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(2018年4月21日 (土) 05:49‎ の加筆を除去し、相当する内容を「大日本帝国海軍の歴史#日露海戦史の編纂」により高度な出典を付して加筆。なお、「海軍の正しい戦史」ではなく「海軍部…)
 
(脚注)
 
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(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体:大日本帝國海軍、英:Imperial Japanese Navy)
{{Infobox Military Unit
 
|unit_name=大日本帝国海軍
 
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|創設=[[1872年]](明治5年)
 
|解散=[[1945年]](昭和20年)
 
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}}
 
<!-- このページにおいては『太平洋戦争(大東亜戦争)』の記述に統一することになっています。議論なく記述の順を変更しないで下さい。 -->
 
  
'''大日本帝国海軍'''(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体:大日本帝國&#64069;軍、英:Imperial Japanese Navy)は、[[1872年]](明治5年) - [[1945年]](昭和20年)まで[[日本]]([[大日本帝国]])に存在していた[[軍隊]]([[海軍]])組織である。通常は、単に'''日本海軍'''や'''帝国海軍'''と呼ばれた。戦後からは、別組織であるもののその伝統を重んじる傾向にある[[海上自衛隊]]との区別などのため、'''旧日本海軍'''もしくは'''旧帝国海軍'''とも呼ばれる。
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[[1872年]](明治5年) - [[1945年]](昭和20年)まで[[日本]]([[大日本帝国]])に存在していた[[軍隊]]([[海軍]])組織。
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安政2 (1855) 年江戸幕府は海軍伝習所を長崎に設立し,オランダ海軍士官を師として海軍に関する学術,実習の教育を行なったが,これが日本における近代的海軍の始りとされる。
  
== 概要 ==
+
明治新政府は,明治1 (1868) 年に官制として海陸軍務課のもとに海軍を制定した。さらに同2年幕府から接収した艦船7隻と,諸藩から献上された 11隻を兵部省の所属としたが,これが帝国海軍の創設にあたる。同5年2月兵部省が廃され,海軍省が独立した。
[[軍政 (行政)|軍政]]は[[海軍大臣]]、[[軍令]]は[[軍令部総長]]が行い、[[統帥権|最高統帥権]]を有していたのは[[大元帥]]たる[[天皇]]であった。[[大日本帝国憲法]]では、最高戦略、部隊編成などの軍事大権については、[[大日本帝国憲法|憲法]]上[[内閣]]から独立し、直接天皇の[[統帥権]]に属した。したがって、全[[日本軍]](陸海軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、軍政については海軍大臣と[[陸軍大臣]]が天皇を[[輔弼]]し、一方、[[作戦]]面については天皇を補佐する[[帷幄上奏|帷幄]]の各機関の長、即ち海軍は軍令部総長、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]は[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]がこれに該当していた。元々は軍政の下に置かれていた軍令が対等となり陸軍と海軍も対等とされたため、[[戦略]]がなおざりにされ「統帥二元」という問題が生じることとなる。一方がもう一方に従う必要がないため、効率的・統一的な作戦行動を取ることが出来ず、作戦は常に双方に妥協的な物が選択されたのであった。諸外国の多くの[[軍隊]]のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で[[大本営]]を設置した。
 
  
日本はそもそも四方を[[海洋]]に囲まれている[[海洋国家]]であるため、日本海軍は西[[太平洋]]の[[制海権]]を確保することにより敵戦力を本土に近づけないことを基本的な戦略として、不脅威・不侵略を原則としてきた。また、一方で[[イギリス海軍]]に大きな影響を受けていたため、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮があった。
+
人員の教育訓練は,明治維新直前から[[イギリス]]に委託し,教官の招聘,留学生の派遣など,教育,諸制度を整え,長崎や横須賀に造船所を設けた。同3年以降毎年海軍拡張案が提出されたがなかなか実現せず,特に[[明治憲法]]発布 (1889) 以後は毎回議会によって否決された。
  
