「マテオ・リッチ」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
1行目: 1行目:
{{脚注の不足|date=2017年10月}}
 
  
[[Image:Ricciportrait.jpg|200px|thumb|マテオ・リッチ像]]
+
'''マテオ・リッチ'''({{Lang-it|Matteo Ricci}}、 [[1552年]][[10月6日]] - [[1610年]][[5月11日]]
[[Image:Kunyu Wanguo Quantu by Matteo Ricci All panels.jpg|thumb|200px|『坤輿万国全図』]]
 
[[Image:Ricci1.jpg|thumb|right|200px|『幾何原本』に描かれたリッチ(左)と徐光啓]]
 
'''マテオ・リッチ'''({{Lang-it|Matteo Ricci}}、 [[1552年]][[10月6日]] - [[1610年]][[5月11日]])は、[[イタリア]]人[[イエズス会]]員・[[カトリック教会]]の[[司祭]]。中国名は'''利瑪竇'''({{ピン音|Lì Mǎdòu|り まとう}})。[[フランシスコ・ザビエル]]の夢見た中国[[宣教]]に苦労のすえ成功し、[[明]]朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。
 
  
== 生涯 ==
+
[] 1552.10.6. マチェラタ
イタリアの[[マチェラータ]]出身のリッチは、イエズス会に入会後インドでの[[宣教]]を志して[[1578年]]に[[ゴア州|ゴア]]に派遣された。その後、[[マカオ]]に滞在していた東インド管区巡察師[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の招きに応じて[[1582年]]に同地へ赴き、すでに同任務のため研究を始めていた[[ミケーレ・ルッジェーリ]]とともにマカオで[[中国語]]と中国文化の研究を行った。
+
[] 万暦38(1610).5.11. 北京
 
+
中国南部の都市を転々としながら、ヴァリニャーノの示した適応政策(アジア人を野蛮人と見てヨーロッパ式を押し付けるのでなく現地の文化を尊重するという姿勢)にしたがって中国の[[儒教|儒者]]の服を着て中国式の生活をして中国文化の研究に励んだ。やがて彼の学識、特に科学知識が有名になるにしたがって、徐々に入門者が増え、[[1598年]]についに[[北京市|北京]]にたどりついたが、[[豊臣秀吉]]の[[朝鮮出兵]]のあおりを受けて[[南京市|南京]]へ移り、[[1601年]]に再び北京入りして高級官吏の紹介を受けて[[万暦帝]]の宮廷に入ることに成功した。リッチは順応政策を実践し、中国名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、[[ラテン語]][[デウス]](神)の漢語訳として「天主」を用いた。リッチの考えでは、中国の伝統的な用語である「天」や「上帝」は、キリスト教の観念と一致するものだった<ref>{{cite book|title=Allegoresis: Reading Canonical Literature East and West|author=Zhang Longxi|year=2005|publisher=Cornell University Press|isbn=0801443695|page=12}}</ref>。また、[[キリスト教]]を真に中国文化と適応させるため、中国人の祖先崇拝の習慣を受け入れた(これが後に[[典礼論争]]として論議を生み、結果的に中国におけるキリスト教の禁止にいたることになる)。
+
イタリアのイエズス会士。カトリック布教の最初の中国伝道者。中国名は利瑪竇 (りまとう) 。 1571年イエズス会に入会。東方布教を志して 78年ゴアに,82年マカオに到着,翌年両広総督の許しを得て広東の肇慶に定住。万暦 17 (1589) 年韶州に移って布教に努め,同
 
