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{{Infobox_哲学者
 
  <!-- 分野 -->
 
|地域 = [[西洋哲学]]
 
|時代 = [[古代哲学]]
 
|color = #B0C4DE
 
  <!-- 画像 -->
 
|image_name = Plato.png
 
|image_caption =
 
  <!-- 人物情報 -->
 
|名前 = プラトン
 
|生年月日 = [[紀元前427年]]
 
|没年月日 = [[紀元前347年]]
 
|学派 = [[プラトニズム|プラトン学派]]
 
|研究分野 = [[修辞学]]、[[芸術]]、[[文学]]、[[認識論]]、[[倫理学]]、[[正義]]、[[徳]]、[[政治]]、[[教育]]、[[家族]]
 
|影響を受けた人物 = [[ソクラテス]]、[[ホメーロス]]、[[ヘーシオドス]]、[[アリストパネス]]、[[アイソーポス]]、[[プロタゴラス]]、[[パルメニデス]]、[[ピタゴラス]]、[[ヘラクレイトス]]、[[オルペウス教]]
 
|影響を与えた人物 = [[西洋哲学|多くの西洋哲学の後続]]、[[アリストテレス]]、[[アウグスティヌス]]、[[新プラトン主義]]、[[キケロ]]、[[プルタルコス]]、[[ストア派]]、[[アンセルムス]]、[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]、[[ルネ・デカルト|デカルト]]、[[トマス・ホッブズ|ホッブズ]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]、[[ジョン・スチュアート・ミル|ミル]]、[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]、[[ハンナ・アーレント|アーレント]]、[[ハンス・ゲオルク・ガダマー|ガダマー]]、[[ルーホッラー・ホメイニー|イマーム・ホメイニー]]、[[バートランド・ラッセル|ラッセル]]、その他数え切れないほどの[[哲学者]]と[[神学者]]
 
|特記すべき概念 = [[イデア]]{{·}}[[善のイデア]]{{·}}[[哲人王 (プラトン)|哲人王]]{{·}}[[夜の会議]]
 
|
 
}}
 
{{Platonism}}
 
'''プラトン'''(プラトーン、{{翻字併記|grc|'''Πλάτων'''|Plátōn|n|区=、 }}、{{lang-la-short|Plato}}、[[紀元前427年]] - [[紀元前347年]])は、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]である。[[ソクラテス]]の[[弟子]]にして、[[アリストテレス]]の師に当たる。
 
  
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド|ホワイトヘッド]]は「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な[[注釈]]である」という趣旨のことを述べた<ref group="注">“ヨーロッパの哲学の伝統のもつ一般的性格を最も無難に説明するならば、プラトンに対する一連の脚註から構成されているもの、ということになる”[http://en.wikiquote.org/wiki/Alfred_North_Whitehead](『過程と実在』)。ちなみに、ホワイトヘッドによるこのプラトン評は「あらゆる西洋哲学はプラトンのイデア論の変奏にすぎない」という文脈で誤って引用されることが多いが、実際には、「プラトンの対話篇にはイデア論を反駁する人物さえ登場していることに見られるように、プラトンの哲学的着想は哲学のあらゆるアイデアをそこに見出しうるほど豊かであった」という意味で評したのである。</ref>。『[[ソクラテスの弁明]]』や『[[国家 (対話篇)|国家]]』等の著作で知られる。現存する著作の大半は[[対話篇]]という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な[[語り手]]とする<ref>[[カール・ポパー]]「開かれた社会とその敵」(未來社)、[[佐々木毅]]「プラトンの呪縛」(講談社学術文庫)、「[[現代用語の基礎知識]]」(自由国民社、1981年)90p、「政治哲学序說」([[南原繁]]、1973年)</ref>。
+
'''プラトン'''(プラトーン、{{翻字併記|grc|'''Πλάτων'''|Plátōn|n|=、 }}、{{lang-la-short|Plato}}、[[紀元前427年]] - [[紀元前347年]]
  
青年期はアテナイを代表する[[レスラー]]としても活躍し、[[イストミア大祭]]に出場した他、プラトンという名前そのものがレスリングの師から付けられた仇名であると言われている<ref name="diogenes-laertios-3-4">[[ディオゲネス・ラエルティオス]]『[[ギリシア哲学者列伝]]』3巻4節。(中野好夫訳、1984年、pp. 251-253)</ref>。
+
ギリシアの哲学者。アテネの名門に生れ若くして[[ソクラテス]]と交わり,最も正義の人と信じてやまなかったソクラテスの不条理な死と,当時の政治情勢に対する失望から哲学の道に入った。その著作のほとんどはソクラテスを中心とする対話篇である。彼の功績の第1は学問における方法の重要性の認識とその確立であり,第2はこの方法を基礎とした形而上学と倫理学の確立である。認識論的には感性的知覚に対して純粋な知性的認識の優位をとり,存在論的には感性的世界と思惟的世界を区別し,イデア論を形成してソフィストに対抗した。数回にわたってイタリアやシチリア島を訪れ,[[ピタゴラス学派]]とも接した。後年アテネにアカデメイアを創設し,真に理想国家の統治者たるべき人材の養成をはかった。 ([[プラトン主義]] )  
 
 
== 概説 ==
 
プラトンは、師ソクラテスから[[問答法]]([[弁証法]])と、(「[[無知の知]]」や「行き詰まり」([[アポリア]])を経ながら)正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく[[哲学者]](愛知者)としての[[主知主義]]的な姿勢を学び、国家公共に携わる[[政治家]]を目指していたが、[[三十人政権]]やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。この頃既に、哲学者による国家統治構想([[哲人王 (プラトン)|哲人王]]思想)や、その同志獲得・養成の構想(後の[[アカデメイア]]の学園)は温められていた<ref name=shokan />。
 
 
 
40歳頃の第一回[[シケリア]]旅行にて、[[ピタゴラス教団|ピュタゴラス学派]]と交流を持ったことで、[[数学]]・[[幾何学]]と、[[輪廻転生]]する不滅の[[霊魂]]([[プシュケー]])の概念<ref group="注">「肉体(ソーマ)は墓(セーマ)である」の教説は[[オルペルス教]]的と評される。ただし、E・R・ドッズは通説を再考し、これがオルペウス教の教義であった可能性は低いとみている(『ギリシァ人と非理性』 p.182)。</ref>を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「[[イデア]]」概念を醸成していく。
 
 
 
帰国後、[[アカデメイア]]に学園を開設し、初期末・中期対話篇を執筆。「魂の[[想起説|想起]]([[アナムネーシス]])」「[[魂の三分説]]<ref>『国家』436A、580C-583A、『[[ティマイオス]]』69C</ref>」「哲人王」「[[善のイデア]]」といった概念を表明していく。また、[[パルメニデス]]等の[[エレア派]]にも関心を寄せ、中期後半から後期の対話篇では、エレア派の人物をしばしば登場させている。
 
