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|独自研究=2013年1月
 
|出典の明記=2015年4月
 
|参照方法=2013年1月
 
}}
 
[[ファイル:SiegeofAntioch.jpeg|thumb|right|第1回十字軍による[[アンティオキア攻囲戦]]]]
 
'''十字軍'''(じゅうじぐん、{{lang-la|cruciata}}、{{lang-en|crusade}})とは、[[中世]]に[[西ヨーロッパ]]の[[キリスト教]]、主に[[カトリック教会]]の諸国が、聖地[[エルサレム]]を[[イスラム教]]諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。
 
  
一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍([[アルビジョア十字軍]])などにも十字軍の名称は使われている。
+
'''十字軍'''(じゅうじぐん、{{lang-la|cruciata}}、{{lang-en|crusade}}
 
 
実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会([[正教会]]・[[東方諸教会]])の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、[[第4回十字軍]]や[[北方十字軍]]などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。
 
 
 
== 概略 ==
 
=== 十字軍遠征までの経緯 ===
 
[[ファイル:Carte croisade.png|thumb|right|'''十字軍の遠征路''' 8回のうち、第3回、第4回、第7回、第8回は主な遠征路が海路となっている。なお、第5回と第6回は図上に示されていない。]]
 
トルコ人の[[イスラム王朝]]である[[セルジューク朝]]に[[アナトリア半島]]を占領された[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]][[アレクシオス1世コムネノス]](在位[[1081年]]-[[1118年]])が、[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]に救援を依頼したことが発端([[1095年]])。このとき、大義名分として異教徒[[イスラム教国]]からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。皇帝アレクシオスが要請したのは[[東ローマ帝国]]への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。
 
 
 
ウルバヌス2世は[[1095年]]11月にクレルモンで行われた教会会議([[クレルモン公会議]]とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた<ref>[[#山内 1997|山内 1997]], pp. 64-65.</ref>。
 
 
 
なお、本稿では十字軍の回数を8回とする。解釈によってその回数には差異がある。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通であるが、たとえば第5回(1218年-)を数えない説があったり、第6回(1228年-)は破門皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ十字軍)として数えない例もあった。1270年の聖王ルイの出征まで8回(または7回)とすることが多いが、異論もある。
 
 
 
なお、回数で名付けられている主要な十字軍の他、個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模な十字軍も多く存在した。また、[[巡礼]]で聖地に到着した[[騎士]]や兵士が現地でイスラム勢力との戦闘に参加するのも、聖地にそのまま住みついた騎士らや聖地で生まれ育った遠征軍の末裔らが作る[[十字軍国家]]が継続的にイスラム諸国と戦うのも、十字軍である。その他、第1回十字軍時の[[民衆十字軍|庶民十字軍]][[少年十字軍]]、[[羊飼い十字軍]]などの大小の民衆十字軍が起こっている(大部分は聖地にたどり着けていない)。
 
 
 
=== 民衆十字軍 ===
 
{{Main|民衆十字軍}}
 
* [[1096年]]
 
[[ファイル:Peter the Hermit.jpg|thumb|隠者ピエールに率いられた民衆十字軍]]
 
クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めたが、十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、[[1096年]]、彼らの出発する数ヶ月前に、フランスで[[説教師 (キリスト教)|説教師]]のアミアンの[[隠者ピエール]]に率いられた民衆や下級騎士の軍勢4万人がエルサレムを目指して出発した。これが[[民衆十字軍]]と呼ばれるものである。民衆十字軍は東上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、[[ハンガリー王国]]や[[ビザンツ帝国]]内で衝突を繰り返しながら[[小アジア]]に上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍は[[ルーム・セルジューク朝]]の[[クルチ・アルスラーン1世]]によって蹴散らされ、多くのものは殺されるか奴隷となり、なんら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。しかしピエールらごく一部は生き延び、第1回十字軍へと再び参加した。
 
 
 
=== 第1回十字軍 ===
 
 
[[ファイル:1099 Siege of Jerusalem.jpg|thumb|200px|left|エルサレム攻囲戦]]
 
[[ファイル:1099 Siege of Jerusalem.jpg|thumb|200px|left|エルサレム攻囲戦]]
{{Main|第1回十字軍}}
+
[[ファイル:Saladin the Victorious.jpg|thumb|イスラム諸国の英雄サラディン]]
* [[1096年]] - [[1099年]]
 
[[セルジューク朝]]の圧迫に苦しんだ[[東ローマ帝国]]皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]の依頼により、[[1095年]]にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは1096年にエルサレム遠征の軍を起こした。同年12月には各地から出発した諸侯はコンスタンティノープルに集結したものの、民衆十字軍の醜態を見ていた東ローマ皇帝は彼らに信をおかず、十字軍に臣下の誓いと旧帝国領の返還、聖地周辺の征服時には新国家を東ローマの宗主権下に置くことを求めた。これを飲んだ十字軍は[[ニカイア攻囲戦]]や[[ドリュラエウムの戦い]]などでイスラム軍を撃破し、[[アナトリア]]からシリアへと進軍していった。
 
 
 
途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略しつつ[[エルサレム]]を目指した。この過程で十字軍による掠奪、虐殺、強姦があったとされる。イスラム教徒の諸領主は十字軍に対し無為無策であり、連合して応戦することもできず潰滅した。一方、十字軍側も分派や内部対立が目立ち始めた。
 
 
 
