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{{Infobox anthem
 
|題名= 君が代
 
|画像= Kimigayo.svg
 
|画像サイズ= 250px
 
|画像代替= 「君が代」の楽譜
 
|画像説明= 「君が代」の楽譜([[国旗及び国歌に関する法律]]による)
 
|採用対象= 国
 
|採用共同体= {{JPN}}
 
|作詞者= 不明([[よみ人しらず|読人しらず]])
 
|作詞時期= 『[[和漢朗詠集]]』[[鎌倉時代]][[写本]]初出
 
|作曲者= [[林廣守]]、[[奥好義]]
 
|作曲時期=
 
|採用時期= [[1880年]]([[明治]]13年)[[10月26日]](非公式)<br/>[[1888年]](明治21年)(対外正式公布)<br/>[[1999年]]([[平成]]11年)[[8月13日]](立法化)
 
|採用終了=
 
|試聴= Kimi ga Yo instrumental.ogg
 
|試聴タイトル= 君が代:様々な楽器による演奏
 
}}
 
'''君が代'''(きみがよ)は、[[日本]]の[[国歌]]。「[[天皇]]の治世」を奉祝する歌<ref name="Br">ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典</ref><ref name="Wr">世界大百科事典 第2版</ref>であり、「祝福を受ける人の寿命」<ref name="Br" /> を歌う[[和歌]]を元にしている。[[1869年]]([[明治]]2年)に[[薩摩藩]]の砲兵隊長・[[大山巌|大山弥助]](大山巌)が[[薩摩琵琶]]の『蓬莱山』にある『[[和漢朗詠集]]』異本の[[短歌]]を[[歌詞]]として選び、その後[[1880年]]([[明治]]13年)に[[宮内省]]雅楽課が[[メロディ|旋律]]を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師[[フランツ・エッケルト]]が[[和声法|西洋和声]]により[[編曲]]したものが、[[1893年]]([[明治]]26年)の[[文部省]]告示以降、国歌として定着した。[[1999年]]([[平成]]11年)に「[[国旗及び国歌に関する法律]]」で正式に日本の国歌として法制化されており、世界で最も短い国歌の一つである。
 
  
== 歌詞 ==
+
'''君が代'''(きみがよ)
{{Wikisource|君が代|君が代の歌詞と楽譜}}[[1880年]](明治13年)、法律では定められなかったが、日本の国歌として「君が代」が採用された。この国歌のテーマは皇統の永続性とし、歌詞は[[10世紀]]に編纂された『[[古今和歌集]]』に収録されている[[短歌]]の1つである<ref>{{Cite book|和書|author=ベン=アミー・シロニー|translator=大谷堅志郎|title=母なる天皇:女性的君主制の過去・現在・未来|year=2003|month=1|publisher=講談社|location=日本|language=日本語|isbn=4062116758|pages=30頁|chapter=第8章1『日本王朝の太古的古さ』}}</ref>。
 
  
日本の国歌の歌詞およびその表記は、[[国旗及び国歌に関する法律]]別記第二では以下の通り<ref group="注">国旗国家法の表記では「いわお」([[]])や「こけ」([[苔]])はひらがな。[[歴史的仮名遣|歴史的仮名遣い]]では、「巌」の[[仮名書き]]は「いはほ」である。</ref>。
+
言葉としての意味は,天皇の治世であり,和歌史上においては,祝福を受ける人の寿命をさすが,さらに事実上の国歌として歌われた明治期以後の歌曲「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」をさす。この歌詞は,『古今和歌集』にそのもととなる「わが君は…」の初句の和歌があり,以下『新撰和歌集』『和漢朗詠集』などにも収められるが,「君が代は…」と初句を改めたものは,「隆達節」伝存本の巻頭に掲げられたものが初見と思われる。ただし,「君が代は…」の詞章で,寺院芸能である延年のなかの歌謡をはじめ,古くから祝賀の歌として酒席などで朗詠されており,和歌を朗唱する「歌抜講」の代表的詞章としても用いられたほか,謡曲,歌舞伎などを通じ庶民層にまでこの歌詞は広く普及した。明治2 (1869) 年,薩摩藩は「天皇に対し奉る礼式曲」を作成するため,同藩士大山巌らが琵琶曲『蓬莱山』のなかにある「君が代…」の歌詞を選定してイギリス人軍楽隊教師 J.W.[[フェントン]]に作曲を依頼し,翌年,陸軍観兵式に吹奏されたが,曲調に威厳を欠くと批判されて,1876年には廃止された。別に文部省でも小学校用唱歌に使用する目的で同歌詞の別曲を作成したがこれも普及しなかった。同年に海軍省軍楽隊長中村佑庸の提唱に基づいて宮内省は楽譜改訂のためドイツ人 F.[[エッケルト]]を交えた4人の楽譜審査委員を設け,奥好義の作曲したものに手を加えて,宮内省伶人長林広守の名による雅楽旋律の楽譜を選定し,80年の天長節において初めて演奏された。 88年に政府は各条約国に対し,この楽譜をもとにして祝祭日に吹奏された楽譜を「大日本礼式」として送付,93年には文部省が学校儀式用唱歌として告示した。昭和に入って国家主義が高揚されるとともに,事実上の国歌として扱われるようになった。第2次世界大戦後しばらくの間,『君が代』はこのような地位を失っていたが,1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されてからは,国家的礼式の場合に用いられるようになった。さらに,99年8月に「国旗・国歌法」が成立したことにより『君が代』が正式な国歌と規定された。
  
