「日清戦争」の版間の差分

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ja>雪融
(陸海軍共同の山東作戦(北洋艦隊の降伏))
 
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|campaign = 日清戦争
 
|campaign = 日清戦争
 
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|image = [[File:Sino Japanese war 1894.jpg|300px]]
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|caption = 日本軍歩兵の一斉射撃
 
 
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|date = 1894年7月25日 – 1895年11月30日{{Refnest|group="*"|参謀本部編「明治廿七八年戦史」は、戦争期間を宣戦布告(1894年8月1日)から日清講和条約調印(1895年4月17日)までとせず、豊島沖海戦(1894年7月25日)から台湾平定(1895年11月30日)までとした。原田 (2007)。また、日本軍の朝鮮王宮占領(1894年7月23日)を開戦日とする見解もある。前掲書。<ref>中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、1997年。ISBN 4874981992</ref>。当時、宣戦布告前の戦闘行為は[[最後通牒]]の提出後であり、事実関係が明らかでなかった。そのため7月25日、[[高陞号事件]](日本の軍艦が清軍を乗せたイギリス商船を撃沈した事件)がイギリス世論を一時的に沸騰させたくらいで、国際社会から問題視されなかった。なお、戦後の[[1899年]]([[明治]]32年、[[光緒]]25年)、日清両国も参加した[[万国平和会議]]で[[ハーグ陸戦条約]]が採択された。}}
 
|date = 1894年7月25日 – 1895年11月30日{{Refnest|group="*"|参謀本部編「明治廿七八年戦史」は、戦争期間を宣戦布告(1894年8月1日)から日清講和条約調印(1895年4月17日)までとせず、豊島沖海戦(1894年7月25日)から台湾平定(1895年11月30日)までとした。原田 (2007)。また、日本軍の朝鮮王宮占領(1894年7月23日)を開戦日とする見解もある。前掲書。<ref>中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、1997年。ISBN 4874981992</ref>。当時、宣戦布告前の戦闘行為は[[最後通牒]]の提出後であり、事実関係が明らかでなかった。そのため7月25日、[[高陞号事件]](日本の軍艦が清軍を乗せたイギリス商船を撃沈した事件)がイギリス世論を一時的に沸騰させたくらいで、国際社会から問題視されなかった。なお、戦後の[[1899年]]([[明治]]32年、[[光緒]]25年)、日清両国も参加した[[万国平和会議]]で[[ハーグ陸戦条約]]が採択された。}}
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|casualties2 = 死傷 35,000
 
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'''日清戦争'''(にっしんせんそう)は、[[1894年]](明治27年)[[7月25日]]([[光緒]]20年[[6月 (旧暦)|6月]])から[[1895年]](明治28年)[[3月]]([[光緒]]21年[[2月 (旧暦)|2月]])にかけて行われた主に[[朝鮮半島]]([[李氏朝鮮]])をめぐる[[大日本帝国|日本]]と[[清|大清国]]の戦争である。前者が[[イギリス帝国]]に接近し、[[治外法権]]を撤廃させる実質的な外交材料となった。[[日清講和条約]]を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い[[#戦費|国内軍事公債]]も戦後に借り替えた<ref>1897年5月28日、[[横浜正金銀行]]と[[ロイヤル・ダッチ・シェル|シェル]]系のサミュエル商会([[:en:Samuel Samuel & Co|Samuel Samuel & Co]])を窓口として、横浜正金銀行、[[香港上海銀行]]、[[スタンダードチャータード銀行|チャータード銀行]]、そして[[ロイズ銀行]]系のキャピタルカウンティーズ銀行([[:en:Capital and Counties Bank|Capital and Counties Bank]])のシンジケートに、55年間4300万円5%利付き[[外債]]を引受けさせた。野村順之助 『日本金融資本発達史』 共生閣 1931年 pp.215-7.</ref>。条約により[[台湾]]を譲り受けた日本は、[[台湾総督府]]や[[台湾製糖]]を設置し、民間からは[[大日本製糖]]などの[[製糖|製糖会社]]が[[台湾]]に進出した。また[[日清汽船]]([[大阪商船]])などの水運会社が[[上海]]に進出した。
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'''日清戦争'''(にっしんせんそう)
  
{{small|以下「和暦を含む[[西暦]]([[中国暦]])」という形式で年月日を表記する。特に断りがなければ[[グレゴリオ暦]]である。}}
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日本と清国が 1894~1895年に戦った戦争。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因となった。
  
== 概要 ==
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[[1894年]]5月に朝鮮で[[甲午農民戦争]]が起ると,6月朝鮮政府は鎮圧のために清国と,次いで日本に援兵を依頼した。6月 12日に日本軍は仁川に上陸。7月 23日にソウルの王宮を占領,親日派の大院君政権をつくった。 25日には日本の連合艦隊は,豊島西南沖で清国軍艦および輸送船団と遭遇,相互に砲火を浴びせ,戦争が始った。
1894年(明治27年、光緒20年)、朝鮮国内の[[甲午農民戦争]]をきっかけに[[6月]](5月)朝鮮に出兵した日清両国が[[8月1日]]([[7月1日 (旧暦)|7月1日]])宣戦布告に至った。日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣[[陸奥宗光]]は、「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『[[蹇蹇録]]』岩波文庫p277)。
 
  
[[三谷博]]・[[並木頼寿]]・[[月脚達彦]]編集の『大人のための近現代史』([[東京大学出版会]]、[[2009年]])の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる<ref>[[小島毅]]『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』[[亜紀書房]]、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p78-p79</ref>。
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29日に朝鮮の成歓,30日には牙山を占領。9月 15日,日本軍は平壌周辺で清国軍との会戦に勝ち,17日には連合艦隊と北洋艦隊が[[黄海海戦]]を戦い,日本側が勝って制海権を獲得した。 10月 24~25日に日本軍は鴨緑江を渡って満州に入り,11月 19日には旅順を占領。
  
近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍<ref group="*">「[[近代陸軍の編制|編成]]・装備・[[軍隊#練兵能力|訓練]]が統一されておらず、[[動員]]・[[兵站]]・[[指揮 (軍事)|指揮]]のシステムも[[清#兵制|近代軍として体をなしていなかった]]」。戸部 (1998)、144頁。</ref>に対し、終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および[[遼東半島]]などを占領した<ref group="*">ただし、陸軍の実質的トップで[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]司令官[[山縣有朋]]陸軍大将が「[[平壌市|平壌]]陥落は実に意外の結果……〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外」(原田 (2007)、81頁。{{small|注:漢字の一部を平仮名に書き換えた。}})と書き記したように、海軍力で日本を上回ると考えられていた大国[[日清戦争#影響|清との開戦は、国内に困惑と緊張]]をもたらした。</ref>。また戦争指導のため、[[明治天皇]]と[[広島大本営|大本営]]が広島に移り、[[第7回帝国議会|臨時第七議会]]もそこで召集された。
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1895年2月2日には威海衛軍港陸岸を占領,12日に北洋艦隊が降伏した。3月に入ると日本軍はさらに牛荘,営口などを占領,3月 26日には澎湖列島を占領した。4月 17日に下関で日清講和条約 ([[下関条約]] ) が結ばれ,日本は,中国から朝鮮の独立の承認,遼東半島,台湾,澎湖列島の割譲,賠償金2億両支払い,欧米並みの通商条約の締結,威海衛保障占領などを取付けた。
  
翌年[[4月17日]](翌年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]])、下関で[[下関条約|日清講和条約]]が調印され、戦勝した日本は朝鮮の独立を清に認めさせた。また、清から領土(遼東半島・[[台湾]]・[[澎湖諸島|澎湖列島]])と多額の賠償金などを得ることになった。しかし23日(29日)、[[ロシア帝国|ロシア]]・[[フランス]]・[[ドイツ帝国|ドイツ]]が日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた([[三国干渉]])。なお、5月末(5月始め)から日本軍が割譲された台湾に上陸し、[[11月18日]]([[10月2日 (旧暦)|10月2日]])付けで大本営に全島平定が報告された(台湾鎮定)。台湾が[[軍政]]から再び民政に移行した翌年の[[1896年]](明治29年)[[4月1日]](光緒22年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]])、ようやく大本営が解散された。
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しかし条約調印後6日目の[[1895年]]4月 23日,ロシア,ドイツ,フランスから[[三国干渉]]を受け,5月4日に日本政府は遼東半島放棄を決定,還付の代償として清国より庫平銀 3000万両を得た。
 
 
[[帝国主義]]時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争を初めて経験することで[[日清戦争#影響|「国民国家」に脱皮]]し、この戦争を転機に経済が飛躍した<ref group="*">{{Quotation|日本の近代工業国としての本格的発足は、実に日清戦争を画期とする。|高橋 (1973) 、219頁。}}</ref>。また戦後、[[藩閥政府]]と[[民党]]側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など[[日清戦争#財政・公共投資の膨張と経済発展|以後の政策制度の原型]]が作られることとなる<ref>高橋 (1973)、219頁。中村隆英「マクロ経済と戦後経営」『産業の時代 {{small|下}}』日本経済史5、西川俊作・山本有造〔編〕、岩波書店、1990年、26頁。</ref>。さらに、[[日清戦争#賠償金の使途|清の賠償金などを元に拡張した軍備]]で、[[日露戦争]]を迎えることとなる。
 
 
 
対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の[[借款]]([[関税]]収入を担保にする等)を受け、また[[租借地#清国における租借地|要衝のいくつかを租借地]]にされて失った。その後、[[義和団の乱]]で半植民地化が進み、滅亡([[辛亥革命]])に向かうこととなる。清の「[[冊封]]」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で[[甲午改革]]が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や[[露館播遷|親露派のクーデター]]等によって改革が失速した。[[1897年]](明治30年、光緒23年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、[[満洲]]にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、[[大韓帝国]]が成立することになる。
 
 
 
== 戦争目的と動機 ==
 
[[画像:Stielers Handatlas 1891 63.jpg|thumb|350px|[[1891年]]の極東地図]]
 
<!-- 上記の「概要」と重複するため、割愛
 
日清戦争は、[[明治維新]]後近代国家形成を目指す日本と、[[1860年]]代から[[洋務運動]]による近代化を進める清朝(中国)との間で、朝鮮半島などをめぐって行われた戦争である。-->
 
{|
 
|-
 
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[[File:Flag of Japan.svg|border|20x18px]] '''[[大日本帝国|日本]]'''
 
 
 
『[[s:清国ニ対スル宣戦ノ詔勅|清国ニ対スル宣戦ノ詔勅]]』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。
 
 
 
'''宣戦の詔勅(部分):'''「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ…」
 
 
 
しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある{{Refnest|group="*"|アンドルー・ゴードン『日本の200年』上、みすず書房、2006年、248頁。ISBN 4-622-07246-7。「このように、日清戦争は、朝鮮にたいする支配権をめぐる日中間の戦いだった。……下関で調印された[[日清講和条約]]で日本は、自国の「利益線」を朝鮮半島よりもさらに遠くへ拡張したいという強い願望を明確に打ち出した。」<ref>[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]『日本近代史 1』岩波書店、2007年、199、203頁。ISBN 978-4-00-021887-0</ref><ref>[[隅谷三喜男]]『大日本帝国の試練』日本の歴史<22>中公文庫、中央公論新社、2006年、29-30、35-36頁。ISBN 4-12-200131-5。</ref><br />これらは遼東半島領有が陸軍の、台湾領有が海軍の戦争中からの主張であったことを指摘している。開戦準備ならびに講和条約の項と脚注も参照。原田 (2007)、96頁<ref>[[中塚明]]『歴史の偽造をただす』高文研、1997年、165-168頁。ISBN 4874981992</ref><ref>中塚明『日清戦争の研究』青木書店、1968年。ISBN 4-250-68000-2</ref>。}}。
 
戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」<ref>佐々木 (2010)、144頁。なお、その佐々木は、朝鮮問題(朝鮮半島の安定化)は、[[条約改正]]問題とともに「明治期の二大外交課題」とした。13-15頁。</ref>あるいは「事実上の保護国化」<ref group="*">開戦直後、1894年[[8月17日]]の閣議で、外務大臣[[陸奥宗光]]が提出した4案のうち、乙案「朝鮮を名義上独立国と公認するも、帝国より間接に直接に永遠もしくはある長時間その独立を保翼扶持し他の侮りを防ぐの労を取る事」が採択された。乙案の採択は、かつて日本が呼びかけていた多国間の承認による[[日清戦争#日本政府内の朝鮮政策をめぐる路線対立|朝鮮中立化案と、日清での朝鮮共同保護案]]の放棄を意味した。以上、岡本 (2008)、159-160頁。</ref>と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の[[南下政策]]等があった<ref group="*">中国を巡る英露対立「イギリスとロシアが睨み合うのはアフガニスタン国境だけではない。太平洋もまた、イギリスにとって重要で、日本の願いを肝要に扱って大きな義理を負わせ、イギリスと協調させるようにすれば、イギリスの中国への進出に直接的にも間接的にも大きく貢献してくれることになる」(「[[タイムズ]]」より。「イギリス・ロシアからみた日清戦争」、比較史・比較歴史教育研究会編『黒船と日清戦争』未來社、1996年。「日清戦争をめぐる国際関係」『近代中国研究彙報』18号、1996年。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所『19世紀末におけるロシアと中国』アジア史資料叢刊第1輯、巌南堂書店、1993年。</ref>(日本の安全保障上、[[対馬]]などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった<ref group="*">[[1888年]](明治21年)、[[元勲]]の一人で陸軍の実質的トップ[[山縣有朋]]が内閣総理大臣[[伊藤博文]]に対し、「我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り」と上申していた(「軍事意見書」)。当時の状況は、当記事「日清戦争」の[[日清戦争#日本の軍備拡張|「朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢#日本の軍備拡張」]]が詳しい。</ref>)。
 
[[画像:Flag of the Qing Dynasty (1889-1912).svg|border|20x18px]] '''[[清|清国]]'''
 
'''宣戦の詔勅(部分):'''「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ…」
 
 
 
西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の[[宗主国|宗主]]・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)<ref>岡本 (2008)、12頁。</ref>を近代的な宗主国と[[植民地]]の関係に改め、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした<ref>[[茂木敏夫]]『変容する近代東味の国際秩序』山川出版社、1997年。岡本 (2008)。</ref>。
 
|}
 
 
 
== 前史1:日本の開国と近代国家志向 ==
 
日清戦争について1)[[江華島事件]](外交面)を、2)1890年代の日本初の[[恐慌]](経済面)を、3)[[帝国議会]]初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場がある<ref>中塚明「日本近代史研究と朝鮮半島問題」『歴史学研究』No.867、2010年、7頁。</ref>。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。
 
 
 
=== 西力東漸と「日清朝」の外交政策等 ===
 
19世紀半ばから[[東アジア]]は、西洋[[列強]]の脅威にさらされた。その脅威は17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった<ref>以上、岡本 (2008)、56頁。</ref>。
 
{{Main|阿片戦争|アロー戦争}}
 
大国の清では、[[広州]]一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の[[戦争賠償|賠償金]]を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また[[不平等条約]]を締結した。このため、1860年代から漢人官僚[[曽国藩]]、[[李鴻章]]等による近代化の試みとして[[洋務運動]]が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた([[中体西用]])。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係([[冊封体制]])をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ<ref>岡本 (2008)、58-60頁。</ref>。
 
{{Main|黒船来航|明治維新}}
 
日本では、アメリカ艦隊の来航([[幕末の砲艦外交#マシュー・ペリーの来航と日米和親条約|幕末の砲艦外交]])を契機に、[[江戸幕府]]が[[鎖国]]から[[開国]]に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、[[幕藩体制]]に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で[[中央集権]]や[[文明開化]]や[[富国強兵]]などを推進するとともに、外交で[[条約改正]]、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築([[国際法]]に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。'''結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。'''
 
{{Main|李氏朝鮮#攘夷と開国}}
 
朝鮮では、[[摂政]]の[[興宣大院君|大院君]]も進めた[[衛正斥邪]]運動が高まる中、[[1866年]]([[同治]]5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された([[丙寅教獄]])。報復として[[江華島]]に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた([[丙寅洋擾]])。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こった([[ジェネラル・シャーマン号事件]])。翌[[1867年]](同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は去った([[辛未洋擾]])。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けた<ref>岡本 (2008)、60-63頁。</ref>。
 
 
 
===「日朝」国交交渉の難航とその影響 ===
 
[[1868年]]([[明治]]元年、[[同治]]7年)末、日本の新政府は、朝鮮に[[王政復古]]を伝える[[書契]]を渡そうとした。しかし朝鮮は、従来の形式と異なり、文中に[[宗主国]]清の[[皇帝]]だけが使えるはずの「皇」と「勅」の文字があったため、書契の受け取りを拒否した。数年間、日朝の国交交渉が進展せず、この余波がさまざまな形で現れた。
 
{{Main|日清修好条規|征韓論|明治六年政変}}
 
[[1871年]](明治4年)[[9月13日]](同治10年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]])、対日融和外交を主張<ref group="*">清の政府内では、かつて[[倭寇]]として認識されていた日本が清に先駈けて近代化を果たせば軍事的脅威になる、との認識が醸成されていた。この中で李鴻章は、近代化に努める日清両国が提携して欧米列強に対抗することも念頭に置き、日本との条約締結を強く主張した。ただし、[[1874年]](明治7年、同治13年)の日本による[[台湾出兵]]後、日本を仮想敵国とした海軍建設を主張した。戸高 (2011)、71-75頁。</ref>した[[李鴻章]]の尽力により、[[日清修好条規]]および通商章程が締結された<ref>岡本 (2011)。</ref>。この外交成果を利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉に臨んだ。しかし、それでも国交交渉に進展が見られない[[1873年]](明治6年、同治12年)、国内では、対外戦争を招きかねない[[西郷隆盛]]の朝鮮遣使が大きな政治問題になった。結局のところ10月、[[明治天皇]]の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派の西郷と[[板垣退助]]と[[江藤新平]]など5人の[[参議#明治政府|参議]]および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となった(明治六年政変)。翌年2月、最初の大規模な[[士族反乱]]である[[佐賀の乱]]が起こった。
 
{{Main|江華島事件|日朝修好条規}}
 
日本が政変で揺れていた1873年(明治6年)[[11月]](同治12年[[9月 (旧暦)|9月]])、朝鮮では、[[閔妃]]一派による宮中[[クーデター]]が成功し、鎖国[[攘夷]]に固執していた摂政の大院君(国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]の実父)が失脚した。この機に乗じて日本は、[[1875年]](明治8年)[[2月]](同治14年[[1月 (旧暦)|1月]])に[[森山茂]]を朝鮮に派遣したものの、今度は服装(森山:西洋式大[[礼服]]を着用、朝鮮:江戸時代の和装を求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換の前に交渉が再び中断した<ref group="*">朝鮮政府の一部には、国際社会では独立国の王が「皇帝」の称号を使っており、日本の書契に「皇」「勅」の文字があることを理由に外交交渉を拒否すべきでない、との意見もあった。呉 (2000)、49頁。</ref>。
 
 
 
ついに日本は、軍艦2隻に朝鮮沿岸を測量させ、軍事的圧力で局面の打開を謀った。同年[[9月20日]]([[光緒]]元年8月21日)、軍艦「[[雲揚 (砲艦)|雲揚]]」が首都[[漢城府|漢城]]防衛の最重要拠点[[江華島]]に接近し、朝鮮側の発砲を理由に戦闘が始まった{{Refnest|group="*"|「大日本外交文書」所収の明治八年十月八日付けの「雲揚」艦長井上良馨の報告書では、侵入目的を「探水」とし、九月二十日それを求めて溯上したボートへの朝鮮側の発砲があったため、「雲揚」が応戦し、同日に砲台の破壊と占領に及んだとした。しかし、新たに発見された防衛庁防衛研究所保存の同艦長の九月二十九日付け報告書の写しの存在により、前者の報告書は、当時外交上問題になる箇所を書き換えたものであり、実際は測量その他を目的に侵入して戦闘が三日間に渡り、「雲揚」への朝鮮側の発砲も応戦によるものだったことが明らかにされている<ref>鈴木淳『維新の構想と展開』日本の歴史20、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年(原本2002年、129頁)</ref>。}}。12月(11月)、日本は、特命全権大使に[[黒田清隆]]を任命し、軍艦3隻などを伴って朝鮮に派遣した結果([[砲艦外交]])、翌[[1876年]](明治9年)2月(光緒2年2月)に[[日朝修好条規]]が調印された<ref group="*">半年後の8月(7月)、同条規の付録と貿易規則が定められ、規則第六則で米穀の輸出入が認められた。これによって朝鮮では、日本への米穀輸出が増加するとともに、米価高騰など食糧事情が悪化した。また、付録付属の往復書簡では、相互に無関税として[[関税自主権]]を否定したため(経済力で優位に立つ日本にとって有利)、日本の経済進出が容易になった。</ref>。
 
 
 