1098年には[[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ブルゴーニュ伯ボードゥアン]]が東方のユーフラテス川上流部のエデッサに分派して進軍し、エデッサ伯国を立てた。本隊は1097年から1098年にかけてシリア北部の大都市アンティオキアで[[アンティオキア攻囲戦]]を戦い勝利したが、主要な将軍の一人であるボエモンがここにとどまって領主となる姿勢を見せ、[[ボエモン1世 (アンティオキア公)]]となった。残る本隊は[[レーモン4世 (トゥールーズ伯)|レーモン・サン・ジル]]と[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]らに率いられてなおも南下し、[[1099年]]、軍勢はついに[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレムの征服]]に成功した。エルサレムにおいて十字軍は城内のイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺と略奪を行った。その後、ゴドフロワ・ド・ブイヨンがエルサレムの王となり、レーモンは海岸部のトリポリの伯となった。
 
 
 
この十字軍の結果、シリアからパレスチナにかけての中東地域に[[エルサレム王国]]、[[エデッサ伯国]]、[[トリポリ伯国]]、[[アンティオキア公国]]の主要4国をはじめとするいくつかの[[十字軍国家]]がつくられた。
 
 
 
==== 1101年の十字軍 ====
 
{{Main|1101年の十字軍}}
 
この成功に刺激され、[[1101年]]にも大規模な聖地遠征が行われた。この集団は各国から集まった庶民、第一回に従軍した領主や兵士が含まれていた。数団体に分かれて[[コンスタンティノープル]]を経由して陸路から小アジアに侵入したが、イスラム国家の連合軍の攻撃により壊滅し逃走、多くが死亡するか奴隷とされ、カイロを迂回するなどして聖地にたどり着けたのは少数だった。
 
 
 
==== ノルウェー十字軍 ====
 
{{Main|ノルウェー十字軍}}
 
1107年の秋から1110年にかけて、ノルウェー王シグル1世は直々に60隻の船とおおよそ5000人の兵を率いて聖地に向かった。シグル1世は聖地に十字軍として向かった最初の欧州の王である。各地の統治者の助力を得ながら、英国から[[ジブラルタル]]、地中海そして聖地へと航海をし各地でイスラム勢力と交戦・略奪を繰り返しつつ、1110年に聖地に達した。このノルウェー十字軍は以前のヴァイキングの行動に類似しているが、キリスト教的目的もある程度達成している。その後一行はコンスタンティノープルから陸路で欧州を縦断し、行路のブルガリア、[[神聖ローマ帝国]]、デンマークなどの助力を得つつ、1113年にノルウェーに帰還した。
 
 
 
=== 第2回十字軍  ===
 
{{Main|第2回十字軍}}
 
[[ファイル:Europe 1142.jpg|thumb|right|1142年のヨーロッパの状勢]]
 
*[[1147年]] - [[1148年]]
 
しばらくの間、中東において十字軍国家などキリスト教徒と、群小の都市からなるイスラム教徒が共存する状態が続いていたが、イスラム教徒が盛り返し、[[1144年]]に[[ザンギー]]が[[エデッサ伯国]]を占領したことでヨーロッパで危機感が募り、教皇[[エウゲニウス3世_(ローマ教皇)|エウゲニウス3世]]が呼びかけて結成された。当時の名説教家[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]が教皇の頼みで各地で勧誘を行い<ref>[[#山内 1997|山内 1997]], pp. 69-71.</ref>、フランス王[[ルイ7世_(フランス王)|ルイ7世]]と[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]の2人を指導者に、多くの従軍者が集まったが全体として統制がとれず、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗北した。辛くもパレスチナに到着した軍勢も、当時十字軍国家と友好関係にあった[[ダマスカス]]を攻撃したが失敗し、フランス王らは撤退した。
 
 
 
=== 第3回十字軍 ===
 
{{Main|第3回十字軍}}
 
[[ファイル:Saladin the Victorious.jpg|thumb|right|イスラム諸国の英雄サラディン]]
 
* [[1189年]] - [[1192年]]
 
[[1187年]]に[[アイユーブ朝]]は[[ジハード]](聖戦)を宣言。[[アイユーブ朝]]の始祖であり[[イスラム]]の英雄である[[サラーフッディーン]](サラディン)は同年7月の[[ヒッティーンの戦い]]で現地十字軍国家の主力部隊を壊滅させ、10月にはおよそ90年ぶりに[[エルサレム]]がイスラム側に占領、奪還された。その後もサラディンの軍は快進撃を続け、同年中には[[アンティオキア]]、[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]、[[トゥルトーザ|トルトザ]]、[[ティルス]]の4市と[[クラック・デ・シュヴァリエ]]など若干の要塞を除く十字軍国家のすべてがアイユーブ朝の手に落ちた。
 
 
 
この状況を受け、[[教皇]][[グレゴリウス8世_(ローマ教皇)|グレゴリウス8世]]は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、[[イングランド]]の獅子心王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]、[[フィリップ2世 (フランス王)|フランス王フィリップ2世]]、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]が参加した。フリードリヒ1世は[[1190年]]に[[キリキア]]で川を渡ろうとしたところ、落馬し、鎧のために溺死した。あとを継いだイングランドと[[フランス]]の十字軍が[[1191年]]に[[アッコ|アッコン]]を奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世がサラーフッディーンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった(アッコンを確保したことでエルサレム巡礼の自由は保障された)。しかしエルサレム陥落とヒッティーンの戦いの後遺症は大きく、以後十字軍国家は守勢に回ることとなった。
 
 
 
=== 第4回十字軍 ===
 
{{Main|第4回十字軍}}
 
[[ファイル:Eugène Ferdinand Victor Delacroix 012.jpg|right|thumb|十字軍の[[コンスタンティノープル]]への入城([[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[1840年]]作)]]
 