 
 
後期になると、この世界そのものが神によってイデアの似姿として作られたものである<ref>『[[ティマイオス]]』</ref>とか、諸天体は神々の「最善の魂」の知性([[ヌース]])によって動かされている<ref>『[[法律 (対話篇)|法律]]』第10巻</ref>といった壮大な宇宙論・神学的描写が出てくる一方、第一回シケリア旅行時に[[シュラクサイのディオン]]と知り合ったことを縁として、僭主[[ディオニュシオス2世]]が支配する[[シュラクサイ]]の国制改革・内紛に関わるようになったことで、現実的な「次善の国制」を模索する姿勢も顕著になる。
 
 
 
== 生涯 ==
 
[[ファイル:Plato-raphael.jpg|200px|thumb|left|[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]画「[[アテナイの学堂]]」 フレスコ画。なお、これは[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]自画像がモデルとされる。]]
 
=== 少年・青年期 ===
 
[[紀元前427年]]、[[アテナイ]]最後の王{{仮リンク|コドロス|en|Codrus}}の血を引く一族の息子として、アテナイにて出生<ref group="注">プラトンの家系図については曾祖父[[クリティアス (プラトンの曾祖父)|クリスティアス]]の項を参照</ref>。
 
 
 
当時の名門家では文武両道を旨とし知的教育と並んで体育も奨励された。はじめ、祖父の名にちなんで「アリストクレス」と命名されたが、体格が立派であったため、
 
[[レスリング]]の師匠であるアルゴスのアリストンに「プラトン」と呼ばれ、以降そのあだ名が定着した<ref name="diogenes-laertios-3-4" />({{lang-grc-short|πλατύς}}=広い) 。
 
ただしこれには異説もあり、文章表現の豊かさから名付けられたという説や、額が広かったから名付けられたという説を唱える著者もいる<ref name="diogenes-laertios-3-4" />。
 
 
 
彼のレスリングの業績について、アリストテレスの弟子(したがってプラトンの孫弟子)である[[メッシーナ|メッセネ]]の[[ディカイアルコス]]は、『哲学者伝』第一巻において、プラトンは[[イストミア大祭]]に「出場」したと述べている(「優勝」ではない)<ref name="diogenes-laertios-3-4" />。この記述は後世になるほど誇張され、[[アプレイウス]]はプラトンの出場リストに[[ピューティア大祭]]を付け加えた他、[[古代末期]]の著者不明の書物ではオリュンピュア大祭([[古代オリンピック]])と[[ネメア大祭]]で「優勝」したとまで述べているものさえある<ref name="miller-2012">{{Citation|last=Miller|first=Stephen G.|year=2012|title=Plato the Wrestler|journal=Plato’s Academy: A Survey of the Evidence, Athens, Greece, 12-16 December 2012}}</ref>。現代の研究者は一般にプラトンの古代オリンピックへの出場経験・優勝経験を疑問視しているが、紀元前408年のレスリング優勝者の名前が不明であること等から、優勝の可能性も完全なるゼロではないと指摘する研究者もいる<ref name="miller-2012" />。また、{{要出典|範囲=[[パンクラチオン]]を「不完全な[[レスリング]]と不完全な[[古代ギリシアのボクシング|ボクシング]]が一つとなった競技である」と評した|date=2018年6月}}という説もある。
 
 
 
若い頃は[[ソクラテス]]の門人として哲学や対話術などを学びつつ、[[政治家]]を志していたが、[[三十人政権]]やその後の民主派政権における惨禍を目の当たりにし、現実[[政治]]に幻滅を覚え、国制・法律の考察は続けたものの、現実政治への直接的な関わりは避けるようになった<ref name="shokan">『[[第七書簡]]』</ref>。特に、[[紀元前399年]]、プラトンが28歳頃、アテナイの[[詩人]][[メレトス]]の起訴によって、ソクラテスが「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、投票によって死刑に決せられ、毒杯を仰いで刑死した<ref group="注">この裁判を舞台設定としたのが『ソクラテスの弁明』である。</ref>ことが、その重要な契機となった。
 
 
 
その後、第一回シケリア旅行に出かけるまでの30代のプラトンは、最初期の対話篇を執筆しつつ、後に「哲人王」思想として表明される政治と哲学を結びつける構想や、後に[[アカデメイア]]の学園として実現される同志獲得・養成の構想を、既にこの頃、密かに温めていたことが、『[[第七書簡]]』等で告白されている。
 
 
 
なお、[[アリストテレス]]によれば、プラトンは若い頃、ソクラテスよりもまず先に、対話篇『[[クラテュロス (対話篇)|クラテュロス]]』にも題して登場させているクラテュロスに、[[ヘラクレイトス]]の自然哲学を学び、その「万物流転」思想(感覚的事物は絶えず流転しているので、そこに真の認識は成立し得ない)に、生涯に渡って影響を受け続けたという<ref>『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』第1巻987a32</ref>。
 
 
 
=== 第一回シケリア旅行 ===
 
この後、[[紀元前388年]](-[[紀元前387年]])、39歳頃、プラトンはアテナイを離れ、[[イタリア]]、[[シチリア|シケリア島]](1回目のシケリア行)、[[エジプト]]を遍歴した。この時、イタリアで[[ピタゴラス教団|ピュタゴラス派]]および[[エレア派]]と交流をもったと考えられている。また、20歳過ぎの青年[[シュラクサイのディオン|ディオン]]に初めて会ったのも、この時である<ref name=shokan />。
 
 
 
=== 学園開設 ===
 
[[紀元前387年]]、40歳頃、プラトンはシケリア旅行からの帰国後まもなく、アテナイ郊外の北西、[[アカデメイア]]の地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の[[ギュムナシオン|体育場]]が設けられた英雄{{仮リンク|アカデモス|en|Academos}}の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた<ref group="注">シュヴェーグラー『西洋哲学史』によれば、この地所はプラトンの父の遺産という。また、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]によれば、プラトンが奴隷として売られた時にその身柄を買い戻したキュレネ人アンニケリスが、プラトンのためにアカデメイアの小園を買ったという。</ref>。場所の名であるアカデメイアがそのまま学園の名として定着した。アカデメイアでは[[天文学]]、[[生物学]]、[[数学]]、[[政治学]]、[[哲学]]等が教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。
 
 
 
[[紀元前367年]]、プラトン60歳頃には、[[アリストテレス]]が17歳の時にアカデメイアに入門し、以後、プラトンが亡くなるまでの20年間学業生活を送った。プラトン没後、その甥の[[スペウシッポス]]が跡を継いで学頭となり、アリストテレスはアカデメイアを去った。
 
