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'''ハイチ共和国'''(ハイチきょうわこく、{{lang-ht|Repiblik d Ayiti}}、{{lang-fr|République d'Haïti}})、通称'''ハイチ'''は、[[中央アメリカ]]の[[西インド諸島]]の[[大アンティル諸島]]内の[[イスパニョーラ島]]西部に位置する[[共和制]][[国家]]である。東に[[ドミニカ共和国]]と国境を接し、カリブ海の[[ウィンドワード海峡]]を隔てて北西に[[キューバ]]が、[[ジャマイカ海峡]]を隔てて西に[[ジャマイカ]]が存在する。[[首都]]は[[ポルトープランス]]。
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'''ハイチ共和国'''(ハイチきょうわこく、{{lang-ht|Repiblik d Ayiti}}、{{lang-fr|République d'Haïti}}
  
1804年の独立は[[ラテンアメリカ]]初、かつ[[アメリカ大陸]]で二番目であり、世界初の[[ネグロイド|黒人]]による共和制国家でもある。独立以来現在まで混乱が続いており、大規模災害と復興の遅れが混乱に拍車をかけている。
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西インド諸島中部にある国。大アンティル諸島中部,ヒスパニオラ島の西3分の1を占め,東寄りの3分の2を占めるドミニカ共和国と国境を接する。国土は西に突出する山がちの二つの半島からなり,両半島を分けるゴナブ湾の湾奥にアルティボニト川流域平野と首都の位置する中央平野がある。最高点は南東端部のラセル峰 (2674m) 。沿岸にいくつかの島があり,おもなものはゴナブ湾内のゴナブ島,北部沿岸のトルチュ島。熱帯気候区の北限近くにあるが,海洋と山地地形の影響で,気温,降水量など地域差が大きい。住民の約 95%は黒人で,その他はムラットと呼ばれる黒人と白人の混血。公用語はフランス語とクレオル語 (現地語化したフランス語) 。ヒスパニオラ島は 1492年コロンブスの来航以来約 200年間スペイン領であったが,スペイン人植民地は東部に偏在していたため,17世紀後半西部はフランス人の海賊が根拠地として利用,1697年島の西3分の1が正式にフランス領となり,サンドマングと名づけられた。
  
== 国名 ==
+
18世紀アフリカから大量の黒人奴隷を導入,サトウキビ,コーヒー,カカオなどを栽培,輸出して繁栄し,人口も急増。同世紀末フランス革命の影響を受けて奴隷が反乱を起こした結果,1794年奴隷制廃止。 1801年解放奴隷 F.D.トゥーサン・ルベルテュールが全島を制圧したが,1803年ナポレオン軍に捕えられ,獄死。その直後奴隷制復活の噂に抗して
正式名称は、[[ハイチ語]]で ''Repiblik d Ayiti''(レピブリク・ダイチ)、[[フランス語|標準フランス語]]で ''{{Lang|fr|République d'Haïti}}'' (レピュブリク・ダイティ)。通称、''{{Lang|fr|Haïti}}'' ('''アイティ''')。
+
  J.J.[[デサリーヌ]]の指導下に再び黒人が蜂起,1804年ハイチの名のもとに全島の独立が宣言され,1825年フランスによって承認された (東部の旧スペイン領は 1844年ハイチの支配を排し,ドミニカ共和国として独立) 。独立後のハイチでは革命,指導者暗殺などが繰り返され,1915~34年にはアメリカ合衆国海兵隊による占領を受け,またスペイン系住民の多いドミニカとの間の紛争や,学生,労働者の暴動もあり,政情は不安定であった。
 
 
公式の[[英語]]表記は''Republic of Haiti''(リパブリク オヴ ヘイティ)。通称、Haiti('''ヘイティ''')。
 
 
 
[[日本語]]の表記は、'''ハイチ共和国'''。通称は'''ハイチ'''、[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''海地'''。なお、「ハイチ」とは“Haiti”の[[ローマ字|訓令式ローマ字]]読みであり、現地では通用しない。
 
 
 
「ハイチ(アイティ)」は、[[アメリカ州の先住民族|先住民族]][[インディアン]]/[[インディオ]]の[[アラワク人|アラワク系]][[タイノ人]]の言葉で「山ばかりの土地」を意味し、独立に際してそれまでのフランス語由来の[[サン=ドマング]]から改名された。
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{main|{{仮リンク|ハイチの歴史|es|Historia de Haití|en|History of Haiti}}}}
 
 
 
=== 先コロンブス期 ===
 
紀元前4000年から1000年までの間にインディアンの[[アラワク人]]([[タイノ人]])が[[南アメリカ]]大陸の[[ギアナ]]地方から移住してきた。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)
 
 
 
=== 植民地時代 ===
 
{{main|サン=ドマング}}
 
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}}
 
[[1492年]]に[[クリストファー・コロンブス]]がイスパニョーラ島を「発見」したとき、この島には[[アラワク人]]([[タイノ人]])が住んでいたが、それから四半世紀のうちに[[スペイン]]の入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、インディアンの[[カリブ人]]が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に[[西アフリカ]]の黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地{{仮リンク|サント・ドミンゴ総督領|es|Capitanía General de Santo Domingo|en|Captaincy General of Santo Domingo}}の経営をした。島の西部を[[フランス]]が[[1659年]]以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、[[1697年]]の[[ライスワイク条約]]で島の西側3分の1はフランス領とされた。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領[[サン=ドマング]] (Saint-Domingue) とした。この植民地は、アフリカの[[奴隷海岸]]から連行した多くの[[ネグロイド|黒人]]奴隷を酷使し、主に林業と[[サトウキビ]]・[[コーヒー]]栽培によって巨万の富を産みだした。
 
 
 
=== 黒人反乱と黒人国家の成立 ===
 
{{main|ハイチ革命}}
 
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立}}
 
[[ファイル:Toussaint Louverture.jpg|thumb|180px|left|イスパニョーラ総督[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]。優れた戦略でイスパニョーラ島を統一し、自治憲法を制定したが、激怒した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍の侵攻とだまし討ちによって捕らえられ、死亡した。]]
 
[[ファイル:Jean Jacques Dessalines.jpg|thumb|180px|[[ハイチ帝国 (1804年-1806年)|ハイチ帝国]]の皇帝[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]。ルーヴェルチュールの死後フランス軍を打ち破り、世界初の黒人による共和国を建国した]]
 
 
 
[[1789年]]からフランス本国では[[フランス革命|革命]]が勃発し、サン=ドマングの[[黒人奴隷]]と[[ムラート]]([[混血]]の[[自由黒人]])たちはその報を受けたヴードゥーの司祭{{仮リンク|デュティ・ブークマン|en|Dutty Boukman}}に率いられ、1791年に蜂起した。
 