===「日清」間の国境問題 ===
 
{{Main|台湾出兵|琉球処分}}
 
{{See also|宮古島島民遭難事件}}
 
日清両国は、1871年(明治4年、同治10年)に日清修好条規を調印したものの、[[琉球王国]]の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった(1895年、[[日清講和条約|日清戦争の講和条約]]で国境画定)<ref>以下、明記されていない出典は、岡本 (2011)、197-200頁と戸高 (2011)、58-59頁。</ref>。しかし、後記の朝鮮での勢力争いと異なり、[[1871年]]の[[宮古島島民遭難事件]]を契機とした[[1874年]](明治7年、同治13年)の台湾出兵でも、[[1879年]](明治12年、光緒4年)の第2次琉球処分でも、海軍力で日本に劣ると認識していた清が隠忍自重して譲歩したことにより、両国間で武力衝突が起こらなかった。ただし、台湾出兵(清は日本が日清修好条規に違反したと解釈)と琉球処分(清からみて属国の消滅)は、清に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に[[北洋艦隊|北洋水師]](艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた。そして、その動きが[[日清戦争#日本の軍備拡張|日本の軍備拡張]]を促進させることになる。
 
 
 
== 前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢 ==
 
=== 朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変 ===
 
朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「[[開化派]]」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、[[開国]]が規定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、[[1882年]][[5月22日]](光緒8年[[4月6日 (旧暦)|4月6日]])、[[米朝修好通商条約]]調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記の通り[[壬午事変]]後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派([[事大党]])と、これを不当とする急進的開化派([[独立党]])との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した<ref>以上、岡本 (2008)、72-73、96-100頁。</ref>。
 
{{Main|壬午事変}}
 
1882年(明治15年)[[7月]](光緒8年[[6月 (旧暦)|6月]])、首都[[漢城府|漢城]]で、処遇に不満を抱く軍人たちによる暴動が起こった。暴動は、民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な[[興宣大院君|大院君]]らの思惑も重なり、日本人の[[軍事顧問]]等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態に発展した。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の[[花房義質]]に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった<ref>岡本 (2008)、84-85頁。</ref>。[[8月30日]]([[7月17日 (旧暦)|7月17日]])、日朝間で[[済物浦条約]]が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。
 
 
 
日本は、[[日清戦争#日本の軍備拡張|12月に「軍拡八カ年計画」を決定]]するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「[[中国朝鮮商民水陸貿易章程]]」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の[[北洋通商大臣]]とが同格、外国人の中で清国人だけが[[領事裁判権]]と貿易特権を得る等とされた<ref>佐々木 (2010)、125頁。</ref>。その後、朝鮮に清国人の[[居留地]]が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした<ref>川島 (2010)、3頁</ref>。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の[[淮軍|淮]][[湘軍|湘]]各軍に比し、はるかに劣れり」{{small|(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}等の認識を持つ[[翰林院]]の[[張佩綸]]が「東征論」(日本討伐論)を上奏した<ref>渡辺 (2008)、44-45頁。</ref>。
 
{{Main|甲申政変}}
 
[[1884年]](明治17年、光緒10年)、[[ベトナム]]を巡って清とフランスの間に緊張が高まったため([[清仏戦争]]勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた[[金玉均]]など急進開化派は、日本公使[[竹添進一郎]]の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒する[[クーデター]]を計画した。[[12月4日]]([[10月17日 (旧暦)|10月17日]])にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日(19日)、[[袁世凱]]率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。
 
 
 
政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した<ref>井上 (2010)、70頁。</ref>。なお、日本国内では、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]が締結される1か月前の[[1885年]](明治18年)[[3月16日]]『[[時事新報]]』に[[脱亜論]](無署名の社説)が掲載された。
 
{{Main|天津条約 (1885年4月)}}
 
[[1885年]](明治18年)[[4月18日]](光緒11年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]])、全権大使[[伊藤博文]]と北洋通商大臣[[李鴻章]]の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。
 
 
 
=== 朝鮮情勢の安定化を巡る動き ===
 
[[画像:Coree.jpg|thumb|250px|[[ジョルジュ・ビゴー]]による当時の風刺画(1887年)<br />日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。]]
 
旧来、朝鮮の対外的な[[安全保障政策]]は、宗主国の清一辺倒であった<ref>以下、明記されていない出典は、岡本 (2008)、125-136頁。</ref>。しかし、[[1882年]](明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力<ref group="*">[[1881年]](光緒7年)、清の[[北洋通商大臣]][[李鴻章]]は、イリ地方の紛争に対して武力鎮圧を決断し、その行動の結果、自国に有利な条件でロシアと[[イリ条約]]を結んだ。そして同年、対朝鮮政策の所管を[[礼部]]から北洋通商大臣の直轄にかえ、翌1882年の壬午事変で派遣した部隊(3,000名)をそのまま朝鮮に駐留させた。加藤 (2009)、93-96頁。</ref>が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ<ref group="*">1881年末から朝鮮とアメリカの間で条約締結交渉が始まると、李鴻章と朝鮮の吏曹参議[[金允植]]が協議し、朝鮮側の条約草案が作成された。草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。岡本 (2008)、76頁。</ref>。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。
 
 
 
清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)<ref group="*">[[1882年]](明治15年)[[11月]](光緒8年[[10月 (旧暦)|]])から[[#日本政府内の朝鮮政策をめぐる路線対立|山縣有朋の意を汲んだ井上馨]]は、外務省を通して朝鮮中立化に動いており、この日本側の構想は卓抜していた。しかし、朝鮮の従属化を望む清、条約の批准もまだで時期尚早とする西洋諸国の反応がよくなかった。そして外交上の進展がないまま日本は、甲申政変を迎えた。岡本 (2008)、125-128頁。井上 (2010)。</ref>、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副[[領事]]ブドラーの朝鮮中立化案、のちに[[露朝密約事件#第一次露朝密約事件|露朝密約事件]]の当事者になる[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ|メレンドルフ]]のロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアと[[グレート・ゲーム]]を繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして[[1885年]](光緒11年)、[[アフガニスタン]]での紛争をきっかけに、ロシア艦隊による[[永興湾要塞|永興湾]]([[元山市|元山]]沖)一帯の占領の機先を制するため、[[4月15日]]([[3月1日 (旧暦)|3月1日]])に[[巨文島]]を占領した<ref group="*">巨文島の占領についてイギリスは、朝鮮に通告せず、清(宗主国)の駐英[[外交官]]に伝えて了承を得ていた。もっとも、この外交官は、清にも朝鮮にも連絡をしなかった。また朝鮮は、日本から知らされるまでイギリス艦隊が巨文島に集結していることに気づかず、抗議など政治行動もとらなかった。しかし、李鴻章の警告書により、ようやく認識を改め、事態の収拾を図るものの、相手にされないなど効果がなかった。その後、清がイギリスとロシアの両者に働きかけ、前者による巨文島の占領が終わった([[1885年]]4月 - [[1887年]]3月)。呉 (2000)、152-154頁。</ref>。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫<ref group="*">[[1891年]](明治24年)、ロシアがフランス資本などの資金援助を受けながら、[[シベリア鉄道|シベリア横断鉄道]]の建設に着手した。この鉄道建設は、[[シベリア鉄道#歴史|イギリスに大きな衝撃を与えた]]。やがて日本にも、[[日露戦争#背景|危機感を抱かせることになる]]。</ref>してしまう。ロシアは[[ウラジオストク]]基地保護のために[[朝鮮半島]]制圧を意図した<ref name="inoki9to17">猪木正道『軍国日本の興亡: 日清戦争から日中戦争へ』中央公論社、1995年、pp.9-17.</ref>。
 
 
 
朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、[[1891年]](明治24年)の[[露仏同盟]]やフランス資本の資金援助による[[シベリア鉄道]]建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の[[1894年]](明治27年)[[7月16日]]、[[日英通商航海条約]]に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる<ref>原田 (2007)、47頁。</ref>。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった<ref>日清関係は[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]で、清露関係は李鴻章・ラデュジェンスキーの秘密合意(相互不可侵)で結ばれており、清朝関係は「属国」と「自主」が拮抗していた。</ref>。
 
 
 
=== 日本の軍備拡張 ===
 
[[明治維新]]が対外的危機をきっかけとしたように[[帝国主義]]の時代、西洋[[列強]]の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。しかし財政の制約、[[血税一揆]]と[[士族反乱]]を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された<ref>以上、戸部 (1998)、102-104、108-109頁。</ref>。ただし、[[1877年]](明治10年)の[[西南戦争]]後、陸軍の実力者[[山縣有朋]]が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)<ref>井上 (2010)、47-48頁。</ref>するなど、絶えず軍拡が追求されたわけではない。
 
 
 
軍拡路線への転機は、[[1882年]](明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した[[壬午事変]]であった。事変直後の同年8月、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月[[岩倉具視]]は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円の「軍拡八カ年計画」(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)を決定した<ref>加藤 (2002)、72頁。</ref>(同年度の一般会計[[歳出]]決算額7,348万円)。同計画に基づき、陸軍が3年度後からの兵力倍増に、海軍が翌年度から48隻の建艦計画等に着手した。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌[[1883年]](明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」終了後の[[1892年]](明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった<ref>戸部 (1998)、109頁。</ref>。
 
 
 
軍拡路線が続いた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、[[1888年]](明治21年)に山縣は、[[内閣総理大臣]]の[[伊藤博文]]に対し、次のように上申した。
 
{{Quotation|我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り。|「軍事意見書」}}現実に[[1884年]](明治17年、光緒10年) - 翌年の[[清仏戦争]](ベトナムがフランスの保護領に)、[[1885年]](明治18年、光緒11年) - [[1887年]](明治20年、光緒13年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、[[露朝密約事件]](ロシアと朝鮮の接近)、ロシアの[[シベリア鉄道|シベリア横断鉄道]]敷設計画([[1891年]](明治24年)起工)があった。
 
 
 
その上、[[1884年]](明治17年、光緒10年)の[[甲申政変]](日清の駐留軍が武力衝突)、[[1886年]](明治19年、光緒12年)の[[北洋艦隊]](最新鋭艦「[[定遠 (戦艦)|定遠]]」と「[[鎮遠 (戦艦)|鎮遠]]」等)来航時の[[長崎事件]]など、清と交戦する可能性もあった。ただし当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にある大国の清が日本に侵攻するとの想定<ref group="*">[[1877年]]の[[西南戦争]]を乗り切ると、1880年代の陸軍の主任務は、「治安維持」から外的脅威に備える「国土防衛」に変質しつつあった。1880年代中頃、[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル|メッケル]]ドイツ陸軍少佐が指導した[[参謀]]演習旅行では、敵の上陸部隊への反撃が主な想定であったとされ、また[[1890年]]に初めて実施された陸海軍連合大演習は、敵の侵攻・上陸部隊に対する迎撃を目的とした。戸部 (1998)、108-114頁。</ref>で考えられていた([[1885年]](明治18年光緒11年)に就役した清の「定遠」は、同型艦「鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門備え、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、[[松島 (防護巡洋艦)#概要|日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦]]であった)。
 
 
 
なお、1885年(明治18年)[[5月]]、兵力倍増の軍拡計画にそった[[鎮台]]条例改正により、編成上、戦時三箇師団体制から戦時六箇師団体制に移行した。さらに[[1888年]](明治21年)5月、6つの鎮台が師団に改められ、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された[[近衛師団]]を追加して常設七箇師団体制)。機動性が高い師団への改編は、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御など異なる解釈もある<ref group="*">たとえば、[[1878年]](明治11年)末に参謀本部と[[監軍部|監軍本部]]が設置されて以来の[[有事]]即応体制の完成との見解(桑田悦の説)。また陸軍の軍備計画では、師団制の採用に伴う部隊拡充のほか、海岸砲台と[[要塞]]構築にも重点が置かれていた。戸部 (1998)、111-112頁。</ref>。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略に替わり、攻勢戦略が有力になりつつあった。しかし、海軍力に自信がなかったため<ref group="*">一例として開戦前夜、[[海軍大臣]][[西郷従道]]海軍中将は「北洋艦隊の優勢なるを憚るが為に躊躇したり」と伝えられている(外務次官[[林董]]の回想録『後は昔の記』)。戸高 (2011)、164頁。</ref>、後記の通り、日清戦争の大本営「作戦大方針」に[[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|制海権で三つの想定]]があるように、攻勢戦略に徹しなかった。戦時中も、[[元勲]]で[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]司令官の山縣有朋陸軍大将は、同じく元勲の[[井上馨]]宛てに次のように書き送った<ref>原田 (2007)、81頁。</ref>。{{Quotation|[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌陥落]]は'''実に意外の結果'''……引き続き[[黄海海戦 (日清戦争)|〔黄海〕海戦]]大捷'''これまた予想の外'''……{{small|(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}}}
 
 
 
軍拡の結果、現役の陸軍軍人<ref group="*">[[1873年]](明治6年)[[1月]]に制定された[[徴兵令]]は、日清戦争までに大改正が3回あった。大改正の主眼は、徴兵の不公平感を緩和し、徴兵忌避を防止することにあった。また、一年志願制の導入など高学歴者に特例を設けた(当初、専門知識が必要な[[衛生兵]]養成のために導入され、その後、[[動員]]に不可欠な[[予備役]]将校の養成としても運用された)。戸田 (1998)、117-118頁。</ref>・軍属数は、[[西南戦争]]前年の[[1876年]](明治9年)に39,315人であったのが、日清戦争前年の[[1893年]](明治26年)に73,963人<ref>以下の人員数と総トン数は、[[総務省|総務庁]] (1988) 第5巻、527、530頁。</ref>となった。現役の海軍軍人・軍属数は1893年が13,234人(1876年が不明)であり、軍艦の総トン数は1876年の14,300tから1893年の50,861tに増加した。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1876年度に17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)であったのが、1893年度に27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)<ref>戸部 (1998)、109頁。</ref>となった。
 
 
 
=== 日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立 ===
 
1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように[[山県有朋意見書|朝鮮の中立化を構想した]]<ref>以下、明記されていない出典は、井上 (2010)、62、69-80頁。</ref>。それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革を図ろうとした。
 
 
 
しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の[[青木周蔵]]、陸軍大臣の[[大山厳]]、海軍大臣の[[樺山資紀]]が異論を唱えたのである。青木外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである(結局のところ、予算案の海軍費は樺山海相が当初計画した約10分の1にまで削減)。また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など[[#両国の戦争指導と軍事戦略|元勲の指導する前者が優位に立っていた]]。
 
 
 
1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。ただし、[[第2次伊藤内閣]]も[[第1次山縣内閣]]と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣([[陸奥宗光]])と軍部([[参謀本部 (日本)|参謀次長]]の[[川上操六]]陸軍中将)の連携が再現されることとなる。
 
 
 
=== 朝鮮に関する開戦前年の「日清」関係 ===
 
[[甲申政変]]後に締結された[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]](1885年)により、以後の朝鮮出兵が「日清同等」になった<ref>以下、明記されていない出典は、佐々木 (2010)、117-118、125頁。</ref>。しかし、このことは、朝鮮での「日清均衡」を意味しなかった。清は、軍事介入で甲申政変の混乱を収拾させ、また親清政権が誕生したことにより、朝鮮への政治的影響力をさらに強めた(日本は親日派と目された[[独立党]]が壊滅)。軍事的にも、朝鮮半島と主要港が近い上に陸続きで、出兵と増派に有利であった(日本は制海権に左右され、しかも海軍力で劣勢)。したがって天津条約は、日本が清との武力衝突を避けている限り、朝鮮での清の主導権を温存する効果があった。たとえば、日清戦争前年の[[1893年]](明治26年、光緒19年)、日本公使[[大石正巳]]の強硬な態度により、日朝間で[[防穀令事件]]が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と北洋通商大臣の李鴻章との連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた(その後、更迭された大石に代わり、[[大鳥圭介]]が公使に就任)。
 
 
 
このように開戦前年の[[第2次伊藤内閣|伊藤内閣]]は、清(李鴻章)の助けを借りて朝鮮との外交問題(防穀令事件)を処理しており、武力で清の勢力圏から朝鮮を切り放そうとした日清戦争とまったく異なる対処方針をとっていた。しかし翌[[1894年]](明治27年、光緒10年)、朝鮮で新たな事態が発生し、天津条約締結後初めて朝鮮に日清両国が出兵することとなる。
 
 
 
== 戦争の経過 ==
 
[[画像:First Chinese Japanese war map of battles Ja.png|300px|thumb|両軍の進撃経路]]
 
 
 
=== 開戦期 ===
 
==== 朝鮮国内の甲午農民戦争 ====
 
{{Main|甲午農民戦争}}
 
1890年代の朝鮮では、日本の経済進出が進む中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた<ref>姜在彦『朝鮮近代史』新訂版、平凡社、1986年。</ref>。[[1894年]](光緒20年)春、朝鮮で[[東学]]教団構成員の[[全ボン準|全琫準]]を指導者に、民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱[[甲午農民戦争]](東学党の乱)が起きた。[[5月31日]]([[4月27日 (旧暦)|4月27日]])、農民軍が全羅道首都[[全州市|全州]]を占領する事態になった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、農民軍の宣撫にあたった。なお、[[6月10日]]または11日([[5月7日 (旧暦)|5月7日]]または8日)、清と日本の武力介入を避けるため、農民軍の弊政改革案を受け入れて[[全州和約|全州和約を結んだとする話が伝わっている]](一次資料が発見されていない)。
 
 
 
==== 日清の朝鮮出兵 ====
 
当時の[[第2次伊藤内閣]]は、[[条約改正]]のために3月に解散[[第3回衆議院議員総選挙|総選挙(第3回)]]を行ったものの<ref group="*">[[1890年]](明治23年)の第一議会から[[1892年]](明治25年)の第四議会まで、「[[富国強兵]]」か[[地租改正|地租]]軽減など「民力休養」かが争点になっていた。しかし、[[1893年]](明治26年)11月の第五議会では、[[排外主義|排外]]的な[[ナショナリズム]]にかかわる議論が高まった。悲願の[[条約改正]]が現実味を帯びる中、外国人の往来自由への嫌悪感、その自由な経済活動による輸入増加への警戒などを背景に、外国人の内地雑居への反対論が強くなったのである(条約励行、つまり「[[関税自主権]]回復を含む完全な条約改正でなければ、現状の不平等条約をそのまま維持」との主張で、まず[[領事裁判権]](治外法権)撤廃から達成できそうな条約改正の大きな障害になっていた)。強硬的な外交([[対外硬]])に全体の論調が動いたものの、民党連合が分裂し、政府と対決する[[硬六派]]が形成された。硬六派は、[[衆議院]]解散後の[[1894年]](明治27年)3月1日に行われた[[第3回衆議院議員総選挙|第3回総選挙]]でも、過半数を上回った。御厨 (2001)、270-277頁。</ref>、[[5月15日]]に開会した[[第4回衆議院議員総選挙#概説|第六議会で難局に直面していた]]。同日、駐英公使[[青木周蔵]]より、日英条約改正交渉が最終段階で「もはや彼岸が見えた」との電報が届き、18日に条約改正案を閣議決定した。悲願の条約改正が先か、[[対外硬|対外硬六派]]による倒閣が先か、日本の政局が緊迫していた<ref>佐々木 (2010)、119頁。</ref>。その頃、朝鮮では民乱が甲午農民戦争と呼ばれる規模にまで拡大しつつあり、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[陸奥宗光]]が伊藤首相に「今後の模様により……軍艦派出の必要可有」と進言した(5月21日付け書簡)<ref>原田 (2008)、10頁。</ref>。
 
 
 
[[5月30日]]、衆議院で[[内閣不信任案|内閣弾劾上奏案]]が可決されたため<ref group="*">5月17日、[[第2次伊藤内閣|伊藤内閣]]弾劾上奏案が提出された。144対149の僅差で否決されたものの、[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]の迷走により、[[5月31日]]、微細な予算問題で提出されていた別の[[内閣不信任案|内閣弾劾上奏案]]が153対139で可決された。御厨 (2001)、277-279頁。</ref>、伊藤首相は、弾劾を受け入れて辞職するか勝算のないまま再び解散総選挙をするか、内政で窮地に陥った。翌31日、[[文部科学大臣|文部大臣]][[井上毅]]が伊藤首相に対し、天津条約に基づく[[天津条約 (1885年4月)#条約の内容|朝鮮出兵の事前通知方法]]と、出兵目的確定について手紙を送っており、首相周辺で出兵が研究されていた<ref group="*">5月27日か28日、[[外交官|代理公使]]の杉村から機密文書が届いていた。その内容は、朝鮮が「兵を[[支那]]に借り」て乱を鎮圧する動きがあり、万一に備え、出兵の可否を決めておくべきとの進言であった。31日、朝鮮は、清への援兵を決議した。翌[[6月1日]]、公文で朝鮮駐在の[[袁世凱]]に伝達しようとするものの、延着した(3日夜)。1日午後、代理公使の杉村は、「袁世凱いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたりと」と打電した。原田 (2007)、56-58頁。岡本 (2008)、147-149頁。</ref>。
 
 
 
