「ベニグノ・アキノ・ジュニア」の版間の差分

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[[ファイル:ニノイ”ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア.jpg|サムネイル]]
{{政治家
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'''“ニノイ”ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア'''({{Lang-en|Benigno Simeon "Ninoy" Aquino, Jr.}}, [[1932年]][[11月27日]] - [[1983年]][[8月21日]]
|人名 = “ニノイ”ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア
 
|各国語表記 = Benigno Simeon "Ninoy" Aquino Jr.
 
|画像 = Ninoy Aquino.jpg
 
|画像サイズ =
 
|画像説明 =
 
|国略称 = {{PHL}}
 
|生年月日 = [[1932年]][[11月27日]]
 
|出生地 = {{USA1912}}<br>[[File:Flag of the Philippines (1919-1936).svg|border|25px]] [[:en:Insular Government of the Philippine Islands|フィリピン]]、[[タルラック州]]コンセプシオン
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1932|11|27|1983|8|21}}
 
|死没地 = {{PHL}}、[[ニノイ・アキノ国際空港|マニラ国際空港]]
 
|出身校 =
 
|前職 =
 
|現職 =
 
|所属政党 = 自由党
 
|称号・勲章 =
 
|親族(政治家) =
 
|配偶者 = [[コラソン・アキノ]]
 
|子女 = [[ベニグノ・アキノ3世]]
 
|サイン =
 
|ウェブサイト =
 
|サイトタイトル =
 
|国旗 = フィリピン
 
|職名 = [[元老院 (フィリピン)|上院議員]]
 
|当選回数 = 1回
 
|就任日 = [[1967年]][[11月30日]]
 
|退任日 = [[1972年]][[9月23日]]
 
<!-- ↓省略可↓ -->
 
|国旗2 = フィリピン
 
|職名2 = 大統領国防省顧問
 
|就任日2 = [[1949年]]
 
|退任日2 = [[1954年]]
 
|元首職2 = [[フィリピンの大統領|大統領]]
 
|元首2 = ラモン・マグサイサイ
 
|国旗3 = フィリピン
 
|職名3 = [[タルラック州|タルラック州知事]] [[ファイル:Vlag Fil Tarlac.gif|25x20px]]
 
|当選回数3 = 2回
 
|就任日3 = [[1961年]][[2月17日]]
 
|退任日3 = [[1967年]]11月30日
 
|国旗4 = フィリピン
 
|職名4 = タルラック州副知事 [[ファイル:Vlag Fil Tarlac.gif|25x20px]]
 
|就任日4 = [[1959年]]11月30日
 
|退任日4 = 1961年11月30日
 
|国旗5 = フィリピン
 
|職名5 = [[コンセプシオン (フィリピン)|コンセプシオン市長]] [[ファイル:Concepcion,Tarlacjf0001 03.JPG|25x20px]]
 
|当選回数5 = 1回
 
|就任日5 = 1955年11月30日
 
|退任日5 = 1959年11月30日
 
|}}
 
[[ファイル:Ramon Magsaysay and Ninoy Aquino 1951.jpg|200px|thumb|(左から)ラモン・マグサイサイとペニグノ・アキノ(1951年)]]
 
'''“ニノイ”ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア'''({{Lang-en|Benigno Simeon "Ninoy" Aquino, Jr.}}, [[1932年]][[11月27日]] - [[1983年]][[8月21日]])は、[[フィリピン]]の[[政治家]]。[[元老院 (フィリピン)|上院議員]](1期)、大統領国防省顧問、[[タルラック州|タルラック州知事]](2期)、タルラック州副知事、[[コンセプシオン (フィリピン)|コンセプシオン市長]](1期)、自由党幹事長を務めた。通称が「ニノイ」であったため、'''ニノイ・アキノ'''という呼び名で知られた。
 