 
 
=== 第二回シケリア旅行 ===
 
[[紀元前367年]](-[[紀元前366年]])、60歳頃、[[シュラクサイのディオン|ディオン]]<ref group="注">[[ディオゲネス・ラエルティオス]]が[[アリスティッポス]]の説として述べるところによれば、ディオンはプラトンの恋人([[稚児]])であった。プラトンは、他にもアステールという若者、パイドロス、アレクシス、[[アガトーン|アガトン]]と恋仲にあった。また、[[コロポン]]生まれの芸娘アルケアナッサを囲ってもいた。『ギリシア哲学者列伝 (上)』岩波文庫、271-273頁。</ref>らの懇願を受け、シケリア島の[[シラクサ|シュラクサイ]]へ旅行した(2度目のシケリア行)。シュラクサイの若き[[僭主]][[ディオニュシオス2世]]を指導して[[哲人政治]]<ref group="注">対話篇『[[国家 (対話篇)|国家]]』に示される。</ref>の実現を目指したが、プラトンが到着して4ヶ月後に、流言飛語によってディオンは追放されてしまい、不首尾に終わる<ref name=shokan />。
 
 
 
=== 第三回シケリア旅行 ===
 
[[紀元前361年]](-[[紀元前360年]])、66歳頃、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目の[[シュラクサイ]]旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ、今度はプラトン自身が軟禁されてしまう。この時プラトンは、友人である[[ピタゴラス教団|ピュタゴラス派]]の政治家[[アルキタス|アルキュタス]]の助力を得て、辛くもアテナイに帰ることができた。
 
 
 
シュラクサイにおける哲人政治の夢は[[紀元前353年]]、プラトンが74歳頃、ディオンが54歳の若さにして政争により暗殺されたことによって途絶えた。
 
 
 
プラトンは晩年、著述とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、[[紀元前347年]]([[紀元前348年]]とも)、80歳で没した。
 
 
 
== 哲学 ==
 
{{出典の明記|date=2018年6月|section=3}}
 
[[ファイル:Sanzio 01 Plato Aristotle.jpg|thumb|right|200px|[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]画, 1509年  プラトンと[[アリストテレス]]。]]
 
 
 
=== イデア論 ===
 
一般に、プラトンの哲学は[[イデア論]]を中心に展開されると言われる。
 
 
 
最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「[[無知の知]]」「[[アポリア]](行き詰まり)」を経ながら、問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、「徳は知識である」といった[[主知主義]]的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、[[ピュタゴラス派]]と交流を持ったことにより、初期末の『[[メノン (対話篇)|メノン]]』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa [[ドクサ]])と「知識」(episteme [[エピステーメー]])の区別、[[数学]]・[[幾何学]]や「[[魂]]」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「[[イデア]]」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。
 
 
 
生成変化する物質界の背後には、永遠不変の[[イデア]]という理想的な範型があり、イデアこそが真の[[実在]]であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の[[感覚]]ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、[[アナムネーシス]])することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。
 
 
 
こうした発想は、『[[国家 (対話篇)|国家]]』『[[パイドロス]]』で典型的に描かれており、『国家』においては、「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」などによっても例えられてもいる。プラトンは、最高のイデアは「[[善のイデア]]」であり、存在と知識を超える最高原理であるとした。哲学者は[[知識|知]]を愛するが、その愛の対象は「あるもの」である。しかるに、ドクサ(思いなし、思い込み)を抱くにすぎない者の愛の対象は「あり、かつ、あらぬもの」である。このように論じてプラトンは、[[存在論]]と[[認識論|知識]]を結びつけている。
 
 
 
『[[パルメニデス (対話篇)|パルメニデス]]』『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』『[[ソピステス]]』『[[政治家 (対話篇)|政治家]]』といった中期の終わりから後期にかけては、[[エレア派]]の影響も顕著になる。
 
 
 
『[[ティマイオス]]』では、この世界・宇宙は、善なる製作者([[デミウルゴス]])たる神によって、永遠なるイデアを範型として模倣・制作したものであることが語られる。『[[法律 (対話篇)|法律]]』では、諸天体が神々の「最善の魂」の知性([[ヌース]])によって動かされていることを説明する。
 
 
 
==== 問答法(弁証法・弁証術) ====
 
プラトンは、師ソクラテスから[[問答法]]([[弁証法]]、ディアレクティケー)を受け継いだ。『[[プロタゴラス (対話篇)|プロタゴラス]]』『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』『[[エウテュデモス (対話篇)|エウテュデモス]]』といった初期対話篇では、専ら[[ソフィスト]]達の[[弁論術]](レートリケー)や[[論争術]](エリスティケー)と対比され、妥当性追求のための手段とされるに留まっていたそれは、中期の頃から対象を自然本性にしたがって「多から一へ」と特定するための推論技術として洗練されていき<ref>『[[パイドロス]]』266B</ref>、数学・[[幾何学]]と並んで、「イデア」に近付くための不可欠な手段となる。
 
 
 
『[[国家 (対話篇)|国家]]』においては、数学的諸学と共に、「哲人王」が修めるべき教育内容として言及される。
 
 
 
『[[メノン (対話篇)|メノン]]』から中期にかけては「仮設(ヒュポテシス)法」、後期からは「分割(ディアイレシス)法」といった手法も登場する。
 
 
 
これらは後に、[[アリストテレス]]によって、「[[論理学]]」へと発展されることになる(『[[オルガノン]]』)。
 
 
 
==== 数学・幾何学 ====
 
プラトンは、第一回シケリア旅行で[[ピュタゴラス派]]と交流をしたことで、『[[メノン (対話篇)|メノン]]』以降、[[数学]]・[[幾何学]]を重視し、頻繁に取り上げるようになった。そしてこれらは、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を支える重要な根拠にもなった。
 
 
 
彼の学園[[アカデメイア]]においても、数学・幾何学が特に重視されたことはよく知られている。『[[国家 (対話篇)|国家]]』や『[[法律 (対話篇)|法律]]』においても、国制・法律を保全し、その目的である善を追求していく国家主導者としての「[[哲人王 (プラトン)|哲人王]]」や「[[夜の会議]]」構成員には必須の教育内容と述べられていて、数学を重視する姿勢は晩年まで一貫していた。
 
 
 
====天文学・自然学・神学====
 
中期・後期にかけての対話篇においては、「イデア」論をこの世界・宇宙全体に適用する形で、自然学的考察がはかられていった。
 
 
 
