スタンリー・キューブリック
スタンリー・キューブリック(英語: Stanley Kubrick, 1928年7月26日 - 1999年3月7日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、プロデューサー。のちにイギリスに移住した。彼は映画史における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人として度々、言及されている。彼の作品の多くは幅広いジャンルの長編小説や短編小説の翻案・脚色であり。リアリズム、ブラックユーモア、ユニークな撮影手法、大規模な舞台装置、そして刺激的な音楽手法で有名である。
キューブリックはニューヨーク州のブロンクス区で育ち、1941年から1945年にかけてWilliam Howard Taft High Schoolに通う。そこで彼は平均的な成績しか取得できなかったが、若い頃から文学、写真、映画への熱心な興味を示していた。そして、高校卒業後、映画製作や演出に関する全ての手法を独学で学ぶ。
1940年代後半から1950初頭にかけて雑誌『ルック』の写真家として働いたのち、わずかな予算で数本の短編作品を作り、そして、ハリウッドでの初めてのメジャー作品『現金に体を張れ』を制作。そしてこれが戦争映画『突撃』と歴史映画『スパルタカス』という、カーク・ダグラスとの2つの共同作品へと繋がることとなる。
彼のハリウッドでの評価は上がり、マーロン・ブランドから『片目のジャック』の監督を依頼された。しかし、意見の対立などにより、キューブリックはブランドから解雇され、ブランド自身が監督をする事になった。皮肉にもその映画でのブランドの演出の技術は、現在に至るまで低く評価されている。(しかしテリー・ギリアムやクエンティン・タランティーノなど、この映画のファンを公言する映画監督も多い。)
他の諸映画スタジオと彼の創作性の違いは、カーク・ダグラスとの仕事の時から生まれており、ハリウッド業界への嫌悪や、アメリカにおける治安悪化の懸念の増大が、彼を1961年のイギリスへの移住へと駆り立てた。そして、残りの人生とキャリアの殆どをイギリスで送った。ハートフォードシャーのChildwickbury Manorにある、妻のクリスティアーヌとの共有の自宅は彼の仕事場となり、そこで彼は脚本の執筆や取材、編集、そして制作の細部わたる管理を行った。このことが、ハリウッドのメジャースタジオからの類まれな予算の支援を得つつ、自分の作品に関する完璧主義的な芸術活動をすることを可能とさせた。彼のイギリスでの最初の映画制作は、ピーター・セラーズを起用した『ロリータ』、『博士の異常な愛情』の2作品であった。
Contents
経歴
開業医を営むオーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人[1]の両親の長男として、ニューヨークのマンハッタンで生まれる。少年時代は、チェス、ジャズに興味を持ち、特にカメラは、彼の経歴の出発点となる。1941年から1945年にかけてウィリアム・ハワード・タフト高校に在籍した。
ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するが、すぐに中退している。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』誌1945年6月25日号に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになる。彼は『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に、短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』を製作し、映画の道を歩み始めた。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、この成功をきっかけに『ルック』誌を退社する。
1953年、親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』[2]を製作するも、この映画は赤字になる。続いてキューブリックは『非情の罠』を製作する。ただし、この映画も製作費を回収することはできなかった。26歳の時、同い年のジェームズ・B・ハリスと組み、ハリス=キューブリック・プロダクションズを設立。
SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』の成功で、世界の批評家から映像作家としての才能を認知される。
ベトナム戦争を扱った『フルメタル・ジャケット』も話題になった。12年ぶりの監督作品となった『アイズ ワイド シャット』(原作は、シュニッツラーの『夢小説』)の完成後、公開を待たずにハートフォードシャーの自宅で心臓発作で死去。70歳であった。
キューブリックの死は監督作品『アイズ ワイド シャット』の試写会5日後の事だった。
『アイズ ワイド シャット』と同時期から企画を温めていた『A.I.』は、2001年にスティーヴン・スピルバーグがそのトリートメントを基に脚本を完成させ、製作・公開された。
映画人として
映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している[3]
初期のころより、監督のみならず映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けた。「完全主義者」といわれ[4][5]、特に晩年は映画製作に時間がかかることでも有名だった。