  
[[独裁体制]]を敷いた[[フェルディナンド・マルコス]]大統領時代、[[国民]]に広く人気があったベニグノ・アキノは、マルコス[[政権]]にとっての脅威であり国外追放されていたが、追放先の[[アメリカ合衆国]]から帰国した際、[[マニラ国際空港]]で[[暗殺]]された。ニノイの死後、[[エドゥサ革命]]によりマルコス政権は崩壊し、ベニグノの妻[[コラソン・アキノ]](コリー)がフィリピン大統領に就任した。
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フィリピンの政治家。上院議員の家に生まれ,17歳で『マニラ・タイムズ』の特派員として朝鮮戦争を取材。 1959年郷里タルラク州副知事,1963年同知事に当選。 1967年上院議員。戒厳令施行までは[[フェルディナンド・E.マルコス]]の最大の政敵とみなされ,野党,自由党の幹事長として 1973年 11月の大統領選挙にそなえていたが,1972年9月の戒厳令で逮捕され,殺人,政府転覆活動,武器不法所持などの罪状で起訴。 1977年 11月軍事法廷により銃殺刑を宣告され内外に大きなショックを与えた。
  
== 生涯 ==
+
1978年3月の総選挙には獄中から立候補。 1980年5月,心臓病治療のため釈放され渡米,亡命生活を送ったが,1983年帰国の際にマニラ空港で暗殺された ([[アキノ暗殺事件]] ) 。夫人の[[コラソン・C.アキノ]]はこれを機に政界に入り,1986~92年大統領。
=== 人気政治家 ===
 
ベニグノ・アキノは、[[タルラック州]]コンセプシオンで、地元の名士の家に生まれた。祖父は[[エミリオ・アギナルド]]の側近として活躍し、父[[ベニグノ・アキノ・シニア]]も[[ホセ・ラウレル]][[政権]]下で活躍した政治家だったが、晩年は[[太平洋戦争]]時の対日協力者として批判を受けた。父の死後、ニノイは大学を中退しジャーナリストになった。
 
  
[[1954年]]、[[ラモン・マグサイサイ]]大統領の下で働いていたニノイは、反政府グループである[[フクバラハップ]]のリーダー、[[ルイス・タルク]]を説得して投降させるようにという命令を受けた。4カ月にもわたる熱心な説得の末に、タルクは無条件投降した。ニノイの名声は高まり、22歳にして[[コンセプシオン]]市の市長に就任した。同年、[[コラソン・アキノ|コラソン・コファンコ]]と結婚した。
 
 
[[1961年]]、タルラック州の知事に当選し、[[1966年]]には自由党の幹事長に就任した。[[1967年]]には35歳で[[上院議員]]に当選。これは、現代に至るまで、フィリピン史上最年少での上院議員当選の記録として、いまだ破られていない。
 
 
=== 投獄と追放 ===
 
[[1972年]]、[[フェルディナンド・マルコス]]大統領がフィリピン全土に[[戒厳令]]を敷き、反政府側の危険人物とされたニノイは「政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人」の容疑で[[逮捕]]・投獄された。ニノイは[[1977年]]に[[死刑]]を宣告されたが、国民に人気のあるニノイを処刑することはできず、マルコスは1980年に「[[アメリカ合衆国]]で[[手術]]を受けさせる」という名目で、ニノイをフィリピン共和国から追放した。
 
 
[[File:Marcos visit Reagan 1982.jpg|thumb|right|220px|マルコス大統領とイメルダ夫人、中央はアメリカの[[ロナルド・レーガン]]大統領]]
 
[[収監]]中、ニノイは[[カトリック教会|カトリック]]や[[マハトマ・ガンディー]]、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|マーティン・ルーサー・キング]]の著書から大きな影響を受けた。以後、ニノイは[[非暴力主義]]を掲げながらマルコス政権を批判するようになる。
 
 
ニノイは、マルコス政権を厳しく批判しながらも、[[国民]]に対しては決して暴力に訴えないよう常に求めていた。ニノイが強い思想性を帯びるようになったことは、後に妻の[[コリー・アキノ]]が、政治家としての姿勢に強い影響を与えることになり、ニノイが死後「[[殉教者]]」として称えられることになる基盤を作った。
 
 
=== 暗殺 ===
 
[[1983年]]、ニノイは帰国を決意した。経由地の[[中華民国]][[台北市]]の[[ホテル]]で、[[TBSテレビ]]『[[JNN報道特集]]』のインタビューに応じ、「明日は殺されるかも知れない。事件は空港で一瞬のうちに終わる」と話した<ref name="tbs">[http://minpou-club.org/pdf/0101.pdf 三好和昭「報道特集『アキノ白昼の暗殺』 特ダネは一日にして成らず」日本民放クラブ『民放くらぶ』第101号 pp.15-18]</ref>。
 
