元田肇

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元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日安政5年1月15日) - 1938年昭和13年)10月1日)は、明治大正昭和期の日本政治家は国東。第25代衆議院議長逓信大臣鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。

来歴・人物

豊後国国東郡来浦(現在の大分県国東市国東町来浦、「来浦」は「くのうら」と読む)に医師猪俣栄造の子として生まれる。杵築藩の藩儒・元田直の養子となる。1880年東京大学法科を卒業。弁護士となる。第1回衆議院議員総選挙に当選し、以後当選16回、議員生活は40有余年に渡った。当初は大成会国民協会帝国党に所属した後に立憲政友会の結成に参加、衆議院副議長に3度選出された他、第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣、原敬内閣の鉄道大臣(初代)として入閣している。高橋是清内閣でも留任したが、中橋徳五郎山本達雄とともに高橋首相との間に反目して政権崩壊のきっかけを作ったために一時党を除名された。なお1910年5月6日には、自宅において菊子夫人の実弟に刃物で切り付けられ負傷する事件が起きている[1]

その後、政友会が対立する憲政会とともに第2次護憲運動に参加したことに対しては批判的で、同じくこれに反発する床次竹二郎とともに政友会を離党して政友本党を結成するが、護憲三派の崩壊後に今度は床次が憲政会と合同して立憲民政党を結党すると、元田はこれを批判して金光庸夫ら少数の合同反対派を連れて政友会に復党した。政友会が政権を奪回した田中義一内閣時代には衆議院議長(在任期間、1928年4月23日-1929年3月14日)に選出された。1930年の総選挙で落選し政界を引退。1932年には、74歳にして政党出身者ではじめて枢密顧問官に親任される。

栄典

親族

脚注

  1. 朝日新聞「元田肇氏斬らる」1910年5月7日付け朝刊5頁
  2. 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。
  3. 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  4. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  5. 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録』第7版、1925年。


議会
先代:
森田茂
日本の旗 衆議院議長
第25代:1928 - 1929
次代:
川原茂輔
公職
先代:
(新設)
日本の旗 鉄道大臣
初代:1920 - 1922
次代:
大木遠吉
先代:
後藤新平
日本の旗 逓信大臣
第21代:1913 - 1914
次代:
武富時敏

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