「シベリア抑留」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「サムネイル '''...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
'''シベリア抑留'''(シベリアよくりゅう)は、[[第二次世界大戦]]の[[日本の降伏|終戦]]後、[[武装解除]]され[[投降]]した[[日本軍]][[捕虜]]らが、[[ソビエト連邦]](ソ連)によって主に[[シベリア]]などへ[[労働力]]として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と[[奴隷]]的[[強制労働]]により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。[[寒冷地|厳寒]]環境下で満足な[[食事]]や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が[[死|死亡]]した<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180205-00000005-ibaraki-l08 シベリア抑留の労苦 阿見 絵画や物品展示]茨城新聞、2018年2月5日</ref>。
+
[[ファイル:第2次世界大戦後,シベリアの鉄道建設現場で強制労働をさせられる日本人抑留者たち(1948頃).jpg|サムネイル]]
 +
'''シベリア抑留'''(シベリアよくりゅう)
  
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の[[復員|家庭への復帰]]を保証した[[ポツダム宣言]]に反するものであった。ロシアの[[ボリス・エリツィン|エリツィン]]大統領は[[1993年]]([[平成]]5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した<ref>{{cite web
+
1945年の第2次世界大戦終結時にソビエト連邦に降伏,または逮捕された日本人に対する,ソ連による[[シベリア]]での強制労働。抑留者の数は,日本政府の調べでは約 57万5000人とされ,うち約 5万5000人が死亡,約 47万3000人が帰国した。抑留者は主として軍人であったが,[[満州]]開拓団の農民,満州の官吏,[[南満州鉄道株式会社]]など国策会社の職員,従軍看護婦などもいた。シベリアのほか中央アジア,極東,モンゴル,ヨーロッパ・ロシアなどの約 2000の収容所,監獄に収容され,鉄道建設,炭坑・鉱山労働,土木建築,農作業などさまざまな労働に強制的に従事させられた。1946年12月から引き揚げが始まり,[[日ソ共同宣言]]が行なわれた 1956年には有罪判決を受けた者も釈放され,ほとんどが帰国したが,若干名はソ連に帰化した。行方不明者も少なくない。2015年,シベリア抑留と引き揚げの歴史を伝える資料「舞鶴への生還&nbsp;1945~1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が[[国際連合教育科学文化機関]] UNESCOの[[世界の記憶]]に国際登録された。
| date = 2007-05-11
 
| url = http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon_pdf_t.nsf/html/shitsumon/pdfT/b166197.pdf/$File/b166197.pdf
 
| title = 衆議院議員鈴木宗男君提出エリツィン前ロシア大統領の逝去に関する質問に対する答弁書
 
| publisher = [[衆議院]]
 
| accessdate = 2011-08-07
 
}}</ref>。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている<ref>{{Cite news | url = http://www.nikkei.com/article/DGXLAS0040008_T21C15A0000000/ | title = シベリア抑留は「歪曲」 記憶遺産でロシア  | publisher = [[日本経済新聞]] | date = 2015-10-23 | accessdate = 2016-08-23 }}</ref>。
 
 
 
== 背景 ==
 
{{see also|ラーゲリ|グラグ}}
 
 
 
[[ソビエト連邦]]では[[1920年]]後半頃から[[政治犯]]などの[[囚人]]に過酷な強制労働が課せられたが、これは[[労働力]]不足を補う側面もあった{{Sfn|村井淳|2010|pp=118}}。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]体制下の[[1930年代]]以降は[[強制収容所]]([[ラーゲリ]])の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、[[白海・バルト海運河]]建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では[[1932年]]から[[1941年]]にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い[[1934年]]には囚人の10.56 %が死亡した{{Sfn|村井淳|2010|pp=121}}。
 
 
 
スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、[[ポツダム会談]]で[[ウィンストン・チャーチル]]が[[炭鉱]]労働者不足を嘆いた際に「[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた{{Sfn|白井久也|1994|pp=37}}{{Sfn|戸松建二|2009|pp=182}}。[[ヤルタ会談]]ではかつてドイツが[[戦争賠償|賠償]]支払いのための[[外貨]]を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された<ref>{{Cite web|和書|author=[[ライナー・ホフマン]] 訳[[山手治之]] |url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/06-2/ok-yamate.pdf|accessdate=2012.4.8|title=戦争被害者に対する補償――1949年以降のドイツの実行と現在の展開――|date=2005|publisher=立命館法学}}、299p
 
</ref>。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は[[1929年]]の[[ジュネーヴ条約]]に加わっていなかったため、[[1931年]]以降独自規定として戦時[[捕虜]]の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。[[ポーランド侵攻]]以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、[[1949年]]1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている{{Sfn|村井淳|2010|pp=130}}。これらの捕虜の多くは[[内務人民委員部]]等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、[[スターリングラード攻防戦]]での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった{{Sfn|村井淳|2010|pp=132}}。
 
 
 
== 経緯 ==
 
=== ソ連軍侵攻と停戦 ===
 
第二次世界大戦末期の[[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月9日]]未明、ソ連は[[日本]]に対して、[[日ソ中立条約]]を破棄して[[ソ連対日宣戦布告|宣戦布告]]をし、満ソ[[国境]]に展開する174万人のソ連[[極東軍管区|極東軍]]に命じて、[[満州国|満州帝国]]・日本領[[朝鮮半島]]北部に軍事[[侵攻]]した([[ソ連対日参戦]])。8月10日には、[[モンゴル人民共和国]]も日本に対して宣戦布告した。日本は[[8月14日]]に[[中立国]]を通して降伏を声明したが、ソ連は[[8月16日]]には日本領南[[樺太]]へ、[[8月18日]]に[[千島列島]]へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の[[占守島]]では[[8月22日]]に、日本から[[停戦]]命令が下り、降伏した。
 
 
 
これらの行動は、ソ連・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]の[[ヤルタ会談]]に基づくものであった。当時非公開であった[[ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定)|ヤルタ秘密協定]]では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南[[樺太]]の返還と[[クリル諸島]]の引き渡し、[[満州]]においては[[旅順]][[租借地|租借権]]の回復および[[大連]]港や[[東清鉄道|中東鉄道]]・[[南満州鉄道]]に対する優先的権利の認定が記されていた<ref>{{PDF|[http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/area/hoppo/1992.pdf 日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集]}}(日本国外務省・ロシア連邦外務省編、1992年)p.24 「ヤルタ協定」</ref>。
 
