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'''徳川 秀忠'''(とくがわ ひでただ)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[武将]]。[[江戸幕府]]の第2代[[征夷大将軍]]。
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'''徳川 秀忠'''(とくがわ ひでただ)
  
== 生涯 ==
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江戸幕府2代将軍(在職 1605~23)。[[徳川家康]]の三男。母は西郷氏於愛の方。幼名は長松,のちに竹千代と改名。法号は台徳院。元服して,[[豊臣秀吉]]の片諱(かたいみな)を賜って秀忠と名のった。慶長5(1600)年の[[関ヶ原の戦い]]では,進軍中に[[真田昌幸]]の妨害にあって合戦に間に合わず,父家康の勘気を被った。同 10年4月16日[[征夷大将軍]]宣下。[[大坂の陣]]で家康とともに出陣し,豊臣氏を滅ぼした。元和2(1616)年4月17日の家康死去のあとをうけて幕府組織の拡充,整備を行ない,同 6年には娘和子([[東福門院]])を[[入内]]させた。同 9年7月27日将軍職を二男の[[徳川家光]]に譲って隠居し(長子長丸は夭折),[[大御所]]と称した。隠居後はしばらくの間家光を後見し,寛永3(1626)年8月18日従一位太政大臣。同 4年[[紫衣事件]]を通して[[後水尾天皇]]に退位を余儀なくさせた。
=== 出生から後継者争い ===
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[[File:Hidetada-ido.JPG|thumb|right|220px|秀忠が産湯を使ったと伝わる井戸]]
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{{テンプレート:20180815sk}}
[[徳川家康]]の三男として[[遠江国]][[浜松市|浜松]]に誕生する。母は[[側室]]の[[西郷局]]。母の実家・[[西郷氏#三河西郷氏|三河西郷氏]]は[[土岐氏]]一族で、[[室町時代|室町初期]]には[[三河国|三河]][[守護代]]を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な[[国人]]であった。乳母・[[大姥局]]によって養育される。同母弟に[[関ヶ原の戦い]]で活躍した[[松平忠吉]]がいる。
 
 
 
秀忠が誕生してから5か月後に長兄・[[松平信康|信康]]が[[切腹]]している。次兄である[[結城秀康|秀康]]は[[豊臣秀吉]]に養子として出され、のちに[[結城氏]]を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な[[嫡男|世子]]として処遇されることになった。
 
 
 
長丸(秀忠)の存在が注目されたのは、家康と秀吉の講和条件として秀吉の妹である[[朝日姫]](旭姫)を家康に嫁がせることになった時である。同時代の史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」「長丸を秀吉の人質としないこと」「万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝えられている<ref name="katayama2017-a">片山正彦「豊臣政権の対北条政策と家康」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年) ISBN 978-4-7842-1875-2</ref>。
 
 
 
[[天正]]18年([[1590年]])1月7日<ref>『家忠日記』天正18年正月7日条</ref>、[[小田原征伐]]に際して実質的な[[人質]]として上洛した。これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた天正17年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置であるが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対して家康から長丸を上洛させる希望を述べており<ref>[[木下半介]]・[[長束正家|長束大蔵大輔]]宛「(天正17年)九月十七日付家康書状」(民間蔵)</ref>、更に上洛後も秀吉に拝謁し、[[織田信雄]]の娘で秀吉の養女・[[小姫]](春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けている<ref>『家忠日記』天正18年正月25日条</ref><ref name=katayama2017-a/>。
 
 
 
この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は[[元服]]して秀吉の[[偏諱]]を受けて'''秀忠'''と名乗ったとされ(『徳川実紀』)、秀吉から、[[豊臣氏|豊臣姓]]を与えられる<ref group="注釈">賜姓は1597年説もあり。</ref><ref name="murakawa">村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。</ref>。ただし、同年12月に秀忠が再度上洛した時の[[勧修寺晴豊]]の日記『晴豊記』天正18年12月29日条には秀忠を「於長」と称しており<ref>「家康子於長公家成、予所よりしやうそくニあらためられ候」</ref>、秀忠の元服と一字拝領は同日以降であった可能性もある。なお、翌天正19年(1591年)6月に秀吉から家康に充てられた書状では秀忠を「侍従」と称しており、この時には元服を終えていたと考えられる<ref name="katayama2017-b">片山正彦「天正年間における豊臣政権の在京賄料」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』 思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2。P25-27</ref>。
 
 
 