{{Quotation|<poem>君が代は
+
{{テンプレート:20180815sk}}
千代に八千代に
 
[[さざれ石]]の
 
いわおとなりて
 
苔のむすまで</poem>|君が代|日本の国歌}}
 
[[ファイル:Shimogamo-Sazareishi-M1641.jpg|thumb|250px|[[さざれ石]]、京都の賀茂御祖神社]]
 
[[ファイル:Basil Hall Chamberlain.jpg|thumb|250px|バジル・ホール・チェンバレン]]
 
  
[[バジル・ホール・チェンバレン]]は、この日本の国歌を[[英語]]に[[翻訳]]した。チェンバレンの訳を以下に引用する<ref>チェンバレンの英訳は、『国歌君が代の研究』より。この英訳を和訳した歌詞は、シロニー (2003)、30頁。</ref>。
 
 
<poem style="margin-left:1em">{{en|''A thousand years of happy life be thine!''
 
''Live on, my Lord, till what are pebbles now,''
 
''By age united, to great rocks shall grow,''
 
''Whose venerable sides the moss doth line.''}}</poem>
 
 
<poem style="margin-left:1em">''汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように''
 
''われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが''
 
''時代を経て、あつまりて大いなる岩となり''
 
''神さびたその側面に苔が生(は)える日まで''</poem>
 
 
[[香港]][[日本占領時期の香港|日本占領時期]]には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった:
 
 
<poem style="margin-left:1em">
 
皇祚連綿兮久長
 
萬世不變兮悠長
 
小石凝結成巖兮
 
更巖生綠苔之祥
 
</poem>
 
 
== 歴史(制定までの経緯) ==
 
=== 日本における君が代の認識 ===
 
[[国歌]] (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した[[幕末]]の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、[[1876年]](明治9年)に海軍楽長の[[中村祐庸]]が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」<ref name="koyama1941">{{Cite book|和書|author=小山作之助|year=1941|title=国歌君が代の由来|publisher=小山真津|location=日本|id=urn:nbn:jp-46036320}}</ref>
 
 
つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において[[軍楽隊]]<ref group="注">多くは[[管楽器|管楽器群]]と[[打楽器|打楽器群]]から成る[[吹奏楽]]の編成が採られる。</ref> が演奏するために生じるのであり、現在でも例えば[[スペイン]]国歌の「[[国王行進曲]]」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した<ref group="注">海軍省所蔵の[[1880年]](明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲の現行「君が代」成立時には「国歌」という訳語ができていたことがわかる(『君が代と萬歳』参照)。</ref> ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対する[[大和言葉|やまと言葉]]の歌([[詩]])という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった<ref name="koyama1941"/>。
 
 
こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した[[小山作之助]]もまずは歌詞についての考察から始めている。
 
 
=== 和歌としての君が代 ===
 
==== テキストと作者 ====
 
作者は[[文徳天皇]]の第一皇子[[惟喬親王]]に仕えていたとある[[木地師]]で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となった[[さざれ石]]にちなみ「[[藤原朝臣石位左衛門]]」の名を賜ることとなる。{{要出典|date=2015年5月}}
 
 
歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、詠み人知らず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「'''わが君は'''」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。
 
 
<poem style="margin-left:1em">'''我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで'''</poem>
 
 
「君が代は」の型は『[[和漢朗詠集]]』の[[鎌倉時代]]初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)<ref name="teruoka1991">{{Cite book|和書|author=暉俊康隆|year=1991|title=日の丸・君が代の成り立ち|publisher=岩波書店|location=日本|series=岩波ブックレット|isbn=9784000031271}}</ref><ref name="sdf2000">{{Cite video|people=陸上自衛隊中央音楽隊、他(演奏)|year=2000|title=君が代のすべて(KICG 3074)|url=http://amazon.jp/dp/B00005HM29|publisher=キングレコード|location=日本}}</ref>。
 
 
『和漢朗詠集』においても古い写本は「'''我が君'''」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「'''君が代'''」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『[[古今和歌六帖]]』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている<ref name="wada1998">{{Cite book|和書|author=和田真二郎|year=1998|title=君が代と萬歳|publisher=ミュージアム図書|location=日本|isbn=4944113277}}</ref>。
 
 
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた<ref name="wada1998"/>。
 
 
==== 解釈 ====
 
[[万葉集]]などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の[[賀歌]]であるため、そもそも「我が君」の「君」とは[[天皇]]なのかどうかということがしばしば問題にされる。
 
 
『[[古今和歌集]]』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということである<ref name="koten1974">{{Cite book|和書|author=佐伯梅友註|year=1974|title=日本古典文学大系8 古今和歌集|publisher=岩波書店|location=日本}}</ref>。
 
 
『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人<ref group="注">[[松田武夫]]によれば[[光孝天皇]]、[[藤原基経]]、[[醍醐天皇]]の3人にゆかりの人々である({{Cite book|和書|author=東京大学国語国文学会|year=1974|title=国語と国文学 昭和四九年六月号|publisher=至文堂|location=日本}}収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』参照)。</ref> の具体的な祝い(ほとんどが[[算賀]]だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる<ref name="goto1974">{{Cite book|和書|author=東京大学国語国文学会|year=1974|title=国語と国文学 昭和四九年六月号|publisher=至文堂|location=日本}}収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』</ref>。
 
 
これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
 
 
ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『[[続群書類従]]』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』<ref group="注">[[万治]]元年([[1658年]])に第一巻が発行されている({{Cite book|和書|author=全国大学国語国文学会|year=1960|title=国語国文学研究史大成7 古今集 新古今集|publisher=三省堂|location=日本}}参照)。</ref> である。堯智は[[橘清友]]を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも[[17世紀]]半ばの[[江戸時代]]前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである<ref name="koyama1941"/>。
 
