「フランシスコ・ザビエル」の版間の差分

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{{Redirectlist|ザビエル|本項目の人物に由来する人名|シャビエル|その他のザビエル|ザビエル (曖昧さ回避)}}
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{{Infobox 聖人
 
{{Infobox 聖人
 
|名前=聖フランシスコ・ザビエル
 
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|守護対象=キリスト教伝道、航海士、[[上智大学]]、{{仮リンク|サン・フランシスコ・ザビエル大学|en|University of Saint Francis Xavier}}、ほか[[#ザビエルが守護聖人とされている国・地域|下記]]参照
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|守護対象=
 
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'''フランシスコ・デ・ザビエル'''({{Lang-es|'''Francisco de Xavier'''}} または {{Lang|es|'''Francisco de Jasso y Azpilicueta'''}}, [[1506年]]頃[[4月7日]] - [[1552年]][[12月3日]])は、[[スペイン]]の[[ナバラ王国]]生まれの[[カトリック教会]]の[[司祭]]、[[宣教師]]。[[イエズス会]]の創設メンバーの1人。[[バスク人]]。
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'''フランシスコ・デ・ザビエル'''({{Lang-es|'''Francisco de Xavier'''}} または {{Lang|es|'''Francisco de Jasso y Azpilicueta'''}}, [[1506年]]頃[[4月7日]] - [[1552年]][[12月3日]]
  
[[ポルトガル王]][[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]の依頼で[[インド]]の[[ゴア州|ゴア]]に派遣され、その後[[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年)に[[日本]]に初めて[[キリスト教]]を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖[[パウロ]]を超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の[[聖人]]で、記念日は[[12月3日]]。
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[[スペイン]][[バスク地方]]出身の[[イエズス会]]士。
  
== 名前について ==
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東洋布教に努め,日本に初めてキリスト教を伝え,東洋の使徒といわれた。パリに学び,ここで[[イグナチウス・デ・ロヨラ]]に会い,熱心な信仰を得て,ロヨラら6人とともに[[イエズス会]]を結成,1537年司祭となる。ポルトガル王の要請で東インドに派遣され,1542年ゴアにいたり,同地でポルトガル人信徒の指導,現地住民の改宗のために働く。 1545~46年マラッカ,モルッカ諸島,アンボン,モロタイなどに赴く。
生家の[[ハビエル城]]<ref>[http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1058783-d1007940-Reviews-Museo_Castillo_De_Javier-Javier_Navarra.html ハビエル城(ザビエル城)]</ref>は[[フランス]]との国境に近い北[[スペイン]]の[[ナバラ王国]]のハビエルに位置し、[[バスク語]]で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風[[訛り]]である。フランシスコの姓はこの町に由来する。この姓はChavier やXabierre などとも綴られることもある。Xavier は[[ポルトガル語]]であり、発音は「シャヴィエル」。当時の[[カスティーリャ語]]でも同じ綴りで、発音は「シャビエル」であったと推定される{{Efn|神戸市立博物館蔵のザビエル肖像(冒頭画像参照)には、「さんふらぬしすこさべりうすさからめんと(聖フランシスコ・ザビエルの[[秘跡]])」と書かれている。名は[[ロマンス語]]読みに近いが、姓は[[:la:Franciscus Xaverius|ラテン語読み]]に近い。[https://web.archive.org/web/20130216023640/http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin/043.html 神戸市立博物館:名品撰](2013年2月16日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])}}{{Efn|[[新井白石]]の『[[西洋紀聞]]』には、「むかし豊後国に、鬼怪ある家あり。ポルトガル人の来れるを、かしこに按置す。ポルトガル人、其壁上にクルスをかきしに、そのゝちは彼怪やみぬ。国司此事をきゝて、不思議の事におもへり。一年を経し後に、フランシスコシヤヒヱル来たりしかば、国司やがて、其法をうけしといふ。そのフランシスコシヤヒヱルといふは、ポルトカルの語也。ラテンの語に、フランシスクスサベィリウスといふ、これ也。」とある<ref>新井白石著、宮崎道生校訂『西洋紀聞』(新訂版)平凡社(東洋文庫)、1968年、72頁。</ref>。}}。現代[[スペイン語]]ではJavier であり、発音は「ハビエル」。
 
  
かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」([[イタリア語]]読みから。「サヴェーリョ」がより近い)という呼び名を用いていた{{Efn|過去の表記としては他に「ザビエー」等がある。例: [[幸田成友]]著『聖フランシスコ・ザビエー小傳』(1941年刊)}}。
+
1547年末マラッカで日本人ヤジロウ (アンジロウ) に接し,日本布教の重要性を悟り,1549 (天文 18) 年7月3日鹿児島に到着,7月 22日 (新暦の8月 15日) に上陸した。滞在2年余のうちに平戸,山口,京都などで布教,500人以上に洗礼を授けた。
  
現在はおもに「ザビエル」が用いられるほか、ザビエルにゆかりのある[[山口県]]では「サビエル」と呼ばれる(例: [[山口サビエル記念聖堂]]、[[サビエル高等学校]])。
+
ゴアに帰ったザビエルは,鎖国下の中国布教を企て,広東 (広州) 港外の小島で入国の機会を待っている間に熱病にかかり死去。
 
 
== 生涯 ==
 
=== 青年期まで ===
 
[[File:Castillo_javier.jpg|250px|thumb|[[ハビエル城]]]]
 
1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルは[[ナバラ王国]]の[[パンプローナ]]に近い[[ハビエル城]]で生まれ、地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父は[[ドン・フアン・デ・ハッソ]]、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタという名前であった。父はナバラ王[[フアン3世 (ナバラ王)|フアン3世]]の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン([[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]=[[アラゴン王国|アラゴン]])の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
 
