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'''株仲間'''(かぶなかま)とは、[[問屋]]などが一種の[[座]]を作り、[[カルテル]]を形成することである。[[株式]]を所有することで、構成員として認められた。
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'''株仲間'''(かぶなかま)
 
 
==概要==
 
当初は同業の問屋による私的な集団であり、[[江戸幕府]]は当初は[[楽市楽座]]路線を継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れて、[[慶安]]元年([[1648年]])から[[寛文]]10年([[1670年]])にかけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象としていた<ref>[[落合功]]「享保期における都市の変容と問屋仲間―大坂塩問屋仲間を中心として―」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の社会と流通』(1993年、雄山閣) ISBN 9784639011996)</ref>が、[[享保の改革]]において商業の統制を図るために組織化された方が望ましいとする方針の下に公認が与えられ、[[冥加金]](上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められた。[[田沼意次]]時代にはさらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と[[商人]]統制が企図された。自主的に結成された株仲間を「願株」、幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。株仲間の公認は、願株の公認を指す。
 
 
 
[[天保の改革]]を進めた[[水野忠邦]]は株仲間による[[流通]]の独占が[[インフレーション|物価高騰]]の原因であるとして、[[天保]]12年([[1841年]])から13年([[1842年]])に掛け、冥加金の上納を停止させ、株仲間の大半の解散を命じた。しかし、当時の経済の実態は農村工業の発達と新興商人が都市でも地方でも台頭したことによって、株仲間の独占はむしろ形骸化しつつあった。また、株仲間には代金不払いなどの不正を行った仲買の情報を共有し、仲間内の商取引を一切停止するといった懲罰を加えることにより、幕府などの公権力の代わりに[[債権]]と契約履行を保証する役割があった<ref>[[岡崎哲二]]「江戸の市場経済 歴史制度分析からみた株仲間」(1999年、[[講談社#シリーズ|講談社選書メチエ]]) ISBN 9784062581554)</ref>。ところが、水野をはじめとした幕府首脳は幕府権力の保護を受けた株仲間の弱体化や、商取引の制度的基礎になっていたという現実を理解出来なかったために、株仲間を解散させれば、全国的な流通網を動かせると考えたのである。結果、かえって流通の混乱を招き、景気の悪化を招いた。この政策に反対した[[町奉行]][[矢部定謙]]は[[改易]]に追い込まれ、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]で憤死している。
 
 
 
水野失脚後の[[弘化]]3年([[1846年]])に[[筒井政憲]]が株仲間の再興を[[阿部正弘]]に提案、[[嘉永]]4年([[1851年]])、提案を受けた阿部に命ぜられた[[遠山景元]]によって冥加金不要の問屋仲間として再興。[[安政]]4年([[1857年]])に再び株仲間となった。再興後は株数を増やされ、新興商人を取り込もうとした。
 
 
 
[[明治維新]]後の[[明治]]5年([[1872年]])、再び株仲間は解散を命じられ、以降復活することはなかった。株仲間構成員の多くは、[[組合#法人格を有さない組合|商業組合]]に改組されていった。なお、[[日本相撲協会]]の[[年寄名跡]]は「年寄株」とも呼ばれるが、その原型は[[江戸時代]]に形成された株仲間であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B4%E5%AF%84%E6%A0%AA-176934 コトバンク「年寄株」] スポーツ用語がわかる辞典(講談社)、2014年12月4日閲覧。</ref>、[[平成]]の世に至り[[年寄株問題|数々の問題]]を抱えつつもなお[[年寄]]制度は存続している。
 
 
 
