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[[1872年]](明治5年) - [[1945年]](昭和20年)まで[[日本]]([[大日本帝国]])に存在していた[[軍隊]]([[海軍]])組織。
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安政2 (1855) 年江戸幕府は海軍伝習所を長崎に設立し,オランダ海軍士官を師として海軍に関する学術,実習の教育を行なったが,これが日本における近代的海軍の始りとされる。
  
[[1872年]](明治5年) - [[1945年]](昭和20年)まで[[日本]]([[大日本帝国]])に存在していた[[軍隊]]([[海軍]])組織である。通常は、単に'''日本海軍'''や'''帝国海軍'''と呼ばれた。戦後からは、別組織であるもののその伝統を重んじる傾向にある[[海上自衛隊]]との区別などのため、'''旧日本海軍'''もしくは'''旧帝国海軍'''とも呼ばれる。
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明治新政府は,明治1 (1868) 年に官制として海陸軍務課のもとに海軍を制定した。さらに同2年幕府から接収した艦船7隻と,諸藩から献上された 11隻を兵部省の所属としたが,これが帝国海軍の創設にあたる。同5年2月兵部省が廃され,海軍省が独立した。
  
== 概要 ==
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人員の教育訓練は,明治維新直前から[[イギリス]]に委託し,教官の招聘,留学生の派遣など,教育,諸制度を整え,長崎や横須賀に造船所を設けた。同3年以降毎年海軍拡張案が提出されたがなかなか実現せず,特に[[明治憲法]]発布 (1889) 以後は毎回議会によって否決された。
[[軍政 (行政)|軍政]]は[[海軍大臣]]、[[軍令]]は[[軍令部総長]]が行い、[[統帥権|最高統帥権]]を有していたのは[[大元帥]]たる[[天皇]]であった。[[大日本帝国憲法]]では、最高戦略、部隊編成などの軍事大権については、[[大日本帝国憲法|憲法]]上[[内閣]]から独立し、直接天皇の[[統帥権]]に属した。したがって、全[[日本軍]](陸海軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、軍政については海軍大臣と[[陸軍大臣]]が天皇を[[輔弼]]し、一方、[[作戦]]面については天皇を補佐する[[帷幄上奏|帷幄]]の各機関の長、即ち海軍は軍令部総長、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]がこれに該当していた。元々は軍政の下に置かれていた軍令が対等となり陸軍と海軍も対等とされたため、[[戦略]]がなおざりにされ「統帥二元」という問題が生じることとなる。一方がもう一方に従う必要がないため、効率的・統一的な作戦行動を取ることが出来ず、作戦は常に双方に妥協的な物が選択されたのであった。諸外国の多くの[[軍隊]]のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で[[大本営]]を設置した。
 
  
日本はそもそも四方を[[海洋]]に囲まれている[[海洋国家]]であるため、日本海軍は西[[太平洋]]の[[制海権]]を確保することにより敵戦力を本土に近づけないことを基本的な戦略として、不脅威・不侵略を原則としてきた。また、一方で[[イギリス海軍]]に大きな影響を受けていたため、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮があった。
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1891年頃から朝鮮および清国をめぐる情勢が悪化し,議会も海軍拡張を承認し,近代海軍の基礎が確立された。日清・日露戦争に勝ち,日露戦争後には主力艦の国産化にも成功した。[[第1次世界大戦]]後は,イギリス,[[アメリカ]]に次いで世界第3位の海軍力を保有するようになった。
  
海軍の戦略戦術研究の功労者として[[佐藤鉄太郎]]中将が挙げられる。明治末期から昭和にわたり海軍の兵術思想の研究に携わり、その基盤を築いた。[[1907年]](明治40年)に『帝国国防史論』を著述し、「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として[[国体]]を永遠に護持しなければならない」と述べ、日本の[[軍事戦略]][[軍事力]]建設計画に影響を与えた。その一方で[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]とは関係が悪く、しばしば官僚的な縄張り争いによって対立を見た。
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[[第2次世界大戦]]において,[[日中戦争]]から太平洋戦争に突入。太平洋戦争では,[[零式艦上戦闘機]]や酸素魚雷 ([[九五式魚雷]] , [[九三式魚雷]] ) などの優秀な兵器と[[航空母艦]] (空母) を基幹とする[[機動部隊]]の大規模集中的使用や陸上基地航空機による戦艦の撃沈など,海戦史上に画期的な成果をあげた。
  
所属する艦艇は、艦名の前に[[艦船接頭辞]]はもたない。英語圏の文献では、艦船接頭辞をもつ英米軍の艦艇との記述の一貫性のため、「HIJMS」(''His Imperial Japanese Majesty's Ship''、日本国の天皇陛下の軍艦の意)を冠する場合がある。
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しかし開戦第2年目に入る頃から形勢は逆転し,総合的には科学技術を含む国力の差,国策的には海洋国としての大陸政策の強行,戦略的にはアメリカの圧倒的優勢な空母兵力に対して陸上基地航空兵力の無力さから,4年間の悪戦苦闘の末,[[1945年]]敗戦によって解体された。
 
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2018/8/21/ (火) 23:31時点における最新版

(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体:大日本帝國海軍、英:Imperial Japanese Navy)

1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本大日本帝国)に存在していた軍隊海軍)組織。


安政2 (1855) 年江戸幕府は海軍伝習所を長崎に設立し,オランダ海軍士官を師として海軍に関する学術,実習の教育を行なったが,これが日本における近代的海軍の始りとされる。

明治新政府は,明治1 (1868) 年に官制として海陸軍務課のもとに海軍を制定した。さらに同2年幕府から接収した艦船7隻と,諸藩から献上された 11隻を兵部省の所属としたが,これが帝国海軍の創設にあたる。同5年2月兵部省が廃され,海軍省が独立した。

人員の教育訓練は,明治維新直前からイギリスに委託し,教官の招聘,留学生の派遣など,教育,諸制度を整え,長崎や横須賀に造船所を設けた。同3年以降毎年海軍拡張案が提出されたがなかなか実現せず,特に明治憲法発布 (1889) 以後は毎回議会によって否決された。

1891年頃から朝鮮および清国をめぐる情勢が悪化し,議会も海軍拡張を承認し,近代海軍の基礎が確立された。日清・日露戦争に勝ち,日露戦争後には主力艦の国産化にも成功した。第1次世界大戦後は,イギリス,アメリカに次いで世界第3位の海軍力を保有するようになった。

第2次世界大戦において,日中戦争から太平洋戦争に突入。太平洋戦争では,零式艦上戦闘機や酸素魚雷 (九五式魚雷 , 九三式魚雷 ) などの優秀な兵器と航空母艦 (空母) を基幹とする機動部隊の大規模集中的使用や陸上基地航空機による戦艦の撃沈など,海戦史上に画期的な成果をあげた。

しかし開戦第2年目に入る頃から形勢は逆転し,総合的には科学技術を含む国力の差,国策的には海洋国としての大陸政策の強行,戦略的にはアメリカの圧倒的優勢な空母兵力に対して陸上基地航空兵力の無力さから,4年間の悪戦苦闘の末,1945年敗戦によって解体された。



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