また、秀吉の養女・小姫(春昌院)との婚姻については、小姫の実父である信雄と秀吉が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌天正19年(1591年)に7歳で病死したとされる。ただし、当時は縁組の取決めをすることを「祝言」と称し、後日正式に輿入れして婚姻が成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫の早世によって婚姻が成立しなかった可能性も指摘されている<ref name="katayama2017-c">片山正彦「書評 福田千鶴著『淀殿 -われ太閤の妻となりて-』」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』 思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2。P78-80(初出は織豊期研究会『織豊期研究』9号)</ref>。
 
 
 
その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。[[文禄]]4年([[1595年]])には秀吉の養女・[[崇源院|江]]と再婚する<ref group="注釈">江は[[近江国]]の戦国大名[[浅井長政]]の三女で、母は織田信長の妹[[お市の方|市]]。江は天正14年から文禄元年頃に秀吉の養子・[[豊臣秀勝]]に嫁いでいたが、文禄元年に秀勝は死去していた。</ref>。
 
秀吉から、[[羽柴氏|羽柴]]の[[名字]]を与えられる<ref name="murakawa"/>。
 
 
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、[[東海道]]を進む家康本隊に対して、[[中山道]]を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、[[信濃国]][[上田合戦|上田城攻め]]を行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、[[9月15日 (旧暦)|9月15日]](新暦[[10月21日]])の関ヶ原本戦に間に合わなかった。
 
 
 
9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分が優れない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。これには[[榊原康政]]ら家臣の仲介があったとされている。
 
 
 
=== 将軍後継者 ===
 
関ヶ原の戦いのあと家康は三人の息子のうち誰を後継者にすべきかを家臣を集めて尋ねた。[[本多正信]]は[[結城秀康]]を推し、[[井伊直政]]と[[本多忠勝]]は[[松平忠吉]]を推し、[[大久保忠隣]]のみが「乱世においては武勇が肝要だが天下を治めるには文徳も必要。知勇と文徳を持ち謙譲な人柄の秀忠様しかいない」とただ一人秀忠を推した。後日家康は同じ家臣を集め後継者は秀忠とすると告げた。
 
[[File:Hidetada.jpg|thumb|徳川秀忠像([[徳川記念財団]]蔵)]]
 
慶長8年([[1603年]])2月12日に征夷大将軍に就いて[[江戸幕府|幕府]]を開いた家康は、[[徳川氏]]による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を'''[[近衛大将|右近衛大将]]'''(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、慶長8年([[1603年]])4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定した。この時期の秀忠は'''江戸右大将'''と呼ばれ、以後代々の[[徳川将軍家]]において'''右大将'''といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。
 
 
 
関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。ここに頼朝(右大将家)を崇拝する家康の願いが現実のものとなる。
 
 
 
そして2年後の慶長10年([[1605年]])、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。
 
 
 
=== 征夷大将軍 ===
 
慶長10年([[1605年]])正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ入る。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達した。
 
 
 
3月21日、秀忠も伏見城へ入る。4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり[[大御所 (江戸時代)|大御所]]と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。このとき、家康の参内に随行した板倉重昌も叙任された<ref>村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」(『駒沢史学』80号、2013年)120頁。</ref>。
 
 
 
'''徳川秀忠 征夷大将軍の辞令(宣旨)'''「壬生家四巻之日記」
 
權大納言源朝臣秀忠
 
左中辨藤原朝臣總光傳宣
 
權中納言藤原朝臣光豐宣
 
奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
 
慶長十年四月十六日
 
中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉
 
 
 
(訓読文)
 
権大納言源朝臣秀忠(徳川秀忠)
 
左中弁藤原朝臣総光([[広橋総光]]、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り
 
権中納言藤原朝臣光豊([[勧修寺光豊]]、従三位・武家伝奏)宣(の)る
 
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
 
慶長10年(1605年)4月16日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮([[壬生孝亮]]、従五位下)奉(うけたまは)る
 
 
 
将軍・秀忠は[[江戸城]]に居住し、[[駿府城]]に住む大御所・家康との間の[[二頭政治|二元政治]]体制になるが、[[本多正信]]らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当した。
 
 
 
[[大坂の役]]にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年([[1615年]])のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・[[大野治房]]によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに[[武家諸法度]]・[[禁中並公家諸法度]]などの制定につとめた。
 
 
 
なお、将軍襲職の際に[[源氏長者]]、[[奨学院別当]]は譲られなかったとする説がある<ref>[[岡野友彦]]『源氏と日本国王』(講談社、2003年)</ref>。『[[徳川実紀]]』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。
 
 
 
[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に家康が死去した後は将軍親政を開始し、[[酒井忠世]]・[[土井利勝]]らを[[老中]]として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。[[大名]]統制を強化して[[福島正則]]ら多くの[[外様大名]]を改易し、[[熊本藩]]家中の内紛である[[牛方馬方騒動]]を裁いた。3人の弟を[[尾張藩|尾張]]・[[紀伊藩|紀伊]]・[[水戸藩|水戸]]に配置し、自身の子・[[徳川忠長|忠長]]に[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・[[甲斐国|甲斐]]を与えた。一方、弟・[[松平忠輝]]、甥で娘婿でもある[[松平忠直]]や家康の謀臣・[[本多正純]]を[[改易]]・[[配流]]にしている。また[[朝廷]]に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人[[徳川和子|和子]]を[[後水尾天皇]]に入内させた。また[[鎖国]]政策の布石として、外国船寄港を[[平戸港|平戸]]・[[長崎港|長崎]]に限定させている。
 
 
 
=== 隠居 ===
 
元和9年([[1623年]])に上洛をして6月25日に参内すると、将軍職を嫡男・[[徳川家光|家光]]に譲る。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は[[小田原城]]で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の[[皇居]])に移った。
 
 
 
[[寛永]]3年([[1626年]])10月25日から30日まで後水尾天皇の[[二条城]]への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永6年([[1629年]])の[[紫衣事件]]では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し([[明正天皇]])、秀忠は天皇の[[外戚]]となった。
 
 
 
寛永8年([[1631年]])には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年([[1632年]])1月に薨去。
 
 
 
家光に対して「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」(『徳川実紀』)との遺言を残している。
 
 
 
== 官歴 ==
 
※日付=旧暦
 
* 天正15年([[1587年]])[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]、豊臣秀忠として従五位下に叙し、侍従に任官。蔵人頭を兼帯。
 
* 天正16年([[1588年]])[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。侍従如元。蔵人頭を去る。
 
* 天正18年([[1590年]])
 
** 1月15日、元服し秀忠と名乗る。
 
** [[12月29日 (旧暦)|12月29日]]、従四位下に昇叙し、侍従如元。
 
* 天正19年([[1591年]])、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]、豊臣秀忠として参議に補任し右近衛権中将を兼帯。
 
* [[文禄]]元年([[1592年]])[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]、豊臣秀忠として従三位に昇叙し、権中納言に転任。
 
* 文禄3年([[1594年]])[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]、権中納言を辞任。
 
* [[慶長]]6年([[1601年]])[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]、豊臣秀忠として権大納言に転任。
 
* 慶長7年([[1602年]])[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、従二位に昇叙。権大納言如元。
 
* 慶長8年([[1603年]])[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]、源秀忠として'''右近衛大将'''を兼任。
 
* 慶長10年([[1605年]])
 
** [[4月16日 (旧暦)|4月16日]]、源秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
 
** [[5月1日 (旧暦)|5月1日]]、'''征夷大将軍'''宣下。
 
* 慶長11年([[1606年]])、内大臣と右近衛大将を辞任。
 
* 慶長19年([[1614年]])[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]、従一位に昇叙し、右大臣に転任。
 
* [[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]、右大臣を辞任
 
* [[寛永]]3年([[1626年]])[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]、太政大臣に転任。
 
* 寛永9年([[1632年]])
 
** [[1月24日 (旧暦)|1月24日]]、薨去。
 
** [[2月10日 (旧暦)|2月10日]]、贈正一位。
 
※豊臣秀忠としての宣旨表記に関しては、下村效『日本中世の法と経済」1998年3月 続群書類従完成会発行の論考による。
 
 
 
== 墓所・遺骸について ==
 
法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の一角にあった[[台徳院霊廟]]であったが戦災で焼失し、[[昭和]]33年([[1958年]])に台徳院霊廟が[[増上寺]]本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も[[桐ヶ谷斎場]]で[[荼毘]]に付されて改葬された。この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、座した姿勢のままその衣服等とともに縦に圧縮され、畳んだ提灯の如くつぶれていた。圧縮により変形が激しく、また骨が著しく分解され軟化していたため、詳細な調査は不可能であった。毛髪等の調査の結果、秀忠の[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|O型]]で、四肢骨から推定した[[身長]]は157.6[[センチメートル|cm]]であった。<ref>鈴木尚『[[骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと]]』(東京大学出版会、1985年)</ref><ref>鈴木尚・矢島恭介・山辺知行編集『[[増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体]]』(東京大学出版会、1967年)</ref>
 
また、かつての霊廟室内には宝塔が祀られていたが、こちらも戦災で焼失した。現在は内室[[崇源院]](江)と共に合祀されている。
 
 
 
== 戦績 ==
 
=== 関ヶ原の戦い ===
 
秀忠は[[関ヶ原の戦い]]が[[初陣]]であった。彼は3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人が籠城する[[信濃国|信州]][[上田城]]を攻め、[[真田昌幸]]の前に大敗を喫した([[上田合戦#第二次上田合戦|上田合戦]])。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『[[烈祖成蹟]]』)と記されている。この時の秀忠隊は、当時の慣例により作戦対象の[[信濃国|信濃]]と[[会津]]に隣接する封地を持つ徳川譜代で構成していた<ref group="注釈">ただし、[[相模国|相模]]に所領を持つ大久保忠隣・本多正信は秀忠の補佐として、秀忠の旗下にあった。</ref>。ただし同時代史料には大規模な戦闘や大敗の記述は無く、家譜類に刈田を起因として小競り合いが記されているのみである。
 
 
 
これについて、「当初より[[美濃国|美濃]]方面に向かっていた秀忠軍に対して、真田が巧妙に挑発し、それに乗せられた結果として秀忠は関ヶ原の会戦に間に合わなかった」「大局への影響の少ない上田城にこだわった秀忠は器量不足だった」「武断派の[[榊原康政]]・[[大久保忠隣]]が策士の[[本多正信]]を押し切って秀忠を上田城攻撃に駆り立てた」といった図式が小説等で採用されることがある<ref group="注釈">[[司馬遼太郎]] 『[[関ヶ原 (小説)|関ヶ原]]』 (1966年)など。</ref>。
 
 
 
しかし、『浅野家文書』によると、秀忠に同行した[[浅野長政]]に宛てて「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令は信州平定であり、秀忠はそれに従っていたにすぎない。『真田家文書』では[[真田信之|真田信幸]]に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定であることを伝え、[[小県郡]]に集結するように命じている。秀忠は[[小山城|小山]]を出陣してから緩やかに行軍し、上田攻略の前線基地となる[[小諸城]]には9月2日に着陣した<ref name="真田昌幸p209"> 柴辻俊六『人物叢書‐真田昌幸』(吉川弘文館、1996年、p.209)</ref>。
 
 
 
一方、[[岐阜城の戦い|岐阜城陥落]]が早かったことから、[[江戸]]の家康は戦略を急遽変更し、秀忠軍に上洛を命じる使者を送り、自身も9月1日に出陣し[[東海道]]経由で美濃の前線に向かった。しかし秀忠への使者の行程が豪雨による川の氾濫のため大幅に遅れ、秀忠が命令を受領したのは[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]とするが、実際に上洛命令を受けたのは森忠政宛秀忠書状から8日の上田であった<ref>黒田基樹『「豊臣大名」真田一族』洋泉社、2016年</ref>。秀忠は急いで美濃に向かうが、当時の道幅の狭い隘路が続く[[中山道]]は大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なり、[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]の関ヶ原開戦に間に合わなかった。
 
 
 
家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。[[本多忠勝]]は「秀忠軍を待つべし」と主張し、[[井伊直政]]は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。秀忠は、[[木曽地域|木曽]]の[[馬籠宿|馬籠]]に着いた17日に戦勝報告を受けた。
 
 
 
=== 大坂の陣 ===
 
慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣|大坂冬の陣]]出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて[[江戸城]]を出発した。関ヶ原の戦いの時の失敗を取り返そうと、24日に[[藤沢宿|藤沢]]、26日に[[三島宿|三島]]、27日に[[江尻宿|清水]]、28日に[[掛川宿|掛川]]、29日には[[吉田宿|吉田]]にまで至るという強行軍を続け、秀忠が[[伏見城]]に到着したのは11月10日、江戸から伏見まで17日間で到着するという速さであった。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。
 
 
 
このときのことを、『[[当代記]]』では、次のように記している。
 
{{Quotation|廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参。
 
(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)}}
 
これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。『当代記』では、11月1日に秀忠が[[岡崎宿|岡崎]]に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して、11月2日には[[名古屋宿|名古屋]]、5日には[[彦根城|佐和山]]にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『[[駿府記]]』には記されている。
 
 
 
慶長20年([[1615年]])の大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 血筋 ===
 
{{出典の明記|section=1|date=2011年9月}}
 
[[西三河]]の土豪から伸し上がった徳川家(松平家)は、三河での覇権が確立して後も、かつて同格であった旧同輩の豪族による反乱に悩まされ続けていた。そのような中で、秀忠の母は[[土岐氏]]一門の[[西郷氏#三河西郷氏|三河西郷氏]]の出であり、[[土岐頼忠]]の子の西郷頼音を祖とする。三河西郷氏が三河の旧守護代家として、[[下克上]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]では家格は高かったという。
 
 
 
なお、『[[寛政重修諸家譜]]』には以下の記載がある(西郷氏 巻第369)。
 
:西郷正勝 母は[[吉良義富|吉良上総介義富]]が女
 
西郷正勝は西郷局の外祖父であり、秀忠の曽祖父に当たる。よって、秀忠は[[足利氏]]の傍流である[[吉良氏]]の血を引くことになる。
 
 
 
=== 武将としての評価 ===
 
秀忠を『[[徳川実紀]]』では次のように評価している。
 
{{quotation|東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君([[松平信康]])はじめ、越前黄門([[結城秀康]])、薩摩中将([[松平忠吉]])等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき}}
 
このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で[[島津豊久]]を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
 
 
 
それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている<ref>[[小和田哲男]]『徳川秀忠』([[PHP研究所]][[[PHP新書]]]、1999年。87頁)</ref>(家康は[[太宗 (唐)|唐の太宗]]の治世について記した『[[貞観政要]]』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。
 
 
 
=== 為政者としての評価 ===
 
[[禁中並公家諸法度|公家諸法度]]、[[武家諸法度]]などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある<ref> [[山本博文]]『遊びをする将軍 踊る大名』([[教育出版]]、2002年)P66-67 「家康の路線を確立させたのは秀忠の功績である。政治的資質においては、家光などよりもはるかに優れていた」</ref>。娘の[[徳川和子|和子]]を[[後水尾天皇]]に嫁がせ皇室を牽制、また[[紫衣事件]]では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年([[1616年]])7月、[[小倉藩]]主の[[細川忠興]]は息子・[[細川忠利|忠利]]に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様は政務に余念がない)と書き送っている<ref> [[山本博文]]『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』([[講談社学術文庫]]、2004年)P48</ref>。
 
 
 
秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として全面的に政務を見ている。作家の[[海音寺潮五郎]]は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。
 
 
 
=== その他 ===
 
* 大坂の陣の後のことであるが、弟・[[徳川義直|義直]]と共に能を観劇している最中に地震が起こり、周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている<ref name="meisho">岡谷繁実『名将言行録』巻之四十二</ref>。
 
* 13歳の時、[[儒学]]の講義を受けていた部屋に牛が乱入して騒ぎとなったが、秀忠は冷静に講義を聴き続けていたという逸話がある<ref name="meisho"/>。
 
* 遺骨から推定される体格は、身長159cm程度で筋肉質であった。[[銃創]]の痕跡が複数見つかっている点から、敵の攻撃に直接曝されるような場所で指揮を執る戦法を多用していたこと、骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え抜くだけの体力、生命力を有していたことが推定されている。尚、死因は[[胃癌]]だったと考えられている<ref>[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)</ref>。大腿骨の桂状性、脛骨の扁平性の存在など、四肢骨の筋附着部の性状から判断すると、意外と思われるほど筋肉の発達がよく、十分に鍛錬された体である。頭髪は半白であるが、腕の毛とすね毛は濃厚とさえ思える程に黒々として、老境を感じさせない<ref>鈴木尚『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会、1985年)24-25頁</ref>。
 
* 慶長16年(1611年)、江戸城の[[女中]]だった静([[浄光院 (保科正之生母)|浄光院]])との間に秀忠の四男・幸松([[保科正之]])が生まれている。その後も静は正式に側室となることはなく、幸松は[[高遠藩]]保科家で養子として養育された。なお、秀忠はその後も幸松を実子として扱うことはなく、自身の遺産分けでも親族扱いはせずあくまで譜代大名の一人としている。
 
* 江戸上洛の途中、[[三島宿]]で鰻を獲ると神罰が当たるという[[三島明神]]の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで[[磔]]に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである。
 
* [[2012年]]、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の[[肖像画]]の[[紙形]](下絵)が公開された<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html |title=将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む |newspaper=朝日新聞 |date=2012年8月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120810121502/http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html |archivedate=2012年8月10日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref><ref>[http://blog.goo.ne.jp/fukuchan2010/e/b62fe5049e2da6ae0d5eef78030a7817 鶴は千年、亀は萬年。]2012年8月8日付 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130901231627/http://blog.goo.ne.jp/fukuchan2010/e/b62fe5049e2da6ae0d5eef78030a7817 |date=2013年9月1日 }}</ref>。秀忠像は白描淡彩本。
 
 
 
== 秀忠の室と子女 ==
 
* [[小姫]]:[[正室]]
 
* 江([[崇源院]]):[[継室]]
 
** 長女・[[千姫]](天樹院):[[豊臣秀頼]]室、のちに[[本多忠刻]]室
 
** 次女・[[珠姫]](天徳院):[[前田利常]]室
 
** 三女・[[天崇院|勝姫]](天崇院):[[松平忠直]]室
 
** 四女・[[初姫]](興安院):[[京極忠高]]室
 
** 次男・[[徳川家光]]:江戸幕府将軍
 
** 三男・[[徳川忠長]]:駿府城主
 
** 五女・[[徳川和子]](東福門院):[[後水尾天皇]]中宮
 
* 静([[浄光院 (保科正之生母)|浄光院]])
 
** 四男・[[保科正之]]:[[会津松平家]]初代
 
* 家女
 
** 長男・[[徳川長丸|長丸]](慶長6年(1601年)2月<ref>『[[系図纂要]]』</ref>または12月3日<ref name="soinden">「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻)</ref> - 慶長7年(1602年)7月<ref>「征夷大将軍・系譜総覧」『歴史読本 臨時増刊』(1979年6月)</ref>または9月25日<ref name="soinden"/>、もしくは慶長6年(1601年)9月<ref>『[[言経卿記]]』慶長六年九月二十一日条、『[[鹿苑日録]]』慶長六年九月二十日条</ref>)
 
; 秀忠の養子
 
* [[喜佐姫]](龍昌院):[[結城秀康]]娘、[[毛利秀就]]室
 
* [[保寿院|千代姫]](保寿院):[[小笠原秀政]]娘、[[細川忠利]]室
 
* [[ビン姫]](雲松院):[[奥平家昌]]娘、[[堀尾忠晴]]室
 
* [[孝勝院|振姫]](孝勝院):[[池田輝政]]娘(母は姉[[督姫]])、[[伊達忠宗]]室
 
* [[亀姫 (松平忠直の娘)|亀姫]](宝珠院):[[松平忠直]]娘(母は三女[[天崇院|勝姫]])、[[高松宮好仁親王]]室
 
* [[円盛院|勝姫]](円盛院):[[本多忠刻]]娘(母は長女[[千姫]])、[[池田光政]]室
 
* [[福正院|鶴姫]](福正院):[[榊原康政]]娘、[[池田利隆]]室
 
* [[梅渓院|久姫]](梅渓院):[[松平忠良]]娘、[[黒田忠之]]室
 
* [[崇法院]]:[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]]娘(母は妹[[正清院|振姫]])、[[加藤忠広]]室
 
* [[豊臣完子|完子]]:[[豊臣秀勝]]娘(母は正室・江(崇源院))、[[九条幸家]]室
 
* [[小松姫]](大蓮院):[[本多忠勝]]娘、[[真田信之]]正室 - 近年の研究では徳川家康の養女とされる。
 
 
 
[[徳川家綱]](第4代将軍)、[[徳川綱重]]、[[徳川綱吉]](第5代将軍)は孫。[[徳川家宣]](第6代将軍)・[[松平清武]]は曾孫。[[徳川家継]](第7代将軍)は玄孫にあたる。
 
 
 
== 秀忠が偏諱を与えた主な人物 ==
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[有馬忠頼|有馬'''忠'''頼]]
 
* [[阿部忠吉|阿部'''忠'''吉]]
 
* [[阿部忠秋|阿部'''忠'''秋]](忠吉の次男)
 
* [[池田忠継|池田'''忠'''継]](甥(姉・[[督姫]]の子))
 
* [[池田忠雄|池田'''忠'''雄]](甥(同上)、忠継の弟・養嗣子)
 
* [[石川忠総|石川'''忠'''総]]
 
* [[石川忠義|石川'''忠'''義]](忠総の養兄・[[石川康通|康通]]の子)
 
* [[大久保忠常|大久保'''忠'''常]](石川忠総の長兄)
 
* [[大久保忠職|大久保'''忠'''職]]
 
* [[小笠原忠脩|小笠原'''忠'''脩]]
 
* [[小笠原忠真|小笠原'''忠'''真]](忠脩の弟、初め'''忠'''政)
 
* [[小笠原忠知|小笠原'''忠'''知]](忠真の弟)
 
* [[奥平忠昌|奥平'''忠'''昌]]([[奥平信昌]]の長男・[[奥平家昌|家昌]]の子)
 
* [[奥平忠政|奥平'''忠'''政]](甥(姉・[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]の子)、信昌の三男)
 
* [[奥平忠隆|奥平'''忠'''隆]](忠政の子)
 
* [[大須賀忠政|大須賀'''忠'''政]]
 
* [[加藤忠正|加藤'''忠'''正]]
 
* [[加藤忠広|加藤'''忠'''広]](忠正の弟、蒲生忠郷・忠知とは義兄弟)
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[蒲生忠郷|蒲生'''忠'''郷]](甥(妹・[[正清院|振姫]]の子))
 
* [[蒲生忠知|蒲生'''忠'''知]](甥(同上)、忠郷の弟・養嗣子)
 
* [[京極忠高|京極'''忠'''高]](娘婿)
 
* [[黒田忠之|黒田'''忠'''之]](初め'''忠'''長、'''忠'''政)
 
* [[高力忠房|高力'''忠'''房]]
 
* [[西郷忠員|西郷'''忠'''員]]
 
* [[榊原忠次|榊原'''忠'''次]](大須賀忠政の長男)
 
* [[里見忠義|里見'''忠'''義]]
 
* [[島田忠正|島田'''忠'''正]]
 
* [[仙石忠政|仙石'''忠'''政]]
 
* [[立花忠茂|立花'''忠'''茂]]
 
* [[伊達忠宗|伊達'''忠'''宗]]
 
* [[田中忠政|田中'''忠'''政]]
 
* [[土屋忠直|土屋'''忠'''直]]
 
* [[内藤忠興|内藤'''忠'''興]]
 
* [[中村一忠|中村'''忠'''一]](中村一忠の別名)
 
* [[鍋島忠直|鍋島'''忠'''直]]
 
* [[鍋島忠茂|鍋島'''忠'''茂]](忠直の叔父)
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[蜂須賀忠英|蜂須賀'''忠'''英]](初め正鎮、'''忠'''鎮)
 
* [[福島忠勝|福島'''忠'''勝]]
 
* [[細川忠利|細川'''忠'''利]]
 
* [[堀忠俊|堀'''忠'''俊]]
 
* [[堀尾忠氏|堀尾'''忠'''氏]]
 
* [[堀尾忠晴|堀尾'''忠'''晴]](忠氏の子)
 
* [[本多忠政|本多'''忠'''政]]
 
* [[本多忠朝|本多'''忠'''朝]](忠政の弟)
 
* [[本多忠純|本多'''忠'''純]](正純の弟)
 
* [[牧野忠成 (越後長岡藩初代)|牧野'''忠'''成]]
 
* [[松平忠吉|松平'''忠'''吉]](実弟)
 
* [[松平忠輝|松平'''忠'''輝]](実弟)
 
* [[松平忠直|松平'''忠'''直]](甥(兄・[[結城秀康|秀康]]の子)、娘婿)
 
* [[松平忠昌|松平'''忠'''昌]](甥(同上))
 
* [[松平忠明|松平'''忠'''明]](甥(姉・亀姫の子)、奥平信昌の四男、奥平松平家祖)
 
* [[松平忠良|松平'''忠'''良]]
 
* [[松平忠利 (久松松平家)|松平'''忠'''利]](忠良の長男)
 
* [[松平憲良|松平'''忠'''憲]](忠良の次男・憲良の別名)
 
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* [[松平忠頼|松平'''忠'''頼]]
 
* [[松平忠重|松平'''忠'''重]](忠頼の子)
 
* [[松平忠昭 (大給松平家)|松平'''忠'''昭]]
 
* [[松平忠清|松平'''忠'''清]]
 
* [[松平忠利|松平'''忠'''利]](深溝松平家、初め'''忠'''俊)
 
* [[松平忠房 (島原藩主)|松平'''忠'''房]]
 
* [[松平忠国 (播磨国明石藩主)|松平'''忠'''国]]
 
* [[松平忠晴|松平'''忠'''晴]](忠国の弟)
 
* [[山内忠義|山内'''忠'''義]]
 
* [[山内忠豊|山内'''忠'''豊]](忠義の長男)
 
* [[山内忠直|山内'''忠'''直]](忠義の次男)
 
</div>{{clear|left}}
 
 
 
 
 
; (補足)
 
* 「忠」の字は祖父の[[松平広忠]]から1字を取ったものである。広忠と親戚にあたる[[松平氏]]の傍流出身の人物や、[[譜代大名]]でこの広忠の時代に「忠」の字を与えられた家臣の子孫には、「忠」の字を[[通字]]として用いている家柄も多くみられるので、それらに該当する人物は必ずしも秀忠から授与されたとは限らず、一部省略してある。[[外様大名]]や譜代大名の中でも父兄に「忠」の字が入っていない人物に関しては確実視してよいだろう(ただし、細川忠興-忠利親子のように、父は[[織田信忠]]からの偏諱、子は秀忠からの偏諱という例もある)。
 
* ちなみに秀忠の次男(嫡男)・[[徳川家光|竹千代]]の[[諱]]の選定を任された[[以心崇伝]]は、これにも秀忠の「忠」の字を与えて「家忠」と名乗らせようとしていたが、[[花山院家]]祖・[[藤原家忠]]の名乗りと同じのを避けて、「家光」を選定している。
 
 
 
== 乳兄弟 ==
 
* [[井上正就]]
 
* [[水野勝成]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[小和田哲男]]『徳川秀忠 「凡庸な二代目」の功績』(PHP新書)
 
* [[鈴木尚]]・[[矢島恭介]]・[[山辺知行]]編集『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会、1967年)
 
* 鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会、1985年)
 
* [[笠谷和比古]]『関ケ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(講談社学術文庫)
 
* [[柴辻俊六]]『真田昌幸』([[吉川弘文館]]、1996年) ISBN 464205202X
 
 
 
== 関連作品 ==
 
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
 
; 書籍
 
* [[小和田哲男]]『徳川秀忠 「凡庸な二代目」の功績』(PHP新書、[[PHP研究所]]、1999年)
 
* [[福田千鶴]]『徳川秀忠―江が支えた二代将軍』([[新人物往来社]]、2011年)
 
; 小説
 
* [[戸部新十郎]]『徳川秀忠』([[徳間書店]]、1991年)
 
* [[百瀬明治]]『徳川秀忠―三百年の礎を築いた男』([[経営書院]]、のち[[PHP文庫]]、1995年)
 
* [[童門冬二]]『小説 徳川秀忠』(人物文庫、[[学陽書房]]、2010年)
 
* [[坂上天陽]]『宿命の兄弟―徳川秀忠と結城秀康』([[学研M文庫]]、2010年)
 
* [[星亮一]]『徳川秀忠とお江』(学研M文庫、2010年)
 
* 立石優『徳川秀忠と妻お江―江戸三百年の礎を築いた夫婦の物語』(PHP文庫、2011年)
 
; テレビドラマ
 
* 『[[葵 徳川三代]]』(NHK[[大河ドラマ]]、2000年)演:[[西田敏行]]
 
* 『[[武蔵 MUSASHI]]』(NHK大河ドラマ、2003年)演:[[中村獅童]]
 
* 『[[功名が辻]]』(NHK大河ドラマ、2006年)演:[[中村梅雀]]
 
* 『[[江〜姫たちの戦国〜]]』(NHK大河ドラマ、2011年)演:[[向井理]]
 
* 『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』(NHK大河ドラマ、2016年)演:[[星野源]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Tokugawa Hidetada}}
 
* [[広徳寺 (尼崎市)]]
 
* [[増上寺五重塔]]
 
 
 
{{徳川氏歴代当主|||第2代}}
 
{{江戸幕府将軍}}
 
{{歴代太政大臣}}
 
{{明正天皇の系譜}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{デフォルトソート:とくかわ ひてたた}}
 
{{デフォルトソート:とくかわ ひてたた}}
 
[[Category:徳川氏|ひてたた]]
 
[[Category:徳川氏|ひてたた]]

2018/10/17/ (水) 00:46時点における最新版

徳川秀忠
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正7年4月7日1579年5月2日
死没 寛永9年1月24日1632年3月14日
幕府 江戸幕府:第2代征夷大将軍
(在任1605年 - 1623年
氏族 徳川氏

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)

江戸幕府2代将軍(在職 1605~23)。徳川家康の三男。母は西郷氏於愛の方。幼名は長松,のちに竹千代と改名。法号は台徳院。元服して,豊臣秀吉の片諱(かたいみな)を賜って秀忠と名のった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは,進軍中に真田昌幸の妨害にあって合戦に間に合わず,父家康の勘気を被った。同 10年4月16日征夷大将軍宣下。大坂の陣で家康とともに出陣し,豊臣氏を滅ぼした。元和2(1616)年4月17日の家康死去のあとをうけて幕府組織の拡充,整備を行ない,同 6年には娘和子(東福門院)を入内させた。同 9年7月27日将軍職を二男の徳川家光に譲って隠居し(長子長丸は夭折),大御所と称した。隠居後はしばらくの間家光を後見し,寛永3(1626)年8月18日従一位太政大臣。同 4年紫衣事件を通して後水尾天皇に退位を余儀なくさせた。



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