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'''小泉 純一郎'''(こいずみ じゅんいちろう、[[1942年]]〈[[昭和]]17年〉[[1月8日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]。
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'''小泉 純一郎'''(こいずみ じゅんいちろう、[[1942年]]〈[[昭和]]17年〉[[1月8日]] -
  
[[衆議院議員]](12期)、[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]](第[[竹下内閣 (改造)|69]]・[[宇野内閣|70]]・[[第2次橋本内閣|81]]代)、[[郵政大臣]]([[宮澤内閣 (改造)|第55代]])、[[内閣総理大臣]](第[[第1次小泉内閣|87]]・[[第2次小泉内閣|88]]・[[第3次小泉内閣|89]]代)、[[自由民主党総裁]](第20代)[[農林水産大臣]](第38代)などを歴任した。
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政治家。[[内閣総理大臣]](首相。在任 2001~06)。祖父([[小泉又次郎]]),父ともに代議士。
  
== 概要 ==
+
1967年慶應義塾大学経済学部卒業。1969年[[自由民主党]]から[[衆議院議員総選挙]]に立候補したが落選。
[[福田赳夫]]の[[秘書]]を経て、[[1972年]]の[[第33回衆議院議員総選挙]]で初当選し、以来12期連続当選。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]では[[清和会]](福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、[[山崎拓]]や[[加藤紘一]]と「[[YKK (政治同盟)|YKK]]」を結成し、[[経世会]]支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。
 
  
竹下政権にて厚生大臣として初入閣、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。[[森喜朗]]の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年(平成13年)4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、[[第二次世界大戦]]後の内閣総理大臣としては[[佐藤栄作]][[吉田茂]][[安倍晋三]]に次ぐ第4位。平成時代においては安倍晋三に次ぐ第2位の長期政権である。2009年(平成21年)の[[第45回衆議院議員総選挙]]には立候補せず、[[二男]]の[[小泉進次郎]]を後継指名して政界を引退した。引退後は、[[奥田碩]]、[[田中直毅]]らと[[シンクタンク]]「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務めていた。
+
[[福田赳夫]]の秘書を経て 1972年初当選し,以来当選を重ねる。1988年[[竹下登]]内閣の厚生大臣,1992年[[宮沢喜一]]内閣の郵政大臣,1996年第2次[[橋本龍太郎]]内閣の厚生大臣を務める。1998年三塚派から森派となり,同派会長として 2000年首相となった[[森喜朗]]を支えた。
  
== 経歴 ==
+
2001年4月,1995,1998年に続き 3度目の立候補となる自民党総裁選挙で橋本龍太郎など他候補を抑えて総裁に選出され,第87代,56人目の首相に就任。
=== 生い立ち ===
 
[[ファイル:Koizumi family.jpg|200px|thumb|right|小泉家。左から純一郎、又次郎、正也(純一郎の弟)、純也]]
 
[[1942年]](昭和17年)[[1月8日]]、[[神奈川県]][[横須賀市]]に、父[[小泉純也]]と母[[小泉芳江|芳江]]の長男として生まれる。母方の祖父[[小泉又次郎]]は[[第2次若槻内閣]]で[[逓信省#歴代の逓信大臣等|逓信大臣]]を務め、若い頃に全身に[[入れ墨]]を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる[[大衆]]政治家だった<ref group="注">[[入れ墨]]を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「[[水滸伝]]」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる{{Harv|佐野眞一|2006|p=147}}。[[藤原肇 (評論家)|藤原肇]]によると「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話は作り話であり、やはり[[テキ屋]]の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」という{{Harv|藤原肇|2005|pp=39-40}}。彫り師[[凡天太郎]]によると「とくに[[港町]]ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」という{{Harv|岩崎大輔|2006|p=58}}</ref>。
 
  
[[戦後]]、又次郎と純也は相次いで[[公職追放]]にあったため、小泉家の[[経済]]状態は決して恵まれていたわけではない。[[井料克己]]によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだ{{読み|貧|まず}}しくて[[夕食]]の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまに[[川]]や[[海]]に行って[[魚]]や[[ウナギ|うなぎ]]を釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という{{Sfn|岩崎大輔|2006|p=83}}。
+
混迷する政治,経済の立て直しを期待されて就任直後の総選挙にも圧勝,国民の支持率は一時 80%をこえた。2002年9月,日本の首相として初めて[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)を訪問し,北朝鮮に拉致された 5人の帰国を実現。
  
=== 学生時代 ===
+
経済再生に向けては「構造改革」を掲げ,2005年9月の総選挙で郵政 3事業の民営化の是非を有権者に問うて歴史的な圧勝を収めた。約 5年5ヵ月にわたって首相を務め,2006年に退任した。
[[神奈川県立横須賀高等学校]]から二浪したのちに[[慶應義塾大学]][[経済学部]]を卒業{{refnest|group="注"|慶應で同級だった学者の[[栗本慎一郎]]によれば「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。精神的な病気でおかしくなって、おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、精神がおかしくなり、事件を起こし逮捕歴があり、そのまま[[ロンドン]]にほとぼりが冷めるまで、遊びに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」という<ref>【週刊現代 2005/12/24号 巻頭記事】 栗本慎一郎 : 「パンツをはいた純一郎」</ref>}}。[[イギリス|英国]][[ロンドン大学]]群[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]] (U.C.L.) に留学の後、[[1969年]](昭和44年)8月に父が急死し帰国。
 
 
 
同年12月、亡父の跡を継ぎ、[[弔い選挙]]となった[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。
 
 
 
=== 福田赳夫の秘書として ===
 
[[福田赳夫]]の[[秘書]]を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した{{Sfn|梅田功|2001|p=125}}。[[横須賀駅]]5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った{{Sfn|梅田功|2001|p=125}}。福田のもとには初当選したばかりの[[塩川正十郎]]がいた{{Sfn|梅田功|2001|p=125}}。当時のことを[[塩川正十郎]]は『週刊文春』の[[阿川佐和子]]との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で[[靴]]{{読み|揃|そろ}}えておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り〜お車ぁ〜”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか[[内閣総理大臣|総理大臣]]になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」{{Sfn|梅田功|2001|pp=125-126}}。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行っていた。
 
 
 
=== 初当選 ===
 
[[1972年]](昭和47年)12月、[[第33回衆議院議員総選挙]]で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。[[清和会]](福田派)に属し、後に[[内閣総理大臣秘書官|首相秘書官]]となる[[飯島勲]]が[[秘書]]となった。大蔵委員会に所属し、以降生粋の大蔵族として地歩を築く。また、同期の[[山崎拓]]・[[加藤紘一]]と懇意になり後の[[YKK (政治同盟)|YKK]]へとつながる。
 
 
 
=== 結婚と離婚 ===
 
[[1978年]](昭和53年)に[[エスエス製薬]]の元会長[[泰道照山]]の孫と結婚。この結婚に父親的な存在だった泰道照山は反対だったという。泰道照山の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている{{Sfn|岩崎大輔|2006|pp=176-177}}。
 
 
 
3人の子供をもうけたが、[[1982年]]に離婚。離婚時に妻は三男を懐妊中であった。関係者の話によれば、「小泉の面倒は姉で秘書をしている信子がみており、[[系図]]をみてもわかるように周囲は姉弟の身内で固めている。離婚の理由は本人がおかしくなり、よほど結婚にはこりたようだ」という{{Sfn|神一行|2002|p=243}}。
 
 
 
=== 衆議院議員 ===
 
[[1979年]](昭和54年)、[[第2次大平内閣]]で[[大蔵政務次官]]に就任。
 
 
 
ポストに執着せずもっぱら政策の習熟に徹していたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって[[永田町]]では「変人」と評されるようになる。
 
 
 
[[1988年]](昭和63年)、[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]で[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]]として初入閣。
 
 
 
[[1989年]](平成元年)に[[リクルート事件]]で[[竹下登|竹下]]政権が倒れ、続く[[宇野宗佑|宇野]]政権も[[第15回参議院議員通常選挙|参院選]]で惨敗し、わずか2か月で退陣した。[[政治不信]]が高まり、[[政治改革]]の柱として「[[小選挙区制]]の導入」が叫ばれた際、小泉はこれに強く反対し、推進派の[[羽田孜]]と対立した。
 
 
 
[[1991年]](平成3年)、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の[[経世会]](竹下派)の支持を受けた[[海部俊樹]](首相)に対抗し、盟友の山崎拓([[政策科学研究所 (派閥)|渡辺派]])・加藤紘一([[宏池会|宮沢派]])と組んで、「海部続投阻止」「経世会支配打倒」を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束したため、海部内閣は機能不全に陥り、海部は総裁選不出馬に追い込まれた。
 
 
 
後任の総理総裁に[[宮澤喜一]]が就任すると、小泉は[[1992年]](平成4年)の[[宮澤内閣 (改造)|宮澤改造内閣]]で[[郵政大臣]]に就任する。就任会見で、かねてからの持論の[[郵政民営化]]論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人[[少額貯蓄非課税制度|マル優]]限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。
 
 
 
[[国連カンボジア暫定機構]]に派遣されていた[[日本の警察官|日本の文民警察官]]が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、宮澤改造内閣の郵政相として[[閣議]]の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」<ref>[[1993年]]5月7日、閣議での発言</ref>、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」<ref>『朝日新聞』1993年5月7日</ref> 等と語り、[[自衛隊カンボジア派遣]]に異議を唱えた。
 
 
 
また、この死傷事件をきっかけに[[タケオ州]]に駐在する[[自衛隊]]施設大隊が選挙監視要員を支援することにした[[日本国政府|政府]]決定についても異議を唱えている<ref group="注">「[[自衛隊員]]に警護をさせるというのは、いままでの[[国会 (日本)|国会]]の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策を取ったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見</ref>。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会で言ってきたこと、[[国民]]に約束したことを尊重すべきだ」とした<ref>『朝日新聞』1993年5月14日夕刊</ref>。
 
 
 
[[1993年]](平成5年)、羽田孜・[[小沢一郎]]ら羽田派([[改革フォーラム21]])らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、[[第40回衆議院議員総選挙]]で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。なお、総選挙後に[[日本新党]]の[[細川護熙]]を首班とする[[連立政権]]が成立、自民党は[[野党]]に転落した。宮澤の後任の[[自由民主党総裁|自民党総裁]]には[[河野洋平]]が就任した。
 
 
 
=== 総裁選への挑戦 ===
 
1994年(平成6年)、自民党は[[日本社会党委員長]]の[[村山富市]]を[[内閣総理大臣指名選挙]]で支持して[[自社さ連立政権]]を成立させ政権に復帰、[[野中広務]]らの[[平成研究会]](旧竹下派)が主導的な力を持つようになった。
 
 
 
[[1995年]](平成7年)の[[第17回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]で自民党は[[新進党]]に敗北。河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある[[橋本龍太郎]]を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは[[森喜朗]](清和会)擁立を図るが森が辞退したため、小泉が自ら出馬することを決めた。
 
 
 
既に大勢が決していた上に、[[郵政民営化]]を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だったが、それでも若手議員のグループが小泉を推した([[中川秀直]]や[[山本一太]]、当選1回の[[安倍晋三]]もいた)。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。
 
 
 
[[1996年]](平成8年)に村山が首相を辞任し、橋本内閣が成立すると、小泉は[[第2次橋本内閣]]で再び厚生大臣に就任する。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、[[与党]]から野次を受け、逆に[[野党]]から拍手を受けることもあった。同年、在職25年を迎えたが永年在職表彰を辞退した。
 
 
 
1997年(平成9年)、[[厚生省#歴代の厚生大臣|厚生大臣]]時代に厚生省幹部と参議院厚生委員会理事と[[食事]]を取っていたが、[[村上正邦]]自由民主党参議院幹事長が円滑な参議院審議を求める参議院理事のスケジュール管理の立場から、村上への事前通告がなく参議院理事を動かしたことで参議院スケジュール管理に支障を来たしたことを理由に反発した。村上が参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、厚生省幹部の出席差し止めという形で小泉厚相に反発。YKKの盟友だった[[加藤紘一]][[自由民主党幹事長|幹事長]]を中心とする[[自由民主党執行部|党執行部]]は異常事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は[[参議院]]の独自性を盾に抵抗。村上更迭という強行案には、党内連立反対派([[保保連合構想|保保連合派]])らの反発を党執行部が恐れたため、小泉厚相に対して村上参院幹事長に全面謝罪させることを提案、小泉が村上に謝罪したことで収束した(この事件が小泉にとって、参議院の影響力の大きさを実感する出来事であった。2001年に首相になった時、トップダウン方針と言われながらも、参議院の実力者であった[[青木幹雄]]に[[参議院枠]]を初めとする一定の配慮を示す原因になったと言われている)。
 
 
 
[[1998年]](平成10年)の[[第18回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、[[小渕恵三]]、[[梶山静六]]と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持を得られず、仲間の裏切りにもあい、所属派閥の清和会すらも固めることもできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。
 
 
 
=== 加藤の乱 ===
 
{{See also|加藤の乱}}
 
[[2000年]](平成12年)、小渕が急死し、党内実力者の[[青木幹雄]]、野中広務らの支持により幹事長だった[[森喜朗]]が総理・総裁に就任。小泉は[[清和政策研究会]](森派)の会長に就任した。[[第2次森内閣]]組閣では[[安倍晋三]]が[[内閣官房副長官]]に、中川秀直[[内閣官房長官|官房長官]]のスキャンダル辞任後の後任に[[福田康夫]]が、それぞれ小泉の推薦を受けて就任した。
 
 
 
この総理就任の経緯は密室談合と非難され、森内閣は森の旧来政治家的なイメージも相まって人気がなく、森の失言が次々と[[マスメディア|マスコミ]]に大きく取り上げられ、[[内閣支持率|支持率]]は急落した。このころの小泉は[[公明党]]との協力に批判的で、2000年6月の衆院選で公明党候補が多く落選したことについて野中幹事長が「大変なご迷惑をかけた。万死に値する」とコメントしたことを、猛然と批判している。森内閣の支持率は2000年11月には18.4パーセントを記録し、これに危機感を抱いた反主流派の[[加藤紘一]]・[[山崎拓]]が公然と森退陣を要求し始めた。加藤と山崎は、自派を率いて、[[野党]]の提出する[[内閣不信任決議|内閣不信任案]]に同調する動きを見せた。一方、森派の会長だった小泉は森支持の立場を明確にし、党の内外に加藤・山崎の造反を真っ先に触れ回った。
 
 
 
加藤はマスコミに積極的に登場して自説を主張し、普及し始めた[[インターネット]]を通じて[[世論]]の支持を受けたが、小泉ら主流派は猛烈な切り崩し工作を行い、加藤派([[宏池会]])が分裂して可決の見通しは全くなくなり、加藤・山崎は内閣不信任案への賛成を断念した。これにより、総理候補と目された加藤は、大きな打撃を受け小派閥に転落、一方、森派の顔として活躍した小泉は党内での評価を上げた。
 
 
 
=== 小泉旋風 ===
 
{{Main|小泉旋風}}
 
森の退陣を受けた2001年4月の[[2001年自由民主党総裁選挙|自民党総裁選]]に、[[橋本龍太郎]]、[[麻生太郎]]、[[亀井静香]]と共に出馬。敗れれば政治生命にも関わるとも言われたが、清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は[[主婦]]層を中心に大衆に人気のあった[[田中眞紀子]]([[田中角栄]]の長女)の協力を受けた。
 
 
 
最大派閥の橋本の勝利が有力視されたが、小泉が一般の[[党員]]・[[党友]]組織[[自由国民会議]]会員・[[政治資金団体]][[国民政治協会]]会員を対象とした予備選で眞紀子とともに派手な選挙戦を展開した。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて[[抵抗勢力]]」と熱弁を振るい、街頭演説では数万の観衆が押し寄せ、閉塞した状況に変化を渇望していた大衆の圧倒的な支持を得て、[[小泉旋風]]と呼ばれる現象を引き起こす。こうした中で、次第に[[2001年]][[7月]]に参院選の「選挙の顔」としての期待が高まる。そして小泉は予備選で地滑り的大勝をし、途中で[[中曽根康弘|中曽根]]元首相、[[亀井静香|亀井]]元建設相の支持も得、[[4月24日]]の議員による本選挙でも圧勝して、[[自由民主党総裁|自民党総裁]]に選出された。[[4月26日]]の[[内閣総理大臣指名選挙]]で[[公明党]]・[[保守新党]]の前身保守党、「[[無所属の会]]」所属の[[中田宏]]・[[土屋品子]]・[[三村申吾]]の支持を受け[[内閣総理大臣]]に指名された。
 