 
 
日本が[[ポツダム宣言]]を受諾したのち、8月16日には[[大本営]]から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。[[8月17日]]に派遣された皇族・[[竹田宮恒徳王]]が[[新京]]に到着し、[[8月18日]]には満州帝国が滅亡したため、[[関東軍]]総司令官[[山田乙三]]大将とソ連極東軍司令官[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]元帥は[[8月19日]]に東部満ソ国境[[ハンカ湖]]の近くで停戦交渉に入り、[[8月26日]]頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった{{Sfn|白井久也|1994|pp=34-35}}。
 
 
 
=== 抑留の決定 ===
 
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員[[ラヴレンチー・ベリヤ]]に下していたが、8月23日にはこれを翻し、「[[ソ連国家防衛委員会|国家防衛委員会]]決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した{{Sfn|戸松建二|2009|pp=132}}。
 
 
 
==== 関東軍密約説 ====
 
8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」<!-- ← これは原文ではないので旧字体は不要-->という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・[[草地貞吾]]の述懐によると、草地が関東軍総司令官・[[山田乙三]]と関東軍総参謀長・[[秦彦三郎]]の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという{{Sfn|白井久也|1994|pp=35}}。また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土&#xFA5F;セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという[[大本営]]参謀・[[朝枝繁春]]本人は、この文書が偽造されたものであると主張している{{Sfn|白井久也|1994|pp=36}}。
 
 
 
なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で[[密約]]が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長・[[斎藤六郎]]や近代史が専門のノンフィクション作家・[[保阪正康]]らによって主張されているが、ロシア側はそのような[[史料]]を公開していない。またこの交渉に同行した[[瀬島龍三]]は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している<ref>瀬島龍三『日本の証言』フジテレビ出版</ref>。
 
 
 
==== 北海道代償説 ====
 
8月16日にスターリンは、[[ヤルタ協定]]で約束されていた[[千島列島]]・[[樺太|南樺太]]の占領のみならず、日本敗戦直後に[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]に連絡し、[[北海道]]の[[日本の分割統治計画|分割占領]]([[留萌市|留萌町]](当時)から[[釧路市]]を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本による[[シベリア出兵]]によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい{{Sfn|戸松建二|2009|pp=176}}。
 
 
 
=== 移送 ===
 
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は[[内地]]への帰還を望んだが、ソ連軍は[[復員]]を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。
 
 
 
日本人捕虜は、まず満州の[[産業]]施設の[[工作機械]]を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。[[9月5日]]の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州[[民間人]]・[[満蒙開拓移民]]団の男性が続々と[[ハバロフスク]]に集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成した後、[[貨車]]に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり、[[絶望]]したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び、捕虜を貨車に乗せたという。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。
 
 
 
一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある<ref>V.A.アルハンゲリスキーの著作および[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]元帥の統計より</ref>。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている<ref name="sankei20090724">[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090724/erp0907240115000-n1.htm シベリア抑留、露に76万人分の資料 軍事公文書館でカード発見]{{リンク切れ|date=2010年11月}}[[産経新聞]]2009年7月24日</ref>。
 
 
 
==== 移送先 ====
 
* [[コムソモリスク・ナ・アムーレ]]
 
* [[ハバロフスク]]
 
* [[シベリア]]
 
* [[ブラーツクダム]]
 
* [[ナヴォイ劇場]]
 
* [[タシケント抑留日本人墓地|タシケント]]
 
* [[ナホトカ]]
 
* [[エラブガ]]
 
 
 
シベリア以外にも、[[モンゴル人民共和国|モンゴル]]や[[中央アジア]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[コーカサス|カフカス地方]]、[[バルト三国]]、[[ヨーロッパロシア]]、[[ウクライナ]]、[[ベラルーシ]]などソ連の勢力圏全域や[[中華人民共和国]]にも送り込まれたという証言があるが、ソ連側の史料が全面提供されないなか、[[厚生省]](現[[厚生労働省]])によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。<ref>厚生省援護局。「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省。1976年。p56。厚生省社会・援護局50年史編纂委員会。「ソ連邦・モンゴル(外蒙古)内各地点死亡者発生状況概見図」『援護50年史』。ぎょうせい。1997年。pp524-525。A)Union of Soviet Socialist Republic. Compiled and drawn in the Cartographic Section of the National Geographic Society for the National Geographic Magazine. Grovesnor, Gilbert. Ed. Washington. U.S.A. 1944. B)U.S.S.R.and Adjacent Areas 1:8,000,000. Published by Department of Survey, Ministry of Defense, United Kingdom. British Crown Copyright Reserved Series 5104. U.K. 1964. C)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U. K. 1973. D)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U.K. 1976. E)Soviet Union. Produced by the Cartographic Division. National Geographic Society. National Geographic Magazine. Grovesnor, Melville B. Ed. Washington. U.S.A. 1976. F)Union of Soviet Socialist Republic. Moscow News Supplement. Main Administration of Geodesy and Cartography under the Council of Minister of the USSR. U.S.S.R. 1979.</ref> [[日本国政府|日本政府]]による[[遺骨収集事業|遺骨収集]]がソ連国内数か所において許可されているので、その進展にしたがいより正確な収容所拠点、抑留者数、死亡者数が解明されることと期待される。<ref>'''「'''シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査について」 厚生労働省政策レポート。2009年。<nowiki>http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html</nowiki> </ref>
 
