総理の通信簿 間違いだらけの首相選び』PHP新書 2007年</ref>。
 
* [[日本体育協会]]会長、[[日本プロスポーツ協会]]会長(事実上の統一[[コミッショナー]]的存在、[[2011年]][[3月]]勇退)、[[日本トップリーグ連携機構]]会長、[[日本ドッジボール協会]]会長、[[松井秀喜]]選手が[[日本プロ野球]]・[[メジャーリーグベースボール]]で活躍を後援会名誉会長としてサポート。松井の実家と隣の集落出身で、両者とも浜小学校出身である。また[[第17回参議院議員通常選挙|1995年参院選]]では[[ガンバ大阪]]前監督[[釜本邦茂]]を比例区で、[[アマチュアレスリング]]・[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)]]日本代表で[[新日本プロレス]]の現役[[プロレスラー]][[馳浩]]を[[参議院一人区|定数1]][[石川県選挙区]]で擁立し当選に導く。1996年総選挙ではプロボクシングの元[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[ライト級]]王者[[ガッツ石松]]を[[東京9区]]で擁立。
 
* 首相在任中の[[第42回衆議院議員総選挙]]では小選挙区([[石川県第2区|石川2区]])と比例区(北信越ブロック)と[[重複立候補]]。[[小選挙区比例代表並立制]]導入後、重複立候補した現職総裁・現職総理は現時点では森だけ。森の比例の順位は現職総裁・現職総理でありながら比例で優遇されることなく、他の重複立候補者と同列だった(結果は小選挙区当選)。
 
* 自由民主党の[[自由民主党幹事長|幹事長]]、[[自由民主党総務会|総務会長]]、[[自由民主党政務調査会|政務調査会長]]の党三役すべてに就任しているのは森と[[安倍晋太郎]]だけであり、[[自由民主党総裁|総裁]]も務めた唯一の人物である。党三役については選対委員長を加えて党四役となっていた時期があるが、森は選対委員長の前身である総務局長にも就任している。
 
* [[2006年]][[8月27日]][[全日本プロレス]]・[[両国国技館]]大会、清和会所属で当時[[文部科学副大臣]]で衆議院議員であった[[馳浩]]の[[プロレス]][[引退試合]]を[[町村信孝]]と共に観戦したが、[[VOODOO-MURDERS]]の[["brother"YASSHI]]が「おい、そこの森! お腹の中、何か詰まってるな? お金か? このかす野郎!」と森に罵声を浴びせた上、森の治世を批判し唾を掛けるという暴挙に出た。さらに、場外乱闘に乗じて[[TARU]]が森を挑発したため、森もパイプ椅子を持って身構えるという事態が発生した。さらにこのとき、観客から「森コール」が起こったものの、森の[[セキュリティポリス|SP]]がTARUに抗議しつつ森を止めたため、史上初となる首相経験者のプロレス参戦は実現しなかった。試合後、記者団に対し、森は「椅子? パフォーマンスだよ」と苦笑いで語ったが、YASSHIに話が及ぶと「客に対して失礼だ」と激怒した<ref>[http://beye2.com/item_5949.html 安倍官房長官も興味津々〜 森前総理 乱闘騒動は続く] 馳がつけていたブログの転載</ref> ふざけすぎということで、主催者には抗議電話も殺到し、ウェブサイトには謝罪のお知らせも掲載された<ref>武藤社長からVM厳重注意…森前首相襲撃 [ スポーツ報知 ]2006年8月30日</ref><ref>[http://www.all-japan.co.jp/news/06082801.htm 8月27日両国大会に関してのお詫び 全日本プロレス公式ホームページ] その後掲載終了{{リンク切れ|date=2010年8月}}</ref>。馳も森派の会議で詫びを入れる羽目になってしまったが、「私からも伏してお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした!でも、森先生がひどい目にあっているときに、隣の町村先生は手を叩いて大喜びしてましたよ!」と言ったと言う。なお、馳自身は森に敬意を持っている<ref>[http://www.apa.co.jp/appletown/nagata/nt0808.html 2008年8月号 第96回 森喜朗大活躍?!]</ref>。
 
* 自身のサイトがリニューアル1ヶ月で100万アクセスを越えた際に地元の[[北國新聞]]で取り上げられた。事務所は「写真など定期的に更新をしているから」と述べていたが、実は[[2ちゃんねらー]]による[[祭#用語としての祭り|祭り]]の結果だったことが判明している。
 