 
『古今和歌集』に限らず、[[勅撰集]]に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と[[大嘗祭]]和歌になっていくからである。こういった傾向は[[院政期]]に入って顕著になってくるもので王朝が[[摂関政治]]の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている<ref name="goto1974"/>。
 
 
=== 国歌になるまでの君が代 ===
 
[[File:Suzuki Harunobu - Sexual Misconduct, From the book Fashionable, Lusty Mane’emon 1770.jpg|250px|thumb|right|[[鈴木春信]]の[[春画]]「風流艶色真似ゑもん」の中の一枚<ref>{{Cite web|url=https://art.honolulumuseum.org/objects/6697/sexual-misconduct-from-the-series-the-fashionable-erotic-m|title=Sexual Misconduct, from the series The Fashionable, Erotic Mane'emon (Furyu Enshoku Mane'emon), Plate 2 (The Fashionable, Erotic Mane'emon (Fūryū Enshoku Mane'emon))|accessdate=2018-06-15|date=1770|author= Suzuki Harunobu|work= 風流艶色真似ゑもん|publisher= Honolulu Museum of Art|page= 2}}</ref>。教え子を手籠めにする手習いの師匠を描いたもので、左下の看板に和歌「君が代」が見える。春信は描写に無駄のないことで知られ、この和歌も春画を構成する一要素とみられる]]
 
元々は年賀のためであったこの歌は、[[鎌倉時代|鎌倉期]]・[[室町時代|室町期]]に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。
 
 
江戸時代には、性を含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」(「岩」が男性器、「ほと」が女性器を、「成りて」が性交を指す{{要出典|date=2014年1月}})に変形されて[[隆達節]]の巻頭に載り(同じ歌が米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる<ref>川口和也「『君が代』の履歴書」批評社、2005年、3章「封印された『君が代』」</ref>)、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた<ref>山田孝雄『君が代の歴史』宝文館出版、昭和31年、9章「この歌は古来如何に取り扱われたか」、10章「江戸時代に於ける「君が代」の歌」</ref>。
 
 
=== 明治維新から「君が代」制定まで ===
 
[[ファイル:Curt-Netto-Japanese-National-Hymn-Coverdesign-1880.jpg|thumb|250px|譜面の表紙、[[クルト・ネットー]]作(1880年)]]
 
[[ファイル:Kimigayo-1.jpg|thumb|250px|[[薩摩バンド]]が寄宿していた横浜[[妙香寺]]境内に建つ]]
 
{{Wikisource|君が代|歌詞}}
 
[[1869年]]([[明治]]2年)に設立された[[薩摩バンド]]([[薩摩藩]]軍楽隊)の隊員に対し[[イギリス]]公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長[[ジョン・ウィリアム・フェントン]]が[[国歌]]あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の[[大山巌]])が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された<ref name="teruoka1991"/><ref name="naitou1997">{{Cite book|和書|author=内藤孝敏|year=1997|title=三つの君が代 - 日本人の音と心の深層|publisher=中央公論社|location=日本|isbn=9784120026546}}</ref>。
 
 
当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり[[日本人]]に馴染みにくかったため普及せず、[[1876年]](明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を<!--宮内省か海軍省へ//出典により違いあり-->提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終えて帰国、その後[[1880年]](明治13年)に[[宮内省]][[宮内庁式部職|式部職]][[雅楽|雅樂]]課の伶人[[奥好義]]がつけた旋律を一等伶人の[[林廣守]]が曲に起こし、それを前年に来日した[[ドイツ]]人の音楽家であり海軍軍楽教師[[フランツ・エッケルト]]が西洋風[[和声]]を付けた<ref name="teruoka1991"/><ref name="sdf2000"/><ref name="naitou1997"/>。なお、改訂版「君が代」の第2主題は、[[ヨーゼフ・シュトラウス]]が[[1862年]](文久2年)に作曲した『[[日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)|日本行進曲]]』にも「日本の旋律」として登場しており、この部分については古くから伝わる旋律を採り入れたものと考えられる。
 
 
同年[[10月25日]]に試演し、翌[[10月26日|26日]]に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。[[11月3日]]の[[天長節]]にて初めて公に披露された<ref name="sdf2000"/><ref name="naitou1997"/>。
 
 
一方、1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が編集され(実際には翌年に刊行)、英国人ウェッブ作曲の君が代が掲載され、小学校ではこちらが教えられた。しかし、1889年の音楽取調掛編纂『中等唱歌』には林廣守作曲のものが掲載された(但し無署名)。また、1889年12月29日「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられており、その後の[[1893年]](明治26年)[[8月12日]]には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示<ref name="sdf2000"/><ref name="yugari2004">{{Cite book|和書|author=弓狩匡純|year=2004|title=国のうた|publisher=文藝春秋|location=日本|isbn=9784163659909}}</ref>。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている<ref name="yugari2004"/>。また[[1914年]](大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている<ref name="sdf2000"/>。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。
 
 
[[1903年]](明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した<ref name="kindaichi">金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。</ref>。ただし、コンクールの詳細は不明<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000188482 リファレンス協同データベース] - 神奈川県立図書館 提供、2015年12月24日作成、2016年02月24日更新、2016年8月26日閲覧。</ref>。
 
 
== 国歌としての君が代 ==
 
=== 第二次世界大戦前 ===
 
[[1889年]]([[明治]]22年)に[[公布]]された大日本帝国憲法第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記された。
 