[[ファイル:1946年頃以降のソ連・モンゴル(外蒙古)内日本人収容所分布および各地点死亡者発生状況概見図.pdf|サムネイル|ソ連側の史料が全面提供されないなか、厚生省(現厚生労働省)によってまとめられた地図によれば、ソ連国内70か所をこえる収容所において抑留日本兵が強制労働に従事させられた。厚生省作成地図には各地点の抑留日本兵の動員数、死亡者数が含まれるが、地名はカタカナのみで記されてあったため、米国、英国ならびにソ連において発行されたソ連地図を参照し、地名を特定した。 (厚生省援護局。「昭和21年頃におけるソ連・外蒙領内日本人収容所分布概見図」『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省。1976年。p56。厚生省社会・援護局50年史編纂委員会。「ソ連邦・モンゴル(外蒙古)内各地点死亡者発生状況概見図」『援護50年史』。ぎょうせい。1997年。pp524-525。 A)Union of Soviet Socialist Republic. Compiled and drawn in the Cartographic Section of the National Geographic Society for the National Geographic Magazine. Grovesnor, Gilbert. Ed. Washington. U.S.A. 1944. B)U.S.S.R.and Adjacent Areas 1:8,000,000. Published by Department of Survey, Ministry of Defense, United Kingdom. British Crown Copyright Reserved Series 5104. U.K. 1964. C)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U. K. 1973. D)USSR Railways. J.R. Yonge. The Quail Map Company. Exeter. U.K. 1976. E)Soviet Union. Produced by the Cartographic Division. National Geographic Society. National Geographic Magazine. Grovesnor, Melville B. Ed. Washington. U.S.A. 1976. F)Union of Soviet Socialist Republic. Moscow News Supplement. Main Administration of Geodesy and Cartography under the Council of Minister of the USSR. U.S.S.R. 1979.)]]
 
 
 
=== 収容所での生活 ===
 
シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と[[強制労働]]が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した<ref>当初から10万名は死亡したと言われ、[[グラスノスチ]]後に発見された資料によると40万人とも言われる。</ref>(犠牲者数に関しては後述)。
 
 
 
一方、[[共産主義]]の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として「[[日本しんぶん]]」が発行された。
 
「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった([[シベリア天皇]]、[[浅原正基]]<ref>ウイリアム・F・ニンモ著、加藤隆訳『検証―シベリア抑留』(時事通信社 1991年))</ref>、[[袴田陸奥男]]<ref>「シベリア天皇の全告白」文芸春秋 69(5), p140-147, 1991-04 </ref>
 
<ref>寺田新次郎「[http://www.heiwakinen.jp/library/shiryokan/yokuryu12.html 抑留所感]」シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編) 第12巻
 
吉田幸平 『シベリア捕虜の思想戦―日本人相剋の悲劇』 中日出版社、2008年. 佐々木芳勝『流転の旅路 : シベリア抑留記』2000.</ref>)。また日本共産党委員長[[志位和夫]]の[[伯父]][[志位正二]]などソ連の[[スパイ]]となり、戦後日本で[[諜報活動]]を行った者もいる<ref>加藤哲郎『ゾルゲ事件 覆された神話』平凡社〈平凡社新書〉、2014年、p.128</ref>
 
 
 
共産主義者の捕虜は「[[民主運動 (日本)|民主運動]]」を行い、[[革命]]思想を持たない捕虜を「[[反動]]」「[[前職者]]」と呼び、「反ソ分子」の執拗な[[吊し上げ]]や露骨な[[暴力|暴行]]を行った<ref>[[高杉一郎]] 『極光のかげに―シベリア俘虜記』.西川伸一 『もうひとつの世界へ』第14号(2008年4月) 58頁</ref>。抑留中に起きた事件として[[「暁に祈る」事件]]がある。
 
 
 
共産主義の労働[[ノルマ]]に対する[[報酬]]、[[資本主義]]との違いゆえ、捕虜達の中には[[ストライキ]]を起こした例もある<ref>[[小峰国保]] 『シベリア抑留記』 [[創栄出版]] 2003年 pp.99 - 100.不当に仕事量を増やされていたことが発覚し、待遇は後に改善されたと記す。</ref>。
 
 
 
=== ハバロフスク裁判 ===
 
{{Main|ハバロフスク裁判}}
 
 
 
1949年12月に戦犯裁判として[[ハバロフスク裁判]]が行われ、[[関東軍]]司令官の[[山田乙三]]や[[731部隊]]が裁かれた。ボンダレンコはこのハバロフスク裁判について[[国際法]]違反だと述べている<ref>Е.Ю. Бондаренко. «Судьбы пленных: Токийский и Хабаровский международные процессы над японскими военными преступниками и их последствия». Россия и АТР. 1993, No.1.小林昭菜「「シベリア抑留」研究の現状と課題」異文化 論文編 (11), 267-285, 2010-04 法政大学国際文化学部</ref>。
 
 
 
=== 日本側の対応 ===
 
{{See|引き揚げ}}
 
1945年(昭和20年)11月になって[[日本国政府|日本政府]]は関東軍の[[軍人]]がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。[[1946年]](昭和21年)5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「[[引き揚げ|ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定]]」が成立した。
 
 
 
[[1952年]](昭和27年)に[[緑風会]]の[[高良とみ]]が収容所を訪問した。このとき[[健康]]な者は営外作業に出され、重症患者は別の[[病院]]に移されるなどの収容所側による[[工作]]が行われ、高良の「他の収容者はどうしたのか」との問いに対し、所長は「日曜日なのでみな[[釣り|魚釣りか]]町へ[[映画]]を見に行った」と平然と応えている<ref>{{Cite |和書|author=稲垣武 |year= 1997|page=78-79}}</ref>。
 
 
 
[[1955年]](昭和30年)に当時ソ連と親しい関係にあった[[社会党左派]]の[[日本の国会議員|国会議員]]らによる収容所の視察が行われた。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を[[人道]]的に扱っている」と[[プロパガンダ|宣伝]]するためのものであったが、調理場の鍋にあった[[カーシャ]]を味見した[[戸叶里子]][[衆議院議員]]は思わず「こんな臭い[[]]を、毎日食べておられるのですか」と漏らしたという。過酷な状況で強制労働をさせられていた収容者らは決死の覚悟で収容所の現状を伝えたが、その訴えも虚しく視察団は託された手紙を握りつぶし、[[記者会見]]や[[国会 (日本)|国会]]での報告で「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」などと[[嘘|虚偽]]の説明を行った。元収容者らが帰国後に新聞へ投書したことから虚偽が発覚し、視察団団長の[[野溝勝]]らは[[海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会]]で追求を受けている<ref>{{Cite |和書|author=稲垣武 |year= 1997|page=78-84}}</ref><ref>{{Cite web |date=1956-2-23 |url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/024/0012/02402230012006a.html |title=第024回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第6号 |publisher=国会会議録検索システム |accessdate=2017-05-6}}</ref>。
 