海軍の戦略戦術研究の功労者として[[佐藤鉄太郎]]中将が挙げられる。明治末期から昭和にわたり海軍の兵術思想の研究に携わり、その基盤を築いた。[[1907年]](明治40年)に『帝国国防史論』を著述し、「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として[[国体]]を永遠に護持しなければならない」と述べ、日本の[[軍事戦略]]や[[軍事力]]建設計画に影響を与えた。その一方で[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]とは関係が悪く、しばしば官僚的な縄張り争いによって対立を見た。
+
1891年頃から朝鮮および清国をめぐる情勢が悪化し,議会も海軍拡張を承認し,近代海軍の基礎が確立された。日清・日露戦争に勝ち,日露戦争後には主力艦の国産化にも成功した。[[第1次世界大戦]]後は,イギリス,[[アメリカ]]に次いで世界第3位の海軍力を保有するようになった。
  
所属する艦艇は、艦名の前に[[艦船接頭辞]]はもたない。英語圏の文献では、艦船接頭辞をもつ英米軍の艦艇との記述の一貫性のため、「HIJMS」(''His Imperial Japanese Majesty's Ship''、日本国の天皇陛下の軍艦の意)を冠する場合がある。
+
[[第2次世界大戦]]において,[[日中戦争]]から太平洋戦争に突入。太平洋戦争では,[[零式艦上戦闘機]]や酸素魚雷 ([[九五式魚雷]] , [[九三式魚雷]] ) などの優秀な兵器と[[航空母艦]] (空母) を基幹とする[[機動部隊]]の大規模集中的使用や陸上基地航空機による戦艦の撃沈など,海戦史上に画期的な成果をあげた。
  
=== 平時の任務 ===
+
しかし開戦第2年目に入る頃から形勢は逆転し,総合的には科学技術を含む国力の差,国策的には海洋国としての大陸政策の強行,戦略的にはアメリカの圧倒的優勢な空母兵力に対して陸上基地航空兵力の無力さから,4年間の悪戦苦闘の末,[[1945年]]敗戦によって解体された。
海軍は戦時の他、平時にも以下の任務を負う<ref>昌弘社 編輯部「最新百科知識精講」昌弘社、1930年、761頁</ref>。
+
* 領海権の保護(海賊船の逮捕、難破船の救助など)
+
{{テンプレート:20180815sk}}
* 航通権の保護(公海交通を阻害するものの除去など)
 
* 局外中立の維持(他国相互に戦争を開始した場合、交戦国の軍艦が逃走し自国の港湾内に侵入したり、炭水、糧食などを強求した場合、これを駆逐しなければならない)
 
* 通商貿易の保護
 
* 外交問題の後援
 
* 在外国民の保護
 
* 国交の儀式への参列
 
 
 
== 組織 ==
 
<!-- このページにおいては『太平洋戦争(大東亜戦争)』の記述に統一することになっています。議論なく記述の順を変更しないで下さい。 -->
 
* [[海軍省]]:内閣に属し軍政を担当。
 
* [[軍令部]]:天皇直属の帷幄の機関。作戦・戦略といった軍事行動に加え、時期によって諜報・暗号制定・戦史編纂などに従事した。
 
* 海軍省外局:主なものに[[艦政本部|海軍艦政本部]]、[[海軍航空本部]]、[[海軍教育本部]]、[[水路部 (日本海軍)|水路部]]など、多数の外局がある。
 
* 海軍の軍需工場としては、[[海軍工廠]]、空廠、火薬廠、燃料廠、衣糧廠、療品廠がある。管轄[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]および艦政本部や航空本部など担当部署に隷属。
 
* 海軍大臣直属の教育組織としては、[[海軍大学校]]の他、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]・[[海軍機関学校]]・[[海軍経理学校]](いわゆる「[[海軍三校]]」)などがある。
 
* 術科学校は管轄鎮守府および教育本部・海軍省教育局に隷属する。
 
* [[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]:海軍の地方組織。艦艇の保全・軍人軍属の育成・内戦作戦に従事する。鎮守府司令長官は天皇に直隷する。
 