 
[[1937年|1900年]](明治33年)小学校令施行規則は次のとおり規定した。
 
 
「第28条 紀元節、天長節、及び一月一日に於ては職員及児童、学校に参集して左の式を行ふべし
 
: 1. 職員及児童「君が代」を合唱す 2. 職員及児童は天皇陛下、皇后陛下の御影に対し奉り最敬礼を行ふ 3. 学校長は「教育に関する勅語」を奉読す
 
: 4. 学校長は「教育に関する勅語」に基き聖旨の在る所を誨告す 5. 職員及児童は其の祝日に相当する唱歌を合唱す」。
 
 
[[1937年|1912年]](大正元年)台湾で「本島人」の児童のための「公学校」において、小学校令施行規則と同様の規定が朝鮮総督府令により導入された。
 
 
[[1937年|1922年]](大正11年)朝鮮で朝鮮人の児童のための 「普通学校」において、小学校令施行規則と同様の規定が朝鮮総督府令により導入された。
 
 
[[1937年]](昭和12年)の「国体の本義」(文科省編纂)には「大日本帝国は、万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と記された。「皇祖の神勅」とは日本書紀にある、天照大神が孫のニニギノミコトに言ったという「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるへき地なり。宣しく爾、皇孫、就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さきく)矣(ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、当に天壌(あまつち)と窮り無けむ。」と言う言葉のことである。
 
 
国民学校の[[修身]]の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記された<ref>『戦後教育史論 民主主義教育の陥穽』(尾崎ムゲン、インパクト出版会、1991年、ISBN 978-4755400216)p.260で紹介されている『初等科修身 二』国民学校四年用国定終身教科書の記述より。</ref>。「君が代」はまさに臣民自ら「国体護持」を信仰告白する歌とも言えよう。
 
 
戦前、戦中を通して主に歌われていたのは「第二国歌」や「準国歌」とも言われる「[[海行かば]]」であり、君が代の様に「君」と言う広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない言葉ではなく<!-- 前掲文参照 -->、[[大君]]{{要曖昧さ回避|date=2016年1月}}と天皇又は皇室のみを表す言葉が使用されている。
 
 
=== 第二次世界大戦後 ===
 
[[戦後|第二次世界大戦後]]には、[[連合国軍総司令部]](GHQ)が日本を占領し、[[日の丸]]掲揚禁止とともに、君が代の斉唱を全面的に禁止した{{Sfn|大西|2009|p=81}}。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め{{Sfn|大西|2009|p=81}}、[[1946年]]([[昭和]]21年)[[11月3日]]の憲法公布記念の式典で斉唱された<ref name="gentosha">[[辻田真佐憲]]『[http://www.gentosha.jp/articles/-/4019 戦時下を「君が代」はいかに生き延びたか 第2回「君が代」が迎えた敗戦]』([[幻冬舎]]plus)</ref>。しかし、半年後の[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく[[憲法普及会]]が選定した[[国民歌]]「[[われらの日本]]」(作詞・[[土岐善麿]]、作曲・[[信時潔]])が代用曲として演奏されている<ref name="gentosha" />。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「[[国体]]」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。例えば[[読売新聞]]は[[1948年]](昭和23年)[[1月25日]]の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない。」とした上で「新国歌が作られなくてはならない。」と主張した<ref>{{cite news|newspaper=[[読売新聞]] 朝刊|title=國民に歌を與えよ|date=1948-01-25|page=1}}</ref>。
 
 
[[日本国政府]]の公式見解は、[[国旗国歌法]]が提出された際の[[1999年]](平成11年)[[6月11日]]の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の[[6月29日]]に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した<ref>[http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/tisikii-kimigayokaisyaku.htm 「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈]([http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/ 「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン])</ref>。
 
 
学校・教育現場では、[[1946年]](昭和21年)に国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されたが、「祝日には学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することが望ましい」とする、[[文部省]]の[[天野貞祐]][[文部大臣 (日本)|文部大臣]]「談話」が[[1950年]](昭和25年)[[10月17日]]に全国の[[教育委員会]]に通達され、[[1958年]](昭和33年)[[学習指導要領]]に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから{{sfn|小野|2001|p=141}}、学校で再び[[日の丸]]掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する[[日本教職員組合]]等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい([[1978年]])」、「[[入学式]]や[[卒業式]]などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする([[1989年]])」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱を義務付けている<ref>[http://www.geocities.co.jp/freedom_national_flag/shiryou8.htm]「日の丸」「君が代」に関する戦後年表</ref>。
 
 
=== 現状 ===
 
{{Main|日本における国旗国歌問題}}
 
「君が代」は、[[国旗及び国歌に関する法律|国旗国歌法]]によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、[[1974年]]([[昭和]]49年)[[12月]]に実施された[[内閣府]]・[[政府広報]]室の[[世論調査]]<ref group="注">[[新情報センター]]が委託を受け調査した。</ref> において、対象者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5%だった<ref>{{cite press release
 
|url = http://www8.cao.go.jp/survey/s49/S49-12-49-14.html
 
|title = 年号制度・国旗・国歌に関する世論調査
 
|language = [[日本語]]
 
|publisher = [[内閣府]]・[[政府広報室]]
 
|date = 1974年
 
|accessdate = 2010年7月31日
 
}}</ref>。
 
 
[[日本コロムビア]]から発売した「君が代」を収録したCDは[[1999年]]までの10年間に全種累計で約10万枚を売り上げ<ref name=zakzak990723>[http://web.archive.org/web/20030404121640/http://www.zakzak.co.jp/geino/n_July99/nws4093.html 法制化で注目!君が代CDブレーク?]、ZAKZAK、1999年7月23日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>、[[キングレコード]]から発売した「君が代」を含むCD『世界の国歌』は改訂盤が発売されるごとに毎回1万数千枚を売り上げている(1999年時点)<ref name=zakzak990723 />。
 
