「カルロス2世 (スペイン王)」の版間の差分

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[[ファイル:カルロス2世(J.カリーノ画,部分,1685頃,ウィーン美術史美術館蔵).jpg|サムネイル]]
{{出典の明記|date=2016年9月}}
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'''カルロス2世'''(Carlos II, [[1661年]][[11月6日]] - [[1700年]][[11月1日]]
{{基礎情報 君主
 
| 人名      = カルロス2世
 
| 各国語表記 = Carlos II
 
| 君主号    = スペイン王
 
| 画像      = Carlos II; Koning van Spanje.jpg
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明  =
 
| 在位      = [[1665年]][[9月17日]] - [[1700年]][[11月1日]]
 
| 戴冠日    =
 
| 別号      = [[ナポリとシチリアの君主一覧|ナポリ王・シチリア王]]
 
| 全名      =
 
| 出生日    = [[1661年]][[11月6日]]
 
| 生地      = {{ESP1506}}、[[マドリード王宮]]{{enlink|Royal Alcazar of Madrid|a=on}}
 
| 死亡日    = {{死亡年月日と没年齢|1661|11|6|1700|11|1}}
 
| 没地      = {{ESP1506}}、[[エル・エスコリアル修道院]]
 
| 埋葬日    =
 
| 埋葬地    =
 
| 継承者    =
 
| 継承形式  =
 
| 配偶者1    = [[マリー・ルイーズ・ドルレアン|マリア・ルイサ・デ・オルレアンス]](1679年 - 1689年)
 
| 配偶者2    = [[マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク|マリア・アナ・デル・パラティナド=ニオブルゴ]](1689年 - 1700年)
 
| 子女      =
 
| 王家      = [[ハプスブルク家|アブスブルゴ家]]
 
| 王朝      = [[スペイン・ハプスブルク朝|アブスブルゴ朝]]
 
| 王室歌    =
 
| 父親      = [[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]
 
| 母親      = [[マリアナ・デ・アウストリア]]
 
| 宗教      =
 
| サイン    = Firma del Rey Carlos II.svg
 
}}
 
'''カルロス2世'''(Carlos II, [[1661年]][[11月6日]] - [[1700年]][[11月1日]])は、[[スペイン・ハプスブルク朝|ハプスブルク(アブスブルゴ)家]]最後の[[スペイン]][[スペイン君主一覧|国王]](在位:[[1665年]] - 1700年)。
 
  
[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]と[[マリアナ・デ・アウストリア|マリアナ]]王妃の息子である。[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]妃[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリア・テレサ]]は異母姉、[[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]の最初の皇后[[マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ|マルガリータ・テレサ]]は同母姉に当たる。[[庶子|庶出]]の異母兄にオニャテ伯[[フアン・ホセ・デ・アウストリア]]がいる。
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[[ハプスブルク家]]最後のスペイン王 (在位 1665~1700) [[フェリペ4世]]の子。生来,虚弱であったが4歳で父の跡を継ぎ王となる。母后のマリア・デ・アウストリアが 10年間カルロスの摂政となる。この間,[[オランダ戦争]]が起り,フランス王ルイ 14世の侵略と戦ったり,宮廷内の陰謀に悩まされたり内外ともに多難であった。 1675年カルロスの親政となり,異母兄[[ドン・フアン・デ・アウストリア]]を重用した。親政時代にはルイ 14世の侵略主義に悩まされたが,[[ライスワイク条約]] (1697) により,決着をみた。カルロスは2度結婚したが,1人の子も得なかったので,王位継承の問題が起り,ルイ 14世の孫アンジュー公フィリップ (のちの[[フェリペ5世]] ) を継承者にする遺言状を作成したため,彼の死後王位をめぐって[[スペイン継承戦争]]が起った。
 
 
== 生涯 ==
 
=== 先天性疾患 ===
 
カルロス2世はスペイン王であると共に、[[ナポリ王国]]、[[シチリア王国]]などの[[南イタリア]]のほぼ全土の王であった。スペインの海外領土である[[フィリピン]]や[[メキシコ]]にも勢力を及ぼした。スペイン・ハプスブルク家最後の男子であり、彼の出生をスペイン国民は喜んだ。しかし、出生時から病弱な人物であり、当時その理由は「呪いをかけられたため」と一般に考えられており、カルロス2世自身もそう思っていた。現在では、彼が病弱だった理由はおそらく[[ハプスブルク家]]の何重にも繰り返した、[[近親婚]]<ref>父母は[[叔姪婚|伯父と姪の関係]]であり、父の妹マリア・アナはカルロス2世にとって叔母であると同時に祖母でもある。曾祖父フェリペ2世も伯父と姪の結婚。詳細は系図を参照。</ref>によるものであろうと考えられている。
 
 
 
カルロス2世は[[先端巨大症]]のため、咀嚼に影響があり、常によだれを垂れ流していた。その他にも[[てんかん|癲癇]]などの病気をいくつも患っていたと推測されている。また、[[知的障害]]も併発していたらしく、特に幼少期には衣服を身につけた動物のようであり、教育らしい教育をすることも困難であったという。
 
 
 