 
[[8月21日]]、フィリピン国軍の兵士たちが厳重に警戒にあたっていた[[ニノイ・アキノ国際空港|マニラ国際空港]]に、ニノイは[[台湾桃園国際空港|台北空港]]から乗ってきた[[チャイナエアライン|中華航空]]機で到着した。機内には、アキノ帰国を取材するために多くの取材陣が同乗しており、[[テレビカメラ]]による撮影もされていた。そこへ3人の兵士が、ニノイを機外へと連れ出しに来た。乗り込んできた兵士は、立ち上がって一緒に出ようとしたニノイの義弟[[ケン・カシワハラ]]に「{{lang|en|You just take a seat!}} (お前は座っていろ!)」と告げた。ニノイは兵士と伴に[[ボーディングブリッジ]]側のタラップを降りると、10秒後に頭を撃たれて即死した。ニノイ最期の言葉は、飛行機を降りる直前に同行していた記者に言った「必ず何かが起こるから、[[ビデオカメラ]]を回し続けておいてくれ」だった。
 
 
同行していた[[TBSテレビ|TBS]]の[[横井義雄]]カメラマンおよび米[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]の[[大串雅昭]]カメラマン(この映像で米・[[エミー賞]]を受賞)は、ニノイがボーディングブリッジ脇のタラップに降り立った直後の銃声と、続けて窓の外に見えた光景、地面に横たわった彼と青服の男の遺体を捉えた<ref name="tbs" />が、彼らは飛行機の出入口付近で足止めされたために発砲の瞬間を撮ることはできなかった。しかし、両脇を[[フィリピン軍]]兵士に抱えられてニノイがタラップを降り始めたその時、「プシラ!プシラ!(撃て、撃て!)」とフィリピン兵がタラップ下で待機していた[[暗殺]]犯に命じた声がTBSの映像に残され、その直後に複数の銃声が轟いてニノイらは狙撃された。その後、数人の兵士がアキノの左腕を引っ張り上げながら遺体を運び出す姿も捉えられていた。
 
 
事件後にフィリピン政府は、「アキノ氏は空港[[警備員]]を装った男によって射殺され、その場で[[犯人]]は射殺された」と発表した。ニノイに同行取材していた日本人[[ジャーナリスト]]の[[若宮清]]は、連行していた兵士がニノイを撃つのを目撃したと語った<ref>「NHK特集 緊急報告 アキノ氏暗殺」NHK, 1983年8月26日放送</ref>。しかし、マルコス[[独裁体制]]下にあった時のフィリピン政府は乗客らの目撃証言を黙殺し、事件は[[政府]]や軍部とは無関係の、[[フィリピン共産党 (CPP)|フィリピン共産党]]傘下ゲリラ組織「[[新人民軍]]」のロランド・ガルマン(Rolando Galman)なる人物の単独犯行であると発表した。
 
 
=== 暗殺後 ===
 
TBSは、事件から1週間後の8月28日に、報道番組『[[JNN報道特集]]』で「アキノ白昼の暗殺」と題した特別番組を放送した(1984年度[[日本新聞協会賞]]を受賞)。この番組では撮影した事件映像を基に、フィリピン政府発表の矛盾点をあぶり出した。
 
* まず、フィリピン政府の当初発表では「連行兵士は3人」だったのに、映像では[[ボーディングブリッジ]]の中で途中から、肩から[[ホルスター]]を吊ったもう1人の兵士が加わっていた。また、「犯人はタラップ下にいた青シャツの民間人ガルマン」と発表されたが、遺体の銃痕は後頭部から上あごへ斜めに抜けていた。
 
* 出演した銃器専門家によれば、ガルマンの凶器とされた[[.357マグナム弾]]を使う銃を至近距離から発射した場合、頭部は酷く破砕され、遺体にあるようなきれいな銃痕は残らないとされた。
 