* [[警備府]]:後述する要港部を改編した海軍の地方組織。鎮守府と同格だが、固有の戦力を保有しない。
 
* [[要港部]]:鎮守府隷下の地方組織。
 
* [[艦隊]]の司令長官は天皇に直隷する。
 
** [[連合艦隊]]は2個艦隊以上の艦隊からなり、海軍作戦の主力となる。
 
** [[支那方面艦隊]]は連合艦隊に比肩する大艦隊で、連合艦隊に属さず、中国大陸での海軍作戦に従事する。
 
** [[海上護衛総司令部]]も連合艦隊に比肩する部隊で、連合艦隊に属さず、船団護衛に従事する。
 
** [[鎮守府部隊]]・[[警備府部隊]]も独立した部隊で、管轄海域の防衛に従事する。
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 軍部高官 ===
 
* 歴代の海軍大臣については[[海軍省]]を参照のこと。
 
* 歴代の海軍軍令部長、参謀本部次官、参謀本部海軍部長、海軍参謀部長、海軍軍令部長、軍令部総長については、[[軍令部]]を参照のこと。
 
* 歴代の連合艦隊司令長官については[[連合艦隊]]および[[連合艦隊司令長官]]を参照のこと。
 
* 海軍軍人については[[:Category:日本の海軍軍人]]を参照のこと。
 
 
 
=== 海軍区 ===
 
[[1938年]](昭和13年)時点の海軍区の区画、軍港、要港一覧<ref>出典は社団法人同盟通信社編纂『昭和14年版時事年鑑』1938年(昭和13年)、146頁である</ref>。
 
 
 
{|class="wikitable"
 
|+昭和13年、海軍区の区画・軍港・要港 一覧
 
|-
 
!nowrap|[[海軍区]]!!nowrap|管轄<br />[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]!!陸上区画・海上区画とも同一鎮守府の管轄!!海上区画の管轄!!陸上区画の管轄<ref>海のない県には * 印をつけた。</ref>!![[軍港]]!![[要港部|要港]]
 
|-
 
!第一
 
|[[横須賀鎮守府|横須賀]]|| [[樺太]]、北海道、青森、岩手、秋田、宮城、福島、茨城、千葉、東京、神奈川、静岡||愛知、三重||山形、新潟、栃木:*、群馬*、埼玉*、山梨*、長野*||nowrap|横須賀||[[大湊要港部|大湊]](青森)
 
|-
 
!第二
 
|[[呉鎮守府|呉]]||和歌山、大阪、兵庫、岡山、広島、山口、富山、石川、福井、京都、鳥取、島根、徳島、高知、愛媛、香川||山形、新潟、大分、(宮崎<ref>[[志布志湾|有明湾]]を除く宮崎県の海上</ref>)、(福岡<ref>宗像郡および遠賀郡・以東の海上</ref>)||愛知、三重、岐阜*、奈良*、滋賀*||呉||[[徳山下松港|徳山]](山口)、[[舞鶴鎮守府|舞鶴]](京都)
 
|-
 
!第三
 
|[[佐世保鎮守府|佐世保]]|| 鹿児島、佐賀、長崎、熊本、沖縄、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[台湾総督府|台湾]]||(福岡<ref>第二海軍区に含まれない海上</ref>)、(宮崎<ref>宮崎県の海上の内、[[志布志湾|有明湾]]のみ。</ref>)||大分、宮崎、福岡 ||佐世保||[[鎮海警備府|鎮海]](朝鮮)、[[馬公要港部|馬公]]([[澎湖庁|澎湖島]])
 
|-
 
![[関東州]]
 
|[[佐世保鎮守府|佐世保]]||関東州およびその海上|| -|| -|| -|| [[旅順要港部|旅順]](関東州)
 
|-
 
!南洋
 
||[[横須賀鎮守府|横須賀]]||[[南洋諸島]]委任統治区域及びその海上|| -|| -|| -|| -
 
|}
 
 
 