 
== 君が代に関する諸説 ==
 
=== 九州王朝時代を起源とする説 ===
 
[[九州王朝説]]を唱えた[[古田武彦]]は自ら[[邪馬台国|邪馬壹国]]の領域と推定している[[糸島半島]]や近隣の[[博多湾]]一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している<ref name="sanka1990">{{Cite book|和書|author=古田武彦|year=1990|title=「君が代は九州王朝の讃歌」|publisher=新泉社|location=日本|isbn= 4787790129}}</ref><ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jwagakim/jwagaki.html 参考:独創古代|君が代の源流]</ref>。
 
 
* 「君が代」は、[[金印]]([[漢委奴国王印]])が発見された[[福岡県]]・[[志賀島]]にある[[志賀海神社]]において、[[神功皇后]]の[[三韓征伐|三韓出兵]]の際、[[志賀海神社]]の社伝によると、その食前において山誉の神事を奉仕したことにより、[[神功皇后]]よりこの神事を「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」<ref>[http://www.nponia.com/page40-fukuoka.htm 参考:NPO法人無形民俗文化財アーカイブズ|福岡県の指定・選択無形民俗文化財リスト]</ref> と庇護され今に伝承されている4月と11月の祭礼([[山誉め祭]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=kZsv8hmljyc 参考:YouTube動画|志賀島 志賀海神社 山誉め祭]</ref><ref>[http://www.sikanosima.jp/event-maturi/yamafome08/index.html 参考:志賀海神|社山誉祭]</ref>)にて以下のような[[神楽歌]]として古くから伝わっている。(後述する『[[太平記]]』にも、この舞が[[神功皇后]]の[[三韓征伐|三韓出兵]]以前より伝わる神事(舞い)と推察される記述が存在する。)
 
* なお、この山誉め祭は、民族学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の[[有形民俗文化財]]<ref>[http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/item_id:101211 参考:福岡市の文化財|山ほめ祭]</ref> に指定されている。
 
 
{{Quotation|君が<ruby>代<rp>(</rp><rt>だい</rt><rp>)</rp></ruby>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで<br/>
 
 
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ<ruby>身<rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>骸<rp>(</rp><rt>がい</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>命<rp>(</rp><rt>いのち</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby>千<rp>(</rp><rt>せん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>歳<rp>(</rp><rt>ざい</rt><rp>)</rp></ruby>という<br/>
 
 
花こそ 咲いたる 沖の<ruby>御<rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>津<rp>(</rp><rt>づ</rt><rp>)</rp></ruby>の汐早にはえたらむ<ruby>釣<rp>(</rp><rt>つる</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>尾<rp>(</rp><rt>お</rt><rp>)</rp></ruby>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや<br/><br/>
 
 
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで<br/>
 
 
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ<br/>
 
 
いるかよ いるか 汐早のいるか <ruby>磯<rp>(</rp><rt>いそ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>良<rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>が崎に 鯛釣るおきな|山誉め祭|神楽歌}}
 
 
* [[糸島半島#歴史|糸島]]・[[博多湾]]一帯には、[[東公園 (福岡市)#公園の概要|千代の松原]]の「[[千代町|千代]]」、伊都国の王墓とされる[[平原遺跡]]の近隣に[[細石神社]]の「さざれ石」、細石神社の南側には「[[井原鑓溝遺跡]]」や「[[井原山]]」など地元住民が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また[[若宮神社 (糸島市)|若宮神社]]には苔牟須売神([[コケムスメ]])が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。
 
* [[細石神社]]の祭神は「盤長姫([[イワナガヒメ]])」と妹の「木花咲耶姫([[コノハナノサクヤビメ]])」、[[若宮神社 (糸島市)|若宮神社]]の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における[[天孫降臨]]した瓊瓊杵尊([[ニニギ]]ノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。
 
 
上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」([[阿曇磯良]])もしくは別名「[[筑紫の君]]」([[九州王朝説|九州王朝]]の君主)と推定。
 
 
* 『[[古今和歌集]]』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、[[古今和歌集]]が[[醍醐天皇]]の勅命によって編まれた『[[勅撰和歌集]]』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『[[平家物語]]』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『[[千載和歌集]]』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、[[紀貫之]]は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
 
* [[糸島半島#歴史|糸島]]・[[博多湾]]一帯<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jwagakim/jwagamap.html l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸]</ref> は参考資料<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/proer2000/34/0/34_0_97/_article/-char/ja/ 参考:社団法人 土木学会 環境システム研究論文集 Vol. 34 (2006) P 97-103 |歴史的視点から見た干潟環境の変化と 人との係わりに関する研究 ―福岡・今津干潟を例にー]</ref>」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「若宮神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと推定している。
 
 
なお、『[[太平記]]』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。
 
 
* [[神功皇后]]は[[三韓征伐|三韓出兵]]の際に諸神を招いたが、[[海底]]に住む阿度部の磯良だけは、[[顔]]に[[アワビ]]や[[カキ (貝)|カキ]]がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで[[住吉三神|住吉神]]は海中に舞台を構えて『'''磯良が好む舞を奏して誘い出すと'''』、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠([[日本神話]]の[[山幸彦と海幸彦|海幸山幸神話]]にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。
 
