安藤紀三郎
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年(明治12年)2月11日 - 1954年(昭和29年)5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。
太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。軍人としての最終階級は中将。戦後、A級戦犯として逮捕された。
経歴
兵庫県に生まれ、篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。
1899年(明治32年)、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)、台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)、歩兵第10連隊中隊長となり、陸軍歩兵大尉となる。
1913年(大正2年)、陸軍歩兵少佐となる。1918年(大正7年)、アメリカ出張後、陸軍歩兵中佐となり帰国。1922年(大正11年)、陸軍歩兵大佐となる。1927年(昭和2年)、陸軍少将となる。1932年(昭和7年)、陸軍中将となり旅順要塞司令官となる。1934年(昭和9年)、予備役となる。
1941年(昭和16年)、大政翼賛会副総裁となり、翌年には大日本翼賛壮年団長にもなる。
1942年(昭和17年)、東條英機の腹心として東條内閣の無任所国務大臣となる。大日本翼賛壮年団中央本部長となる。1943年(昭和18年)、東條内閣の内務大臣、さらに防空総本部長官となる。
1944年(昭和19年)1月、第84回帝国議会で陸士同期の衆議院議員四王天延孝からのユダヤ人に関しての質問に対し、「日本国は太古から人種差別国家であってユダヤ人差別にも反対しない」と答えている[1]。7月、大臣辞任、貴族院議員に転出。
1945年(昭和20年)12月、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕され収監。1948年(昭和23年)12月、釈放。この間に公職追放される[2]。
人物
陸軍士官学校では東條英機の6期先輩にあたるが、東條政権では一貫して東條の腹心・分身として行動した。特に内務大臣として反東條の動きには強硬で、1943年10月の中野正剛事件における中野正剛の検束にあたっては、「当局としては徹底してやりたい。法の不備を補うは人間である。いわんや戦時中である」と、衆議院議員の身分保障を超えて行なう強い姿勢を示した[3]。
脚注
参考文献
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