 
 
[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]、[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]、[[アンリ・クリストフ]]らに率いられた黒人反乱軍は[[白人]]の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告した[[イギリス]]とスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン=ドマング全土を掌握した。ルーヴェルチュールは1801年に自らを終身総督とするサン=ドマングの自治憲法を公布し、優れた戦略と現実的な政策により戦乱によって疲弊したハイチを立て直そうとしたが、[[奴隷制]]の復活を掲げた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が本国から派遣した[[シャルル・ルクレール]]の軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した。
 
 
 
ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、[[1804年]][[1月1日]]に独立を宣言し、[[ハイチ革命]]が成功した。
 
 
 
デサリーヌは国名を先住民族タイノ人由来の名であったハイチ(アイチ)に変更し、ナポレオンに倣って[[皇帝]]として即位し([[ハイチ帝国 (1804年-1806年)|ハイチ帝国]])、数世紀に渡る蛮行への報復と、黒人の国であるハイチが再び奴隷制に戻ることへの脅威から、残った白人を処刑し、皇帝はハイチを黒人国家であると宣言し、白人が資産や土地を所有することを禁じた。デサリーヌは[[1805年]]に[[憲法]]を制定したが、北部のアンリ・クリストフと南部の[[アレクサンドル・ペション]]らの勢力に圧迫され、[[1806年]]に暗殺された。デサリーヌはハイチ[[国民の父|建国の父]]として後の世まで敬愛されている。
 
 
 
=== 賠償金の圧迫と国内の混乱 ===
 
[[ファイル:Portrait du président Alexandre Pétion.jpg|thumb|180px|right|南部の支配者にして初代大統領[[アレクサンドル・ペション]]。[[ベネズエラ]]の[[奴隷制廃止]]を条件に、亡命してきた[[リベルタドーレス|解放者]][[シモン・ボリーバル]]を物心ともに支援した。ボリーバルはハイチを拠点にベネズエラを解放し、1819年に勅令でベネズエラの部分的奴隷制廃止を宣言した。]]
 
[[ファイル:Hispaniola 1806-1808.png|thumb|180px|left|[[イスパニョーラ島]](1806-1808)]]
 
 
 
この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつ[[ラテンアメリカ]]最初の独立国が誕生し、南北アメリカ大陸の他の植民地の黒人たちや、独立主義者、そしてアメリカ合衆国の黒人奴隷たちを刺激した。
 
 
 
[[ファイル:Hispaniola 1808-1820.png|thumb|180px|left|[[イスパニョーラ島]](1808-1820)]]
 
しかし北部の[[ハイチ国]]({{lang-fr|État d'Haïti}})と南部のハイチ共和国({{lang-fr|République d'Haïti}})との南北共和国に分かれて争い、南部の共和国の事実上の支配者ペションは[[農地改革]]で[[プランテーション]]を解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの[[小農]]が出現した。この時期に南アメリカの解放者、[[シモン・ボリーバル]]がペションの下に亡命している。
 
 
 
一方、中部の[[ハイチ王国]]({{lang-fr|Royaume d'Haïti}})でクリストフが王政を宣言、圧政を敷いた。住民を酷使して豪華な[[宮殿]](サン・スーシー)や[[城塞]](シタデル・ラフェリエール、フランスの再征服に対処するため)(両方とも[[世界遺産]])を建設させるなどの波乱があったが、[[1820年]]クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領[[ジャン・ピエール・ボワイエ]]がハイチを再統一した。[[1821年]]、イスパニョーラ島の東3分の2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペイン人の[[クリオージョ]]たちが{{仮リンク|スペイン人ハイチ共和国|es|Estado Independiente de Haití Español|en|Republic of Spanish Haiti}}(Santo Domingo)の独立を宣言し、[[大コロンビア|コロンビア共和国]]への編入を求めて内戦に陥ると、[[1822年]]1月ハイチは軍を進めてこれを併合し({{仮リンク|ハイチ共和国によるスペイン人ハイチ共和国占領|es|Ocupación haitiana de Santo Domingo|en|Unification of Hispaniola}})、全島に独裁体制([[1822年]] - [[1844年]])を築いた。この時期、ボワイエはフランス艦隊から圧迫を受け、独立時にフランス系植民者たちから接収した農園や奴隷などに対する莫大な「賠償金」を請求された。
 
 
 
ハイチの独立後、独立を承認する国家は存在せず、[[シモン・ボリーバル]]が全[[イスパノアメリカ]]諸国の連合と同盟を企図して1826年に開催した{{仮リンク|パナマ議会|es|Congreso de Panamá|en|Congress of Panama}}ではハイチの承認が議題として取り上げられたが、パナマ議会が大失敗に終わったため、[[大コロンビア]]とイスパノアメリカ諸国によるハイチの承認はなされなかった<ref>加茂雄三:編『世界の歴史23 ラテンアメリカの独立』講談社 1978年9月 pp.134 - 137。</ref>。結局ハイチはフランスからの独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じた。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなった。政府は奴隷制を復活させるなどしたが、経済は貧窮した。
 
 
 
{{Main|{{仮リンク|ドミニカ独立戦争|es|Independencia de la República Dominicana|en|Dominican War of Independence}}|{{仮リンク|ラ・トリニタリア (ドミニカ共和国)|es|La Trinitaria|en|La Trinitaria (Dominican Republic)|label=ラ・トリニタリア}}}}
 
[[1843年]]、ボワイエの独裁に対し[[シャルル・リヴィエール=エラール]]が蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く[[無政府状態]]に陥り、1844年にフランスへの賠償金のための重税に苦しんでいた東部のスペイン系住民が、再度[[ドミニカ共和国]]としての独立を宣言し、これに敗北して東部を手放すなど、内政混乱が続いた。
 
 
 
この状況を収拾したのは元黒人奴隷で1791年の反乱にも参加した将軍{{仮リンク|フォースタン=エリ・スールーク|en|Faustin Soulouque}}であり、大統領に就任したが後に帝政([[ハイチ帝国 (1849年-1859年)|ハイチ帝国]])を宣言し、{{仮リンク|ファーブル・ジェフラール|fr|Fabre Geffrard|en|Fabre Geffrard}}将軍の蜂起で打倒される[[1859年]]まで皇帝フォースタン1世として君臨し、国内に秘密警察の監視網を張り巡らせて圧政を敷き、隣国ドミニカへの侵入を繰り返した。スールークを追放したジェフラールは共和制を復活させたが、フランスに対する巨額の賠償金による経済の崩壊、小作農たちの没落、列強の圧迫、相次ぐ大統領の交代や内戦、国家分裂でハイチは混乱し続けた。しかし、この時期、憲法はよりよく機能するよう何度も改正され、後の安定の時期を用意した。
 