* 海人族安雲氏の本拠である[[福岡県]]の[[志賀海神社]]の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。[[北九州市]]の[[関門海峡]]に面する[[和布刈神社]]は、三韓出兵からの帰途、磯良の[[和魂・荒魂|奇魂・幸魂]]を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。
 
 
== 歌唱・演奏した著名人 ==
 
「君が代」は現在に至るまで幅広い著名人によって歌唱されており、原曲のイメージを大切にする者や、[[忌野清志郎]]のように大胆なアレンジを施す者もいる。
 
 
<!--あ行-->
 
* [[秋川雅史]] – 五輪代表選で何度か歌唱<ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20070819-243734.html 秋川雅史がU22ベトナム戦で君が代独唱]</ref>。
 
* [[絢香]] - 2016年3月25日の[[プロ野球]] [[読売ジャイアンツ]]対[[東京ヤクルトスワローズ]]開幕戦で歌唱<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000125576 絢香、巨人対ヤクルト開幕戦で「君が代」独唱] barks</ref>。
 
* [[忌野清志郎]] Little Screaming Revue – 1999年のアルバム『[[冬の十字架]]』に収録。パンクロック調にアレンジされた。本来は[[ポリドール]]からのリリース予定であったが、この曲のアレンジに関して忌野とポリドール上層部が衝突。自主レーベルSWIM RECORDSからのリリースとなった<ref>[http://www.kiyoshiro.co.jp/release/index.html 地味変|RELEASE|ALBUM]</ref>。
 
* [[宇宿允人]](指揮)、フロイデフィルハーモニー(演奏) - 2004年8月録音。2007年発売のCD『宇宿允人の世界23』に[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番ニ短調op.125「合唱付き」]]とともに収録<ref>[http://artist.cdjournal.com/d/masato-usuki-in-concert-23---beetoven-symphonie-/4107081652 宇宿允人の世界23~ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱つき」他 宇宿允人 / フロイデフィルハーモニー]、CDジャーナル。 - 2017年2月6日閲覧。</ref>。ムック本『別冊正論24 再認識「終戦」』付録CDにも収録されている<ref>[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20150725/enn1507251511010-n1.htm 世界で最も美しい宇宿允人の「君が代」オーケストラ演奏]、ZAKZAK、2015年7月25日。</ref>。
 
* [[枝野幸男]] - 毎年、さいたま市空手道選手権市民大会で国歌斉唱を行う<ref>[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2018/02/05/kiji/20180204s00042000287000c.html 立民・枝野代表、国歌斉唱 さいたま空手大会「君が代が一番」]、スポニチ Sponichi Annex、2018年2月5日 05:30。</ref>。
 
* オーロラ輝子([[河合美智子]]) - 1998年4月、プロ野球開幕戦で披露<ref name=zakzak990723 />
 
<!--か行-->
 
* [[カルメン・マキ|カルメン・マキ&OZ]] - 1977年にライブで披露し、そのときの音源が1978年発売のアルバム『ライヴ』に収録されている。
 
* [[郷ひろみ]] - 1994年7月、[[1994年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|プロ野球オールスター戦]]で披露<ref name=zakzak990723 />
 
<!--さ行-->
 
* [[さだまさし]] – 自らが応援している[[東京ヤクルトスワローズ]]が参加する試合の開幕戦で国歌独唱を行うことが多い<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/460384/ さだまさしがヤクルトCSで国歌独唱 始球式はMay J.] 東スポWeb</ref>。
 
* [[サザンオールスターズ]] – 1か月前に[[国旗及び国歌に関する法律]]が施行されたこともあってか[[1999年]]9月26・27日に新宿[[LIQUIDROOM]](現:[[新宿FACE]])で行われた[[シークレットライブ'99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町|シークレットライブ]]のアンコールで歌唱<ref>[https://www.sas-fan.net/mob/titl/titlShw.php?site=SAS&ima=5703&cd=VIVL-248 シークレットライブ '99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町]sas-fan.net</ref>。なお、のちに[[桑田佳祐]]個人でもラジオ番組「[[桑田佳祐のやさしい夜遊び]]」([[TOKYO FM]])2010年5月29日放送分の生歌のコーナーで独唱したり<ref>[http://www.tfm.co.jp/yoasobi/history_index.php?yd=201005 桑田佳祐のやさしい夜遊び 2010年5月] [[TOKYO FM]]</ref>、[[ひつじだよ! 全員集合!#紫綬褒章受章|2014年11月14日に自身が紫綬褒章を受章した際の伝達式]]で、他の受章者と共に歌唱する姿が報道されたこともある<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=nrRl6rHzJ74 サザン桑田さん、女優高畑さんら、秋の褒章受け取る(14/11/14)]youtube</ref>。
 
* [[THE ALFEE]]、[[和田アキ子]]、[[天童よしみ]] - 1999年3月、プロ野球開幕戦で披露<ref name=zakzak990723 />
 
* [[茂森あゆみ]] - 1999年9月27日、[[1999年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|プロ野球オールスター第3戦]]で独唱<ref name=zakzak990723 />。
 
* [[SMAP]] – 1995年7月、[[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|プロ野球オールスター戦]]で披露<ref name=zakzak990723 />。[[2014年]][[3月28日]]に東京ドームで開幕したプロ野球・巨人‐阪神戦の試合前セレモニーで斉唱。なお、メンバーの[[中居正広]]が2000年3月31日の巨人開幕戦で国歌独唱を経験している<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/03/28/0006817137.shtml 中居、国歌斉唱「ボリューム落とした」]</ref>。
 
