「シュリーヴィジャヤ王国」の版間の差分

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'''シュリーヴィジャヤ王国'''(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)は[[インドネシア]]や[[マレー半島]]、[[フィリピン]]に大きな影響を与えた[[スマトラ島]]の[[マレー人|マレー]]系[[海洋国家|海上交易国家]]。[[漢文]]では「室利仏逝」と音訳表記される。また、アラブの資料では「ザバック」「サバイ」「スブリサ」の名でみられる<ref>バドリカ、p. 28</ref>。王国の起源ははっきりしないが、7世紀には[[マラッカ海峡]]を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになった。
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'''シュリーヴィジャヤ王国'''(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)
  
== 概要 ==
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7世紀後半から 11世紀頃,スマトラ南部[[パレンバン]]を中心として,マラッカ海峡沿岸に栄えた貿易国家。中国の史料には初め室利仏逝,のちに三仏斉などと記された。唐代の僧[[義浄]]はインド旅行の途中,同地に滞在して仏教を研究している。盛時にはマレー半島側にも勢力を及ぼし,東西交通に重要な役割を果したが,11世紀にインドの[[チョーラ朝]]の遠征軍に敗れ,近隣のジャンビ王国に繁栄を奪われた。この国はほとんど建築物を残しておらず,わずかに5つの碑文と中国語の史料によってその概要を知ることができる。
シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの[[港市国家]]をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島の[[パレンバン|ジャンビ]]、西は[[マレー半島]]西岸の[[クダ州|クダ]]ないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、[[中国]][[インド]]ともさかんに通商をおこなった。旅行者の記録ではスマトラの沿岸部では[[金貨]]が流通していたが、内陸部には及んでいなかったとしている。
 
  
[[タイ王国|タイ]]南部[[スラーターニー県]]の[[チャイヤー郡|チャイヤー]]がシュリーヴィジャヤの首都だったと主張する歴史家{{誰|date=2018年4月}}がいて、この説が世界的に受け入れられつつある{{要出典|date=2018年4月}}。[[杜佑]]の『[[通典]]』によれば、チャイヤーは以前盤盤王国といわれ、唐時代には1,000人の仏僧がおり、10以上の仏教寺院があった。チャイヤーの[[ワット・プラボーロマタートチャイヤー|ボーロマタート寺院]]には[[シュリーヴィジャヤ様式]]の代表的寺院である。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[1920年代]]、[[フランス人]]歴史学者[[ジョルジュ・セデス]]が、『[[新唐書]]』に漢文で「室利仏逝」と記される国が、古代ムラユ語([[マレー語|古マレー語]])碑文にいうシュリーヴィジャヤ(''Sribhoja'')ではないかと指摘したことにより、諸資料が再検討に供され、研究が進展した。しかし、セデスの説は漢籍には、「室利仏逝」は[[670年]]代に出現し、[[741年]]まで[[唐]]に朝貢する国として登場し、碑文の古代ムラユ語の表記には、南インド系の[[グランタ文字|パッラヴァ文字]]が用いられている。碑文は10点ほど残り、王国はしばしば「カダトゥアン」<ref>ムラユ語で「王国」「王宮」「王都」の意である。</ref>と呼ばれる。
 
 
 
== 歴史 ==
 
マラッカ海峡周辺の地域に外側から最初に強い文化的影響を与えたのはインドを起源とする[[シヴァ]]信仰(のちの[[ヒンドゥー教]])であり、また、スマトラには[[仏教]]が[[425年]]頃までには伝来している。
 
 
 
西暦[[550年]]頃、シュリーヴィジャヤ王国の起源となる勢力となったのはメコンデルタにあった[[扶南]]であり、それがかつての属領真臘におわれ、タイのバンドン湾にあった盤盤に亡命政権を作り、のちに「赤土国」を吸収し、「室利仏逝」として670年に唐に入港した。のちの三仏斉はジャンビとケダーとチャイヤーの3国による朝貢を目的とした連合王国である。
 
 
 
[[ファイル:Avalokiteçvara, Malayu Srivijaya style.jpg|130px|right|thumb|シュリーヴィジャヤ・マレー様式の黄金製の仏像。ジャンビ(インドネシア)]]
 
[[ファイル:Chaiya Wat Kaew.jpg|250px|right|thumb|[[チャイヤー郡|チャイヤー]](タイ)のワットプラケオ]]
 
 
 
[[7世紀]]には[[唐]]の僧、[[義浄]]がインドへの旅の途次、この地に長期間滞在し、記録をのこした。彼の記録は7世紀後半のシュリーヴィジャヤについての貴重な資料のひとつとなっている(詳細後述)。7世紀から9世紀にかけて、シュリーヴィジャヤは[[貿易]]や征服を通じて地方の支配を始め、683年にダプンタ・ヒャン王はパレンバンと{{仮リンク|メラユ王国|en|Melayu Kingdom|label=ジャンビ王国}}を支配下におさめた。さらに686年にジャワの「訶陵」王国も征服しシャイレーンドラ朝を建国した。これは大乗仏教の王国であり、8世紀末にボロブドール寺院を建設した。これは世界最大の大乗仏教寺院である。
 