* 都内の[[瀬田 (世田谷区・川崎市)|瀬田]]に邸宅を構えていた。自身の政治活動上、資金的に苦しい時に銀行から金を借りる際に担保とするためであったが、その政治活動がピークを過ぎたため、[[六本木ヒルズ]]に転居し2年半余り住んでいた時期もある。これは議員宿舎の建て替えが完了するまでの暫定的なものであり、2007年に退去している<ref>村上正邦、平野貞夫、筆坂秀世『自民党はなぜ潰れないのか』(2007、幻冬舎新書)</ref><ref>「月刊BOSS」2008年8月号</ref>{{Sfn|五百旗頭真|2007}}。
 
* 裏方としての能力は高いとの下馬評もある<ref group="注釈">「森の清談」シリーズでは早坂がこの見解を出している。『Voice』2001年7月号でも中村慶一郎が肯定的な意味合いで小泉政権成立の舞台裏の功労者として評価した。</ref>。
 
* 派閥については肯定的で、を政治家の訓練の場、族議員を政策の専門家として認識している。森によれば、中選挙区制時代は財政なら宮沢喜一、福田赳夫、税なら[[山中貞則]]など、政府一辺倒でもない、党内に指導力を持つ政治家が各分野におり、官僚を超える見識の持ち主も多くいたが、小選挙区制では広く浅い知識を持つ議員が増え、野党の仕掛けた論戦にも「うちもやっているんだ」とすぐに言い分に乗ってしまう者が増えたと言う。そして知名度を得る為にテレビに出たがり、出演しても政治評論家がせっかく野党を激しく攻撃している横でへらへら笑っているだけの者がいるとのことである。特に社会福祉関係は国民受けが良く、票目当ての者が沢山くっついているので、見識を持った政治家の重要性を説いた<ref>「自民党は正面突破作戦しかない」『Will』2009年8月号</ref>。このため派閥制度には肯定的な見解も度々述べており、色々な悩みを相談し合える点から「心のオアシス」と呼んだこともある<ref><!--http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080908/stt0809082135017-n2.htm-->「【自民総裁選】乱戦いよいよ本格化 派閥政治終焉の序章か…」『MSN産経ニュース』2009年9月8日</ref>。
 
* 若手議員については、2007年に、自民党議員には本人の満足度は別にして色々な役職(ステージ)が与えられるのでそこで一生懸命やることが重要である旨も語っている。一方、若手から中堅の政治家にしばしば出身者のいる[[松下政経塾]]については、[[選挙ポスター]]に松下政経塾出身と書くのが特徴、「それが集票力や自分の価値につながると思っているんでしょう」との分析を示し、雄弁会との比較では、雄弁会はサークルに過ぎないし選挙で売り物にはしない旨を述べている<ref>「雄弁会と松下政経塾」{{Harvnb|五百旗頭真|2007|pp=284-289}}</ref>。
 
* 韓日議員連盟の会長であった[[金潤煥]]の5回忌に弔花を贈ったところ、韓国内の政治家で弔花した者が僅かであったことから[[中央日報]]が「生きた権力にのみ盲従する韓国の政治に警鐘を鳴らしている」として取り上げた。同紙は、森は「気兼ねなく話を交わすことができた数少ない政治家の1人」であり、金潤煥サイドは弔花に対して「信義を重んじる日本人政治家の人間味を感じた」と報じた<ref>{{cite news
 
| url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=109120&servcode=A00
 
| title = 森元首相の義理が話題に
 
| newspaper = [[中央日報]]
 
| date = 2008-12-23
 
| accessdate = 2010-08-07
 
}}</ref>。
 
* かつて「お絞りと中川君」が口癖であった<ref name="bunshun20090219">{{Cite journal|和書
 
| year = 2009
 
| month = 02
 
| title = 中川秀直六十五歳の誕生日に蘭の花を贈った森喜朗の胸中
 
| journal = [[週刊文春]]
 
| volume = 2009年2月19日号
 
| issue =
 
| pages =
 
| publisher = [[文藝春秋]]
 
| url = http://bunshun.jp/shukanbunshun/thisweek_pol/090219.html
 
| accessdate = 2010-08-07
 
}}</ref> ほど中川秀直を寵愛し、自身の内閣の官房長官にも登用したが、[[小泉改革]]をめぐり徐々に亀裂が生まれ、中川が[[2008年自由民主党総裁選挙|2008年の総裁選]]に[[小池百合子]]を出馬させたことで、二人の関係は完全に決裂した<ref name="bunshun20090219"/>。
 