<!--た行-->
 
* [[デーモン閣下]] – アルバム『[[うただま]]』に収録。
 
* [[東儀秀樹]] - 1997年発売のアルバム『幻奏譜』に収録。
 
* [[Toshl|TOSHI]]、[[一路真輝]] - 1996年3月、プロ野球開幕戦で披露<ref name=zakzak990723 />
 
<!--な行-->
 
* [[中島啓江]] - 1994年4月、プロ野球開幕戦で披露<ref name=zakzak990723 />
 
* [[中西圭三]]、中島啓江、[[柳ジョージ]] - 1997年10月〜11月、[[1998 FIFAワールドカップ・アジア予選|サッカーW杯アジア最終予選]]で披露<ref name=zakzak990723 />
 
* [[錦織健]] - 1995年3月、プロ野球開幕戦で披露<ref name=zakzak990723 />
 
<!--は行-->
 
* [[八十八ヶ所巡礼]] - アルバム『八+八』収録「日本」の冒頭でアレンジして使っている。
 
* [[日野皓正]] - 1998年3月、[[長野パラリンピック]]開会式で独奏<ref name=zakzak990723 /><ref>[http://www.shinmai.co.jp/feature/olympic/para/19980306/98030608.htm パラリンピック開会式の主な内容]、[[信濃毎日新聞]]、1998年3月6日。</ref>
 
* [[平井堅]] – [[MTVアンプラグド]]に出演した際に独唱し、この模様はDVD『MTV UNPLUGGED Ken Hirai』(DFBL-7059)に収録された。
 
* 太志( [[Aqua Timez]] ) - [[2011年]][[8月10日]]の[[サッカー]]・[[キリンチャレンジカップ]]日本―韓国戦にて国歌の独唱を務めたが、その歌唱がネット上で賛否両論となった。
 
* [[布袋寅泰]] - [[2013年]][[8月4日]]に[[横浜国際総合競技場]](日産スタジアム)で開催された[[ももいろクローバーZ]]のライブ「[[ももクロ夏のバカ騒ぎ WORLD SUMMER DIVE 2013.8.4 日産スタジアム大会]]」のオープニングに出演し、エレキギターで演奏した<ref>[http://natalie.mu/music/news/96481 ももクロ6万人日産スタジアムライブに布袋、猫、武井壮] 音楽ナタリー</ref>。
 
<!--ま行-->
 
* [[前田亘輝]] - 1993年5月、[[Jリーグ]]開幕戦で披露<ref name=zakzak990723 />
 
* [[松田聖子]] - 2004年7月11日、長野オリンピックスタジアムでのサンヨーオールスターゲーム第2戦の試合開始前に独唱<ref>[http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_07/g2004070702.html 聖子「君が代」を歌う…球宴第2戦]、ZAKZAK、2004年7月7日。</ref>。
 
* [[松本孝弘]] - [[1999年]][[10月31日]]、[[鈴鹿サーキット]]で開催された「[[フォーミュラ1|F1]][[1999年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]」決勝戦でエレキギターによる演奏を行った。
 
* [[MALTA]] - 1993年10月、[[1993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で披露<ref name=zakzak990723 />
 
* [[森進一]]、[[ブラザー・コーン]] - 1998年3月、Jリーグ開幕戦で披露<ref name=zakzak990723 />
 
<!--や行-->
 
* [[矢野顕子]] - 1976年にライブで披露し、そのときの音源が同年発売のアルバム『[[長月 神無月]]』に収録されている。
 
* [[山寺宏一]] – [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が参加する試合で何度か独唱している<ref>[http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/6790.html 9/10(土)国歌斉唱を務めた山寺宏一さんからメッセージ]</ref>。
 
<!--わ行-->
 
* [[和田アキ子]] – [[読売ジャイアンツ]]が参加する試合の開幕戦で歌唱することが多い<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1452866.html 巨人開幕戦で和田アキ子が君が代独唱「感無量です」]</ref>。
 
* [[渡辺美里]]、[[松山千春]] - 1998年10月、[[1998年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で披露<ref name=zakzak990723 />
 
 
== 関連する楽曲 ==
 
* [http://www.youtube.com/watch?v=0Sf1Ja2Bjv4 君が代]
 
* [[君が代行進曲]]
 
* 唱歌版君が代
 
* 箏曲・君が代変奏曲([[宮城道雄]]作曲)
 
* [[ビューグル|信号ラッパ]]譜・君が代([[戦前]]の陸軍・海軍のバージョン違いの2種類に、戦後制定のものの3種類存在する)
 
* 皇子さま([[久保田宵二]]作詞、[[佐々木すぐる]]作曲) - [[明仁|今上天皇]]が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。
 
* [http://www.youtube.com/watch?v=UwodtldRCuQ 君が代]([[忌野清志郎]])
 
* 「君が代」の主題によるパラフレーズ 作品96([[アレクサンドル・グラズノフ]])
 
* 『[[日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)|日本行進曲]]』 - 改訂版「君が代」の18年前に[[ヨーゼフ・シュトラウス]]が作曲した。第2主題が登場する。
 
 
== 参考音源 ==
 
{{Commons|Kimi ga yo}}
 
{{Multi-listen start}}
 
{{Multi-listen item|filename=Kimi ga Yo 1930.ogg|title=君が代:演奏(前半)と歌唱(後半)。 |description= 「君が代」(キングレコード、K1-A。1930年) |format=[[OGG]] }}
 
{{Multi-listen item|filename=Kimi ga Yo instrumental.ogg|title=君が代:演奏のみ。 |description=[[アメリカ海軍]]軍楽隊による。 |format=[[OGG]] }}
 