 
 
南インドの文字で記された碑文資料は、パレンバン、[[バンカ島]]、ジャンビ、スマトラ南端の[[パラス・パセマ]]などから出土しており、いずれも7世紀後半のものである。これらの碑文から、当時のシュリーヴィジャヤでは[[大乗仏教]]がおこなわれていたこと、兵2万人の動員が可能であったこと、[[スリ・ジャヤナーシュ]]という王が「幸ある園」を建設したことなどが知られる。
 
 
 
「室利仏逝」の記録は、[[741年]]の朝貢を最後に姿を消している。マレー半島中部の[[ナコンシータマラート]]([[タイ王国]]ムアンナコーンシータンマラート郡)で発見された、[[775年]]の[[サンスクリット語]]の[[リゴール碑文]]には、[[ダルマトゥンガ王|ヴィシュヌ]]という名の「シャイレーンドラ王家のシュリーヴィジャヤ王」が3寺院を建立したと記されている。この時期、シュリーヴィジャヤ王国グループにおいてマハラジャ(王の中の王)の称号がシャイレーンドラ王家[[パナンカラン]]に授与され、830年ごろ[[バーラプトラ]]がジャワを追放されるまで、シャイレーンドラ朝がシュリーヴィジャヤ・グループのリーダーであった。
 
 
 
その後主要国3国(上記)によって「三仏斉」という連合政体が9世紀末に結成された。また、「室利仏逝」は741年の最後の遣使ののち消えたが、インドネシアの地域から中国へ遣使をしたのは[[ジャワ島]]の「訶陵」という勢力であった。この「訶陵」はシャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤ王国であり、シュリーヴィジャヤ・グループから集めた朝貢品をもって[[768年]]に朝貢を再開した。(それ以前の「訶陵」はサンジャヤ朝[[古マタラム王国]]であり、666年まで入貢していた。)中国史料{{要出典|date=2018年4月}}によれば「[[三仏斉]]」と称される勢力がマラッカ海峡をのぞむ地域一帯に出現し、宋王朝へ朝貢をしきりに行った。ベトナム中部沿海の[[チャンパ王国]]は「占城」として三仏斉と対抗していた。その朝貢も南宋の財政難から12世紀末には[[市舶司]]制度に切り替えられ、ほぼ10世紀にわたる朝貢制度はいったん幕を下ろし、三仏斉も自然消滅となった。
 
 
 
ジャワ島の[[クディリ朝]]の[[ダルマヴァンシャ王]]は、シュリーヴィジャヤの交易独占を阻止しようと、[[992年]]からマレー、スマトラ各地に侵攻した。しかし撃退され、{{要出典範囲|宋王朝から200年間入貢を禁止された|date=2018年4月}}。
 
 
 
[[1017年]]、[[1025年]]には[[チョーラ朝]]の[[ラージェンドラ1世]]の遠征で打撃を受けて一時期衰退した。{{要出典範囲|チョーラ朝の狙いはマレー半島の横断通商路の独占的支配であったが11世紀の終わりには三仏斉に占領地を返還した|date=2018年4月}}。
 
 
 
[[1275年]]には、ジャワ島の[[シンガサリ朝]]に征服された。
 
 
 
同時代、同地域のスマトラ島では[[アラブ]]や[[インド]]の商人との接触を通じて広まった[[イスラム教]]が広まっており、イスラム教徒である{{仮リンク|アリ・ムハヤット・シャー|en|Ali Mughayat Syah}}が[[アチェ王国]]を建国した。[[13世紀]]の後半までに、同島北部の[[サムドラ王国]]の君主{{誰|date=2018年4月}}はイスラム教徒に改宗した。同じ頃、{{要出典範囲|シュリーヴィジャヤ王国は[[クメール王朝]]の、後に[[スコータイ王朝]]の属国になった|date=2018年4月}}。
 
 
 
[[1377年]]にはジャワ島中東部の[[マジャパヒト王国]]によって征服されたが、[[1414年]]までにマレー半島の[[マラッカ]]に逃れたシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子{{仮リンク|パラメスワラ|en|Parameswara (sultan)}}がイスラム教に改宗し、同地で[[スルタン]]制が始まった。この[[マラッカ王国]]は[[1511年]][[8月24日]]に[[ポルトガル]]によって征服された。
 
 
 
== 義浄の記録 ==
 
{{インドネシアの歴史}}
 
[[東アジア]]に説一切有部系の[[経典]]類をもたらした唐の高僧[[義浄]]は、インドへの旅の往復に、シュリーヴィジャヤに長期間滞在した。
 
 
 