開会から18日後の[[6月2日]]、伊藤内閣は、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長山縣有朋を交えた[[閣議]]で、衆議院の解散([[第4回衆議院議員総選挙|総選挙(第4回)]])と、清が朝鮮に出兵した場合、公使館と居留民を保護するために混成[[旅団]](戦時編制8,000人)を派遣する方針を決定した。5日、日本は、敏速に対応するため、参謀本部内に史上初めて[[大本営]]を設置し(実態上[[戦時]]に移行)、大本営の命令を受けた[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]長が歩兵第九旅団長に[[動員]](充員召集)を下命した。ただし、派兵目的が公使館と居留民の保護であったこともあり、陸軍に比べて海軍は初動が鈍く、また修理中の主力艦がある等この時点で既存戦力が揃っていなかった<ref group="*">たとえば、派兵決定の6月2日時点で新鋭艦の「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」は、[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]が置かれた4港の中で、朝鮮から最も離れた[[横須賀港|横須賀]]に停泊していた。また、主力艦として期待された[[松島型防護巡洋艦|松島型]]3隻のうち「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」は、「[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]]」とともに清の[[福建省]]沖を航行中であった。残る2隻のうち「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」は、大本営が設置された翌6日に修理が命じられており(工期60日)、「[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]」は、修理改造中であった([[7月4日]]に整備も訓練も不十分なまま艦隊に編入された)。戸高 (2011)、110、164頁。</ref>。
 
 
 
日本が大本営を設置した[[6月5日]]([[5月2日 (旧暦)|5月2日]])、清の[[巡洋艦]]2隻が[[仁川広域市|仁川]]沖に到着。日清両国は、[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づき、6日(3日)に清が日本に対し、翌7日(4日)に日本が清に対して朝鮮出兵を通告した。清は、8日(5日)から12日(9日)にかけて上陸させた陸兵2,400人を[[牙山]]に集結させ、25日(22日)に400人を増派した<ref>岡本 (2008)、148-150頁。</ref>。対する日本は、10日(7日)、帰国していた公使[[大鳥圭介]]に[[海軍陸戦隊]]・[[警察官]]430人をつけ、首都[[漢城]]に入らせた。さらに16日(13日)、混成第九旅団(歩兵第九旅団が基幹)の半数、約4,000人を仁川に上陸させた。しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなった。軍を増派していた清も、漢城に入ることを控え、牙山を動かなかった。
 
 
 
==== 日本軍の王宮占領・日清開戦 ====
 
朝鮮は日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。6月12日、「京城目下ノ形勢ニテハ、過多ノ兵士進入ニ対スル正当ノ理由ナキヲ恐ル」と打電してくる大鳥公使に、なんらかの積極的な方策を与えようとした陸奥は、伊藤首相と協議した。その結果、15日の閣議に伊藤は1案を提出した。1)朝鮮の内政改革<ref group="*">開戦を主導した外務大臣[[陸奥宗光]]は、朝鮮の内政改革について次のように書き記した。{{Quotation|余は固より朝鮮内政改革を以て政治的必要の外、何等の意味なきものとせり。亦毫も義侠を精神として十字軍を興すの必要を視ざりし。故に朝鮮内政改革なるものは、第一に我国の利益を主眼とするの程度に止め、之が為め敢て我利益を犠牲とするの必要なしとせり。且つ今回の事件として之を論ずれば、畢竟朝鮮内政の改革とは、素と日清両国の間に蟠結して解けざる難局を調停せんが為めに案出したる一箇の政策なりしを、事局一変して竟に我国の独力を以て之を担当せざるを得ざるに至りたるものなるが故に、余は初より朝鮮内政の改革其事に対して格別重きを措かず。|陸奥 (1994) 、62頁。}}</ref>を日清共同で進める、2) それを清が拒否すれば日本単独で指導する方針を閣議決定した。出兵の目的は当初の「公使館と居留民保護」から「朝鮮の国政改革」のための圧力に変更された。当時、解散総選挙に追い込まれていた伊藤内閣は国内の[[対外硬|対外強硬論]]を無視できず、成果のないまま朝鮮から撤兵させることが難しい状況にあった<ref>井上 (2010)、86-87頁。</ref>。21日、清国は日本の提案を拒否し、「事態が平静に帰した以上、あくまで撤兵が先決である。清国は朝鮮の内政に干渉する気はない。まして朝鮮を独立国と称している日本に内政干渉の権利はない」と反駁した。日本側はこの清国の拒絶を受けて、伊藤内閣と[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]・[[軍令部|海軍軍令部]]の合同会議で、さきに大鳥公使の要請により仁川にとどまっていた混成[[旅団]]残部の輸送再開を決定し、23日に京城へ到着した。同日、清の駐日公使に内政改革の協定提案が送付された(第一次絶交書)。27日、出発を延期していた混成旅団の後続部隊が8隻の輸送船をつらねて仁川にはいり、翌日上陸した。日本軍はこれで牙山の清国軍の3倍に達したとみられた。27日、陸奥、「今日ノ形勢ニテハ行掛上開戦ハ避クベカラズ。依テ曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、如何ナル手段ニテモ執リ、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」と訓令。まさに開戦直前の状況になった。
 
 
 
しかし28日、条約改正交渉中のイギリス外相が調停に乗り出す動きを見せた。更に30日、ロシア公使ヒトロウォは陸奥と会談、「ロシア政府は、日本が朝鮮政府の日清両国の撤兵という希望をうけいれるよう勧告し、かつ日本が清国と同時撤兵をうけいれないならば、日本政府は重大な責めを負うことになる旨忠告する」と申し入れた。これで日本側の開戦気運には一気にブレーキがかかった。7月2日、陸奥はヒトロウォにつぎのように回答した。「日本政府は、東学反乱の原因はのぞかれていないし、反乱そのものもなおまったく跡を絶つにいたっていないのではないかと考える。日本政府は侵略の意思はないし、反乱再発のおそれがなくなれば撤兵する」。[[7月9日]]清の[[総理各国事務衙門|総理衙門]]総領大臣(外務大臣に相当)[[愛新覚羅奕キョウ|慶親王]]が、「日本の撤兵」が前提としてイギリスの調停案を拒絶した<ref>佐々木 (2010)、135頁。</ref>。10日、ドイツとの対立を重要視していたロシア本国政府は、これ以上朝鮮問題に深入りすることを禁じた。同日、駐露公使[[西徳二郎]]より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省にとどいた。11日、伊藤内閣は清の調停拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定した。12日、陸奥、大鳥公使に「今ハ断然タル処置ヲ施スノ必要アリ。故ニ閣下ハ克ク注意シテ、世上ノ非難ヲ来サザル様口実ヲ撰ビ、之ヲ以テ実際運動ヲ初ムベシ」と訓令。14日、日本の「第二次絶交書」に[[光緒帝]]が激怒し、帝の開戦意思が李鴻章(天津市)に打電された<ref>原田 (2008)、29頁。</ref>。15日、李は牙山の清軍に[[平壌]]への海路撤退を命じた。18日、海路撤退が困難なため、増援を要求してきた牙山の清軍に対し、2,300人を急派することとした([[豊島沖海戦]]の発端)。なお16日、懸案の[[日英通商航海条約]]が調印され(ただし悲願の一つ「[[領事裁判権]]撤廃」を達成したものの、[[8月27日]]の[[勅令]]による批准公布まで発表が伏せられた)、伊藤内閣にとって開戦の大きな障害がなくなった。
 
 
 
7月20日午後、大島公使は朝鮮政府に対して、1)清国の宗主権をみとめる中朝商民水陸貿易章程の廃棄、2)属邦保護を名目として朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう申し入れた。この申し入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば日本が代わって駆逐する、との含意があった<ref>岡本 (2008)、152頁。</ref>。22日夜半、朝鮮政府は、1)国内の改革は自主的に行う、2)乱は収まったので日清両軍は撤兵することを回答した。7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が駐屯地[[龍山区 (ソウル特別市)|龍山]]から[[漢城府|漢城]]に向け進軍を開始。「〔民間〕人ヲシテ」電信線を切断させ、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し占領した。日本は国王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]を支配下に置き、[[興宣大院君|大院君]]を再び担ぎだして新政権を樹立させた。そして新政権に対して牙山の清軍を掃討するよう日本に依頼させた。2日後の25日に[[豊島沖海戦]]が、29日に[[成歓の戦い]]が行われた後、[[8月1日]]に日清両国が[[宣戦布告]]をした<ref group="*">日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由([[s:清国ニ対スル宣戦ノ詔勅|清国ニ対スル宣戦ノ詔勅]])の要旨は、次の通り。
 
{{Quotation|
 
「そもそも、朝鮮は日本と[[日朝修好条規]]を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清は朝鮮を[[属邦]]と称して[[内政干渉]]し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は[[済物浦条約]]に基づき、出兵して変に備えさせて朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清に協同して事に従おうと提案した。しかし清は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため、朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。清はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の[[軍艦]]を攻撃した([[豊島沖海戦]])。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清の計画は明白である。清は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」}}</ref>。
 
 
 
なお後日、開戦前の状況について陸奥宗光は、次のように回想した。{{Quotation|外交にありては被動者〔受け身〕たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せむ。|『蹇蹇録』}}もっとも、一連の開戦工作について[[明治天皇]]は、「朕の戦争に非ず」と漏らしたと伝えられている(しかし広島大本営で精勤し、後年その頃を懐かしんだ)<ref>佐々木 (2010)、140頁。</ref>。また、開戦前夜の[[海軍大臣]][[西郷従道]]海軍中将について次のように伝えられている<ref>戸高 (2011)、164頁。</ref>。
 
{{Quotation|北洋艦隊の優勢なるを憚{{small|(はばか)}}るが為に躊躇{{small|(ちゅうちょ)}}したり。|外務次官[[林董]]の回想録『後は昔の記』}}
 
 
 
==== 豊島沖海戦・高陞号事件 ====
 
[[File:Naval battle.ogg|thumb|1894年当時の海戦の映像]]
 
[[画像:Chinese vessel sinking SinoJap War.jpg|thumb|150px|高陞号撃沈の場面を描いた絵]]
 
{{Main|豊島沖海戦}}
 
清に駐在する領事と武官から清軍増派の動きを知った大本営は<ref>五十嵐憲一郎「[http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200103/04.pdf 日清戦争開戦前後の帝国陸海軍の情勢判断と情報活動]」[[防衛省防衛研究所]]戦史研究年報4号、2001年3月。</ref>、[[7月19日]]編成されたその日に[[連合艦隊]]に対し、1)朝鮮半島西岸の制海権と仮根拠地の確保、2)兵員増派を発見しだい輸送船団と護衛艦隊の「破砕」を指示した<ref>原田 (2008)、47頁。</ref>。25日、豊島沖で[[大日本帝国海軍|日本海軍]]第1遊撃隊(司令官[[坪井航三]]海軍少将、「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」)が清の軍艦「[[済遠]]」「広乙」を発見し、海戦が始まった。すぐに「済遠」が逃走を計ったため、直ちに「吉野」と「浪速」は追撃した。その途上、清の軍艦「[[操江]]」と高陞号([[イギリス|英国]][[商船旗]]を掲揚)と遭遇した。高陞号は、朝鮮に向けて清兵約1,100人を輸送中であった。坪井の命により、「浪速」艦長[[東郷平八郎]]海軍大佐が停船を命じて[[臨検]]を行い、拿捕しようとした。しかし、数時間に及ぶ交渉が決裂したため、東郷は、同船の拿捕を断念して撃沈に踏み切った([[高陞号事件]])。その後、英国人船員ら3人を救助し、清兵約50人を捕虜にした。豊島沖海戦で日本側は死傷者と艦船の損害がなかったのに対し、清側は「済遠」「広乙」が損傷し、「操江」が鹵獲{{small|(ろかく)}}された。なお、高陞号撃沈について一時、イギリス国内で[[反日]][[世論]]が沸騰した。しかし、イギリス政府が日本寄りだった上に、国際法の権威[[ジョン・ウェストレーキ]]と[[トーマス・アースキン・ホランド]]博士によって国際法に則った処置であることが[[タイムズ]]紙を通して伝わると、イギリス国内の反日世論が沈静化した。
 
 
 
==== 成歓の戦い ====
 
[[画像:Triumphal return from Battle of Seonghwan.png|thumb|成歓の戦いから万里倉に凱旋し居留民や朝鮮重臣などの歓迎を受ける混成旅団。1894年8月5日。]]
 
{{Main|成歓の戦い}}
 
[[7月24日]]、豊島沖海戦の直前、清の増援部隊1,300人が上陸し、[[葉志超]]提督([[中将]]に相当)率いる[[牙山市|牙山]]県と全州の清軍は、3,880人の規模になっていた<ref>以下、原田 (2008)、76-84頁。</ref>。混成第九旅団長[[大島義昌]]陸軍少将は、南北から挟撃される前に「韓廷〔朝鮮政府〕より依頼の有無に関せず、まず牙山の清兵を掃討し、迅速帰還し北方の清兵に備ふる」{{small|〔カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた〕}}ため、25日から26日にかけ、漢城郊外の龍山から攻撃部隊を南進させた(兵力:歩兵15箇中隊3,000人、騎兵47騎、[[山砲]]8門。なお従軍記者14社14人<ref group="*">翌8月初めて無名兵士の[[木口小平#成歓の戦い|忠勇美談]]が報じられた。</ref>)。
 
 
 
日本軍の南下を知った清軍は、退路のない牙山での戦闘を避け、そこから東北東18kmの[[成歓駅]]周辺に、[[聶士成]]率いる主力部隊を配置した(5営2,500人・野砲6門)。さらに、その南の[[公州]]に葉提督が1営500人と待機した。29日深夜、日本軍は、左右に分かれ、成歓の清軍に夜襲をかけた。午前3時、右翼隊の前衛が待ち伏せていた偵察中の清軍数十人に攻撃され、[[松崎直臣]]陸軍大尉ほかが戦死した(松崎大尉は日本軍初の戦死者)。不案内の上、道が悪い土地での雨中の夜間行軍は、水田に落ちるなど難しく、各部隊が予定地点に着いたのは、午前5時過ぎであった。午前8時台、日本軍は成歓の抵抗拠点を制圧した。さらに午後3時頃、牙山に到達したものの、清軍はいなかった。死傷者は、日本軍88人(うち戦死・戦傷死39人)、清軍500人前後。旅団は8月5日、本部のあったソウル城外南西の万里倉に凱旋、[[大鳥圭介]]公使や居留民、朝鮮重臣などの歓迎を受けた<ref>{{Cite book|和書 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |year=2003 |title=幕末・明治古写真帖 : 愛蔵版 |publisher=[[新人物往来社]] |page=92 |id= |isbn=4404031122 }}</ref>。成歓・牙山から後退した清軍はおよそ1カ月をかけて移動し、平壌の友軍への合流を果たした。
 
 
 
なお、混成第九旅団は、派兵が急がれたため、民間人の軍夫(日本人のみ)を帯同することも、運搬用の徒歩車両(一輪車・大八車)を装備することもなく、補給に大きな問題があった。このため、牙山への行軍では、日本人居留民のほか、現地徴発の朝鮮人人夫2,000人と駄馬700頭で物資を運搬するはずであった。しかし、なじみのない洋式の外国軍に徴発された人夫(馬)の逃亡が少なくなく、とくに[[歩兵第21連隊]]第三大隊は「みな逃亡して、ついに翌日の出発に支障を生じ」たため、[[7月27日]]早朝、同大隊長[[古志正綱]]陸軍少佐が引責自刃した。
 
 
 
=== 展開期 ===
 
==== 大日本大朝鮮両国盟約 ====
 
[[画像:Korean soldiers and Chinese captives in First Sino-Japanese War.png|right|thumb|250px|朝鮮人兵士と中国人捕虜]]
 
[[8月26日]]、日本は、朝鮮と[[大日本朝鮮両国盟約|大日本大朝鮮両国盟約]]を締結した<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=118232&servcode=A00&sectcode=A00 【その時の今日】日清戦争の引き金引いた日本、10時間後に蹂躙された景福宮]、[[中央日報]]、2009年7月22日。</ref>。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮の独立のためのもの」(第一条)とした同盟約に基づき、国内での日本軍の移動や物資の調達など、日本の戦争遂行を支援し、また自らも出兵することになった<ref>[http://japanese.historyfoundation.or.kr/?sub_num=46 韓日関係のあゆみ 近代 2、日清戦争と韓日関係]、[[東北アジア歴史財団]]。</ref>。
 
 
 
==== 平壌の戦い ====
 
[[画像:Battle of Pyongyang by Mizuno To.jpg|thumb|300px|平壌の戦い]]
 
{{Main|平壌の戦い (日清戦争)}}
 
開戦前から朝鮮半島北方で混成第九旅団の[[騎兵|騎兵隊]]が偵察任務に就いており、7月末「[[平壌市|平壌]]に清軍1万人集結」との情報が大本営に伝えられた<ref>以下、原田 (2008)、102-125頁。</ref>。大本営は、30日に第五師団の残り半分に、[[8月14日]]に[[第3師団 (日本軍)|第三師団]]に出動を命じた(ただし後日、第三師団は、大本営の指示で兵站部の編成が変更されたこともあり、結果的に先発隊([[歩兵第18連隊]]が基幹)しか平壌攻略戦に参加できず)。8月中旬、漢城に到着した第五師団長[[野津道貫]]陸軍中将は、情勢判断の結果、朝鮮政府を動揺させないためにも、早期の平壌攻略が必要と判断した。第五師団が北進を開始した[[9月1日]]、同師団と第三師団その他で[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]が編成された。12日、仁川に上陸した第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将が第五師団宛に「第三師団の到着を待たず、従来の計画により、平壌攻撃を実行すべき」と指示した{{small|(カタカナを平仮名に書き換え、読点を入れた)}}。
 
 
 
李鴻章から、平壌に集結した清軍の総指揮を任されたのは、成歓の戦いで敗れた葉志超提督(中将相当)であった。[[9月7日]]、葉は、光緒帝の諭旨と李の督促を受け、7,000人の迎撃部隊(4将の部隊から抽出して編成)を南進させた。しかし同夜、「敵襲」との声で味方同士が発砲し、死者20人・負傷者100人前後を出して迎撃作戦が失敗した(後年、日清戦史を研究・総括した[[誉田甚八]]陸軍大佐は、[[分進合撃]]する日本軍への迎撃作戦について、少なくとも平壌の陥落時期を遅らせる可能性があったとした)。13日、葉は、包囲される前に撤退することを4将に計ったものの、奉天軍を率いる[[左宝貴]]が葉を監禁したため、清軍は4将が個々に戦うこととなる。
 
 
 
[[9月15日]]、予定通り日本軍の平壌攻略戦が始まった(ただし西側の師団長・直率部隊は攻撃に参加せず)。北東から前進予定の歩兵第十旅団長[[立見尚文]]陸軍少将に「午前8時前後ニハ平壌ニ於テ貴閣下ト握手シ……」と前日返信していた大島旅団長率いる混成第九旅団は、南東から平壌城・大同門の対岸近く([[大同江]]右岸)まで前進したものの、右岸の[[堡塁]]と機関砲に阻止されて露営地に退く(戦死約140人、負傷約290人)等<ref group="*">混成第九旅団は、堡塁の存在を知らず、要塞攻撃に不向きな[[山砲]]しか装備していない上に砲弾の選択ミスなどが重なり、大きな損害を出した。</ref>、夕方近くになると戦況が膠着{{small|(こうちゃく)}}していた。しかし、徹底抗戦派の左宝貴が反撃に出て戦死したこともあり、午後4時40分頃、平壌城に白旗が立ち、休戦後に清軍が退却するとの書簡が日本軍に渡された。もっとも、傷病兵を除く清軍は、休戦前に平壌城から脱出し、替わって日本軍が入城した。
 
 
 
なお日本軍は、進軍を優先したため、この戦いでも糧食不足に悩まされ、最もよい混成第九旅団でさえ、常食と携行口糧それぞれ2日分で攻略戦に臨んだ(その後も補給に苦しみ、しばしば作戦行動の制約になる)<ref group="*">『日清戦史』によると、糧食不足の要因は、1)農村の疲弊によって現地調達が困難、2)糧食運搬を担う朝鮮人人夫が集められない上に逃亡もあった、3)ときに戦闘員を兵站部の物資運搬に使わざるを得ず、4)道路がよくなく、5)炎暑で気候もよくなかった。原田 (2008)、113-114頁。</ref>。糧食不足は、平壌で清軍のもの(第五師団の1か月分)を確保したことにより、当面解消された。
 
 
 
==== 黄海海戦 ====
 
{{Main|黄海海戦 (日清戦争)}}
 
[[画像:Matsushima(Bertin).jpg|thumb|200px|連合艦隊旗艦松島]]
 