+
26年入京したが,京師に長く滞在することを許されず,同 27年以後は南京に住んだ。[[万暦帝]]に自鳴鐘,西洋琴などを献上し,同 29年には京師の定住と会堂の建設を許され,西洋学術書の翻訳とともに信者の指導に尽した。信者には[[徐光啓]][[李之藻]]などの官僚読書人があり,著書には『天主実義』『交友論』の漢文著述のほか,信者の協力を得てユークリッド幾何学を訳した『[[幾何原本]]』,中国最初の世界地図として有名な『[[坤輿万国全図]]』などがある。
リッチは東西文化の架け橋となった。中国で、キリスト教の教えを説いた『[[天主実義]]』([[1595年]])、世界地図である『[[坤輿万国全図]]』([[1602年]])、[[ユークリッド幾何学]]の漢文訳である『[[幾何原本]]』([[1607年]])などを刊行し、その文化に多大な影響を与えると同時に、中国文化をヨーロッパ社会へ好意的に紹介しつづけた。当時、ヨーロッパの大学ではオラーレと呼ばれる口頭試問が主流であったが、リッチらの伝えた中国の[[科挙]]が筆記試験を普及させていく契機になったと考える向きもある。また、『坤輿万国全図』が日本に伝わっていることからもわかるように、彼のもたらした新知識の多くは[[漢語]]に訳されたおかげで日本へも影響を与えることになった。
+
 
 
中国文化に精通し、人格者であったリッチは中国知識階級に影響を及ぼし、『農政全書』を著した[[徐光啓]]や[[李之藻]]といった多くの知識人が[[キリスト教徒]]となった。彼は[[1610年]]に北京で死去し、万暦帝によって[[阜成門]]外にその墓が作られた。彼の業績と順応政策は[[アダム・シャール]](湯若望)、[[フェルディナント・フェルビースト]](南懐仁)、[[ジョアシャン・ブーヴェ]](白進、白晋)[[ジャン・バティスト・レジス]](雷孝思)、[[ジュゼッペ・カスティリオーネ]](郎世寧)といった明・清の皇帝たちに仕えたイエズス会[[宣教師]]たちに引き継がれていく。
 
 
 
[[アメリカ合衆国]]の雑誌『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』は第二千年紀(1000年 - 1999年)のもっとも偉大な百人の一人としてマテオ・リッチを選んでいる。
 
 
 
== 文献 ==
 
*マテオ・リッチ著、柴田篤訳注、『天主実義』、[[平凡社東洋文庫]]728、2004年  
 
**後藤基巳訳著 『天主実義』、中国古典新書・[[明徳出版社]]、1971年     
 
*マテオ・リッチ著、[[矢沢利彦]]訳 『中国キリスト教布教史1・2』 [[大航海時代叢書]] [[岩波書店]]
 
*ジョナサン・スペンス、[[古田島洋介]]訳 『マッテオ・リッチ記憶の宮殿』 [[平凡社]]
 
*[[平川祐弘]]、『マッテオ・リッチ伝』全3巻 平凡社東洋文庫 
 
*ジャック・ベジノ 著 田島葉子 永井敦子 白數哲也 訳『利瑪竇 ~天主の僕として生きたマテオ・リッチ~』 サンパウロ 2004年04月 ISBN 4805680318
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{commons&cat|Matteo Ricci}}
 
*[[中国のキリスト教]]
 
*[[典礼問題]]
 
 
 
{{イエズス会}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:りつち まてお}}
 
{{DEFAULTSORT:りつち まてお}}
 
[[Category:明代の人物]]
 
[[Category:明代の人物]]

2019/4/23/ (火) 10:18時点における最新版

マテオ・リッチイタリア語: Matteo Ricci1552年10月6日 - 1610年5月11日

[生] 1552.10.6. マチェラタ [没] 万暦38(1610).5.11. 北京

イタリアのイエズス会士。カトリック布教の最初の中国伝道者。中国名は利瑪竇 (りまとう) 。 1571年イエズス会に入会。東方布教を志して 78年ゴアに,82年マカオに到着,翌年両広総督の許しを得て広東の肇慶に定住。万暦 17 (1589) 年韶州に移って布教に努め,同 26年入京したが,京師に長く滞在することを許されず,同 27年以後は南京に住んだ。万暦帝に自鳴鐘,西洋琴などを献上し,同 29年には京師の定住と会堂の建設を許され,西洋学術書の翻訳とともに信者の指導に尽した。信者には徐光啓李之藻などの官僚読書人があり,著書には『天主実義』『交友論』の漢文著述のほか,信者の協力を得てユークリッド幾何学を訳した『幾何原本』,中国最初の世界地図として有名な『坤輿万国全図』などがある。