* 上記のとおり、あらゆる発言が問題発言としてマスコミに取り上げられ続けたため、首相後期にはほとんどマスコミを相手にしなくなった<ref>{{cite news
 
| url = http://mainichi.jp/select/seiji/primeminister/etc/burasagari.html
 
| title = 首相VS記者団とは
 
| newspaper = 毎日新聞
 
| accessdate = 2010-01-22
 
}}</ref>。
 
* 夫人の千恵子、中村慶一郎、[[八幡和郎]]等から「話が面白い」旨指摘され、本人も文章よりは講演などを好むとしているが、牛尾、早坂等との対談ではよく[[勧進帳]]をネタにしており、[[歌舞伎]]も度々見に行っている。
 
* 「亡くなられた坂田さん」発言などの勘違いがクローズアップされる一方で、記憶力や過去の出来事の再現能力を評価されてもいる。薬師寺克行は『自民党と政権交代』にて行ったインタビューを「まるで実り豊かな菜園」と評価している。編集過程で脚注を作った人物の多さ、場所や日時を当時の新聞記事と突き合わせた時の正確さなどが挙げられた。それを森は手元に何の資料も持たず、立て板に水のように、まるでドラマのように活写した。また、話の中身は事実関係の再現に比重が置かれており、登場人物の意図なども事実に基づいて再現するように努力していたのだと言う。
 
* 2008年5月19日、戦没者の慰霊祭に関わり、早大OBでもある森は太平洋戦争下の[[出陣学徒壮行早慶戦]]を題材とした映画『[[ラストゲーム 最後の早慶戦]]』の試写会・シンポジウムに出席し「隣で見る家内には“堂々と泣くぞ”と言ったが、実際にハンカチがぐしょぐしょになってしまった。改めていろいろなものを教わった」との感想を残した<ref>[http://eiga.com/buzz/20080520/3/ 「早大OB森元首相も駆けつけた!「ラストゲーム/最後の早慶戦」シンポジウム」]『[[eiga.com]]』2008年5月20日12時00分配信</ref>。
 
* 森喜朗チャンネルの「プライベートについて」という動画にて好きな食べ物は[[シラス (魚)|シラス]]、[[鯵]]の開きと言っている。また小学生の頃、父親の勧めで甲子園まで日米親善野球を見に行った際に、なけなしの小遣いで[[コカコーラ]]、[[ホットドッグ]]等を食べてみたが、それらを羨ましいとは感じず、[[沢庵漬け|沢庵]]と[[おにぎり]]が食べられないアメリカ人を「可哀相だなあ」と思ったとのことである<ref>日米親善野球でコカコーラとホットドッグを食べた件については [http://blog.mori-yoshiro.com/index.php?e=32&PHPSESSID=83109b6e9f65bb060d88dd73d9e271ff WBCに昔日を思う] 2009年3月25日『森喜朗ブログ』</ref>。
 
* 2010年2月3日、1999年の初演から[[骨髄バンク]]を支援してきた舞台「友情 秋桜のバラード」400回目の公演にて、主人公を看取る医師役で出演した。客席に背を向けて主人公の方を見つめていたが、7年前の公演で出演した話を交えてその意図を語った。「(演技は)2度とやらないと思った。僕が出たら客席が笑って困った。だから今日は、スーッと出てすぐ(主人公の)あゆみの方を向いたろう。医者だからね」とのことである。教師役を続けている[[かとうかずこ]]は「雰囲気からして医院長そのもの!」と絶賛した<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20100203-592363.html 「森喜朗元首相が骨髄バンク支援舞台に出演」]『日刊スポーツ』2010年2月3日23時24分配信<br/>[http://www.news24.jp/entertainment/news/1610270.html 「「友情」通算400回上演達成…森喜朗元首相もゲスト出演」]『日テレNEWS24』2010年2月3日23時4分配信</ref>。
 