== 兵器 ==
 
艦艇の種類を以下に示す<ref>昌弘社 編輯部「最新百科知識精講」昌弘社、1930年、765頁</ref>。
 
[[戦艦]]、[[巡洋艦]]、[[海防艦]]、[[砲艦]]、[[駆逐艦]]、[[潜水艦]]、[[潜水母艦]]、[[航空母艦]]、[[敷設艦]]、[[掃海艇]]、[[特務艦]]、[[輸送艇]]
 
 
 
{{main|大日本帝国海軍艦艇一覧|大日本帝国海軍兵装一覧|日本製航空機の一覧#大日本帝国海軍}}
 
 
 
== 略史 ==
 
{{main|大日本帝国海軍の歴史}}
 
<!-- このページにおいては『太平洋戦争(大東亜戦争)』の記述に統一することになっています。議論なく記述の順を変更しないで下さい。 -->
 
 
 
[[File:Birthplace of Japanese Navy.JPG|thumb|200px|right|日本海軍発祥之地碑<br />([[宮崎県]][[日向市]][[美々津]])]]
 
伝承によると[[古代|古代史]]における[[神武天皇]]の船出の地(詳しくは[[神武東征]]を参照)、[[宮崎県]][[日向市]][[美々津]]が'''日本海軍発祥の地'''とされており、美々津港には海軍大臣[[米内光政]]による「日本海軍発祥の地」碑が現存している。
 
 
 
一方直接の祖先と言えるのは[[中世]]より日本史上に姿をあらわす[[水軍]]である。[[徳川氏|徳川]]家の配下であった幕府水軍は一度廃れたが、幕末に[[幕府海軍]]となって強化された。幕府海軍は当時、国内最強の海軍であった。その後、諸藩の水軍とともに、多くが初期の日本海軍に合流した。
 
 
 
[[江戸時代]]の[[幕藩体制]]においては[[鎖国]]が行われ、諸藩の大船建造は禁止されていたが、各地に外国船が来航して通商を求める事件が頻発するようになると、[[江戸幕府|幕府]]や諸藩は海防強化を行うようになる。[[軍艦奉行]]、[[長崎海軍伝習所]]が設置され、[[開国]]が行われたのちの[[1860年]]には[[咸臨丸]]がアメリカに派遣される。[[1864年]](元治元年)には初の[[観艦式]]が行われる。
 
 
 
[[大政奉還]]、[[王政復古]]、[[戊辰戦争]]を経て成立した[[明治]]政府は、幕府が建設途中であった[[横須賀造船所]]などの機関を接収・継承し、幕府や諸藩、[[海援隊]]の人員を加えつつ、装備を整理・編成したのが基礎になる。
 
 
 
[[1870年]](明治3年)に陸海軍が分離され、[[1872年]](明治5年)に[[海軍省]]が東京[[築地]]に設置される。初期には[[川村純義]]と[[勝海舟]]が指導する。[[1876年]](明治9年)に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]、[[1893年]]には[[軍令部]]をそれぞれ設置する。明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、[[西南戦争]]により政府内で[[薩摩藩]]閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。
 
 
 
[[参謀本部]]が設立され、[[海軍大臣]]の[[西郷従道]]や[[山本権兵衛]]らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、[[日清戦争]]時には軍艦31隻に水雷艇24隻、[[日露戦争]]時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。またこの時期、軍艦は[[常備艦隊]]と西海艦隊に振り分けられていたが、これを統合し、[[連合艦隊]]を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となる。
 
 
 
日露戦争後は、[[1920年]](大正9年)に海軍増強政策である[[八八艦隊]]案を成立させ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を仮想敵国に建艦競争をはじめる。[[1922年]](大正11年)の[[ワシントン海軍軍縮条約]]及び[[1930年]](昭和5年)の[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン海軍軍縮条約]]により主力艦の建艦は一時中断されるが、ロンドン海軍軍縮会議が決裂した後に再開され、太平洋戦争開戦時には[[戦艦]]10隻を含む艦艇385隻、[[零式艦上戦闘機|零戦]]などの航空機3260機余りを保有する規模であった。
 