[[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|大本営の「作戦大方針」]]では、海軍が清の[[北洋艦隊]]掃討と制海権掌握を担うとされていた<ref>以下、原田 (2008)、128-136頁。</ref>。しかし、持久戦と西洋列強の介入で講和に持ち込みたい李鴻章は、北洋艦隊の[[丁汝昌]]提督に対し、近海防御と戦力温存を指示していた。このため、海軍[[軍令部長]][[樺山資紀]]海軍中将が[[西京丸]]で最前線の[[黄海]]まで偵察に出るなど、日本海軍は艦隊決戦の機会に中々恵まれなかった。
 
 
 
[[9月16日]]午前1時近く、陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、母港[[威海衛]]から出てきていた北洋艦隊が[[大連]]湾を離れた(艦14隻と[[水雷艇]]4隻)。同日[[東港市#観光|大狐山]]での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた<ref>戸高 (2011)、186頁。</ref>。午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊と遭遇した(両艦隊とも煙で発見)。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官[[坪井航三]]海軍少将率いる4隻が前に、連合艦隊司令長官[[伊東祐亨]]海軍中将率いる本隊6隻が後ろになる[[単縦陣]]をとっていた<ref group="*">当時の日本海軍は、艦隊運動(信号によって複数艦が整然と行動)が未熟であった。伊東長官が「この不熟練なる艦隊では、正々堂々と一挙一動信号の下に行動することは困難」と「非常に心配」し、[[佐世保市|佐世保]]から出航するまでの一月足らずの間、訓練が行われた。対する北洋艦隊は、艦長の多くが欧米への軍事留学経験者で占められていたものの、信号書の不足など、日本艦隊と同じように艦隊運動に不安があった。原田 (2008)、44、131頁。</ref>(ほかの2隻、樺山軍令部長を乗せた西京丸と「[[赤城 (砲艦)|赤城]]」も、予定と異なり戦闘に巻き込まれた)。12時50分、[[横陣]]をとる北洋艦隊の旗艦「[[定遠 (戦艦)|定遠]]」の30.5センチ砲が火を噴き、戦端が開かれた(距離6,000m)。
 
 
 
海戦の結果、無装甲艦の多い連合艦隊は、全艦が被弾したものの、旗艦「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」など4隻の大・中破にとどまった(「赤城」の艦長[[坂元八郎太]]海軍少佐をはじめ戦死90人、負傷197人。被弾134発。ただし船体を貫通しただけの命中弾が多かった)。装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「[[揚威型防護巡洋艦|超勇]]」「[[致遠型防護巡洋艦|致遠]]」「[[經遠型装甲巡洋艦|経遠]]」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「[[揚威型防護巡洋艦|揚威]]」「[[広甲 (巡洋艦)|広甲]]」が擱座した。
 
 
 
なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が威海衛に閉じこもったため、日本が制海権をほぼ掌握した(後日、制海権を完全に掌握するため、威海衛攻略が目指されることとなる)。
 
 
 
==== 第二軍による旅順攻略 ====
 
{{Main|旅順口の戦い|旅順虐殺事件}}
 
[[9月21日]]、海戦勝利の報に接した大本営は、[[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|「冬季作戦大方針」]]の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、[[第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍|第二軍]]の編成に着手した<ref>以下、原田 (2008)、140-147頁。</ref>。その後、まず[[第1師団 (日本軍)|第一師団]]と混成第十二旅団([[第6師団 (日本軍)|第六師団]]の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に[[旅順要塞]]の規模などを偵察してから[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]の出動を判断することにした。[[10月8日]]、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を[[金州区|金州]]城の東・約100kmの花園口に決定した。
 
 
 
第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。[[11月6日]]、第一師団が[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/kinshujou.html 金州城の攻略に成功]。14日、第二軍は、金州城の西南50km[[旅順口区|旅順]]を目指して前進し、18日、[[斥候|偵察部隊]]等が[[遭遇戦]]を行った。21日、総攻撃をかけると<ref group="*">ただし、期待された臨時攻城廠の砲兵連隊([[カノン砲]]16門、[[臼砲]]14門)は、大型砲の故障と運搬に手間どり、結局のところ[[榴弾]]73発、[[榴散弾]]22発の砲撃にとどまった。</ref>、清軍の士気などが低いこともあり(約12,000人のうち約9,000人が新募兵)、翌22日までに堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人(うち金州とそこから旅順までで約2,000人)、捕虜600人。
 
 
 
旅順を簡単に攻略できたものの、大きな問題が生じた。『[[タイムズ]]』(1894年[[11月28日]]付)や『ニューヨーク・ワールド』([[12月12日]]付)で、「旅順陥落の翌日から四日間、幼児を含む非戦闘員などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無と犠牲者数について諸説があるものの、実際に従軍して直接見聞した[[有賀長雄]]は、民間人の巻き添えがあったことを示唆した。現在この事件は、[[旅順虐殺事件]](英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。なお同事件は、日本の外交上、深刻な事態を招きかねなかった。[[条約改正]]交渉中のアメリカでは、一連の報道によって一時、[[アメリカ合衆国上院|上院]]で条約改正を時期尚早との声が大きくなり、日本の重要な外交懸案が危殆に瀕した。このため、『ニューヨーク・ワールド』紙上で陸奥外相が弁明するような事態に陥った。しかし翌年2月、上院で日米新条約が批准された。
 
 
 
==== 第一軍の鴨緑江渡河 ====
 
{{Main|鴨緑江作戦}}
 
10月中旬、清は、国土防衛のため、朝鮮との境界[[鴨緑江]]に沿って将兵30,400人と大砲90門を配置していた<ref>以下、原田 (2008)、159-174頁。</ref>。もっとも、平壌から敗走した約10,000人(うち傷病2,000人)が含まれる部隊は、士気が低い上に新募兵が多い等、自然の要害[[振安区|九連城]]の防衛などに困難が予想された。さらに、総指揮を執る[[宋慶]]にも問題があり、やがて諸将間で不協和音が生じることになる。
 
 
 
[[10月15日]]、糧食不足に苦しむ第一軍は<ref group="*">戦闘員が糧食運搬に従事しても、平壌に運べる糧食が一箇師団分に足りず、ときに過酷な現地徴発をした。[[10月12日]]、「物資の揚陸可能地点を発見」との知らせが入り、進軍を再開した。原田 (2008)、161-162頁。</ref>、司令部が[[安州市|安州]](平壌と[[義州郡|義州]]の中間地点)にようやく到着し、大本営から「前面の敵をけん制し、間接に第二軍の作戦を援助」との電報を受け取った。第二軍の第一波が[[遼東半島]]に上陸した24日、陽動部隊<ref group="*">清軍の防衛拠点[[振安区|九連城]]を攻撃するには、地形上、架橋による敵前渡河が避けられなかったため、24日未明に支隊(歩兵2箇大隊など)が敵前徒渉することとなっていた。しかし、ここでも糧食補充の遅れにより、山砲2門の砲撃援護の下、11時過ぎに歩兵中隊が敵前徒渉を始め、40分ほどで対岸に着いた。同中隊は、迎撃にきた清軍の騎兵200騎を撃退した。</ref>が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時、予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が繋がった(ただし第二軍橋が脆弱で、[[臼砲]]6門と糧食の通行が後回しにされた)。6時20分、野砲4門が[[虎山長城|虎山]]砲台(九連城から4.5km)に砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍に強く抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した(日本軍の戦死34人、負傷者115人)。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。
 
 
 
その後、第三師団は、鴨緑江の下流にそって進み、27日に河口の[[東港市|大東溝]]を占領し(30日、[[兵站]]司令部を開設)、[[11月5日]]補給線確保のために黄海沿岸の[[東港市#観光|大狐山]]を占領した(11日、兵站支部を開設)。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝[[鳳城市|鳳凰城]]攻略戦を開始した。[[10月29日]]、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。
 
 
 
==== 東学農民軍の再蜂起と鎮圧 ====
 
朝鮮では、[[東学]]が戦争協力拒否を呼びかけたこともあり、軍用電線の切断、[[兵站]]部への襲撃と日本兵の捕縛、殺害など反日抵抗が続いた。[[10月9日]]、親日政権打倒を目指す「斥倭斥化」(日本も[[開化]]も斥ける)をスローガンに、[[全琫準]]率いる[[甲午農民戦争#第二次蜂起|東学農民軍が再蜂起]]した<ref>呉 (2000)、162頁。</ref>。大院君は、鎮圧のために派兵しないよう大鳥公使に要請したものの、将来ロシアの軍事介入を警戒した日本は、11月初旬に警備用の[[役種#日本陸軍|後備]]歩兵独立第十九大隊を派兵した。鎮圧部隊は、日本軍2,700人と朝鮮政府軍2,800人、各地の[[両班]]士族や土豪などが参加する[[民堡]]{{small|(みんぽ)}}で編成された。11月下旬からの[[公州]]攻防戦で勝利し、東学農民軍を南方へ退け、さらに朝鮮半島の最西南端[[海南]]・[[珍島]]まで追いつめて殲滅{{small|(せんめつ)}}した。なお、5か月間の東学農民軍の戦闘回数46回、のべ134,750人が参加したと推測されている<ref>「知っておきたい韓国・朝鮮」歴史教育者協議会編 青木書店ISBN 4250920046。原田(2007)、71-72頁。</ref>。
 
 
 
=== 講和期 ===
 
==== 冬季作戦大方針の変更と海城攻防戦 ====
 
[[10月8日]]イギリスが、翌日イタリアが講和の仲裁を、また[[11月22日]]清が講和交渉を申し入れてきた<ref>以下、原田 (2008)、189-211頁。</ref>。講和を意識する伊藤首相と陸奥外相は、[[山海関]]や台湾や[[威海衛]]の攻略など大きな戦果が必要と考えていた。また大本営は、1)[[渤海湾]]北岸の上陸予定地点が不結氷点、2)威海衛にこもる北洋艦隊一掃の2条件が揃えば、[[8月31日]]に定めた[[日清戦争#両国の戦争指導と軍事戦略|「冬季作戦大方針」]]を変更し、冬季の直隷決戦を考えていた。結局のところ、清の占領地で第一軍と第二軍が冬営するとともに(やがて酷寒に苦しむ)、前者が[[海城市|海城]]攻略作戦を、後者が威海衛攻略作戦(山東作戦)を実施することが決まった。
 
 
 
[[12月1日]]、第一軍司令部は、第三師団長[[桂太郎]]陸軍中将に海城攻略を命じた。第三師団は、凍結した坂を駄馬が超えられない等、冬の行軍で苦しんだものの、13日に海城を占領した。しかし、そこからが問題であった。海城は、北西15kmに[[海城市#牛荘鎮|牛荘]]([[遼河]]河口の港町)が、東北70kmに[[遼陽市|遼陽]]が、南西60kmに[[蓋州市|蓋平]]がある陸上交通の要衝で、清にとっても重要な拠点であった。このため、翌年[[2月27日]]まで[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/kaijo.html 4回の攻防戦]と、小ぜりあいが続くことになる。
 
 
 
[[12月30日]]着の大本営訓令により、海城の第三師団(第一軍)支援として、第二軍のうち山東作戦に参加しない第一師団から混成第一旅団(歩兵第一旅団が基幹)が編成・抽出され、蓋平方面に進出させることになった(翌年[[1月10日]]に蓋平占領)。その後、直隷決戦または講和を踏まえた第一軍による台湾攻略という大本営の考えと異なり、第一軍が第二軍を誘う形で新作戦(遼河平原での掃討作戦)が動き始める。
 
 
 
==== 陸海軍共同の山東作戦(北洋艦隊の降伏) ====
 
[[画像:First Sino-Japanese War Keio University.jpg|right|thumb|[[1895年]](明治28年)に戦勝祝賀を行う[[慶應義塾大学]]の炬火行列大運動会(カンテラ行列)]]
 
[[File:Weihaiwei surrender.jpg|thumb|「威海衝陥落北洋艦隊提督丁汝昌降伏ノ図」 [[右田年英]]画 1895年(明治28年)。外国軍顧問団を連れて降伏する丁を描いた絵。ただし、丁は降伏せずに自殺しており、この絵は想像で描かれたもの。]]
 
[[File:Admiral Ding Juchang of the Chinese Beiyang Fleet, Totally Destroyed at Weihaiwei,.jpg|thumb|「提督丁汝昌於官宅自殺図」 [[水野年方]]画 1895年(明治28年)]]
 
{{Main|威海衛の戦い}}
 
[[12月4日|12月14日]]、大本営が山東作戦の実施を決定した。第二軍司令部・連合艦隊司令部との調整後、翌年[[1月8日]]に実施計画が固まった。作戦の目的は、直隷決戦に向けて制海権を完全に掌握するため、威海衛湾に立てこもる北洋艦隊の残存艦艇と、海軍基地の破壊にあった。20日、4艦の砲撃援護の下、[[山東半島]]先端に[[海軍陸戦隊]]等が上陸し、栄城湾に[[歩兵第16連隊]]等が上陸を始めた(26日夜、最後の輸送船4隻が到着)。26日、[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]と[[第6師団 (日本軍)|第六師団]]が並進を開始した(目標地点まで移動距離、約60km)。30日、陸戦用の防御設備があったにもかかわらず、清軍の抵抗が強くなかったため、半日で威海衛湾の南岸[[要塞]]を制圧した(日本軍の戦死54人、負傷152人)。陸上での清軍の抵抗は、[[2月1日]]で終わり、翌日、日本軍は、北岸要塞などを無血占領し、湾の出入口にある要衝の劉公島と日島、停泊中の北洋艦隊を包囲した。なお[[1月30日]]、占領砲台を視察していた歩兵第11旅団長[[大寺安純]]陸軍少将が敵艦の砲撃を受け、戦傷死した。
 
 
 
劉公島・日島の守備隊と北洋艦隊の残存艦艇は、孤立しても健在であり、旗艦「定遠」の30センチ砲などで抗戦を続けた。しかし、水雷艇による[[魚雷]]攻撃に加え、日本艦隊の艦砲および対岸から日本軍に占領された砲台の備砲が砲撃を続け、清側の被害が大きくなると、清の陸兵とお雇い外国人は、北洋艦隊の提督[[丁汝昌]]に降伏を求めた。[[2月11日]]、降伏を拒否していた丁提督は、北洋通商大臣[[李鴻章]]に打電後、服毒自決。14日の両軍の合意に基づき、17日に清の陸海軍将兵とお雇い外国人が解放された。
 
 
 
==== 遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領) ====
 
2度目の[[海城市|海城]]防衛戦が終わった1月下旬から、第一軍司令部と大本営の間で、新作戦を巡る駆引きが生じた<ref>以下、原田 (2008)、207-223頁。</ref>。前者は、[[遼陽市|遼陽]]と[[営口市|営口]]付近の清軍掃討を求めており、後者は、その作戦が直隷決戦を妨げかねない、と拒否していた。最終的に両者の譲歩により、掃討作戦の範囲を縮小して3月上旬に作戦を完了することが決まった。[[3月2日]]、第五師団は、前衛が[[鞍山市|鞍山站]]に進出したものの、すでに清軍が撤退しており、撃破できなかった。三方を包囲されていた海城の第三師団は、[[2月28日]]死傷者124人を出しながら主力部隊が北方に進撃し、[[3月2日]]鞍山站に進出した。4日、合流した第三・第五師団が[[海城市#牛荘鎮|牛荘]]を攻撃し、退路を断たれた清軍と市街戦になったものの、翌日午前1時頃までに掃討戦が終わった。
 
 
 
[[2月21日]]、太平山の戦闘で第一師団(第二軍)がダメージを負っていた(戦死29人、負傷285人、凍傷4,188人)。[[3月4日]]、再び清軍が動いたものの、第一師団の反撃で後退した。6日、第一師団は、追撃戦に移り、翌7日、抵抗をほとんど受けることなく、営口を占領した(西洋列強の領事館と外国人居留地があるため、両軍とも市街戦に消極的)。9日、日清戦争最大の三箇師団が参加し、[[遼河]]対岸の渡河地点[http://ww1.m78.com/sib/denshodai.html 田荘台を攻撃した](清軍2万人、砲40門)。一時間ほどの砲撃戦で戦況の帰趨<small>(きすう)</small>が決まり、田荘台の攻略に成功した。しかし、攻略直後に第一軍司令部は、全軍撤退と清軍の反攻拠点にならないよう「[[大窪県|田荘台]]焼夷」とを命じ、全市街を焼き払わせた。
 
 
 
なお作戦完了により、第五師団と[[役種#日本陸軍|後備]]諸隊が西から営口、牛荘、鞍山站、[[鳳城市|鳳凰城]]、[[振安区|九連城]]までの広大な地域の守備にあたり、残りの六箇師団と臨時[[第7師団 (日本軍)|第七師団]](屯田兵団の再編)で直隷決戦の準備が始まった。[[3月16日]]、参謀総長[[小松宮彰仁親王]]陸軍大将が征清大総督に任じられ、26日、第二軍司令部が大本営の新作戦命令を受領した。その後、[[山海関]]東方の洋河口への上陸準備のため、近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に移動した(後記の通り当時、下関で講和交渉が行われており、直隷決戦の具体的準備は、日本側の大きな切り札であった)。
 
 
 
==== 台湾海峡の要衝、澎湖列島の占領 ====
 
台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、[[澎湖諸島|澎湖列島]](馬公湾が天然の良港)を占領することとした<ref group="*">福島県立図書館「佐藤文庫」所蔵、「日清戦史」草案中の「第十六編第七十二章第二草案 南方作戦に関する大本営の決心及びその兵力」には、開戦後間もない1884年8月9日の陸海軍参謀会議で澎湖列島、台湾の領有が「将来東亜の覇権を握り太平洋の海上を制するに極めて必要」とされていた。中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、165〜168頁。もっとも両島領有の構想は、開戦以前にさかのぼる。山本四郎『日本史研究』75号、1964年11月。中塚明『日清戦争の研究』青木書店。なお、これらの研究は、1887年2月陸軍[[参謀本部]]第二局長[[小川又次]]陸軍大佐による「清国征討対策案」も紹介した。この「第二編 作戦計画」では「明治25年に準備を完了し、乗ずべき機を窺うべきである」とし、「第三編 善後処置」では「戦勝条約の時に在りて必ず左の六要衛を本邦の版図に帰せざるべからず」として1)旅順半島、2)山東登州府、3)浙江省舟山群島、4)澎湖群島、5)台湾全島、6)揚子江沿岸左右十里の地、を挙げていた。</ref>。南方派遣艦隊(司令長官[[伊東祐亨]]海軍中将)の旗艦[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]が座礁し、予定より遅れたものの、[[3月23日]]、混成支隊<ref group="*">戦闘部隊は、東京湾警備の後備歩兵第一連隊(後備連隊は二箇大隊編成)、下関海峡警備の[[歩兵第12連隊]]第二大隊、山砲一箇中隊(6門)、騎兵5騎。</ref>が澎湖列島に上陸を始めた。海軍陸戦隊が砲台を占領するなど、26日に作戦が完了。ただし、上陸前から輸送船内でコレラが発生しており、しかも島内は不衛生で飲料水が不足した。そのため、上陸後にコレラが蔓延し、陸軍の混成支隊6,194人(うち民間人の軍夫2,448人)のうち、発病者1,945人(908人)、死亡者1,257人(579人)もの被害がでた。同支隊のコレラ死亡率20.3% (23.7%)<ref>大谷 (2006)、141-142頁。</ref>。
 
 
 
==== 休戦・講和 ====
 
[[画像:Japan China Peace Treaty 17 April 1895.jpg|thumb|1895年4月17日に調印された下関条約]]
 
{{Main|下関条約}}
 
[[1895年]](明治28年)[[3月19日]](光緒21年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]])、清の全権大使[[李鴻章]]が[[北九州市|門司]]に到着した。[[下関市|下関]]での交渉の席上、日本側の台湾割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論した。しかし、24日に日本人暴漢が李を狙撃する事件が起こり、慌てた日本側が講話条件を緩和して早期決着に動いたため、30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島を除く)。[[4月17日]]、日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲([[遼東半島]]・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当<ref>川島 (2010)、9頁。</ref>)、日本に[[最恵国待遇]]を与えること等が決まった。[[5月8日]]([[4月14日 (旧暦)|4月14日]])、清の[[煙台|芝罘]]で批准書が交換され、条約が発効した。
 
 
 
=== 三国干渉 ===
 
[[画像:Convention of retrocession of the Liatung Peninsula 8 November 1895.jpg|thumb|1895年11月8日、遼東還付条約に調印]]
 
{{Main|三国干渉}}
 
調印された日清講和条約の内容が明らかになると、ロシアは、日本への遼東半島割譲に反発した。[[4月23日]]、フランス・ドイツと共に、日本に対して清への遼東半島還付を要求した(三国干渉)。翌24日、広島の[[御前会議]]で日本は、列国会議を開催して遼東半島問題を処理する方針を立てた。しかし25日早朝、病床に就く[[陸奥宗光|陸奥]]外相が訪ねてきた伊藤首相に対し、1) 列国会議は三国以外の干渉を招く可能性が、2) 三国との交渉が長引けば清が講和条約を批准しない可能性があるため、三国の要求を即時受け入れるとともに、清には譲歩しないことを勧めた<ref>佐々木 (2010)、146-147頁。</ref>。
 