 
 
=== 米国による占領 ===
 
{{Main|バナナ戦争|{{仮リンク|アメリカ合衆国のハイチ占領|en|United States occupation of Haiti}}|米州相互援助条約}}
 
 
 
[[1870年代]]末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め[[砂糖]]貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。また[[ドイツ]]による干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、[[1915年]]、アメリカは債務返済を口実に[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]を上陸させハイチを占領、{{仮リンク|シャルルマーニュ・ペラルト|fr|Charlemagne Péralte|en|Charlemagne Péralte}}将軍などが海兵隊と戦ったが敗れ、数十万人のハイチ人が[[キューバ]]やドミニカ共和国に亡命した。アメリカ軍は[[1934年]]まで軍政を続け、この間合衆国をモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行ったが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残した。またハイチの対外財政は[[1947年]]までアメリカが管理し続けた。
 
 
 
1934年には[[世界恐慌]]の影響や、[[ニカラグア]]での[[アウグスト・セサル・サンディーノ|サンディーノ]]軍への苦戦などもあって、[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト合衆国大統領]]の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。アメリカ占領以降、数人のムラートの大統領が共和制のもとで交代したが、経済苦境は続き[[1946年]]には[[クーデター]]が起こり{{仮リンク|デュマルセ・エスティメ|fr|Léon Dumarsais Estimé|en|Dumarsais Estimé}}が久々の黒人大統領となった。社会保障や労働政策の改善、多数派黒人の政治的自由の拡大などさまざまな進歩的な改革を行おうとした。[[ポルトープランス万国博覧会]]([[1949年]] - [[1950年]])。
 
 
 
改革がムラートと黒人との対立など国内混乱を招き、1950年にエスティメが憲法を改正して再選を図ろうとしたため、ムラート層や黒人エリートらが[[クーデター]]を起こし、黒人エリート軍人の{{仮リンク|ポール・マグロワール|fr|Paul Magloire|en|Paul Magloire}}による軍事政権が誕生した。彼の時代、経済は[[コーヒー]]やアメリカからの[[観光]]などの景気でいっとき活況を呈したが、またも再選を図ろうとしたことをきっかけに全土で[[ゼネラル・ストライキ]]が起こり、混乱する中[[1956年]]末に彼はクーデターで打倒された。
 
 
 
=== デュヴァリエ独裁政権 ===
 
{{See also|キューバ危機}}
 
 
 
[[1957年]]、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデター([[:en:July 1958 Haitian coup d'état attempt|July 1958 Haitian coup d'état attempt]])が繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家の[[フランソワ・デュヴァリエ]]が大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれた。
 
 
 
翌[[1958年]]からデュヴァリエは突然独裁者に転じ、国家財政などを私物化し、ブードゥー教を[[個人崇拝]]に利用して自らを神格化することで当時北半球最悪と呼ばれた独裁体制を誕生させた。デュヴァリエは[[戒厳令]]を敷いて言論や反対派を弾圧、[[秘密警察]]''[[トントン・マクート]]''を発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。[[1971年]]にデュヴァリエは死亡し、息子の19歳の[[ジャン=クロード・デュヴァリエ]](「ベビー・ドク」)が世界最年少の大統領に就いた。財政破綻による軍事クーデターでデュヴァリエが追われる[[1986年]]までの長期に渡り、デュヴァリエ父子主導の下、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。
 
 
 
=== デュヴァリエ以降 ===
 
[[ファイル:Clinton&Aristide.jpg|thumb|220px|left|[[ビル・クリントン]]米大統領と握手する[[ジャン=ベルトラン・アリスティド|アリスティド]]大統領。([[1994年]][[10月14日]])]]
 
[[ファイル:Rene Preval.jpg|thumb|220px|right|[[ルネ・ガルシア・プレヴァル]]大統領。([[2006年]][[3月11日]])]]
 
[[1987年]]に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派の[[ジャン=ベルトラン・アリスティド|アリスティド]]が[[1991年]]に大統領に就任。しかし、同年9月の{{仮リンク|ラウル・セドラ|es|Raoul Cédras|en|Raoul Cédras}}将軍による[[クーデター|軍事クーデター]]([[:en:1991 Haitian coup d'état|1991 Haitian coup d'état]])により、アリスティドは亡命。アリスティド支持派は[[ハイチの進歩と発展のための戦線]]により多数殺害された。軍事政権は、[[国際連合|国連]]([[国際連合ハイチ・ミッション]])及び[[アメリカ合衆国]]の働きかけ、経済制裁などの圧力、更に軍事行動を受けた結果、政権を返上。セドラ将軍は下野し、アリスティドは[[1994年]]に大統領に復帰した。[[1996年]]、アリスティド派の[[ルネ・ガルシア・プレヴァル]]が新大統領になり、[[2001年]]には、再びアリスティドが大統領となった。
 
 
 
{{See also|ギ・フィリップ|{{仮リンク|ルイ=ジョデル・シャンブラン|en|Louis-Jodel Chamblain}}}}
 
 
 
[[2004年]]2月5日「{{仮リンク|ハイチ解放再建革命戦線|fr|Front pour la Libération et la Reconstruction Nationales|en|National Revolutionary Front for the Liberation of Haiti}}」が北部の町[[ゴナイーヴ]]で蜂起し、武力衝突が発生した({{仮リンク|2004年ハイチ・クーデター|en|2004 Haitian coup d'état|label=ハイチ・クーデター}})。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来なかった。2月29日、アリスティド大統領は辞任し、隣国[[ドミニカ共和国]]へ出国、[[中央アフリカ共和国]]に亡命し、アリスティド前大統領は中央アフリカ共和国において[[フランス軍]]の保護下に入った(この顛末については、[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権下のアメリカの関与も指摘されている)。[[ボニファス・アレクサンドル|アレクサンドル]]最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になった。三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあった[[ジェラール・ラトルチュ|ラトルチュ]]を首相に指名、組閣が行われた。<!--「多くの」はあいまい。:しかしながらラトルチュの政権は多くの諸国の承認を得るに至っていない。-->一連の動きに対し国連は臨時大統領アレクサンドルの要請に基づき多国籍暫定軍(MIF)の現地展開を承認し、[[3月1日]]には主力のアメリカ軍がハイチに上陸した([[:en:Operation Secure Tomorrow|Operation Secure Tomorrow]])。4月20日には{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1542|en|United Nations Security Council Resolution 1542|label=安保理決議1542号}}が採択され、MIFの後続として[[ブラジル陸軍]]を主力とする[[国際連合ハイチ安定化ミッション]](MINUSTAH)を設立、治安回復などを図ることとなった。
 
 
 