* [[山口敏夫]]から「オリンピック利権に手を染めている、[[舛添要一|舛添]]より100倍、1000倍もの巨悪がいる。いまのオリンピックを支えている人たちに即退陣してもらう」、「森さんを辞めさせたい。その一心で出てるんです」と批判され、東京五輪組織委会長を辞任するように言われ、首相の[[安倍晋三]]に森は「珍念さん(山口のあだ名)をなんとかしてくれと直訴した」という話も出回り、それをぶつけると山口は「そうそう。安倍さんからは森さんも病気だから」と言われたという<ref>山口敏夫氏から辞任要求の森喜朗氏 安倍首相に泣きついた『週刊ポスト』2016年8月12日号</ref>。
 
* [[週刊ポスト]]が2016年に行った「嫌われるジジイ」では[[舛添要一]]に次いで2位、30代以上の男性のすべての階層でトップという不名誉な結果になり、嫌いな理由として「無能なのに、未だに大物面していられるのが理解できない。百害あって一利もない人物」と酷評された<ref>週刊ポスト 2016好きなジジイ、嫌いなジジイ2016年9月2日P52-55</ref>。
 
 
== 家族 親族 ==
 
* 祖父 - [[森喜平]](政治家・根上町長)
 
* 父 - [[森茂喜|茂喜]](元帝国陸軍中佐、政治家・根上町長)
 
* 弟 - [[外科医]]
 
* 長男 - [[森祐喜]](政治家・石川県議会議員 会派は自民党 2010年8月7日に酒気を帯びて車を運転、物損事故を起こし逮捕され議員辞職<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0807/OSK201008070103.html 森・元首相長男の石川県議、酒気帯び運転容疑で逮捕] アサヒコム</ref>、2011年7月25日死去<ref>{{Cite news
 
| url = http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072701000371.html
 
| title = 元石川県議、森祐喜氏が死去 森元首相の長男
 
| newspaper = [[47NEWS]]
 
| publisher = [[共同通信社]]
 
| date = 2011-07-27
 
| accessdate = 2011-07-28
 
}}</ref>)
 
* 長女 - 藤本陽子 - 2010年、『[[リベラルタイム]]』内の企画「総理の娘」にて[[岩見隆夫]]のインタビューを数回に渡り受け、舞台裏を語った。
 
* 長女の夫 - [[藤本真佐]]([[デジタルハリウッド]]代表取締役社長兼CEO)
 
* 姪の夫 - [[岡田直樹]](参議院議員)
 
* 孫が2人
 
 
== 系譜 ==
 
* ''森氏'' 森家は[[江戸時代]][[加賀藩]]で、代々村の[[肝煎]]を務めた。喜平、茂喜は[[根上町|根上]]の村長、町長を長く務めた。なお、喜平は森家に養子入りしている。
 
<pre>
 
喜平━━茂喜━━喜朗━━祐喜
 
</pre>
 
 
== 栄典 ==
 
* キューバ文化功労章([[キューバ共和国]])
 
** キューバで開催された国際音楽祭「クバデイスコ2005」に対し、日本からの広範な参加・協力が得られるように尽力した功績により。
 
* インド国勲章[[:en:Padma Bhushan|パドマ・ブーシャン]]([[Padma Bhushan Awards (2000–2009)|2004年]])<ref>[http://www.carview.co.jp/news/2/29735/ スズキの会長にインド政府から叙勲] 『Carview.co.jp』2007年1月29日<br />スズキ会長への叙勲記事だが、過去の事例として森が挙げられている。</ref>
 
* 特種大綬景星勲章([[中華民国|台湾]]、2006年)
 
** 日本における台湾人観光客への査証免除実現への協力及び台日関係の促進への貢献により。
 
* [[サンクトペテルブルク]]300周年記念メダル(ロシア連邦、2007年)<ref>[http://www.mofa.go.jp/Mofaj/kaidan/others/russia_07/kg.html 森喜朗元総理のロシア訪問] 日本国外務省 2007年12月21日</ref>
 
**プーチン大統領より。授与はマトヴィエンコ知事。
 
* [[レジオンドヌール勲章]]グラントフィシエ([[フランス共和国]]、2010年)
 