 
 
[[5月4日]]、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場を採ったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。翌5日、干渉してきた三国に対し、遼東半島の放棄を伝えた。なお[[11月8日]]、清と[[遼東還付条約]]を締結し、還付報奨金として3,000万両を得た(第二条)。
 
 
 
=== 台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)===
 
{{Main|台湾民主国|乙未戦争}}
 
日本は、[[5月8日]]の日清講和条約発効後、割譲された台湾に[[近衛師団]](歩兵[[連隊]]と砲兵連隊が二箇[[大隊]]で編成され、他師団より小規模)を派遣した。29日に近衛第一[[旅団]]が北部に上陸を始め、[[6月17日]]に台北で[[台湾総督府]]始政式が行われた後、19日に南進が始まった。しかし、流言蜚語などによる武装住民の抵抗が激しいため、予定していた近衛第二旅団の南部上陸を中止し、北部制圧後の南進再開に作戦が変更された。増援部隊として編成された混成第四旅団([[第2師団 (日本軍)|第二師団]]所属の歩兵第四旅団が基幹)と警備用の後備諸部隊が到着する中、[[7月29日]]、ようやく旧台北府管内を制圧した。
 
 
 
[[8月28日]]、近衛師団が中部の[[彰化市|彰化]]と[[鹿港鎮|鹿港]]まで進出し(ただし病気等で兵員が半減)、[[9月16日]]、[[台南市|台南]]を目指す南進軍が編成された。10月、すでに台湾平定に参加していた混成第四旅団を含む第二師団が南部に分散上陸し、[[10月21日]]、日本軍が台南に入った。[[11月18日]]、大本営に全島平定が報告された(参加兵力:二箇師団と後備諸部隊などを含め、[[将校]]同等官1,519人、[[下士官]][[兵|兵卒]]48,316人の計49,835人、また民間人の軍夫26,214人<ref>大谷 (2006)、164頁。</ref>)。軍政から民政に移行した翌日、[[1896年]](明治29年)[[4月1日]]に大本営が解散された。
 
 
 
なお犠牲者は、平定した日本側が戦死者164人、[[マラリア]]等による病死者4,642人に上った。女性子供も参加した[[ゲリラ]]戦などによって抵抗した台湾側が兵士と住民およそ1万4千人死亡と推測されている<ref>原田 (2007)。隅谷三喜雄『大日本帝国の試練』日本の歴史22、中央公論新社〈中央文庫〉、2006年。ISBN 4-12-200131-5</ref>。
 
 
 
== 年表 ==
 
;1894年
 
* 3月 東学党、朝鮮[[全羅道]]で蜂起(その後[[甲午農民戦争]]に拡大)
 
* 5月27日か28日 代理公使[[杉村濬]]より、朝鮮が「兵を[[支那]]に借り」る動きあり、と外務省に通報
 
* 5月31日 朝鮮政府、清への援兵を決議。[[第2次伊藤内閣|伊藤内閣]]、[[内閣不信任|内閣弾劾上奏決議]]案が可決されて難局に直面
 
* 6月1日 杉村、「[[袁世凱]]いわく朝鮮政府は清の援兵を請いたり」と打電
 
* 6月2日 伊藤内閣、衆議院解散と清が朝鮮に出兵した場合に公使館・居留民保護のための朝鮮出兵とを閣議決定
 
* 6月4日 清の[[北洋通商大臣]][[李鴻章]]、朝鮮出兵を指令
 
* 6月5日 参謀本部内に[[大本営]]を設置(形式上[[戦時]]に移行)
 
* 6月6日 [[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]に基づき、清が日本に朝鮮出兵を通告
 
* 6月7日 日本も同条約に基づき、清に朝鮮出兵を通告
 
(以後、日清両軍が朝鮮に上陸するとともに、日清間と日朝間の交渉、さらにイギリスとロシアが日清間の紛争に介入)
 
* 7月9日 清の[[総理各国事務衙門|総理衙門]]がイギリスの調停案を拒絶
 
* 7月10日 駐露公使[[西徳二郎]]より、これ以上ロシアが干渉しない、との情報が外務省に届く。
 
* 7月11日 伊藤内閣、清のイギリス調停案拒絶を非難するとともに、清との国交断絶を表明する「第二次絶交書」を閣議決定
 
* 7月16日 [[日英通商航海条約]]の調印([[領事裁判権]]撤廃を達成)。清、[[軍機処]]などの合同会議で開戦自重を結論とし、18日に上奏
 
* 7月20日 駐朝公使[[大鳥圭介]]、朝鮮政府に対して最後通牒(回答期限22日)
 
* 7月23日 日本軍、朝鮮王宮を占領。国王高宗を手中にする。日本側の圧力により、[[興宣大院君|大院君]]が国政総裁に就任
 
* 7月25日 大院君、清との宗藩関係解消を宣言し、大鳥に牙山の清軍掃討を依頼。[[豊島沖海戦]]([[高陞号事件]])
 
* 7月29日 牙山に向かった日本軍と清軍が交戦し、前者が勝利([[成歓の戦い]])
 
* 8月1日 日清両国、互いに宣戦布告
 
* 8月5日 大本営、参謀本部内から[[宮中]]に移動
 
* 9月13日 大本営、戦争指導のために広島移転([[広島大本営]])
 
* 9月15日 明治天皇、広島に入る。[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌攻略戦]]で日本軍が勝利
 
* 9月17日 [[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]で日本艦隊が勝利。その結果、日本が制海権をほぼ掌握
 
* 9月19日 李鴻章、持久戦(西洋列強の介入を期待)等を上奏
 
* 10月24日 日本の[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]が[[鴨緑江]]渡河を開始し、[[第2軍 (日本軍)#日清戦争における第2軍|第二軍]]が[[遼東半島]]上陸を開始
 
* 11月21日 第二軍、[[旅順|旅順口]]を占領。その後、[[旅順虐殺事件]]が発生
 
;1895年
 
* 2月1日 広島で清との第一次講和会議(翌日、日本が委任状不備を理由に交渉拒絶)
 
* 2月中旬 陸海軍共同の[[威海衛|山東作戦]]完了。日本が制海権を完全に掌握
 
* 3月上旬 第一軍、[[日清戦争#遼河平原の作戦|遼河平原作戦]]完了。日本が遼東半島全域を占領
 
* 3月16日 [[直隷]]決戦に備え、参謀総長[[小松宮彰仁親王]]陸軍大将が征清大総督に任じられる。
 
* 3月19日 講和全権の李鴻章、[[北九州市|門司]]到着(翌日から[[下関市|下関]]で交渉)
 
* 3月24日 李鴻章、暴漢に狙撃される(日本、条件を緩和して講和を急ぐ)。
 
* 3月30日 日清休戦条約の調印
 
* 4月17日 [[下関条約|日清講和条約]]の調印(5月8日、発効)
 
* 4月23日 ロシア・フランス・ドイツ、清への遼東半島返還を要求([[三国干渉]])
 
* 5月4日 伊藤内閣、遼東半島返還を閣議決定
 
* 5月5日 日本がロシア・フランス・ドイツに遼東半島返還を伝える。
 
* 5月29日 日本軍、割譲された台湾北部に上陸を開始
 
* 5月30日 明治天皇、広島から東京に還幸
 
* 6月17日 日本が[[台湾]]に[[台湾総督府]]を設置
 
* 8月6日 [[台湾総督府]]条例により、台湾で[[軍政]]を敷く。
 
* 10月8日 朝鮮で[[乙未事変]]([[閔妃]]暗殺事件)発生
 
* 11月8日 清と[[遼東還付条約]]を締結
 
* 11月18日 [[台湾総督]]、大本営に全島平定を報告
 
;1896年
 
* 2月 朝鮮で親露派のクーデターが成功し([[露館播遷]])、日本が政治的に大きく後退
 
* 3月31日 台湾総督府条例公布により、軍政から再び民政に移行
 
* 4月1日 大本営の解散
 
;1900年
 
* [[台湾製糖]]の設立
 
;1906年
 
* [[大日本製糖]]の台湾進出
 
 
 
== 両国の戦争指導と軍事戦略 ==
 
=== 日本 ===
 
日本は、日清戦争全体を通して主戦論で固まり、政治と軍事が統一されていた<ref>この項目の出典は、原田 (2007)、68-71頁。</ref>。開戦前の[[5月30日]]、衆議院で[[内閣不信任案|内閣弾劾上奏案]]を可決する等、条約改正など外交政策をめぐって伊藤内閣と激しく対立する[[硬六派|対外硬六派]]も、開戦後、その姿勢を大きく変えた。解散総選挙後、広島に召集された[[第7回帝国議会|臨時第七議会]]で、政府提出の臨時軍事費[[予算]]案(その額1億5,000万円は前年度一般会計歳出[[決算]]額8,458万円の1.77倍)を満場一致で可決する等、伊藤内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり開戦により、反政府的な[[排外主義]]的ナショナリズムが、これを抑えてきた政府の支持に回ったのである。また、反政府派の衆議院議員だけでなく、知識人も清との戦争を支持した。たとえば、対清戦争について[[福澤諭吉]]は「文野〔文明と野蛮〕の戦争」<ref group="*">「文野〔文明と野蛮〕の戦争」とは、文明開化を図る国(日本)とそれを妨げる国(清)との戦争を意味する。加藤 (2002)、115頁。</ref>と位置づけ(『時事新報』1894年7月29日)、[[内村鑑三]]は「義戦」と位置づけた<ref>佐谷 (2009)、38-44頁。</ref>。なお、内村と同じように10年後の日露戦争で非戦〔反戦〕の立場をとる[[田中正造]]も、対清戦争を支持していた<ref>加藤 (2009)、124頁。</ref>。そうした一種の戦争熱は、民間の義勇兵運動の広がり、福沢や有力財界人などによる軍資金献納にも現れた。清との戦争は、まさに挙国一致の戦争であった。
 
 
 
[[6月5日]]、参謀本部内に史上初めて[[大本営]]が設置され、形式上[[戦時]]に移行した。[[8月4日]]、大本営が'''「作戦大方針」'''を完成させ、翌日、天皇に上奏された。大方針では、[[渤海湾]]沿岸に陸軍主力を上陸させて清と雌雄を決すること([[直隷]]決戦)が目的とされ、このための作戦が二期に分けられた。第一期作戦は、朝鮮に[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]を送って清軍をけん制、残りの陸海軍が出動準備と国内防衛、海軍が清の北洋水師(北洋艦隊)掃討と[[黄海]]・渤海湾の制海権掌握とされた。第二期作戦は、第一期作戦の進行、つまり制海権で三つが想定された。(甲)制海権を掌握した場合、直隷平野([[北京]]周辺)で決戦を遂行、(乙)日本近海だけ制海権を確保した場合、朝鮮に陸軍を増派し、朝鮮の独立確保に努力、(丙)制海権を失った場合、朝鮮に残された第五師団を援助しつつ、国内防衛とされた。[[8月14日]]、朝鮮半島南部に待機中の[[連合艦隊]]から「自重ノ策」をとると打電された大本営は、第二期作戦を(乙)で進めることにし、各師団長に訓示した([[第3師団 (日本軍)|第三師団]]には出動命令)。31日、大本営は、'''「冬季作戦大方針」'''を定め、上記「作戦大方針」の(乙)を(甲)に変更し、直隷決戦を行うことにした。しかし、実際に制海権をまだ掌握していないため、1)直隷決戦の根拠地として旅順半島の攻略確保、2)清軍を南満洲に引きつけるための陽動作戦([[瀋陽市|奉天]]攻撃)を実施、3)陽動作戦の準備として清軍が集結する[[平壌市|平壌]]を攻略するとされた。翌[[9月1日]]、まず3)を実施するため、[[第1軍 (日本軍)#日清戦争における第1軍|第一軍]]が編成された。
 
 
 
なお、当時の戦争指導は、政治主導であった<ref>以下、明記されていない出典は、戸部 (1998)、159-163頁。</ref>。天皇の特旨により、本来メンバーではない山縣[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]と伊藤首相と陸奥外相が大本営に列席し<ref group="*">開戦前の7月17日、大本営で開かれた最初の[[御前会議]]に山縣枢密院議長が列席し、同月26日の会議に伊藤首相の出席が認められた。黒野 (2004)、89-90頁。</ref>、伊藤首相は西洋列強の思惑を踏まえた意見書を提出することもあった(山東作戦の実施決定と台湾攻略に大きく影響)。
 
 
 
政治が軍事をリードできた要因として、第一に[[統帥権]]独立の制度を作った当事者達であったため、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースで柔軟に対処できたことが挙げられる。第二の要因として、指導層の性格が挙げられる。当時の指導層は、政治と軍事が未分化の[[江戸時代]]に生まれ育った[[武士]]出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれた。したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は帝国主義下の国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた([[陸軍大学校]]・[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者に上りつめていない時代)。関連して[[藩閥]]の存在も挙げられ、軍事に対する「政治の優位」つまり「藩閥の優位」でもあった。なお、そうした要因は、日露戦争後しだいに失われたものの、[[第一次世界大戦]]後にはいわゆる「[[大正デモクラシー]]」を経て[[議会制民主主義]]が根付くと見られた。しかし[[1930年代]]初頭の[[世界恐慌]]後に軍による主導にシフトすることになる。
 
 
 
=== 清 ===
 
日本と比して広大な国土と莫大な兵力を持つ清は、1884年当時、圧倒的に優勢と思われていた<ref>{{Cite news
 
|title = 中国は今の人民解放軍で本当に戦えるのか 中国株式会社の研究(253)〜自衛隊と人民解放軍の違い
 
|author = [[宮家邦彦]]
 
|newspaper = [[日本ビジネスプレス]]
 
|date = 2014-08-22
 
|url = http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41549
 
|accessdate = 2014-08-23
 
}}</ref>。
 
 
 
しかし、挙国一致の日本と交戦する清は、そもそも平時から外交と軍事が不統一であった。[[光緒帝]]の親政下、外交・洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を所管する[[総理各国事務衙門|総理衙門]]([[愛新覚羅奕キョウ|慶親王]]等)と軍務を所管する[[軍機処]]([[礼親王]]等)とが分離したままであった(開戦後の[[9月29日]]、戦争指導のために外交と軍事を統括するポストが新設)。その上、外交が一体化されていなかった。貿易港全体を管轄するとはいえ、決定権のない総理衙門(首都[[北京]])と、[[天津市|天津港]]に限られるとはいえ、[[欽差大臣]]として全権を持つ[[北洋通商大臣]]李鴻章(天津)とが二元的に外交を担っていたのである。とくに対朝鮮外交は、対ロシア交渉で譲歩を引き出した[[イリ条約]]締結年の[[1881年]](光緒7年)以降、[[礼部]]から兵権をもつ北洋通商大臣の直轄に移行し、朝鮮で[[総理朝鮮交渉通商事宜]]をつとめる[[袁世凱]]と密接に連絡をとる李が総理衙門と対立していた。
 
 
 
軍事も外交と同じように、開戦時に一体化されていなかった。常備する陸海軍の兵権が分散されていたこともあり(実質的な私兵化)、当初、日本との開戦は、国家を挙げた戦争ではなく、北洋通商大臣の指揮するものと位置づけられた。同大臣の李は、元々[[渤海 (海域)|渤海]]沿岸の3省([[河北省|直隷]]・[[山東省|山東]]・[[遼寧省|奉天]])の海防とそのための兵権、3省の[[総督]]に訓令できる権限、朝鮮出兵の権限を与えられていた。また、北洋水師([[北洋艦隊]])を統監するとともに、私費を投じて編成した勇軍の一つ、いわゆる[[北洋軍閥|北洋陸軍]]を抱えていた。しかし開戦後、[[瀋陽市|盛京]]将軍[[宋慶]]に隷属する[[東三省]]の錬軍(正規軍[[八旗]]の流れをくむ精鋭部隊)も前線に投入されたので、二元統帥に陥る可能性があった[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/qing%20military%20system.html]。そのため[[12月2日]]、欽差大臣[[劉坤一]]に[[山海関]]以東の全兵権が与えられた。
 
 
 
このように外交と軍事が錯綜する清には、開戦直前、李や官僚の一部、[[西太后]]等の無視できない戦争回避派がいた。[[7月16日]]、軍機処と総理衙門などの合同会議では、開戦自重を結論とし、18日に上奏された。そのこともあって李は、結果的に兵力を逐次投入してしまう。しかし[[9月15日]]、[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌で敗れる]]と、戦略を大きく転換した。19日、上奏文により、日清戦争について北洋通商大臣の指揮する戦闘から、国家を挙げての戦争と位置づけ直し、[[持久戦]]をとるよう提案した。持久戦で西洋列強の調停を期待し、それから日本との講和に臨む構想であった。[[9月29日]]、[[恭親王]]に外交・軍事を統括する最重要の権限が与えられる等、ようやく清でも国家を挙げて戦う体制が整えられ始めた。
 
 
 
しかし、肝心な兵力にも問題があった。攻守を左右する制海権で重要な役割を果たす海軍力は、海軍費が西太后の欲する[[頤和園]]修復に使われた<ref group="*">[[1888年]](明治21年)以降、海軍費の90%が使われた、といわれる。その金額は、「定遠」型10隻以上の建造費に相当する([[インフレーション]]等を考慮しない名目値での試算)。戸高 (2011)、119-120頁。</ref>(ただし異説あり<ref>川島 (2010)、6-7頁。</ref>)など、増強が進んでいなかった。たとえば、清の4 艦隊(北洋・南洋・福建・広東)のうち、戦闘能力の最も高い北洋艦隊でさえ、開戦4年前の[[1890年]](明治23年)に就役した巡洋艦「[[平遠 (装甲巡洋艦)|平遠]]」([[排水量]]2,100t)が最後に配備された新造艦であった。実質的に制海権の帰趨{{small|(きすう)}}を決めた[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]では、[[1892年]](明治25年)に就役し、広東水師([[広東艦隊]])から編入されていた「[[広丙 (装甲巡洋艦)|広丙]]」(排水量1,000t)が参加するものの、対する日本艦隊は、[[1891年]](明治24年)以降に就役した巡洋艦6隻(いずれも平遠を上回る排水量で、うち4隻が4,200t級)<ref group="*">「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」と「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」と「[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]」の[[松島型防護巡洋艦|松島型]]3艦、「[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]]」、「[[秋津洲 (防護巡洋艦)|秋津洲]]」、「[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]」の計6隻</ref>が参加した。
 
 
 
問題は、海軍力だけでなく、陸軍力にもあった。[http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/qing%20military%20system.html 開戦時、常備軍の錬軍と勇軍には、歩862営(1営当たり平均350人)、馬192営があり、その後、新募兵の部隊が編成された。]しかし、そうした諸部隊の間には、士気や練度や装備などの差があり、文官の指揮で実戦に参加する部隊もあるなど、近代化された日本軍と対照的な側面が多かった。なお清の陸兵は、しばしば戦闘でふるわず、やがて日本側に「弱兵」と見なされた(日本の[[従軍記者]]は、清の弱兵ぶり、[[木口小平]]など日本兵の忠勇美談を報道することにより、結果的に後者のイメージを祖国のために戦う崇高な兵士にして行った<ref group="*">{{Quotation|操江号に乗れる〔清の〕募集兵のいふ所によれば、一ケ月の給料は三両の取極めにして、無事に帰国したる時は別に三十両を給与せらる。その外、何の条件もなしとか。此説を聞ける[[長崎市|長崎]]居留の西洋人等は、さすが[[支那]]なり、……、戦死したる時は遺族にかうするとか、負傷者にはどうするとか云はざるは旨い考えなり。しかし兵卒の方でも、生きて帰れば三十両にあり付き、死んでしまへばそれきりということを知りておるから、討死する馬鹿なく、[[軍旗]]でも鉄砲でも打棄て逃げるのは当り前だと冷評し……{{small|(注:原文は句読点がなく、また漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}|『東京日日新聞』1894年8月10日。}}以上、佐谷 (2009)、65-68頁。</ref>)。
 
 
 
== 戦費と動員 ==
 
=== 戦費 ===
 
戦費は、2億3,340万円(内訳:[[臨時軍事費特別会計]]支出2億48万円、[[一般会計]]の臨時事件費79万円・臨時軍事費3,213万円)で、開戦前年度の一般会計[[歳出]]決算額8,458万円の2.76倍に相当した<ref>坂入 (1988)、75-76頁。</ref>。うち臨軍特別会計(1894年6月1日〜1896年3月末日)の支出額構成比は、陸軍費が82.1%(人件費18.4%、糧食費12.4%、被服費10.8%、兵器弾薬費5.6%、運送費16.9%、その他18.0%)、海軍費が17.9%(人件費1.1%、艦船費6.4%、兵器弾薬費・[[水雷]]費5.0%、その他5.4%)であった<ref>『明治大正財政詳覧 {{small|<創立80周年記念復刻>}}』東洋経済新報社、1975年(1926年初版)、496-497頁。江見・塩野谷 (1966)、190頁。</ref>。臨軍特別会計の収入額は、2億2,523万円であり、主な内訳が[[国債|公債金]](内債)51.9%、賠償金35.0%、1893年度の[[国庫]]剰余金10.4%であった(臨軍特別会計の剰余金2,475万円)。なお、1893年度末の[[日本銀行]]を含む全国銀行預金額が1億152万円であったため、上記の軍事公債1億1,680万円の引き受けが容易でなく、国民の愛国心に訴えるとともに地域別に割り当てる等によって公債募集が推進された。
 