<!---要出典 ---
 
[[日ソ共同宣言]]をまとめた[[鳩山一郎]]は訪ソの前に、「[[北方地域|北方領土]]返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。--->
 
 
 
== 帰国 ==
 
[[1947年]](昭和22年)から日ソが国交回復する[[1956年]]にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
 
 
 
[[1950年]](昭和25年)には、一部の引揚者の帰国が遅れたのは[[日本共産党]]書記長[[徳田球一]]の要請として、国会で問われた[[徳田要請問題]]が起こった。
 
 
 
=== 中華人民共和国への移管 ===
 
{{See|撫順戦犯管理所}}
 
最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、[[満洲国]]皇帝であった[[愛新覚羅溥儀]]やその弟[[愛新覚羅溥傑]]、満洲国国務総理であった[[張景恵]]など満州国の要人らと共に1950年代に[[中華人民共和国]]に引き渡され、[[撫順戦犯管理所]]などに収容される者もおり、[[洗脳]]による「改造」教育が行われた<ref>Hunter, Edward (1951). Brain-washing in Red China: the calculated destruction of men’s minds. New York: Vanguard Press.日本語訳:エドワード・ハンター、福田実訳『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』法政大学出版局、1953年。Hunter, Edward(1956),[https://archive.org/stream/brainwashingstor00huntrich/brainwashingstor00huntrich_djvu.txt BRAINWASHING: The Story of the Men Who Defied it],Ambassador Books, Ltd., Toronto. Robert Jay Lifton,Thought Reform and the Psychology of Totalism: A Study of "Brainwashing" in China. New York: Norton. 1961.(オンライン,邦訳ロバート・J・リフトン『思想改造の心理―中国における洗脳の研究』 誠信書房 1979.上杉千年「拝啓 広島県教育委員会殿 第5弾「広島解放区」にうごめく教員組合と校長会」正論1999年4月号.安藤裕子「和解の記憶の欠落 ―戦後日本における「認罪」の表象―」『アジア太平洋討究』No. 25,2015年</ref>。
 
 
 
=== ソ連への残留 ===
 
{{See|日系ロシア人}}
 
また、ソ連当局の勧誘を受け[[民主運動 (日本)|民主運動]]に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった(ロシアの英字紙、シベリアン・タイムズによると、元日本兵が現地のロシア人女性と結婚するのは珍しいことではなく、[[クラスノヤルスク地方]]のカンスクでは50人の元日本兵がロシア人女性と結婚したと言われている<ref name=siberiantimes>{{Cite web|url=http://siberiantimes.com/home/voice-of-siberia/yet-still-they-remember-times-spent-in-siberia-with-nostalgia/ |title=...yet still they remember times spent in Siberia with nostalgia |publisher=Siberian Times|date=2013-05-24|accessdate=2018-04-06}}</ref>)、などで帰国せずにソ連に残留して[[帰化]]した例([[川越史郎]]など)もある<ref>[[川越史郎]]。『ロシア国籍日本人の記録 シベリア抑留からソ連崩壊まで』(中央公論社 中公新書)</ref>。ソ連にとどまった総数は約1,000人とみられ、2017年(平成29年)時点でもロシア北西部[[レニングラード州]]に、[[満州国軍]]元[[軍曹]]で[[北海道]]出身の田中明男が存命であることが明らかになった。田中の回想によると、[[1950年代]]に入って抑留者の日本帰国が本格化すると、収容所幹部が「末端の兵士以外は、帰国すれば裏切り者として[[迫害]]([[抑圧 (社会科学)|抑圧]])される」と残留を勧めるようになり、信じて残留を決めた者もいたという<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170605/k00/00m/040/100000c|title=シベリア抑留 露に生存者/北海道出身の89歳|newspaper=『[[毎日新聞]]』朝刊|publisher=毎日新聞社|date=2017-06-05|accessdate=2017-06-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO17870100Q7A620C1EAC000/|title=シベリア抑留 未完の望郷|newspaper=『[[日本経済新聞]]』夕刊|publisher=日本経済新聞社|date=2017-06-20|accessdate=2017-06-28}}</ref>。
 
 
 
== 犠牲者数 ==
 
<!---出典---日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。-->ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している<ref>{{Cite web|date=2009-03-06 |url=http://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/03/h0306-1.html |title=「旧ソ連邦抑留中死亡者名簿」に係る未提供資料の提供を求めるためのロシア政府への情報提供について |publisher=[[厚生労働省]] |accessdate=2009-07-27 }} </ref>。<!---出典---従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、[[ソ連崩壊]]後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・[[朝鮮民主主義人民共和国|北鮮]]・樺太・[[千島列島|千島]]には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ、強制労働させられたと見られている。--->アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという<ref>ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』</ref>。
 
 
 
シベリア抑留中にソ連の[[軍事法廷]]で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)<ref>{{Cite news|title=シベリア抑留中に銃殺刑判決、114人判明 研究者調査:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASL49574RL49UTFK017.html|accessdate=2018-04-10|language=ja-JP|work=朝日新聞デジタル}}</ref><ref>{{Cite news|title=銃殺判決の抑留114人を発表 旧ソ連、研究者がリスト作成 - 共同通信|url=https://this.kiji.is/356008220218672225|accessdate=2018-04-10|language=ja-JP}}</ref>。
 
 
 
日本の[[厚生労働省]]は2017年(平成29年)現在でも、[[ロシア連邦]]などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の氏名などの名簿更新を続けている<ref>{{Cite web|url=http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/|title=~ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について~資料の一覧や死亡者名簿が閲覧できます|publisher=厚生労働省ホームページ|accessdate=2017-8-8}}</ref>。
 
 
 
== 賃金未払い問題 ==
 
[[国際法]]上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習は[[ハーグ陸戦条約]]などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた{{Sfn|白井久也|1994|pp=40-41}}。<!---出典---この規定に基づき、捕虜は帰国時に証明書を持ち帰れば、国から賃金を受け取ることができた。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府は賃金や給養費の所属国負担が慣習として定着していないと主張していたため、賃金は支払われなかった。[[1992年]](平成4年)12月以後、ロシア政府は旧抑留者の申請に対して労働証明書を発行するようになり、1994年(平成6年)からは正式に日本政府に送付するようになった。未払い賃金については複数の[[訴訟]]が行われているが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。
 
 
 
シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、[[2006年]](平成8年)[[10月]]に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。--->
 
 
 
; 国家賠償訴訟
 
{{Wikinews|シベリア抑留の国家賠償訴訟で原告側の請求棄却 - 京都地裁}}
 
シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の[[国家賠償]]訴訟が行われている。このうち、[[京都地方裁判所|京都地裁]]では[[2009年]](平成21年)[[10月28日]]に、「国による[[遺棄]]行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された<ref>[http://mainichi.jp/select/jiken/news/20091029ddm041040161000c.html シベリア抑留国賠訴訟:抑留者の賠償請求を棄却--京都地裁]{{リンク切れ|date=2010年11月}} [[毎日新聞]]2009年10月29日</ref>。
 
 
 
; シベリア特措法
 
旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し、1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法([[シベリア特措法]])」が、[[2010年]](平成22年)[[5月21日]]に本会議で可決。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。[[独立行政法人]]「[[平和祈念事業特別基金]]」の約200億円を財源に支給される<ref>2010年(平成22年)[[5月20日]]に参院総務委員会で[[佐藤泰介]]委員長により提案。[http://web.archive.org/web/20100525012304/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100520ddm014010100000c.html シベリア特措法:超党派で今月国会提出へ 元抑留者の悲願に光]毎日jp 2010年5月20日</ref><ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100520000112&genre=A1&area=Z10 特措法、全会一致で提出シベリア抑留で給付金] [[京都新聞]]2010年5月20日</ref>。
 
<!---出典---
 
同法案は、第174国会最終日の6月16日に衆議院総務委員会で可決の後、衆議院本会議で可決成立し、同日付けで法律第45号として公布、施行された。<br />
 
同日において日本国籍を有する戦後強制抑留者が特別給付金の対象になるが、前日までに死亡していると対象外となるので、支給人数はごくわずかであり、支給されない抑留者の数は膨大なものとなる。支給対象者が、特別給付金の支給の請求をする前に死亡した場合は、相続人が請求できる(本人が前記年月日までに死亡していれば支給されない。)ためにする法律でもある。
 
 
 
なお、2007年(平成19年)4月から2009年(平成21年)3月まで同基金が実施した「特別記念事業」により戦後強制抑留者と認定され、慰労品が贈呈された人には、10月中旬までに直接同基金から特別給付金請求書が送付される予定である。--->
 
 
 
== 遺骨収集事業 ==
 
[[冷戦]]終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、[[厚生省]](現・[[厚生労働省]])や民間の遺族団体などによって、[[遺骨収集事業]]が進められ、遺骨の[[DNA型鑑定]]などによって2010年(平成22年)までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡された<ref>{{cite news |title=シベリア抑留死:没後66年 遺骨、兵庫の遺族の元に |newspaper=毎日新聞 |date=2012-02-02 |url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120202k0000e040111000c.html |accessdate=2012-02-08}}</ref>。
 
 
 
==現地慰霊碑==
 
{{See| 日本人墓地|タシケント抑留日本人墓地}}
 
厚生労働省の事業により、抑留された各地に小規模な慰霊碑の建立が進められている。
 
=== ロシア ===
 
* [[エラブガ]](2000年)
 
* [[クラスノヤルスク]] (2000年)
 
* [[チェルノゴルスク]](2001年)
 
* [[ニジニ・タギル]](2001年)
 
* [[ケメロボ]](2006年)
 
* [[ノボシビルスク]](2007年)
 
* [[ビイスク]](2007年)
 
* [[オレンブルグ]](2008年)
 
* [[アルチョーム]](2010年)
 
 
 
=== ウズベキスタン共和国 ===
 
* [[タシケント]](2003年)
 
 
 
=== グルジア共和国 ===
 
* [[トビリシ]](2010年)
 
 
 
== 被害者・関連団体 ==
 
{{main2|抑留被害者|:Category:シベリア抑留経験者}}
 
* 全国抑留者補償協議会(全抑協 1979年結成、シベリア特措法成立と会員の高齢化により2011年5月解散)
 
* 近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会
 
* 財団法人全国強制抑留者協会
 
 
 
== 抑留者による記録 ==
 
<!--- 著者五十音順--->
 
; 当事者による手記(小説は除く)
 
* [[石原吉郎]]『望郷と海 』、(1997年、筑摩書房) ISBN 9784480083593
 
* 伊藤政夫『マホルカ - シベリア抑留記』(2002年、[[文芸社]]) ISBN 9784835539515
 
* 井戸邊正則『シベリヤヤポンスキーサルダート』(2007年、文芸社) ISBN 9784286032665
 
* [[乾常美]]『捕虜の文化』(所収『捕虜体験記(3)ウラル以西篇』ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会編、平文社、1984年(初版)、1998年(重版))
 
* 井上三次郎『地獄のシベリア抑留記』(2010年、文芸社) ISBN 4286085600
 
* 今川順夫『私のシベリア抑留 地獄の記録 - 負けてたまるかの奮闘記』(2011年、[[岐阜新聞|岐阜新聞社]]) ISBN 9784877971663<small>※品切れ</small>
 
* [[内村剛介]]『生き急ぐ:スターリン獄の日本人』(1967年、[[講談社]] / [[講談社文芸文庫]]) ISBN 4061982605<small>※品切れ</small>
 
* [[宇野宗佑]]『ダモイ・トウキョウ』(1982年、シベリア抑留叢書)<small>※品切れ</small>
 
* 蝦名熊夫著・[[蝦名賢造]]編纂『シベリア捕虜収容所 四年間の断想 死の家の記録』(1989年、西田書店)<small>※品切れ</small>
 
* 大塚茂『ダモイの道は遠かった』(1995年、[[国書刊行会]]) ISBN 9784336037282)<small>※品切れ</small>
 
* 小川護『私のシベリヤ物語 - 捕虜生活三年間の青春』(2011年、[[光人社]]NF文庫) ISBN 4769827121
 
* 川越史郎『ロシア国籍日本人の記録 - シベリア抑留からソ連邦崩壊後まで』(1994年、[[中公新書]]) ISBN 4121011732<small>※品切れ</small>
 
* 川島一芳『シベリア抑留の軌跡 - 私にとっての戦争』(2000年、文芸社) ISBN 9784835501543
 
* 川堀耕平『カラガンダ第八分所 - 中央アジア抑留記』(2008年、[[溪水社]]) ISBN 9784863270190<small>※品切れ</small>
 