 
 
また日露戦争で当時第3位の海軍力を誇った[[ロシア海軍#ロシア帝国海軍|ロシア帝国海軍]]を[[日本海海戦]]で打ち破った後は、[[イギリス海軍]]や[[アメリカ海軍]]と共に「世界三大海軍」と世界で並び称され繁栄を謳歌した。
 
 
 
1932年(昭和7年)には[[第一次上海事変]]で[[上海共同租界]]の防衛で活躍した。同年、海軍青年将校10名により、白昼[[犬養毅]]総理大臣を射殺するというクーデター未遂事件([[五・一五事件]])が発生する。中国ではその後も[[中山水兵射殺事件]]、[[上海日本人水兵狙撃事件]]、[[第二次上海事変|大山事件]]など[[対日テロ]]の標的とされた。
 
 
 
[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]]に[[二・二六事件]]が発生した際、襲撃された[[岡田啓介]]総理・[[鈴木貫太郎]]侍従長・[[斎藤実]]内大臣が共に海軍大将であったこともあり、反乱兵士に対し断固とした態度を取り、第1艦隊([[戦艦]][[長門 (戦艦)|長門]]以下の戦艦群)を[[東京湾]]に投錨させ、横須賀鎮守府配属の[[海軍陸戦隊]]を派遣し東京の警備に出動させるなど、反乱軍に対して軍事的圧力を加えた。
 
 
 
[[1937年]](昭和12年)の[[第二次上海事変]]では日本から陸軍の援軍が到着するまで[[上海海軍特別陸戦隊]]が数万人の[[国民革命軍]]を相手に戦った。
 
 
 
[[明治政府]]による[[富国強兵]]政策による好戦的な国民思想の浸透や[[日露戦争]]の勝利によって[[日本国民]]は自信を深め、日本国内では好戦的な雰囲気が強まっていたが、特に[[満州事変]]以来の日本国内では成果を出している陸軍と比べ、海軍は日本国民から軽んじられていたという。1941年(昭和16年)11月頃「海軍士官は、制服で町を歩いているか、あるいは乗り物に乗っているときに、町の人から面罵されて、海軍の弱虫ということを言われる」有様であったという <ref>{{Cite book
 
|1=和書
 
|title=[証言録]海軍反省会 3
 
|editor=戸高一成
 
|publisher=[[PHP研究所]]
 
|year=2012/02/15
 
|isbn=978-4-569-80114-8
 
|page=53
 
}}</ref>。
 
 
 
[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が勃発し、[[イギリス]]、アメリカ、[[オーストラリア]]、[[オランダ]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]海軍と戦闘を行い[[南方作戦]]等にて戦線を拡大した。しかし戦争の長期化による数と質の低下は否めず、特に1944年(昭和19年)の[[マリアナ沖海戦]]以降は櫛の歯が欠けるように凋落していった。この海戦での未曾有の大敗北で稼働状態の[[空母機動部隊]]を全て失い、残された水上戦闘艦も[[レイテ沖海戦]]にて[[戦艦]]・[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]を始めとする、主力艦艇の大半を失った。その他の[[空母]]や水上戦闘艦も南方からの燃料の運搬が困難になり、作戦行動不能となった。また、航空機の燃料の調達や操縦員の訓練も滞る状況になり、帝国海軍は戦闘困難となった。戦時中、帝国海軍は軍艦、人材の大多数を取り込んだ連合艦隊に重きを置く一方で、本来の重要任務となるべき[[シーレーン]]を軽視した。それは、絶頂期に本格的な通商破壊戦を行わなかったため、敵の物資供給を止めることができなかったことや、対潜哨戒部隊や[[海上護衛隊]]の育成に後れを取ったため、敵潜水艦・機雷等による商船の大量喪失・港湾封鎖に繋がり、日本国そのものを飢餓状態へと追い込むことになる。
 
 
 