 
 
=== 動員(軍夫の大規模雇用) ===
 
[[1893年]](明治26年)、陸軍が戦時編制を改め、翌年度から新編成が適用された。その1894年度[[動員]]計画では、野戦七箇師団<ref group="*">近衛師団は他師団と異なり、歩兵連隊と砲兵連隊が三箇大隊ではなく二箇大隊で編成されていた。</ref>と[[兵站|兵站部]]、守備諸部隊(北海道の[[屯田]]兵団を含む)など、人員220,580人、馬47,221頭、野戦砲294門を動員できる態勢であった<ref>大谷 (2006)、7頁。</ref>。なお、動員計画上、戦時の一箇師団は、18,500人と馬5,600頭で編制されることになっていた。
 
 
 
実際の動員([[召集令状#日本陸軍における召集|充員召集]])は、[[6月5日]]に[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]の歩兵第九旅団から始まり、[[7月12日]]に残りの歩兵第十旅団が続いた(朝鮮半島の地形等が考慮され、野戦砲兵連隊の装備が[[野砲]]から[[山砲]]に変更)。[[7月24日]]に[[第6師団 (日本軍)|第六師団]]が、[[8月4日]]に[[第3師団 (日本軍)|第三師団]]が、[[8月30日]]に[[第1師団 (日本軍)|第一師団]]が動員に入り、また10月上旬に[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]が動員を終えた<ref group="*">第二師団は、10月末から広島に移動を始めたものの、そこにしばらく滞在した。翌年[[1月6日]]午前11時、広島城内の大本営で将校が天皇に拝謁し、午後3時半より旧藩主、浅野邸で立食と「義勇」の金文字が入った天盃とを下賜された。宴は無礼講になり、午後7時に解散。[[威海衛]]を攻略するため、12日頃から宇品を出航し、20・21日に山東半島に上陸した。大谷 (2006)、97頁。</ref>。[[近衛師団]]は[[10月8日]]戦闘部隊の動員が終わったものの、派兵が決まらなかったため、兵站部などを含めた動員の完了が翌年[[2月16日]]となった。[[第4師団 (日本軍)|第四師団]]も[[12月4日]]戦闘部隊の動員が終わり、翌年3月上旬に動員が完了した。その後、遼河平原での作戦が完了すると(1895年[[3月9日]]に[[大窪県|田荘台]]を攻略)、第二期作戦([[直隷]]決戦)の準備が始まった。[[3月16日]]に参謀総長[[小松宮彰仁親王]]陸軍大将が征清大総督に任じられ、直隷決戦で先陣を務める近衛師団と第四師団が広島から遼東半島に向かった。
 
 
 
最終的に計画を上回る240,616人が動員され、うち174,017人 (72.3%) が国外に出征した。ただし第四師団など、実戦を経験しないまま帰国した部隊もある。また、文官など6,495人、主に国外で運搬に従事する民間人の軍夫<ref group="*">1)軍夫は、兵站部だけでなく、野戦師団にも多数配属された。野戦師団では、輜重兵大隊(糧食縦列)、弾薬大隊(歩兵と砲兵弾薬縦列)、工兵隊の架橋縦列の主な担い手であった。しかし軍夫の衣服は、出発時に自弁であったため(ただし山形県のように有料で衣服一式を支給したケースもある)、笠{{small|(かさ)}}をかぶって法被{{small|(はっぴ)}}と股引{{small|(ももひき)}}を着て草鞋{{small|(わらじ)}}を履くといった当時の和装であった。しかも日本刀を差し、ピストルを所持する軍夫もいたため、来日経験のない外国人に不正規兵と見られることもあった。その後、[[戦時国際法]]に抵触しないよう日本刀などが取り上げられた。_2)軍夫の募集は、軍指定の請負業者が担当した。その末端に博徒がいるケースも少なくなく(ただし第二師団は、県の兵事担当者に軍夫募集への協力を要請し、行政機関が募集の軸になった)、素行のよくない軍夫もいたので、広島など滞在地で「軍夫問題」が生じた。問題の多くが請負業者の[[ピンはね]]、飲酒によるトラブルであった。軍夫の日給は、国内40銭、国外50銭であったが、ピンはねだけでなく、賭博に誘われた純朴な軍夫が金を巻き上げられる等の問題もあった。大谷 (2006)。</ref>10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した(10年後の日露戦争では、軍夫(民間人)の雇用に代わり、兵役経験のない未教育者を補助輸卒として多数動員)。なお、20-32歳の[[役種#日本陸軍|兵役年齢]]層について戦闘員の'''動員率5.7%(国外動員率4.1%)'''と推計される<ref group="*">20-32歳の兵役年齢を超える[[将官]]等を含む陸軍戦闘員240,616人(うち国外動員174,017人)/ 4,235,114人(開戦前[[1893年]]の19-31歳男性人口の推計値)。なお19-31歳層は、男性総数の20.3%を占めたと推計。資料:[[総務省|総務庁]]統計局 (1987)、72頁。</ref>。
 
 
 
近代陸軍のモデルである仏独の陸軍は、鉄道と運河を使えない所で物資輸送を馬に頼っており、また日本陸軍はドイツ陸軍を手本に兵站輸送計画を立てていたにもかかわらず、物資の運搬を人([[背負子]]{{small|(しょいこ)}}と一輪車、[[大八車]])に頼った主因は、馬と馬糧の制約<ref group="*">馬と馬糧の制約としては、日本産馬が質量ともに貧弱であったこと(馬の数が少なく、在来種の体躯が貧弱な上に、牡馬が去勢されず、蹄鉄が不完全など調教法にも問題があった)、馬産地が北海道と東北、九州に偏在していたこと、朝鮮半島など戦地での馬糧確保が困難と想定されていたことが挙げられる。なお、戦地に携行する携帯馬糧は[[玄米]]二升五合で、干し草は現地調達が原則であり、仮に1894年度の動員計画通り戦地で4万頭ほどの馬を使うと、この馬糧の重量と体積は、兵士数十万人分の食糧に相当するとされる。大谷 (2006)、6、8頁。</ref>にあった。特に馬の制約は、最初に出動した第五師団で強かった。同師団は、徴馬管区内の馬が少なかったこともあり、乗馬669頭と駄馬789頭の動員にとどまった(上記の通り装備から野砲を外したため、砲兵用の輓馬0頭)。しかも徒歩車輌(大八車)を用意せず、現地徴発の朝鮮人人夫と馬がしばしば逃亡したため、[[兵站]]部所属の軍夫1,022人(戦闘部隊所属を含む軍夫の総計5,191人)が駄馬を引き、背負子で物資を運搬するだけで足りず、ときに戦闘員も兵站部の物資運搬に従事した。
 
 
 
=== 軍紀(戦地軍法会議での処罰者数) ===
 
戦地[[軍法会議]]による処罰者が1,851人いた<ref>この項目の出典は、戸部 (1998)、144-147頁。</ref>。そのうち軍人が約3割、軍夫が約7割を占め、また全体の2割に当たる370人(重罪3人)が[[陸軍刑法]]違反で、残り8割の1,481人(重罪38人)が[[刑法]]などその他の法令違反であった。
 
 
 
国外動員の陸軍軍人174,017人のうち、500人台(0.3%前後)が処罰された。内訳は、対上官暴行が6人(重罪3人)、逃亡罪が11人(軍人以外は307人)であった。平時の生活とかけ離れた戦場の中でも、軍紀は、おおむね保たれたと考えられている。ただし、戦地軍法会議にかけられなかった[[旅順虐殺事件]]が発生しており、1894年(明治27年)[[6月29日]]付けの参謀総長から混成旅団長宛の訓令「糧食等の運搬は全て徴発の材料を用うべき事」を受けて「およそ、通行の牛馬は荷物を載せたると否とに関わらず之を押掌する」(杉村濬「明治二十七年在韓苦心録」)ような行為が公然と行われていた。また[[被疑者]]を特定できない等、処罰に至らなかった刑法犯罪なども当然あったと考えられる。
 
 
 
== 日本軍の損害 ==
 
防衛ハンドブック(朝雲新聞社)によれば、戦死・戦傷死1,567名、病死12,081名、変死176名、'''計13,824名'''(戦傷3,973名)<ref>『防衛ハンドブック(平成4年版)』朝雲新聞社、1992年。[http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM 第二次世界大戦等の戦争犠牲者数(近代における戦争の死傷者と戦費)]</ref>。また、陸軍省医務局編『[[明治二十七八年役陸軍衛生事蹟]]』によれば、日清戦争と台湾平定(乙未戦争)を併せて陸軍の総患者284,526人、'''総病死者20,159人'''(うち脚気以外16,095人、79.8%)であった(軍夫を含む)<ref>山下 (2008)、114頁</ref>。しばしば議論の的になった[[脚気]]については、患者41,431人、死亡者4,064人(うち朝鮮142人、清1,565人、台湾2,104人、内地253人<ref group="*">朝鮮は357日間、清は437日間、台湾は306日間、内地は574日間の値であり、また延人員もそれぞれ異なる。山下 (2008)、114頁。</ref>)であった。なお脚気問題の詳細は、[[日本の脚気史#日清戦争での陸軍脚気流行|「陸軍での脚気大流行」]]を参照のこと。
 
 
 
=== 伝染病の流行 ===
 
衛生状態が悪いこともあり、戦地で[[伝染病]]がはやった<ref group="*">食糧と水の不足が拍車をかけるケースもあった。たとえば、山東作戦では、道路事情が悪く、前線で食糧が不足した上に、[[威海衛]]が水不足で炊飯にも苦しんだ。大谷 (2006)、119頁。
 
{{Quotation|25石の米をすすぐだけの水なしのため、一通り水をかけたるままにて釜に入れ……、平時にては中々食すること能わず、しかるに……争うて食し、ことに軍夫のごときは毎朝未明より午後10時頃まで働きおるをもって、非常の空腹ゆえに飯釜に付着しおる飯粒をひろい食する者多く、ために[[赤痢]]病にかかる者は軍夫に多くそうろう。{{small|漢字の一部を平仮名に書き換えた}}|「大場軍曹の書簡」『奥羽日日新聞』1895年2月12日。}}</ref>。とりわけ台湾では、暑い季節に[[ゲリラ]]戦にまきこまれたため<ref group="*">台湾[[兵站|兵站部]]軍医部長[[藤田嗣章]]陸軍軍医(マラリアにかかって後送された[[伍堂卓爾]]の後任)は、次のように記述した。
 
{{Quotation|我軍を悩ましたのは[[亜熱帯]]地の暑中行軍もさることながら、実に各種伝染病の流行にあった。……やはりこれ〔マラリア〕にかかる者が多く、加ふるにコレラ病の猖獗{{small|(しょうけつ。悪いものが猛威をふるう意)}}がありチフス・赤痢も流行したので、戦闘死傷者に比すると病死者が多かった。|山下 (2008)、163-164頁。}}</ref>、[[近衛師団]]長の[[北白川宮能久親王]]陸軍中将がマラリアで陣没し<ref group="*">北白川宮能久親王の戦病死は、政府の公式発表。ただし戦死説、暗殺説、自殺説もある。末延芳晴『森鴎外と日清・日露戦争』平凡社、2008年、95-100頁。</ref>、近衛第二旅団長[[山根信成]]陸軍少将も戦病死したほどであった<ref group="*">また1895年5月末から台湾に上陸した近衛師団のうち、ある大隊は、「台湾熱と下痢病および戦死あるいは負傷のため」、東京出発時の1,600人から600人前後まで減少した(「谷田三等軍医の書簡」『奥羽日日新聞』1895年9月26日)。大谷 (2006)、164-165頁。</ref>。ただし、[[広島大本営]]で[[参謀総長]]の[[有栖川宮熾仁親王]]陸軍大将が[[腸チフス]]を発症したなど、国内も安全ではなかった。戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人 (39.4%) が[[コレラ]]によるものであった(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)<ref>大谷 (2006)、131頁。</ref>。次いで[[消化器疾患]]1,906人 (14.4%)、脚気1,860人 (14.1%)、[[赤痢]]1,611人 (12.2%)、腸チフス1,125人 (8.5%)、[[マラリア]]542人 (4.1%)、[[凍傷]]88人 (0.7%)。
 
 
 
最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した<ref group="*">とくに上記の通り、[[澎湖諸島|澎湖列島]]の占領を担当した混成支隊では、輸送船内で発生したコレラが上陸後に蔓延した。このため、混成支隊6,194人(軍夫2,448人)のコレラ死亡率が20.3% (23.7%) に達した。大谷 (2006)、142頁。</ref>。出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行したこともあり<ref group="*">たとえば、1895年7月、第二師団管区から占領地警備に派遣された後備歩兵第三連隊と同第四連隊が凱旋すると、疑似コレラ症状の兵卒が収容され、部隊が隔離されたものの、宮城県内でコレラが大流行した。同年9月末までに患者が2,000人になり、この7割が死亡したとされる。『仙台市史』資料編七、『宮城県史』本編七・警察の項。以上、大谷 (2006)、151-153頁。</ref>、その後、[[似島検疫所|似島]](広島)・彦島(下関)・桜島(大阪)の3ヶ所での検疫が徹底された<ref group="*">濱本利三郎『日清戦争従軍秘録』1972年によれば、入浴や消毒液に浸かる等の対策をしていた。http://uraji.paslog.jp/article/689420.html </ref>(なお日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、'''1895年40,241人'''、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の戦没者数を大幅に上回った<ref group="*">1895年は、日本のコレラ死亡者数が1万人を超えた最後の年でもあった。総務庁 (1988) 第5巻、144頁。</ref>)。
 
 
 
=== 凍傷 ===
 
当時の陸軍は、しっかりした冬季装備と厳寒地での正しい防寒方法とを持っていなかった。しかも、非戦闘時の兵士は硬くて履き心地の良くない軍靴よりも草履を履くことが多く、また物資運搬を担った民間人の軍夫は軍靴を支給されなかった。結果的に多くの兵士と軍夫が[[凍傷]]に罹り、相当な戦力低下を招いた。凍傷は、[[山東半島]]での威海衛攻略戦<ref group="*">戦地では道路がよくない上に、雪質が硬く凍った満州の氷雪より悪いため、行軍中の凍傷が多かった。大谷 (2006)、117-120頁。{{Quotation|[[山東省]]の寒気は盛京省〔[[遼寧省]]の旧称〕に比して甚だしからず、しかれども……草履をうがち氷雪の中を馳騁{{small|(ちてい。2.奔走すること)}}したる事なれば、……。[[歩兵第4連隊|第四連隊]]第二中隊第二小隊の兵士72人のうち56人まで凍傷にかかりたるがごとき……今日にいたりては既に過半平癒せし……軍夫中にはその数最も多かりしと({{small|漢字を一部、平仮名に書き換えた}})|「威海衛雑記」『奥羽日日新聞』、1895年2月24日。}}</ref>、大陸での冬営、遼河平原の作戦<ref group="*">[[海城市#海城|海城]]で孤立していた第三師団に第一師団と第五師団など援軍が送られ、1895年3月4日に[[海城市#牛荘鎮|牛荘]]、3月6日に[[営口市|営口]]、3月9日に[[大窪県|田荘台]]を攻略して終わった。旅順から増援に向かった[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]の野砲第二連隊第二大隊第三中隊・弾薬車担当、山下貴一は、1895年5月『東北新聞』に連載された「征清記」で、雪中行軍の様子を次のように書き記した。大谷 (2006)、133-135頁。{{Quotation|〔同年2月15日〕午前八時[[金州区|金州]]を発す、寒さは肌をそぐばかり、雪にきたえし奥州武士も顔見合わせて苦笑ひ、声さへたたぬ大吹雪、寒暖計は零度の下20度にあり…。16日早朝出発、見渡す限りの銀世界行けども行けどもはかどらず、日は暮れて…。……艱苦〔艱難辛苦{{small|(かんなん-しんく)}}のことか?〕といふ艱苦をなめつくしてようやく…。17日午前3時といふに携帯口糧をかみ砕き……出発す、……山嵐に狂へる雪片……その風雨の激しさ予が26年間まだかつて知らざる所にこそ、輸卒1名、軍夫1名はこの日ゆくえ知れずなり(抜粋。{{small|漢字を一部、平仮名に書き換えた}})}}</ref>などで多発した。このため戦後、そうした戦訓を基に防寒具研究と冬季訓練が行われた。そして後年、対ロシア戦を想定した訓練中に起こったのが[[八甲田雪中行軍遭難事件]]である。
 
 
 
== 民間人の被害 ==
 
日本軍は、戦地で食糧を調達するときに対価を支払っており、現地の民間人に対して略奪等の行為が皆無との見解がある。とくに軍の規律は、欧米を中心とした国際社会より高い評価を受けた<ref group="*">[[保坂正康]]『あの戦争は何だったのか』新潮社、2005年。</ref>。これは当時日本が国際社会で認められ、列強の介入を防ぐために厳格に[[国際法]]を遵守し、捕虜の扱いに関しても模範を示す必要性があったためであり<ref>[[児島襄]]『日清戦争』文藝春秋社、1977年。</ref>、[[東洋]]の君子国(徳義と礼儀を重んじる国)と称えられた。現地の人々との関係も良好で、たとえば日本軍が朝鮮半島を北上する際、畑で農作業中の農民に出会ったりすると、その作業を手伝った等の微笑ましいエピソードも残された(保坂前掲書)。
 
 
 
ただし、そうした光と異なり、影の部分もあった。兵士たちは、鉄道のない道路の悪い戦地で、補給線が伸びきったために食糧を略奪し(徴発が略奪に変わり、抵抗する清国人を殴る行為を「大愉快」と表現した軍夫<!--「軍夫」は、「動員(戦時編成)と軍夫の大規模雇用」で説明済み。なお、軍が動員した「軍夫」は、国内で軍指定の請負業者に雇用させた民間人であり、たとえば「軍夫」が賃金を払って戦地の住民を手伝わせたようなケースは、動員にカウントされていない。つまり、軍として「軍夫」と認めていないし、「軍夫」の呼称を使っていない。-->もいた。『東北新聞』1895年2月14日)、ときに寒さをしのぐ燃料を得るために民家を壊して生き延びた<ref group="*">大谷 (2006)、120、212頁。たとえば、第一軍司令部に所属する太田資重は、次のように書き記した。
 
{{Quotation|[[1894年]](明治27年)[[10月26日]]、無血で「[[九連城]]市を占領したるに精米二千石余、牛馬、味噌、酒、醤油、器物、衣服山をなし、分捕品にて今日などは寒防いたしおり候{{small|(そうろう)}}。……第一軍はまたまた前進の様子なれども、糧食のため前進できず……。〔11月3日〕[[天長節]]なればマネ祝をなす心にて候。本日も近傍の村落に出かけ芋、豚、牛、鶏、里芋などを分捕り用意でき申候、敵地なれば分捕りは勝手自由、薪なければ家を焼き、山にきり申候。{{small|注:漢字の一部を平仮名に書き換えた。}}|「太田一等軍曹の手翰」『東北新聞』1894年11月27・28日。大谷 (2006)、85頁。}}また凍傷のため、[[山東半島]]から[[仙台市|仙台]]に後送された軍夫は、寒気が仙台と大差ないものの、強風と薪炭不足に悩まされ、人家の飾り付け、家具を見つけしだい燃やして暖を取っていたこと、糧食縦列から離れると携行食の[[道明寺糒]]{{small|(ほしい)}}とわずかな缶詰しかなく、民家に貯蔵されていた[[サツマイモ]]を徴発して飢えをしのいだことを語った(「帰朝軍夫の談話」『奥羽日日新聞』1895年3月6日)。大谷 (2006)、120頁。</ref>。また、満州の戦闘では、市街(田荘台)を焼き払っており、[[戦時国際法]]を適用しなかった台湾平定では、集落ぐるみで子供も参加するような[[ゲリラ戦]]に対し、予防・懲罰的な殺戮{{small|(さつりく)}}と集落の焼夷とが普通の戦闘手段になっていた<ref group="*">大谷 (2006)、212頁。なお、[[新竹]]で孤立した日本軍を救援するための台湾北部掃討作戦では、軍に同行した初代[[台湾総督]][[樺山資紀]]海軍大将が両親に次のように書き送った。
 
{{Quotation|沿道の住民ノ良否判明せざるに付残酷ながら一網打尽。|『現代史資料・台湾』第一巻。大谷 (2006)、159頁。}}</ref>。
 
 
 