初期の『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』においても既に、ソクラテスとカリクレスの問答を通して、「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)の(「善」を目的とするという点での)一体性に、言及されているが、中期の『[[パイドン]]』では、[[アナクサゴラス]]の[[自然哲学]]を、補助原因に過ぎない「必然」に囚われ、真の原因たる「善」を見落としていると批判する形で、プラトンの自然観が、従来の自然哲学とは異なることが明示され始める。
 
 
 
『[[パイドロス]]』では、3つ目に提示された物語において、天球を駆け、その外側のイデアを観想する神々と魂の姿が描かれ、後期の『[[政治家 (対話篇)|政治家]]』では、エレアからの客人によって神々による天体の統治についての物語が、『[[ティマイオス]]』ではティマイオスによって、善なる製作者([[デミウルゴス]])たる神によって、この世界・宇宙がイデア界の似姿として作られたことが、語られる。
 
 
 
そして、最後の対話篇である『[[法律 (対話篇)|法律]]』では、第10巻を丸々使って、[[無神論]]に対する反駁や、諸天体は神々の「最善の魂」、その知性([[ヌース]])によって動かされていること、神々は人間を配慮していて宇宙全体の善を目指していること等の論証を行う。これは、プラトンにとっての「[[神学]]論」であると同時に、歴史上初の「[[自然神学]]」(哲学的神学)であるとされる<ref>『プラトン全集13』岩波書店p814</ref>。
 
 
 
このように、プラトンにとっては、自然・世界・宇宙と神々は、不可分一体的なものであり、そしてその背後には、善やイデアがひかえている。
 
 
 
こうした発想は、[[アリストテレス]]にも継承され、『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』『[[自然学 (アリストテレス)|自然学]]』『[[天体論 (アリストテレス)|天体論]]』などとして発展された。
 
 
 
==== 魂論 ====
 
プラトンの思想を語る上では、「[[イデア]]」と並んで、「[[魂]]」([[プシュケー]])が欠かせない要素・観点となっている。そして、両者は密接不可分に関連している。
 
 
 
初期の『[[ソクラテスの弁明]]』『[[クリトン]]』『[[プロタゴラス (対話篇)|プロタゴラス]]』『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』等においても既に、「魂を善くすること」や、死後の「魂」の行き先としての[[冥府]]などについて言及されていたが、第一回シケリア旅行において[[ピュタゴラス派]]と交流を持った後の、『[[メノン (対話篇)|メノン]]』以降の作品では、本格的に「魂」(プシュケー)が「イデア」と並んで話の中心を占め、その性格・詳細が語られていくようになっていく。
 
 
 
『[[メノン (対話篇)|メノン]]』においては、「(不死の)魂の[[想起説|想起]]」([[アナムネーシス]])がはじめて言及され、「学ぶことは、想起すること」という命題が提示される。中期の『パイドン』においては、「魂の不死」について、問答が行われる。
 
 
 
『[[国家 (対話篇)|国家]]』においては、理知、気概、欲望から成る「[[魂の三分説]]」が説かれ、末尾では「[[エルの物語]]」が語られる。『[[パイドロス]]』においては、「魂」がかつて神々と共に天球を駆け、その外側の「イデア」を観想していた物語が語られる。
 
 
 
後期末の『[[法律 (対話篇)|法律]]』第10巻では、「魂」こそが運動の原因であり、諸天体は神々の「最善の魂」によって動かされていることなどが述べられる。
 
 
 
このようにプラトンの思想においては、「魂」の概念は「善」や「イデア」と対になり、その思想の根幹を支える役割を果たしている。
 
 
 
なお、[[アリストテレス]]も、『[[霊魂論]]』において、「魂」について考察しているが、こちらは感覚・思考機能を司るものとして、今日で言うところの[[脳科学]]・[[神経科学]]的な趣きが強い考察となっている。
 
 
 
==== 倫理学 ====
 
プラトンは、師ソクラテスから、「徳は知識である」という[[主知主義]]的な発想と、問答を通してそれを執拗に追求していく愛智者(哲学者)としての姿勢を学んだ。初期のプラトンは、そうした師ソクラテスが、正義・徳・善などの「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続ける様を描いていたが、第一回シケリア旅行における[[ピュタゴラス派]]との交流を経て、中期以降の対話篇では、その目指されるべきものが、「'''[[善のイデア]]'''」であるという方向性で、固まっていった。
 
 
 
『[[国家 (対話篇)|国家]]』においては、国家の守護者たる「[[哲人王 (プラトン)|哲人王]]」が目指すべきものとして「善のイデア」が提示され、その説明のために「[[太陽の比喩]]」「[[線分の比喩]]」「[[洞窟の比喩]]」が示された。
 
 
 
後期末の『[[法律 (対話篇)|法律]]』においては、第10巻にて、神々は人間を配慮しており、その配慮は宇宙全体の善を目指しているのだということが論証され、第12巻においては、「哲人王」に代わる、国制・法律保全、及びその目的である「善」達成のための機構としての「[[夜の会議]]」の構成員もまた、「哲人王」と同じような教育と資質が求められることが述べられる。
 
 
 
こうしてプラトンは、人間が「自然」(ピュシス)も「社会法習」(ノモス)も貫く「善のイデア」を目指していくべきであるとする倫理観をまとめ上げた。
 
 
 
そしてこの倫理観は、『[[国家 (対話篇)|国家]]』『[[法律 (対話篇)|法律]]』において、「哲人王」「夜の会議」と関連付けて述べられていることが示しているように、プラトンの政治学・法学の基礎となっている。
 
 
 
[[アリストテレス]]もまた、『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』から『[[ニコマコス倫理学|倫理学]]』を、『倫理学』から『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』を導くという形で、そして、「最高の共同体」たる国家の目的は「最高善」であるとして、プラトンのこうした構図をそのまま継承・踏襲している。
 
 
 
==== 政治学・法学 ====
 
プラトンが、若い頃から一貫して政治・国制・法律に対する強い関心を持ち続け、晩年に至るまでその考察を続けていたこと、また、彼にとって政治と哲学は不可分な関係にあり、両者の統合を模索し続けていたことは、彼の一連の著作の内容や『[[第七書簡]]』のような書簡の文面からも明らかである。
 
 
 
[[アテナイ]]における[[三十人政権]]や、その後の民主派政権の現実を目の当たりにして、現実政治に幻滅し、直接関わることは控えていたが、そんな30代で書いた初期の『[[ソクラテスの弁明]]』『[[クリトン]]』でも既に、国家・国制・法律のあるべき姿を描こうとする姿勢が顕著であり、『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』においては、真の「政治術」とは、「[[弁論術]]」(レートリケー)のような「迎合」ではなく、「国民の魂を善くする」ことであらねばならず、ソクラテスただ1人のみが、そうした問題に取り組んでいたのだということを、描き出している。
 