 
 
=== 内閣総理大臣 ===
 
{{Multiple image
 
|direction = vertical
 
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|image1 = Rumsfeld and Koizumi.jpg
 
|caption1 = 小泉と[[アメリカ合衆国国防長官]][[ドナルド・ラムズフェルド]](2004年11月14日)
 
|image2 = Junichiro_Koizumi_and_George_W._Bush_on_South_Lawn_of_White_House.jpg
 
|caption2 = 小泉と[[アメリカ合衆国大統領]]ブッシュ(2006年6月29日)
 
|image3 = World leaders at the 32nd G8 Summit, Strelna, Russia - 20060716.jpg
 
|caption3 = 小泉と[[第32回主要国首脳会議|サンクトペテルブルクサミット]]に出席した各国首脳(2006年7月16日)
 
}}
 
小泉は[[組閣]]にあたり従来の派閥順送り型の人事を排し、慣例となっていた[[派閥]]の推薦を一切受け付けず、[[国務大臣|閣僚]]・党人事を全て自分で決め、「[[総理大臣官邸|官邸]]主導」と呼ばれる流れを作った。少数派閥の領袖である山崎拓を[[自由民主党幹事長|幹事長]]に起用する一方で、最大派閥の[[平成研究会]](橋本派)からは党三役に起用しなかった。人気のある[[石原伸晃]]を[[内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)|行政改革担当大臣]]に、民間から[[経済学者]]の[[竹中平蔵]]を[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済財政政策担当大臣]]に起用した。また、総裁選の功労者の田中眞紀子は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に任命された。5人の女性が閣僚に任命された([[第1次小泉内閣]])。
 
 
 
「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・[[石油公団]]・[[住宅金融公庫]]・[[帝都高速度交通営団|交通営団]]など[[特殊法人]]の民営化など[[小さな政府]]を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の[[三位一体の改革]](「中央から地方へ」)を含む「[[聖域なき構造改革]]」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「[[改革の本丸]]」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。
 
 
 
発足時(2001年4月)の[[第1次小泉内閣|小泉内閣]]の[[内閣支持率]]は、[[戦後]]の内閣として歴代1位の数字となり、最も高かった[[読売新聞社]]調べで87.1パーセント、最も低かった[[朝日新聞社]]調べで78パーセントを記録した。「[[小泉内閣メールマガジン]]」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。こうした小泉人気に乗るかたちで同年7月の[[第19回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]で自民党は大勝した。
 
 
 
[[終戦の日]]の[[8月15日]]に[[靖国神社問題|靖国神社参拝]]をすることを、小泉は総裁選時に[[マニフェスト|公約]]としていた。総理の[[靖国神社]]参拝は[[中華人民共和国|中国]]・[[大韓民国|韓国]]の反発に配慮して長年行われていなかった。小泉は、批判に一定の配慮を示し、公約の8月15日ではなく13日に靖国神社参拝を行った。翌年以降も、毎年靖国参拝を行った。2006年には公約であった終戦の日における参拝を実現した。
 
 
 
[[9月11日]]、[[アメリカ同時多発テロ事件|米同時多発テロ]]の発生を受けて、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の「[[対テロ戦争|テロとの戦い]]」を支持した。[[アメリカ軍|米軍]]らの[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]を支援する[[テロ対策特別措置法]]を成立させ、[[海上自衛隊]]を米軍らの[[後方支援]]に出動させた。
 
 
 
国際情勢が緊迫する中、[[外務省]]は、田中外相が外務[[官僚]]や元外務政務次官の[[鈴木宗男]]議員と衝突し、機能不全に陥っていた。小泉は[[2002年]]2月に田中外相を更迭した。人気の高い田中の更迭により、80パーセントを超える異例の高支持率であった小泉内閣の支持率は40~50パーセント台にまで急落した(読売新聞では支持率48.9%、下げ幅30.7ポイントという急落ぶりだった)。田中は大臣更迭後の同年8月に[[秘書]][[給与]]流用疑惑が浮上し議員辞職した。
 
 
 
小泉は、[[2002年]](平成14年)9月に電撃的に[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)を訪問し、[[金正日]][[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]と初の[[日朝首脳会談]]を実現し、[[日朝平壌宣言]]に調印した。この訪問で金正日は[[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮による日本人拉致]]を公式に認め、拉致被害者のうち5名を日本に帰国させることを承認した。しかし、残りの拉致被害者のうち8名が死亡・1名が行方不明とする北朝鮮の回答に対し、拉致被害者家族は怒りを隠さず、交渉を終え帰国した小泉を面罵する場面もあった。
 
 
 
[[2002年]][[9月30日]]、[[第1次小泉内閣 (第1次改造)|小泉改造内閣]]が発足。[[柳澤伯夫]]を[[金融大臣]]から更迭して、[[竹中平蔵]]に兼務させた。これにより、以後は[[不良債権処理]]の強硬策を主張する竹中が小泉政権の[[経済政策]]を主導した。
 
 
 
[[2003年]](平成15年)3月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[イラク戦争|イラクへ侵攻]]して[[サッダーム・フセイン|フセイン]]政権を打倒した。小泉は開戦の数日前にアメリカ支持を表明し、[[野党]]や[[マスコミュニケーション|マスコミ]]の一部から批判を受けた。[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米同盟]]こそが[[外交]]の基軸とのスタンスを崩さず、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]との蜜月関係を維持した。イラク戦後[[復興]]支援のための[[陸上自衛隊]]派遣が喫緊の課題となり、7月に[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク特措法]]を成立させた。これに先立つ6月には、長年の安全保障上の懸案だった有事関連三法案([[有事法制]])を成立させている。ここで、小泉がイラク戦争を公式に支持する際、数日前の2003年3月2日に起きたアメリカ軍電子偵察機に対する北朝鮮戦闘機のスクランブル発進を引き合いにして朝鮮有事における日米同盟の重要性を強調している。
 
 
 
9月に行われた[[2003年自由民主党総裁選挙|自民党総裁選]]で[[平成研究会]]は[[藤井孝男]]元[[運輸大臣]]を擁立して小泉おろしを図ったが、[[参議院議員団|参院自民党]]幹事長であった青木幹雄がこれに与せず派閥分裂選挙となり、藤井は大敗。藤井擁立の中心となった[[野中広務]]は10月に政界を引退した。平成研究会(旧経世会)の凋落を示す事件で、[[清和政策研究会]](森派)が党の主導権を掌握することになる。
 
 
 
[[2003年]]9月、自民党総裁選で再選された小泉は[[第1次小泉内閣 (第2次改造)|小泉再改造内閣]]発足させ、党人事では当選わずか3回の[[安倍晋三]]を[[自由民主党幹事長|幹事長]]に起用する異例の人事を行い、11月の総選挙では[[安定多数|絶対安定多数]]の確保に成功。[[国務大臣|閣僚]]を留任させた[[第2次小泉内閣]]が発足した。この際、[[中曽根康弘]]元首相、[[宮澤喜一]]元首相に引退を勧告した。
 
 
 
[[2004年]](平成16年)1月、[[陸上自衛隊]]を[[イラク]]南部の[[サマーワ]]へ派遣したが、4月に武装集団がイラクにいた[[日本人]]を拉致して「イラクからの[[自衛隊]]の撤退」を要求する事件が起きた([[イラク日本人人質事件]])。小泉は「テロには屈しない」とこれを明確に拒否。人質3人は後に解放された(地元部族長の仲介によるものとされる)。また、この際には「自己責任論」を主張し、解放された人質らに対して外交経費を請求した。
 
 
 
2004年5月、小泉は再び[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問、[[平壌]]で[[金正日]][[朝鮮労働党中央委員会総書記|総書記]]と会談した。北朝鮮に対する25万トンの[[ミニマム・アクセス]]米や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。この会談で新たに5名の拉致被害者が日本に帰国した。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。
 
 
 
2004年6月、2003年6月に制定された有事関連三法に基づいて、「米軍と自衛隊の行動を円滑かつ効果的にする法制」、「国際人道法の実施に関する法制」、[[国民保護法]]等の有事関連七法([[有事法制]])を成立させた。
 
 
 
2004年7月の[[第20回参議院議員通常選挙]]を控え、[[年金]]制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、選挙では[[自由民主党 (日本)|自民党]]が改選50議席を1議席下回り、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]に勝利を許した。この責任をとって安倍幹事長が辞任し、[[武部勤]]が後任となった。
 
 
 
小泉の最大の関心は、持論の[[郵政民営化]]にあった。参院選を乗り切ったことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に[[第2次小泉内閣 (改造)|第2次小泉改造内閣]]を発足させ、竹中を[[郵政民営化担当大臣]]に任命した。「基本方針」を策定して、4月に開設した郵政民営化準備室を本格的に始動した。
 
 
 
=== 小泉劇場 ===
 
{{Main|小泉劇場}}
 
[[2005年]](平成17年)、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は[[亀井静香]]、[[平沼赳夫]]が中心となり長老の[[綿貫民輔]]を旗頭に100人近い議員を集めた。法案を審理する[[自由民主党総務会|党総務会]]は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。反対派はこれに激しく反発し、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井・平沼ら反対派との政争と化した。
 
 
 
[[衆議院]][[本会議]]における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。[[7月5日]]の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。[[参議院]]では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が参議院で否決されれば直ちに衆議院を解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そのような無茶はできないだろうと予測していた。
 
 
 
2005年[[8月8日]]、参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に[[衆議院解散]]に踏み切り、署名を最後まで拒否した[[島村宜伸]][[農林水産大臣]]を[[罷免]]、自ら兼務して解散を[[閣議]]決定し、同日小泉は、[[日本国憲法第7条|憲法第7条]]に基づき衆議院解散を強行した。
 
 
 
小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を'''「[[郵政解散]]」'''と命名し、[[郵政民営化]]の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「[[抵抗勢力]]」とするイメージ戦略に成功。また、[[マスコミュニケーション|マスコミ]][[報道]]を利用した'''劇場型政治'''は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより[[9月11日]]の投票結果は高い[[投票率]]を記録し、[[自由民主党 (日本)|自民党]]だけで296議席、[[公明党]]と併せた[[与党]]で327議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「[[小泉劇場]]」と呼ばれた。
 
 
 
2005年[[9月21日]]、小泉は圧倒的多数で[[内閣総理大臣指名選挙|首班指名]]を受け、第[[第3次小泉内閣|89]]代内閣総理大臣に就任する。[[10月14日]]の[[第163回国会|特別国会]]に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回り、小泉の長年の悲願は実現した。
 
 
 
なお、賛成票を投じた[[永岡洋治]]議員の自殺のように郵政民営化関連法案の成立には多くの事件が発生していた(葬儀に小泉が出席した後、故人の親族は本法案の賛成を表明)。
 
 
 
=== ポスト小泉 ===
 
{{Main|麻垣康三}}
 
[[2005年]]10月、[[第3次小泉内閣 (改造)|第3次小泉改造内閣]]が発足。ポスト小泉と目される[[麻生太郎]]が[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に、[[谷垣禎一]]が[[財務大臣]]に、安倍晋三が[[内閣官房長官]]に起用された。
 
 
 
この後、2005年11月 - 2006年1月にかけて、[[構造計算書偽造問題]]、[[皇位継承問題 (平成)|皇位継承問題]]、[[ライブドア・ショック]]と[[堀江貴文]]の[[逮捕]]、[[米国産牛肉]]輸入再開問題など、[[政権]]への逆風となる出来事が相次いで発生した。[[野党]]は攻勢を強め、9月の退陣へ向けて小泉内閣は[[レームダック]]に陥るのではないかとの予測もあった。しかし、[[堀江メール問題]]で[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]が自壊したため、内閣の求心力が衰えることはなく、[[常会|通常国会]]では「[[健康保険法]]等の一部を改正する法律」([[後期高齢者医療制度]]を創設)などの重要法案を成立させている。なお、[[堀江メール問題]]の後、[[永田寿康]]議員は自殺している。
 
 
 
[[2006年]](平成18年)[[8月15日]]の[[終戦の日]]に小泉は最初の総裁選の[[マニフェスト|公約]]を果たして[[靖国神社]]へ参拝した。小泉はこの時の[[インタビュー]]で自身の参拝理由を明確かつ丹念に提示することに努めている。
 
 
 
2006年[[9月20日]]の自民党総裁選では、選挙前から確実視された[[安倍晋三]]が後継に選ばれる。翌[[9月21日]]に小泉の自民党総裁任期は満了し、[[9月26日]]に[[内閣総辞職|総辞職]]して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は[[1987年]]の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は[[戦後]]4位であり21世紀最初の長期政権となった。
 
 
 
=== 首相退任後 ===
 
首相退任後は、テレビ出演やインタビューなど、[[国民]]の前でほとんど発言していない。マスコミ記者からインタビューを受けても何も言わないで去っていくことが多い。ただし、講演会などをまれに行っており、立ち見が出るほどの反響になる。
 
 
 
小泉には[[院政]]の意思はなく、もともと一匹狼であるため子分もおらず、かつて所属していた森派にも戻らなかった。[[岸信介]]や[[田中角栄]]、[[中曽根康弘]]、[[竹下登]]など大派閥を擁し退任後も政界に影響力を残した元総理たちのような政治的基盤はない(清和会はもともと森喜朗の派閥で、[[町村信孝]]が継承)。
 
 
 
「小泉再登板待望論」も一部で囁かれるが、小泉は再登板を完全に否定している。[[2007年]][[9月12日]]に、安倍晋三が首相辞任を表明した際、ポスト安倍としていわゆる[[小泉チルドレン]]たちから小泉に[[自由民主党総裁選挙|総裁選]]立候補の強い要請があったが、本人は「100パーセント出馬しない」と出馬の可能性を否定。小泉自身は、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人じゃないか」と[[福田康夫]]支持を表明したが、これが[[飯島勲|飯島秘書官]]に辞任を決意させたとも言われる(飯島は小泉在任中に福田としばしば対立し、2007年の総裁選でも小泉擁立に動いたとされる)<ref>[飯島勲氏、小泉純一郎前首相の秘書を辞職…福田支持に反発?(2007年9月14日 サンスポ)]</ref><ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/84598/ 空回り小泉チルドレン…小池擁立も失敗、福田支持へ(2007年9月14日 産経新聞)]}{{リンク切れ|date=2012年3月}}</ref>。
 
 
 
2006年以降は[[8月15日]]([[終戦の日]])に靖国神社参拝を実施している。また、息子進次郎も父と同様に靖国神社参拝を実施している。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)9月、安倍が退陣を発表後、「福田さんも小泉政権を支えてくれた人」と[[福田康夫]]支持の意向を示した。また、[[2008年]][[5月22日]]には、[[東京都]][[目黒区]]([[東京都第5区|東京5区]])にてかつて[[岐阜県第1区|岐阜1区]]で造反した[[野田聖子]]議員への刺客だった[[佐藤ゆかり]]の応援演説を行った<ref>『週刊FLASH』2008年6月10日号</ref>。
 
 
 
=== 政界引退 ===
 
[[麻生内閣]]が成立した翌日の[[2008年]](平成20年)[[9月25日]]、地元支持者の会合において、次回の衆議院議員選挙に立候補しない意向を明らかにした。首相経験者が首相退任後の衆院選に立候補せずに政界を引退するのは[[池田勇人]]や<!--[[大平正芳]]は立候補はしたが選挙中に死去。-->[[小渕恵三]]の病気退任を除けば戦後初めてのことである。
 
 
 
ただし、国会の外での政治活動は継続すると表明している。政界引退後の総選挙においては、かつての選挙区である[[神奈川県第11区|神奈川11区]]から小泉の次男で私設秘書の[[小泉進次郎]]が後継([[世襲]]候補)として立候補し、当選した。
 
 
 
[[2012年]]夏に[[消費税]]増税法案で[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]が分裂するなどした際には、[[自由民主党 (日本)|自民党]]幹部や派閥領袖に対して「[[野党]]が解散権を握ってる政局というチャンスは珍しいんだ。ちゃぶ台返しをやれ」と民主党に強硬姿勢でのぞむことを支援した。
 
 
 