* [[1202年]] - [[1204年]]
 
ローマ教皇[[インノケンティウス3世_(ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地[[エジプト]]攻略を目ざす。しかし渡航費にも事欠くありさまで、十字軍の輸送を請け負った[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の意向を受けて輸送料の不足分支払のため[[ハンガリー王国|ハンガリー]]のザラ(現[[クロアチア]]の[[ザダル]])を攻略、同じキリスト教(カトリック)国を攻撃したことで教皇から破門される。ついで[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノポリス]]を征服、この際十字軍側による[[コンスタンティノポリス]]市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯[[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン]]が皇帝になり[[ラテン帝国]]を建国。やむなく教皇は追認し、さらにエルサレムを目指し遠征するよう要請するが実施されなかった。東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した<ref>[[#井上 2008|井上 2008]], p. 229.</ref>(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。なお、このコンスタンティノポリスの攻防を巡っては[[ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン ]](十字軍側)と[[ニケタス・コニアテス]](東ローマ側)という2人の優れた[[歴史家]]が記録を遺していることでも知られている。
 
 
 
=== 第5回十字軍 ===
 
{{Main|第5回十字軍}}
 
* [[1218年]] - [[1221年]]
 
[[ファイル:Andrew II on Holy Land.jpg|thumb|200px|right|第5回十字軍のアンドラーシュ2世]]
 
[[ファイル:João I de Brienne 1.jpg|thumb|200px|left|エルサレム国王[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]]]
 
教皇ホノリウス3世の呼びかけに応じたハンガリー王[[アンドラーシュ2世]]、[[オーストリア公]][[レオポルト6世 (オーストリア公)|レオポルト6世]]らがエルサレム王国の国王[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]らとアッコンで合流し、アンドラーシュ2世は帰国したものの、レオポルトやジャンらは[[イスラム]]の本拠であるエジプトの攻略を目指した。1218年にエジプトの海港ダミエッタを包囲し、1219年に攻略。ここでアイユーブ朝側は旧エルサレム王国領の返還を申し出たのだが、あくまでも戦闘を続けエジプトの首都[[カイロ]]を落とそうとする枢機卿ペラギウスとレオポルトやジャンが対立し、レオポルトやジャンは帰国。[[1221年]]には神聖ローマ皇帝の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]からの援軍を受け攻勢に出たが、エジプト軍を打ち破ることができず大敗し、ペラギウスら残る全軍が捕虜となって十字軍は失敗に終わった<ref>[[#堀越 2006|堀越 2006]], pp. 344-345.</ref>。
 
 
 
=== 第6回十字軍 ===
 
{{Main|第6回十字軍}}
 
* [[1228年]] - [[1229年]]
 
[[ファイル:Fridrich2 Al-Kamil.jpg|thumb|200px|フリードリヒ2世とアル=カーミルの交渉<br />フリードリヒ2世:左から2番目の人物<br />アル=カーミル:中央の人物]]
 
[[グレゴリウス9世_(ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は、十字軍実施を条件に戴冠した[[神聖ローマ帝国]]の皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]に対して度々遠征を催促していたが、実施されないためフリードリヒを破門した。1228年になって、破門されたままフリードリヒは遠征を開始。故に「'''破門十字軍'''」「'''フリードリヒ十字軍'''」とも呼ばれる。当時エジプト・[[アイユーブ朝]]のスルタン[[アル=カーミル]]は内乱に悩まされており、フリードリヒの巧みな外交術もあって、戦闘を交えることなく1229年2月11日に平和条約(ヤッファ条約)を締結。フリードリヒは、[[聖墳墓教会]]はキリスト教徒に返されるがウマルのモスクとアル・アクサ寺院はイスラムが保持するとの条件でエルサレムの統治権を手に入れた。教皇グレゴリウス9世は、カトリック教会を破門されたままであった皇帝フリードリヒ2世がエルサレムの王となったことを口実に、'''フリードリヒに対する十字軍'''を実施したが皇帝軍に撃退され、1230年にフリードリヒの破門を解いた。
 
 
 
1239年から1240年に、フランスの諸侯らが遠征したが、第6回十字軍と同じく戦闘は行わないまま、アイユーブ朝との交渉によってガリレア地方と[[アシュケロン|アスカロン]]を獲得し、帰還した<ref>[[#橋口 1994|橋口 1994]], p. 233.</ref>。
 
 
 
=== 第7回十字軍 ===
 
{{Main|第7回十字軍}}
 
* [[1248年]] - [[1249年]]
 
アル=カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。これを受け、1248年に[[フランス]]の[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]](聖王ルイ)が十字軍を起こす。ルイも第5回や第6回と同じくイスラム教国中最大の国家であるエジプトへと遠征し海港[[ダミエッタ]]を占領するが、さらに南の首都[[カイロ]]を目指す途中の1250年2月に[[マンスーラの戦い (1250年)|マンスーラの戦い]]において[[アイユーブ朝]]の[[サーリフ|サーリフ(サラディン2世)]]に敗北して捕虜になった。交渉途中にサーリフは死亡し、サーリフの遺児の政権は軍人集団の[[マムルーク]]の[[クーデター]]によって打倒され、新たに成立した[[マムルーク朝]]にルイは莫大な賠償金を払って釈放された。
 
 
 
=== 第8回十字軍 ===
 
{{Main|第8回十字軍}}
 
* [[1270年]]
 
[[フランス]]の[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]が再度出兵。当時[[ハフス朝]]の支配下にあった北アフリカの[[チュニス]]を目指すが、途上で死去。
 
 
 