== 戦時経済 ==
 
戦時経済について後年、財界の大御所[[渋沢栄一]]が次のように回顧した。{{Quotation|開戦当初の予想では、戦争〔戦費調達〕のため金詰まりが甚だしく、どの商売も不景気になるというので皆低姿勢をとった<ref group="*">{{Quotation|朝鮮事件の葛藤を生ぜし以来は、金融界の不況ますます甚だしく……新規事業はいずれも躊躇{{small|(ちゅうちょ)}}しおれる風情あり{{small|(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}。|『[[国民新聞]]』1894年8月5日。原田 (2007)、88頁。}}その背景として開戦当初、最悪の事態も考えられていたことが挙げられる。たとえば、「軍事消費の増大→労働力不足による生産減と輸出減で国際収支の赤字化→[[正貨]]流出→[[兌換]]停止による経済破綻」といった負の連鎖である。そのため、8月9日、[[渡辺国武]][[財務大臣|大蔵大臣]]名の「軍費意見書」で、「今や世上往々兌換停止、[[国債|外債]]募集の事を説くものなきにあらず、依って特に一言す」と、経済への悪影響に触れざるを得なかった。高橋 (1973)、245頁。</ref>。ところが戦争が進むと、案外のように、不景気どころか、むしろ好景気の有様であった。|総合雑誌『[[太陽 (博文館) |太陽]]』1897年1月20日号。高橋 (1973)、245頁。}}
 
実際、開戦当初の悲観的な見通しと異なり、戦時経済は大過なく運営された<ref>高橋 (1973)、246-247頁。</ref>。その要因として、1)日清戦争が比較的短期かつ小規模であったことが挙げられる。このため、兵役適齢層(20-32歳)の[[日清戦争#動員(軍夫の大規模雇用)|動員率が5.7%(推計値)]]にとどまり、その多くが10か月以内に[[復員]]した。2)当時の日本は、潜在的に過剰労働力が少なくなく、とくに主要産業の農業<ref group="*">[[国内総生産#国内純生産|国内純生産]]([[国内総生産]]-固定[[資本]]減耗)の部門別構成比は、農林水産業41.5%、鉱工業15.8%、運輸・通信・公益事業3.1%、建設業4.5%、商業サービス業35.1%と推計(1894年-1900年の平均値)。大川ほか (1974)、46頁。</ref>でその傾向が強かった。しかも、農村や農山村などで過剰労働力が滞留する中(東京で[[人力車|車夫]]が余るなど都市も働き口が少なかった)、出征兵士留守宅への農作業支援もあった。結局のところ、戦時下で農業生産額(実質)が増加した<ref group="*">実質農業生産額指数(ウエイト指数1904-1906年、1934-1936年平均=100)は、1893年が54.6、1894年が59.8、1895年が60.1、1896年が55.3と推計。梅村ほか (1966)、222頁。</ref>。
 
 
 
3)最も懸念されたのが、兵器や弾薬など軍需品の輸入増による[[国際収支]]の赤字化([[本位貨幣|正貨]]流出)とその増大であった。政府は、できるだけ国産品を調達したものの、それでも戦費の約1/3が外国に支払われるような状態であったため、民需品の輸入を抑制した。しかし、輸出の伸びと<ref group="*">輸出額の推移は、1893年が8,971万円(対前年比1.5%減)、1894年が11,324万円(26.2%増)、1895年が13,611万円(20.2%増)、1896年が11,784万円(13.4%減)。このうち清への輸出額は、1893年が771万円、1894年が881万円、1895年が913万円、1896年が1,382万円と、戦時中も増加していた。また、[[香港]](イギリスの租借地)への輸出額も、1893年が1,569万円、1894年が1,620万円、1895年が1,836万円、1896年が1,997万円と増加していた。総務庁(1988)第3巻、6、69頁。</ref>、戦地の支払いで日本の貨幣が円滑に流通したこともあり、結果的に国際収支は大幅な赤字に陥らず<ref group="*">国際収支([[経常収支]]に相当する額)は、1893年が0.2百万円、1894年が△10.5百万円、1895年が117.6百万円(清の賠償金を含む)と推移した。安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年、4-5頁。</ref>、正貨準備額も激減しなかった<ref group="*">[[日本銀行]]券[[本位貨幣|正貨]]準備額は、1893年末が8,593万円、1894年末が8,172万円、1895年末が6,037万円、1896年末が13,273万円と推移した。安藤ほか前掲書、70頁。</ref>。
 
 
 
もっとも、戦争の影響は、産業などによって異なった<ref>高橋 (1973)、245-246頁。</ref>。商業への悪影響は、民需品の物流を滞らせた船舶不足(開戦で国内船主の[[汽船]]がほとんど徴用)<ref group="*">戦時中、船舶不足を補うため、多数の外国汽船が購入された。なお輸入された汽船は、開戦前年の1893年が12隻(購入総額86万円)、1894年が38隻(820万円)、1895年が39隻(470万円)、戦後の1896年が18隻(172万円)であった。総務庁(1988)第3巻、58頁。</ref>を除くと、大きなものが無かった。工業への悪影響は、原料高など商業より大きかったものの、全体として打撃が小さかった。むしろ、[[兵器]]関連業や綿糸[[紡績|紡績業]]など、兵站にかかわる産業は、[[特需]]で活況を呈した。ただし、戦費調達(多額の軍事公債発行)のための資金統制により、鉄道敷設の起工延期など新規事業が抑制された。
 
 
 
== 捕虜 ==
 
日清戦争では、清軍からは1790人が捕虜として捕えられ、その多くが日本国内の各寺に収監され、特に労働を科せられることもなく講和後には帰国した。この戦争自体が日本軍の連戦連勝で短期間で収束したことからの日本兵の捕虜が少数であることは確かだが清から引き渡されたのは11名、そのうち10名は軍夫だった。これは清軍は、通信の未熟や中央の威令が各部隊に届かず末端が暴走し捕虜をとらず殺害したためと考えられる。
 
 
 
== 影響 ==
 
[[画像:JapanPunch29September1894.jpg|thumb|[[パンチ (雑誌)|パンチ]]の風刺画。小国の日本が、大国の清を破る様子を描いている。]]
 
 
 
=== 日本の戦中戦後 ===
 
==== 近代的な国民国家の形成 ====
 
[[大日本帝国憲法|憲法発布]](1889年)、部分的な[[条約改正]](1894年[[日英通商航海条約]]で[[領事裁判権]]撤廃)、日清戦争(1894 - 95年)の3点セットは、[[脱亜入欧]]の第一歩であった<ref>御厨 (2001)、281-282頁。</ref>。とりわけ、近代的戦争の遂行とその勝利は、[[帝国主義]]時代の国際社会で大きな意味をもった<ref group="*">1)戦時中、留学先の[[ドイツ]]から[[松川敏胤]]大尉は、[[平壌の戦い (日清戦争)|平壌攻略戦]]での勝利の報がドイツ陸軍の配属先[[師団]]に届いたときの興奮を次のように伝えた。{{Quotation|登営の[[士官]]等は小生を目して日本万歳、松川君万歳と異口同音に唱へ、〔所属大隊では〕整列の兵士は同じく万歳を唱へて小生を迎へ、〔その結果〕昨日まで一留学生と見なしおりたる小生を今日は一大強国の陸軍士官と認められたり、嗚呼愉快ならざるや、けだし実戦に臨まざる小生の名誉すら斯く{{small|(かく)}}のごとし({{small|注:漢字の一部を平仮名に書き換えた}})。|「松川大尉の書信」『東北新聞』1894年11月1日。}}また、ロンドン留学中の[[相原裕弥]]も次のように伝えた。
 
{{Quotation|ピョンヤンの陸戦、ヤルー河上の海戦〔黄海海戦〕において大勝利を得し以来、……「タイムス」は本邦人を目してNew Powerとなし、東洋人として軽蔑し来りたる迷夢を払去りて大いに本邦に対し畏敬の心を起こしたり、これに至りたるは実に一大快事に有これそうろう({{small|注:漢字の一部を平仮名に書き換えた}})。|「在英国[[ロンドン|倫敦府]]相原法学士の書信」『東北新聞』1894年11月1日。}}以上、大谷 (2006)、86-87頁。_2)東田雅博によれば、戦後のヨーロッパでは、日本のイメージが侍から鎧をつけた武者に、また子供(非ヨーロッパ世界)から男性的なものに変化し、その傾向は[[義和団の乱]]で強まることになる。御厨 (2001)、313-315頁。</ref>。ただし、欧米の大国で、日本の「公使館」が「大使館」に格上げされるのは、[[日露戦争]]後である。また開戦をきっかけに、国内の政局が大きく変わった。衆議院で内閣弾劾上奏案を可決する等、伊藤内閣への対決姿勢をとってきた[[硬六派|対外硬六派]]なども、同内閣の戦争指導を全面的に支援した。つまり、歴代内閣と反政府派の議員とが対立してきた[[帝国議会]]初期の混沌とした政治状況が一変したのである(戦時下の政治休戦。戦後も1895年11月に伊藤内閣(藩閥)と[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]が提携し、第九議会で[[日本勧業銀行]]法をはじめ、懸案の[[民法 (日本)|民法典]]第一編 - 第三編など重要法案を含む過去最多の93法案が成立)。
 
 
 
もっとも世間では、清との開戦が困惑と緊張をもって迎えられた<ref>御厨 (2001)、287頁。</ref>。なぜなら、歴史的に中国を崇め{{small|(あがめ)}}ても、見下すような感覚がなかったためである。明治天皇が清との戦争を逡巡{{small|(しゅんじゅん)}}したように、日清戦争の勃発に戸惑う国民も少なくなかった。しかし、勝利の報が次々に届くと、国内は大いに湧き<ref group="*">[[田山花袋]]は、当時の様子を次のように回想した。
 
{{Quotation|その年の秋、私は……浜街道を[[水戸市|水戸]]から[[仙台市|仙台]]の方へと行った。どんな田舎でもどんな山の中でも、戦捷{{small|(せんしょう)}}の日章旗を風になびいていないところはないのを私は見た。人々は戦捷の祝だと言っては飲み、出発の別離だと言っては集まって騒いだ。……/維新の変遷、階級の打破、士族の零落、どうにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから湧き出したように漲{{small|(みなぎ)}}りあがった日清の役〔日清戦争〕の排外的気分は見事であった。戦争罪悪論などはまだその萌芽をも示さなかった。|『東京の三十年』。佐谷 (2009) 、152-153頁。}}</ref>、戦勝祝賀会などが頻繁に行われ、「帝国万歳」が流行語になった。戦後の凱旋行事も盛んであり、しばらくすると各地に記念碑が建てられた。戦時中、男児の遊びが戦争一色となり、少年雑誌に戦争情報があふれ、児童が清国人に小石を投げる事件も起こった<ref>佐谷 (2009)、178-179頁。</ref>。ただし、[[陸奥宗光]]のように、コントロールの難しい好戦的愛国主義([[排外主義]])を危ぶむ為政者もいた<ref>御厨 (2001)、300-301頁。</ref>。
 
 
 
国民に向けて最も多くの戦争報道をしたのが新聞であった。新聞社は、コスト増が経営にのしかかったものの、従軍記者を送る<ref group="*">従軍記者は、全国66社から129人と伝えられている。佐谷 (2009)、48頁。</ref>など戦争報道の強かった『[[大阪朝日新聞]]』と『[[中央新聞]]』が発行部数を伸ばし、逆に戦争報道の弱かった『[[報知新聞#歴史|郵便報知新聞]]』『[[横浜毎日新聞|毎日新聞]]』『[[やまと新聞]]』が没落した<ref group="*">大谷 (2006)、26頁。
 
{{Quotation|日清戦争において新聞紙の購読者は非常に参加した。子弟を戦地に送れる家庭は皆競うて新聞紙を購読し、号外は地方の寒村まで配達されて購読熱をあおった{{small|(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)}}。|小野秀雄『日本新聞発達史』1982年。}}</ref>。また、忠勇美談([[西南戦争]]以前と異なり、徴兵された「無名」兵士の英雄化)など、読者を熱狂させた戦争報道は、新聞・雑誌で世界を認識する習慣を定着させるとともに、[[メディア]]の発達を促した<ref>以下の出典は、佐谷 (2009)、68-70、111頁。</ref>。そのメディアは、一面的な情報を増幅して伝える等、人々の価値観を単一にしてしまう危険性をもった。たとえば、新聞と雑誌は、清が日本よりも文化的に遅れている、とのメッセージを繰り返し伝えた(開明的な近代国家として日本を礼賛)。国民の側も、そのような対外蔑視の記事を求めた。
 
 
 
日清戦争は、近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争であり、この体験を通して日本は近代的な[[国民国家]]に脱皮した<ref>佐谷 (2009)、7、11頁。</ref>。つまり、檜山幸夫が指摘した「国民」の形成である(戦争の統合作用<ref group="*">ポーターは、戦争の作用の一つとして「統合作用」を挙げた。つまり対外戦争は、敵に対抗するために国内対立を緩和させ、統一を促し、また戦争を遂行する過程で、国民の国家への統合が強まるのである。以上、戸部 (1998)、138-139頁。</ref>)。たとえば、戦争遂行の過程で[[国家]]は人々に「国民」としての義務と貢献を要求し、その人々は国家と軍隊を日常的に意識するとともに自ら一員であるとの認識を強めた。戦争の統合作用で重要な役割を果たしたのが大[[元帥]]としての[[明治天皇]]であり、天皇と[[大本営]]の[[広島市|広島]]移転は、国民に天皇親征を強く印象づけた<ref>以上、戸部 (1998)、139頁。</ref>。反面、清との交戦とその勝利は、日本人の中国観に大きな影響を与え、中国蔑視の風潮が見られるようになった。戦場からの手紙に多様な中国観が書き記されていたにもかかわらず、戦後、多くの人々の記憶に残ったのは、一面的で差別的な中国観であった<ref>大谷 (2006)、214頁。</ref>。なお、国内が日清戦争に興奮していたとき、[[上田万年]]が漢語世界から脱却した[[国語]]の確立を唱道し、さらに領土拡大(台湾取得)などを踏まえ[[標準語]]の創出を提起した<ref>御厨 (2001)、317-321頁。</ref>。
 
 
 
==== 財政・公共投資の膨張と経済発展 ====
 
日清戦争が一段落付くと、領土・賠償金等での勝敗落差の実感(かつて[[普仏戦争]]が軍拡の必要性を説くときに好例とされた)<ref group="*">{{Quotation|経済への悪影響を心配して平時の軍事支出を削減しても、ひとたび戦争に負けてしまえば莫大な賠償金を支払わねばならないので、平常の軍事費を削減してはいけないのだ、という論理|加藤 (2002)、36-40頁。}}</ref>や賠償金の使途や[[三国干渉]]やロシアのシベリア鉄道建設([[南下政策]]への警戒)などを背景に、政府内で戦後経営にかかわる意見が出された。[[1895年]](明治28年)[[4月]]、山縣有朋が「軍備拡充意見書」を上奏し、[[8月15日]]に[[財務大臣|大蔵大臣]][[松方正義]]が「財政意見書」(軍拡と[[殖産興業]]を主張)<ref group="*">{{Quotation|……欧州列強はすでに我国に対する外交の面目をあらため三国の同盟を訂約せり〔三国干渉〕……「サイベリア」大鉄道〔シベリア鉄道〕の成るは正に五箇年の内にあるなり、我国軍備の拡張は実に一日も緩にすへからす……〔増税の必要性を説き〕……明治29年〔1896年〕度以後において臨時大計画に属する歳出の増加は、第一陸軍拡張、第二海軍拡張、第三製鉄所設置、第四鉄道および電話拡張……(抄。{{small|注:文中に読点を入れ、漢字の一部とカタカナを平仮名に書き換えた}})。|安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年。}}</ref>を閣議に、11月に後任の[[渡辺国武]]蔵相が「財政意見書」を閣議に提出した。政府は、渡辺案を若干修正した「戦後財政計画案」(1896 - 1905年)を第九議会(1895年[[12月25日]]召集)に参考資料として提出した。
 
 
 
その後、一般会計の歳出決算額が開戦前の[[1893年]](明治26年)度8,458万円(軍事費27.0%、国債費23.1%)から[[1896年]](明治29年)度1億6,859万円(軍事費43.4%、国債費18.1%)に倍増し、翌1897年度から日露戦争中の[[1904年]](明治37年)度まで2億円台で推移した<ref>坂入 (1988)、61、162頁。</ref>。歳出増大に伴う歳入不足が3回の増税、葉たばこ[[専売制#日本|専売制度]]、国債<ref group="*">国債の発行残高は、1893年度末2億3,481万円から1896年度末3億5,112万円に49.5%増加した。その後、1899年度末から4億円台(外債割合がゼロから20.4%)、1902年度末から5億円台になる。坂入 (1988)、163頁。</ref>で補われ(戦前、衆議院の反対多数で増税が困難な状況と一変)、「以後の日本の'''税制体系の基本的な原型を形成'''した」<ref group="*">{{Quotation|戦前から調査を重ねてきた葉たばこ専売制度、営業税制と法人所得税制などの新税を大胆に取り入れ、酒税や[[地租改正|地租]]制度の整備と相まって、以後の日本の税制体系の基本的な原型を形成した。|[[財務省 (日本)|大蔵省]]百年史編集室『大蔵省百年史』上巻、1969年、171頁。}}</ref>とされる。さらに公共投資も、1893年度3,929万円から1896年度6,933万円に76.4%増加し、翌1897年度から1億円台で推移した<ref>坂入 (1988)、163頁。</ref>。
 
 
 
財政と公共投資の膨張に現れた積極的な政策姿勢([[富国強兵]]の推進)は<ref group="*">地方を含む政府支出の対GNP([[国民総生産]])比は、戦前(1890-93年)の9.8%から、戦後(1897-1900年)の17.3%に急上昇した。浜野潔ほか『日本経済史 1600-2000』慶應義塾大学出版会、2009年、134頁。</ref>、負の側面もあったものの、戦後の経済発展の主因になった<ref group="*">高橋 (1973)、263-264頁。後年、過酷な労働条件が問題になる綿糸[[紡績業]]・[[蚕糸業]]が発展する中、[[国民総生産]]について戦前(1891-93年3か年平均)と戦後(1897-99年3か年平均)を比べれば、名目で86.8%、実質で26.2%増加したと推計される。資料:大川ほか (1974)、200頁。また戦中から戦後にかけ、都市下層の収入が実質20%ほど上昇し、主な食物が[[兵営]]や学校などの残飯から米食(安い外国米)に変わったとされる。原田 (2007)、88-89頁。</ref>。たとえば、日清戦争(軍事・戦時経済の両面)で[[海運]]の重要性を認識した日本は、[[1896年]](明治29年)[[3月24日]]の「[[航海奨励法]]」・「[[造船奨励法]]」公布ならびに[[船員]]養成施策などにより、海運を発展させることになる<ref group="*">戦前の三大遠洋航路(欧州線・北米線・[[オーストラリア|豪州]]線)は、1896年3月15日 - 10月3日の半年間に開かれた。なお、貿易貨物の日本船積載比率は、明治20年代(1887 - 1896年)が平均9%であったものの、貿易が拡大する中、日清戦争後の30年代(1897 - 1906年)が30%台で推移し([[日露戦争]]期を除く)、40年代(1907 - 1912年)に40%を超え、日清戦争から20年後に勃発した[[第一次世界大戦]]期に50%を超えた。松好貞夫・安藤良雄『日本輸送史』日本評論社、1971年、402-405頁。</ref>。なお財政上、見送られてきた二番目の[[帝国大学]]が1897年の[[勅令]]で京都に設置されること、つまり[[京都大学#略歴|京都帝国大学の創設]]が決まった<ref group="*">日清戦争の前後は、普通教育の未就学率が大幅に低下した時期でもあった。男・女の未就学率は、1881年が31.0%・65.9%、1886年が29.8%・61.9%、1891年が26.6%・60.1%、1896年が10.6%・34.8%、1901年が5.4%・15.8%。梅村ほか (1988)、24-25頁。</ref>。
 
 
 
また[[1897年]](明治30年)[[10月1日]]、イギリス金貨([[スターリング・ポンド|ポンド]])で受領する清の賠償金と還付報奨金を元に[[貨幣法]]などが施行され、[[銀本位制]]から[[金本位制]]に移行した(ただしイギリスの金融街[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]に賠償金等を保蔵し、[[日本銀行]]の在外[[本位貨幣|正貨]]として[[兌換券]]を発行する「ポンド為替の本位制」=金為替本位制)<ref>坂入 (1988)、195頁。</ref>。本位貨幣の切り替えによって日本は、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」になりつつあったイギリス<ref group="*">20世紀初頭のイギリスは、「世界の工場」(他国の追随をゆるさない最大輸出国)から、「世界の銀行家」「世界の手形交換所」(金融・サービスの中心地)に変貌しながら、世界経済の中心地としての地位を維持していた。秋田茂「パクス・ブリタニカの時代」『イギリスの歴史』、川北稔・木畑洋一[編]、有斐閣、2000年、136-137頁。</ref>を中心にする国際金融[[決済]]システムの利用、'''日露戦争での戦費調達(多額の外債発行)'''、対日[[投資]]の拡大など、金本位制のメリットを享受することになる。
 