 
 
[[1525年]]、19歳で名門[[パリ大学]]に留学。[[聖バルブ学院]]に入り、自由学芸を修め、[[哲学]]を学んでいるときにフランス出身の若き[[ピエール・ファーヴル]]と同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ([[イグナチオ・デ・ロヨラ]])も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインの[[アルカラ大学]]を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、[[ガンディア]]の女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、[[1534年]]8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーブルと[[シモン・ロドリゲス]]、[[ディエゴ・ライネス]]、[[ニコラス・ボバディリャ]]、[[アルフォンソ・サルメロン]]の7人が、[[モンマルトル]]の[[聖堂]]において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」であり、[[イエズス会]]の創立である。この時の[[ミサ]]は、当時唯一[[司祭]]となっていたファーブルが執り行った。一同は[[ローマ教皇]][[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]の知遇を得て、[[叙階]]許可を与えられたので、[[1537年]]6月、[[ヴェネツィア]]の教会でビンセンテ・ニグサンティ[[司教]]によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。彼らは[[エルサレム]]巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。
 
 
 
=== 東洋への出発 ===
 
[[File:Xavier f map of voyages asia.PNG|thumb|300px|ザビエルがとった航路]]
 
<gallery>
 
File:Braun_Lisboa_UBHD.jpg|リスボン(1572年の図)
 
File:GoaIndiaeOrientalisMetropolis.jpg|ゴアの古地図(18世紀の作)
 
File:Bom_jesus.jpg|ゴア、ボン・ジェズス教会外観
 
File:Antique_Map_Valentijn_Malacca.jpg|マラッカの港と要塞(オランダ統治時代の1726年の図)
 
</gallery>
 
 
 
当初より世界宣教をテーマにしていた[[イエズス会]]は、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ジョアン3世 (ポルトガル王)|ジョアン3世]]の依頼で、会員を当時ポルトガル領だった[[インド]]西海岸の[[ゴア州|ゴア]]に派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスが[[リスボン]]で引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに[[1541年]]4月7日に[[リスボン]]を出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。8月にアフリカの[[モザンビーク]]に到着、秋と冬を過して[[1542年]]2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、[[1545年]]9月に[[ムラカ|マラッカ]]、さらに[[1546年]]1月には[[モルッカ諸島]]に赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、[[1547年]]12月に出会ったのが[[鹿児島市|鹿児島]]出身の[[ヤジロウ]](アンジロー)という日本人であった。
 
 
 
=== 日本へ ===
 
[[ファイル:Meet site of Francis Xavier and Lord Shimazu Takahisa.JPG|thumb|ザビエル会見の地(一宇治城)]]
 
[[1548年]]11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌[[1549年]][[4月15日]]、イエズス会士[[コスメ・デ・トーレス]]神父、[[フアン・フェルナンデス (宣教師)|フアン・フェルナンデス]]修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで[[洗礼]]を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともに[[ジャンク船]]でゴアを出発、日本を目指した{{Efn|3人は、ゴアの聖信学院(Collegio de Santa Fé)で洗礼を受けた<ref>ザビエル書簡1549年6月20日付、ポルトガル王ジョアン3世宛て</ref>。}}。
 
 
 
一行は[[明]]の{{仮リンク|上川島|en|Shangchuan Island}}([[広東省]][[江門市]][[台山]])を経由し、ヤジロウの案内でまずは[[薩摩半島]]の[[坊津]]に上陸、その後許しを得て、[[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年)8月15日に現在の[[鹿児島市]][[祇園之洲町]]に来着した。この日は[[カトリック教会|カトリック]]の[[聖母の被昇天|聖母被昇天]]の祝日にあたるため、ザビエルは日本を[[聖母マリア]]に捧げた。
 
 
 
1549年9月には、伊集院城([[一宇治城]]/現・[[鹿児島県]][[日置市]][[伊集院町大田]])で[[薩摩国]]の[[守護大名]]・[[島津貴久]]に謁見、宣教の許可を得た{{Efn|宣教師の記録では、ザビエルが島津貴久に謁見した場所は「鹿児島から5、6[[リーグ (単位)|レグア]]の地」とのみ述べられ、地名は明記されていない。一宇治城であったという説が有力だが、他に[[清水城 (薩摩国)|清水城]](現・鹿児島市)という説もある。[https://web.archive.org/web/20070904185737/http://f34.aaa.livedoor.jp/~batabaru/kagoshimakiyomizu.htm 清水城](2007年9月4日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])}}。
 
ザビエルは薩摩での布教中、[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]の住職で友人の{{読み仮名|[[忍室]]|にんじつ}}と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる[[鹿児島のベルナルド]]などにもこの時に出会う。
 
 
 
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「[[京都|京]]にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
 
 
 
[[1550年]](天文19年)8月、ザビエル一行は[[肥前国]][[平戸市|平戸]]に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に[[周防国]][[山口市|山口]]に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・[[大内義隆]]にも謁見するが、[[男色]]を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りを買い、同年12月17日に周防を立つ。[[岩国市|岩国]]から海路に切り替え、[[堺市|堺]]に上陸。豪商の[[日比屋了珪]]の知遇を得る。
 
 
 
=== 失意の京滞在 山口での宣教 ===
 
[[1551年]](天文20年)1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で[[小西隆佐]]の歓待を受けた。
 
 
 
ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、[[インド総督]]とゴアの[[司教]]の親書とともに[[後奈良天皇]]および征夷大将軍・[[足利義輝]]への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、[[比叡山]][[延暦寺]]の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による[[室町幕府]]の権威失墜も背景にあると見られ、当時の[[御所]]や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
 
 
 
ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、[[ギヤマン]]の水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった{{Efn|西洋[[時計]]がはじめて日本に輸入されたのは、1551年(天文19年)であり、山口を訪れたザビエルが大内義隆に三筒式小銃や楽器等とともに捧呈した時であるとされる<ref>[[坪内逍遥]]監修、西村真次著『江戸時代創始期』(1922年)巻頭([[徳川家康]]保持の置時計)</ref>。}}。ザビエルは、初めて日本に[[眼鏡]]を持ち込んだといわれる。
 
 
 
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、[[信仰の自由]]を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた[[大道寺]]をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の[[教会堂]])。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
 
 
 
また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の[[琵琶法師]]がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師[[ロレンソ了斎]]となった。
 
 
 
=== 豊後国での宣教 ===
 
ザビエルは、[[豊後国]][[府内 (豊後国)|府内]](現在の[[大分県]][[大分市]])にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれる)。1551年9月、ザビエルは豊後国に到着。守護大名・[[大友義鎮]](後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った(これが後に[[大友氏|大友]]家臣団の対立を生む遠因のひとつとなった)。
 
 
 
=== 再びインドへ ===
 
日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。[[1552年]]2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
 
 
 
=== 中国布教への志しと終焉、死後列聖まで ===
 
[[File:Casket_of_Saint_Francis_Xavier.jpg|thumb|200px|[[ゴア州|ゴア]]のボン・ジェズ教会内・ザビエルの遺体が安置された棺]]
 
[[File:The_Arm_of_St._Francis_Xavier_1949.jpg|200px|thumb|1949年に日本に運ばれたザビエルの右腕]]
 
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、[[バルタザル・ガーゴ]]神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日<!---<ref>聖フランシスコ・ザビエルを守護聖人としている[[広島学院中学・高等学校]]は12月3日としている。[http://www.catholicschools.jp/schools/schools_data/schools_data_06ha/schools_hiroshima_gakuin.htm]</ref>--->、上川島でこの世を去った。46歳であった。
 
 
 
遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。[[1553年]]2月マラッカに移送。さらにゴアに移され、[[1554年]]3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに[[1902年]]そのうちの1個が[[ザビエル城]]に移された<ref>司馬遼太郎、『街道をゆく 南蛮のみち』〜ザビエルの右手〜など参照。</ref>。遺骸は現在[[ボン・ジェズ教会]]に安置されている。棺の開帳は10年に1度。<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/20141123-OYT1T50097.html? |title=ザビエルのミイラ化遺体に祈り…10年ぶり公開 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2014-11-24 |accessdate=2014-11-24 |archiveurl=https://archive.is/20141124115936/http://www.yomiuri.co.jp/world/20141123-OYT1T50097.html? |archivedate=2014-11-24}}</ref>
 
 
 
右腕下膊は、[[1614年]]にローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、これをもって「奇跡」とされた。以後、この右腕はローマ・[[ジェズ教会]]に安置されている。そしてこの右腕は[[1949年]](ザビエル来朝400年記念)および[[1999年]](同450年記念)に日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された。
 
 
 
なお右腕上膊は[[マカオ]]に、耳・毛は[[リスボン]]に、歯は[[ポルト]]に、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。
 
 
 
ザビエルは1619年10月25日に教皇[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]によって[[列福]]され、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス15世]]によって[[列聖]]された。
 
 
 
== ザビエルと日本人 ==
 
日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。<ref>『聖フランシスコ・ザビエル全書簡 3』p96より</ref>」と高評価を与えている<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000140678 戦国時代の宣教師について]レファレンス事例詳細埼熊-2013-050、レファレンス協同データベース、2013年06月01日</ref>。
 
 
 
ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた[[衆道]]([[日本における同性愛|同性愛]]又は[[男色]])が日本において公然と行われていたことであった。
 
 
 
布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「[[大日如来|大日]]」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「[[デウス]]」という[[ラテン語]]をそのまま用いるようになった。以後、[[キリシタン]]の間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる([[インカルチュレーション]]も参照)。
 
 
 
[[幕末]]に滞日したオランダ人医師[[ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト|ポンペ]]はその著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの物語は広く西洋で知られており、これが[[アメリカ合衆国]]政府をして[[マシュー・ペリー|ペリー]]率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因となったのは明らかである、と述べている<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=uFZDAQAAIAAJ&pg=cover#v=onepage&q&f=false ポンペ日本滞在見聞記] - 新異国叢書, 第 10 巻、雄松堂書店, 1887、緒言p4</ref>。
 
 
 
== ザビエルの名を戴くカトリック教会・団体 ==
 
=== 日本国内の教会 ===
 
[[File:Yamaguchi Xavier Memorial Church.JPG|thumb|200px|山口サビエル記念聖堂]]
 
* [[山口サビエル記念聖堂]]<ref>[http://www.xavier.jp/ 山口サビエル記念聖堂 山口カトリック教会]</ref>([[山口県]][[山口市]])
 
* [[平戸ザビエル記念教会]]([[長崎県]][[平戸市]])※教会の保護者は[[大天使]]聖[[ミカエル]]
 
* [[鹿児島カテドラルザビエル教会]]<ref>[http://xavier-kagoshima.net/ 鹿児島カテドラル・ザビエル教会]</ref>([[鹿児島県]][[鹿児島市]])
 
このほか、日本国内にはザビエルを教会の保護者(保護聖人)として名を戴く聖堂(教会)が33ある<ref name="kanda kyoukai">[http://catholickandachurch.org/about/church/church2 聖堂の歴史 カトリック神田教会]</ref>。
 
 
 
=== 日本国内の団体 ===
 
* [[聖ザベリオ宣教会]](日本管区・[[大阪府]][[泉佐野市]])
 