『博士の異常な愛情』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に際しては上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。日本での公開では、字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。
手法・演出
よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影ができた。
また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという役者の演技がある。この手法を映画評論家のロジャー・イーバートは「キューブリック凝視(Kubrick stare)」と名付けた。[6]
影響
写真雑誌の見習いカメラマン時代に数多くの映画を観て過ごし、セルゲイ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリンから影響を受ける。キューブリック自身は「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」とコメントしている[7]。
1963年にアメリカの映画雑誌「シネマ」誌上でベスト映画を問われた際、次の10本の映画を挙げている。[8]
- 「青春群像」(1953、イタリア)
- 「野いちご」
- 「市民ケーン」
- 「黄金」(1948)
- 「街の灯」
- 「ヘンリィ五世」
- 「夜」
- 「ザ・バンク・ディック」
- 「Roxie Hart」
- 「地獄の天使」(1930)
このインタビュー以降、このようなベスト映画のリストが作られるようなことはなかったが、「2001年宇宙の旅」の公開の数日後に受けたインタビューで「メリー・ポピンズ」について語ったり、1980年のインタビューではクローディア・ウェイルという映画監督の「ガールフレンド」という作品を賞賛したりした。他にはキューブリック自身の関係者にクエンティン・タランティーノの代表作、「パルプ・フィクション」を推薦したりもしていた。[9]
「マグノリア」などで知られる、アメリカの映画監督のポール・トーマス・アンダーソンは2000年の3月、彼自身のファンサイト「Cigarettes&Red Vines」のインタビューを受けた際、キューブリックが彼の代表作「ブギーナイツ」を気に入っていたことや、晩年はウディ・アレンの映画やデヴィッド・マメットが監督した映画を好んでいたことを明らかにした。
イタリアの映画監督、フェデリコ・フェリーニは「2001年宇宙の旅」を観た際、キューブリックの絶賛の電報を送っている。
姿勢
キューブリックは映画『スパルタカス』の大成功をきっかけに有名監督になるが、その後のインタビューで「私の意見はカーク・ダグラス(=製作責任者)にとって多くの意見の一つに過ぎなかった」と述べるなどして、最終決定権が監督ではなくスタジオやプロデューサーが握るハリウッド・メジャーの製作システムにあるとして、これを度々批判している[10]。
これに懲りて、以降の作品では製作も自身が行うようになり、アメリカの映画システムと決別してイギリスへ渡り、アメリカの会社の資本のもとで独自に映画製作を続けることになる。『博士の異常な愛情』以後は、他人の脚本で映画作りをすることはなかった。
その後、キューブリックは『スパルタカス』についてインタビューなどで自らの功績を誇示し、関係者の反感を買った。特に、『突撃』・『スパルタカス』の製作者としてキューブリックに活躍の場を与えたカーク・ダグラスは、完成後ダグラスに繰り返し不満を述べるキューブリックに我慢ならず、自伝の中でその監督手腕は認めつつも、キューブリックを非難した。
製作されなかった映画
キューブリックが最もこだわっていた企画が『ナポレオン』で、『2001年宇宙の旅』の次回作として製作も決定し、脚本も完成し撮影を残すのみとなっていた。ところが先に公開された『ワーテルロー』が興行的に失敗し、『ナポレオン』の出資者が引き揚げたために製作中止に追い込まれた。[11]
ドイツの作家、パトリック・ジュースキントのベストセラー小説『香水 ある人殺しの物語』を映画化する事を考えていた事もある。
ほかにホロコーストをテーマにした『アーリアン・ペーパーズ』(原作は『五十年間の嘘』)という企画も、脚本の執筆中にスピルバーグの『シンドラーのリスト』が公開されたため、キューブリックの前作『フルメタル・ジャケット』が『プラトーン』と何かと比較され大ヒットとオスカー受賞のチャンスを逸した経験から、製作中止を決めた(『プラトーン』は『フルメタル・ジャケット』より先に公開された)。
人物
自身は飛行機の免許を持ち操縦経験もあったが、操縦中に事故を起こしかけた経験と、墜落事故に巻き込まれた知人のカメラマンの焼け焦げたカメラを見て以来、ジェット機の旅行を極度に嫌ったため、プロモーションなどでの来日経験はなく、カンヌなどの映画祭に出席したという記録もない。
さらにロケが必要な映画なども、スペインロケの『スパルタカス』やアイルランドロケの『バリー・リンドン』以外はあまり遠くでロケをすることはなく、ベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』のフエのシーンもロンドン近辺の工場跡を使い、輸入してきたヤシを植えて撮影し、ニューヨークが舞台の『アイズ ワイド シャット』もそのシーンの多くをロンドン近郊の大規模なスタジオ撮影で制作している。