=== 第9回十字軍 ===
 
[[ファイル:SiegeOfAcre1291.jpg|200px|thumb|1291年のアッコン包囲戦を描いた油絵。城壁上で斧を振り上げる赤い外衣が[[聖ヨハネ騎士団|聖ヨハネ騎士団員]]。その横で槍を振るう白い外衣が[[テンプル騎士団|テンプル騎士団員]]である。1845年、ドミニク・ルイ・パプティ作。<ref>{{Cite book |和書 |title=名画で読み解く「世界史」 |others=祝田秀全(監修) |year=2013 |publisher=[[世界文化社]] |isbn=978-4-418-13225-6 |page=52}}</ref> ]]
 
 
 
* [[1271年]] - [[1272年]]
 
第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合がある。マムルーク朝の第5代スルタンとなったバイバルスの元でイスラム側は攻勢を強め、[[1268年]]にはアンティオキアを陥落させて[[アンティオキア公国]]を完全に滅亡させた。このときバイバルスがアンティオキア住民のすべてを殺害、または奴隷にし、都市を完全に破壊した。これがキリスト教圏を刺激し、1271年にイングランド王太子エドワード([[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]])とルイ9世の弟[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]がアッコンに向かったが、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退した。以後、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、[[1289年]]には[[トリポリ伯国]]が滅亡し、[[1291年]]にはエルサレム王国の首都アッコンが陥落して残余の都市も掃討され、ここに十字軍国家は全滅した。
 
 
 
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年、および1229年から1244年ということになる(以後、20世紀までイスラムの支配下に置かれる)。
 
 
 
== その他の十字軍 ==
 
一般的に十字軍といえば上記のエルサレムやイスラム諸国を目指した十字軍をさすが、十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称であるため、上記のほかにもさまざまな十字軍が行われた。これらの十字軍を大別すると、
 
* 旧キリスト教圏の回復・奪回
 
* 異端への討伐軍
 
* 教皇に敵対する勢力への軍事行動
 
* 異教徒への布教・征服
 
の4つに分けられる。上記のエルサレム十字軍や[[レコンキスタ]]などはキリスト教圏の回復、アルビジョア十字軍は異端討伐、北方十字軍は異教徒への布教征服に該当する。
 
 
 
=== レコンキスタ ===
 
{{Main|レコンキスタ}}
 
[[イベリア半島]]においては、キリスト教国だった[[西ゴート王国]]が[[711年]]に[[ウマイヤ朝]]に敗れて滅亡した後、北部のキリスト教勢力と中南部のイスラム勢力とが抗争を繰り返していた。[[1031年]]に[[後ウマイヤ朝]]が滅亡するとキリスト教勢力の南進がすすみ、このなかで[[1064年]]に教皇[[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]によってはじめて異教徒との戦いに贖宥が与えられ<ref>[[#堀越 2006|堀越 2006]], p. 240.</ref>、以後の十字軍にも取り入れられた。
 
 
 
パレスチナ十字軍の開始後も歴代教皇はたびたびイベリア半島に十字軍を宣し、中でも教皇インノケンティウス3世が[[1212年]]にイベリア半島の諸キリスト教国家の戦闘停止と[[ムワッヒド朝]]に対する一致団結を求めた十字軍は、同年の[[ナバス・デ・トロサの戦い|ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]]に勝利を収め、以後キリスト教勢力は急速に勢力を拡大して[[1251年]]までに[[グラナダ]]の[[ナスル朝]]を除くすべてのイベリア半島を手中に収めた。
 
 
 
=== 北方十字軍 ===
 
{{Main|北方十字軍}}
 
[[ファイル:Nevsky2.jpg|thumb|right|[[バルト海]]方面でも、異教徒や[[正教徒]]に対する[[北方十字軍]]が行われた。画像は1938年製の映画『[[アレクサンドル・ネフスキー (映画)|アレクサンドル・ネフスキー]]』において、[[プスコフ]]での[[チュートン騎士団]] (1240年)が再現されているもの。]]
 
[[バルト海]]沿岸には古来[[ヴェンド人]]や[[プルーセン|古プロイセン]]人、[[エストニア]]人、[[リトアニア]]人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、[[1147年]]にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ<ref>[[#山内 1997|山内 1997]], pp. 78-79.</ref>、[[ヴェンド十字軍]]が行われた。その約50年後、[[1193年]]に教皇[[クレメンス3世 (ローマ教皇)|クレメンス3世]]が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初は[[リヴォニア帯剣騎士団]]、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進した[[ドイツ騎士団]]によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の植民が進んだ。
 
 
 
=== アルビジョア十字軍 ===
 
{{Main|アルビジョア十字軍}}
 
* [[1209年]]-[[1229年]]
 
[[1209年]]、南フランスで盛んだった異端[[カタリ派]]を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。[[レスター伯]][[シモン・ド・モンフォール]]に率いられた十字軍は各地で殺戮を行い、これに反発した南フランス諸侯の反撃はあったものの、フランス国王[[ルイ8世 (フランス王)|ルイ8世]]の主導の下十字軍は南フランスを制圧し、[[1229年]]に終戦した。
 
 
 
=== 羊飼い十字軍 ===
 
* [[1251年]]と[[1320年]]-[[1321年]]との二度ある。1321年には3万人がスペインの[[トゥデラ]]を襲い、現地のユダヤ人を殺戮した。
 
 
 
== 十字軍の影響 ==
 
[[ファイル:Richard I of England - Palace of Westminster - 24042004.jpg|thumb|right|250px|[[ロンドン]]の[[ウェストミンスター宮殿]]にあるリチャード1世の像]]
 