{{See also|ラヴァラの家族|シテ・ソレイユ}}
 
{{節スタブ}}
 
 
 
2006年2月に大統領選挙が行われ、再びアリスティド派のルネ・ガルシア・プレヴァルが51%の得票率で当選し、5月に大統領に就任した。
 
 
 
==== ハイチ地震 ====
 
{{main|ハイチ地震 (2010年)}}
 
2010年にマグニチュード7.0の地震が発生し、ポルトープランスを中心に甚大な被害が生じた。更に追い打ちをかけるように[[コレラ]]が大流行し、多数の死者が出た。地震を機にMINUSTAHの陣容は増強され、2011年現在も活動中である。
 
 
 
2010年11月にはプレヴァルの後任を決める大統領選挙が実施されたが、選挙にまつわる不正疑惑から暴動が発生、翌年3月にようやく決選投票が実施された。決戦投票の結果、ポピュラー歌手出身の[[ミシェル・マテリ]]が大統領に選出された。民選大統領の後継を同じく民選大統領が務めるのは、ハイチの歴史上初めてのことである<ref>http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM15001_V10C11A5FF8000/</ref>。
 
 
 
== 政治 ==
 
{{Main|ハイチの政治}}
 
[[ファイル:Palacio presidencial de Haiti.jpg|thumb|220px|right|[[ポルトープランス]]の大統領宮殿(2010年の地震で倒壊)。]]
 
 
 
[[大統領]]は、全国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。前々回の大統領選挙は、2000年11月26日に行われ、元大統領の[[ジャン=ベルトラン・アリスティド]]が92%の票を獲得して、2001年2月7日から再度就任した。2004年4月のアリスティド追放後、再三延期された後に実施された2006年2月の大統領選挙で63歳の元大統領[[ルネ・ガルシア・プレヴァル]]が再び大統領に選ばれた。
 
 
 
首相は、大統領の指名によるが、議会の承認が必要である。内閣の閣僚は、首相が大統領と協議して指名する。
 
 
 
[[議会]]は、[[両院制]](二院制)であり、上院も下院も議員は、国民の選挙によって選出される。上院は、27議席、任期6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、83議席で、任期は4年。
 
 
 
ハイチの政治は1804年の独立以来混乱が続いている。2009年現在の『[[失敗国家]]ランキング』ではワースト12位でありこれは[[北朝鮮]](ワースト17位)より上位である。[[ハイチ地震 (2010年)]]で大統領府、財務省、外務省が倒壊したため、政府機能は麻痺状態にある。
 
<!--http://www.chunambei.co.jp/haiti-inf.html-->
 
 
 
{{Main|ハイチの国際関係|en:Foreign relations of Haiti}}
 
 
 
ハイチは[[中華民国]]([[台湾]])を承認している。
 
 
 
== 軍事 ==
 
{{Main|ハイチの軍事}}
 
ハイチには再編されたばかりの国防軍と、小規模な[[警察|国家警察]]と[[沿岸警備隊]]がある。
 
 
 
== 地方行政区分 ==
 
{{Main|ハイチの行政区画}}
 
[[ファイル:Haiti departments numbered.svg|thumb|300px|ハイチの県。]]
 
 
 
ハイチの地方行政区分の最上位にあるのは、10の県 (depatmen) である。ハイチでは地方自治権は与えられておらず、県は中央政策の執行機関としての役割を果たす。2003年以降の県名と県庁所在地は、以下の通り。
 
 
 
# [[アルティボニット県]] - [[ゴナイーヴ]]
 
# [[中央県]] - [[アンシュ]]
 
# [[グランダンス県]] - [[ジェレミー (ハイチ)|ジェレミー]]
 
# [[ニップ県]] - [[ミラゴアーヌ]]
 
# [[北県]] - [[カパイシャン]]
 
# [[北東県]] - [[フォールリベルテ]]
 
# [[北西県]] - [[ポールドペ]]
 
# [[西県]] - [[ポルトープランス]]
 
# [[南東県]] - [[ジャクメル]]
 
# [[南県 (ハイチ)|南県]] - [[レカイ]](オカイ)
 
 
 
===主要都市===
 
{{Main|ハイチの都市の一覧}}
 
主要な都市は[[ポルトープランス]](首都)、[[カルフール (ハイチ)|カルフール]]がある。
 
 
 
== 地理 ==
 
{{Main|ハイチの地理|イスパニョーラ島#地理}}
 
[[ファイル:Ha-map-ja.png|thumb|300px|ハイチの地図。]]
 
[[File:Hispaniola lrg.jpg|thumb|300px]]
 
 
 
ハイチの地勢は、主として岩の多い山々からなっており、沿岸部にはわずかながら平野や谷間を流れる川がある。中央部から東部は、大きく隆起した台地になっている。最高峰は[[ラ・セル山]](2680m)で、[[ゴナーブ島]]、[[トルチュ島]]、[[ヴァシュ島]]、[[グランド・チェミット島]]などの島々も含む。最も大きな都市は、200万人が住む首都の[[ポルトープランス]]で、2番目は60万人の[[カパイシャン]]である。長年に渡る乱伐で山は禿山だらけになってしまっており、そのために保水力がなく、[[ハリケーン]]が通過すると[[洪水]]となって大きな被害をもたらす。
 
 
 
北部地域はマッシフ・デュ・ノール(北部山地)とプレイヌ・デュ・ノール(北部平野)から成る。マッシフ・デュ・ノールはドミニカ共和国の中央山脈の延伸である。ハイチの東部国境の始まりとなり、ギュヤムー川の北と、北部半島を通して北東に延長している。プレイヌ・デュ・ノールの低地はマッシフ・デュ・ノールと北大西洋の間のドミニカ共和国との北部国境に横たわる。中央地域は二つの平野と二つの山脈からなる。プラトー・セントラル(中央高原)はマッシフ・デュ・ノールの南のギュヤムー川の両側に沿って南東から北西に延伸している。プラトー・セントラルの南東はノワール山地となり、北西部はマッシフ・デュ・ノールに溶け込んでいる。
 
 
 
南部はプレイヌ・デュ・クル=ド=サク(南東部)と南部半島(チビュロン半島として知られる)の山々からなる。プレイヌ・デュ・クル=ド=サクは自然沈下によりトルー・カイマンやハイチ最大の湖であるラク・アズエイといった[[塩湖]]を抱えている。南部山脈はドミニカ共和国最南端のシエラ・デ・バオルコに始まり、ハイチのセル山地とオット山地になりハイチ南部の細長い半島を形成する。この山地にあるラ・セル山がハイチの最高峰(2,680m)になる。
 
 
 