=== 支配 ===
 
[[ファイル:King Charles II of Spain.jpg|thumb|150px|カルロス2世の肖像画]]
 
当時のスペイン経済は停滞しており、土地も痩せていたために飢饉も頻発していた。地方領主の力も非常に弱くなっていた。カルロス2世の不適当なスペイン支配はしばしば諸外国(特にフランス)に影響した。
 
 
 
カルロス2世の母マリアナが長い間摂政を行ったが、母が追放されると異母兄のオニャテ伯[[フアン・ホセ・デ・アウストリア]]([[1677年]]から[[1679年]]まで宰相を務めた)が実権を握りった。フアンが1679年に死ぬと母が宮廷に戻り、再び摂政となった。[[ガスパール・デ・グスマン]]の権力が大きくなると、スペインの国力は次第に衰弱していった。[[1668年]]にポルトガルが北アフリカの飛び地([[セウタ]])をスペインに割譲したが、それはかつて60年以上ハプスブルク家の支配が続いたポルトガルにとっては小さな出来事であった。一方、フランス王ルイ14世が領土拡大を目論み起こした[[ネーデルラント継承戦争]]・[[オランダ侵略戦争]]・[[大同盟戦争]]でスペインはフランスと戦ったが、[[アーヘンの和約 (1668年)|アーヘンの和約]]、[[ナイメーヘンの和約]][[レイスウェイク条約]][[南ネーデルラント]]の領地を失っていった。
 
 
 
[[スペイン異端審問]]では、[[1680年]]に160人が宗教裁判所で裁かれ、21人が火刑されている。カルロス2世の数少ない政治活動として、スペインの宗教裁判所を調べ、調査のためにJunta Magna(大きな会議)を作ったとされている。しかし、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が王位に就いた際に記録を差し出すよう要求したにもかかわらず、記録は何故か見つからなかった。
 
 
 
=== 結婚・一族 ===
 
1679年に[[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]](フランス王ルイ14世の弟)の娘[[マリー・ルイーズ・ドルレアン|マリア・ルイサ]]と結婚したが、虚弱なカルロス2世は性的にも不能だったと推測され、子供を持つことが出来なかった。マリア・ルイサは[[1689年]]に27歳で死去、カルロス2世は後添いとして[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]][[ライン宮中伯|選帝侯]][[フィリップ・ヴィルヘルム (プファルツ選帝侯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の娘[[マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク|マリア・アナ]]を娶ったが、この結婚も成功ではなかった。やがてカルロス2世の[[精神障害]]の症状は悪化し、先妻の遺骸を掘り起こして手元に置くなどの奇行が始まる。こうした奇行を自殺願望の現れ(ただし[[カトリック教会|カトリック教徒]]として自殺は出来なかった)と見る歴史家も居る。
 
 
 
後継者を迎える必要から、[[1698年]]に[[続柄#大甥・大姪|又甥]]に当たる[[バイエルン大公|バイエルン公]]子[[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)|ヨーゼフ・フェルディナント]](母方の叔父の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と同母姉マルガリータ・テレサの孫)を[[アストゥリアス公]]に叙爵したが、翌[[1699年]]に夭折した。他の継承者候補にはヨーゼフ・フェルディナントと同じく又甥に当たるアンジュー公フィリップ(後のフェリペ5世、ルイ14世と異母姉マリア・テレサの孫)と、母方の従弟に当たるカール大公(後の[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]、レオポルト1世の次男)がいた。
 
 
 
1700年、カルロス2世はスペイン王位をアンジュー公フィリップに譲ると表明して死亡。スペイン・ハプスブルク家は断絶した。[[1701年]]2月にルイ14世は[[高等法院 (フランス)|パリ高等法院]]にスペイン王位継承権執行を命令する。以後、[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]は現代の[[フェリペ6世 (スペイン王)|フェリペ6世]]まで続くスペイン王家となった。
 
 
 
しかし、この王位継承を巡って[[スペイン継承戦争]]が勃発する。この戦争は[[1714年]]に終結するが、スペイン領であった南ネーデルラントを巡ってはルイ14世の曾孫[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の時代まで紛糾が続くことになる。
 
 
 
== 系譜 ==
 
{{競走馬血統表| name = カルロス2世 | mlin = [[スペイン・ハプスブルク朝]]
 
|inbr = オーストリア大公女[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ|マルガレーテ]] 2×3=37.5%<br />スペイン王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]] 2×3=37.5%<br />オーストリア大公[[カール2世 (オーストリア大公)|カール2世]] 3×4・4=25%<br />[[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1551-1608)|マリア・アンナ (1551-1608)]] 3×4・4=25%<br />[[アルブレヒト5世 (バイエルン公)|アルブレヒト5世]] 4×5・5・5=15.625%<br />[[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ・フォン・エスターライヒ]] 4×5・5・5=15.625%<br />神聖ローマ皇帝[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]] 5・4×5=12.5%<br />[[アンナ・ヤギエロ]] 5・4×5=12.5%<br />神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]] 4・5×5=12.5%<br />[[イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン|イサベル・デ・ポルトゥガル]] 4・5×5=12.5%<br />カスティーリャ王[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フェリペ1世]] 5・5=6.25%(父内)<br />カスティーリャ女王[[フアナ (カスティーリャ女王)|フアナ]] 5・5=6.25%(父内)
 