その後[[1945年]](昭和20年)5月に残存部隊を指揮する[[海軍総隊]]が新設された。しかし多くの艦艇が失われ、空母や戦艦をはじめ数多く生き残った艦艇も燃料不足で水上艦艇はほとんど活動出来なかったため、海軍の主力は陸上基地を拠点とする航空部隊となった。また、[[特殊潜航艇]]、人間魚雷などの[[特攻兵器]]からなる'''[[特別攻撃隊]]'''に移り敗戦まで戦った。
 
 
 
新造空母をはじめとする敗戦時に残存した艦艇の多くは外地からの[[引き揚げ]]に使用されたほか、多くの水上戦闘艦がソ連や中華民国、アメリカに賠償艦として渡った。また、作戦用航空機のみでも約7500機、陸軍機と併せると1万機以上の作戦用航空機が敗戦時に残存していたが、これらの航空機は連合国軍の研究用に一部が持ち出された後に破壊された<ref>{{Cite book
 
|1=和書
 
|title=囚われの日本軍機秘録
 
|author=野原茂
 
|publisher=[[潮書房光人社|光人社]]
 
|year=2002
 
|isbn=978-4769810759
 
|page=118
 
}}</ref>。
 
 
 
敗戦後、武装解除に伴い[[海軍省]]が[[第二復員省]]に改組され、海軍の元艦船・元乗組員も[[復員]]事業に従事し、旧軍令部メンバーは[[極東国際軍事裁判]]対策などに従事した<ref>海軍では「[[復員]]」ではなく「'''解員'''」という呼称を使った</ref>。なお、太平洋戦争の開始から作戦指導の誤り、敗戦、極東国際軍事裁判に至るまでについては戦後に海軍の高級幹部OBが行った[[海軍反省会]]に証言記録が残されている。
 
 
 
第二復員省は[[1946年]](昭和21年)に[[復員庁]]第二復員局へ、[[1948年]](昭和23年)に[[厚生省]]第二復員残務処理部となり、[[水路部 (日本海軍)|水路部]]、保有艦艇、掃海部隊などは[[運輸省]]([[海上保安庁]])へ、海軍病院は国立病院(現[[国立病院機構]])へ移された。その後復員事業は厚生省外局の[[引揚援護庁]]へ統合される。引揚援護庁は[[1954年]](昭和29年)閉庁。また、[[1952年]](昭和27年)には海軍再建を目指す[[山本善雄]]、[[吉田英三]]などの旧海軍軍人([[海軍兵学校]]・[[海軍機関学校]]出身者)主導で海上保安庁内に[[海上警備隊]]が発足し<ref>{{Cite book
 
|1=和書
 
|title=海上自衛隊はこうして生まれた―「Y文書」が明かす創設の秘密
 
|author=[[日本放送協会|NHK]]報道局「自衛隊」報道班
 
|publisher=[[日本放送出版協会|NHK出版]]
 
|date=2003/07/26
 
|isbn=978-4140807927
 
|page=259
 
}}</ref>、その後独立した現在の[[海上自衛隊]]では帝国海軍の伝統と文化を重んじる傾向にある。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 防衛庁防衛研修所戦史室『[[戦史叢書]] 本土方面海軍作戦』([[朝雲新聞社]]・昭和50年6月)
 
* [[野村実]]監修・[[太平洋戦争研究会]]著『図説日本海軍』([[河出書房新社]]・1997年11月) ISBN 4-309-72570-8
 
* [[半藤一利]]『日本海軍の興亡』([[PHP研究所]]〈PHP文庫〉・1999年1月) ISBN 4-569-57230-8
 
* 太平洋戦争研究会『日本海軍がよくわかる事典』(PHP研究所〈PHP文庫〉・2002年7月) ISBN 4-569-57763-6
 
* [[野村実]]『日本海軍の歴史』([[吉川弘文館]]・2002年8月) ISBN 4-642-03745-4
 
* [[坂本正器]]・[[福川秀樹]]『日本海軍編制事典』([[芙蓉書房出版]]・2003年7月) ISBN 4-8295-0330-0
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]
 
* [[大日本帝国海軍艦艇要目解説]]
 