== 経済 ==
 
{{Main|ハイチの経済|ハイチにおけるコーヒー生産}}
 
[[ファイル:Waste dumping in a slum of Cap-Haitien.jpg|thumb|220px|left|[[カパイシャン]]の[[スラム]]。]]
 
 
 
[[国際通貨基金|IMF]]の推計によると、[[2013年]]のハイチの[[国内総生産|GDP]]は84億ドルである。一人当たりのGDPは820ドルであり、これは世界平均の10%未満、アメリカ大陸の全国家の中で最も低い数値である。<ref name="imf201410" />
 
 
 
ハイチは[[西半球]]で最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な[[貧困]]状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が[[農業]]に従事しているが、規模が零細である上に[[灌漑]]設備等の農業インフラが不十分で[[雨|天水]]に依存した伝統的農法に頼っており、過耕作、土地の荒廃なども影響して、農業生産性は極めて低く、[[食料自給率]]は45%、[[米]]の自給率は30%未満である。そのため、恒常的に食糧不足で、食料需要の大半を海外からの輸入と援助に大きく依存しているが、人口の約半数に相当する380万人は慢性的に[[栄養失調]]状態にある。かつて[[フランソワ・デュヴァリエ]]時代はハイチは国際的にも孤立していたため、食糧の自給は最重要課題であり、政府の手厚い保護政策によって、食糧自給率は80%、米の自給率は100%を誇ったが、民主化後はアメリカのコメが多量にハイチにも入るようになり、ハイチのコメ価格は暴落。安価で安定的な食事が得られるようになったが、その一方で、その代償は大きく、量でも質でも太刀打ち出来ないハイチのコメ農家は次々と[[田んぼ]]を放棄し、都市へ仕事を求めるようになり、ハイチの食料自給率は急落。仕事にあぶれた農民が都市部へと流れ失業率は急増し、皮肉にもさらなる貧富の格差を生み出すことになる。
 
 
 
こうした中、2007年3月、9月の豪雨、8月、10月、12月の熱帯性暴風雨等の自然災害により、全国で約4万世帯が被災し、同国穀倉地帯も甚大な被害を受けたため、国連による緊急アピールが複数回出された。自然災害による食糧不足のため国内生産物の価格が上昇したが、ほぼ同時期に穀物の国際価格も高騰した。こうした食糧価格の高騰による影響は市民の抗議行動、[[暴動]]へとエスカレートし、首相が解任される事態までに発展した。
 
 
 
1996年に就任したプレヴァル大統領以来、若干の雇用が創出されたが、効果は上がっていない。国際的な支援を得られないでいるため、必要とする開発支援を確保できない状態にある。主な外貨収入は[[コーヒー豆]]の輸出と国外在住のハイチ人からの送金と国際的な援助ぐらいである。
 
 
 
== 国民 ==
 
{{Main|ハイチの国民}}
 
[[ファイル:Haiti-demographie.png|thumb|260px|right|[[FAO]]による1961年から2003年までのハイチの人口増加グラフ。]]
 
 
 
ハイチの平均[[人口密度]]は362人/[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]であるが、実際は都市部、沿岸の平野部、山間部に極度に集中している。
 
 
 
=== 民族 ===
 
ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどはムラート([[白人]]と[[アフリカ人]]の[[混血]])である。エリートであるムラートとその他の黒人との間の経済的、文化的、社会的格差が著しい。その他に、数は少ないが独立後に[[中東]]から移民した[[アラブ系ハイチ人]]が存在する。
 
 
 
植民地時代に[[アフリカ]]からハイチに連行された人々のルーツは、[[セネガンビア]](現在の[[セネガル]]と[[ガンビア]])の[[ウォロフ人]]、[[バンバラ人]]、[[フルベ人]]、[[マンディンゴ人]]など[[イスラーム]]教を奉ずる人々や、[[黄金海岸]](現在の[[ガーナ]])の{{仮リンク|ファンティ人|en|Fante people}}、[[奴隷海岸]](現在の[[ナイジェリア]]、[[ベナン]])の[[フォン人]]、[[イボ人]]、[[ヨルバ人]]、さらには[[コンゴ]]、[[アンゴラ]]の人々など非常に多岐に渡るものであったが、ハイチの黒人文化の主流となったのは、[[ダホメ王国]](現[[ベナン]])出身のフォン人の文化であり、[[ヴードゥー教]]や[[祖先信仰]]などダホメの文化がハイチでヘゲモニーを握ることとなった。アフリカの各地にルーツを持ち、対立していた奴隷たちは、ダホメのヴードゥーによって結束を達成した<ref>[[ジョアン・マノエル・リマ・ミラ]]「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」子安昭子/高木綾子訳『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄/三田千代子編、新評論、1995/10</ref>。
 
 
 
また、貧困から抜け出すために海外への移民・難民も少なくなく、[[アメリカ合衆国]]の[[マイアミ]]と[[ニューヨーク]]([[ハイチ系アメリカ人]])、[[カナダ]]の[[モントリオール]]([[ハイチ系カナダ人]])、[[フランス]]の[[パリ]]、[[バハマ]]、[[ドミニカ共和国]]には大きなハイチ人の移民コミュニティがある。
 
 
 
=== 言語 ===
 
[[公用語]]は[[ハイチ語]]([[クレオール言語]])と[[フランス語]]。フランス語系のクレオール言語であるハイチ語は1987年に公用語として認められた。ほとんどのハイチ人はハイチ語を日常的に使うが、公的機関やビジネス、教育では標準フランス語が使用される。
 
 
 
=== 宗教 ===
 
国民の約95%が[[キリスト教]]徒であり、宗教の主流は国教ともなっている[[カトリック教会|カトリック]]で、国民の約80%が信仰している。カトリックの他には[[ペンテコステ派]]、[[バプティスト]]などの[[プロテスタント]]や、少数ながら[[正教会|正教]]も信仰されている。多くのハイチ人はカトリックの信仰と並行して、アフリカ系の[[ベナン]]にルーツを持つ宗教である[[ブードゥー教]]の慣習も行っている。ブードゥー教には[[ブラジル]]の[[カンドンブレ]]、キューバの[[サンテリア]]などとの近似が認められる。
 
 
 
=== 教育 ===
 
6歳から11歳までの[[初等教育]]が無償の義務教育とされているが、2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字]]率は[[アメリカ大陸]]で最も低い52.9%である<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ha.html 2009年3月30日閲覧</ref>。
 
 
 
主な[[高等教育]]機関としては[[ハイチ大学]](1920年)が挙げられる。
 
 
 
== 文化 ==
 
{{Main|ハイチの文化}}
 
[[ファイル:VoodooValris.jpg|thumb|220px|right|ヴードゥーの''ドラポー''(フランス語で旗の意味)。[[ジョージ・ヴァルリス]]によるもの。]]
 