 
 
以上を要約すると、日清戦争後の日本は、[[藩閥政府]]と[[民党]]側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)することになる。さらに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策(海運業振興策など)や金融制度(金本位制に移行・日本勧業銀行など[[特殊銀行 (日本金融史)|特殊銀行]]の相次ぐ設立)や税制体系(新税導入・たばこ専売制)など、以後の政策制度の原型が作られることとなる<ref group="*">中村隆英「マクロ経済と戦後経営」『産業の時代 {{small|下}}』日本経済史5、西川俊作・山本有造〔編〕、岩波書店、1990年、26頁。{{Quotation|日本の近代工業国としての本格的発足は、実に日清戦争を画期とする。|高橋 (1973)、219頁。}}</ref>。
 
 
 
==== 賠償金の使途 ====
 
[[1896年]](明治23年)[[3月4日]]、清の賠償金と[[遼東半島]]還付報奨金を管理運用するため、償金特別会計法が公布された<ref>この項目の出典は、坂入 (1988)、166-167、173-186頁。</ref>。[[1902年]](明治35年)度末現在、同特別会計の収入総額が3億6,451万円になっていた。内訳は、賠償金が3億1,107万円 (85.3%)、還付報奨金が4,491万円 (12.3%)、運用利殖・差増が853万円 (2.4%) であった。また、同特別会計の支出総額が3億6,081万円で、差し引き370万円の残高があった。支出の内訳は、日清戦争の戦費([[臨時軍事費特別会計]]に繰入)が7,896万円21.9%、軍拡費が2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)、その他が15.5%([[八幡製鐵所|製鉄所]]創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、[[台湾]]経営費補足1,200万円3.3%、[[皇室|帝室]]御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)であった<ref>安藤良雄ほか『近代日本経済史要覧[第2版]』東京大学出版会、1979年、68頁。</ref>。このように清の賠償金などは、戦費と軍拡費に3億502万円84.5%が使われた。
 
 
 
なお、1896年度から1905年度の軍拡費は、総額3億1,324万円であった(ただし第三期の海軍拡張計画を含まない第一期と第二期の計画分)。使途の構成比は、陸軍が32.4%(砲台建築費8.6%、営繕と初年度調弁費16.0%、砲兵[[工廠]]工場拡張費5.8%、その他1.9%)、[[六六艦隊計画]]を立てた海軍が67.6%(造船費40.0%、[[軍隊#造兵能力|造兵費]]21.2%、建築費6.4%)。また財源の構成比は、清の賠償金・還付報奨金が62.6%、租税が12.7%、公債金が24.7%であった。
 
 
 
=== 清の戦後 ===
 
{{main|清#半植民地化・滅亡}}
 
西洋列強から大国(ただし軍事力を伴う強国ではない)と認識されていた清が日本に敗れたことは、東アジアの国際秩序を揺るがす一大事件であった。日清戦争によって列強は、清への認識をそれまでの「眠れる獅子」といった大国的なものから改めることになる。
 
 
 
その清は、戦費調達と賠償金支払いのために列強から多額の[[借款]]([[関税]]収入を担保にする等)を受け、また[[租借地#清国における租借地|良港など要衝のいくつかを租借地]]にされて失った。敗北は[[洋務運動]]の失敗を意味し、対外的危機が高まる中、いわゆる変法派により、日本の[[明治維新]]に倣った[[変法自強運動]]が唱えられ、[[康有為]]らは[[明治維新]]をモデルとして[[立憲君主制]]に基づく改革を求める上奏を行った{{sfn|和田民子|2007|pp=287-290}}。[[1898年]](光緒24年)、[[光緒帝]]が変法派と結び、急激な変革([[戊戌の変法]])が行われつつあったものの、失敗した([[戊戌の政変]])。一方、[[1890年代]]、[[孫文]]らは[[共和制]][[革命]]を唱え、日本、アメリカなどで活動した。[[1890年]]には[[輔仁文社]]が[[香港]]で設立され、孫文は[[1894年]]に[[ハワイ]]で興中会を結成した。[[1895年]]に武装蜂起に失敗、日本に亡命。日清戦争以降増加していた日本への留学生は1904年には2万人を越え、当時の留学生([[章炳麟]]、[[鄒容]]、[[陳天華]]など)の間では革命思想が浸透した。[[1900年]](光緒26年)の[[義和団の乱]]では、清が宣戦布告をした各国の連合軍に首都[[北京]]を占領される非常事態になり、[[国権]]の一部否定を含む[[北京議定書]]を締結するなど大きな代償を払った。さらに、[[南下政策]]をとるロシアの[[満州|満洲]]占領を招いた。以上のように清は、日清戦争での敗戦を契機として半植民地化が急速に進み、最終的に滅亡([[辛亥革命]])することとなる。
 
 
 
=== 朝鮮の戦中戦後 ===
 
[[1894年]][[7月23日]](光緒20年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]])、日本主導の政変により、[[金弘集 (政治家)|金弘集]]内閣が誕生すると、日清戦争中、[[魚允中]]や[[金允植]]など新改革派の官僚と共に改革が行われた(第一次[[甲午改革]])<ref>以下の出典は、岡本 (2008)、4-5、162-164、181頁。呉 (2000)、164-176頁</ref>。[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]・[[閔妃]]派・[[興宣大院君|大院君]]派官僚らの抵抗が強いため、10月に着任した[[井上馨]]公使の要請により、亡命中の[[朴泳孝]]と[[徐光範]]を加えた第2次金内閣が発足し、改革が推進された(第二次甲午改革)。翌年[[4月17日]](翌年[[3月23日 (旧暦)|3月23日]])、日清講和条約の調印により、朝鮮は清との宗藩関係が解消された(第一条)。しかし、直後の[[三国干渉]]で日本の威信が失墜し、6月に第2次金内閣が崩壊した<ref>以上、呉 (2000)、164-165頁。</ref>。そうした情勢の下、[[10月8日]]([[8月20日 (旧暦)|8月20日]])に[[乙未事変]](閔妃暗殺事件)が起こった。大院君が執政に擁立されて親露派が一掃される中、成立した第4次金弘集内閣は、[[太陽暦]]採用や断髪令など国内改革を再び進めた。しかし改革には、政府内だけでなく、地域に根を張る[[両班]]や[[儒学|儒学者]]たちも反発した。翌[[1896年]]([[建陽]]元年)1月、「[[衛正斥邪]]」を掲げる伝統的な守旧派<ref group="*">「国母復讐」を叫び、断髪令が「[[小中華思想|小中華]]」を捨てて「[[夷狄]]」に堕落するもの、と糾弾した。岡本 (2008)、163頁。</ref>が政権打倒を目指して挙兵した(初期[[義兵]]運動)。農民層を巻き込んだ内乱を鎮圧するため、王宮の警備が手薄になったとき、政権から追われた親露派が[[クーデター]]を決行した。親露派は、ロシア水兵の助けを得ながら、后を殺害された高宗とその子供をロシア公使館に移し、[[2月11日]]に新政府を樹立した([[露館播遷]])。同日、総理大臣の金弘集は、[[光化門]]外で群衆に打ち殺された([[甲申政変]]での急進的開化派([[独立党]])の壊滅につづき、穏健的開化派も政治的に抹殺された)。
 
 
 
こうして日清開戦から続く、武力を背景とした日本の単独進出は、日清講和条約の調印から1年も経たないうちに頓挫した。つまり、日本主導による朝鮮の内政改革と「独立」(実質的な保護国化)の挫折であった。その結果、義和団の乱後にロシアが[[満州|満洲]]を占領するまでの間、朝鮮をめぐる国際情勢が小康を保つことになる。清の敗戦後、朝鮮半島で日本が政治的に後退し、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下<ref group="*">この時期も様々な外交交渉が行われた。たとえば、[[1896年]](明治29年、建陽元年)5月に漢城で[[小村・ウェーバー覚書|小村・ウェーベル覚書]](朝鮮政府の現状維持と日露の軍事的配置)が交わされた。皇帝[[ニコライ2世]]の戴冠式の舞台裏では、日露と露清の秘密外交が行われ、6月に[[山縣・ロバノフ協定]]と[[露清密約]]が結ばれた。朝鮮も特命全権大使を派遣しており、ロシアの援助を取りつけた(国王の護衛、日本人に代わるロシア人の軍事・財政顧問の派遣、[[借款]]の約定をはかること、電信線での連絡など)。また[[1898年]](明治31年)4月(光緒24年閏3月)、[[西・ローゼン協定]]が結ばれ、日本はロシアの[[旅順]]・[[大連]]租借を黙認した。</ref>、[[1897年]]([[光武 (元号)|光武]]元年)[[10月12日]]、高宗は、[[皇帝]]即位式を挙行し、国号を「朝鮮」から「大韓」と改め、[[大韓帝国]]の成立を宣布した。なお、この前後、清との宗藩関係の象徴であった「[[迎恩門]]」および「恥辱碑」といわれる[[大清皇帝功徳碑]]が倒され、前者の跡地にフランスの[[エトワール凱旋門]]を模した「[[独立門]]」が建てられた。
 
 
 
== その他 ==
 
* 欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は、欧米からの武器輸入を進めていた。しかし、各軍(日本の場合は[[藩|旧藩]])が個別に輸入したため、さまざまな国籍・形式のものが混在し、[[弾薬]]補給とメンテナンスに支障をきたしていた。[[1880年]](明治13年)、日本陸軍の[[村田経芳]]が最初の国産[[小銃]]の開発に成功した。陸軍は、それを[[村田銃]]と命名し、小銃の切り替えを進めた。その後、同銃は改良を進めながら全軍に支給されていった。日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていなかったものの、弾薬と主要部品で村田銃の新旧型に互換性があったため、弾薬などの大量生産が行われるとともに効率的な補給が可能であった。
 
* 1894年の秋、軍需品になった牛肉[[缶詰]]が高騰するとともに、[[東京府]]下の缶詰屋が大繁盛した(24時間操業、職工が1日で3日分の賃金を稼ぎ、と畜された牛が1日150頭ほど)。牛乳400gが4[[通貨の補助単位#主な通貨と補助単位の対応|銭]]から10銭に、[[沢庵漬け|たくあん]]100樽が57円から100円以上に高騰した。西東秋男『日本食生活史年表』楽游書房、1983年、94-95頁。
 
* 戦後の[[1896年]][[8月1日]]、戦中に病没した[[北白川宮能久親王|能久親王]]と[[有栖川宮熾仁親王|熾仁親王]]の肖像を描いた2銭と5銭の計4種類の[[切手]]が発行された。これらは、日本で発行された最初の肖像切手であった。[[記念切手]]など銘が記されていないものの、当時の新聞<ref>東京朝日新聞 1896年6月14日紙面</ref>で「明治廿七八戦役戦捷記念」と紹介されたほか、現在の[[さくら日本切手カタログ]]([[日本郵趣協会]]編)等で「日清戦争勝利記念」切手と紹介された。
 
* 太平洋戦争の場合、中国兵に比べると日本兵は、平均身長が1.8センチ低いものの、平均体重が6.5キロ重かった。また、握力が10キロ強いなど筋肉量が多く、肺活量も遥かに上回っていた<ref>[http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-02/01/content_27862791.htm 第二次世界大戦時の日本の徴兵検査] [[中国網]] 2013-02-01</ref>。
 
* 日本が清国軍の負傷兵・捕虜に対して怪我を治療して帰国させるなどの寛大で公正な処置をとったのに対し、清国は日本軍の捕虜を生きながら目をえぐり市中を引き回した上で虐殺するなど前近代的で残酷な私刑が横行していた。そのため日本国民の中国に対する反発が強くなっていった。
 
  
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日清戦争の勝利によって,日本は欧米資本主義列強と並び,極東における[[帝国主義]]諸国との対立,葛藤に巻込まれることになった。
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== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
 
=== 出典 ===
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+
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== 関連項目 ==
 
* [[中華思想]] - [[華夷秩序]]
 
* [[グレート・ゲーム]]
 
* [[近代における世界の一体化]]
 
* [[長崎事件]]
 
* [[大戦景気]]
 
 
 
== 参考文献(五十音順) ==
 
<!--「Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書)」に従った。なお、「[[浅野豊美]]『帝国日本の植民地法制――{{small|法域統合と帝国秩序}}』名古屋大学出版会、2008年。」「[[浦辺登]]『太宰府天満宮の定遠館』[[弦書房]]、2009年。」「[[陸軍省]] 編『日清戦争統計集』海路書院。ISBN 4-902796-32-5」は、出典として利用されていない文献-->
 
* [[井上寿一]]『山県有朋と明治国家』NHK出版、2010年。
 
* [[井上晴樹]]『旅順虐殺事件』筑摩書房、1995年。
 
* [[大谷正]]『兵士と軍夫の日清戦争 {{small|戦場からの手紙をよむ}}』有志舎、2006年。
 
* [[呉善花]]『韓国併合への道』文藝春秋〈文春新書086〉、2000年。
 
* [[岡本隆司]]『世界のなかの日清韓関係史 {{small|交隣と属国、自主と独立}}』講談社〈講談社選書メチエ〉、2008年。
 
* 岡本隆司『中国「反日」の源流』講談社〈講談社選書メチエ〉、2011年。
 
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* 加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版、2009年。
 
* [[川島真]]『近代国家への模索 1894-1925』岩波書店〈岩波新書1250:シリーズ中国近現代史2〉、2010年。
 
* [[黒野耐]]『参謀本部と陸軍大学校』講談社〈講談社現代新書1707〉、2004年。
 
* [[斎藤聖二]]『日清戦争の軍事戦略』芙蓉書房出版、2003年。
 
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* [[佐谷眞木人]]『日清戦争 {{small|「国民」の誕生}}』講談社〈講談社現代新書1986〉、2009年。
 
* [[高橋亀吉]]『日本近代経済発達史』第一巻、東洋経済新報社、1973年。
 
* 長南政義・森重和雄・川崎華菜解説/陸地測量部撮影『日清戦況写真』国書刊行会、2013年。
 
* [[戸高一成]]『海戦からみた日清戦争』角川書店〈角川ONEテーマ21〉、2011年。
 
* [[戸部良一]]『逆説の軍隊』中央公論新社〈日本の近代9〉、1998年。
 
* [[原田敬一 (歴史学者)|原田敬一]]『日清・日露戦争』岩波書店〈岩波新書1044:シリーズ日本近現代史3〉、2007年。
 
* 原田敬一『日清戦争』吉川弘文館〈戦争の日本史19〉、2008年。
 
* [[檜山幸夫]] 編著『近代日本の形成と日清戦争―戦争の社会史』雄山閣出版、2001年。
 
* [[藤村道生]]『日清戦争』岩波書店〈岩波新書;青版880〉、1973年。
 
* [[御厨貴]]『明治国家の完成 1890〜1905』中央公論新社〈日本の近代3〉、2001年。
 
* [[陸奥宗光]] 『新訂 蹇蹇録 {{small|日清戦争外交秘録}}』[[中塚明]]校注、岩波書店〈新訂ワイド版岩波文庫255〉、1994年。
 
* [[山下政三]]『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年。
 
* [[渡辺利夫]]『新 脱亜論』文藝春秋〈文春新書634〉、2008年。
 
* 大谷正『日清戦争』中央公論新社、2014年。
 
* {{Cite journal|和書 |author=和田民子 |year=2007 |title=19世紀末中国の伝統的経済・社会の特質と発展的可能性 |journal=日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 |issue=8 |pages=285-294 |publisher=日本大学大学院総合社会情報研究科 |issn=13461656 |url=http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf08/8-285-294-wada.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-06 |ref=harv }}
 
 
 
=== 統計資料 ===
 
* [[大川一司]]ほか『長期経済統計1 国民所得』東洋経済新報社、1974年。
 
* [[梅村又次]]ほか『長期経済統計2 労働力』東洋経済新報社、1988年。
 
* 梅村又次ほか『長期経済統計9 農林業』東洋経済新報社、1966年。
 
* [[江見康一]]・[[塩野谷祐一]]『長期経済統計7 財政支出』東洋経済新報社、1966年。
 
* [[総務省|総務庁]]統計局監修『日本長期統計総覧』第1巻、日本統計協会、1987年。
 
* 総務庁統計局監修『日本長期統計総覧』第3巻・第5巻、日本統計協会、1988年。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|First Sino-Japanese War}}
 
{{wikisourcecat}}
 
* [http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m27_1894_02.html 宣戦ノ詔勅](国立公文書館)
 
* [[日本外交文書デジタルアーカイブ]]([[外務省]])日清戦争関係部分
 
** 明治27年/1894年:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/27-2.html 第27巻第2冊]
 
** 明治28年/1895年:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/28-1.html 第28巻第1冊]・[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/28-2.html 第28巻第2冊]
 
** 明治29年/1896年:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/29.html 第29巻]
 
** ※ 閲覧には[[DjVu]]ビューアが必要
 
* 凱旋紀念帖
 
** [{{NDLDC|994001}} 凱旋紀念帖 天の巻] 陸海軍士官素養会 1895年
 
** [{{NDLDC|994002}} 凱旋紀念帖 地の巻] 陸海軍士官素養会 1895年
 
** [{{NDLDC|994003}} 凱旋紀念帖 人の巻] 陸海軍士官素養会 1895年
 
* [http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009243941-00 日清戦争錦絵]、[{{NDLDC|1311472}} デジタル化資料]-[[国立国会図書館]]
 
*[http://ocw.u-tokyo.ac.jp/movie?id=1213&r=961479952 日清戦争研究の現在] - [[加藤陽子]]、[[東京大学]]講演、2013
 
*[http://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/index.html 描かれた日清戦争 〜錦絵・年画と公文書〜] アジア歴史資料センター・大英図書館共同インターネット特別展
 
 
 
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日清戦争
戦争: 明治二十七八年戦役 日清戦争
年月日: 1894年7月25日 – 1895年11月30日[* 1]
場所: 主に朝鮮半島満州・黄海
結果: 大日本帝国の勝利、下関条約締結
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 清の旗
戦力
240,616 630,000
損害
戦死 1,132
戦傷死 285
病死 11,894
戦傷病 3,758[2]
死傷 35,000

日清戦争(にっしんせんそう)

日本と清国が 1894~1895年に戦った戦争。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因となった。

1894年5月に朝鮮で甲午農民戦争が起ると,6月朝鮮政府は鎮圧のために清国と,次いで日本に援兵を依頼した。6月 12日に日本軍は仁川に上陸。7月 23日にソウルの王宮を占領,親日派の大院君政権をつくった。 25日には日本の連合艦隊は,豊島西南沖で清国軍艦および輸送船団と遭遇,相互に砲火を浴びせ,戦争が始った。

29日に朝鮮の成歓,30日には牙山を占領。9月 15日,日本軍は平壌周辺で清国軍との会戦に勝ち,17日には連合艦隊と北洋艦隊が黄海海戦を戦い,日本側が勝って制海権を獲得した。 10月 24~25日に日本軍は鴨緑江を渡って満州に入り,11月 19日には旅順を占領。

1895年2月2日には威海衛軍港陸岸を占領,12日に北洋艦隊が降伏した。3月に入ると日本軍はさらに牛荘,営口などを占領,3月 26日には澎湖列島を占領した。4月 17日に下関で日清講和条約 (下関条約 ) が結ばれ,日本は,中国から朝鮮の独立の承認,遼東半島,台湾,澎湖列島の割譲,賠償金2億両支払い,欧米並みの通商条約の締結,威海衛保障占領などを取付けた。

しかし条約調印後6日目の1895年4月 23日,ロシア,ドイツ,フランスから三国干渉を受け,5月4日に日本政府は遼東半島放棄を決定,還付の代償として清国より庫平銀 3000万両を得た。

日清戦争の勝利によって,日本は欧米資本主義列強と並び,極東における帝国主義諸国との対立,葛藤に巻込まれることになった。

脚注

注釈

  1. 参謀本部編「明治廿七八年戦史」は、戦争期間を宣戦布告(1894年8月1日)から日清講和条約調印(1895年4月17日)までとせず、豊島沖海戦(1894年7月25日)から台湾平定(1895年11月30日)までとした。原田 (2007)。また、日本軍の朝鮮王宮占領(1894年7月23日)を開戦日とする見解もある。前掲書。[1]。当時、宣戦布告前の戦闘行為は最後通牒の提出後であり、事実関係が明らかでなかった。そのため7月25日、高陞号事件(日本の軍艦が清軍を乗せたイギリス商船を撃沈した事件)がイギリス世論を一時的に沸騰させたくらいで、国際社会から問題視されなかった。なお、戦後の1899年明治32年、光緒25年)、日清両国も参加した万国平和会議ハーグ陸戦条約が採択された。

出典

  1. 中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、1997年。ISBN 4874981992
  2. 参謀本部「明治二十七八年日清戦史」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774128/90