* [[郡山ザベリオ学園]]小学校・中学校<ref>[http://www.xaverio.ed.jp/ 郡山ザベリオ学園]</ref>([[福島県]][[郡山市]])
 
* [[会津若松ザベリオ学園小学校・中学校・高等学校]]<ref>[http://www.aizu-xavier.fks.ed.jp/ 会津若松ザベリオ学園]</ref>(福島県[[会津若松市]])
 
* [[サビエル高等学校]](山口県[[山陽小野田市]])
 
 
 
=== 日本国外の教会 ===
 
* [[スペイン]]
 
** {{仮リンク|サン・フランシスコ・ハビエル教会 (カセレス)|label=サン・フランシスコ・ハビエル教会|es|Iglesia de San Francisco Javier (Cáceres)}}([[カセレス]])
 
** {{仮リンク|サン・フランシスコ・ハビエル教会 (ピント)|label=サン・フランシスコ・ハビエル教会|es|Iglesia de San Francisco Javier (Pinto)}}([[マドリード州]][[ピント]])
 
<!--** サン・フランシスコ教会([[マラガ県]][[アンテケーラ]])
 
** サン・フランシスコ教会([[アストゥリアス州]][[アビレス]])
 
** サン・フランシスコ教会([[ウエルバ県]][[アジャモンテ]])
 
** サン・フランシスコ教会([[コルドバ県]][[バエナ]])
 
** サン・フランシスコ教会([[ハエン県]][[バエサ]])
 
** サン・フランシスコ教会(コルドバ県[[ブハランセ]])
 
** サン・フランシスコ・ハビエル教会([[カセレス県]][[カセレス]])
 
** サン・フランシスコ教会(コルドバ県[[コルドバ]]) 
 
** サン・フランシスコ教会([[グラナダ県 (スペイン)|グラナダ県]][[グアディス]])
 
** サン・フランシスコ教会(グラナダ県[[ロハ]])
 
** サン・フランシスコ教会(コルドバ県[[モンティージャ]])
 
** サン・フランシスコ教会([[パレンシア県]][[パレンシア]])
 
** サン・フランシスコ教会(コルドバ県[[プリエゴ・デ・コルドバ]])
 
** サン・フランシスコ教会([[カディス県]][[サンルーカル・デ・バラメーダ]])
 
** サン・フランシスコ教会([[カンタブリア州]][[サンタンデール]])
 
** サン・フランシスコ教会([[トレド県]][[タラベラ・デ・ラ・レイナ|タラベーラ・デ・ラ・レイナ]])
 
** サン・フランシスコ教会([[ルーゴ県]][[ビベイロ]])-->
 
* [[フランス]]
 
** {{仮リンク|サン・フランソワ・グザヴィエ教会|fr|Église Saint-François-Xavier (Paris)}}([[パリ]]) - 教会の前に同名の[[メトロ (パリ)|地下鉄]]の駅がある。
 
* [[中華人民共和国]]
 
**[[董家渡聖フランシスコ・ザビエル教会]]([[上海市]][[黄浦区]])
 
**[[聖フランシスコ・ザビエル教会 (マカオ)|聖フランシスコ・ザビエル教会]]([[マカオ|マカオ特別行政区]])
 
* [[フィリピン]]
 
** 聖フランシスコ・ザビエル教会([[バタンガス州]]Nasugbu)
 
*[[マレーシア]]
 
** [[聖フランシスコ・ザビエル教会 (マラッカ)|聖フランシスコ・ザビエル教会]](マラッカ)
 
*[[シンガポール]]
 
** {{仮リンク|聖フランシスコ・ザビエル教会 (シンガポール)|en|Church of Saint Francis Xavier, Singapore|label=聖フランシスコ・ザビエル教会}}
 
* [[アメリカ合衆国|アメリカ]]
 
** {{仮リンク|聖フランシスコ・ザビエル聖堂 (ダイアーズビル)|label=聖フランシスコ・ザビエル聖堂|en|Basilica of St. Francis Xavier, Dyersville}}([[アイオワ州]][[ダイアーズビル]])
 
** {{仮リンク|サン・ハビエル・デル・バック伝道教会|en|Mission San Xavier del Bac}}([[アリゾナ州]][[ツーソン]]近郊) - [[1699年]]に[[エウセビオ・キノ|キノ神父]]によって設立<ref>[http://www.sanxaviermission.org/ San Xavier del Bac Mission]</ref>。
 
 
 
== ザビエルゆかりの聖堂、遺物所在地など==
 
===日本国内===
 
* [[カトリック神田教会]]([[東京都]][[千代田区]])<ref name="kanda kyoukai" />、関町教会(東京都[[練馬区]])<ref>[http://www.sekimachi-ch.com/aboutus/index.html 教会案内 カトリック関町教会]</ref>、上記の山口サビエル記念聖堂および鹿児島カテドラルザビエル教会には、ザビエルの遺骨が安置されている。
 
* [[カトリック関口教会]](東京都[[文京区]]) - ザビエルの胸像型の[[聖遺物]]容器が展示されている。
 
* [[大分トラピスト修道院]]展示室([[大分県]][[速見郡]][[日出町]]) - 2008年イエズス会ローマ本部より聖フランシスコ・ザビエル右腕の小片(皮膚)が寄贈された。展示室内に常時顕示されている<ref>{{Wayback |url=http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_125971505033.html |title=【日出新聞】ザビエルの皮膚展示 |date=20091205204941}} 大分合同新聞、2009年12月2日</ref>。
 
 
 