[[ファイル:Sans-Souci Palace front.jpg|thumb|220px|right|[[シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園]]。]]
 
 
 
独立後のハイチでは、フランスの文化に一体化しようとする都市のムラート層と、アフリカやインディオのクレオール的な文化を持った農村の黒人層の文化が相対立しており、エリートのムラート層は農村のアフリカ的文化に価値を見出さなかった。しかし、1920年代のアメリカ軍政期に、占領に対する抵抗のために[[ナショナリズム]]が称揚される動きの中で、特に詩人[[ジャン・プライス=マルス]]によってアフリカ的な民衆文化の再評価がなされ、やがてこの運動はアフリカ的文化を見直す[[ノワリズム]](黒人主義)に繋がり、1930年代から1940年代の[[マルチニーク]]の[[エメ・セゼール]]と[[セネガル]]の[[レオポルド・セダール・サンゴール]]らによる[[ネグリチュード]]運動の源流の一つともなった。
 
 
 
=== 文学 ===
 
{{Main|ハイチ文学}}
 
19世紀末から20世紀初頭にかけて一群の知識人達が国民小説と呼ばれる文学を創始した。「国民小説」は、フランス文化を身に付けたハイチ知識人によって担われたため、フランス文化的な背景を持たない農村部の住民の文化とは隔絶していたが、人種主義が猛威を奮っていた時代において、黒人知識人によって担われる文学はそれだけで人種主義への抵抗や、国威発揚を果たした<ref name=tachibana>立花英裕「ハイチ文学の歴史的背景」『月光浴—ハイチ短篇集』国書刊行会 2003</ref>。その後アメリカ軍占領期に『おじさんはこう語った』(1929)を著した{{仮リンク|ジャン・プリス=マルス|fr|Jean Price Mars|label=ジャン・プライス=マルス}}<!-- アメリカ軍占領期だからといって人名を英語読みにする必然性はないと思います。 -->によってアフリカ的なハイチ農村文化とヴードゥー教の価値の再評価がなされた。『おじさんはこう語った』はフランス文化を自らの文化としていたハイチの知識人に深刻な衝撃を与え<ref name=tachibana/>、まもなく『朝露の統治者たち』(1940)の[[ジャック・ルーマン]]や、『奏でる木々』(1957)の[[ジャック=ステファン・アレクシス]]によって、アンディジェニスム(原住民主義)に基づいた「農民小説」と呼ばれる潮流が生まれた<ref name=tachibana/>。
 
 
 
その後、デュヴァリエ政権がノワリスム(黒人主義)を黒人至上主義の人種主義に換骨奪胎してしまい、独裁政権のイデオロギー的背景としてしまったことはハイチの知識人に大きな挫折をもたらした<ref name=tachibana/>。以降ハイチ文学は亡命者や国外居住者によって担われるものが主流となり、現代ハイチ文学の特に著名な作家としては[[フランケチエンヌ]]、[[エミール・オリヴィエ (ハイチの作家)|エミール・オリヴィエ]]、[[エドウィージ・ダンティカ]]などの名が特に挙げられる。
 
 
 
=== 音楽 ===
 
{{Main|ハイチ音楽}}
 
[[ファイル:WyclefJean.jpg|220px|thumb|[[フージーズ]]の[[ワイクリフ・ジョン]]。フージーズがアメリカ合衆国と世界市場で成功を収めた後、ハイチの移動大使として混乱が続く母国の発展に努めている。]]
 
ハイチは国民所得や識字率が低いこともあり、音楽が重要な娯楽とメディアの役割を果たしている。主な音楽のジャンルとしては、[[メレング]]、ヴードゥー音楽、[[ララ (音楽)|ララ]]、[[コンパ (音楽)|コンパ]]、[[ヒップ・ホップ]]、[[ミジック・ラシーン]]などの名が挙げられる。
 
 
 
19世紀の半ばごろにフランス人の[[コントレダンス]]とアフリカの[[コンゴ]]地方の黒人の舞踊が発達し、[[メレング]]と呼ばれるダンス音楽となった。メレングでは[[バンジョー]]や[[マリンブラ]]などの楽器が使用される。
 
 
 
ハイチ特有の音楽ジャンルの中でもっとも有名なものはドミニカ共和国の[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]の影響を受け、ハイチ風に解釈した[[コンパ (音楽)|コンパ]]([[:en:Compas music]])であり<ref>佐藤文則『慟哭のハイチ 現代史と庶民の生活』凱風社 2007年 p.314</ref>、隣の[[キューバ音楽]]と同様に華やかな音楽とダンスのジャンルだが、これもまたアメリカ合衆国の[[ジャズ]]と関係を持っている。コンパは1957年に[[ヌムール・ジャン=バティスト]]と[[ウェベール・シコ]]によって始められ、1970年代から1980年代に最盛期を迎えた。コンパはしばしばアフリカの[[太鼓]]、[[エレクトリックギター|モダンギター]]、[[シンセサイザー|シンセサウンド]]、[[サクソフォーン]]、[[ハイチ語]]で歌われる歌詞を使う。ハイチのコンパのバンドには合衆国とヨーロッパのハイチ人コミュニティを通して世界的に有名なものも存在し、[[ミニ・オールスターズ]]、[[タブー・コンボ]]、[[T-Vice]]、[[カリミ]]、[[マス・コンパ]]などがその例である。
 
 
 
1980年代後半からヴードゥー教やララといった伝統音楽を基盤に、ジャズやアフリカ音楽を取り入れて現代的なポピュラー音楽に再生した[[ミジック・ラシーン]]([[:en:Rasin]],ハイチ語で「根源の音楽」の意)運動が盛んになり、[[ブックマン・エクスペリアンス]]([[:en:Boukman Eksperyans]])や[[ブッカン・ギネ]]などがアメリカ合衆国市場でも一定の成功を収めた。
 
 
 
ハイチで生まれ、9歳でアメリカ合衆国の[[ニューヨーク]]に渡った[[ワイクリフ・ジョン]]が主体となって結成された[[フージーズ]]は同国市場で大成功を収め、2007年にジーンはハイチの移動大使に任命された。ワイクリフ・ジョンの他にも、アメリカ合衆国やカナダやフランスに移住して創作活動を続けるミュージシャンも多く、カナダ在住の[[エメリーヌ・ミッシェル]]や[[メリッサ・ラヴォー]]などの名を挙げることができる。
 
 
 
=== 食文化 ===
 
{{Main|ハイチ料理}}
 
ハイチ料理は[[アフリカ料理]]を基盤にフランスとタイノ人の影響を受けており、[[スペイン料理]]の影響も受けている。そのため[[キャッサバ]]、[[ヤムイモ]]、[[トウモロコシ]]、[[コメ|米]]、[[マメ|豆]]を多用する。また、カリブ海諸国の例に漏れず[[ラム酒]]も広く飲まれている。
 