 
 
このように、プラトンは当初から政治と哲学の統合を模索しており、中期以降に示される「[[哲人王 (プラトン)|哲人王]]」思想や、後に[[アカデメイア]]の学園として実現される同志獲得・養成の構想を、この頃既に持っていたことが、『[[第七書簡]]』でも述べられている。そして、第一回シケリア旅行にて、[[シュラクサイのディオン]]という青年に出会い、彼に自分の思想・哲学を伝授したことをきっかけとして、後に[[シュラクサイ]]という現実国家の改革(及び内紛)にも、実際に携わっていくことになる。
 
 
 
 
 
プラトンの著作の中で群を抜いて圧倒的に文量の多い二書、10巻を擁する中期の『[[国家 (対話篇)|国家]]』と、12巻を擁する後期末の『[[法律 (対話篇)|法律]]』、この二書はその題名からも分かるように、いずれも国家・国制・法律に関する書である。こうしたところからも、プラトンがいかにこの分野に強い志向・情熱を持っていたかが伺える。
 
 
 
この二書はいずれも、「議論上で、理想国家を一から構築していく試み」という体裁が採られている。
 
 
 
『[[国家 (対話篇)|国家]]』では、「'''[[哲人王 (プラトン)|哲人王]]'''」思想が披露される他、
 
*「優秀者支配制」(アリストクラティア<ref group="注">一般的には「[[貴族制]]」を指すが、プラトンは語義通り「優秀者」による支配の意味で用いている。</ref>)
 
*「名誉支配制」(ティモクラティア)
 
*「[[寡頭制]]」(オリガルキア)
 
*「[[民主制]]」(デモクラティア)
 
*「[[僭主]][[独裁制]]」(テュランニス)
 
という5つの国制の変遷・転態の様を描いたり、「妻女・子供の共有」や、俗に「[[詩人追放論]]」と表現されるような詩歌・演劇批判を行っている。
 
 
 
 
 
(なお、『国家』と『法律』の中間には、両者をつなぐ過渡的な対話篇として、後期の『[[政治家 (対話篇)|政治家]]』がある。ここでは、現実の国制として、
 
*「王制」(バシリケー) - 法律に基づく単独者支配
 
*「僭主制」(テュランニス) - 法律に基づかない単独者支配
 
*「貴族制」(アリストクラティア<ref group="注">『国家』においては「優秀者支配制」の意味で用いられていたが、ここでは本来の意味である「貴族制」の意味で用いられている。</ref>) - 法律に基づく少数者支配
 
*「寡頭制」(オリガルキア) - 法律に基づかない少数者支配
 
*「民主制」(デモクラティア) - 多数者支配(法律に基づくか否かでの区別無し)
 
が挙げられ、
 
*上記の諸国制とは異なる、知識・技術と善への志向を持った「哲人王」による理想政体実現の困難さ
 
*法律の不十分性と有用性
 
*上記の現実的国制の内、法律が順守された際には、「単独者支配」「少数者支配」「多数者支配」の順でマシな体制となり、逆に、法律が軽視された際には、「多数者支配」「少数者支配」「単独者支配」の順でマシな体制となる
 
{| class="wikitable" style="width:400px"
 
|+
 
! !! 法律遵奉時 !! 法律軽視時
 
|-
 
! 最良
 
| 単独者支配(王制) || 多数者支配(民主制)
 
|-
 
! 中間
 
| 少数者支配(貴族制) || 少数者支配(寡頭制)
 
|-
 
! 最悪
 
| 多数者支配(民主制) || 単独者支配(僭主制)
 
|}
 
などが述べられ、現実的な「次善の国制」が模索されていく。)
 
 
 
 
 
『[[法律 (対話篇)|法律]]』では、その名の通り、専ら法律の観点から、より具体的・実践的・詳細な形で、各種の国家社会システムを不足なく配置するように、理想国家「[[マグネシア]]」の構築が進められる。第3巻においては、[[アテナイ]]に代表される民主制と、[[アケメネス朝ペルシア|ペルシア]]に代表される君主制という「両極」の国制が、いずれも衰退を招いたことを挙げ、[[スパルタ]]や[[クレタ]]のように、両者を折衷した
 
* 「混合制」
 
が望ましいことが述べられる。第10巻においては、[[無神論]]批判と敬神の重要性が説かれる。最終第12巻では、国制・法律の保全と、それらの目的である「善」の護持・探求のために、『国家』における「哲人王」に代わり、複数人の哲人兼実務者から成る「'''[[夜の会議]]'''」が提示され、話が終わる。
 
 
 
 
 
なお、[[アリストテレス]]は、『[[政治学 (アリストテレス)|政治学]]』の第2巻において、上記二書に言及し、その内容に批判を加えているが、他方で、「善」を国家の目的としたり、プラトンを踏襲した国制の比較検討をするなど、プラトンの影響も随所に伺わせている。
 
 
 
==== 教育論 ====
 
プラトンにとって、哲学・政治と密接に関わっている[[教育]]は、重大な関心事であり、実際40歳にして[[アカデメイア]]に自身の学園を開設するに至った。
 
 
 
プラトンの教育論・教育観は、『[[国家 (対話篇)|国家]]』の2巻-3巻、6巻-7巻、及び『[[法律 (対話篇)|法律]]』の7巻に典型的に描かれているが、「徳は何であるか、教えうるのか」「徳の教師を自認する[[ソフィスト]]達は何を教えているのか」等の関連論も含めれば、初期の頃からほぼ全篇に渡って教育論が展開されていると言っても過言ではない。
 
 
 
そして、総じて言えば、[[数学]]・[[幾何学]]や[[問答法]]([[弁証法]])を中心とした、「[[善のイデア]]」を見極めていける・目指していけるようにする教育、それをプラトンは国の守護者、指導者、立法者であるべき哲学者たちに必要な教育だと考えており、アカデメイアでもそうした教育が行われていた。
 
 
 
 
 
また、『[[第七書簡]]』においては、[[ディオニュシオス2世]]が半可通な理解で哲学の知識に関する書物を著したことを批判しつつ、「師資相承」のごとき、いわゆる「'''知の飛び火'''」論が展開されている。哲学(愛知)の営みが目指している真実在([[イデア]])へは、
 
#「名辞」(オノマ)
 
#「定義」
 
#「模造」
 
#「知識」
 
の4つを経由しながら、接近していくことになるが、これらはどれも真実在(イデア)そのものとは異なる不完全なものであり、「言葉」や「物体」を用いて、対象が「何であるか」ではなく「どういうものであるか」を差し出すものでしかない。そして、それらはその脆弱さゆえに、論駁家によって容易に操縦されてしまうものでもある。
 
