金光庸夫
金光 庸夫(かねみつ つねお、1877年(明治10年)3月13日 - 1955年(昭和30年)3月5日)は、日本の政治家、実業家。拓務大臣・厚生大臣をつとめた。名前の「庸夫」は「やすお」とも読まれる。
経済企画庁長官の佐藤一郎は女婿、その長男で衆議院議員の佐藤謙一郎は孫にあたる。
来歴・人物
大分県生まれ。高等小学校を卒業後税務官吏となり、長崎税関、福岡税務署長、熊本税務監督局勤務を経て、1908年(明治41年)鈴木商店に入社する。1913年(大正2年)には大正生命保険(現・大和生命保険)を創設、社長となる。その他日本火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)役員、王子電気軌道(現・都電荒川線)社長など多数の企業の社長・役員を兼任し、東京商業会議所副会頭や、1931年(昭和6年)には国際労働会議の資本家代表も務めた。また、法政大学の理事に就任[1](昭和15年)するなど、大学事業への運営にも寄与した。
1920年(大正9年)の第14回総選挙で政友会公認で旧大分2区からに立候補し当選、以後当選10回を数える。一時期政友本党に籍を置いたのち政友会に復帰し、1937年(昭和12年)衆議院副議長。1939年(昭和14年)には阿部内閣で拓務大臣を拝命して初入閣する。同年の政友会分裂に際しては太田正孝・犬養健とともに中立派(金光派)を形成する。その近衛文麿の新体制運動に協力し、1940年(昭和15年)6月10日には陸軍省軍務局長の武藤章と会談し軍部の諒解を取り付ける。新体制準備委員会委員を経て、第2次近衛内閣で厚生大臣となり、国民優生法の施行などを行った。以後、大日本産業報国会初代総裁、大政翼賛会顧問、同調査会長、翼賛政治会政務調査会長、大日本政治会総務会長などを務める。
戦後は日本進歩党の結成に関わるが、間もなく公職追放となる。追放中は長男の義邦が身代わりで総選挙に立候補し当選、代議士を3期務める。追放解除後の1953年(昭和28年)第26回総選挙で吉田自由党の公認で立候補し当選、同党顧問を務める。1954年に尾崎行雄(尾崎咢堂)が死去した際には、金光が11月30日の衆議院本会議に於いて尾崎に対する追悼演説を行った[2]。
1955年2月の第27回総選挙に出馬したが落選し、同年3月5日に死去、満77歳だった。
脚注
- ↑ 『法政大学校友名鑑』(1941)
- ↑ 第20回国会 本会議 第1号 衆議院会議録 1954年11月30日
参考文献
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
外部リンク
公職 | ||
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先代: 安井英二 |
![]() 第2次近衛内閣:1940年 - 1941年 |
次代: 小泉親彦 |
先代: 小磯国昭 |
![]() 阿部内閣:1939年 - 1940年 |
次代: 小磯国昭 |