=== 脱原発 ===
 
総理大臣時代は原発推進の立場だったが、[[東日本大震災]]を経た2011年夏頃までには「[[原子力撤廃|脱原発]]」を主張するようになっていた<ref name="jiji">[https://www.jiji.com/jc/v4?id=koizumi13110001 時事ドットコムニュース>特集>「原発「即ゼロ」を 小泉純一郎元首相」]</ref><ref>2011年7月26日に行われたシンポジウム「震災後の日本経済を展望する」における発言など</ref>。[[2013年]]秋頃からは、講演会等でも盛んに発言するようになり、メディアに頻繁に取り上げられるようになった。この発言を脱原発や反原発を主張する[[みんなの党]]代表[[渡辺喜美]]や[[生活の党と山本太郎となかまたち|生活の党]]代表[[小沢一郎]]など野党各陣営が歓迎し、[[10月29日]]には反原発を掲げる[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]党首[[吉田忠智]]と会談まで行った。[[2014年]]2月の[[2014年東京都知事選挙|東京都知事選]]では、脱原発を争点に立候補した[[細川護熙]]を支援したが、細川は落選した。
 
 
 
[[2018年]][[1月10日]]には、自らが顧問を務める民間団体「[[原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟]]」の記者会見で「'''原発ゼロ・自然エネルギー基本法案'''」を発表。内容は原発の即時停止を求めるもので、法案への支持を与野党に呼び掛けた<ref name="sankei180110">[http://www.sankei.com/politics/news/180110/plt1801100019-n1.html 産経ニュース 小泉純一郎元首相ら「原発ゼロ基本法案」発表 2018.1.10 18:20]</ref><ref name="saga">[http://www.saga-s.co.jp/articles/-/167903 小泉元首相ら「原発ゼロ」法案「国民の賛同で必ず実現」]</ref>。
 
 
 
== 政策 ==
 
=== 政権公約となった政策 ===
 
==== 郵政民営化 ====
 
[[紺谷典子]]によれば、2004年9月におこなわれた自民党内の[[与党]]手続きでは多数決を採らず、怒号の中、「多数と認めます」との宣言だけが行われ、「少数決」だと批判された<ref name="ReferenceA">紺谷典子『平成経済20年史』 {{要ページ番号|date=2014年11月3日}}</ref>。以降の手続きは中央省庁改革法33条6項「民営化等の見直しは行わない」を削除修正せず、これに反して行われたという<ref name="ReferenceA"/>。
 
 
 
[[2005年]]に[[日本国政府|政府]]が[[国会 (日本)|国会]]に提出した[[郵政民営化法|郵政民営化法案]]が[[衆議院]]において可決された後、[[参議院]]において否決されたため衆議院を解散した([[郵政解散]])。この解散は参議院の意義を否定するものとして一部では問題視されたが、解散により実施された衆議院選挙で自民党は、結果的に法案が参議院で否決された場合でも衆議院で[[衆議院の再議決|再可決]]することにより成立させられる3分の2超の議席を与党自民党で確保した。選挙後の特別国会において衆参ともに郵政民営化法が可決された。
 
 
 
小泉が郵政民営化にこだわった動機については、[[特定郵便局|特定郵便局長会]]との個人的な遺恨にあるとの見方もある{{refnest|group="注"|[[紺谷典子]]は、「防衛庁長官だった純也氏の急死で、ロンドンから呼び戻され・・最初の衆院選に僅差で敗れた。・・特定局長たちが・・もう一人の自民党議員に鞍替えしたせいだと言われている。鞍替えの理由は、地元の横須賀では良く知られた話だそうで、私自身地元財界の人々から口々に聞かされた。小泉氏の人間性を強く疑わせる事件があったそうである」と述べている<ref>[[紺谷典子]]『平成経済20年史』 {{要ページ番号|date=2014年11月3日}}</ref>。}}。
 
 
 
==== 靖国神社への8月15日(終戦の日)参拝 ====
 
{{see also|靖国神社問題}}
 
[[2001年]]の[[2001年自由民主党総裁選挙|自民党総裁選]]で「私が首相になったら毎年[[8月15日]]に[[靖国神社]]をいかなる批判があろうと必ず参拝します」と[[マニフェスト|公約]]。しかしながら、2001年から[[2005年]]までは国内外からの批判に配慮して8月15日以外の日に参拝していた。自民党総裁の任期が満了する[[2006年]]には公約通り8月15日に参拝した。なお首相就任前は厚生大臣在職時の[[1997年]]に終戦記念日に参拝している他(私的か公的かについては明言せず)、それ以前も初当選以来ほぼ毎年、終戦記念日を含む年数回の頻度で参拝してきた<ref>[[共同通信]]2001年8月17日、[[テレビ朝日]][[清水建宇]]コラム10月17日</ref>。退任後は[[2009年]]に参拝した。[[2010年]]の8月15日は参拝していない。
 
 
 
==== タウンミーティング ====
 
{{main|タウンミーティング 小泉内閣の国民対話}}
 
[[タウンミーティング 小泉内閣の国民対話|タウンミーティング]]の構想は2001年に行われた小泉純一郎首相の[[所信表明演説]]で初めて打ち出され、政権公約となった。タウンミーティングは全国で開かれ、まず特定テーマは設けずに都道府県を一巡し、その後「地域再生」「市町村合併」「教育改革」などをテーマに開かれるようになった。このタウンミーティングでは、謝礼金を使った[[やらせ]]質問の横行、[[電通]]社員へ日当10万円の払い、[[エレベーター]]係へ一日数万の払い、などといった実態が明るみに出た。コストは平均2000万円、全国一巡したことで20億円弱かかっていた。
 
 
 
==== 国債30兆円枠 ====
 
小泉内閣は各年度予算編成において[[日本国債|国債]]発行額を30兆円以下に抑制することを公約として掲げた。実際に達成できたのは[[政権]]初期の2001年度と政権末期の2006年度予算の2回のみであった。ただし2001年時などでも[[NTT]]株の売却収入によって歳出補填がされるなどしたため、実質的な歳出削減は行われなかったことから批判が相次いだ。
 
国債30兆円枠はシーリングによる財政管理政策であり、その結果として一貫して増加傾向であった一般歳出の増加は抑制されその後微減傾向に転換した。
 
 
 
==== ペイオフの解禁 ====
 
[[2001年]]の[[自由民主党 (日本)|自民党]]総裁選で他の総裁候補と同様にペイオフの解禁を公約に掲げた。しかし、[[不良債権]]処理が2004年までかかったため2005年4月まで解禁は先送りされた。
 
 
 
==== 一内閣一閣僚 ====
 
小泉は閣僚の交代に批判的で、「一内閣一閣僚」を標榜していたが、田中眞紀子外相の更迭で原則を破り、2002年9月30日に[[内閣改造]]を行い、以後1年間をめどに<!--「組閣」は第2次内閣組閣や第3次内閣組閣では全閣僚再任であるため、不記載とする-->内閣改造で定期的に閣僚を交代させていった。2001年の小泉内閣誕生から2006年の退任まで、一貫して[[国務大臣]]だった竹中平蔵のみが一内閣一閣僚に該当するという意見もある。また、これまでの内閣と異なり、大臣人事においては派閥領袖が推薦した人を任命せず、派閥均衡人事を保ちながら首相の一本釣り人事を行った。
 
 
 
=== 政権獲得後に推進した政策 ===
 
==== バブル後の金融問題の処理と構造改革 ====
 
{{Main|聖域なき構造改革}}
 
[[金融再生プログラム]]を推し進め、バブルの遺産と呼ばれていた[[不良債権]]を処理し金融システム正常化を果たした。
 
 
 
[[特殊法人]]改革においては「原則として廃止か[[民営化]]」を掲げ、[[郵政民営化]]・[[道路関係四公団|道路公団民営化]]・[[政策金融機関]]再編・[[独立行政法人]]の再編・民営化を実現させた。
 
 
 
その結果、本格的な改善については持ち越されることになったものの、[[日本の経済|日本経済]]は[[失われた10年]]と呼ばれた長期停滞を脱出した。
 
 
 
==== 財政再建 ====
 
[[プライマリーバランス]]の回復を目標とした財政計画作成・国債30兆円枠・[[公共事業]]の大幅削減・[[社会保障]]の抑制などを行い財政再建を推進した。その結果、就任時には一般予算・補正予算合わせて11兆8000億円あった公共事業費は退任時の平成18年には7兆8000億円にまで削減され、その一環として道路公団は民営化された。また社会保障費には[[マクロ経済スライド]]が2005年4月に導入された。
 
 
 
その結果、日本経済の回復([[いざなみ景気]])による税収増もあり、財政は大幅に改善した。しかし一方で公共事業削減に対しては、[[亀井静香]]議員などを始めとする、道路族と呼ばれる族議員などが反発した。また社会保障費の年間2,200億円削減は、社会保障受給者や病院などの供給者などの負担となり、医療制度問題となった。
 
 
 
対照的に消費税の増税については、自身の内閣では行わないと発言し、議論も低調となったほか、[[累進課税]]色を薄めることも行わなかった。
 
 
 
==== 年金改革 ====
 
[[年金]]制度を変革。老齢者控除廃止や[[公的年金]]等[[控除]]の縮小をした。
 
 
 
==== 医療制度改革 ====
 
30兆円を超える[[医療費#国民医療負担|国民医療負担]]の膨張に歯止めを打つため、小泉は患者・[[医療機関]]・保険者の「三方一両損」による改定を指示、[[日本の医療|医療制度改革]]関連法案を国会で可決させた{{Sfn|飯島勲|2006|pp=81-100}}。
 
 
 
* [[サラリーマン]]の医療費自己負担を2割から3割へ引上げた。70歳以上の高所得者(夫婦世帯で年収約621万円以上)について医療費の窓口負担が2割から現役世代と同じ3割へ上げた。2008年度からは70 - 74歳で今は1割負担の人も2割負担になる([[後期高齢者医療制度]])。
 
* 2006年度の[[診療報酬]]改定において、再診料を引き下げ(病院で10円、診療所で20円)、医療費を削減した(本体部分:2002年-1.3%,2004年0%,2006年-1.36%、薬価部分:2002年-1.4%,2004年-1.0%,2006年-1.8%、総額:2002年-2.0%,2004年-1.0%,2006年-3.16%)ほか、病院と診療所で異なっていた初診料の統一、小児・救急医療など医師不足が指摘される分野で重点的に[[報酬]]を加算することなどが決まっている([[財務省 (日本)|財務省]][[主計局]]の平成22年調査では勤務医の平均年収は1479万円、開業医の平均年収は2530万円)。
 
* [[協会けんぽ|政管健保]]の保険料率を値上げした{{Sfn|飯島勲|2006|pp=81-100}}。
 
 
 
==== 外交 ====
 
意欲的に首脳外交・多国間外交を推進した。他国への資金援助については削減を進めたため、海外への発言力の低下に危機感を持つべきと批判を浴びたが、一方で日本の国柄の在り方を考える機会ともなった。また靖国参拝を巡り[[中華人民共和国|中国]]と激しく対立した(詳しくは下記の経緯・エピソードを参照)。[[東シナ海ガス田問題]]では帝国石油に試掘権を与えるなど積極的な関与を行っていたが途中より、担当閣僚である経産大臣を、強硬派の[[中川昭一]]から[[親中]]派の[[二階俊博]]に変えてしまいソフト対応路線に転じた。その後[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[政権]]となったこともあり、結果的に東シナ海ガス田問題は中国に一方的に押し切られる形となった。
 
 
 
==== 小泉談話 ====
 
2005年8月15日、戦後60年目の終戦記念日に過去に日本が[[アジア]]諸国に対して行った侵略と[[植民地]]支配を謝罪する[[小泉内閣総理大臣談話|小泉談話]]を[[閣議]]決定の上、発表した。談話の内容は1995年8月15日、戦後50年の終戦記念日に当時の[[村山富市]]首相が閣議決定の上、発表した[[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」|村山談話]]を踏襲したものであり、村山談話と並ぶ[[日本国政府|日本政府]]の[[歴史認識]]の公式見解として扱われる。
 
 
 
==== 女系天皇容認 ====
 
長い間、[[皇室]]に皇位継承権を有する男の子が生まれていなかったことなどから、[[皇室典範に関する有識者会議]]を設置して[[女性天皇]]のみならず、[[女系天皇]]容認に向けた動きを積極的に推進した。その後、[[秋篠宮]]家における男子継承者誕生から改正議論を棚上げしたものの、根本的な問題(継承者不足)が無くなった訳ではないとして「女系の天皇陛下も認めないと、将来については皇位継承というのはね、なかなか難しくなるんじゃないかと思ってます」との見解を述べた<ref>毎日放送2006年9月6日報道</ref>。
 
 
 
== 政権運営 ==
 
小泉政権の手法については、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部[[無党派]]層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、敵対勢力からは[[ポピュリズム]]政治であるとの評価がしばしばなされる。
 
 
 
また、政策指針としては[[清和会]]出身者に多い「小さな政府」指向であり、個人に対しては[[相続税]]の減税(最高税率70%→50%)や社会保障費の削減を、法人に対しては研究開発投資減税や公共事業費の削減を求めている。
 
 
 
ただ、この時代は住専問題や防衛庁疑惑を追及していた民主党[[石井紘基]]衆議院議員が刺殺される等、不透明な政府支出や事件も多数起きており、政府への信頼感が低下していた時代でもある。
 
 
 
=== 内政 ===
 
* [[竹中平蔵]]を閣僚に起用し、「官から民へ」という理念に基づく改革の旗振り役を任せた。
 
* [[経済財政諮問会議]]を活用して、従来の党主導の政策決定過程を[[総理大臣官邸|官邸]]主導に転換した。予算編成の基本方針([[骨太の方針]])を策定し、かつて財務省の専権とされた予算編成を政治主導で行った。
 
* 財政再建のため骨太の方針にもとづき、歳出削減を実行した。歳出削減は[[道路]]建設から[[軍事費|防衛費]]、[[社会保障]]費にいたるまで広範に及んだ。
 
* [[三位一体の改革]]として[[地方交付税]]の削減。
 
* [[労働者派遣法]]を改正し、[[労働者派遣事業|派遣社員]]の派遣期間を3年から無制限に延長した。
 
* [[労働基準法]]の改正で、企業による[[解雇]]権濫用を無効とした。
 
* [[生活保護]]費や[[児童扶養手当]]の削減。
 
* [[介護保険]]では[[特別養護老人ホーム]]など施設入所者の居住費、食費を保険から外した。
 
* 「[[健康保険法]]等の一部を改正する法律」(2006年6月21日公布)を[[与党]]多数で採決し、[[後期高齢者医療制度]]を導入。
 
* 国民負担率の維持を試みたが、[[日本医師会]]の反対により[[医療費]]の伸び率管理を断念した。
 
* [[財政再建]]のため、[[診療報酬]]の引き下げ(2002年に1.3%、2006年に1.36%)、サラリーマンの窓口負担の増加(2割→3割)、保険料の引き上げ(月収をベースとした算定→年収をベースとした「総報酬制」)の三方一両損を行った。
 
* [[2006年]]には[[谷垣禎一]]財務相、[[中川昭一]]農水相の反対を押し切って、6.5兆円の[[不良債権]](2007年3月期)を抱える[[政策金融機関]]の統合民営化(株式会社[[日本政策金融公庫]])を推し進めた。
 
* 特別会計合理化法案(仮称)を[[閣議]]決定し、[[特別会計]]透明化の方向性をつけた。
 
* [[日本道路公団]]総裁の[[藤井治芳]]を更迭した。
 
* [[道路関係四公団]]の[[民営化]]法案成立。
 
* [[産業再生機構]]法を成立させ、事業再生を支援する体制を整備した。これにより、[[ダイエー]]、[[りそなホールディングス]]への出資金を回収しつつ、事業再生に成功した。
 
* 最低資本金制度の特例措置(後に[[会社法]]の制定)により1円から企業を立ち上げることを可能にした。
 
* [[有事法制|有事関連法案]]を成立させた。
 
* [[パーソナルコンピュータ|パソコン]]等の製造業者に[[リサイクル]]を義務付ける[[資源有効利用促進法]]を成立させた。
 
* [[聖域なき構造改革|構造改革]]特区により[[規制緩和]]を促進。
 
* [[特殊法人]](住宅金融公庫など)の[[独立行政法人]]化。
 
* 国家戦略本部を設置。
 
* [[らい予防法違憲国家賠償訴訟]]において、[[日本国政府]]の責任を認め、控訴を断念し、[[ハンセン病]]患者・遺族側と[[和解]]した。
 
* 建築確認・検査の厳格化、建築士への罰則強化、住宅売主への瑕疵担保責任の履行等を行った。
 
* [[郵政民営化]]などにおいて[[アメリカ合衆国|米国]]からの要望をまとめた[[年次改革要望書]]の内容を実行に移しただけという批判があるが、郵政民営化については1970年代から主張していた。
 