* [[草地貞吾]]『地獄遍路』(1958年、日刊労働通信社シベリヤ叢書)<small>※品切れ</small>
 
* 後藤治夫『シベリア抑留記 - 奥三河の山里から』(2005年、春風社) ISBN 9784861100543
 
* 後藤敏雄『シベリア、ウクライナ私の捕虜記』(1985年、国書刊行会) ISBN 9784336022516
 
* 斎藤邦雄『シベリヤ抑留兵よもやま物語 - 極寒凍土を生きぬいた日本兵』(1987年、光人社NF文庫) ISBN 9784769825067
 
* 坂間文子『雪原にひとり囚われて - シベリア抑留10年の記録』(1975年、講談社)<small>※品切れ</small>
 
* 佐藤千一『シベリアさすらいの記 一抑留兵の体験記』(1993年、日本図書刊行会) ISBN 978-4773317688<small>※品切れ</small>
 
* 佐藤友治『朝が来て知る捕虜の命 - シベリア抑留生活千余日』(2002年、文芸社) ISBN 9784835543055
 
* 佐野巌『シベリア抑留1000日 - ある日系二世の体験記』(1999年、[[彩流社]]) ISBN 9784882025955
 
* 信田守夫『シベリア捕虜紀行』(2006年、文芸社) ISBN 9784286011295<small>※品切れ</small>
 
* 新宮富士郎『大陸の孤島 - シベリア抑留記』(2008年、文芸社) ISBN 9784286041711<small>※品切れ</small>
 
* 杉本四郎『シベリア抑留の思い出記』(2011年、文芸社) ISBN 9784286100517<small>※品切れ</small>
 
* 鈴木祥蔵『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春 - 一学徒兵五十五年目の回想』(1999年、[[明石書店]])
 
* 鈴木良男『遥か青春シベリア』(1995年、共和印刷企画センター)<small>※品切れ</small>
 
* 宗前鉄男『北斗の下で - 私のシベリア物語』(2010年、[[東京図書出版会]]) ISBN 9784862233981
 
* [[高木啓太郎]]『シベリア抑留記 お陽さんぽつんと赤かった』(1983年、サン文庫)<small>※品切れ</small>
 
* [[高杉一郎]]『極光のかげに - シベリア俘虜記』(1950年、[[岩波文庫]]) ISBN 4003318315
 
* 竹田正直『酷寒シベリヤ抑留記 - 黒パン三五〇グラムの青春』(2001年、光人社NF文庫) ISBN 9784769823063
 
* 棚橋嘉信『東京ダモイ - 日本に帰る』(1997年、日本図書刊行会) ISBN 9784890391844
 
* 中村信一『ウラジオストック物語 - シベリア抑留体験記』(2004年、[[新風舎]]) ISBN 9784797442854<small>※品切れ</small>
 
* 西尾康人『凍土の詩 - シベリア抑留八年、爪で書いた記録』(1995年、早稲田出版) ISBN 9784898271636<small>※品切れ</small>
 
* 西本諦了『命めぐまれ、今を生きる - シベリア・ウクライナ抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835533100<small>※品切れ</small>
 
* 新田直人『シベリアの歌 - 続シベリア抑留体験記』(1987年、シベリア抑留者友の会) ISBN 9784897500225<small>※品切れ</small>
 
* 萩原金八『俘虜記 - シベリアの詩』(2004年、文芸社) ISBN 9784835570037
 
* 古川和夫『試練の八年間 - シベリア抑留』(2008年、文芸社) ISBN 9784286039954
 
* 穂苅甲子男『シベリア俘虜記 - 兵士の過酷なる抑留体験』(2009年、光人社NF文庫) ISBN 9784769826200
 
* 松井功『青春を埋めた初年兵の抑留記』(1995年、近代文芸社) ISBN 9784773347623
 
* 三浦庸『シベリヤ抑留記 - 一農民兵士の収容所記録』(1984年、[[ちくま文庫]]) ISBN 978-4480024824<small>※品切れ</small>
 
* 皆川太郎『ダモイ - シベリアからの帰還』(2006年、光陽出版社) ISBN 9784876624201
 
* 村山常雄『シベリアに逝きし人々を刻す ソ連抑留中死亡者名簿』(2007年、プロスパー企画) ISBN 9784861800214<small>※品切れ</small>
 
* 村山常雄『シベリアに逝きし46300名を刻む ソ連抑留死亡者名簿をつくる』(2009年、[[七つ森書館]]) ISBN 9784822809966
 
* 森野勝五郎著・森野忠編纂『遺稿 我が抑留記』(2002年、文芸社) ISBN 9784835535661
 
* 森本良夫『シベリア俘虜記 - 死と絶望からの帰還』(2001年、[[春秋社]]) ISBN 9784393436202<small>※品切れ</small>
 
* 山川速水『ラーゲルの軍医 - シベリア捕虜記』(1984年、北風書房) ISBN 4795232245
 
* 山下静夫『画文集 シベリア抑留1450日・記憶のフィルムを再現する』(2007年、デジプロ) ISBN 9784490206135
 
* 山本喜代四『シベリヤ抑留記 - 21世紀を拓く青少年たちへの伝言』(1999年、元就出版社) ISBN 9784906631445
 
* 勇崎作衛『画文集 キャンバスに蘇るシベリアの命』(2010年、[[集英社クリエイティブ|創美社]]) ISBN 9784420310444
 
* 渡邉雅彬『ダモイの虹』(2004年、新風舎 / 2009年、文芸社) ISBN 9784286072555
 
* [[與田純次]] 他多数『シベリア慰霊訪問記』(1994年、1997年、1998年、全国強制抑留者協会)
 
 
 
== ユネスコ記憶遺産 ==
 
[[File:01白樺日誌IMG 4559.jpg|thumb|白樺日誌(シベリア抑留者が白樺の皮に書いた日誌・舞鶴引揚記念館)]]
 
