ルイ7世 (フランス王)

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ルイ7世(Louis VII, 1120年 - 1180年9月18日)は、フランスカペー朝第6代国王(在位:1137年 - 1180年)。ルイ6世と2番目の王妃アデル・ド・サヴォワの息子。 若王(le Jeune)と呼ばれる。

生涯

サン=ドニ修道院に育ち、院長シュジェール(シュジェ)の教えを受け、祈りと神への献身を何よりの生き甲斐とする、物静かな王子であったという。しかし、父王の共同国王の位についていた兄フィリップが1131年に落馬事故で早世したため、代わって共同国王に立てられた[1][2]1137年アキテーヌ女公アリエノールと結婚し、同年の父の死にともない単独のフランス王となった[3]

1147年クレルヴォーのベルナルドゥスの勧誘[4]で知られる第2回十字軍に参加、ダマスカスの攻防戦に失敗し[5]1152年に帰国する。帰国後、男子に恵まれず、さらにアンティオキア公レーモン(アリエノールの叔父)の支援をめぐり亀裂が生じたアリエノールと同年3月21日に離婚する[6](実際の名目は近親婚[7][8])。

離婚から2か月後、アリエノールはアンジュー伯アンリ(後のイングランドヘンリー2世)と再婚した[6][9]。このためルイ7世はアキテーヌ領を失い、長らくヘンリー2世と争った(1157年 - 1180年)。その後もイングランド王と西フランスの支配をめぐって紛争を重ね、この大陸のアンジュー家領は後の英仏間の百年戦争の原因となった[10]。また、ルイ7世はヘンリー2世の迫害を受けたカンタベリー大司教トマス・ベケットを保護した[11]。フランス王国最初の王令を発布し、王室の修史事業の発端が始められるのも彼の治世であった。「ルイ7世には武人としても政治家としても非凡なところは何もなかった。そのような君主のもとでの王権の増大は、ますます特徴的である」というのは、歴史家ピレンヌの評価である。

後継ぎとなる男子のない王は、1154年カスティーリャアルフォンソ7世の娘コンスタンスと結婚し2女をもうけたが、1160年に死別した。すると王は同年のうちにシャンパーニュ伯ティボー2世の娘アデルと3度目の結婚をした。その際、最初の妃アリエノールとの間にもうけたマリーとアリックスの娘2人をアデルの兄2人と婚約させ、1164年に嫁がせている。1165年、アデルとの間に待望の男子フィリップ(のちのフィリップ2世)が誕生した[12]。フィリップは1179年11月1日に戴冠した[13]

1180年9月18日ルイ7世は死去した。死後、サン=ポン (Saint-Pont) の修道院に埋葬されたが、遺棺は王政復古期の1817年、サン=ドニに移された。

逸話

かつての妻であったアリエノールは、「王と結婚したと思っていたら修道士だった」と述べており[14]、また、一人息子のフィリップ2世が病気になった時、ヘンリー2世と戦争中だったにもかかわらず、聖トマス(トマス・ベケット)の祠に病気治癒を祈願するため、フランス王で初めてイングランドを訪れている。

子女

脚注

  1. 佐藤、p. 87
  2. 桐生、p. 16
  3. 堀越、p. 127
  4. 桐生、p. 37-38
  5. 桐生、p. 67-68
  6. 6.0 6.1 佐藤、p. 88
  7. 桐生、p. 80
  8. ルゴエレル、p.36
  9. 桐生、p. 82
  10. 柴田 他、p. 223
  11. 桐生、p. 117-118
  12. 佐藤、p. 98
  13. 佐藤、p. 99
  14. 桐生、p. 77

関連資料


先代:
ギヨーム10世
アキテーヌ公
1137年 - 1152年
アリエノールと共同統治
次代:
アンリ1世