* 十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけともなり、これ以降盛んになる東西の流通は、後の[[ルネサンス]]の時代を準備することにもなった。また近東地方の優れた城郭を実地に見た諸侯たちは各地でそれに倣って改良した城郭を建てた<ref>[[#パーシー 2001|パーシー 2001]], p. 78.</ref>。
 
* 11世紀以降盛んとなっていた地中海交易は、十字軍の輸送や補給、さらに西欧勢力がシリア・パレスチナといった地中海東岸の一角を抑えたことでより一層発展し、主な担い手であるヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国はこの時期に隆盛を迎えた。とくにヴェネツィアは第4回十字軍を利用してザラやコンスタンティノープルを抑え、最盛期を迎えている<ref>[[#石坂ら 1980|石坂ら 1980]], p. 23.</ref>
 
* 十字軍の資金調達の必要から教皇や君主が徴税制度を発達させ、西ヨーロッパの[[封建領主]]は、衰退した。
 
* 東ローマ帝国は、1261年に復活したものの第4回十字軍によって受けた打撃から立ち直れずに衰退し、[[1453年]]の滅亡に至った。
 
* 西欧においては、十字軍は西欧がはじめて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。
 
* 西洋では17世紀以降、戦争を伴わない宗教的な運動をも「十字軍」と呼ぶようになり、以来さらに使われる範囲が拡大し、英米では「正義の味方」と言う意味の単語としてcrusadeと言う語を用いる。
 
** 現在では大きな目標を掲げた単なるキャンペーンのようなものも、「ゴミに対する十字軍」「文盲に対する十字軍」などのように「十字軍」に例えられている。「[[草刈り十字軍]]」は有名。{{要出典範囲|date=2013年10月|もっとも、十字軍の歴史の見直しやイスラム教徒に対する配慮などから近年では社会運動の名称などに使用されることは少なくなっている。}}
 
** [[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ大規模テロ事件]]では、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が「this crusade, this war on terrorism(これは十字軍だ、これは[[テロリズム]]との戦争だ)」と発言し、イスラム教の反発を受け撤回した。しかし、ブッシュ政権による[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタン侵攻]]、[[イラク戦争|イラク侵攻]]を「[[第十次十字軍]]」と{{誰範囲|date=2013年10月|呼ぶ者}}もあった。
 
* 北欧においては、[[近代]]に[[スウェーデン]]が[[フランス革命]]や、[[ロシア帝国]]による[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]に対する[[弾圧]]に対して欧州諸国に十字軍を呼びかけている。フランス革命においては、「[[反革命十字軍]]」と言われている。しかし[[19世紀]]に入ると最早、{{独自研究範囲|date=2013年10月|十字軍の名の使用は時代遅れとなっていた。}}
 
* [[ロシア帝国]]皇帝[[アレクサンドル1世]]も、オスマン帝国に対する十字軍を構想している。
 
* ローマ教皇[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]は十字軍や[[異端審問]]などについて公式に「異端に対する敵意を持ち、暴力を用いた。これらカトリック教会の名誉を汚した行いについて謹んで許しを求める。」として謝罪した。さらに、[[2001年]]には十字軍による虐殺があったことを正式に謝罪した。これはカトリック教会にとって、十字軍の評価に対する大きな転換であった。
 
 
 
== 十字軍の実態 ==
 
十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国や[[アンティオキア公国]]などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である[[東ローマ帝国]]の首都[[コンスタンティノポリス]](現[[イスタンブール]])を攻め落として[[ラテン帝国]]を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国である[[ハンガリー]]まで攻撃し、教皇に破門宣告されている。
 
 
 
そして、イスラム教徒やユダヤ教徒など、異教の者へは[[虐殺]]をためらわず、[[マアッラ攻囲戦]]では双方の記録で、十字軍による[[カニバリズム|食人]]が記録されている。また[[ギリシャ正教]]など、他の宗派に属する者も冷遇した。
 
 
 
もともとはエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒や[[ローマ教皇庁]]から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としては[[アルビジョア十字軍]]などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。
 
 
 
また、十字軍は純粋に軍人だけで構成されていたわけではなかった。従者のほかにも巡礼者や女・子供、娼婦など雑多な人間が混じっていた。騎士は巡礼者らの保護に努めたが、戦闘時には足手まといになる場面が見られた。
 
 
 
十字軍とともにエルサレムをめざす民間の巡礼者(武装巡礼団等)の運動も活発化したが、その純粋な信仰心が報われることはほとんどなく、途中で命や財産を奪われる者が多かった。
 
 
 
ローマ教皇庁は[[1270年]]から十字軍についての意見調査を行っている。調査結果にはルイ9世の死は神の意思であるとするものや、不信心者は殺すのではなく改心させるべきとするものなど十字軍に否定的な意見が多数含まれていた。また、犯罪者が刑罰から逃れるために従軍していることから、一般人から十字軍参加者そのものが罪人とみなされていること、名誉を重んじる者が参加したがらないということも明らかにされた。十字軍が同じキリスト教徒に対しても行われたことは悪夢とみなされていた。これらの調査結果を受けて[[グレゴリウス10世_(ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]は聖地奪回のための新たな十字軍を計画しなかった<ref>[[#バッシュビッツ 1970|バッシュビッツ 1970]], pp. 71-72.<br /> 調査結果は Palmer A. Throop. 'Criticism of the Crusade'(『十字軍批判』), Amsterdam O. J.による</ref>。
 
 
 
== 軍制と文化 ==
 
[[ファイル:Krak des Chevaliers 01.jpg|thumb|right|[[クラック・デ・シュヴァリエ]]。聖ヨハネ騎士団によって建設され、当時の十字軍国家最大最強の要塞であった]]
 