* 発明や著作物等の創作活動を奨励するため、[[知的財産戦略本部]]を立ち上げ、[[知的財産権]]の紛争処理を迅速に行うため、[[知的財産高等裁判所]]を設置した。
 
 
 
=== 外交 ===
 
[[ファイル:Blair G8 July7th05.jpg|300px|right|thumb|2005年[[パースシャーサミット]]に[[内閣総理大臣の一覧|日本国首相]]として参加(後部列右から2番目の人物)]]
 
* 従来の事務協議の積み重ねの延長である外交から、首相が自らの意見を積極的に主張し首脳間の信頼関係の下で国家間の合意を取り付ける首脳外交に転換した。
 
* 小泉外交は出身派閥である[[清和政策研究会]]の伝統的な[[親米]]路線に則っている。また、小泉首相自身がアジアやアフリカなどの国々にも積極的に訪問し、サミットをはじめ、ASEAN、APEC、ASEM、日・EU定期協議、アジア・アフリカ首脳会議などの多国間協議へも25回参加した。
 
* 在任中合計51回、実数では49ヶ国延べ数81ヶ国を訪問した。また訪問先の決定も外務省を始め、関係省庁が作ったシナリオに従うのではなく、官邸が積極的に関与した。さらに多数の電話での首脳会談も行い積極的な官邸外交・首脳外交を展開した。
 
* 2006年7月3日に[[ドミニカ共和国]]の[[レオネル・フェルナンデス]]大統領と会談。その後、ドミニカ移民訴訟において政治判断により控訴をせず、謝罪や1人当り最高額を200万円とする補償金の支払いを行った。
 
* [[モンゴル国|モンゴル]]の[[ナンバリーン・エンフバヤル|エンフバヤル]]大統領と2006年8月に会談。その後、モンゴルに対して多額のODAを行い、モンゴルは2008年の[[非常任理事国]]ポストを日本に譲っている。
 
* [[外務省機密費流用事件]]等で問題となっていた外務省に対し、事務次官経験者である[[斎藤邦彦 (外務官僚)|斎藤邦彦]][[JICA]]総裁、[[林貞行]]駐英大使、[[柳井俊二]]駐米大使、[[川島裕]]外務省事務次官の4人および[[飯村豊]]官房長の更迭を行った (2001/8/2)。
 
* 国別では、米国8回、韓国7回、ロシア4回、インドネシア4回、中国3回、タイ、マレーシア、ベトナムにそれぞれ2回訪問した。またブルネイ、シンガポール、フィリピン、ラオス、カンボジア、モンゴルなどのアジアの国々や今まで首相がほとんど訪問していなかったウズベキスタンやカザフスタン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ、サウジアラビア、エジプト、トルコなどの中近東諸国にも訪問している。
 
* [[日本放送協会|NHK]]の[[プロジェクトX]]で紹介された、[[イラン・イラク戦争]]の際邦人を救助した[[トルコ航空]]元機長のアリ・オズデミルと2006年1月12日に面会した。
 
* [[アジア太平洋経済協力会議]]首脳会議 (APEC) に5回、[[東南アジア諸国連合]] (ASEAN) +日中韓首脳会議に5回、[[アジア欧州会議]] (ASEM) 首脳会議に3回などのようにアジア地域の中心の多国間協議に総理として積極的に参加していた。
 
* また、多くの国を訪問し多くの国際会議の常連メンバーであったため、当時のアジア各国首脳、フィリピンの[[グロリア・アロヨ|アロヨ]]大統領や、マレーシアの[[マハティール・ビン・モハマド|マハティール]]首相、シンガポールの[[ゴー・チョク・トン]]首相などとも非常に親しかった。一方靖国神社参拝により中国首脳との関係は韓国首脳以上に悪く、2002年以降首脳の相互訪問を拒否され、2005年4月から2006年9月の退任まで第三国で中国との首脳会談は行わなわず、退任後も亀裂化したままである。
 
* [[主要国首脳会議|サミット]]にも6回出席の常連メンバーであり、そのつど各国首脳と多国間・二国間の会談を重ねている。そのため、アメリカのブッシュ大統領だけではなく、フランスの[[ジャック・シラク|シラク]]大統領、ドイツの[[ゲアハルト・シュレーダー|シュレーダー]]首相、ロシアの[[プーチン]]大統領、イギリスの[[トニー・ブレア|ブレア]]首相とも「率直に話のできる顔見知りの仲」であり、重要な案件でも首脳同士が直接電話で話をして決めることもあった{{Sfn|飯島勲|2006}}。
 
* またウズベキスタンやカザフスタンなどに対し、資源の優先的供給を受けるための資源外交・経済外交の展開を始めた。
 
* [[靖国神社]]参拝により、[[中華人民共和国|中国]]・[[大韓民国|韓国]]の態度を硬化させ、在任期間中は首脳会談はもとより、首相特使派遣すらできないほどまでに関係が悪化した。小泉は韓国と中国が日本との首脳会談に応じなかったことを批判し、「いつか後悔することになるだろう」と発言した<ref>{{Cite news
 
|url = http://japanese.joins.com/article/779/79779.html?sectcode=&servcode=200
 
|newspaper = [[中央日報]]
 
|title = 小泉首相「韓、中首脳会談拒否、後悔するだろう」
 
|date = 2006-09-12
 
}}</ref>。中国は小泉政権での日本の常任理事国入りには強固に反対の姿勢を示すようになり、さらにアメリカがイラク戦争を反対したドイツの常任理事国入りに反対したことでG4改革に反対し、日本は常任理事国入りを断念せざるを得なくなった。それにより日本では「国連分担金を削減すべき」という世論が高まった。
 
* [[アメリカ同時多発テロ]]後に[[テロ対策特別措置法]]を制定し、[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アメリカのアフガニスタン侵攻]]では[[海上自衛隊]]をインド洋に派遣し、イラク戦争後は米国主導の「[[イラク]]復興事業」に支援活動として陸上・航空自衛隊の派遣を決定したが、派遣した国の首脳の中で唯一、現地慰問を行わなかった。
 
* 戦略的外交諮問機関 対外タスクフォース<ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2002/1128tf.html 対外タスクフォース]</ref> を設立。
 
* 日本に観光客を呼び込む[[ビジット・ジャパン・キャンペーン|YOKOSO!JAPANキャンペーン]]を実行。その一環として、[[中国人]]や[[韓国人]]、[[台湾人]]等の観光客に対する[[査証|ビザ]]免除等を行った(日本国籍保持者は相互主義により相手国でビザ免除となる)。2003年の時点で524万人であった訪日外国人旅行者数は2007年には834万人となり過去最高を記録した。
 
* [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に訪朝し[[金正日]]総書記と正式会談。北朝鮮政府は日本人拉致への直接関与を認めた。また、5人が生存して日本へ帰国(交渉継続中)。
 
 
 
==== 靖国神社参拝をめぐる動き ====
 
2001年に就任以来、靖国参拝を堅持する小泉に対して<ref group="注">小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』の11巻では「いろいろ意見を持っている方がいるから、造るんだったらいいものを造りたい、私も(国立墓地を)前から考えていた。」という小泉の戦没者を慰霊する国立墓地検討に対する批判があった。</ref>、[[江沢民]]国家主席または中国政府はすでに4年間にわたって日中間首脳の相互訪問を拒み続けてきた。最初の参拝の際には終戦の日には行かなかったために結局中国の圧力に屈したと漫画家の[[小林よしのり]]は非難している。2001年にAPECのために上海を訪問して、同年に首脳会談で北京を訪問した小泉は抗日戦争記念館に訪問して遺憾の意を表し<ref>{{Cite press release
 
|title = 小泉総理大臣 中国人民抗日戦争記念館訪問後の小泉総理の発言
 
|url = http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/china0110/hatsugen.html
 
|publisher = 外務省
 
|date = 2001-10-08
 
}}</ref>、そこで献花を行った(日本政府首脳が盧溝橋で献花するのは初)<ref>また小泉は盧溝橋記念館で「忠恕」と揮毫した。</ref>。しかし小泉は靖国参拝を行っても同年10月26日には中国大使館にて「川劇」を参観しており、小泉は「川劇」を絶賛、出演者に敬意を示した。2002年には海南島の「ボアオ・アジア・フォーラム」第1回年次総会に出席し、同年の9月26日には中国の建国53周年と中日国交正常化30周年を祝う大型レセプションを開催したものの、日中国交正常化30年で式典で中国に訪中を拒否されており、2002年以降小泉は中国に訪問していない。小泉の北朝鮮への電撃訪問の際に江沢民に直接電話をしたが、江沢民はこれを拒否をした。[[胡錦濤]]が国家主席になっても冷却した関係であり、そんな中、[[2004年]][[マレーシア]]で開催された[[東アジア]][[サミット]]の際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、日本との首脳会談を拒んでいた中国の[[温家宝]]首相からわざわざペンを借りて署名し、両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。しかし同年のアジアカップではこれが影響で反日ブーイングが起きた。中国の胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。
 
 
 
2005年に反日デモが起こり、同年秋に小泉が5回目の靖国参拝を果たすと、中国政府はさらに、国際会議を利用して日中首脳会談・外相会談をすべて拒否するという強硬姿勢を示した。小泉は「靖国参拝するから首脳会談に応じないというのは、私はいいとは思っていない」と中国を批判した。第3国での会談も2005年4月のジャカルタで胡錦濤国家主席と実施したのが最後となっている。また2005年に[[呉儀]]副総理との会談も急遽キャンセルとなった。中国人タレントの[[amin]]は「[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]」ファイナルテーマソングを小泉の前でも歌っていたものの、同年10月の「日中友好歌謡祭」の招待を小泉は取り消された。同年の11月中旬釜山でのAPEC首脳会議、12月中旬マレーシアでの東アジアサミットでも首脳会談は行われなかった。APECの閉幕後、イギリスのメディアの記者は、靖国神社の博物館では、アジアでの戦争は日本の防衛のためだったとか、[[南京事件 (1937年)|南京大虐殺]]はなかったなどと主張しているが、これを支持しているかと質問した。小泉は「その見解は支持していない」と明言、「多くの戦没者に哀悼の誠を捧げるために参拝している。そして戦争の反省を踏まえ2度と戦争をしてはいけないということから参拝している」と述べ、参拝は戦争を正当化するものではないとの立場を示した。[[唐家セン|唐家璇]]は「日中関係の改善は小泉首相に期待しない」と述べ、安倍晋三官房長官は同発言について「指導者としては不適切な発言」と抗議した。
 
 
 
2006年には、閣僚や自民党首脳が中国を訪問しても事態は好転せず、日中関係は最悪の関係にあった。後の首相となる安倍と麻生は小泉同様に中国を批判し<ref group="注">安倍長官は衆院予算委で「政治問題を達成するために『会わない』という外交手段をテコに使うのは明らかに間違っている」と批判。麻生外相も 「一つの問題だけでほかの問題もすべてダメで、話も面会もない形は少々異常だ。靖国の問題で会わないのは中国だけだ」と同調した。</ref>、[[ロバート・ゼーリック]]は安倍・麻生との会談では「アメリカは日中関係を良くするために何かする必要があれば喜んでしたい」と仲介役を申し出た。しかし小泉は退任直前までに靖国参拝の姿勢を貫き、終戦記念日に念願の参拝を行った。
 
 
 
退任後も亀裂化しており、[[人民日報]]は訪中を決断した安倍を「智者」と持ち上げて絶賛する一方、靖国神社参拝問題などで日中関係を悪化させた小泉を「自己陶酔する独裁者」と非難した。東京・八王子市で演壇に立った小泉は「多くの戦没者の方々に敬意と哀悼の誠をささげるために私は靖国神社に参拝してきた。もし多くの国民が私の靖国参拝を批判するならば、そのような国民の総理大臣になっていたいと思わない。中国政府は将来『なんと大人げない恥ずかしいことをしたのか』と後悔する時がくる」と発言。中国の[[唐家セン]]国務委員が来日して友好ムードを盛り上げている最中に靖国参拝を理由に首脳会談を拒み続けた中国への怨嗟であり、親中路線にひた走る福田康夫への警鐘とも受け取れた。胡錦濤が来日を歓迎する朝食会・夕食会に小泉が参加せず、2008年に開催された[[北京オリンピック]]の[[北京オリンピックの開会式|開会式]]に歴代首相の福田康夫・森喜朗・安倍晋三や東京都知事の[[石原慎太郎]]を招待したのに対し<ref group="注">1992年に次いで2008年にも天皇・皇后も招待する予定だったが、その予定を断った。</ref>、小泉は招待されなかった。
 
 
 
2010年12月の講演会で開かれた国際安全保障学会年次大会で、小泉は日中関係については「日中関係は大事だ。私は日中友好論者だ。経済を考えれば、これから日中関係は極めて重要だ。だが、一国の関係は経済だけではない。日本の平和と独立を守るためにアメリカに代わる国はない。」と述べ、日中首脳会談については「胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。外務省の担当者が「中国が『来年靖国神社を参拝しなければ会談する』と言っている」と言う。「じゃあ、小泉は来年、必ず靖国神社に参拝すると言ってます。会談をしたくなかったら、しなくて結構です」と。すると中国は「会談前と会談後に『靖国神社参拝する』と言わなければ会談する」という。だから私は記者に聞かれて「適切に判断する」と言った。中国は拒否しないでokしてきた。私の方がびっくりした。本当に首脳会談をしないと言ってきたのは、2005年に首相退任を明言してからだ。」と述べた。
 
 
 
韓国の場合、[[金大中]]は対日穏健派であったために難無く[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]に出席しており、反日的な[[盧武鉉]]になると当初は良好であったが、後に小泉が[[国際連合安全保障理事会]]常任理事国入りを目指すと盧武鉉が反日路線に切り替え、靖国神社参拝を理由に2005年には日韓シャトル外交の中止を迫られ、他に[[竹島 (島根県)|竹島]]問題で反日感情が高まり、同年の6月には子供達が描いた反日ポスターが地下鉄駅に展示させられた際に「小泉首相を犬や猿に模して中傷する絵」があった。さらに大邱日報によると<ref>[http://idaegu.com/index_sub.html?load=su&bcode=ANAC&no=1082]{{リンク切れ|date=2012年1月}}</ref>、8月18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」が本格発足し、支持率回復もあって盧武鉉は同年の12月に[[親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法]]を制定した。しかし盧武鉉の死後、小泉は駐日韓国大使館1階に設けられた盧武鉉前大統領の焼香所を訪れ献花した。
 
 
 
靖国神社参拝に反発する中国・韓国との関係は悪化。反日感情が強い韓国と中国、反日感情が比較的穏やかな[[香港]]で起きた[[反日デモ]]で自身の肖像が燃やされる事も度々あった。一方、台湾の歴代総統の[[李登輝]]、[[陳水扁]]からは支持を得ており、陳水扁は台湾新幹線開業式に招待をしたものの、台湾では[[外省人]]が多い一部の国民党からは批判があり、退任後小泉は歴代首相と違い[[日台関係史#主な要人往来|台湾の要人との会談や個人での台湾訪問]]を行っていない。
 
 
 
==== 対外関係・外国からの評価 ====
 
[[ファイル:Junichiro Koizumi p062906pm-0396-398h.jpg|230px|right|thumb|記者会見で盟友[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]大統領と握手する小泉首相(2006年6月29日、ホワイトハウス)]]
 
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]]大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めて[[エアフォースワン]]に搭乗し[[キャンプデービッド]]の別荘に招かれた。2003年にはブッシュ夫妻が所有する[[テキサス州]]のクロフォード農場にも招かれた<ref>[[ローラ・ブッシュ]]『ローラ・ブッシュ自伝』[[中央公論新社]]、2015年、p330</ref><ref>[http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiphoto/2003/05/22houbei.html 小泉総理の動き 米国・中東訪問(第1日)] [[首相官邸]]ホームページ、2003年5月22日</ref>。
 
* [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に対しては「対話と圧力」を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
 
* 2002年のカナナスキスサミットの際、2003年のエビアン・サミットの日程とロシアのサンクトペテルブルク建都300周年記念行事の日程が重なっていたため、各国首脳がその記念行事に参加できないという悩みをプーチン大統領が抱えていると知った小泉総理は、サミットの日程を2日ずらすことを進言し、シラク大統領も了解したことから、各国首脳はサンクトペテルブルクを訪問した後にエビアンに行くという日程になった。このことに対してプーチン大統領は「感謝に堪えない。公表できないがシベリアに金正日がくるので協力できることはないか」ということとなり、その後プーチン大統領は金正日に小泉のメッセージを伝えることを約束した。その後もプーチン大統領との友好関係は続き、2003年にロシアを訪問した際には晩餐会終了後に、プーチン大統領のクレムリンの個人住居に招かれ、通訳を交えただけの2人きりで約1時間半にわたって懇談した(なおロシアでは大統領が非公式に外国の首脳と懇談するのは異例のことである)。小泉は政界引退後も露日経済協議会理事長の職にあり、また北方領土問題解決に強い関心を持っているといわれる{{Sfn|飯島勲|2007}}。
 