* 番組の結論として、連行兵士は3人でなく4人で、またガルマン犯行説は合理性に欠けるとフィリピン政府発表に疑問を呈し、ニノイがタラップを降りる途中で連行兵士に撃たれた可能性を指摘した<ref name="tbs" />。
 
 
その後、フィリピン政府は「連行兵士は実行部隊の4人に加え指揮官1人の合計5人」と訂正発表を行った。
 
 
後に、暗殺に使われた銃はガルマンが持っていたとされる[[リボルバー]]ではなく、フィリピン兵士が携帯する[[コルト・ガバメント]]であったことが[[日本音響研究所]]の[[鈴木松美]]による発砲音鑑定により確認されている。さらに鈴木が航空機の[[ジェットエンジン]]のノイズを除去した音声を分析したところ、ニノイに同行した兵士たち4人が「アコナ(俺がやる)」「プシラ(撃て)」と発砲直前に叫んでいたことが判明し、鈴木はこれをフィリピンの法廷で証言した。
 
 
この事件が起こった頃、マルコスは部下に指示を下せる状況ではなく、10日前に[[腎臓]]の移植手術を受けたが、術後の状態が思わしくなかった。病床でニュースを聞いたマルコスは翌日、体調がすぐれぬままテレビカメラの前で[[記者会見]]を行い、調査委員会の設置を指示した。調査委員会は、軍の高官を含む多くの人々を共謀の疑いで告発したが、彼らはすぐに[[無罪]][[釈放]]となった。滑走路の[[警備]]にあたっていた兵士たちは[[無期懲役]]を宣告され、投獄された。兵士たちは後に[[恩赦]]で[[懲役]]22年に減刑されているが、ある兵士は、黒幕はマルコスの親友でコリーのいとこにあたるエドアルド・"ダンディン"・コファンコであったと証言している。
 
 
[[ファイル:Ninoy Aquino Monument and marker at the Pampanga Provincial Capitol.jpg|200px|thumb|ニノイの銅像([[パンパンガ州]]政府庁舎)]]
 
8月31日に行われたニノイの葬儀は午前9時に始まったが、あまりに多くの群集が集まったため、棺が墓地に収められたのは12時間後の午後9時になった。葬儀ミサは、フィリピンの[[カトリック教会]]のトップである[[ハイメ・シン]][[枢機卿]]が司式し、サント・ドミンゴ教会で行われた。200万人の人々が街頭に出て、ニノイの棺を見送った。さらに、数百万人の人々がラジオで葬儀の実況を聞いていた。ほとんどのマスコミは、政権の不興をかうことを恐れて放送を見送ったが、カトリック教会が後援する[[ラジオ・ベリタス・アジア|ラジオ・ベリタス]]一局が、葬儀の模様を実況中継した。葬儀では、人々はマルコス政権への怒りを示すことはなく冷静だったが、唯一の例外は棺が[[リサール公園]]の中を通った際、記念碑のところにあった[[フィリピンの国旗|国旗]]が、民衆によって力ずくで[[半旗]]にされたことであった。
 
 
=== マルコス政権の終焉 ===
 
[[File:Php bill 500 front.jpg|330px|thumb|1987年発行券の500ペソ紙幣(失効券)。]]
 
ニノイの暗殺は、反マルコスの機運を爆発させることになった。それまで散発的な行動でしかなかった反マルコス運動が、一夜にしてフィリピン全土を覆うようになっていた。首都[[マニラ首都圏]]では、貧富の差を越えて多くの人々が立ち上がった。貧窮にあえぐ民衆だけでなく、実業家たちもマルコスの政治に限界を感じていた。さらに、暗殺現場に居合わせたカメラマンの映像を基にした、TBS制作の『[[JNN報道特集]]』が、[[海賊版]]としてフィリピン各地で上映されたことも拍車をかけた<ref name="tbs" />。
 
 
ニノイが殺害されたことで、マルコスが政権内を完全にコントロールし切れていないことの証左となり、マルコスの弱さを露呈することになった。フィリピン全土に波及し始めた政情不安は、[[アメリカ合衆国]]の注目を引いた。やがて世界がフィリピンの動向に注目し始めると、イメルダ夫人の豪勢な生活スタイルやマルコス大統領の独裁体制に非難が集中するようになった。
 