 
 
したがって、哲学(愛知)の営みが目指している真実在(イデア)に関する知性は、教える者(師匠)と教えられる者(弟子)が生活を共にし、上記の4つを突き合わせ、好意に満ちた偏見も腹蔵もない吟味・反駁・問答が、一段一段、行きつ戻りつ行われる数多く話し合いによってはじめて、人間に許される限りの力をみなぎらせて輝き出すし、優れた素質のある人の魂から、同じく優れた素質のある人の魂へと、「飛び火によって点じられた燈火」のごとく生じさせることができるものであり、いやしくも真剣に真実在(イデア)を目指し、そうしたことをわきまえている哲学者(愛知者)であるならば、そうした特に真剣な関心事は、魂の中の最も美しい領域(知性)にそのまま置かれているし、それを知っていると称して、みだりに「言葉」という脆弱な器に、ましてや「書かれたもの」という取り換えも効かぬ状態に、それをあえて盛り込もうとはしない、というのがその論旨である。
 
 
 
これと同じ主旨の話は、『[[パイドロス]]』の末尾においても述べられている<ref>『[[パイドロス]]』277D-279B</ref><ref group="注">[[ジャック・デリダ]]『[[グラマトロジーについて]]』に代表されるように、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と考える者もいるが、上記『[[第七書簡]]』の記述からも分かるように、プラトンは「書き言葉」「話し言葉」を問わず、「言葉」全般を不完全なものとみなしてそこへの依存を批判しているのであり、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と解釈するのは明確な曲解・誤解である。</ref>。
 
 
 
=== 感性論・芸術論 ===
 
プラトンは[[経験主義]]のような、[[人間]]の[[感覚]]や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい[[認識]]に至ることができないと考えたためである。
 
 
 
また、『[[国家 (対話篇)|国家]]』においては、[[芸術]]([[詩歌]]・[[演劇]])についても否定的な態度を表している<ref>『[[国家 (対話篇)|国家]]』第10巻</ref>。[[視覚]]で捉えることができる[[美]]は不完全なものであり、完全な三角形や完全な円や球そのものは常住不変のイデアである。芸術はイデアの模倣にすぎない現実の事物をさらに模倣するもの、さらには事物の模倣にすぎないものに人の関心を向けさせるものである、として芸術に低い評価を下した。
 
 
 
== 著書 ==
 
{{Dialogues of Plato}}
 
プラトンの著書として伝わるものには、対話篇と書簡がある。
 
 
 
===編纂と真贋問題===
 
プラトンの著作として伝承された文献の中には、真偽の疑わしいものや、多くの学者によって偽作とされているものも含まれている。
 
 
 
プラトンの著書の真贋はすでに紀元前の[[プトレマイオス朝]][[アレクサンドリア]]の文献学者によって議論されている。アレクサンドリア出身で、[[ローマ帝国]]2代目[[皇帝]][[ティベリウス]]の廷臣だった[[トラシュロス]]は、当時伝わっていたプラトンの著作群の中から真作と考えた36篇を抜き出し、[[ギリシア悲劇]]の四部作形式(悲劇三部作+[[サテュロス劇]])にならい、以下のように、9編の4部作(テトラロギア)集にまとめた<ref>『[[ギリシア哲学者列伝]]』3巻56-62</ref>。
 
#『[[エウテュプロン]]』『[[ソクラテスの弁明]]』『[[クリトン]]』『[[パイドン]]』
 
#『[[クラテュロス (対話篇)|クラテュロス]]』『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』『[[ソピステス]]』『[[政治家 (対話篇)|政治家]]』
 
#『[[パルメニデス (対話篇)|パルメニデス]]』『[[ピレボス]]』『[[饗宴]]』『[[パイドロス]]』
 
#『[[アルキビアデスI]]』『[[アルキビアデスII]]』『[[ヒッパルコス (対話篇)|ヒッパルコス]]』『[[恋敵 (対話篇)|恋敵]]』
 
#『[[テアゲス]]』『[[カルミデス]]』『[[ラケス (対話篇)|ラケス]]』『[[リュシス]]』
 
#『[[エウテュデモス (対話篇)|エウテュデモス]]』『[[プロタゴラス (対話篇)|プロタゴラス]]』『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』『[[メノン (対話篇)|メノン]]』
 
#『[[ヒッピアス (大)]]』『[[ヒッピアス (小)]]』『[[イオン (対話篇)|イオン]]』『[[メネクセノス]]』
 
#『[[クレイトポン]]』『[[国家 (対話篇)|国家]]』『[[ティマイオス]]』『[[クリティアス (対話篇)|クリティアス]]』
 
#『[[ミノス (対話篇)|ミノス]]』『[[法律 (対話篇)|法律]]』『[[エピノミス]]』『[[書簡集 (プラトン)|書簡集]]』
 
現在の「プラトン全集」は、慣行によりこのトラシュロスの全集に準拠しており、収録された作品をすべて含む。
 
 
 
現在、プラトンの真筆であると研究者の間で合意を得ている著作のうち、最も晩年のものは『法律』である。ここでは『国家』と同じく、政治とは何かということが語られ、理想的な教育についての論が再び展開されるが、哲人王の思想は登場しない。また、特筆すべきことに『法律』ではソクラテスではなく無名の「アテナイから来た人」が語り手を務める。多くの研究者は、この「アテナイからの人」をプラトン自身とみなし、この語り手の変化は、プラトンがソクラテスと自分との思想の違いを強く自覚するに至ったことを示唆しており、そのゆえにソクラテスを登場させなかったのだと考えている。
 
 
 
『法律』の続編として書かれたであろう『エピノミス』(『法律後篇』)では哲人王の思想が再び登場するが、『ティマイオス』の宇宙観と『エピノミス』の宇宙観が異なること、文体の乱れなどから、ほとんどの学者は『エピノミス』を弟子あるいは後代の偽作としている。ただし『エピノミス』は最晩年のプラトンがその思想を圧縮して書き残したものだと考えている学者も少数ながら存在する。
 
 
 
プラトンは[[イソクラテス]]の影響を受け、中期より文体を変えていることが分かっている。文章に使われる語彙や母音の連続などを調べる文体統計学により、現代ではかなりの作品の執筆順序について学者間の意見は一致している。たとえばトラシュロスが『クリトン』の後においた『パイドン』(ソクラテスの死の直前、ピュタゴラス学派の二人とソクラテスが対話する)は、中期の作品に属することが分かっている。ただしその内容から、いくつかの作品については執筆年代についての論争がある。
 
 
 
===印刷と普及===
 
古代にトラシュロス等によって編纂されたプラトンの著作は、写本によって継承されてきたが、一般に普及するようになったのは、[[ルネサンス]]期に入り、印刷術・印刷業が確立・発達した15-16世紀以降である。
 