* 2002年の[[第28回主要国首脳会議|カナナスキスサミット]]終了後、ドイツのシュレーダー首相が[[政府専用機]]のスケジュールの調整ができずに[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]の決勝戦(ドイツ対ブラジル)を見に行けないと悩んでいることを知り「だったら日本の[[日本国政府専用機|政府専用機]]に乗っていったらいいじゃないか」という話になった。そしてシュレーダー首相は日本の政府専用機に乗り日本に向かいワールドカップ最終戦を観戦した。その際機内では首脳会談が持たれ、懇談の際にはサッカー談義にも花が咲いた。外国首脳が日本の政府専用機に搭乗したことはこれが初めてのことである{{Sfn|飯島勲|2007}}。
 
* 2002年のサミットにおいて、カナダの日刊紙『[[グローブ・アンド・メール]]』の「サミットのベストドレッサー」に選ばれた{{Sfn|飯島勲|2007}}。
 
* 2002年のサミットにおいて、シラク大統領が各国の首相の前で、日本のお辞儀は相手によって頭の下げ方が変わると主張した際、小泉首相は「君にはこうしなくちゃいけないだろうな」と言いブッシュ大統領の前で土下座をした。([[共同通信]]配信2007/10/17)
 
* 2002年の国連総会において、演説終了後、演台裏手のロビーで小泉総理に挨拶を求める各国代表の列において国連職員が「こんなに長い列ができるのは珍しい」というほどの長蛇の列ができた{{Sfn|飯島勲|2007}}。
 
* 2003年の国連総会においては、演説終了後300人近くの各国代表者などが演台の後ろのロビーに並んで小泉の演説に対する賞賛の意を表した。讃辞の列は次の代表の演説も終えた頃まで続き、多くの国連関係者を驚かせた{{Sfn|飯島勲|2007}}。
 
* 2002年にシンガポール訪問時に、シンガポールの[[S・R・ナザン|ナザン]]大統領を表敬訪問した際、ナザンから「自分の孫娘が小泉総理のファンなので一緒に写真を撮ってもらえないか」と頼まれ、快く応じた{{Sfn|飯島勲|2007}}。
 
* 2006年のアメリカ訪問時に「アメリカは一人で悪に立ち向かっているわけではありません。常に多くの同盟国、友好国とともにあります。そして日本はアメリカとともにあるのです」と演説をし、鳴り止まないほどのスタンディング・オベーションを浴びた{{Sfn|飯島勲|2007}}。
 
* 2010年暮れに出版された元イギリス首相[[トニー・ブレア]]の回顧録によると、イラクをめぐり米英と仏独の対立が高まっていた2005年に、ジャック・シラク仏大統領が「料理がまずい国の人間は信用できない」と英国を非難する放言騒ぎが発生した。英国でブレアが議長を務めた先進国首脳会議 (G8) の晩餐会がこの事件の数日後に開催され、小泉は供された食事を摂りながら、「英国料理はうまいよな?ジャック!(Excellent English food, isn't it, Jacques?)」と大声でシラクに向かって叫ぶことでたしなめ、フランスを牽制しつつホスト国である英国の面目を助けるアドリブを放った小泉は快活で、他の日本の政治家とは異なり、会議のムードメーカーだった、とブレアは述懐している<ref>「[[日本経済新聞]]」朝刊 『私の履歴書 トニー・ブレア』2012年1月28日</ref>。
 
* 1991年、当時のアメリカ副大統領であった[[ダン・クエール]]と談笑した際、クエールに在日米軍の駐留費を引き上げないと撤退させるぞと脅されたが、その場に居合わせた小泉のみが明確にノーと発言し、撤退するなら日本には真の独立心が芽生えるだろうと言い残し、クエールを黙らせている<ref>[[#浅川2001|浅川 2001]]、80-81頁。</ref>。
 
 
 
== 人物像 ==
 
* 「脱派閥」を訴え、総理在任中は派閥の意向にとらわれない政権運営を行ったが、総理となるまでの小泉自身は派閥政治家の一面もあり、派に対する忠誠心も強かった。ポスト中曽根の後継で[[竹下登]]が指名され(いわゆる「[[中曽根裁定]]」)、[[安倍晋太郎]]が敗北した際の安倍派の打ち上げでは、先輩政治家たちがお通夜のように静まりかえる中、遅れて料理屋に入ってきた安倍に対して、小泉はいきなり卓をダーンと叩き、「だからあんた、甘いんだよーッ!」と怒鳴りつけたという。あまりの剣幕に周囲は唖然として声もなく、安倍はただ黙って苦笑いするしかなかったと、同席した[[平沼赳夫]]は述懐している<ref>[[文藝春秋]]2004年7月号「ポスト小泉の資格を語ろう」</ref>。
 
* “[[骨太の方針]]”をまとめるさなか、「ぼくは[[高杉晋作]]の生き方を見習おうと思っている」と述べている{{Sfn|梅田功|2001|p=38}}。
 
* 人と会話するとき身振り手振りを交えながら一言一言を短く簡潔に言いたいことをわかりやすく表現する喋り方が特徴。
 
* [[郵政民営化]]や[[日本道路公団|道路公団]]民営化などに反対する議員・団体・勢力を「[[抵抗勢力]]」と呼んだ。
 
* 国会演説や[[記者会見]]などで、国民に対して自助と自律の精神を呼びかけた。
 
* 愛読書は『[[ああ同期の桜]]』([[海軍予備学生|海軍飛行予備学生]]第14期会編)。
 
* 国会では「[[極東国際軍事裁判]]を受諾し、[[A級戦犯]]は[[戦争犯罪人]]と認識している」と答弁している。
 
* [[2006年]][[9月]]の自民党総裁任期満了をもって[[内閣総理大臣|総理]]及び[[自由民主党総裁|総裁]]の両役職を辞める旨を会見などで早くから発言し、任期満了までに時間がある時点からポスト小泉人事が話題となっていた。小泉自身は総理・総裁辞任後は[[院政]]を敷くつもりはないと発言し、総裁選直前には安倍晋三支持を明確にした。
 
* いわゆる「付け届け」とみなされる行為を極端に嫌う。人からの贈り物はほとんど受け取らず、バレンタインのチョコレートも受け取ったことはない<ref>{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/200602/CN2006021401002510.html | title = 女性チルドレンがチョコ 首相は受け取らず | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2006-02-14 | accessdate = 2016-06-23 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20140525200503/http://www.47news.jp/CN/200602/CN2006021401002510.html | archivedate = 2014年5月25日 | deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>。
 
* 政治家として結婚式の仲人もした事があるが、式の席上で仲人の新郎新婦紹介の際、「結婚はそんな甘いものじゃあない!」と発言し、列席者全員を驚かせたことがある。
 
* [[2008年]]の突然の引退表明は驚きを与えたが、以前から引退時期について問われると、父親([[小泉純也]])の死んだ65歳までと度々発言しており、当時66歳となっていた小泉にとっては「公約」通りの身の処し方となった。
 
* 首相就任以来、毎日通常2回、[[総理大臣官邸|官邸]]で総理[[番記者]]の質問([[ぶら下がり]])に立ち止まって答えた(小泉以前の首相は答えない場合もあったり、質問に答える場合でも歩きながらという慣習であった)。
 
* 「自民党をぶっ壊す」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と宣言して総裁選に勝利、発足時の内閣支持率は戦後最高を記録した。一部では「[[ナチズム]]」「[[ブーランジスム]]」と揶揄される程の驚異的支持率であった。
 
* 2001年9月の[[臨時会|臨時国会]]における[[所信表明演説]]では[[チャールズ・ダーウィン]]の進化論を経済社会にも取り込むよう発言した。ただ、[[ヒトラー]]が進化論を演説に取り込んだこともあり、欧米では演説に細心の注意が払われる傾向にある。
 
* [[田中眞紀子]](当時外相)の更迭時には支持率が急落するものの、終始40パーセント以上の支持率を保ち続けた。
 
* 「[[聖域なき構造改革]]」として、[[国民]]に対して痛みを伴う改革を主張した([[野党]]には「痛みしか伴わない」と揶揄された。)。
 
* 衆議院選挙における[[小選挙区比例代表並立制]]に一貫して反対し、選挙の際は[[重複立候補]]していない(2005年の郵政選挙では一時期小泉本人の重複立候補が決まりかけていたが、最終的に取りやめとなった)。1996年の衆院選で当選が決まったあと、選挙事務所からTV中継されたインタビューにおいても「選挙区で落選した議員が比例区で当選するというのはおかしい。だから私は重複立候補はしない」と述べている。しかし2005年の選挙では自身が否定的なその比例代表並立制の特徴を存分に活用して新人議員を多数当選させる。また、自身の後を継いで出馬した息子の[[小泉進次郎]]も重複立候補していない。
 
* [[靖国神社]]に参拝する理由を問われると一貫して「心の問題」と強弁して押し通した。他方で[[政教分離原則]]に反すると議論を呼んだ。ただ、総裁就任以前には参拝の習慣は無かったようで、靖国参拝は[[日本遺族会]]からの支持を期待しての公約だったとの見方もある。
 
* 2001年の総裁選においては田中眞紀子から出馬を強く勧められたことを明かし、「立ちなさいと女性から言われて、男として立たないわけにはいかない」と挨拶した。
 
 
 
=== 容姿 ===
 
* 身長169cm、体重60kg。21世紀に総理大臣を務めた人物では最も小柄である([[鳩山由紀夫]]は178cm、[[森喜朗]]・[[安倍晋三]]・[[麻生太郎]]・[[菅直人]]は175cm、[[野田佳彦]]は173cm、[[福田康夫]]は171cm)。小柄ながら、歩く際はかなりの早足で、階段などもスタスタと上ってしまう。
 
* 髪型がライオンのたてがみに似ているとして、ライオンのイメージキャラクターが作られたほか、首相在任中の小泉はこのイメージを活用し年を追うごとに綺麗に白髪化させている。なお、[[2005年]]冬に米国俳優の[[トム・ハンクス]]と米国で対面した際、トム・ハンクス本人から「今、小泉総理のヘアースタイルが、米国ですごく流行っている」と言われ、小泉は照れ笑いに終始した。また、「ライオン宰相」と評された[[濱口雄幸]]と比較されることもある。
 
* 米国俳優の[[リチャード・ギア]]と面会した際、「ジャパニーズ・リチャード・ギア」と紹介された。
 
 
 
=== 対人関係 ===
 
* 初当選前から[[福田赳夫]]に師事した。福田および[[福田派]]に対する絶対の忠誠心はよく知られている。
 
* [[第43回衆議院議員総選挙]]で落選した盟友・[[山崎拓]]を首相特別補佐官として登用している。その後、靖国参拝問題や人事などで山崎との関係は疎遠になったとも言われている。
 
* 初当選後大蔵委員会に所属するが、当時の大蔵委は予算委が終わった後夕方から夜に審議をしていたため、宴会等を理由に中座する議員が続出していた。その中で、最初から最後まで席に座っていたのが小泉と[[山中貞則]]であり(小泉は最前列、山中は最後列)、このことから山中はことあるごとに小泉に目をかけるようになった。
 
* [[竹下内閣]]で国対副委員長を務め、国対委員長である[[渡部恒三]]に仕えた。渡部を含む党関係者の誰もが、小泉に務まるのかと心配したが、意外とまともに振舞ったという。渡部が政調会長の[[渡辺美智雄]]から批判された際にこれをかばったことを渡部は感謝し「いやあ正論を言ってくれたなあ。君は首相になる」と言ったところ、本当になってしまったと回想している。のちに小泉政権時に渡部が[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の国対委員長に就任した2006年4月に両者は国会で対峙している。
 
* [[YKK (政治同盟)|YKK]]で反[[竹下派]]として活動したが、大蔵政務次官として仕えた当時の大蔵大臣が[[竹下登]]であり、竹下との関係は比較的良好であった。竹下派を批判する際も、竹下個人の批判はしなかった。
 
* 長年選挙対策本部長を務めた竹内清(前[[神奈川県議会]]議長)は、[[暴力団]][[稲川会]]の元組員であり、[[石井隆匡|石井会長]]と非常に親しい関係にあった{{Sfn|岩崎大輔|2006|pp=24-53}}。写真週刊誌『FRIDAY』(2004年6月25日号)は「小泉首相の選挙経歴 - 選挙対策本部長が元暴力団」というスクープ記事を掲載し、この竹内の証言を引き出している。竹内の力によって[[1969年]]時の選挙の時に注目を集めた小泉の女性問題に関する中傷はピタリと止み、[[1972年]]初当選を果たした。竹内はその後連続10回選挙対策本部長を務め、[[2001年]]に政治活動から引退した{{Sfn|藤原肇|2005|pp=193-194}}。
 
 
 
=== 音楽・芸術関係 ===
 
* ロックバンド、[[X JAPAN]]の大ファンであると公言している。その流れから自民党のCMにX JAPANのヒット曲『[[Forever Love (X JAPANの曲)|Forever Love]]』を採用した。
 
** 小泉内閣で経済産業副大臣を務めた[[高市早苗]]によれば、小泉と[[カラオケ]]をした際にX JAPANのシングル曲である『[[Rusty Nail]]』を歌ったが、小泉はこの曲を知らなかったという。本人はバラード曲である『[[Tears (X JAPANの曲)|Tears]]』を最も好んでおり、2004年の参議院選挙に向けたCMのBGMへの使用を考えていたが、選挙戦に涙はまずいとして、以前にも自民党が採用した『Forever Love』が再度採用された経緯がある。
 
** [[1998年]][[5月2日]]に死去した元X JAPANのメンバーで、同郷でもある[[hide]]の記念館(地元の[[神奈川県]][[横須賀市]])の設立に協力した。
 
* [[オペラ]]、[[狂言]]、[[歌舞伎]]、[[映画]]鑑賞が趣味。
 
** 若い頃、ある記者から「おじいさんから政治の薫陶は受けましたか」と尋ねられ、「いや[[花札]]しか教わらなかった」と答えている。「ほかには」と問われると、平然として「歌舞音曲だ」と言った。この記者によれば、歌舞音曲好きの血は、小泉家全員に流れているという。「小泉家では一月の二日か三日に、全員で[[歌舞伎座]]に行くのが恒例となってます。これは、地元の横須賀事務所をまかせられている末弟の[[小泉正也]]が、[[歌舞伎座]]の正月公演で[[三味線]]を弾いているからです。もちろん舞台の上のプロの芸ではなく、幕の裏で囃子をつける素人の旦那芸です。何やかんやで百万円はかかるそうです。[[小泉又次郎|又次郎]]が[[任侠]]肌の人だったせいなのか、小泉家にはそんな玄人好みの血が流れているんです。」{{Sfn|佐野眞一|2004|p=146}}
 
** 中でもオペラへの関心は高く、[[2003年]]の[[ドイツ]]公式訪問では本人の強い希望で[[バイロイト音楽祭]]を訪問し、[[リヒャルト・ワーグナー]]作の[[タンホイザー]]全3幕を鑑賞した。2001年に日本で[[メトロポリタン・オペラ]]が公演を行ったときも、『[[サムソンとデリラ (オペラ)|サムソンとデリラ]]』を鑑賞している。
 
** 多くの映画音楽を手掛けている音楽家[[エンニオ・モリコーネ]]のファンでもあり、2005年(平成17年)10月5日に発売されたチャリティアルバム「私の大好きなモリコーネ・ミュージック」の選曲を務めた。
 
** 「好きな映画ベスト3」は「[[ショーシャンクの空に]]」「[[ニュー・シネマ・パラダイス]]」「[[フィールド・オブ・ドリームス]]」であると[[毎日新聞]]に掲載された。([[2000年]])
 
* [[ファイル:Koizumi in Graceland 2006.jpg|250px|right|thumb|[[2006年]][[6月29日]]、[[エルヴィス・プレスリー]]の故郷、[[グレイスランド]]に向かう小泉。]][[オールディーズ]]時代のロックンローラー、[[エルヴィス・プレスリー]]の大ファンである。首相就任後の2001年には、自ら選曲し解説を著したエルヴィスのCDアルバムを発表した。
 