平時において十字軍の成果を維持し続けていたのが十字軍国家である。現地において建国された4つの十字軍国家においては、彼らの軍事的根源地である西欧から遠く離れ、イスラム教徒に囲まれた最前線にあることから、強力な軍事力が常に求められた。これらの十字軍国家においては、当初は西欧と同じ[[封建制]]による貴族や騎士による軍事制度がしかれたが、第1回十字軍に参加した騎士の多くが帰国するなど当初から軍事力は不十分なものであった。これを補うために西欧からの移民が求められたが、1101年に出発したこの武装移民団は陸路移動の途中でイスラム勢力によって粉砕され、以後も大規模な移民団が来ることはほとんどなく、西欧人、ひいては軍事力の不足状態は続いた。もっとも、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていた。1120年代からは入植者の増加が始まり、1180年代には十字軍国家におけるヨーロッパ人の人口は10万人から12万人にまで膨れ上がり、ヨーロッパ系の入植新村も建設されるようになった。しかし、それでもヨーロッパ系は全人口の20%程度にとどまり、イスラム教徒と対抗する軍事力の基盤とするには不足であったことに違いはない<ref>[[#新人物往来社編 2011|新人物往来社編 2011]], pp. 42-45.</ref>。
 
 
 
これを補うために作り出されたのが[[騎士修道会]](騎士団)であり、[[1119年]]に創設された[[テンプル騎士団]]と[[1113年]]に認可された[[聖ヨハネ騎士団]]、そしてそれにやや遅れて1199年に公認された[[ドイツ騎士団]]の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、実質的な[[常備軍]]としてキリスト教諸国家の防衛に当たった。
 
 
 
この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていった。これに対し、西方からあらたに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあった[[ダマスカス]]を攻撃するなど現地の事情を理解せずに軍事行動を起こすことも多く<ref>[[#笈川 2010|笈川 2010]], p. 145.</ref>、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしている。
 
 
 
== イスラム側の認識 ==
 
「十字軍」はキリスト教側の呼称であり、イスラム教徒側は「[[フランク人|フランク]]」の侵攻と認識していた。
 
 
 
イスラム教徒の支配する中東は、中小の豪族が群雄割拠しており、互いに利害は一致しなかった。このことが、緒戦で数に劣る十字軍への敗退が相次いだ原因だった。
 
 
 
イスラム教徒の反撃の端緒とされる[[ザンギー]]や[[ヌールッディーン]]は大義名分として、イスラム教勢力の統一とキリスト教徒撃退を挙げるようになるが、主要な敵はなお他のイスラム地方政権だった。
 
 
 
イスラムの[[聖戦]]との認識が広まってきたのは、[[サラーフッディーン]]がイスラム勢力をほぼ統一し、[[エルサレム]]を陥落させる前後からで、[[第3回十字軍]]との戦いを通して確立されていったが、その後も、[[第6回十字軍]]の時のように、状況によってはキリスト教徒と妥協や共存することに抵抗を持っていなかった。
 
 
 
2017年現在でも十字軍は[[イスラーム過激派]]からは目の敵とされているという意見はある<ref>{{Cite web |url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/08/isis-144.php |title=ISISがバチカンを襲うのは時間の問題だ |publisher=[[ニューズウィーク]]日本語版 |date=2017-8-28 |accessdate=2017-9-20}}</ref>。
 
 
 
== その後 ==
 
[[1291年]]には最後の拠点[[アッコ|アッコン]]を失ってエルサレム王国も滅亡し、全ての[[パレスチナ]]はイスラム勢力下に入った。
 
 
 
ただし、その後も小規模な遠征の事例があり、十字軍の名が冠されているものの([[1308年]]のロドス十字軍、[[1344年]]のキプロス十字軍、[[1365年]]の[[サヴォイア十字軍|サヴォイ伯十字軍]]、[[1440年]][[ヴァルナの戦い|ヴァルナ十字軍]]など)、本来の十字軍とは区別されている。その後、[[1453年]]に[[オスマン帝国]]の台頭によって[[東ローマ帝国]]が滅ぼされると、ローマ教皇[[ピウス2世_(ローマ教皇)|ピウス2世]]は熱心に十字軍を提唱し([[1459年]]・[[1463年]])、応じる国は少なかったが、[[1464年]]には教皇自ら十字軍の出発地とされた[[アンコーナ]]に赴いている。この地で教皇が逝去したため、直ちに遠征は中止された。
 
 
 
[[1683年]]の[[第二次ウィーン包囲]]失敗によるオスマン帝国の敗走によってローマ教皇[[インノケンティウス11世 (ローマ教皇)|インノケンティウス11世]]はオーストリア、[[ポーランド王国|ポーランド]]、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]に[[神聖同盟 (1684年)|神聖同盟]]を持ちかけている(後に[[大トルコ戦争]]に発展)。これは十字軍の名で語られていないが、意図するものがあった可能性がある。
 
 
 
現在のエルサレムは、事実上の[[ユダヤ教]]国である[[イスラエル]]の支配下にある。[[1947年]]、[[国際連合]]によって東西に分割され、{{仮リンク|国際管理地域|en|International zone}}とされた。しかし、[[1948年]]、[[第一次中東戦争]]で、西エルサレムをイスラエルが、東エルサレムを[[ヨルダン]]が占領した。[[1967年]]、[[第三次中東戦争]]で、東エルサレムもイスラエルが占領した。2010年現在、西エルサレムはイスラエルが[[実効支配]]し、[[パレスチナ]]が領有を主張する東エルサレムの占領も続けている。イスラエルはエルサレムを[[首都]]としているが、[[アメリカ合衆国]]を除く国連の主要国はエルサレムを首都と認めていない(詳細は[[エルサレム|エルサレムの項目]]または[[首都エルサレム宣言]]参照)。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
  