 
 
当時、様々な印刷工房によって古典的著作が出版されたが、中でも[[スイス]]([[ジュネーヴ]])の[[アンリ・エティエンヌ]]([[ラテン語]]名[[ヘンリクス・ステファヌス]])の印刷工房によって、[[1578年]]に出版されたプラトン全集の完成度が高く、現在でも「'''ステファヌス版'''」<ref group="注">「[[ステファヌス]]」(Stephanus)とは、フランス姓「[[エティエンヌ]]」(Étienne)の[[ラテン語]]表現。</ref>として、標準的な底本となっている。これはページごとに[[ギリシャ語]]原文と[[ラテン語]]訳文の対訳が印刷されたものであり、各ページには、10行ごとにA, B, C... とアルファベットが付記されている。現在でも、プラトン著作の訳文には、「348A」「93C」といった数字とアルファベットが付記されることが多いが、これは「ステファヌス版」のページ数・行数を表している。
 
 
 
ただし、現在における翻訳出版においては、直接的には、[[イギリス]]の古典学者[[ジョン・バーネット]]の校本として、1900-1907年に「{{仮リンク|オクスフォード古典叢書|en|Oxford Classical Texts}}」の一部として出版された、通称「'''バーネット版'''」等が底本として用いられることが多い。
 
 
 
=== 執筆時期 ===
 
==== 初期-中期(30代-40代) ====
 
執筆推定年代については、まず、『[[ソクラテスの弁明]]』『[[クリトン]]』『[[ラケス (対話篇)|ラケス]]』『[[リュシス]]』といった最初期の著作は、プラトンが30代後半の頃、すなわち[[紀元前388年]]-[[紀元前387年]]の第一回シケリア旅行に行く'''前'''に、書かれたものであるという見解<ref>『プラトン全集1』[[岩波書店]] p367, 419</ref>で、概ね合意されている。
 
 
 
また、初期末の『[[メノン (対話篇)|メノン]]』、そして、『[[饗宴]]』『[[パイドン]]』といった中期の作品は、[[ピタゴラス学派]]の影響が色濃いこともあり、[[紀元前388年]]-[[紀元前387年]]の第一回シケリア旅行の'''後'''、またその直後の[[紀元前387年]]に[[アカデメイア]]の学園が開設された'''後'''に、すなわち40代になってから、数年の間に書かれたものであるという見解<ref>『メノン』岩波文庫pp161-163</ref><ref>『饗宴』岩波文庫p8</ref><ref>『プラトン全集1』[[岩波書店]] p419</ref><ref>『パイドン』岩波文庫p196</ref>も、概ね合意されている。
 
 
 
両者の境界線にあるのが、『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』であり、これが書かれたのは第一回シケリア旅行の前であるという見解<ref>『ゴルギアス』岩波文庫 p299</ref>と、後であり『メノン』とほぼ同時期だという見解<ref>『メノン』岩波文庫pp162-163</ref>に分かれる。
 
 
 
==== 中期-後期(50代-60代) ====
 
続く『[[国家 (対話篇)|国家]]』『[[パイドロス]]』は、[[紀元前375年]]辺りの時期、すなわち50代で書いたと推定される<ref>『国家』(下)岩波文庫p433</ref><ref>『パイドロス』岩波文庫p191</ref>。
 
 
 
中期末の『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』は、[[紀元前368年]]-[[紀元前367年]]頃、プラトンが60歳頃、すなわち[[紀元前367年]]-[[紀元前366年]]の第二回シケリア旅行にて、[[シュラクサイ]]の政争に巻き込まれる前後に書かれたものだと推定されている<ref>『テアイテトス』岩波文庫p295</ref>。
 
 
 
『テアイテトス』と内容的にも連続している後期対話篇『[[ソピステス]]』『[[政治家 (対話篇)|政治家]]』などは、その後、プラトンが[[紀元前367年]]-[[紀元前366年]]の第二回シケリア旅行から帰って来て以降の、60代で書かれたと推定される<ref>『プラトン全集3』岩波書店 p396, 435</ref>。『[[ティマイオス]]』『[[クリティアス (対話篇)|クリティアス]]』は、その次に書かれた。
 
 
 
==== 最後期(70代) ====
 
後期末(最後)の対話篇である『[[法律 (対話篇)|法律]]』は、[[紀元前361年]]-[[紀元前360年]]の第三回シケリア旅行から帰国した後の、[[紀元前358年]]に書いたと推定される『[[第三書簡]]』や、[[紀元前352年]]に書いたとされる『[[第七書簡]]』『[[第八書簡]]』との内容的な関連性も見られるので<ref>『プラトン全集13』岩波書店pp822-828</ref>、紀元前350年代半ばから、死去する[[紀元前347年]]に至るまでの70代に書かれたと推定される<ref>『プラトン全集13』岩波書店p829</ref>。
 
 
 
『法律』と同じく、最後期に分類<ref>『プラトン全集4』岩波書店p409</ref>される『[[ピレボス]]』も、同じく第三回シケリア旅行後の紀元前350年代、『法律』の直前ないし並行する形で執筆されたと推定される。
 
 
 
=== 一覧 ===
 
====初期====
 
主にソクラテスの姿を描く。
 
* 『[[ソクラテスの弁明]]』({{lang-grc-short|Ἀπολογία Σωκράτους}})
 
* 『[[クリトン]]』({{lang-grc-short|Κρίτων}})
 
* 『[[エウテュプロン]]』({{lang-grc-short|Εὐθύφρων}})
 
* 『[[カルミデス]]』({{lang-grc-short|Χαρμίδης}})
 
* 『[[ラケス (対話篇)|ラケス]]』({{lang-grc-short|Λάχης}})
 
* 『[[リュシス]]』({{lang-grc-short|Λύσις}})
 
* 『[[イオン (対話篇)|イオン]]』({{lang-grc-short|Ἴων}})
 
* 『[[ヒッピアス (大)]]』({{lang-grc-short|Ιππίας Μείζων}})
 
* 『[[ヒッピアス (小)]]』({{lang-grc-short|Ιππίας Ελάττων}})
 
* 『[[プロタゴラス (対話篇)|プロタゴラス]]』({{lang-grc-short|Πρωταγόρας}})
 
* 『[[エウテュデモス (対話篇)|エウテュデモス]]』({{lang-grc-short|Εὐθύδημος}})
 
* 『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』({{lang-grc-short|Γοργάς}})
 
* 『[[クラテュロス (対話篇)|クラテュロス]]』({{lang-grc-short|Κρατύλος}})
 
* 『[[メネクセノス]]』({{lang-grc-short|Μενέξενоς}})
 