 
[[親米]]のフィリピン全土が内乱状態に陥るような事態は、[[アメリカ合衆国連邦政府]]も望んでおらず、[[アメリカ合衆国大統領]][[ロナルド・レーガン]]もマルコスに対し、ニノイ暗殺の責任があるといって非難するようになったが、後に国外へ逃れたマルコスを[[ハワイ州]]に迎え入れている。
 
 
[[File:Corazon Aquino at Andrews AFB DF-SC-88-01605.JPEG|thumb|right|220px|コラソン・アキノ]]
 
ニノイが暗殺されると、その遺志を継ぐことになった[[未亡人]]の“コリー”[[コラソン・アキノ]]が注目されるようになった。[[1986年]]に、マルコスは国民の不満を解消するため大統領選挙を行ったが、出馬したコリーは徹底して反マルコスキャンペーンを行い、国民の大多数の支持を得た。
 
 
1986年2月7日、選挙管理委員会は「マルコスが勝利した」と発表したが、コリーと支持者達([[選挙監視委員会]]「NAMFREL」{{lang-en|National Citizens' Movement for Free Elections}}:「自由な選挙のための全国市民運動」)は[[不正選挙]]が行われたとしてこれを受け入れず、抗議した。この抗議を支持した民衆が蜂起し[[エドゥサ革命]](別名:イエロー革命、ピープルパワー革命)が起こり、軍の高官たちもマルコスを見放した([[フアン・ポンセ・エンリレ|エンリレ]]国防相と[[フィデル・ラモス]]副参謀総長が、「マルコスをもう[[フィリピン共和国大統領]]とは認めない」と声明し、国防省のある{{仮リンク|キャンプ・アギナルド|en|Camp Aguinaldo}}に篭城、[[ラジオ・ベリタス・アジア]]も市民に二人の支援を呼びかけたことは有名)ため、マルコス一族はアメリカ合衆国のハワイに[[亡命]]した。
 
 
[[File:New PHP500 Banknote (Obverse).jpg|thumb|300px|2010年発行券の新500ペソ紙幣。右がニノイ]]
 
ニノイは、今日でも根強い人気を誇っており、フィリピン共和国の[[ヒーロー|英雄]]である。[[2010年]]発行の新500[[フィリピン・ペソ|ペソ]]札には、ニノイとコリーの夫婦肖像が印刷されており、ニノイが暗殺されたマニラ国際空港は「[[ニノイ・アキノ国際空港]](NAIA)」と改称された。ニノイの息子[[ベニグノ・アキノ3世]]はタルラック選出の上院議員となり、[[2010年]]に[[フィリピン共和国大統領]]に就任し、新500ペソ紙幣には夫婦の肖像画の脇に、息子ノイノイの[[署名]]が書かれている。娘の{{仮リンク|クリス・アキノ|en|Kris Aquino}}は、女優として活動している。
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ニノイ・アキノ国際空港]]
 
 
{{commonscat|Benigno Aquino, Jr.}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:あきの へにくの2}}
 
{{DEFAULTSORT:あきの へにくの2}}

2019/4/28/ (日) 23:55時点における最新版

ニノイ”ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア.jpg

“ニノイ”ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア英語: Benigno Simeon "Ninoy" Aquino, Jr., 1932年11月27日 - 1983年8月21日

フィリピンの政治家。上院議員の家に生まれ,17歳で『マニラ・タイムズ』の特派員として朝鮮戦争を取材。 1959年郷里タルラク州副知事,1963年同知事に当選。 1967年上院議員。戒厳令施行まではフェルディナンド・E.マルコスの最大の政敵とみなされ,野党,自由党の幹事長として 1973年 11月の大統領選挙にそなえていたが,1972年9月の戒厳令で逮捕され,殺人,政府転覆活動,武器不法所持などの罪状で起訴。 1977年 11月軍事法廷により銃殺刑を宣告され内外に大きなショックを与えた。

1978年3月の総選挙には獄中から立候補。 1980年5月,心臓病治療のため釈放され渡米,亡命生活を送ったが,1983年帰国の際にマニラ空港で暗殺された (アキノ暗殺事件 ) 。夫人のコラソン・C.アキノはこれを機に政界に入り,1986~92年大統領。