 
 
=== 絵画 ===
 
{{Main|ヘイシャンアート|en:Haitian art}}
 
[[アンドレ・マルロー]]がハイチ絵画を絶賛したように、20世紀においてハイチの絵画は、第一次世界大戦でヨーロッパが没落した後の、新たに創造的な美術であるとみなされてきた。絵画のジャンルにはハイチの日常生活を描くもの(生活描写派)、ヴードゥー教の儀式を描くもの(ヴードゥー派)、ハイチの歴史を描くもの(歴史画派)などが存在し、独特の色遣いと表現形式により、ハイチ絵画は世界的に高い評価を受けている。
 
 
 
1943年にハイチを訪れたアメリカ合衆国出身の[[デウィット・ピータース]]は、英語教育の傍らハイチ美術の支援に努め、ハイチにサントル・ダール(アート・センター)を設立した。ピータースとサントル・ダールの活動により、それまで注意を払われなかったハイチの美術に焦点が当たり、[[ペティオン・サヴァン]]、[[エクトール・イッポリト]]、[[フィロメ・オバン]]、[[リゴー・ブノワ]]、[[カステラ・バジル]]など、ハイチの名だたる画家たちの個展が国外で開かれるようになり、ハイチ美術全体の活性化に大きく寄与することとなった。サントル・ダール周辺で活躍した人々はヘイシャン・アートの第一世代を築いた。
 
 
 
=== 世界遺産 ===
 
[[ハイチの世界遺産]]には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]に登録された、[[シタデル、サン=スーシ城、ラミエール国立歴史公園]]の1件が存在する。
 
 
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable" style=
 
! 日付 !! 日本語表記 !! フランス語表記 !! 備考
 
|-
 
|[[1月1日]]||[[独立記念日]]||Jour de l'indépendance ||
 
|-
 
|[[1月2日]]||||Jour des Aïeux ||
 
|-
 
|[[2月7日]]||||Investiture du Président élu ||
 
|-
 
|5月1日||[[メーデー]]|| Jour de l'Agriculture et du Travail ||
 
|-
 
|5月18日||||Fête du Drapeau et de l'Université ||
 
|-
 
|6月27日|||| Notre Dame du Perpétuel Secours, patronne d'Haïti ||
 
|-
 
|8月15日||[[聖母の被昇天|聖母被昇天祭]]||Notre Dame de l'Assomption ||
 
|-
 
|10月17日||[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]記念日||Mémoire de Jean-Jacques Dessalines, père de la Nation||
 
|-
 
|11月1日||[[諸聖人の日]]|| Tous les Saints ||
 
|-
 
|11月2日||[[死者の日]]
 
| Commémoration des Fidèles défunts ||
 
|-
 
|[[12月25日]]||[[クリスマス]]||| Nativité de Jésus-Christ ||
 
|}
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
{{Main|ハイチ人の一覧}}
 
* [[トマ=アレクサンドル・デュマ]](フランスのルイ16世時代の竜騎兵)
 
* [[トゥーサン・ルーヴェルチュール]](独立指導者)
 
* [[ミカエル・ジャン]](第27代カナダ総督)
 
* [[ワイクリフ・ジョン]](ミュージシャン)
 
* [[ジェフテ・ギオム]](ミュージシャン)
 
* [[ヨアキム・アルシン]](プロボクサー、ハイチ史上初の世界チャンピオン)
 
* [[サミュエル・ダレンバート]] - プロ[[バスケットボール選手]]([[NBA]]・[[フィラデルフィア・76ers]]所属、[[バスケットボールカナダ代表|カナダ代表]])
 
 
 
== 脚註 ==
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 学術書 ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[エドゥアルド・ガレアーノ]]/大久保光夫訳|date=1986年9月|title=[[収奪された大地 ラテンアメリカ五百年|収奪された大地──ラテンアメリカ五百年]]|series=|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ガレアーノ/大久保訳(1986)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[C・L・R・ジェームズ|C.L.R. ジェームズ]]/[[青木芳夫]]訳|edition=2002年6月増補新版|title=[[ブラック・ジャコバン|ブラック・ジャコバン──トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命]]|series=|publisher=[[大村書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ジェームズ/青木訳(2002)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[中川文雄]]、[[三田千代子]]編|date=1995年10月|title=ラテン・アメリカ人と社会|series=ラテンアメリカ・シリーズ4|publisher=[[新評論]]|location=[[東京]]|isbn=4-7948-0272-2|ref=中川、三田編(1995)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[立花英裕]] |translator= |editor= |others= |chapter=ハイチ社会の多重構造と文学の前衛性 |title=人文論集 |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=45 |date=2007年2月20日 |publisher=早稲田大学法学会 |location= |id= |isbn= |volume= |page= |pages=105-119 |url=http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/5255 |ref=立花(2007)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[二村久則]]、[[野田隆]]、[[牛田千鶴]]、[[志柿光浩]]|date=2006年4月|title=ラテンアメリカ現代史III|series=世界現代史35|publisher=[[山川出版社]]|location=[[東京]]|isbn=4-634-42350-2|ref=二村、野田、牛田、志柿(2006)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[浜忠雄]]|date=2003年10月|title=ハイチ革命と近代世界series=||publisher=[[岩波書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=浜(2003)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[浜忠雄]]|date=2007年12月|title=ハイチの栄光と苦難|series=|publisher=[[刀水書房]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=浜(2007)}}
 
* {{Cite journal|和書|author=浜忠雄 |authorlink=浜忠雄 |title=ブラック・ディアスポラとハイチ・アート |date=2007-06 |publisher=北海学園大学 |journal=北海学園大学学園論集 |volume=132 |naid=110006996472 |pages=1-24 |ref=harv}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[平野千果子]]|date=2002年2月|title=フランス植民地主義の歴史|series=|publisher=[[人文書院]]|location=[[京都]]|isbn=4-409-51049-5|ref=平野(2002)}}
 
 
 
=== 文学・ジャーナリズム ===
 
* {{Cite book|和書|author=[[ダイアン・ウォークスタイン]]/[[清水真砂子]]訳|date=1984年5月|title=魔法のオレンジの木──ハイチの民話|series=|publisher=[[岩波書店]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ウォークスタイン/清水訳(1984)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤文則]]|date=1999年2月|title=ハイチ──目覚めたカリブの黒人共和国|series=|publisher=[[凱風社]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=佐藤(1999)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤文則]]|date=1999年2月|title=慟哭のハイチ──現代史と庶民の生活|series=|publisher=[[凱風社]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=佐藤(2007)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[エドウィッジ・ダンティカ]]/[[山本伸]]訳|date=2001年1月|title=クリック?クラック!|series=|publisher=[[五月書房]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ダンティカ/山本訳(1984)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[エドウィージ・ダンティカ]]/[[くぼたのぞみ]]訳|date=2003年8月|title=アフター・ザ・ダンス──ハイチ、カーニヴァルへの旅|series=|publisher=[[現代企画室]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=ダンティカ/くぼた訳(2003)}}
 
