「寛政の改革」の版間の差分

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'''寛政の改革'''(かんせいのかいかく)は、[[江戸時代]]に'''[[松平定信]]'''が[[老中]]在任期間中の[[1787年]]から[[1793年]]に主導して行われた[[幕政改革]]である。[[享保の改革]]、[[天保の改革]]とあわせて'''三大改革'''と並称される。
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'''寛政の改革'''(かんせいのかいかく)
  
== 内容 ==
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江戸幕府が行なった[[享保の改革]][[天保の改革]]と並ぶ改革。老中[[松平定信]]が,天明7 (1787) 年から寛政5 (93) 年までの間に,享保の改革を理想として行なった。田沼意次の時代に幕政は腐敗の極に達し,商業,高利貸資本が農村に進出して農民の階層分化が進み,そのうえ[[天明の飢饉]]の打撃によって農村の疲弊は進んだ。この間一揆や打毀 (うちこわし) が起り,社会的不安が増大して,幕政も危機の様相を呈してきた。そこで,定信は松平信明,松平乗完,本多忠籌,堀田正敦らを老中,若年寄に任じて政治改革に乗出した。財政,経済面においては,徹底的な緊縮財政を行なって倹約を励行し,大奥の費用も3分の1に切りつめた。また米の買占めや酒造の制限,米相場の公定,株仲間の利益独占の制限を行なった。農村の再建策としては年貢減免で譲歩する一方,都市に入ってきた農民を出身郷村に帰す[[人返し]]や出稼ぎ制限で,農民の土地緊縛の強化をはかり,さらに幕府領の代官を通じて支配の再編を行なった。飢饉に対する予防策としての備荒貯蓄のため,大名,旗本に1万石につき 50石の[[囲籾]]を命じている。都市においては,江戸の町入用の節約額の7分を積立てる七分金制 ([[七分金積立]] ) の実施,江戸の浮浪人を人足寄場に収容して更生の道を開くほか,旗本,御家人の財政難を救済するために[[棄捐令]] (きえんれい) を出した。一方,風俗の取締りも活発に行われ,寛政2年,出版統制令を出して[[山東京伝]]や[[林子平]]を処罰した。思想面でも[[寛政異学の禁]]という学問の統制が行われた。寛政の改革は,大奥の策謀による定信自身の失脚によって失敗したが,実質的にも予期したほどの効果をあげえず,時代に逆行した政策は多くの人の不満を招いた。なお諸藩についても,同じ頃藩政改革があった場合,同じ名で呼ぶことがあるが,内容や結果はさまざまである。
[[ファイル:Matsudaira Sadanobu 2.jpg|250px|thumb|松平定信]]
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[[浅間山]]噴火から東北地方を中心とした'''[[天明の大飢饉]]'''などで[[一揆]]や[[打ちこわし]]が続発し、その他にも役人の[[賄賂]]などがあったため、前任者の[[田沼意次]]は失脚する。このとき、定信は幕府の重臣に金品を送りつけ、田沼意次の失脚を図り、田沼の政策が、大店による独占市場を生み出し、生産基盤を否定かつ破壊する政策である事を幕府にアピールしたともされる。松平定信は8代将軍[[徳川吉宗]]の孫にあたる(父は吉宗の次男・[[徳川宗武|田安宗武]]、第9代将軍[[徳川家重]]の弟)。定信は[[白河藩]]主として飢饉対策に成功した経験を買われて幕府老中となり、11代将軍[[徳川家斉]]のもとで老中首座となる。
 
 
 
定信は[[財政改革|緊縮財政]]、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。また、一連の改革は田沼が推進した[[重商主義]]政策とは異なる。[[蘭学]]の否定や身分制度改定も並行して行われた。だが、[[加役方人足寄場|人足寄場]]の設置など新規の政策も多く試みられた。
 
 
 
改革は6年余りに及ぶが、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「[[隠密]]の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。結果として、将軍家斉とその実父[[徳川治済]]の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。
 
 
 
しかし定信が失脚した後も[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]など[[寛政の遺老]]たちにより、この改革の方針は以後の幕政に引き継がれることになった。
 
 
 
== 主な改革 ==
 
=== 経済政策 ===
 
; [[囲米]]
 
: 諸藩の大名に飢饉に備える為、各地に[[社倉]]・[[義倉]]を築かせ、穀物の備蓄を命じた。また、江戸の町々にも七分積金(後述)とセットにして実施が命じられた。
 
; 旧里帰農令
 
: 当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、江戸からの帰村を奨励したが、強制力はなかった<ref>坂本賞三 ・[[福田豊彦]]監修。『総合日本史図表』([[2000年]]1月10日 改訂11刷発行。 [[第一学習社]]) 246頁に「1790 11 江戸からの帰村を奨励」と記載されている。</ref>。
 
; [[棄捐令]]
 
: [[旗本]]・[[御家人]]などの救済のため、[[札差]]に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じた。
 
; [[猿屋町会所]]
 
: 棄捐令によって損害を受けた[[札差]]などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済して、今後の札差事業や旗本・御家人への貸付に支障がないように取り計らった。
 
; [[加役方人足寄場|人足寄場]]
 
: 無宿人、浮浪人を[[江戸]][[佃 (東京都中央区)#江戸期|石川島]]([[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]])に設置した[[加役方人足寄場|寄場]][[職業訓練]]、治安対策も兼ねた。
 
; 商人政策
 
: 田沼時代の重商主義を改め、[[株仲間]]や専売制を廃止した
 
; [[七分積金]]
 