===日本国外===
 
* ザビエル城付属聖堂([[スペイン]]・[[ナバラ州]]) - ザビエルの出身地。※「ザビエル」は彼以前からの地名(上記「人名について」参照)。
 
* ボン・ジェズ教会([[インド]]・[[ゴア州|ゴア]]) - ザビエルの遺体が安置されている<ref>[http://www.kamit.jp/02_unesco/16_goa/goa.htm ゴアの聖堂と修道院]</ref>。
 
* [[ジェズ教会]]([[イタリア]]・[[ローマ]]) - ザビエルの遺体の一部が安置されている。
 
* 聖ヨセフ修道院および聖堂([[中華人民共和国]]・[[マカオ特別行政区]]) - ザビエルの上腕部の遺骨が安置されている。
 
 
 
== ザビエルの銅像・記念碑等 ==
 
=== 日本 ===
 
※府県の配列はザビエルの来訪順
 
; 鹿児島県
 
* '''ザビエル来鹿記念碑'''{{Efn|碑文の「鹿」は「'''麑'''」。「フランシスコ.ザビエ聖師滞麑記念」と刻まれている。}}([[鹿児島市]]) - 元は記念教会だったが[[太平洋戦争]]中に空襲で焼失。1949年(昭和24年)、ザビエル来航400年を記念して教会の廃材を使用し設置。奥にはザビエルの胸像がある。[[鹿児島市交通局|市電]]「高見馬場」または「天文館通」電停下車、鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かいの「[[ザビエル公園 (鹿児島市)|ザビエル公園]]」内。
 
** ザビエル、ヤジロウ、ベルナルドの銅像 - ザビエル来航450周年を記念して、1999年(平成11年)にザビエル公園内に設置。
 
* '''ザビエル上陸記念碑'''(鹿児島市) - ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年(昭和53年)に設置。かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。[[鹿児島市交通局|市バス]]「祇園之洲公園」バス停下車。
 
* '''ザビエル会見記念碑'''([[日置市]]) - 1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビエル一行が[[島津貴久]]に謁見したとされる伊集院[[一宇治城]]跡に設置。JR[[伊集院駅]]下車、または鹿児島市から車で約30分<ref>[http://www.kagoshima-kankou.com/guide/10794/ ザビエルと島津貴久との会見記念碑]</ref>。
 
; 長崎県
 
* '''ザビエル来航記念碑'''([[平戸市]]) - 1949年、ザビエル来日400年を記念して崎方公園内に建立(ザビエルの平戸訪問は1550年)。
 
* '''ザビエル記念像'''(平戸市) - ザビエルの平戸来航を記念して、カトリック平戸教会(現:[[平戸ザビエル記念教会]])前に1971年(昭和46年)建立。これ以降、同教会は「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」の通称で呼ばれるようになり、現在は名称も「平戸ザビエル記念教会」に改められている。
 
* このほか、[[長崎市]]の[[日本二十六聖人記念館]]に『ザヴィエル像』(フレスコ、1966年[[長谷川路可]]作)がある。(ザビエル自身は、現在の長崎市を訪れたことはない。)
 
; 山口県
 
* '''[[聖サビエル記念公園]]'''([[山口市]]) - [[日本]]最初の[[教会]]跡地にある記念公園。サビエル記念碑も設置されている。また、毎年12月には「[[日本のクリスマスは山口から]]」フェスタが開催されている(1997年スタート)。JR[[上山口駅]]または[[山口赤十字病院|日赤口]]バス停で下車。
 
* '''「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑'''([[下関市]]) - [[唐戸市場]]そばにある。1550年11月頃にザビエルが下関に上陸したことを記念している。
 
; 大阪府
 
* '''[[ザビエル公園 (堺市)|ザビエル公園]]'''([[堺市]][[堺区]]) - 堺の[[豪商]][[日比屋了慶]]が邸宅の一部をザビエルに提供した。現在、その場所にある戎公園は、サビエルの功績を顕彰する碑が建てられたことから通称「ザビエル公園」と呼ばれている。
 
; 大分県
 
* '''聖フランシスコ・ザビエル像'''([[大分市]][[大手町 (大分市)|大手町]]) - ザビエルの来航を記念して[[遊歩公園]]内に建立。左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家[[佐藤忠良]]による1969年(昭和44年)の作品である。背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描き込んだモニュメントも設置されている。JR[[大分駅]]から徒歩約10分。
 
* '''聖フランシスコ・ザビエル像'''(大分市[[要町 (大分市)|要町]]) - [[2015年]](平成27年)[[2月21日]]にオープンした大分駅府内中央口(北口)駅前広場に、南蛮世界地図を挟んで大友宗麟公像と向き合う形で建立されている<ref>[http://www.city.oita.oita.jp/www/contents/1424303211784/index.html 大分駅北口駅前広場の概要および南北駅前広場の貸出についてお知らせします] 大分市</ref>。
 
 
 
<gallery>
 
File:The memorial monument of Francisco de Xavier's visit to Kagoshima.jpg|鹿児島市のザビエル来鹿記念碑
 
|鹿児島市のザビエル上陸記念碑
 
File:StFrancisXavier.jpg|平戸市のザビエル来航記念碑(部分)
 
File:The Momument of landing place of Francisco de Xavier in Shimonoseki.jpg|下関市の聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑
 
File:Monument of Francisco de Xavier's achievements in Sakai city, Ōsaka prefecture.JPG|堺市堺区のザビエル公園にある聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅碑
 
File:遊歩公園ザビエル像.jpg|大分市大手町の聖フランシスコ・ザビエル像
 
</gallery>
 
 
 
=== 日本国外 ===
 
<gallery>
 
File:Statue of Xavier at Melaca.JPG|セントポール教会跡(マレーシア、マラッカ) - 右手のないザビエル像が立つ
 
File:Charles_Bridge_St_Francis-Xavier.jpg|[[プラハ]]、[[カレル橋]]の欄干にあるザビエル像
 
File:Franz_Xaver.jpg|[[ベンスハイム]]、中央橋の東端にあるザビエル像
 
</gallery>
 
 
 