==脚注==
 
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江戸時代,幕府,諸藩の許可を得た独占的な商工業者の同業組合。江戸時代初期以来,各業者は営業上の種々の権利 ([[株]] ) を保持するため,内仲間,組合などを結成していたが,幕府,諸藩は外国貿易品統制,警察的取締り,公安保持,良品の製作販売,価格統制などの目的から,この既存の仲間を公認し,保護する政策をとった。こうして御免株と呼ばれる株仲間が成立した。江戸時代中期以降になると,農村の商品生産の増加と流通機構の拡大により,既存の商人らは既得権を守るためにさらに公権力を頼り,特権化しようとした。これが認められると,未公認の内仲間が株仲間の結成を願い出て,幕府,諸藩も商工業統制の必要上,[[冥加金]]の上納などを条件にこれを認めるようになった。これを願株という。株仲間には行事 (または行司) ,年寄,年番,取締などと称する役員がおり,彼らが会所で寄合を行い,事の決定,統制を行なった。職人,奉公人についても互いに協約し,相互の利益をはかるとともに強い統制を加えた。また彼らは新規加入を制限し,仲間以外の営業を禁止して仲間外業者との競争を排除し,かつ市価を安定させ,供給量の加減を行なった。その目的は信用を第1として,取引相手を尊重し,不良品を取締り,不正商行為を排除するなど,初期にはある程度の効果をあげえたが,やがてその独占機能が価格吊上げなど権益擁護の方向へ走り,物価騰貴の弊害をもたらす結果となった。[[享保の改革]] (18世紀前半) では商工業の統制上株仲間を設定し,さらに田沼時代 (18世紀後半) には,冥加金が幕府,諸藩の重要な財源となっていたため,多くの株仲間が公認された。しかし江戸時代後期には,物価騰貴など弊害が目立ってきたため,老中水野忠邦は天保 12 (1841) 年その解散を命じた ([[天保の改革]] ) が,結果はかえって経済混乱を招いた。そこで嘉永4 (51) 年老中阿部正弘は問屋組合再興令を出し,従来の冥加金を廃止する一方,独占売買,価格の吊上げ,掛目減などの不法行為を禁止し,新規加入希望者への制限撤廃などを条件に株仲間を復興させた。しかし開港以後,外国貿易の開始による新たな市場が開拓されると,従来の特権と市場は大きく侵害され,明治に入ると株仲間は有名無実の存在となり,明治5 (72) ~1873年相次いで解散していった。代表的な株仲間には,初期生糸貿易の糸割符仲間,中期以後の江戸十組問屋,大坂の二十四組問屋などがある。
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株仲間(かぶなかま)

江戸時代,幕府,諸藩の許可を得た独占的な商工業者の同業組合。江戸時代初期以来,各業者は営業上の種々の権利 ( ) を保持するため,内仲間,組合などを結成していたが,幕府,諸藩は外国貿易品統制,警察的取締り,公安保持,良品の製作販売,価格統制などの目的から,この既存の仲間を公認し,保護する政策をとった。こうして御免株と呼ばれる株仲間が成立した。江戸時代中期以降になると,農村の商品生産の増加と流通機構の拡大により,既存の商人らは既得権を守るためにさらに公権力を頼り,特権化しようとした。これが認められると,未公認の内仲間が株仲間の結成を願い出て,幕府,諸藩も商工業統制の必要上,冥加金の上納などを条件にこれを認めるようになった。これを願株という。株仲間には行事 (または行司) ,年寄,年番,取締などと称する役員がおり,彼らが会所で寄合を行い,事の決定,統制を行なった。職人,奉公人についても互いに協約し,相互の利益をはかるとともに強い統制を加えた。また彼らは新規加入を制限し,仲間以外の営業を禁止して仲間外業者との競争を排除し,かつ市価を安定させ,供給量の加減を行なった。その目的は信用を第1として,取引相手を尊重し,不良品を取締り,不正商行為を排除するなど,初期にはある程度の効果をあげえたが,やがてその独占機能が価格吊上げなど権益擁護の方向へ走り,物価騰貴の弊害をもたらす結果となった。享保の改革 (18世紀前半) では商工業の統制上株仲間を設定し,さらに田沼時代 (18世紀後半) には,冥加金が幕府,諸藩の重要な財源となっていたため,多くの株仲間が公認された。しかし江戸時代後期には,物価騰貴など弊害が目立ってきたため,老中水野忠邦は天保 12 (1841) 年その解散を命じた (天保の改革 ) が,結果はかえって経済混乱を招いた。そこで嘉永4 (51) 年老中阿部正弘は問屋組合再興令を出し,従来の冥加金を廃止する一方,独占売買,価格の吊上げ,掛目減などの不法行為を禁止し,新規加入希望者への制限撤廃などを条件に株仲間を復興させた。しかし開港以後,外国貿易の開始による新たな市場が開拓されると,従来の特権と市場は大きく侵害され,明治に入ると株仲間は有名無実の存在となり,明治5 (72) ~1873年相次いで解散していった。代表的な株仲間には,初期生糸貿易の糸割符仲間,中期以後の江戸十組問屋,大坂の二十四組問屋などがある。