|f    = [5]スペイン王[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]
 
|m    = [[マリアナ・デ・アウストリア]]
 
|ff  = スペイン王'''[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]'''
 
|fm  = [4]オーストリア大公女[[マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (スペイン王妃)|'''マルガレーテ''' ]]
 
|mf  = 神聖ローマ皇帝[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]
 
|mm  = [5][[マリア・アナ・デ・アウストリア]]
 
|fff  = スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]
 
|ffm  = [[アナ・デ・アウストリア]][1]
 
|fmf  = オーストリア大公[[カール2世 (オーストリア大公)|'''カール2世''']]
 
|fmm  = [2][[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1551-1608)|'''マリア・アンナ''' (1551-1608)]]
 
|mff  = [4]神聖ローマ皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]
 
|mfm  = [3][[マリア・アンナ・フォン・バイエルン (1574-1616)|マリア・アンナ (1574-1616)]]
 
|mmf  = スペイン王'''フェリペ3世'''
 
|mmm  = [4]オーストリア大公女'''マルガレーテ'''
 
|ffff = 神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](カルロス1世)
 
|fffm = [[イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン|イサベル・デ・ポルトゥガル]]
 
|ffmf = 神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]
 
|ffmm = [[マリア・デ・アブスブルゴ]]
 
|fmff = 神聖ローマ皇帝[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]
 
|fmfm = [[アンナ・ヤギエロ]]
 
|fmmf = [[アルブレヒト5世 (バイエルン公)|アルブレヒト5世]]
 
|fmmm = [[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ・フォン・エスターライヒ]]
 
|mfff = オーストリア大公'''カール2世'''
 
|mffm = '''マリア・アンナ''' (1551-1608)
 
|mfmf = [[ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム5世]]
 
|mfmm = [[レナータ・フォン・ロートリンゲン|レナータ・フォン・ロートリンゲン]]
 
|mmff = スペイン王フェリペ2世
 
|mmfm = アナ・デ・アウストリア
 
|mmmf = オーストリア大公'''カール2世'''
 
|mmmm = '''マリア・アンナ''' (1551-1608)
 
|comment = 上記の通り、父と母は[[叔姪婚|伯父と姪の関係]]である。系譜の中に、複数の叔姪婚が含まれている。
 
# 神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]と、[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の妹[[マリア・デ・アブスブルゴ|マリア]]の子であり、叔父と姪の結婚である。
 
# カール2世妃マリア・アンナは、[[バイエルン大公|バイエルン公]][[アルブレヒト5世 (バイエルン公)|アルブレヒト5世]]と、カール2世の姉[[アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)|アンナ]]の間の娘であり、叔父と姪の結婚である。
 
# フェルディナント2世妃マリア・アンナは、アルブレヒト5世の息子[[ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム5世]]の娘。
 
# 共にオーストリア大公[[カール2世 (オーストリア大公)|カール2世]]の子で、兄妹。
 
# 共にフェリペ3世の子で兄妹、2人の姉にフランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]妃[[アンヌ・ドートリッシュ]]がいる。
 
}}{{カルロス2世 (スペイン王)の先祖}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
{{Commons|Charles II of Spain}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[カロリン諸島]]
 
* [[金羊毛騎士団]]
 
 
 
{{先代次代|[[アストゥリアス公]]<br />ジローナ公|1661年 - 1665年|[[フェリペ・プロスペロ]]|[[ヨーゼフ・フェルディナント (アストゥリアス公)|ホセ・フェルナンド]]}}
 
{{スペイン王||1665年 - 1700年}}
 
{{ナポリ王||1665年 - 1700年}}
 
{{シチリア王||1665年 - 1700年}}
 
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{{DEFAULTSORT:かるろす2}}
 
{{DEFAULTSORT:かるろす2}}

2019/6/11/ (火) 09:46時点における最新版

カルロス2世(J.カリーノ画,部分,1685頃,ウィーン美術史美術館蔵).jpg

カルロス2世(Carlos II, 1661年11月6日 - 1700年11月1日

ハプスブルク家最後のスペイン王 (在位 1665~1700) 。フェリペ4世の子。生来,虚弱であったが4歳で父の跡を継ぎ王となる。母后のマリア・デ・アウストリアが 10年間カルロスの摂政となる。この間,オランダ戦争が起り,フランス王ルイ 14世の侵略と戦ったり,宮廷内の陰謀に悩まされたり内外ともに多難であった。 1675年カルロスの親政となり,異母兄ドン・フアン・デ・アウストリアを重用した。親政時代にはルイ 14世の侵略主義に悩まされたが,ライスワイク条約 (1697) により,決着をみた。カルロスは2度結婚したが,1人の子も得なかったので,王位継承の問題が起り,ルイ 14世の孫アンジュー公フィリップ (のちのフェリペ5世 ) を継承者にする遺言状を作成したため,彼の死後王位をめぐってスペイン継承戦争が起った。