== 参考文献 ==
+
11世紀から 15世紀中頃にかけて行なわれた,西ヨーロッパのキリスト教徒の東方遠征。[[エルサレム]][[聖墳墓]]をイスラム教徒の手から奪還,防衛することを名目とした。元の意は「[[十字架]]の印をつけたもの」。狭義には 11~13世紀に行なわれた遠征をさす。第1次(1096~99)は,セルジューク・トルコの侵入に悩むビザンチン皇帝からの義勇軍要請を契機に,ローマ教皇[[ウルバヌス2世]]が教皇の名による独自の遠征軍の結成を提唱,主としてフランスの諸侯・騎士の率いる 40万の軍団が十字架の旗印を立てて出発した。1099年エルサレムに到着した軍は強襲により聖墳墓を奪還し,[[エルサレム王国]]を建設した。トルコが再び勢いを増したため第2次(1147~49)としてドイツ王[[コンラート3世]],フランス王[[ルイ7世]]が参加したが敗退。続く第3次(1189~92),第4次(1202~04)では本来の目的である聖地奪還から逸脱し,地中海における政治上,経済上の利益の追求と擁護に転化した結果,ビザンチン帝国の首都[[コンスタンチノープル]]を占領,[[ラテン帝国]]を樹立した。第5次(1218~21),第6次(1227~45),第7次(1248~68),第8次(1268~91)の遠征も,結局はイスラム勢力の軍事的勝利に帰した。この後も小規模な遠征が行なわれ,特に 1453年のコンスタンチノープル陥落は十字軍精神を回復させたが,もはや真の意味の遠征は行なわれなかった。十字軍運動は,地中海貿易の発展,イタリア諸都市の繁栄を促すとともに,イスラム文化の西ヨーロッパへの流入にも力をかす結果となった。
* {{Cite book|和書|author=石坂昭雄 |author2=壽永欣三郎 |author3=諸田實 |author4=山下幸夫 |title=商業史 |publisher=[[有斐閣]] |series=有斐閣双書 入門・基礎知識編 |date=1980-11-20 |isbn=978-4-641-05617-6 |ref=石坂ら 1980 }}
 
* {{Cite book|和書|author=[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]] |title=生き残った帝国ビザンティン |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] 1866 |date=2008-03 |isbn=978-4-06-159866-9 |ref=井上 2008 }}
 
* {{Cite book|和書|author=笈川博一 |title=物語 エルサレムの歴史 - 旧約聖書以前からパレスチナ和平まで |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] 2067 |date=2010-07-25 |isbn=978-4-12-102067-3 |ref=笈川 2010 }}
 
* {{Cite book|和書|others=[[新人物往来社]]編 |title=十字軍全史 聖地をめぐるキリスト教とイスラームの戦い |publisher=新人物往来社 |series=ビジュアル選書 |date=2011-01 |isbn=978-4-404-03962-0 |ref=新人物往来社編 2011 }}
 
* {{Cite book|和書|last=パーシー |first=アーノルド |others=林武監訳、東玲子訳 |title=世界文明における技術の千年史 「生存の技術」との対話に向けて |publisher=[[新評論]] |date=2001-06 |isbn=978-4-7948-0522-5 |ref=パーシー 2001 }}
 
* {{Cite book|和書|author=[[橋口倫介]] |title=十字軍騎士団 |publisher=[[講談社]] |series=講談社学術文庫 1129 |date=1994-06 |isbn=978-4-06-159129-5 |ref=橋口 1994 }}
 
* {{Cite book|和書|last=バッシュビッツ |first=クルト |authorlink=:de:Kurt Bauchwitz |others=川端豊彦、[[坂井洲二]]訳 |title=魔女と魔女裁判 集団妄想の歴史 |publisher=[[法政大学出版局]] |series=りぶらりあ選書 |date=1970-11 |chapter=第2部 異端裁判より魔女審判へ |id=ISBN 4-588-02026-9、{{NCID|BN01127294}}、{{全国書誌番号|69006210}} |ref=バッシュビッツ 1970 }}
 
<!--** のち再版。{{Cite book|和書|last=バッシュビッツ |first=クルト |others=川端豊彦、坂井洲二訳 |title=魔女と魔女裁判 集団妄想の歴史 |publisher=法政大学出版局 |series=りぶらりあ選書 |date=2008-05 |chapter=第2部 異端裁判より魔女審判へ |isbn=978-4-588-02026-1 |ref=バッシュビッツ 2008 }}-->
 
* {{Cite book|和書|author=[[堀越孝一]] |title=中世ヨーロッパの歴史 |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 1763 |date=2006-05 |isbn=978-4-06-159763-1 |ref=堀越 2006 }}
 
* {{Cite book|和書|author=[[山内進]] |title=北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大 |publisher=講談社 |series=講談社選書メチエ 112 |date=1997-09 |isbn=978-4-06-258112-7 |ref=山内 1997 }}
 
  
=== 関連書籍 ===
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*[[子供十字軍]]
<!--この節の書籍は{{Cite book}}を使用しているものの、編集履歴で確認したところでは編集時に参照されていないものです。今後の編集において参考にした場合は、どなたでも該当文献を「参考文献」節へ移してください。-->
 