* {{Cite book|和書|author=[[フランケチエンヌ]]など/[[立花英裕]]など訳|date=2003年11月|title=月光浴──ハイチ短篇集|series=|publisher=[[国書刊行会]]|location=[[東京]]|isbn=|ref=}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ハイチ関係記事の一覧]]
 
* [[タイノ人]]
 
* [[アラワク人]]
 
* [[ハイチ料理]]
 
* [[フージーズ]]: メンバーの[[ワイクリフ・ジョン]]がハイチ生まれ。[[ローリン・ヒル]]とプラスもハイチ系アメリカ人。
 
* [[軍隊を保有していない国家の一覧]]
 
<!--
 
* [[ハイチの通信]]
 
* [[ハイチの交通]]
 
* [[ハイチの軍事]]
 
* [[ハイチの国際関係]]
 
-->
 
  
 +
1957~86年には[[デュバリエ]]親子の独裁が続き,その後もクーデターが相次いで政情は不安定。人口5%のムラットが政治と経済を支配。国民総生産 GNPは世界最低ランクにあり,貧富の差も大きい。主産業は農業であるが,人口圧が高いため国土の大半が耕地化され,零細化,地味の疲弊が進行した結果,生産性の低下という困難に直面している。コーヒーが同国第1の輸出品で,ほかにサトウキビ,サイザルアサも重要な輸出用作物である。近年観光業が発展し,農業に次ぐ第2の収入源となっているが,政治的混乱のため伸び悩んでいる。工業は農産物加工が中心。鉄道はサトウキビ運搬用に限られ,国内交通はもっぱら自動車に依存しているが,道路網はあまり整備されていない。
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== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Haiti|Haiti}}
 
* 政府
 
** ハイチ共和国政府
 
* 日本政府
 
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/haiti/ 日本外務省 - ハイチ] {{ja icon}}
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/haiti/ 日本外務省 - ハイチ] {{ja icon}}
* 観光
 
 
** [http://www.haititourisme.org/ ハイチ共和国政府観光局] {{fr icon}}{{en icon}}
 
** [http://www.haititourisme.org/ ハイチ共和国政府観光局] {{fr icon}}{{en icon}}
  
 
{{アメリカ}}
 
{{アメリカ}}
 
{{OIF}}
 
{{OIF}}
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
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{{DEFAULTSORT:はいち}}
 
[[Category:ハイチ|*]]
 
[[Category:ハイチ|*]]

2018/10/18/ (木) 22:36時点における版

ハイチ共和国
Repiblik d Ayiti
République d'Haïti
国の標語:L'union fait la force
フランス語: 団結は力なり)
公用語 ハイチ語標準フランス語
首都 ポルトープランス
最大の都市 ポルトープランス

面積

総計 27,750km2143位
水面積率 0.7%

人口

総計(2008年 10,033,000人(91位
人口密度 362人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2013年 3,648億[1]グールド
GDP (MER)

合計(2013年 85億[1]ドル(138位
GDP (PPP)

合計(2013年176億[1]ドル(137位
1人あたり 1,703[1]ドル
独立フランスより
1804年1月1日
通貨 グールド (HTG)
時間帯 UTC -5(DST:-4)
ISO 3166-1 HT / HTI
ccTLD .ht
国際電話番号 509

ハイチ共和国(ハイチきょうわこく、ハイチ語: Repiblik d Ayitiフランス語: République d'Haïti

西インド諸島中部にある国。大アンティル諸島中部,ヒスパニオラ島の西3分の1を占め,東寄りの3分の2を占めるドミニカ共和国と国境を接する。国土は西に突出する山がちの二つの半島からなり,両半島を分けるゴナブ湾の湾奥にアルティボニト川流域平野と首都の位置する中央平野がある。最高点は南東端部のラセル峰 (2674m) 。沿岸にいくつかの島があり,おもなものはゴナブ湾内のゴナブ島,北部沿岸のトルチュ島。熱帯気候区の北限近くにあるが,海洋と山地地形の影響で,気温,降水量など地域差が大きい。住民の約 95%は黒人で,その他はムラットと呼ばれる黒人と白人の混血。公用語はフランス語とクレオル語 (現地語化したフランス語) 。ヒスパニオラ島は 1492年コロンブスの来航以来約 200年間スペイン領であったが,スペイン人植民地は東部に偏在していたため,17世紀後半西部はフランス人の海賊が根拠地として利用,1697年島の西3分の1が正式にフランス領となり,サンドマングと名づけられた。

18世紀アフリカから大量の黒人奴隷を導入,サトウキビ,コーヒー,カカオなどを栽培,輸出して繁栄し,人口も急増。同世紀末フランス革命の影響を受けて奴隷が反乱を起こした結果,1794年奴隷制廃止。 1801年解放奴隷 F.D.トゥーサン・ルベルテュールが全島を制圧したが,1803年ナポレオン軍に捕えられ,獄死。その直後奴隷制復活の噂に抗して

J.J.デサリーヌの指導下に再び黒人が蜂起,1804年ハイチの名のもとに全島の独立が宣言され,1825年フランスによって承認された (東部の旧スペイン領は 1844年ハイチの支配を排し,ドミニカ共和国として独立) 。独立後のハイチでは革命,指導者暗殺などが繰り返され,1915~34年にはアメリカ合衆国海兵隊による占領を受け,またスペイン系住民の多いドミニカとの間の紛争や,学生,労働者の暴動もあり,政情は不安定であった。

1957~86年にはデュバリエ親子の独裁が続き,その後もクーデターが相次いで政情は不安定。人口5%のムラットが政治と経済を支配。国民総生産 GNPは世界最低ランクにあり,貧富の差も大きい。主産業は農業であるが,人口圧が高いため国土の大半が耕地化され,零細化,地味の疲弊が進行した結果,生産性の低下という困難に直面している。コーヒーが同国第1の輸出品で,ほかにサトウキビ,サイザルアサも重要な輸出用作物である。近年観光業が発展し,農業に次ぐ第2の収入源となっているが,政治的混乱のため伸び悩んでいる。工業は農産物加工が中心。鉄道はサトウキビ運搬用に限られ,国内交通はもっぱら自動車に依存しているが,道路網はあまり整備されていない。

外部リンク


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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). . 2014閲覧.