「仕事以外では自宅を一歩も出ない引篭もり人生」というのは多少誇張された表現だが、執筆を依頼した脚本家(殆どは作家を本業にしている)や脚本を読んで欲しい映画会社の重役、デニス・ミューレン、ジェームズ・キャメロンなど視覚効果についてのアドバイスを求めた映画人を、ロンドン郊外の邸宅に招いたのは事実である。また行きつけの文房具店があったが、名前に気付かれ店員に話し掛けられることがないよう、クレジットカードではなく現金で購入していたという(ドキュメンタリー映画「スタンリー・キューブリックの箱」)。
友人
写真家として知られるダイアン・アーバスは『ルック』社時代の先輩であり、アーバス自身はキューブリックの事を非常に気に入っていたという。彼女の死後、キューブリックは『シャイニング』で彼女の代表的な写真『Identical Twins, Roselle, New Jersey, 1967』のオマージュを捧げた。(印象的な双子の女の子のシーン)
スティーヴン・スピルバーグとは特に親交が深く、『A.I.』についての打ち合わせのためにスピルバーグが自家用機で向かい、キューブリック邸のキッチンで話しあったことがあり、それ以外は電話かファックスでやりとりをしていた。
クシシュトフ・キェシロフスキの代表作『デカローグ』を絶賛し、キューブリックはこの映画の脚本の前書きを書いたりもした。
名前の表記について
イギリス英語による発音/'kju:brik/に基づく「キューブリック」のカナ表記が定着しているが、かつては「カブリック」「クーブリック」とも表記されていた。
各種のインタビューによる限り最もアメリカ英語による発音/'ku:brik/[12]に近い「クーブリック」表記の提唱者は、アーサー・C・クラーク著『失われた宇宙の旅2001』の訳者あとがきに明記されているように翻訳家の伊藤典夫であり、その意向を受けた月刊『STARLOG』誌(ツルモトルーム版)が、「今日からクーブリックと呼ぼう」というキャンペーンを展開。以後、同誌では「クーブリック」表記を使用することになったため、SFファンを中心に「クーブリック」表記が広まった経緯がある。
監督作品
- 拳闘試合の日 Day of the Fight (1951年)
- 空飛ぶ牧師 Flying Padre (1951年)
- 海の旅人たち The Seafarers (1952年)
- 恐怖と欲望 Fear and Desire (1953年)
- 非情の罠 Killer's Kiss (1955年)
- 現金に体を張れ The Killing (1956年)
- 突撃 Paths of Glory (1957年)
- スパルタカス Spartacus (1960年)
- ロリータ Lolita (1962年)
- 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (1964年)
- 2001年宇宙の旅 2001:A Space Odyssey (1968年)
- 時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange (1971年)
- バリー・リンドン Barry Lyndon (1975年)
- シャイニング The Shining (1980年)
- フルメタル・ジャケット Full Metal Jacket (1987年)
- アイズ ワイド シャット Eyes Wide Shut (1999年)
出典
- ↑ LoBrutto 1999, p. 6.
- ↑ http://movie.walkerplus.com/mv52997/
- ↑ デイヴィッド ヒューズ 『ザ・コンプリート キューブリック全書』 フィルムアート社、2001年、43頁。
- ↑ スタンリー・キューブリック 〜時代を超越する映像〜花の絵 2014年1月14日
- ↑ 『恐怖と欲望』公式HP
- ↑ Kubrick Stare - TV Tropes
- ↑ “スタンリー・キューブリック (巨匠の歴史)”. 週刊シネママガジン. . 2014閲覧.
- ↑ “Stanley Kubrick, cinephile” (英語). British Film Institute. . 2019閲覧.
- ↑ nessuno2001italy, One on One: Frederic Raphael (1999) . 2019閲覧.
- ↑ ミシェル・シマン著『キューブリック』より ISBN 978-4893671448
- ↑ HBO、キューブリック脚本&スピルバーグ製作のナポレオン伝記ドラマをミニシリーズ化か?
- ↑ [1]
関連文献
- The Authorized Stanley Kubrick Web Site by Warner Bros.
- The Guardian: Citizen Kubrick
- Stanley Kubrick Archive at the London College of Communication
- Kubrick on Senses of Cinema (In Depth Biography)
- Senses of Cinema: Great Directors Critical Database
- Stanley Kubrick Interviews, by Stanley Kubrick, Gene D. Phillips
関連項目
外部リンク
- スタンリー・キューブリック - allcinema
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