** 2006年6月30日に日米首脳会談後、[[エアフォースワン]]にブッシュ夫妻と同乗し、エルヴィスの旧居である「[[グレイスランド]]」を公務として訪問した。そこでエルヴィスの元夫人[[プリシラ・プレスリー|プリシラ]]に「[[ラヴ・ミー・テンダー (エルヴィス・プレスリーの曲)|ラヴ・ミー・テンダー]]」を歌い、「グローリー、グローリー、ハレルーヤ、っと」と熱唱しながら[[エアギター]]を披露した。ブッシュ夫妻はこの時、レコードとジュークボックスをプレゼントした<ref>[[ローラ・ブッシュ]]『ローラ・ブッシュ自伝』[[中央公論新社]]、2015年、p422-423</ref>。
 
** エルヴィスとは誕生日が同じ1月8日である。
 
* 小泉内閣最後の官邸[[メールマガジン]]に、ありがとう / ささえてくれて / ありがとう / 激励協力 / 只々感謝 という自作短歌を掲載した。
 
* 歌舞伎好きで[[市川團十郎 (12代目)|市川團十郎]]や彼の息子の[[市川海老蔵 (11代目)|市川海老蔵]]らとも交友があることから、2010年7月29日に行われた海老蔵と[[小林麻央]]の結婚披露宴にも参加し、祝辞を述べている。これが議員引退後久々のテレビ出演となった。
 
* 『[[冬のソナタ]]』のファンを自認する。
 
 
 
=== スポーツ・芸能関係 ===
 
* [[大相撲]]に興味があり、しばしば本場所を訪れる。
 
** 首相就任直後の[[2001年]][[5月]]の夏場所では、たいていは[[内閣官房副長官]](政務)が担当する[[総理大臣杯]]の授与を自ら行い、前日の負傷を押して出場し22回目の幕内優勝を勝ち取った横綱[[貴乃花光司]]に対して「'''痛みに耐えてよく頑張った! 感動した! おめでとう!'''」との賛辞を送った。「'''感動した!'''」は流行語ともなった。
 
** 2005年11月の九州場所では、総理大臣杯の授与を、再び自ら行った。年6場所全制覇など3つの大記録を達成した横綱[[朝青龍明徳]]に対して、「'''新記録! 大記録! みごとだっ! おめでとう!'''」と賛辞を送った。貴乃花の時は東京[[両国国技館]]であったが、この時は[[福岡国際センター]]である。わざわざ福岡まで行った理由について、年6場所を全て制覇したら行くという約束を、その年の初めに朝青龍とかわしていたと記者団に語った。
 
* プロ野球では神奈川県を本拠地とする[[横浜ベイスターズ]]を応援している。同球団の2軍が独立採算制の[[横浜ベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス]]となった際には、本拠地が地元・横須賀市である事もあり、後援会の結成に協力している。また[[堤義明]]とも親交が深く、総理大臣就任以前は堤がオーナーだった[[西武ライオンズ]]のホームゲームを観戦に[[西武ドーム]]へ何度も足を運んだ。[[横浜高校]]出身の[[松坂大輔]]が高卒新人時代に先発した試合を堤とVIPシートで観戦した事もあった。
 
* [[日本の高校野球|高校野球]]では、[[第85回全国高等学校野球選手権大会]]([[2003年]])で大会史上初となる現職首相による[[始球式]]を行い、ど真ん中への[[ストライク (野球)|ストライク]]を投じた。
 
* サッカーの[[2002 FIFAワールドカップ]]では、ホスト国・日本の首相として大会運営に協力した。大会直前の親善試合では日本代表の激励のために[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立競技場]]を訪問し、約5万人のサポーターから「コイズミニッポン」コールを受けた。また、6月30日の決勝戦が[[ドイツ]]対[[ブラジル]]になったのを受け、[[カナダ]]の[[カナナスキス]][[主要国首脳会議|サミット]]([[第28回主要国首脳会議]])で同席したドイツの[[ゲアハルト・シュレーダー|シュレーダー]]首相を[[日本国政府専用機]]に乗せ、[[横浜国際総合競技場]]に招待した。外国の要人が日本国政府専用機に乗った最初の例である(一般に政府公用機は民間航空機とは異なり駐機中でも機体所有国の法令が適用される([[治外法権]])など特別な事情があり、外国の[[元首]]や要人が同乗するのは異例)。
 
* スポーツで日本人選手や日本代表が活躍をすると、記者会見で称賛などのコメントを行っている。
 
* 連珠に精通しており、連珠で二段を取得している<ref>連珠世界1973年12号</ref>
 
* 1998年、世界の[[ワイン]]名士・著名人に贈られるメドック・グラーヴ・ボンタン騎士団騎士の称号を送られた。
 
* 1999年に放送されたドラマ「[[TEAM (テレビドラマ)|TEAM]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)に[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]として出演したことがある。また同じ年に、同じくフジテレビ製作の「[[SMAP×SMAP]]」のBISTRO SMAPのコーナーにも出演している。番組中に[[中居正広]]は「総理大臣になるのではないか?」と冗談で言ったが、現実のものとなった。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]製作の「[[モー。たいへんでした]]」にも出演した。
 
* 小泉の選挙区内の横須賀出身で横浜高校から[[帝拳ジム|東京帝拳]]入門したバンタム級プロボクサー[[大和心]]を応援していた。
 
* 2002年5月26日に[[東京競馬場]]で行われた[[東京優駿]](日本ダービー)に来場し、表彰式で優勝馬([[タニノギムレット]])の馬主(谷水雄三)に「内閣総理大臣賞」を授与した。現職首相のダービー観戦は、1958年の[[岸信介]]首相以来の44年ぶり2回目。
 
* 2009年の映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』にて[[ウルトラマンキング]]の声を担当している。
 
* 株式会社エスエンタープライズに講師登録しており、同社の看板登録講師となっている<ref>[http://s-enterprise.com/ エスエンタープライズ]</ref>。
 
 
 
=== ロンドン大留学について ===
 
公式プロフィールでは留学とされているが、実際は聴講生で[[単位]]取得はなし。『[[週刊ポスト]]』(2004年2月27日号と3月5日号)には「小泉首相が初挑戦した[[1969年]]12月の衆院選挙の際の選挙公報、初当選した[[1972年]]12月の衆院選挙の選挙公報に届出されていた小泉首相の履歴は“慶應義塾大学卒。[[ロンドン大学]]政治経済学部留学”とあるが、これはあやふやな表現に当たる。なぜなら、[[ロンドン大学]]群の一つの[[ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン]](University College London)に[[政治経済学部]]はないからである。[[ロンドン大学]]群にはいくつかのカレッジがあり、政治経済学部といえば一般的に[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]を指し、世界中から優秀な学生が集まることで知られ、ノーベル経済学賞受賞者を多く輩出しているが、小泉元首相が在籍したのはここではない。小泉首相は[[ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン]](ロンドン大学群)の[[経済学部]]に1年足らず聴講生のような形で語学留学していた。」とある。そもそも、ロンドン大学という単一の大学はない。
 
 
 
=== 人物評 ===
 
* [[YKK (政治同盟)|YKK]]では、{{要出典範囲|人徳の山崎|date=2017年7月}}、政策の加藤に対比して、政局の小泉と評された。
 
* 1998年の自民党総裁選に出馬した際[[田中眞紀子]]は[[小渕恵三]]を[[凡人]]、士官学校卒の[[梶山静六]]を[[軍人]]、そして小泉を[[変人]]と評した(総裁選で選ばれた際の真紀子の演説では「変人の母でございます」)。以後このニックネームが定着したが、このとき本人は「『変人』とは『変革の鉄人』のことである」と述べている。2005年の郵政解散の折には、参議院での法案否決による衆議院解散を思いとどまるよう説得に訪れた森喜朗に「変人以上」と評されている。
 
* 麺類を好む。幅広麺には一家言もつ。
 
 
 
== 語録 ==
 
{{Wikiquote|小泉純一郎}}
 
* 「[[橋本龍太郎|橋本首相]]だったら[[行政改革|大して変わらない]]。私になったら劇的に変わる。そこがこの総裁選の最大のポイントです」(1995年9月16日、[[日本経済新聞]]インタビュー)
 
*: 自身初となる自民党総裁選に立候補したときの発言。
 
* 「私は勘弁。アイ・アム・ソーリーだよ」(1996年12月、[[テリー伊藤]]との会談)
 
*: {{要出典範囲|date=2013-03-28|[[テリー伊藤]]との会談にて[[内閣総理大臣|首相]]就任の話を持ちかけられて一言}}。
 
* 「『変人』の生みの親から『変革の人』と言っていただき、これほど力強いことはない」(2001年1月27日、自民党本部出陣式)
 
*: 次期自民党総裁選に“小泉”を推す事を表明した[[田中眞紀子]]の応援に応えての発言。
 
* 「(もし自民党が改革政党にならなかったら)私が、小泉が、[[自由民主党 (日本)|自民党]]をぶっ潰します!」(2001年4月)
 
* 「首相に就任したら、[[8月15日]]の[[全国戦没者追悼式]]の日に[[靖国神社]]を、[[靖国神社問題|いかなる批判]]があろうと必ず[[参拝]]します」(2001年4月18日、自民党総裁選討論会)
 
* 「適切に判断します」 - 靖国神社に[[内閣総理大臣]]としていつ参拝するのか?という国会議員や記者の問いに対して。
 
* 「[[聖域なき構造改革|構造改革]]なくして成長なし」(2001年5月7日)
 
*: 第151回国会の[[所信表明演説]]で、構造改革を思い切って進めていくと決意表明。
 
* 「旧[[郵政省]]の訳の分からない論理は、小泉内閣には通用しない!」(2001年5月9日)
 
*: [[施政方針演説]]で[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]][[代表質問]]にて、[[郵政民営化]]を問われたことに対して、[[衆議院]][[本会議]]での答弁。
 
* 「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」
 
*: 2001年5月の[[大相撲]]夏場所で横綱[[貴乃花光司|貴乃花]]が幕内で優勝し、その表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡した際の発言。
 
* 「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて[[抵抗勢力]]だ」(2001年 - 2002年)
 
* 「[[女性|女]]はいいよね」「私が一番傷ついている」「[[涙]]は女の最大の[[武器]]」(2002年1月30日、田中眞紀子[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を更迭して)
 
* 「この程度の約束を守らないのは大したことではない」(2003年1月23日、衆議院[[予算委員会]])
 
*: 3つの公約(靖国神社[[8月15日]]参拝、[[日本国債]]30兆円枠、[[ペイオフ (預金保護)|ペイオフ]]解禁)に対する民主党の[[菅直人]][[民主党代表|代表]]との激しい大舌戦で発言。論戦後、「この程度の約束発言」について「公約は大事ですよ。国債発行30兆円枠を守るのと、経済情勢を見て柔軟に対応するのとてんびんにかけて。靖国だってそう。許容範囲です」と弁解。後にこの発言を撤回。なお、小泉は3つの公約について首相在任中に達成している(2006年8月15日靖国参拝、政権末期の2006年度予算で国債30兆円枠達成、2005年4月1日ペイオフ解禁)。
 
* 「今[[イラク]]のどこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、そんなの今ここで私に聞かれたって分かるわけがないじゃないですか!」(2003年7月23日、[[党首討論]])
 
*: 民主党[[菅直人]]代表の「非戦闘地域というのは[[フィクション]]ではないか。1ヵ所でもいってみてください」という質問に対しての発言。
 
* 「[[集団的自衛権]]を認めるなら、[[日本国憲法|憲法]]を改正した方がいい」(2003年7月25日、参院外交防衛委員会)
 
* 「おだやかで快活な[[ジョーク|冗談]]を飛ばす頭の回転の速い人だ」、「独裁者の国では交渉が(その後の協議で)変わる。独裁者の考えは私自身が確かめるしかない」(参院・イラク武力攻撃事態特別委員会)
 
*: [[金正日]]総書記の印象をこう語った
 
* 「野球界にも権力闘争があるんだね」
 
*: [[原辰徳]]の辞任を聞いた小泉純一郎は、記者団にこのようにコメントした。
 
* 「[[人生いろいろ]]、[[会社]]もいろいろ、[[社員]]もいろいろ。[[岡田卓也 (経営者)|岡田]]さんの[[イオングループ|会社]]だって、みんながみんな同じように働いてるわけじゃないでしょう?」(2004年6月3日、党首討論)
 
*: 民主党[[岡田克也]]代表が、[[厚生年金]]加入時の会社の勤務実態を追及するとこう答えた。
 
* 「[[自衛隊]]の活動している[[サマーワ|ところ]]は非戦闘地域である」(2004年11月10日、党首討論)
 
*: 岡田民主党代表に「[[イラク]]の戦闘地域と非戦闘地域とについて、具体的にどういう状態を指すのか」と聞かれての発言
 
* 「(郵政民営化の)基本方針を絶対に変えない。ちゃんと理解しておけ。自民党はとんでもない男を[[自由民主党総裁|総裁]]にしたんだ」(2004年11月、与党の夕食会で)<ref>{{Cite |和書|author=竹中平蔵 |title=構造改革の真実 : 竹中平蔵大臣日誌 |date=2006 |publisher=日本経済新聞社 |isbn=978-4-532-35248-6 |page=181}}</ref>
 
* 「おれの信念だ。殺されてもいい」(2005年8月6日、官邸で[[森喜朗]]前首相に)
 
*: [[参議院]]本会議で郵政民営化法案の否決が濃厚になり、[[衆議院解散]]を思い留まらせようと会談した[[森喜朗]]前首相にこう答えたという。
 
* 「今回の選挙は、いわば、[[郵政解散|郵政選挙]]であります。郵政民営化に賛成してくれるのか、反対するのか、それを国民に問いたい」(2005年8月8日、[[第44回衆議院議員総選挙|衆議院解散後]]の記者会見)
 
* 「その時[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]は、『それでも[[地球]]は[[地動説|動いている]]』と言ったそうであります」(2005年8月8日、[[郵政解散]]後の記者会見)
 
* 「[[無党派]]層は宝の山」
 
*: 2005年9月20日、衆院選で初当選した83人の自民党の新人議員を対象にした研修会における発言。
 
* 「新記録! 大記録! みごとだ! おめでとう!」
 
*: 2005年11月の[[大相撲]]九州場所で、年6場所全制覇など3つの大記録を達成した[[横綱]][[朝青龍明徳]]に、[[内閣総理大臣杯]]を直接手渡した際の発言。
 
* 「格差が出ることが悪いとは思わない。今まで悪平等だという批判が多かったし、能力のある人が努力すれば報われる社会にしなければならない」 (2006年2月1日、参院予算委員会)
 
* 「総理大臣である、人間小泉純一郎が参拝しているんです」(2006年8月15日、[[靖国神社]]参拝後の記者質問に対して)
 
* 「政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。総理大臣だって使い捨て。甘えちゃだめです。『使い捨てされるなんて嫌だ』なんて言った人は、[[国会議員]]にならないほうがいい」(2006年11月7日、日本夢づくり道場での講演)
 
* 「おれにはそんな金はないよ」(2007年6月13日、自民党の[[中川秀直]]幹事長から、[[年金支給漏れ問題]]で歴代[[厚生大臣]]の責任により、[[給与]]返納に言及されたときの返事)
 
* 「人生には上り坂もあれば下り坂もあります。もう一つ坂があるんです。『まさか!』という[[坂]]であります。まさかあのような形でね、[[安倍晋三|安倍]]さんが退陣するとは思わなかった」(2007年10月4日)
 
* 「政界では、[[権力闘争]]は当たり前だ。[[敵]]をどう味方に変えるかが大事だ。造反組は政治の信念を曲げ、[[土下座]]するようなことを引き受けたのだから、認めてやってもいいのではないか」
 
*: 総理退任後、[[小泉チルドレン]]に向けて言い放った。
 
* 「[[2008年自由民主党総裁選挙|5人の候補者の全員]]が小泉内閣の閣僚だった。だから私も今の時点で誰を(支持する)と言うのはちょっと躊躇してるんですよ。(競泳五輪金メダリストの)[[北島康介|北島]]選手じゃないけど、今の時点では『何も言えねえ!』と」(2008年9月、[[福田康夫|ポスト福田]]について)
 
* 「わたしは最近の[[麻生太郎]]首相の発言について、怒るというよりも笑っちゃうくらい、ただただ呆れているところだ」「私についても、(首相が)常識の通じない男だとかね、奇人変人とか言っているようだが、私は自分では[[常識]]をわきまえている普通の人だと思っている」(2009年2月12日)
 
 
 
===「原発ゼロ」===
 
*「[[原子力発電所|原発]]が最もコストが安いとして新設、増設とはいかない」「国民は原発が安全だとは信用しなくなった」「自然エネルギーや再生可能エネルギーの技術開発に投資し、環境先進国を目指すべきだ」
 
*:2011年9月18日、川崎市のホテルで講演した際に。
 
*「原発ゼロしかないよ」「今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。[[野党]]はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」(2013年8月中旬フィンランドの核廃棄物最終処分場「[[オンカロ]]」を視察後、新聞記者に聞かれて原発の即時ゼロを要求<ref>{{Cite web|url=http://mainichi.jp/shimen/news/20130826ddm003070155000c.html|title=風知草:小泉純一郎の「原発ゼロ」-毎日jp|publisher=|date=2013-8-26|accessdate=2013-12-9|deadlinkdate=2017年10月|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140528234727/http://mainichi.jp/shimen/news/20130826ddm003070155000c.html|archivedate=2014年5月28日}}</ref>)<!--
 
*「原発の代替策は、知恵のある人が必ず出してくれる」「核のごみの処分場のあてもないのに、原発政策を進めることこそ『不見識』だと考えている」「(読売新聞の2013年10月8日の)社説は『処分場の確保に道筋が付かないのは、政治の怠慢も一因と言える。首相だった小泉氏にも責任の一端があろう』との見解だ。私はこの説を否定するつもりはない」<ref>『「原発ゼロ」を目指して・・エネルギー政策』「論点」読売新聞2013年10月19日朝刊13面</ref><ref>「[論点]エネルギー政策 「原発ゼロ」を目指して 小泉 純一郎氏」『読売新聞』2013年10月19日付朝刊、13版、17面、解説面。<ref>-->
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
=== 小泉家 ===
 
;([[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]大道、[[横須賀市]])
 
: 祖父[[小泉又次郎]]は[[慶応]]元年([[1865年]])、[[武蔵国]][[久良岐郡]][[六浦荘村]]大道(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]大道)に[[鳶職|とび職人]]・[[小泉由兵衛|由兵衛]]の二男として生まれた。又次郎が生まれた当時、[[鎌倉街道]]に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな[[村]]であった{{Sfn|梅田功|2001|p=28}}。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港[[横須賀市|横須賀]]に進出して、海軍に[[労働者]]を送り込む軍港随一の[[手配師|請負師]]<ref group="注">作家[[火野葦平]]著『青春の岐路』によると、「請負師も、小頭も、[[沖仲仕|仲仕]]も、ほとんどが、[[酒]]と[[博打|バクチ]]と女と喧嘩とによって、仁義や[[任侠]]を売りものにする一種の[[ヤクザ]]だ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」という。[[猪野健治]]著『[[侠客]]の条件 吉田磯吉伝』170-171頁によると「[[やくざ]]組織の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。その構成層は、封建時代にあっては、下級[[武士]]、[[浪士|浪人]]、人足、[[農民]]、[[職人]]等であり、[[明治時代|明治]]以降、[[昭和時代|昭和]]にかけては、没落[[士族]]、中小鉱山港湾土木建築関係者、土方、農漁民、職人等の一部であった。彼らこそ失うべき[[名誉]]も地位も財産もなにものももたない階級の所属者であった。彼らがときに発揮する反[[権力]]性は、実は彼らの階級性の気まぐれな表現であり、民衆が彼らに期待する[[任侠]]道とは、階級意識の原始的顕現にほかならない。」という</ref> になった{{Sfn|梅田功|2001|Ref=umeda2001}}。
 
[[画像:Beato, Felice (1834 – 1907) - Tattooed japanese men - ca. 1870.jpg|thumb|130px|入れ墨を施した江戸時代の人、1870年]]
 
: 当時の横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分と[[小泉組 (請負業)|小泉組]]が縄張りを競い合い、[[博徒]]<ref group="注">[[猪野健治]]著『やくざと日本人』211頁によると、「[[博徒]]の伝統的な業態に“労働力供給業”がある。[[戦後]]でいう“[[手配師]]”がそれだが、[[戦前]]は単に労務者を労働現場へ送り込むだけでなく、自らも労働現場で“飯場”を経営した。[[大正時代|大正]]、[[昭和時代|昭和]]の[[炭鉱]]、鉱山、工事現場、[[沖仲仕]]等の“タコ部屋”、“労働監獄”は、そのあくどさの典型であった。“労働力供給業”のすべてが、そうであったわけではないが、この業態そのものが[[労働者]]を不当に拘束し、虐待する性格をもっていることは否定しがたい。[[明治時代|明治]]以後の“労働力供給業”は、日本の急テンポの[[近代]]化ともあいまって土木建築請負業に集中した。」という</ref> たちの賑やかな出入りが繰り返されていたという{{Sfn|藤原肇|2005|p=29}}。
 
: [[1884年]](明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、[[日清戦争]]から[[日露戦争]]にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、[[軍艦]]に砲弾や燃料の[[石炭]]、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった<ref name="ヤクザと日本―近代の無頼">{{Harvnb|宮崎学|2008|pp=54-55}}</ref>。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった<ref name="ヤクザと日本―近代の無頼"/>。この縄張り争いは、[[近世]]以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく<ref name="ヤクザと日本―近代の無頼"/>。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった<ref name="ヤクザと日本―近代の無頼"/>。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった<ref name="ヤクザと日本―近代の無頼"/>。この小泉組も、[[吉田磯吉]]と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない<ref name="ヤクザと日本―近代の無頼"/>。
 
: 又次郎は若い頃、軍人になることを諦めとび職人になることを決意した証に、全身に[[入れ墨]]を彫っていた。明治41年([[1908年]])衆議院議員に当選、浜口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で[[逓信大臣]]を務めた。
 
* 曾祖父・'''[[小泉由兵衛|由兵衛]]'''<ref name="zinzi4pこ2"/>(神奈川県[[平民]]<ref name="zinzi4pこ2">『人事興信録. 4版』(大正4年)こ二</ref>、[[鳶職|とび職人]]、[[手配師|請負師]])
 
* 曾祖母・'''徳'''<ref name="zinzi4pこ2"/>(神奈川県[[平民]]、[[岡崎文五郎]]二女<ref name="zinzi4pこ2"/>)
 
[[ファイル:Matajiro Koizumi.jpg|100px|thumb|right|祖父・[[小泉又次郎|又次郎]]]]
 
* 祖父・'''[[小泉又次郎|又次郎]]'''(神奈川県[[平民]]<ref name="zinzi7pこ2">『人事興信録. 7版』(大正14年)こ二</ref>、[[鳶職|とび職人]]、[[手配師|請負師]]、小学校[[代用教員]]、新聞記者、政治家)
 
: [[1865年]]([[慶応]]元年)[[5月]]生 - [[1951年]]([[昭和]]26年)[[9月]]没
 
: 父はとび職人・請負師の[[小泉由兵衛]]。『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。
 
: [[普通選挙|普選]]運動の闘士として[[庶民]]人気が高かった{{Sfn|佐野眞一|2006|p=146}}。
 
: 純一郎が厚生大臣に就任したとき、フォーカスのインタビューで祖父のことをこう語っている<ref name="Ohbayashi">{{Cite web|url=http://newsland.jp/nonfic/koizumi/index.htm |title=未公開ノンフィクション 小泉首相の祖父刺青大臣又次郎 |author=大林高士|publisher=News Land 編集室|accessdate=2012-01-01|ref=ohbayashi}}{{リンク切れ|date=2013年10月}}</ref>。「いまじゃ[[ゴルフ場]]にも入れてくれないのにな<ref name="Ohbayashi"/>。ところが祖父は、全身[[入れ墨|刺青]]で大臣や副議長までやった<ref name="Ohbayashi"/>。首から背中、腕にかけて龍が彫ってあって、それや見事なものだったよ<ref name="Ohbayashi"/>。」 「僕が9才のときになくなった<ref name="Ohbayashi"/>。よく覚えていますよ<ref name="Ohbayashi"/>。マージャン、花札、おいちょかぶ、みんな教えてもらったんだもの<ref name="Ohbayashi"/>」
 
* 祖母・'''石川ハツ'''(又次郎の[[妾]])
 
* 父・'''[[小泉純也|純也]]'''(政治家)
 
[[Image:Junichiro Koizumi and Junya Koizumi.jpg|thumb|100px|父・[[小泉純也|純也]]と、純一郎]]
 
: [[1904年]]([[明治]]37年)[[1月]]生 - [[1969年]]([[昭和]]44年)[[8月]]没
 
: 純也は[[鹿児島県]][[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]]東加世田村(のち[[加世田市]]、現[[南さつま市]])の[[漁業]]鮫島家に生まれた。父親の彌三左衛門(やざえもん)は事業に失敗し、地元の[[鰹節]](かつおぶし)[[工場]]に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった{{Sfn|梅田功|2001|p=84}}。母親が三男六女を育てたが、家が{{読み|貧|まず}}しく純也のきょうだいのうち3人が亡くなっている{{Sfn|梅田功|2001|p=84}}。生家の鮫島家が事業に失敗したため上京し、苦学しながら政治の道を志した{{Sfn|佐野眞一|2006|p=156}}。芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった{{Sfn|佐野眞一|2006}}。又次郎のところに出入するうち二人は恋におち、東京・青山の[[同潤会アパート]]で[[同棲]]をはじめた{{Sfn|佐野眞一|2006}}。又次郎は「帰って来い」と、新聞の尋ね人欄に[[広告]]までだしている{{Sfn|梅田功|2001|p=87}}。純也と芳江の結婚について、又次郎の[[養女]]だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ[[駆け落ち]]同然の結婚でしたからね。芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから[[婿]]を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている{{Sfn|佐野眞一|2006|pp=155-156}}
 
: 純也は昭和12年([[1937年]])衆議院議員に当選、第3次池田勇人内閣、第1次佐藤榮作内閣で[[防衛大臣|防衛庁長官]]を務めた。[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]送還事業を主導した<ref>{{Cite news|title=小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導|date=2005-10-20|newspaper=[[朝鮮日報]]}}</ref>。
 
* 母・'''[[小泉芳江|芳江]]'''(父は小泉又次郎、母は石川ハツ)
 
: [[1907年]](明治40年)生 - [[2001年]]([[平成]]13年)[[10月]]没
 
:又次郎は、正妻ナオ(元[[芸者]])との間に子がなかったので、石川ハツ([[富山県]]の[[滑川市|滑川]]出身{{Sfn|佐野眞一|2006|p=148}}が芳江(純一郎の母)を産んだ{{Sfn|佐野眞一|2006|p=147}}。又次郎によると「誰の腹でもいいから、自分の子供はもっておくものだね」という{{Sfn|佐野眞一|2006|p=148}}。石川ハツはその後、山口忠蔵という男と結婚し、3人の子を産んだ{{Sfn|佐野眞一|2006|p=147}}。石川ハツが結婚した山口忠蔵は[[御神輿|おみこし]]などを造る[[宮大工]]だった{{Sfn|佐野眞一|2006|p=148}}。山口忠蔵にも[[入れ墨]]があった。[[佐野眞一]]によると「山口忠蔵は、仕事の性質や入れ墨を彫っていたことなどから考えて又次郎の配下の者、もしくは弟分だったと思われる。だとすると、又次郎はハツに一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場の山口忠蔵にハツを“お下げ渡し”したのではないか。又次郎と山口はいわば “入れ墨兄弟” の関係ではなかったか?」という{{Sfn|佐野眞一|2006|p=150}}。
 
* 姉・'''信子'''([[政策担当秘書|政策秘書]])、ほかに2人
 
* 弟・'''[[小泉正也|正也]]'''(私設秘書)
 
: 妻は[[石原慎太郎]]の妻・典子の[[従兄弟]]の娘
 
* 元妻・'''佳代子'''([[エスエス製薬]]元会長[[泰道照山]]の孫娘、[[泰道三八]]の姪)
 
* 長男・'''[[小泉孝太郎|孝太郎]]'''(俳優、タレント)
 
: [[1978年]](昭和53年)[[7月]]生 -
 
* 二男・'''[[小泉進次郎|進次郎]]'''(政治家)
 
[[Image:Shinjiro.jpg|thumb|100px|二男・[[小泉進次郎|進次郎]]]]
 
: [[1981年]](昭和56年)[[4月]]生 -
 
* 三男
 
: 母佳代子と同じ宮本姓を名乗っている。「妊娠六ヶ月で離婚された佳代子が一人で三男を産むと、小泉側は親権を主張し、[[家庭裁判所|家裁]]での[[調停]]に持ち込まれた。その結果ようやく佳代子が三男を引き取ることができた。三男が「父親と二人きりで会いたい」と涙ながらに小泉事務所に電話で訴えてきたことがあったが、その話を秘書官の[[飯島勲|飯島]]から伝え聞いた信子は「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放った」という{{Sfn|佐野眞一|2006|pp=191-192}}。
 
: 三男は中学卒業後にアメリカ・テネシー州の高校に留学。帰国後は京都の私立大学に通い、中国語を学んだ。しかし、この間も父や兄に会うことは一度もなかった。2010年末、東京・赤坂にあるレストランのカウンター席に父と3人の息子の4人が並んで食事を楽しんでいた。2013年末には絶縁状態だった三男の結婚式に父・純一郎とその息子たちも出席した<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20140207_240143.html 小泉純一郎氏 絶縁状態だった三男の結婚式に出席、出席者涙]</ref>。
 
 
 
* 大叔父・'''[[小泉又次郎#家族・親族|小泉岩吉]]'''(神奈川県[[高額納税者公示制度|多額納税者]]<ref name="zinzi9pこ4">『人事興信録. 9版』(昭和6年)コ四</ref>、土木[[建築]][[請負]]業<ref name="zinzi9pこ4"/>)
 
:小泉家の苦しい[[家計]]を支えたのは、又次郎が家業を譲った弟の岩吉だった{{Sfn|佐野眞一|2006|p=157}}。兄・又次郎同様、背中にみごとな[[入れ墨]]を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという{{Sfn|佐野眞一|2006|pp=157-158}}。
 
 
 
=== 親戚 ===
 
* 従兄弟・'''[[井料克己]]'''(いりょう かつみ、政治家・元[[横須賀市議会]]議長)
 
: 井料の母親の弟が[[小泉純也|純也]]である{{Sfn|梅田功|2001|p=17}}。
 
* 義兄・'''[[豊島格]]'''(官僚・元[[資源エネルギー庁]]長官)
 
 
 
=== 鮫島家 ===
 
;([[鹿児島県]][[南さつま市]]、旧[[加世田市]])
 
* 父方の祖父・'''彌三左衛門'''
 
{{main|小泉純也}}
 
 
 
=== 評価 ===
 
ノンフィクション作家の[[神一行]]は、「その小泉の[[閨閥]]であるが[[名門]]といわれるほどのものではない。むしろ小泉の性格は三代続く政治家[[家系]]の血筋とみてよい。」と述べている{{Sfn|神一行|2002|pp=236-237}}。
 
 
 
== 略年譜 ==
 
* [[1942年]][[1月8日]] - [[神奈川県]][[横須賀市]]に生まれる。
 
* [[1954年]] - [[横須賀市立山崎小学校]]卒業。
 
* [[1957年]] - [[横須賀市立馬堀中学校]]卒業。
 
* [[1960年]][[3月]] - [[神奈川県立横須賀高等学校]]卒業。
 
* [[1967年]] - [[慶應義塾大学]]経済学部卒業。[[ロンドン大学]][[留学]]{{Sfn|梅田功|2001|pp=123-234}}。実父の急死で[[1969年]]8月帰国。
 
* [[1969年]][[12月27日]] - [[第32回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]公認で立候補するも落選
 
* [[1970年]] - 衆議院議員[[福田赳夫]](後に首相)の[[秘書]]となる。同い年の同僚に[[佐藤静雄 (衆議院議員)|佐藤静雄]]
 
* [[1972年]][[12月10日]] - [[第33回衆議院議員総選挙]]において自民党公認で'''衆議院議員'''に初当選、以後連続当選。[[飯島勲]]が[[秘書]]となり、二人三脚で進む。
 
* [[1979年]]11月 - [[大蔵政務次官]]に就任([[第2次大平内閣]])
 
* [[1988年]]12月 - 厚生大臣に就任([[竹下内閣 (改造)|竹下内閣]])
 
* [[1989年]]6月 - 厚生大臣に就任([[宇野内閣]])
 