* 修交勲章光化大章([[大韓民国]])<ref>{{cite news
 
| url = http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010113000944
 
| title = 森元首相に勲章授与=韓国大統領
 
| newspaper = 時事ドットコム([[時事通信社]])
 
| date = 2010-11-30
 
| accessdate = 2010-11-30
 
}}</ref><ref name="sponichi201011302325">{{cite news
 
| url = http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20101130117.html
 
| title = 森元首相 韓国で外国人に対する最高位の勲章受ける
 
| newspaper = [[スポーツニッポン]]([[共同通信社]])
 
| date = 2010-11-30
 
| accessdate = 2010-12-03
 
}}</ref>
 
** 日韓関係発展のために努めたため。この勲章は韓国で外国人に叙勲される勲章の中で最高位のものである<ref name="sponichi201011302325"/>。
 
* 桐花大綬章(日本国、2017年)
 
 
== 称号 ==
 
*2003年 - [[モスクワ国際関係大学]]名誉博士号
 
*2007年 - [[京都外国語大学]]名誉博士号<ref>[http://www.mori-yoshiro.com/History/Domestics/20070518.html]</ref>
 
*2011年 - [[日本体育大学]]名誉博士号(日本体育協会会長・日本プロスポーツ協会会長など歴任・スポーツ法案などに尽力)
 
*2013年 - [[金沢大学]]名誉博士号<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131221-OYT1T00507.htm]</ref>
 
 
== 略歴 ==
 
* [[1937年]][[7月14日]]:[[石川県]][[能美郡]][[根上町]](現・[[能美市]])に生まれる。
 
* [[1950年]][[3月]]:根上町立浜小学校、現[[能美市立浜小学校]] 卒業(プロ野球選手の[[松井秀喜]]の先輩にあたる)。
 
* [[1953年]]3月:[[金沢市立高岡中学校]]卒業(越境入学であった)。
 
* [[1956年]]3月:[[石川県立金沢二水高等学校]][[卒業]]。高校時代はラグビ─部の主将として活躍。
 
* 1956年[[4月]]:[[早稲田大学]]第二商学部入学。ラグビー部に入部するが体を壊し退部。その後雄弁会に入会。
 
* [[1959年]]4月:[[自由民主党学生部]]に入党。
 
* [[1960年]]3月:早稲田大学第二商学部卒業。
 
* 1960年4月:[[産業経済新聞社|サンケイ新聞社]]入社。[[日本工業新聞]]記者となる。
 
* [[1963年]]4月:衆議院議員[[今松治郎]]の秘書になる。
 
* [[1969年]][[12月]]:[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[無所属]]で立候補。
 