* 『[[メノン (対話篇)|メノン]]』({{lang-grc-short|Mενων}})
 
 
 
====中期====
 
[[イデア]]論、魂の[[想起説]]、「[[哲人王 (プラトン)|哲人王]]」思想を展開。
 
* 『[[饗宴]]』({{lang-grc-short|Συμπόσιον}} - シュンポシオン)
 
* 『[[パイドン]]』({{lang-grc-short|Φαίδων}})
 
* 『[[国家 (対話篇)|国家]]』({{lang-grc-short|Πολιτεία}} - ポリテイア)
 
* 『[[パイドロス]]』({{lang-grc-short|Φαῖδρος}})
 
* 『[[パルメニデス (対話篇)|パルメニデス]]』({{lang-grc-short|Παρμενίδης}})
 
* 『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』({{lang-grc-short|Θεαίτητος}})
 
 
 
====後期====
 
「[[自然]]」「[[宇宙]]」全体へと、より一層踏み込む。現実的な「次善の国制」を模索。「哲人王」に代わり「[[夜の会議]]」を提示。
 
* 『[[ソピステス]]』({{lang-grc-short|Σοφιστής}})
 
* 『[[政治家 (対話篇)|政治家]]』({{lang-grc-short|Πολιτικός}} - ポリティコス)
 
* 『[[ティマイオス]]』({{lang-grc-short|Τίμαιος περὶ φύσεως}})
 
* 『[[クリティアス (対話篇)|クリティアス]]』({{lang-grc-short|Κριτίας}}) ※未完
 
* 『[[ピレボス]]』({{lang-grc-short|Φίληβος}})
 
* 『[[法律 (対話篇)|法律]]』({{lang-grc-short|Νόμοι}} - ノモイ)
 
<!--* {{仮リンク|エピノミス (対話篇)|en|Epinomis|label=エピノミス}}({{lang-grc-short|Ἐπινομίς}}) ※法律の続篇。現在では[[:en:Philip of Opus|Philip of Opus]]の作とする説が有力。-->
 
* 『[[第七書簡]]』
 
 
 
=== 邦訳 ===
 
* 『プラトン全集』 [[田中美知太郎]]・[[藤沢令夫]]編、[[岩波書店]](全14巻)、数度重刷。
 
* 著作の約半数が数社で文庫化している。
 
 
 
== 後世への影響 ==
 
プラトンの西洋哲学に対する影響は弟子の[[アリストテレス]]と並んで絶大である<ref group="注">アリストテレスの思想の成立には、師プラトンが大きく関与したこと考えられている。ただし、その継承関係には議論があり、アリストテレスはプラトンの思想を積極的に乗り越え本質的に対立しているとするものと、プラトンの思想の本質的な部分を継承したとするものとに大きく分かれる。</ref>。
 
 
 
プラトンの影響の一例としては、[[ネオプラトニズム]]と呼ばれる[[古代ローマ]]末期、[[ルネサンス]]期の思想家たちを挙げることができる。「一者」からの万物の流出を説くネオプラトニズムの思想は、成立期の[[キリスト教]]やルネサンス期哲学、さらに[[ロマン主義]]などに影響を与えた(ただし、[[グノーシス主義]]や[[アリストテレス]]哲学の影響が大きく、プラトン自身の思想とは様相が異なってしまっている)。
 
 
 
プラトンは『[[ティマイオス]]』の中の物語で、制作者「[[デミウルゴス]]」がイデア界に似せて現実界を造ったとした。この「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換えることにより、1世紀のユダヤ人思想家[[アレクサンドリアのフィロン]]は[[ユダヤ教]]とプラトンとを結びつけ、プラトンはギリシアの[[モーセ]]であるといった。『ティマイオス』は西ヨーロッパ中世に唯一伝わったプラトンの著作であり、プラトンの思想はネオプラトニズムの思想を経由して中世の[[スコラ学|スコラ哲学]]に受け継がれる。
 
 
 
[[アトランティス]]伝説の由来は『ティマイオス』および『クリティアス』によっている。
 
 
 
[[カール・ポパー]]は、プラトンの『ポリティア』などに見られる設計主義的な社会改革理論が[[社会主義]]や[[国家主義]]の起源となったとして、プラトン思想に潜む[[全体主義]]を批判した<ref>[[納富信留]]『プラトン 理想国の現在』(慶応義塾大学出版会、2012年)</ref>。
 
 
 
=== アトランティス大陸の伝承・伝説について ===
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|title=学問|year=2004|publisher=講談社|isbn=4-06-212369-X|pages=321-323|chapter=99 プラトン}}
 
* [[ディオゲネス・ラエルティオス]] 『[[ギリシア哲学者列伝]] (上)』、([[加来彰俊]]訳、岩波文庫、初版1984年)。ISBN 400336631X
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[ギリシア哲学]]
 
*[[イデア論]]
 
*[[洞窟の比喩]]
 
*[[プラトニック]]
 
**[[プラトニック・ラブ]]
 
*[[少年愛]]
 
*[[アトランティス大陸]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{wikisourcelang|el|Πλάτων|プラトン}}
 
{{commonscat|Plato}}
 
{{wikiquote}}
 
* {{Yahoo!百科事典}}
 
* {{青空文庫著作者|915|プラトン}}
 
* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/platon/index.html 松本亦太郎・木村鷹太郎訳 プラトーン全集] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。
 
{{Platonists}}{{自然法論のテンプレート}}
 
{{社会哲学と政治哲学}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
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{{DEFAULTSORT:ふらとん}}
 
{{DEFAULTSORT:ふらとん}}
 
[[Category:プラトン|*]]
 
[[Category:プラトン|*]]

2019/5/10/ (金) 23:04時点における最新版

プラトン(プラトーン、Ἀρχαία ἑλληνικὴ: ΠλάτωνPlátōn: Plato紀元前427年 - 紀元前347年

ギリシアの哲学者。アテネの名門に生れ若くしてソクラテスと交わり,最も正義の人と信じてやまなかったソクラテスの不条理な死と,当時の政治情勢に対する失望から哲学の道に入った。その著作のほとんどはソクラテスを中心とする対話篇である。彼の功績の第1は学問における方法の重要性の認識とその確立であり,第2はこの方法を基礎とした形而上学と倫理学の確立である。認識論的には感性的知覚に対して純粋な知性的認識の優位をとり,存在論的には感性的世界と思惟的世界を区別し,イデア論を形成してソフィストに対抗した。数回にわたってイタリアやシチリア島を訪れ,ピタゴラス学派とも接した。後年アテネにアカデメイアを創設し,真に理想国家の統治者たるべき人材の養成をはかった。 (プラトン主義 )  



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