: 七分積金は、町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した四万両の七割に、幕府からの1万両を加えて基金にした。町入用の経費は、地主が負担し、木戸番銭・手桶・水桶・梯子費用、上水樋・枡の修繕費、道繕・橋掛け替え修繕・下水浚い・付け替えなどに使われた。ちなみに、この制度はその後の幕府の財政難にも関わらず厳格に運用されて[[明治維新]]の際には総額で170万両の余剰があった。この資金は[[東京市]]に接収されて学校の建設や近代的な道路整備などの[[インフラストラクチャー]]事業にあてられたという。
 
 
 
その他
 
* 米価抑制のため、米を大量に使う造酒業に制約([[酒株]]統制)を加えて、生産量を3分の1に削減するように命じた(但し、これは田沼意次が決定したものの、田沼の失脚によって代わりに定信が実施したとする説もある)。
 
* 田沼意次が推進した[[南鐐二朱銀]]を[[丁銀]]に改鋳しなおして物価の抑制を図ったが、幕府財政は却って悪化したため、再度南鐐二朱銀を復活させた。
 
* 定信失脚後、定信の路線を継承した松平信明によって、[[相対済令]]が出された。
 
 
 
=== 学問・思想 ===
 
;[[寛政異学の禁]]
 
:[[柴野栗山]]や[[西山拙斎]]らの提言で、[[朱子学]]を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の[[昌平坂学問所]]と改め、学問所においての[[陽明学]]・[[古学]]の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していった。
 
;処士横議の禁
 
:在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の[[林子平]]などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により[[洒落本]]作者の[[山東京伝]]、[[黄表紙]]作者の[[恋川春町]]、版元の[[蔦屋重三郎]]などが処罰された。
 
;学問吟味
 
:江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所([[昌平坂学問所]])で、[[寛政]]4年([[1792年]])から[[慶応]]4年([[1868年]])までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。
 
;文教振興
 
:改革を主導するにあたって幕政初期の精神に立ち戻ることを目的とし、『[[寛政重修諸家譜]]』など史書・地誌の編纂や資料の整理・保存などが行われた。また、近江堅田藩主で[[若年寄]]として松平定信とも親交のあった[[堀田正敦]]など好学大名も文教振興を行った。
 
 
 
=== その他 ===
 
* [[大奥]]改革に着手し、定信が在任中に8人の[[上臈御年寄]]の[[老女]]のなかで5人が交代となった<ref name="Sekiguchi">[[関口すみ子]]『御一新とジェンダー:荻生徂徠から教育勅語まで』 東京大学出版会 2005年 ISBN 4130362232 pp.91-98.</ref>。また、天明7年から向こう3年間の大倹約令を発令した。
 
* 日本人漂流民の[[大黒屋光太夫]]を返還する際に通商を求めてきた[[ロシア]]の使節[[アダム・ラクスマン]]に対し、定信は即時の通商開始を拒絶している。このことが「鎖国」祖法化へとつながる。
 
* 朝廷権威の幕政利用、[[大政委任論]]、[[尊号一件]]。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考資料 ==
 
* [http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume022.html 日本史 第22回 幕政改革の展開 〜三大改革を見直す〜] - NHK高校講座
 
* {{Cite book|和書 |date=2009年 |author=[[竹内誠]] |title=寛政改革の研究 |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn= 978-4-642-03438-8}}
 
* [[篠原総一]]「[http://www.econ-edu.net/activity/ws/Prof.Shiohara%20Edo.pdf 経済を通して学ぶ歴史 〜 江戸時代の経済政策 〜 ]」経済教育ネットワーク
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[幕政改革]]
 
* [[東京一極集中]]
 
* [[天明の打ちこわし]]
 
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寛政の改革(かんせいのかいかく)

江戸幕府が行なった享保の改革天保の改革と並ぶ改革。老中松平定信が,天明7 (1787) 年から寛政5 (93) 年までの間に,享保の改革を理想として行なった。田沼意次の時代に幕政は腐敗の極に達し,商業,高利貸資本が農村に進出して農民の階層分化が進み,そのうえ天明の飢饉の打撃によって農村の疲弊は進んだ。この間一揆や打毀 (うちこわし) が起り,社会的不安が増大して,幕政も危機の様相を呈してきた。そこで,定信は松平信明,松平乗完,本多忠籌,堀田正敦らを老中,若年寄に任じて政治改革に乗出した。財政,経済面においては,徹底的な緊縮財政を行なって倹約を励行し,大奥の費用も3分の1に切りつめた。また米の買占めや酒造の制限,米相場の公定,株仲間の利益独占の制限を行なった。農村の再建策としては年貢減免で譲歩する一方,都市に入ってきた農民を出身郷村に帰す人返しや出稼ぎ制限で,農民の土地緊縛の強化をはかり,さらに幕府領の代官を通じて支配の再編を行なった。飢饉に対する予防策としての備荒貯蓄のため,大名,旗本に1万石につき 50石の囲籾を命じている。都市においては,江戸の町入用の節約額の7分を積立てる七分金制 (七分金積立 ) の実施,江戸の浮浪人を人足寄場に収容して更生の道を開くほか,旗本,御家人の財政難を救済するために棄捐令 (きえんれい) を出した。一方,風俗の取締りも活発に行われ,寛政2年,出版統制令を出して山東京伝林子平を処罰した。思想面でも寛政異学の禁という学問の統制が行われた。寛政の改革は,大奥の策謀による定信自身の失脚によって失敗したが,実質的にも予期したほどの効果をあげえず,時代に逆行した政策は多くの人の不満を招いた。なお諸藩についても,同じ頃藩政改革があった場合,同じ名で呼ぶことがあるが,内容や結果はさまざまである。