* [[1992年]]12月 - 郵政大臣に就任([[宮澤内閣 (改造)|宮澤内閣]])
 
* [[1995年]]9月 - [[自由民主党総裁選挙|自民党総裁選]]に出馬。[[橋本龍太郎]]に敗れる。
 
* [[1996年]]11月 - 厚生大臣に就任([[第2次橋本内閣]])
 
* [[1998年]]7月 - 自民党総裁選に出馬。[[小渕恵三]]、[[梶山静六]]につぐ三位。
 
* [[2000年]]4月 - [[清和会]](森派)会長に就任
 
* [[2001年]][[4月24日]] - 3度目の挑戦で、自民党総裁に選出
 
* 2001年[[4月26日]] - '''第87代[[内閣総理大臣]]に就任'''([[第1次小泉内閣]])
 
* 2001年[[8月13日]] - 首相就任後初の[[靖国神社]]参拝
 
* 2001年11月 - テロ対策特別措置法を公布
 
* [[2002年]][[1月29日]]、[[田中眞紀子]]外務大臣を更迭。[[1月31日]]まで外務大臣を兼務。[[2月1日]]から[[川口順子]][[環境大臣]]に交代
 
* 2002年[[9月17日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[平壌]]で[[金正日]][[朝鮮労働党中央委員会総書記|総書記]]と初の[[日朝首脳会談]]、[[日朝平壌宣言]]に調印
 
* 2002年[[9月30日]] - [[第1次小泉内閣 (第1次改造)|小泉改造内閣]]発足
 
* 2002年[[10月15日]] - 北朝鮮の日本人拉致被害者5人帰国
 
* [[2003年]][[1月]] - [[ロシア連邦]]を訪問
 
* 2003年[[6月]] - [[有事法制|有事関連3法]]を公布
 
* 2003年[[8月]] - [[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク特措法]]を公布
 
* 2003年[[9月20日]] - [[第1次小泉内閣 (第2次改造)|小泉再改造内閣]]発足
 
* 2003年[[11月19日]] - '''第88代内閣総理大臣に就任'''([[第2次小泉内閣]])
 
* [[2004年]][[1月]] - [[自衛隊]]の[[イラク]]、[[サマーワ|サマワ]]への出兵を命令
 
* 2004年4月 - [[イラク日本人人質事件]]。武装集団が「イラクからの自衛隊の撤退」を要求するも拒否。人質3人は後に解放。さらに2人が拉致され後に解放される。
 
* 2004年[[5月22日]] - 再訪朝し平壌で金正日総書記と会談。北朝鮮に対する25万トンの[[食料|食糧]]及び1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表。5人の拉致被害者の家族の帰国を実現。このとき反対派から[[小泉訪朝における空白の10分間事件|デマ]]報道で攻撃されている。
 
* 2004年[[5月28日]] - [[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総聯]]第20回全体大会に対して歴代首相、自民党総裁として初めて祝辞を贈った。
 
* 2004年7月、[[第20回参議院議員通常選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]が[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]に僅差で敗れる。
 
* 2004年[[9月27日]] - [[第2次小泉内閣 (改造)|第2次小泉改造内閣]]発足
 
* 2004年10月 - [[イラク日本人青年殺害事件]]。イラク聖戦[[アルカーイダ]]が「イラクからの自衛隊の撤退」を要求するも拒否。人質は殺害された。
 
* [[2005年]][[3月27日]] - [[フランス]]の[[ジャック・シラク]]大統領と首脳会談
 
* 2005年[[4月23日]] - [[中華人民共和国|中国]]の[[胡錦涛]]国家主席と首脳会談
 
* 2005年[[4月26日]] - 旧[[総理大臣官邸|首相官邸]]を改築した新[[総理大臣公邸|公邸]]に転居
 
* 2005年[[7月5日]] - 郵政民営化関連法案が[[衆議院]][[本会議]]で可決
 
* 2005年[[8月8日]] - 郵政民営化関連法案が[[参議院]]本会議で否決。[[衆議院解散]]を[[閣議]]決定し、署名を拒否した[[島村宣伸]][[農林水産大臣]]を[[罷免]]し自ら兼務。同日、[[日本国憲法第7条|憲法7条]]に基づき衆議院を解散。この解散を「[[郵政解散]]」と命名
 
* 2005年[[8月11日]] - 兼務していた農林水産大臣の後任に[[岩永峯一]]起用
 
* 2005年[[8月15日]] - 1995年に発表された[[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」]]を踏襲した首相談話<ref>{{Cite press release|title= 小泉総理の演説・記者会見等 : 内閣総理大臣談話 |url=http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2005/08/15danwa.html |publisher=外務省 |date=2005-08-05}}</ref> を発表し、[[第二次世界大戦]]中に行われた日本のアジア諸国に対する侵略と植民地支配を謝罪
 
* 2005年[[9月11日]] - [[第44回衆議院議員総選挙]]において[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]だけで296議席、[[与党]]で327議席の大勝
 
* 2005年[[9月21日]] - '''第89代内閣総理大臣に就任'''([[第3次小泉内閣]])
 
* 2005年[[10月14日]] - 特別国会に再提出された[[郵政民営化法|郵政民営化法案]]が衆参両院の可決を経て成立
 
* 2005年[[10月31日]] - [[第3次小泉内閣 (改造)|第3次小泉改造内閣]]発足
 
* 2006年6月 - [[政権]]最後となる訪米を実施。ブッシュ大統領よりテネシー州のエルヴィス私邸を公務として訪問。実質これが首相としての「卒業旅行」
 
* 2006年[[7月15日]] - ロシア[[サンクトペテルブルク]]サミットに[[G8]]各国首脳と共に参加。
 
* 2006年[[7月25日]] - [[野口英世アフリカ賞]]の創設を正式に発表。
 
* 2006年[[8月15日]] - [[終戦の日]]に[[靖国神社]]へ参拝
 
* 2006年[[9月21日]] - 自民党総裁任期満了
 
* 2006年[[9月26日]] - [[内閣総理大臣]]を退任。
 
* 2006年[[12月15日]] - 自民党の国会議員らで作る「改革加速議員連盟」の顧問に就任。
 
* [[2007年]][[9月13日]] - [[飯島勲]]が辞表提出。
 
* [[2008年]][[9月25日]] - [[第45回衆議院議員総選挙|次期総選挙]]に出馬せず、政界引退を表明。
 
* [[2009年]][[7月21日]] - 衆議院解散により議員の地位を失い政界引退。
 
 
 
== 著書 ==
 
* 『[[公職選挙法|選挙法]]改正について各党の意見をきく(上)』(討論集会シリーズ No.21)(小泉純一郎、[[山田芳治]]、[[内藤功]] 共著、[[尾崎行雄]]記念[[財団]]、[[1975年]])
 
* 『[[郵政省]]解体論―「[[マルチメディア]][[利権]]」の読み方』(小泉純一郎、梶原一明 共著、[[光文社]]、[[1994年]])ISBN 4-334-01291-4
 
* 『[[官僚]][[王国]]解体論―[[日本]]の危機を救う法』([[光文社]]、[[1996年]])ISBN 4-334-05234-7
 
* 『小泉純一郎の暴論・青論―[[政界]]の[[イチロー]]が語る、痛快[[本音]][[エッセイ]]』([[集英社]]、[[1997年]])ISBN 4-08-780251-5
 
* 『[[日本政治]]の過去・現在・未来―[[慶應義塾大学]][[法学部]][[政治]]学科開設百年記念[[講座]]』([[小林良彰]]編集、[[慶應義塾大学出版会]]、[[1999年]])ISBN 4-7664-0743-1
 
* 『[[郵政民営化]]論―[[日本]]再生の大[[改革]]!』(小泉純一郎、[[松沢成文|松沢しげふみ]] 共著、[[PHP研究所]]、[[1999年]])ISBN 4-569-60916-3
 
* 『コイズム』(小泉純一郎・著、[[業田良家]]・画、メディアレブ、[[2001年]])ISBN 4-944182-11-2
 
* 『第30回[[シンポジウム]]「[[構造改革]]の加速」記録』(21世紀政策研究所、[[2003年]])
 
* 『決断!あの時私はこうした―[[自由民主党 (日本)|自民党]][[内閣総理大臣|総理]]・[[自由民主党総裁|総裁]]・[[内閣官房長官|官房長官]]が語る』(自由民主党編集、中央公論事業出版、[[2006年]])ISBN 4-89514-275-2
 
* 『小泉純一郎です。―「らいおんはーと」で読む、小泉政権の5年間』(小泉純一郎[他]共著、[[時事画報社]]、[[2006年]])ISBN 4-915208-12-5
 
* 『自民党の底力』(小泉純一郎[他]共著、[[成甲書房]]、[[2007年]])ISBN 978-4-88086-214-9
 
* 小泉純一郎&[[業田良家]]、『コイズム』 メディアレブ、ISBN 4-944182-11-2
 
* 小泉純一郎 『小泉純一郎の暴論・青論』 [[集英社]]、ISBN 4-08-780251-5
 
 
 
== 関連テレビ番組 ==
 
* [[アンテナ22]]特別編([[岩城滉一]]が、小泉を演じた。)
 
* [[スッキリ!!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の情報番組)
 
* ザ・決断!世紀の決戦
 
 
 
== 声優 ==
 
* [[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]](2009年) - [[ウルトラマンキング]]の声
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
+
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{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite |和書|author=梅田功|title=変革者 小泉家の3人の男たち|isbn=978-4-04-883703-3|year=2001|publisher=[[角川書店]]|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=佐野眞一|authorlink=佐野眞一|title=小泉純一郎―血脈の王朝|publisher=文藝春秋|year=2004|isbn=978-4-16-366440-8|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=佐野眞一|authorlink=佐野眞一|title=小泉政権―非情の歳月|publisher=文藝春秋|year=2006|isbn=978-4-16-734007-0|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=飯島勲|authorlink=飯島勲|title=小泉官邸秘録|date=2006 |publisher=日本経済新聞社|isbn=4-532-35244-4|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=飯島勲|title=実録小泉外交|date=2007|publisher=日本経済新聞出版社|isbn=978-4-532-35271-4|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=藤原肇|authorlink=藤原肇 (評論家) |title=小泉純一郎と日本の病理|date=2005 |publisher=光文社|isbn=4-334-93368-8|series=Kobunsha paperbacks, 066|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=岩崎大輔|title=ダークサイド・オブ・小泉純一郎 : 「異形の宰相」の蹉跌 |date=2006|publisher=洋泉社|isbn=4-86248-010-1|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=神一行|autholinkr=神一行|title=閨閥: 特権階級の盛衰の系譜|edition=改訂新|year=2002|publisher=角川書店|isbn=978-4-04-353306-0|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=宮崎学|authorlink=宮崎学|title=ヤクザと日本 : 近代の無頼 |date=2008|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-06396-0|series=ちくま新書, 702|ref=harv}}
 
* {{Cite |和書|author=浅川博忠|authorlink=浅川博忠|title=人間小泉純一郎 三代にわたる「変革」の血|year=2001|publisher=講談社|isbn=4-06-273218-1|ref=浅川2001}}
 
 
 
{{参照方法|date=2012年3月18日 (日) 05:48 (UTC)}}
 
* [[鴨志田孝一]] 『Koizumi 小泉純一郎写真集』 [[双葉社]]、ISBN 4-575-29294-X
 
* 小泉純一郎&[[デイヴィッド・セイン]]、『断行 Lion heart アメリカ人の目が見た小泉純一郎語録 全英訳付』[[三修社]]、ISBN 4-384-02651-X
 
* [[涛川栄太]] 『小泉純一郎を読み解く15章』 [[文芸社]]、ISBN 4-8355-2514-0
 
* [[大下英治]] 『小説小泉純一郎 信を貫いて恐れず』 [[幻冬舎]]、ISBN 4-344-00097-8
 
* [[飯島勲]] 『代議士秘書 永田町、笑っちゃうけどホントの話』 [[講談社]]、ISBN 4-06-273095-2
 
* [[上之郷利昭]] 『小泉純一郎の痛快語録』 [[ぱる出版]]、ISBN 4-89386-878-0
 
* [[緒方邦彦]] 『小泉純一郎革命 変人宰相は日本をどう変えるのか』 [[イースト・プレス]]、ISBN 4-87257-259-9
 
* [[花岡信昭]] 『小泉純一郎は日本を救えるか』 [[PHP研究所]]、ISBN 4-569-61800-6
 
* 小泉純一郎、[[TBSブリタニカ編集部]]、[[阪急コミュニケーションズ]] 『万機公論に決すべし 小泉純一郎首相の「所信表明演説」』 ISBN 4-484-01214-6
 
* [[鈴木棟一]]、『小泉は日本を変えられるか 永田町の暗闘』 [[ダイヤモンド社]]、ISBN 4-478-18030-X
 
* [[読売新聞]]政治部 『小泉革命 自民党は生き残るか』 [[中央公論新社]]、ISBN 4-12-150010-5
 
* [[新川典弘]]&スタッフ 『小泉さんに学ぶスーパー世渡り術』 [[徳間書店]]、ISBN 4-19-892114-8
 
* [[榊原英資]]&[[櫻井よしこ]]&[[福田和也]]&[[舛添要一]]&[[松野頼三]]、『変人内閣 全閣僚を採点する』『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』[[2003年]][[9月]]号)
 
* [[柳田邦男]]、「『精密検証「小泉以前」と「小泉以後」』『文藝春秋』2003年[[11月]]号
 
* [[屋山太郎]] 『日本再生への道筋をつけた男 小泉純一郎宰相論』 [[海竜社]]
 
* [[清水真人]] 『官邸主導―小泉純一郎の革命』 [[日本経済新聞社]]
 
* [[瀧澤中]] 『狂気のリーダー学 小泉純一郎強さの秘密』 [[ぶんか社]]
 
* サミュエル・ライダー著 『[[トラ・トラ・ライオン]]』
 
* [[平野貞夫]] 『亡国 {{Small|民衆狂乱「小泉ええじゃないか」}}』 展望社 2005年
 
* 『財界家系譜大観 第一版』 常盤書院 1972年
 
* [[今泉伸二]]、[[田中良紹]]『自民党総裁選小泉純一郎の挑戦』[[新潮社]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Columns-list|2|
 
* [[小泉内閣メールマガジン]]
 
* [[小泉総理 ラジオで語る]]
 
* [[YKK (政治同盟)]]
 
* [[米百俵]]
 
* [[靖国神社問題#小泉首相参拝訴訟]]
 
* [[聖域なき構造改革]]
 
* [[郵政解散]]/[[郵政民営化]]
 
* [[小泉劇場]]/[[小泉旋風]]
 
** [[B層]]
 
* [[小泉組 (請負業)]]
 
* [[小泉チルドレン]]
 
* [[北朝鮮による日本人拉致問題]]
 
* [[飯島勲]]
 
* [[e-Japan#e-Japan戦略]]
 
}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wikiquote}}
 
{{Commons|Junichiro Koizumi}}
 
* [http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiprofile/ 総理大臣官邸・小泉純一郎プロフィール]
 
* [http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/koizumi.html 小泉内閣メールマガジン]
 
* {{Twitter|J_Koizumi_Japan|小泉純一郎}}
 
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| title = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]
 
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2018/8/15/ (水) 00:15時点における版


小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年昭和17年〉1月8日 - )

政治家。内閣総理大臣(首相。在任 2001~06)。祖父(小泉又次郎),父ともに代議士。

1967年慶應義塾大学経済学部卒業。1969年自由民主党から衆議院議員総選挙に立候補したが落選。

福田赳夫の秘書を経て 1972年初当選し,以来当選を重ねる。1988年竹下登内閣の厚生大臣,1992年宮沢喜一内閣の郵政大臣,1996年第2次橋本龍太郎内閣の厚生大臣を務める。1998年三塚派から森派となり,同派会長として 2000年首相となった森喜朗を支えた。

2001年4月,1995,1998年に続き 3度目の立候補となる自民党総裁選挙で橋本龍太郎など他候補を抑えて総裁に選出され,第87代,56人目の首相に就任。

混迷する政治,経済の立て直しを期待されて就任直後の総選挙にも圧勝,国民の支持率は一時 80%をこえた。2002年9月,日本の首相として初めて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し,北朝鮮に拉致された 5人の帰国を実現。

経済再生に向けては「構造改革」を掲げ,2005年9月の総選挙で郵政 3事業の民営化の是非を有権者に問うて歴史的な圧勝を収めた。約 5年5ヵ月にわたって首相を務め,2006年に退任した。

脚注