* [[1975年]]12月:[[総理府#歴代総理府総務長官|総理府総務副長官]]就任。
 
* [[1977年]][[11月]]:[[内閣官房副長官]]就任。
 
* [[1978年]]12月:党政調文教部会長就任。
 
* [[1981年]]12月:衆議院大蔵委員長就任。
 
* [[1983年]]12月:[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]就任。
 
* [[1987年]]11月:自由民主党全国組織委員長。
 
* [[1991年]]1月:衆議院議院運営委員長就任。
 
* 1991年10月:自由民主党政務調査会長就任。
 
* [[1992年]]12月:[[経済産業大臣|通商産業大臣]]就任。
 
* [[1993年]]7月:[[自由民主党幹事長]]就任。
 
* [[1995年]]8月:[[建設大臣]]就任。
 
* [[1996年]]11月:自由民主党総務会長就任。
 
* [[1998年]]7月:自由民主党幹事長就任。
 
* 1998年12月:清和政策研究会会長就任。
 
* [[2000年]]4月:第85代[[内閣総理大臣]]就任。
 
* [[2001年]]1月:第6代清和政策研究会会長就任。
 
* [[2002年]]7月:第2代[[財団法人]][[日本プロスポーツ協会]]会長就任。
 
* [[2003年]]12月:第7代[[公益財団法人]][[日印協会]]会長就任。
 
* [[2004年]]10月:自由民主党新憲法起草委員会委員長。
 
* [[2006年]]10月19日:清和政策研究会会長退任。
 
* 2006年10月26日:清和政策研究会名誉会長就任。
 
* [[2010年]]12月11日:清和政策研究会退会(9月に退会届提出)、“会友”となる。
 
* [[2012年]]11月16日:衆議院解散、国会議員を“卒業”。
 
* [[2014年]]1月14日:[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]会長就任。
 
 
== 著述物 ==
 
* 森喜朗『文相初体験』 日本教育新聞社出版局 1985年6月
 
* 森喜朗『あなたに教えられ走り続けます』 北國新聞社 1999年3月
 
* 森喜朗、早坂茂三『森の清談』 森喜朗事務所 2003年
 
* 森喜朗『あひるのアレックス』 三浦貞子、森喜朗[他] フレーベル館 2005年2月
 
* (森の他、中曽根康弘、宮澤喜一、後藤田正晴、野中広務、塩川正十郎[他])『時事放談. 3』 講談社 2005年3月
 
* 森喜朗『森内閣総理大臣演説集』 内閣官房 2005年3月
 
* 森喜朗「基調講演 九州・沖縄サミット以後5年間の回顧と展望」 世界基金支援日本委員会編『三大感染症に対する東アジアの地域的対応』 世界基金支援日本委員会 2006年2月
 
* (共著)『決断!あの時私はこうした』自由民主党 中央公論事業出版 2006年9月
 
* 森喜朗[他] 五百旗頭真、伊藤元重、薬師寺克行編『森喜朗 : 自民党と政権交代』90年代の証言シリーズ 朝日新聞社 2007年10月
 
* 森喜朗「発刊に寄せて」 小里貞利『新世紀へ夢を運ぶ整備新幹線』文藝春秋企画出版部 2007年12月
 
* 森喜朗『ノーサイドの心 : 日本の未来をラグビーが救う』 小学館 2010年2月
 
* 森喜朗『私の履歴書 森喜朗回顧録』 日本経済新聞出版社 2013年6月
 
* 森喜朗、田原総一朗『日本政治のウラのウラ 証言・政界50年』 講談社 2013年12月
 
* 森喜朗『遺書 東京五輪への覚悟』 幻冬舎 2017年4月
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[広瀬隆]] 『私物国家 日本の黒幕の系図』 ([[光文社]]、2000年、367頁)
 
* [[平河卓]]『森喜朗・全人像』行研出版局 1989年3月
 
* {{Cite book|和書|author=五百旗頭真|authorlink=五百旗頭真 |coauthors=[[伊藤元重]]・[[薬師寺克行]] |title=90年代の証言 森喜朗 自民党と政権交代 |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2007-10-30 |isbn=ISBN 978-4-02-250338-1 |ref=harv}}
 
* [http://www.kantei.go.jp/jp/morisouri/index.html 森内閣総理大臣][[首相官邸]]ホームページ(トップ &gt; 歴代内閣・内閣制度 &gt; 歴代内閣ホームページ情報 &gt; 森内閣総理大臣)
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[s:ja:第151回国会における森内閣総理大臣施政方針演説|第151回国会における森内閣総理大臣施政方針演説]](Wikisorce)
 
* [[ユンソナ]]
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
+
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== 外部リンク ==
 
* [http://ch.nicovideo.jp/channel/ch119 森喜朗チャンネル] - [[ニコニコ動画]]の森の公式チャンネル
 
 
 
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{{s-bef|before=[[小渕恵三]]}}
 
{{s-ttl|title={{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]]|years=第85・86代:2000年 - 2001年}}
 
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{{s-ttl|title={{Flagicon|JPN}} [[経済産業大臣|通商産業大臣]]|years=第56代:1992年 - 1993年}}
 
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{{s-ttl|title={{Flagicon|JPN}} [[文部大臣 (日本)|文部大臣]]|years=第105代:1983年 - 1984年}}
 
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{{s-ttl|title={{Flagicon|JPN}} [[内閣官房副長官]](政務担当)|years=1977年 - 1978年}}
 
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{{s-bef|before=[[山下徳夫]]}}
 
{{s-ttl|title={{Flagicon|JPN}} [[議院運営委員会|衆議院議院運営委員長]]|years=第48代:1991年}}
 
{{s-aft|after=[[中西啓介]]}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{flagicon|JPN}} [[財務金融委員会|衆議院大蔵委員長]]
 
| years  = 1981年 - 1982年
 
| before = [[綿貫民輔]]
 
| after  = [[森美秀]]
 