{{Multi-listen end}}
 
; {{Audio|Kimigayo70.mid}}
 
: 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。
 
; {{Audio|Kimigayo60.mid}}
 
: 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。
 
; {{Audio|Kimigayo50.mid}}
 
: 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=注}}
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=[[小田切信夫]]|year=1965|title=国歌君が代の研究|publisher=平凡社}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[川口和也]]|year=2005|title=「君が代」の履歴書|publisher=批評社|isbn=4-8265-0425-X}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[小山作之助]]|year=1941|title=国歌君が代の由来|publisher=小山真津|id=urn:nbn:jp-46036320}}(非売品)
 
* {{Cite book|和書|author=[[和田真二郎]]|year=1998|title=君が代と萬歳|publisher=ミュージアム図書|isbn=4-944113-27-7}} - 光風館書店([[1934年]](昭和9年)刊)の復刊。
 
* 『君が代のすべて』キングレコード、 2000年
 
* {{cite|和書
 
|url=http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/10124/1/25-6_n.pdf
 
|title=わが国の国旗・国歌の歴史的意義とその法的位置づけ
 
|author=大西斎
 
|format=PDF
 
|journal=国際公共政策研究
 
|volume=14
 
|number=1
 
|pages=77- 90
 
|date=2009-09
 
|publisher=[[大阪大学]]
 
|naid=40016868513
 
|ref={{SfnRef|大西|2009}}
 
}}
 
* {{cite|和書
 
|url=http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2709/1/al-no68p139-169.pdf
 
|title=国旗・国歌法の成立過程の検討――憲法学の立場から――
 
|author=小野善康
 
|format=PDF
 
|journal=アルテス リベラレス (岩手大学人文社会科学部紀要)
 
|volume=68
 
|pages=139- 169
 
|date=2001-06
 
|publisher=[[岩手大学]]
 
|ref={{SfnRef|小野|2001}}
 
}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[森井啓二]]|year=2015|title=君が代|publisher=ヒカルランド}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[妙香寺 (横浜市)]]
 
* [[海行かば]] - [[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])時に良く歌われた[[国民歌]]。
 
* [[君が代行進曲]] - 君が代をマーチに編曲した行進曲
 
* [[まるや君が代]] - 新潟県の麺類のブランド
 
* [[万世一系]]
 
下記の放送局では、放送開始・終了時の[[局名告知]]として君が代と[[日章旗|日の丸]]を使用している。
 
* [[日本放送協会]](NHK) - 放送開始・終了時の局名告知のBGMとして君が代を使用している。
 
* [[テレビ大分]](TOS、[[日本テレビ系列]]・[[フジテレビ系列]]の[[クロスネット局]]) - 開局時から1990年代中盤まで局名告知のBGMとして使用していた。
 
* [[テレビ熊本]](TKU・フジテレビ系列) - 開局時から1980年代始めまで局名告知のBGMとして使用していた。
 
* [[ニッポン放送]] (JOLF) - 1954年(昭和29年)7月15日の開局時より放送開始時の局名告知のBGMとして使用している。
 
 
== 外部リンク ==
 
<!-- * [http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906.htm 文部科学省 報道発表 学校における国旗及び国歌に関する指導について]
 
サイトマップへ転送される為コメントアウト -->
 
* [http://myokohji.jp/index.shtml 君が代寺・日本吹奏楽発祥の地 本牧山 妙香寺]
 
 
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{{日本関連の項目}}
 
  
 
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2019/4/27/ (土) 11:10時点における版

君が代(きみがよ)

言葉としての意味は,天皇の治世であり,和歌史上においては,祝福を受ける人の寿命をさすが,さらに事実上の国歌として歌われた明治期以後の歌曲「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」をさす。この歌詞は,『古今和歌集』にそのもととなる「わが君は…」の初句の和歌があり,以下『新撰和歌集』『和漢朗詠集』などにも収められるが,「君が代は…」と初句を改めたものは,「隆達節」伝存本の巻頭に掲げられたものが初見と思われる。ただし,「君が代は…」の詞章で,寺院芸能である延年のなかの歌謡をはじめ,古くから祝賀の歌として酒席などで朗詠されており,和歌を朗唱する「歌抜講」の代表的詞章としても用いられたほか,謡曲,歌舞伎などを通じ庶民層にまでこの歌詞は広く普及した。明治2 (1869) 年,薩摩藩は「天皇に対し奉る礼式曲」を作成するため,同藩士大山巌らが琵琶曲『蓬莱山』のなかにある「君が代…」の歌詞を選定してイギリス人軍楽隊教師 J.W.フェントンに作曲を依頼し,翌年,陸軍観兵式に吹奏されたが,曲調に威厳を欠くと批判されて,1876年には廃止された。別に文部省でも小学校用唱歌に使用する目的で同歌詞の別曲を作成したがこれも普及しなかった。同年に海軍省軍楽隊長中村佑庸の提唱に基づいて宮内省は楽譜改訂のためドイツ人 F.エッケルトを交えた4人の楽譜審査委員を設け,奥好義の作曲したものに手を加えて,宮内省伶人長林広守の名による雅楽旋律の楽譜を選定し,80年の天長節において初めて演奏された。 88年に政府は各条約国に対し,この楽譜をもとにして祝祭日に吹奏された楽譜を「大日本礼式」として送付,93年には文部省が学校儀式用唱歌として告示した。昭和に入って国家主義が高揚されるとともに,事実上の国歌として扱われるようになった。第2次世界大戦後しばらくの間,『君が代』はこのような地位を失っていたが,1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されてからは,国家的礼式の場合に用いられるようになった。さらに,99年8月に「国旗・国歌法」が成立したことにより『君が代』が正式な国歌と規定された。



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