ジョン・ガビンズ

提供: miniwiki
2018/8/19/ (日) 20:53時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索

ジョン・ハリントン・ガビンズ(John Harington Gubbins、1852年1月24日 - 1929年2月23日)は、イギリスの外交官、学者。日本の英国公使館・領事館に長く勤務した。

教育

ガビンズはパブリックスクールハーロー校を卒業、ケンブリッジ大学に進学できたはずであったが、家庭の財政的理由でそれを断念した。

経歴

インドアグラの高等裁判所判事だった父親マーチンと母ハリエットの子として生まれる[1]。4人の兄と1人の姉妹がいた[1]。父マーチンは、ジョンが11歳のときに精神的な病から自殺した[1]。ハーロー校卒業後、経済的理由から大学進学は諦め、外国領事館の日本語・中国語通訳者募集に応募し、19歳で在日英国公使館の通訳研修生に合格[1]。ミットフォードの退職後、1871年明治4年に英国公使館付き通訳生として来日した[2]。その後、1875年(明治8年)4月に2等補佐官[3]1882年(明治15年)1等補佐官、1888年(明治21年)日本語書記官補と順調に昇進を続け、1889年(明治22年)6月1日に通訳としての最高位である日本語書記官に昇進した(アーネスト・サトウウィリアム・アストンに続く三代目)。この間東京副領事代行や横浜代理領事なども務める。

1886年(明治19年)5月から翌年にかけては、各国合同の条約改正会議に参加した。1894年(明治27年)2月から7月まで、英国外務省において駐英公使青木周蔵[4]と、英国外相キンバレーの交渉を補佐し、7月16日日英通商航海条約の調印に成功した。翌年7月の追加協約へ向けての関税委員会の英国代表となる。条約改正問題の解決に対する功労により1898年聖マイケル・聖ジョージ勲章に叙せられ、1902年(明治35年)駐日公使官(1905年大使館に昇格)書記官待遇を与えられる。1900年5月から翌年11月まで駐大韓帝国臨時代理公使。1909年外交官を引退。引退後は、かつての上司であるアーネスト・サトウと親交を結んだ。

正規の大学教育を受けていなかったにも関わらず、日英関係に貢献した業績から、ガビンズはオックスフォード大学ベリオール・カレッジから名誉修士号を授与され、ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)で、1909年から1912年まで極東学と日本語の講義を行ったが、生徒不足から講座は3年で閉鎖された。

家族

妻ヘレンは、工部省及び内務省のお雇い外国人であったスコットランド人技術者のコリン・アレクサンダー・マクヴェイン(1838-1912)夫妻の長女として、1869年に横浜で生まれた。母親マリーの実家はスコットランド政治経済界を代表するコーワン家で、1872年には岩倉使節団の一行を接待した[5]。ジョン41歳、ヘレン24歳の1893年に英国で結婚[1]。4人の子をもうけ、子供たちは妻側の親戚のもとで育てられた[1]。 後に特殊作戦執行部(Special Operations Executive, SOE)部長をとなるコリン・マクヴェイン・ガビンズEnglish版少将はジョン・ガビンズの次男である。

関連項目

参考文献

  • Ian Nish, "John Harrington Gubbins, 1852-1929," chap. 8 in Britain and Japan: Biographical Portraits, vol. 2, edited by Ian Nish (Japan Library, 1997).
  • アーネスト・サトウからガビンズへの私信、1908-27年、UK Public Record Office (PRO 30/33 11/8, 11/9 and 11/10).
  • 朝日日本歴史人物事典
  • 萩原延壽著「遠い崖9 アーネスト・サトウ日記抄」朝日新聞社(2008年)。ISBN 978-4022615510
  • 萩原延壽著「遠い崖11 アーネスト・サトウ日記抄」朝日新聞社(2008年)。ISBN 978-4022615534

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 Gubbins & SOEPeter Wilkinson, Joan Astley, Pen and Sword, Nov 8, 2010
  2. 同時に3人の通訳生が来日しているが、来日1年後の進捗を、アーネスト・サトウは「ガビンズはものになりそうです」と評している(萩原 9、pg339。原資料はサトウからウィリアム・アストンへの私信)。
  3. 1874年(明治7年)の8月に、ガビンズら3人の通訳生はサトウによる昇進試験を受けたが、合格したのはガビンズのみであった(1660点満点で1343点)。即日上級通訳生に昇進し、さらに8ヶ月後に2等補佐官に昇進した(萩原 11、pg160-163。原資料は1874年10月28日付けのハリー・パークス公使からダービー外相への報告および付属のサトウの覚書)
  4. 青木の秘書は、かつて駐日英国公使館の通訳であったアレクサンダー・フォン・シーボルトであった。但し、ガビンズが来日した時点では、シーボルトはすでに公使館を退職し、日本政府に雇用されていた。
  5. [1]IZMD's Architectural History & Restoration