* [[大日本帝国海軍兵装一覧]]
 
* [[大日本帝国海軍軍人一覧]]
 
* [[大日本帝国海軍航空隊一覧]]
 
* [[海軍経理学校]]
 
* [[海上自衛隊]]
 
* [[日英同盟]]
 
* [[雪風 (駆逐艦)]]
 
* [[海軍予備員]]
 
* [[軍服 (大日本帝国海軍)]]
 
* [[大日本帝国海軍の旗章]]
 
* [[五・一五事件]]
 
* [[江田島市]]
 
* [[5分前精神]]
 
* [[ハンモックナンバー]]
 
* [[出船精神]]
 
* [[ようそろ]]
 
* [[五省]]
 
* [[総員起こし]]
 
* [[Y委員会]]
 
* [[後発航期]]
 
* [[海軍カレー]]
 
* [[肉じゃが]]
 
* [[ラムネ (清涼飲料)]]
 
* [[飴湯]]
 
* [[シーメンス事件]]
 
* [[海軍無線電信所船橋送信所]]
 
* [[第二復員省]]
 
* [[大和田通信所]]
 
* [[高い城の男]]
 
* [[海軍反省会]]
 
* [[保科善四郎]]
 
* [[大日本帝国陸軍]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Imperial Japanese Navy}}
 
* [http://www.combinedfleet.com/ 日本海軍]
 
* [http://homepage2.nifty.com/nishidah/r0001.htm 日本海軍組織概論]
 
* [http://www.nids.go.jp/ 防衛省防衛研究所] - <small>史料閲覧室</small>
 
 
 
{{日本海軍2}}
 
{{大日本帝国海軍における軍備計画}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:たいにつほんていこくかいくん}}
 
{{DEFAULTSORT:たいにつほんていこくかいくん}}

2018/8/21/ (火) 23:31時点における最新版

(だいにっぽんていこくかいぐん、旧字体:大日本帝國海軍、英:Imperial Japanese Navy)

1872年(明治5年) - 1945年(昭和20年)まで日本大日本帝国)に存在していた軍隊海軍)組織。


安政2 (1855) 年江戸幕府は海軍伝習所を長崎に設立し,オランダ海軍士官を師として海軍に関する学術,実習の教育を行なったが,これが日本における近代的海軍の始りとされる。

明治新政府は,明治1 (1868) 年に官制として海陸軍務課のもとに海軍を制定した。さらに同2年幕府から接収した艦船7隻と,諸藩から献上された 11隻を兵部省の所属としたが,これが帝国海軍の創設にあたる。同5年2月兵部省が廃され,海軍省が独立した。

人員の教育訓練は,明治維新直前からイギリスに委託し,教官の招聘,留学生の派遣など,教育,諸制度を整え,長崎や横須賀に造船所を設けた。同3年以降毎年海軍拡張案が提出されたがなかなか実現せず,特に明治憲法発布 (1889) 以後は毎回議会によって否決された。

1891年頃から朝鮮および清国をめぐる情勢が悪化し,議会も海軍拡張を承認し,近代海軍の基礎が確立された。日清・日露戦争に勝ち,日露戦争後には主力艦の国産化にも成功した。第1次世界大戦後は,イギリス,アメリカに次いで世界第3位の海軍力を保有するようになった。

第2次世界大戦において,日中戦争から太平洋戦争に突入。太平洋戦争では,零式艦上戦闘機や酸素魚雷 (九五式魚雷 , 九三式魚雷 ) などの優秀な兵器と航空母艦 (空母) を基幹とする機動部隊の大規模集中的使用や陸上基地航空機による戦艦の撃沈など,海戦史上に画期的な成果をあげた。

しかし開戦第2年目に入る頃から形勢は逆転し,総合的には科学技術を含む国力の差,国策的には海洋国としての大陸政策の強行,戦略的にはアメリカの圧倒的優勢な空母兵力に対して陸上基地航空兵力の無力さから,4年間の悪戦苦闘の末,1945年敗戦によって解体された。



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