「[[ユネスコ記憶遺産]]」に、[[舞鶴引揚記念館]]に収蔵するシベリア抑留と引揚関係資料『舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』が、2015年(平成27年)10月10日に登録された<ref>[https://www.city.maizuru.kyoto.jp/kankou/0000001474.html 舞鶴市ホームページ舞鶴引揚記念館収蔵資料がユネスコ世界記憶遺産に登録されました]</ref> 。[[舞鶴引揚記念館]]資料寄贈者の[[木内信夫]]、安田清一は日本初の生存作家となった。
 
 
 
== シベリア抑留に関連する作品 ==
 
; 小説
 
* [[ソルジェニーツィン]]『[[収容所群島]]』
 
* [[相沢英之]]『タタァルの森から』(1992年、[[今井書店|米子今井書店]]) ISBN 9784896780130<small>※品切れ</small>
 
* [[井上ひさし]]『一週間』(2010年、新潮社) ISBN 9784103023302
 
* [[鏑木蓮]]『[[東京ダモイ]]』(2006年、講談社 / 講談社文庫)<small>[[江戸川乱歩賞|第52回江戸川乱歩賞]]</small> ISBN 9784062764407
 
* [[胡桃沢耕史]]『[[黒パン俘虜記]]』(1983年、文藝春秋 / 文春文庫)<small>[[直木三十五賞|第89回直木賞]]</small> ISBN 9784167402013<small>※品切れ</small>
 
* 村尾靖子『クラウディア 奇蹟の愛』(2003年、海拓舎) ISBN 9784907727314<small>※テレビドラマ『[[遙かなる約束]]』および戯曲『クラウディアからの手紙』の原案。ノンフィクション</small>
 
* 村尾靖子『クラウディアの祈り』(2009年、[[ポプラ社]]) ISBN 9784591108536
 
* [[村上春樹]]『[[ねじまき鳥クロニクル]]』(1994年 - 1995年、新潮社 / [[新潮文庫]])
 
* [[山崎豊子]]『[[不毛地帯]]』(1976年 - 1978年、新潮社 / 新潮文庫) ISBN 9784101104409
 
; 絵本
 
* 井上こみち『氷の海を追ってきたクロ』(2010年、[[学習研究社]]) ISBN 4052032810
 
* 神津良子・北野美子『氷海のクロ - シベリア抑留(語り継ぐ戦争絵本シリーズ)』(2011年、[[郷土出版社]]) ISBN 4863751117
 
* 村尾靖子・小林豊『クラウディアのいのり』(2008年、ポプラ社) ISBN 9784591104071
 
; 戯曲
 
* [[浅利慶太]]『[[ミュージカル異国の丘]]』([[劇団四季]])
 
* [[まきりか]]『[[音楽劇]]君よ生きて』
 
* 鐘下辰男『クラウディアからの手紙』
 
; 漫画
 
* [[おざわゆき]]『凍りの掌』(2012年、[[小池書院]]) ISBN 9784862258311 - 著者が実父のシベリア抑留体験を基に執筆
 
* [[滝沢聖峰]]『幻の豹 The panther in Ukraina 1950』(1995年、大日本絵画) ISBN 9784499226479
 
* [[本宮ひろ志]]『[[国が燃える]]』(2003年 - 2006年、[[集英社]]・[[ヤングジャンプコミックス]]) - 主人公の本多勇介が抑留された。<small>※品切れ</small>
 
; 歌曲
 
* 『[[異国の丘]]』(1948年、作詞:増田幸治、補詞:[[佐伯孝夫]]、作曲:[[吉田正]]、歌:[[竹山逸郎]]、中村耕造など)
 
* 『[[岸壁の母]]』(1954年・1972年、作詞:[[藤田まさと]]、作曲:平川浪竜、歌:[[菊池章子]]、[[二葉百合子]]など)
 
; 映画
 
*『異国の丘』(1949年、制作:[[新東宝]]、脚本:[[渡辺邦男]]・北沢誠、監督:渡辺邦男)出演:[[花井蘭子]]・[[上原謙]]・[[大日方傳|大日方伝]]
 
*『帰国(ダモイ)』(1949年、制作:[[東宝]]・[[佐藤一郎 (映画プロデューサー)|佐藤一郎]]、脚本:[[岸松雄]]、監督:[[佐藤武]])出演:[[堀雄二]]・[[池部良]]・[[藤田進]]・[[山口淑子]]
 
*『私はシベリヤの捕虜だった』(1952年、制作:東宝、脚本:沢村勉、監督:[[阿部豊]]・[[志村敏夫]])出演:[[北沢彪]]・[[土屋嘉男]]
 
* 『岸壁の母』(1976年、制作:東宝、脚本:村尾昭、監督:[[大森健次郎]]、原作:端野いせ)出演:[[中村玉緒]]・[[江藤潤]]
 
; テレビドラマ
 
* 『[[岸壁の母 (テレビドラマ)]]』(1977年、[[TBSテレビ|TBS]] / [[松竹]])出演:[[市原悦子]]・[[大和田獏]]
 
* 『[[遙かなる約束|遥かなる約束 〜50年の時を越えた運命の愛〜]]』(2006年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])主演:[[阿部寛]]・[[黒木瞳]]
 
; その他
 
* [[太田三郎 (芸術家)]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite journal|和書|author= 村井淳 |title=ソ連における強制労働と建設 : 囚人と捕虜は、どのように労働利用されたか|date=2010 |publisher=関西外国語大学 |journal=研究論集|volume=91|naid=110007531511|pages=117-135 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author= 戸松建二|title=第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題 : 収容所における「民主化政策」をめぐって|date=2009 |publisher=愛知県立大学|journal=愛知県立大学大学院国際文化研究科論集|volume=10|naid=110007326001|pages=171-206 |ref=harv}}
 
* {{Cite journal|和書|author= 白井久也 |title=国際法から見た日本人捕虜のシベリア抑留|date=1994|publisher=東海大学平和戦略国際研究所|journal=ロシア・東欧学会年報|volume=23|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1993/1994/23/1994_23_33/_pdf|pages=33-42 |ref=harv}}
 
* [[阿部軍治]]『シベリア強制抑留の実態 - 日ソ両国資料からの検証』(2005年、[[彩流社]]) ISBN 9784779111068
 
* 阿部軍治『慟哭のシベリア抑留 - 抑留者たちの無念を想う』(2010年、彩流社) ISBN 9784779115738
 
* 石崎誠一『シベリア抑留者 - 大統領の謝罪と抑留問題の決着』(1997年、[[全貌社]]) ISBN 4793801463<small>※品切れ</small>
 