}}
 
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{{s-bef|before=[[小渕恵三]]}}
 
{{s-ttl|title=[[自由民主党総裁]]|years=第19代:2000年 - 2001年}}
 
{{s-aft|after=[[小泉純一郎]]}}
 
{{s-bef|before=[[梶山静六]]<br/>[[加藤紘一]]}}
 
{{s-ttl|title=[[自由民主党幹事長]]|years=第30代:1993年 - 1995年<br/>第33代:1998年 - 2000年}}
 
{{s-aft|after=[[三塚博]]<br/>[[野中広務]]}}
 
{{s-bef|before=[[塩川正十郎]]}}
 
{{s-ttl|title=[[自由民主党総務会|自由民主党総務会長]]|years=第38代:1996年 ‐ 1998年}}
 
{{s-aft|after=[[深谷隆司]]}}
 
{{s-bef|before=[[加藤六月]]}}
 
{{s-ttl|title=[[自由民主党政務調査会|自由民主党政務調査会長]]|years=第37代:1991年 ‐ 1992年}}
 
{{s-aft|after=[[三塚博]]}}
 
{{s-bef|before=[[三塚博]]<br/>[[小泉純一郎]]}}
 
{{s-ttl|title=[[清和政策研究会|清和政策研究会会長]]|years=第4代:1998年 - 2000年<br/>第6代:2001年 - 2006年}}
 
{{s-aft|after=[[小泉純一郎]]<br/>[[町村信孝]]}}
 
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{{succession box
 
| title = [[主要国首脳会議|主要国首脳会議議長]]
 
| before = [[ゲアハルト・シュレーダー]]
 
| beforenote = ドイツ
 
| years = 2000年
 
| after = [[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]
 
| afternote = イタリア
 
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{{s-bef|before=設立}}
 
{{s-ttl|title=[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長]]|years=初代:2014年 - }}
 
{{s-aft|after=現職}}
 
{{s-bef|before=[[柳川覚治]]}}
 
{{s-ttl|title=[[日本トップリーグ連携機構|日本トップリーグ連携機構会長]]|years=初代:2005年 - 2015年}}
 
{{s-aft|after=[[川淵三郎]]}}
 
{{s-bef|before=[[安西孝之]]}}
 
{{s-ttl|title=[[日本体育協会|日本体育協会会長]]|years=初代:2005年 - 2011年}}
 
{{s-aft|after=[[張富士夫]]}}
 
{{s-bef|before=[[町井徹郎]]}}
 
{{s-ttl|title=[[日本ラグビーフットボール協会|日本ラグビーフットボール協会会長]]|years=第12代:2005年 - 2015年}}
 
{{s-aft|after=[[岡村正]]}}
 
{{s-bef|before=[[柳川覚治]]}}
 
{{s-ttl|title=[[日本プロスポーツ協会|日本プロスポーツ協会会長]]|years=第3代:2002年 - 2009年}}
 
{{s-aft|after=[[島村宜伸]]}}
 
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{{日本国歴代内閣総理大臣
 
|当代=[[第1次森内閣|85]]・[[第2次森内閣|86]]
 
|在任期間=2000年 - 2001年
 
|前代=[[小渕内閣|84]]
 
|前首相名=小渕恵三
 
|次代=[[第1次小泉内閣|87]]・[[第2次小泉内閣|88]]・[[第3次小泉内閣|89]]
 
|次首相名=小泉純一郎}}
 
{{文部科学大臣||[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]}}
 
{{経済産業大臣||通商産業大臣}}
 
{{国土交通大臣||[[建設大臣]]}}
 
{{内閣官房副長官}}
 
{{衆議院大蔵委員長}}
 
{{衆議院議院運営委員長}}
 
{{自由民主党政調会長}}
 
{{自由民主党総務会長}}
 
{{自由民主党幹事長}}
 
{{自由民主党総裁}}
 
{{自由民主党 (日本)}}
 
{{清和政策研究会会長}}
 
{{日本ラグビーフットボール協会会長}}
 
{{日印協会}}
 
{{産業経済新聞社}}
 
{{日本のラグビーユニオン}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{デフォルトソート:もり よしろう}}
 
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[[Category:石川県出身の人物]]
 
[[Category:石川県出身の人物]]
 
[[Category:1937年生]]
 
[[Category:1937年生]]
[[Category:存命人物]]
 

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