==ザビエルを描いた美術作品==
 
===『フランシスコ・ザビエル肖像』(重要文化財)===
 
彼の[[福者]]認定(1619年)または[[列聖]](1622年)以降に日本で作成されたと推定される。作者は不明で、[[落款]]の壷印([[狩野派]]を示す)と「漁夫」([[ペトロ]]を示す)の署名から狩野派の絵師ペトロ狩野(狩野源助)とする説があるが確証はない。大阪府[[茨木市]]の[[隠れキリシタン]]であった東藤嗣宅に伝わる「開けずの櫃」から1920年に発見された。発見時のモノクロ写真から、保存学者の神庭信幸は、掛け軸だったのが額縁入りに仕立て直されたほか、制作時に使われた[[真鍮]]が変色して黒っぽかった頭光が、発見後に黄色に描き足されたと推測している<ref>【よみがえる実像十選(2)】「聖フランシスコ・ザヴィエル像」[[日本経済新聞]]朝刊2017年4月7日文化面</ref>。現在[[神戸市立博物館]]蔵<ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/elements/402L.html 神戸市立博物館の紹介ページ]</ref>。
 
 
 
この頭頂部を刈り取った髪型([[トンスラ]])の肖像が日本人に大変よく知られている。
 
 
 
===その他日本国内===
 
*『臨終の聖フランシスコ=ザビエル』、『聖ザビエル日本布教図』(日本画、1949年[[長谷川路可]]作) 鹿児島カテドラル ザビエル教会内。
 
{{節stub}}
 
 
 
===日本国外===
 
* [[日本聖殉教者教会]]([[チヴィタヴェッキア]]、イタリア) - 『聖フランシスコ・ザビエル』(フレスコ天井画、1954年長谷川路可作)
 
* [[ウルバノ大学]](ローマ) - 『聖ザヴェリオ』(フレスコ、1956年長谷川路可作)
 
<gallery>
 
File:BacicciaXavier.jpg
 
File:Preaching_St_Francis_Xavier_Carlone_Gesu_Rome.jpg
 
File:Peter_Paul_Rubens_140.jpg
 
File:Muerte_de_san_Francisco_Javier.jpg|フランシスコ・ザビエルの死 [[フランシスコ・デ・ゴヤ]]画
 
</gallery>
 
 
 
==ザビエルにちなんだ修行==
 
聖フランシスコ・ザビエルに対する9日修行がある。3月4日から12日まで行う。9日にわたる修行の形式の起こりは、イエズス・キリストが昇天ののち9日で聖霊降臨したことにある。特に聖人ザビエルに対する祈祷の起源は、イタリアの17世紀の神父フランシスコ・マストリリが発起したことにある。30歳のとき聖母マリアの祝典の際に重傷を負った神父が蘇生する際、ザビエルが旅人の姿で現れ、東洋での宣教を説いたことに基づく。神父は時の教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]の許可を受けてインドのゴア、マカオ、マニラを経て1637年([[寛永]]14年)に来日するにいたった。なお、3月12日は聖ザビエル及び聖[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]の列聖日にも当たる<ref>聖フランシスコザベリヨに對する九日修行 [[エミール・ラゲ|ラゲ]]、1915年p1-8</ref>。
 
 
 
== ザビエルが守護聖人とされている国・地域 ==
 
ザビエルはカトリック教会によって[[日本]]、[[インド]]、[[インドネシア]]、[[マレーシア]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[モンゴル]]、[[中華民国]]や[[東インド諸島]]のほか、以下の都市や地域の[[守護聖人]]とされている。
 
{{col-begin}}
 
{{col-3}}
 
* {{Flagicon|JPN}} '''[[日本]]'''
 
* {{Flagicon|IND}}'''[[インド]]'''
 
** [[ゴア州|ゴア]]
 
** [[アガルタラ]]
 
** [[アフマダーバード]]
 
** [[ムンバイ]]
 
* {{USA}}
 
** [[アレクサンドリア (ルイジアナ州)|アレクサンドリア]]
 
** [[グリーンベイ (ウィスコンシン州)|グリーンベイ]]
 
** [[インディアナポリス]]
 
** [[ジョリエット (イリノイ州)|ジョリエット]]
 
* {{Flagicon|AUS}}'''[[オーストラリア]]'''
 
{{col-3}}
 
* {{Flagicon|IDN}}'''[[インドネシア]]'''
 
** [[ボルネオ島]]
 
* {{RSA}}
 
** [[ケープタウン]]
 
* {{BAN}}
 
** {{仮リンク|ディナジプール|en|Dinajpur}}
 
* {{GER}}
 
** [[フライジング]]
 
* {{PHI}}
 
** {{仮リンク|カバンカラン|en|Kabankalan }}
 
** [[ナスグブ]]
 
** {{仮リンク|アレグリア (セブ州)|label=アレグリア|en|Alegria, Cebu}}
 
{{col-3}}
 
* {{KEN}}:
 
** {{仮リンク|マリンディ教区|en|Roman Catholic Diocese of Malindi}}
 
* {{ESP}}
 
** [[ナバラ州]]
 
* {{Flagicon|NZL}}'''[[ニュージーランド]]'''
 
* {{CRO}}
 
** [[ザグレブ]]
 
* {{Flagicon|MAS}}'''[[マレーシア]]'''
 
** [[ムラカ州|マラッカ州]]
 
* {{Flagicon|MGL}}'''[[モンゴル]]'''
 
* {{Flagicon|TWN}}'''[[中華民国]]'''
 
* {{SWI}}
 
** [[ルツェルン]]
 
{{col-end}}
 
 
 
== その他 ==
 
* ザビエルの兄ミゲルの子孫であるルイス・フォンテスは、ザビエルが日本からパリに送った手紙を少年期に読んで感動し、母国スペインの神学校を卒業後に来日して教師になり、日本に帰化して泉類治と名乗って、宇部市のチャペル付きブライダル施設で[[司祭]]として活動をしている<ref>『日本に住むザビエル家の末裔――ルイス・フォンテス神父の足跡』鈴木れいこ、彩流社 (2003/05)</ref>。
 
* ザビエルは、[[下野国]][[足利庄]]五箇郷村(現・[[栃木県]][[足利市]])にあった[[学校]]、「[[足利学校]]」を「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、高く評価した。
 
* 大友義鎮は、のちに「最初に出会った司祭の名前だから」という理由でフランシスコの[[洗礼名]]を選んでいる。
 
* ザビエルの布教計画は、後のイエズス会のそれとは一線を画すものであった。
 
** ザビエルは日本人をヨーロッパに派遣し、キリスト教会の実情とヨーロッパ社会を知らせ、同時にヨーロッパ人に日本人のことを知らせようとした。しかし後続の[[フランシスコ・カブラル]]は日本人が外国語を学ぶことを許さなかったし、[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]が「日本巡察記」に「日本人にキリスト教も仏教と同じくいろいろな宗派に分かれていると知られると布教に悪影響を及ぼす恐れがある」と記したように、ヨーロッパの宗教は統一されていると教えていた<ref name="松田">「南蛮人の日本発見」[[松田毅一]]</ref>。
 
** 同僚を通じてスペイン国王に「日本を占領することを企てないように」と進言した<ref name="松田"/>。
 
** 堺にポルトガル商館を建て、自分がそこの代理人になってもいい、と書簡で書き送った<ref name="松田"/>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 一次史料 ===
 
; ザビエル自身による、またはザビエル存命中〜死去直後の記録
 
* イエズス会士日本通信(上) [[村上直次郎]]訳、[[柳谷武夫]]編 雄松堂(新異国叢書)、1968年
 
* 聖フランシスコ・ザビエル全書簡 シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳 [[平凡社]]、1985年 ※1994年に同社の「[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]」に所収(全4巻)。
 
* 十六・七世紀イエズス会日本報告集 [[松田毅一]]監訳 第III期第1巻(1549 - 1561)同朋舎、1997年
 
; その他の記録
 
* [[日本史 (ルイス・フロイス)|日本史]] 全12巻 [[ルイス・フロイス]]、松田毅一・[[川崎桃太]]訳、[[中央公論社]]、1977年 - 1980年 ※ザビエル関係の記事は主として「豊後編」I(6巻)に所収。
 
 
 