* 独活章『クロ物語 - 氷海に飛び込んだ犬』(2005年、けやき出版) ISBN 4877512942
 
* [[御田重宝]]『シベリア抑留』(1991年、[[講談社文庫]]) ISBN 9784061849402<small>※品切れ</small>
 
* エレーナ・カタソノワ『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたのか』(2004年、[[社会評論社]]) ISBN 9784784513109
 
* 亀井励『シベリア抑留者と遺族はいま』(1992年、[[かもがわ出版]]) ISBN 9784876990672<small>※品切れ</small>
 
* ヴィクトル・カルポフ『スターリンの捕虜たち - シベリア抑留』(2001年、[[北海道新聞社]]) ISBN 9784894531352<small>※品切れ</small>
 
* 栗原俊雄『シベリア抑留 - 未完の悲劇』(2009年、[[岩波新書]]) ISBN 9784004312079
 
* 栗原俊雄『シベリア抑留は「過去」なのか』(2011年、[[岩波ブックレット]]) ISBN 4002708047
 
* 坂本龍彦『シベリア虜囚半世紀 - 民間人 蜂谷弥三郎の記録』(1998年、恒文社) ISBN 9784770409768<small>※品切れ</small>
 
* 白井久也『ドキュメント シベリア抑留 - 斎藤六郎の軌跡』(1995年、岩波書店) ISBN 4000029541<small>※品切れ</small>
 
* 白井久也・佐藤清『写真集 シベリア抑留 - 歴史の流れの中で』(1997年、ヒューマン社) ISBN 9784894611016<small>※品切れ</small>
 
* 白井久也『検証 シベリア抑留』(2010年、[[平凡社]]新書) ISBN 9784582855159
 
* [[嶌信彦]]『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(2015年、角川書店) ISBN 9784041035375
 
* [[立花隆]]『シベリア鎮魂歌 - [[香月泰男]]の世界』(2004年、文藝春秋) ISBN 4163657509
 
* 長澤淑夫『シベリア抑留と戦後日本 - 帰還者たちの闘い』(2011年、有志舎) ISBN 4903426491
 
* 中村紀雄『シベリア強制抑留 - 望郷の叫び』(2005年、[[上毛新聞社]]出版局) ISBN 9784880589312<small>※品切れ</small>
 
* ウィリアム・F・ニンモ『検証 - シベリア抑留』(1991年、[[時事通信社]]) ISBN 9784788791060<small>※品切れ</small>
 
* 畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか - 詩人・[[石原吉郎]]のみちのり』(2009年、[[岩波ジュニア新書]]) ISBN 9784005006182
 
* [[辺見じゅん]]『収容所から来た遺書』(1989年、文春文庫)<small>[[講談社ノンフィクション賞]]・[[大宅壮一ノンフィクション賞]]</small> ISBN 9784167342036
 
* 辺見じゅん『ダモイ 遥かに』(2008年、メディアパル) ISBN 9784896100839
 
* 松本宏『告発 シベリア抑留 - 国民に隠された真相』(2004年、碧天舎) ISBN 4883465012<small>※品切れ</small>
 
* 若槻泰雄『シベリア捕虜収容所』(1999年、明石書店) ISBN 9784750311807
 
* {{Cite |和書 |author = 稲垣武 |title = 「悪魔祓い」の戦後史  |date = 1997  |edition = 第1 |publisher = 文藝春秋  |isbn = 4041040035  |series = 文集文庫 |ref = harv }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{col-begin}}
 
{{col-break}}
 
* [[強制収容所]]
 
* [[強制連行]]
 
* [[強制労働]]
 
* [[ラーゲリ]](ソビエト連邦における[[強制収容所]])
 
* [[撫順戦犯管理所]]
 
* [[シベリア天皇]]
 
{{col-break}}
 
* [[尋ね人の時間]]
 
* [[ジュネーヴ条約]] - [[ハーグ陸戦条約]] - [[捕虜]]
 
* [[レッドパージ]]
 
* [[北方地域|北方領土]]
 
* [[粛清]]
 
* [[舞鶴引揚記念館]]
 
{{col-end}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://s.webry.info/sp/21145712.at.webry.info/200908/article_3.html ウクライナ人捕虜から見た日本人捕虜]
 
* [http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/index.html 厚生労働省:〜ソ連邦及びモンゴル抑留死亡者名簿〜]
 
* [http://yokuryu.huu.cc/index.html シベリア抑留死亡者名簿(村山常雄によるもの)]
 
* [http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm 旧ソ連抑留画集]
 
* [http://www.ac.auone-net.jp/~tigre/gwife2670/senryaku/hikiage_keiihyo.htm ソ連地域の引揚経緯表]
 
* [ 収容所から来た遺書] [[山本幡男]]
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:しへりあよくりゆう}}
 
{{DEFAULTSORT:しへりあよくりゆう}}
 
[[Category:シベリア抑留|*]]
 
[[Category:シベリア抑留|*]]

2019/6/18/ (火) 10:19時点における最新版

第2次世界大戦後,シベリアの鉄道建設現場で強制労働をさせられる日本人抑留者たち(1948頃).jpg

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)

1945年の第2次世界大戦終結時にソビエト連邦に降伏,または逮捕された日本人に対する,ソ連によるシベリアでの強制労働。抑留者の数は,日本政府の調べでは約 57万5000人とされ,うち約 5万5000人が死亡,約 47万3000人が帰国した。抑留者は主として軍人であったが,満州開拓団の農民,満州の官吏,南満州鉄道株式会社など国策会社の職員,従軍看護婦などもいた。シベリアのほか中央アジア,極東,モンゴル,ヨーロッパ・ロシアなどの約 2000の収容所,監獄に収容され,鉄道建設,炭坑・鉱山労働,土木建築,農作業などさまざまな労働に強制的に従事させられた。1946年12月から引き揚げが始まり,日ソ共同宣言が行なわれた 1956年には有罪判決を受けた者も釈放され,ほとんどが帰国したが,若干名はソ連に帰化した。行方不明者も少なくない。2015年,シベリア抑留と引き揚げの歴史を伝える資料「舞鶴への生還 1945~1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」が国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界の記憶に国際登録された。



楽天市場検索: