引田天功 (初代)
初代・引田 天功(ひきた てんこう、1934年7月3日 - 1979年12月31日) は、日本のマジシャン(イリュージョニスト)、催眠術師。本名は引田 功(ひきた いさお)。師匠は松旭斎天洋。
水中や爆発などの極限状態からの脱出マジック[1]を得意とし、「日本の脱出王」の異名を取った。
人物
神奈川県横浜市生まれ。日本大学高等学校、日本大学工学部卒業。1968年から1975年まで7回にわたって日本テレビの特番(主に木曜スペシャルの枠内)として放送された脱出イリュージョンは「死のジェットコースター大脱出」、「死の火煙塔大脱出」「死の水道管大脱出」「油地獄水面炎上大脱出」といった従来のマジックからは考えられないほどのスケールの大きさで毎回高視聴率を記録し、日本中に脱出ブームを巻き起こした。脱出のアイディアは自身が尊敬する“脱出王”ハリー・フーディーニの脱出劇にヒントを得たものであり、大量の火薬をセッティングした大掛かりなパフォーマンスであった。彼はこれらの脱出を成功させるため、練習中に瀕死のアクシデントを経験している。脱出の際の爆薬の威力は凄まじく音と熱と煙に相当悩まされたとも自身の著書に記している。その人気から、本業以外では1969年、フジテレビ系のテレビドラマ「フラワーアクション009ノ1」にレギュラー出演もしている。
テレビメディアと組んだ大規模な脱出イリュージョンの日本におけるパイオニアとして、日本のマジック界をリードする存在だったが、中年期より心筋梗塞など重度の心臓疾患に苦しんだ。晩年は催眠術パフォーマンスにも取り組むなど身体に負担をかけず、かつ視覚的にインパクトのある芸も取り入れながら、一方では「ナイアガラ瀑布脱出」など、新たな脱出イリュージョンを構想していたともいわれていた。しかし、自身の病状の進行等の事情から果たせず、1979年大晦日に死去。45歳没。「引田天功は脱出マジックに失敗して命を落とした」「煙を吸い込んで、肺を痛めたのが早世につながった」との噂もたったが、公式の死因発表は心臓病死である。その訃報は出演予定だった翌日(1980年元日)朝のフジテレビの特別番組『初詣爆笑ヒットパレード』[2](この番組内で引田の脱出イリュージョンが生放送されることになっていた)で、司会の三波伸介によってお茶の間にも伝えられた。引田は横浜市緑区長津田の大林寺に葬られた[3]。
1976年から引田に師事し、1977年には引田の代役で「空中ケーブルからの大脱出」をこなしていた若手タレント朝風 まりが引田の死後、後援会の要請で1980年12月15日に二代目・引田天功を襲名、プリンセス・テンコーの別名で活躍している。
声優の小桜有美(初妻・小桜京子との間の子)、80年代のアイドルグループ少女隊のトモ(次妻との間の子)は娘。
来歴
- 1953年、松旭斎天洋の門下生となる。
- 1960年、松旭斎天洋門下から独立し「東京魔術団」を結成。
- 1964年、喜劇女優の小桜京子(柳家金語楼の姪)と結婚するも、1970年離婚。
- 1970年、大阪で行われた日本万国博覧会EXPO'70電力館水上劇場で会期中イリュージョンショーを行う。
- 1979年、心筋梗塞の発作を起こし闘病を続けるも死去。
脚注
- ↑ 引田が活動していた当時、日本の奇術(マジック)界では「イリュージョン」、「ステージマジック」、「サロンマジック」、「クロースアップ・マジック(テーブルマジック)」といった分類、名称がまだ一般的ではなく、引田のパフォーマンスは「脱出マジック」と呼ばれていた。
- ↑ “なつかし番組表 毎日新聞(東京版)昭和55年1月1日火曜日朝刊”. 想い出の東京12チャンネル. 2008年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。. 2014閲覧.
- ↑ 相沢雅雄 『ハマ線地名あれこれ「横浜編」』 株式会社230クラブ新聞社、1996年、188。