往路は、[[671年]]に[[広州]]から出航し、20日たらずで室利仏逝に到着し、半年間そこでサンスクリット音韻論を学んでいる。その後、摩羅遊(ムラユ、現在の[[パレンバン|シンガポールの向かいのリアウ諸島]]と考えられている)に2か月滞在し、羯荼(クダ)を経由してインドに向かった。
 
 
 
復路は、[[687年]]にクダ経由でムラユに到着したが、そこは室利仏逝の領土となっていた。パレンバンで見つかった{{仮リンク|クドゥカンブキト碑文|en|Kedukan Bukit Inscription}}には、[[682年]]にシュリーヴィジャヤの王が遠征に成功し、町を建てたことが記されている。これはシュリヴィジャヤの「戦勝記念碑」である。シュリーヴィジャヤはマラッカ海峡全域の支配に成功した。義浄は、[[695年]]まで室利仏逝の地にあって、仏典の漢訳にたずさわったほか、『{{仮リンク|大唐西域求法高僧伝|zh|大唐西域求法高僧传}}』と『{{仮リンク|南海寄帰内法伝|zh|南海寄归内法传}}』を著した。
 
 
 
義浄は、当時の室利仏逝には[[僧侶]]1,000人あまりを擁し、法式も整備され、インドの[[ナーランダー僧院]]に匹敵するほどの大乗仏教教学の中心地であったと記している。
 
 
 
== 歴代王 ==
 
以下の王名が刻文より知られる<ref>バドリカ、pp. 29 - 33</ref>。
 
* {{仮リンク|ダプンタ・ヒャン|en|Sri Jayanasa of Srivijaya}} - 683年頃に在位
 
* {{仮リンク|ダルマ・ストゥル|en|Dharmasetu}} - 娘タラは[[シャイレーンドラ朝]]の[[サマラトゥンガ王|サマラトゥンガ]]の妃となり、バーラプトラ・デワを産んだ。
 
* {{仮リンク|バーラプトラ|label=バーラプトラ・デワ|en|Balaputra}} - シャイレーンドラ朝の最後の王、856年に姉{{仮リンク|プラモーダヴァルダニー|en|Pramodhawardhani}}との争いに敗北し、シュリーヴィジャヤに亡命、王位についた。
 
* {{仮リンク|サングラマ・ウィジャヤトゥンガワルマン|en|Sangrama Vijayatunggavarman}} - 1025年に[[チョーラ朝]]の[[ラージェーンドラ1世]]の襲撃を受け、捕虜となる。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<div class="references-small"><references /></div>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[三仏斉]]
 
* [[シャイレーンドラ朝]]
 
* [[義浄]]
 
* [[インド化]]
 
 
 
== 出典 ==
 
*[[池端雪浦]]編『東南アジア史〈2〉島嶼部』[[山川出版社]]&lt;新版世界各国史&gt;、[[1999年]]5月。ISBN 4634413604
 
*池端雪浦・[[石澤良昭]]・[[後藤乾一]]・[[石井米雄]]・[[加納啓良]]『岩波講座東南アジア史1』[[岩波書店]]、[[2001年]]6月。ISBN 4000110616
 
*池端・石澤・後藤・石井・加納・桜井由躬雄・山本達郎・斎藤照子・末広昭『岩波講座東南アジア史2』岩波書店、2001年8月。ISBN 4000110624
 
*鈴木峻『シュリヴィジャヤの歴史』2010年5月、めこん社、ISBN 978-4-8396-0234-5、『扶南・真臘・チャンパの歴史』2016年12月めこん社。ISBN 978-4-8396-0302-1.
 
 
 
== 関連文献 ==
 
*[[鈴木峻]]『シュリヴィジャヤの謎』[[朝日新聞社|自費出版]]&lt;朝日クリエ&gt;、2008年1月。ISBN 4903623041
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/indonesia/kouekiteikoku.html 交易国家シュリーヴィジャヤ]
 
*[http://www7.plala.or.jp/seareview/newpage5.html シュリヴィジャヤの謎]URL www.suzukitk.com(鈴木峻)
 
  
 
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2018/10/5/ (金) 20:27時点における最新版

シュリーヴィジャヤ王国(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)

7世紀後半から 11世紀頃,スマトラ南部パレンバンを中心として,マラッカ海峡沿岸に栄えた貿易国家。中国の史料には初め室利仏逝,のちに三仏斉などと記された。唐代の僧義浄はインド旅行の途中,同地に滞在して仏教を研究している。盛時にはマレー半島側にも勢力を及ぼし,東西交通に重要な役割を果したが,11世紀にインドのチョーラ朝の遠征軍に敗れ,近隣のジャンビ王国に繁栄を奪われた。この国はほとんど建築物を残しておらず,わずかに5つの碑文と中国語の史料によってその概要を知ることができる。



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