* {{Cite book|和書|last=ジョティシュキー |first=アンドリュー |others=[[森田安一]]訳 |title=十字軍の歴史 |publisher=[[刀水書房]] |series=刀水歴史全書 86 |date=2013-12 |isbn=978-4-88708-388-2 }}
 
* {{Cite book|和書|last=タート |first=ジョルジュ |authorlink=:fr:Georges Tate |others=南条郁子、松田廸子訳|title=十字軍 ヨーロッパとイスラム・対立の原点 |publisher=[[創元社]] |series=「知の再発見」双書 30 |date=1993-09 |isbn=978-4-422-21080-3 }}
 
* {{Cite book|和書|author=橋口倫介 |title=十字軍 その非神話化 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] 青版 912 |date=1974-11 |isbn=978-4-00-413018-5 |ref= }}
 
* {{Cite book|和書|author=橋口倫介 |title=十字軍 |publisher=教育社  |series=歴史新書 西洋史 A10 |date=1980-06 |isbn=978-4-315-40355-8 }}
 
* {{Cite book|和書|author=ハーパー |first=ジェイムズ |others=[[本村凌二]]日本語版総監修 |title=十字軍の遠征と宗教戦争 |publisher=[[原書房]] |series=シリーズ絵解き世界史 5 |date=2008-02 |isbn=978-4-562-04084-1 }}
 
* {{Cite book|和書|others=ハラム, エリザベス編、[[川成洋]]ほか訳 |title=十字軍大全 |publisher=[[東洋書林]] |date=2006-11 |isbn=978-4-88721-729-4 |ref= }}
 
* {{Cite book|和書|last=マアルーフ |first=アミン |authorlink=アミン・マアルーフ |others=[[牟田口義郎]]、新川雅子訳 |title=アラブが見た十字軍 |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま学芸文庫]] |date=2001-02 |isbn=978-4-480-08615-0 }}
 
* {{Cite book|和書|author=八塚春児 |title=十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い |publisher=[[NHK出版]] |series=[[NHKブックス]] 1105 |date=2008-02 |isbn=978-4-14-091105-1 }}
 
* {{Cite book|和書|author=山内進 |title=十字軍の思想 |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま新書]] 422 |date=2003-07 |isbn=978-4-480-06122-5 }}
 
* {{Cite book|和書|last=ランシマン |first=スティーヴン |authorlink=スティーヴン・ランシマン |others=和田廣訳 |title=十字軍の歴史 |publisher=[[河出書房新社]] |date=1989-02 |isbn=978-4-309-22159-5 }}
 
* {{Cite book|和書|last=リシャール |first=ジャン |authorlink=:en:Jean Richard (historian) |others=[[宮松浩憲]]訳 |title=十字軍の精神 |publisher=法政大学出版局 |series=りぶらりあ選書 |date=2004-06 |isbn=978-4-588-02221-0 }}
 
  
== 関連項目 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
{{CommonsCat|Crusades}}
 
* [[騎士]]
 
* [[テンペスト]]
 
* [[ドイツ騎士団]]
 
* [[リヴォニア帯剣騎士団]]
 
* [[マルタ騎士団]]
 
* [[騎士修道会]]
 
* [[十字軍国家]]
 
* [[ウトラメール]]
 
* [[少年十字軍]]
 
* [[アルビジョア十字軍]]
 
* [[北方十字軍]]
 
* [[ノルウェー十字軍]]
 
* [[フス戦争]]
 
* [[貞操帯]]
 
* [[ヨハネ・パウロ2世]]
 
* [[第十次十字軍]]
 
* [[反イスラーム主義]]
 
* [[メディーバル2:トータルウォー]]
 
* [[キングダム・オブ・ヘブン|キングダム・オブ・ヘブン(映画)]]
 
{{キリスト教 横}}
 
{{中世}}
 
  
 
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[[Category:十字軍|*]]
 
[[Category:十字軍|*]]

2018/8/29/ (水) 22:57時点における最新版

十字軍(じゅうじぐん、ラテン語: cruciata英語: crusade

エルサレム攻囲戦
イスラム諸国の英雄サラディン

11世紀から 15世紀中頃にかけて行なわれた,西ヨーロッパのキリスト教徒の東方遠征。エルサレム聖墳墓をイスラム教徒の手から奪還,防衛することを名目とした。元の意は「十字架の印をつけたもの」。狭義には 11~13世紀に行なわれた遠征をさす。第1次(1096~99)は,セルジューク・トルコの侵入に悩むビザンチン皇帝からの義勇軍要請を契機に,ローマ教皇ウルバヌス2世が教皇の名による独自の遠征軍の結成を提唱,主としてフランスの諸侯・騎士の率いる 40万の軍団が十字架の旗印を立てて出発した。1099年エルサレムに到着した軍は強襲により聖墳墓を奪還し,エルサレム王国を建設した。トルコが再び勢いを増したため第2次(1147~49)としてドイツ王コンラート3世,フランス王ルイ7世が参加したが敗退。続く第3次(1189~92),第4次(1202~04)では本来の目的である聖地奪還から逸脱し,地中海における政治上,経済上の利益の追求と擁護に転化した結果,ビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルを占領,ラテン帝国を樹立した。第5次(1218~21),第6次(1227~45),第7次(1248~68),第8次(1268~91)の遠征も,結局はイスラム勢力の軍事的勝利に帰した。この後も小規模な遠征が行なわれ,特に 1453年のコンスタンチノープル陥落は十字軍精神を回復させたが,もはや真の意味の遠征は行なわれなかった。十字軍運動は,地中海貿易の発展,イタリア諸都市の繁栄を促すとともに,イスラム文化の西ヨーロッパへの流入にも力をかす結果となった。



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