=== 研究文献 ===
 
*日本西教史 ジアン・クラセ著・太政官飜譯係訳述、1878年 - 1880年
 
*聖フランシスコ・ザベリヨ書簡記 淺井虎八郎、1891年
 
*聖フランシスコ・シャヰ゛エル小傳 [[吉田小五郎]] 大岡山書店、1932年
 
*聖フランシスコ・ザヴィエルの生涯 [[ヨハネス・ラウレス]] エンデルレ書房、1948年
 
*聖ザビエル伝 [[比屋根安定]] 朝日新聞社、1949年5月
 
*日本に来た聖ザビエル ヨハネス・ラウレス 翰林書院、1949年
 
*吉田小五郎 ザヴィエル 人物叢書・[[吉川弘文館]]、1959年
 
*切支丹巡礼の譜 山口・萩・津和野・紫福・地福・長門 [[沢本良秋]] [[萩キリシタン遺跡保存会]]/防長出版、1976年
 
*聖フランシスコ・ザビエルの歩いた道 パウロ・フィステル 中央出版社、1982年10月
 
*ザビエルの見た大分 豊後国際交流史 加藤知弘 葦書房、1985年5月
 
*聖フランシスコ・ザビエル 東洋の使徒 ホアン・カトレット 金子桂子訳.新世社、1987年12月
 
*聖フランシスコ・ザビエル全生涯 [[河野純徳]] 平凡社、1988年9月
 
*ザビエルの道 [[高原至]]企画・撮影.ナガサキ・フォトサービス、1988年12月
 
*西洋人の日本発見 ザビエル来日前日本情報の研究 [[岸野久]] 吉川弘文館、1989年
 
*フランシスコ・ザビエル 日本にはじめてキリストを伝えた人 [[谷真介]] 女子パウロ会、1989年1月 パウロ文庫
 
*ザビエルの旅 [[菅井日人]] グラフィック社、1991年10月 ヨーロッパ新紀行
 
*小説・フランシスコ・ザビエル [[栗栖ひろみ]] 中央出版社、1992年4月
 
*聖フランシスコ・ザビエルの日傘 [[平湯晃]] 河出書房新社、1993年1月
 
*ザビエル [[結城了悟]] 聖母の騎士社、1993年2月 聖母文庫
 
*フランシスコ・ザビエル 神をめぐる文化の衝突 [[津山千恵]] [[三一書房]]、1993年5月
 
*ザビエルを連れてきた男 [[梅北道夫]] 1993年12月 新潮選書
 
*ザビエルの謎 [[古川薫]] 文芸春秋、1994年2月 のち文庫
 
*南蛮音楽その光と影 ザビエルが伝えた祈りの歌 [[竹井成美]] 音楽之友社、1995年7月
 
*生きた、愛した フランシスコ・ザビエルの冒険 [[矢代静一]] 角川春樹事務所、1996年7月
 
*フランシスコ=ザビエル 日本にキリスト教を伝えた [[浜田けい子]] 1997年5月 講談社火の鳥伝記文庫
 
*ザビエル [[尾原悟]] Century Books 人と思想、[[清水書院]]、1998年
 
*ザビエルと日本 キリシタン開教期の研究 岸野久 吉川弘文館、1998年
 
*ザビエルの見た日本 [[ピーター・ミルワード]]/[[松本たま]]訳 [[講談社学術文庫]] 1998年
 
*フランシスコ・ザビエル希望の軌跡 フーベルト・チースリク編.女子パウロ会、1998年10月
 
*鹿児島に来たザビエル 小平卓保 春苑堂出版、1998年11月 かごしま文庫
 
*「東洋の使徒」ザビエル ザビエル渡来450周年記念委員会編 (I/II) [[上智大学]] 1999年
 
*大ザビエル展 来日450周年その生涯と南蛮文化の遺宝 東武美術館、朝日新聞社編.東武美術館、1999年
 
*ザビエルの同伴者アンジロー 戦国時代の国際人 岸野久 吉川弘文館、2001年9月 歴史文化ライブラリー
 
*ザビエルとその弟子 [[加賀乙彦]] 講談社、2004年7月 のち文庫
 
*地の果てまで 聖フランシスコ・ザビエルの生涯 [[やなぎやけいこ]] ドン・ボスコ社、2004年8月
 
*インド・ユダヤ人の光と闇 ザビエルと異端審問・離散とカースト [[徳永恂]]、[[小岸昭]]著.新曜社、2005年7月
 
*種子島の鉄砲とザビエル 日本史を塗り変えた"二つの衝撃" [[石原結實]] 2005年9月 PHP文庫
 
*三人の巡礼者の物語 イグナチオ、ザビエル、ファーヴル ホアン・カトレット編 高橋敦子訳.新世社、2005年12月
 
*天文十八年 鹿児島でのザビエルとヤジロー 新村洋 高城書房、2005年12月
 
*ザビエルの海 ポルトガル「海の帝国」と日本 [[宮崎正勝]] 原書房、2007年3月
 
*ザビエルの拓いた道 日本発見、司祭育成、そして魂の救い ザビエル生誕500年記念シンポジウム委員会編 南方新社、2008年
 
*日欧交渉の起源 鉄砲伝来とザビエルの日本開教 清水紘一 岩田書院、2008年12月
 
*侍とキリスト ザビエル日本航海記 ラモン・ビラロ 宇野和美訳.平凡社、2011年6月
 
*フランシスコ=ザビエル 東方布教に身をささげた宣教師 [[浅見雅一]] 山川出版社、2011年9月 日本史リブレット
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons&cat|Francis Xavier|Francis Xavier}}
 
{{ウィキポータルリンク|キリスト教|[[画像:Golden_Christian_Cross.svg|35px|Portal:キリスト教]]}}
 
* [[大友宗麟〜心の王国を求めて]](2004年、NHK、演: [[ラス・ブレザー]])
 
* [[トンスラ]]
 
* [[明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧]]
 
* [[ざびえる]]
 
* [[上智大学]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[https://www.kufs.ac.jp/toshokan/xavier/xavindex.htm ザビエルとその周辺]京都外大付属図書館、1999
 
 
 
{{先代次代|[[イエズス会]]日本布教区の長|第1代: 1549 - 1551|初代|[[コスメ・デ・トーレス]]}}
 
{{キリスト教 横}}
 
{{イエズス会}}
 
{{日本キリスト教史}}
 
{{カトリックの来日宣教師}}
 
{{Normdaten}}
 
  
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1622年聖人に列せられ,1927年には世界布教保護聖人とされた。祝日は 12月3日。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:さひえる ふらんしすこ}}
 
{{DEFAULTSORT:さひえる ふらんしすこ}}
 
[[Category:イエズス会士]]
 
[[Category:イエズス会士]]

2018/10/25/ (木) 23:45時点における最新版

Franciscus de Xabier.jpg
聖フランシスコ・ザビエル
東洋の使徒
生誕 1506年4月7日
Bandera Navarra.svg ナバラ王国ハビエルEnglish版
死没 1552年12月3日
Left-facing dragon pattern on Wanli Emperor's imperial robe.svg.png 明国広東省上川島
列福日 1619年10月25日
列福場所 ローマ
列福決定者 パウルス5世
列聖日 1622年3月12日
列聖場所 ローマ
列聖決定者 グレゴリウス15世
記念日 12月3日
象徴 十字架、燃える心臓

フランシスコ・デ・ザビエルスペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年4月7日 - 1552年12月3日

スペインバスク地方出身のイエズス会士。

東洋布教に努め,日本に初めてキリスト教を伝え,東洋の使徒といわれた。パリに学び,ここでイグナチウス・デ・ロヨラに会い,熱心な信仰を得て,ロヨラら6人とともにイエズス会を結成,1537年司祭となる。ポルトガル王の要請で東インドに派遣され,1542年ゴアにいたり,同地でポルトガル人信徒の指導,現地住民の改宗のために働く。 1545~46年マラッカ,モルッカ諸島,アンボン,モロタイなどに赴く。

1547年末マラッカで日本人ヤジロウ (アンジロウ) に接し,日本布教の重要性を悟り,1549 (天文 18) 年7月3日鹿児島に到着,7月 22日 (新暦の8月 15日) に上陸した。滞在2年余のうちに平戸,山口,京都などで布教,500人以上に洗礼を授けた。

ゴアに帰ったザビエルは,鎖国下の中国布教を企て,広東 (広州) 港外の小島で入国の機会を待っている間に熱病にかかり死去。

1622年聖人に列せられ,1927年には世界布教保護聖人とされた。祝日は 12月3日。



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