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'''エーリッヒ・ホーネッカー'''({{lang|de|'''Erich Honecker'''}}, [[1912年]][[8月25日]] - [[1994年]][[5月29日]])は、[[ドイツ民主共和国]](旧東ドイツ)の[[政治家]]。ドイツ民主共和国第3代[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会]][[ドイツの国家元首一覧|議長]](在任:[[1976年]] - [[1989年]])および[[ドイツ社会主義統一党]][[書記長]](在任:[[1971年]] - [[1989年]])。1989年の[[東欧革命]]で失脚した。
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'''エーリッヒ・ホーネッカー'''<br>
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({{lang|de|'''Erich Honecker'''}}, [[1912年]][[8月25日]] - [[1994年]][[5月29日]]
  
==経歴==
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東ドイツの政治家。 1929年ドイツ共産党に入党,30~31年ソ連留学,35年反ナチス活動を理由に逮捕され,ソ連軍によって解放されるまで 10年間獄中生活をおくった。第2次世界大戦後は青年組織づくりに活躍し,46年自由ドイツ青年同盟議長。社会主義統一党結成に参画し,49年人民議会議員。 56年から2年間のソ連留学後,58年に社会主義統一党中央委員会書記,同政治局員。対西ドイツ強硬派の W.ウルブリヒトの退陣に伴い,71年5月党第一書記 (1976年書記長と改称) に就任。同年6月には国防評議会議長も兼任し党と軍の最高指導者となった。西ベルリンの地位などについて妥協的態度をとり,ベルリン協定 (72.6.) ,東西両ドイツ基本条約 (72.12.) などの調印に好影響を与えた。 76年国家評議会議長 (元首) 就任。 80年以降東西対話を訴えて西側諸国との対話を促進,87年西ドイツへ公式訪問したが,東ドイツ国民の西ドイツへの大量流出,民主化要求を受けて,89年 10月すべての役職を辞任。東西ドイツ統一後ソ連へ出国したが,92年旧東ドイツ時代の「ベルリンの壁」逃亡者射殺命令により起訴され帰国後逮捕。裁判が開始されたが高齢と病気を理由に釈放,家族の住むチリへ出国した。
=== 青年期 ===
 
ホーネッカーは炭坑夫の息子として[[ノインキルヒェン (ザールラント州)|ノインキルヒェン]]で生まれた。6人兄弟の3番目の息子だった。彼は10歳で地元の共産党少年団に加入、[[1926年]]に[[ドイツ共産党]](''Kommunistische Partei Deutschlands, KPD'')の青年部(''Jugendverband'')に参加して16歳で地元部長になり、17歳でKPDに正式入党している。学校を卒業後徒弟修業先が見つからないため2年ほど[[ポンメルン]]で農家の手伝いをし、その後屋根職人の伯父を手伝っていたが、[[1929年]]に[[国際レーニン学校]]に入学するため[[モスクワ]]に行った。[[1931年]]に帰国、地元共産党の指導に従事。
 
 
 
1933年にドイツでは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を掌握したが、当時ザール地方はまだ[[国際連盟]](実質的に[[フランス]]、[[ザール (国際連盟管理地域)]]を参照)の管理下にあったため共産党は活動できた。[[1935年]]に住民投票でザール地方のドイツ帰属が決まると、ホーネッカーは他の党員と共にフランスに亡命したが、地下活動のため潜入した[[ベルリン]]で[[ゲシュタポ]]に逮捕された。[[1937年]]には共産党活動で10年の懲役が宣告され、[[第二次世界大戦]]の終了まで拘束された。
 
 
 
ドイツの敗北直前の[[1945年]][[5月6日]]に、屋外作業のため外出した隙をついて脱走した。後に[[赤軍|ソ連軍]]によって直接監獄から解放されたと宣伝されたが、これは[[ソビエト連邦]]との友好を訴えることを目的とした「歴史の書き換え」だった。
 
 
 
=== 社会主義統一党 ===
 
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-57000-0512, V. Parteitag der SED, Honecker spricht.jpg|right|thumb|220px|SEDの党大会で演説するホーネッカー(1958年)<br /><sub>後方の人物がウルブリヒト</sub>]]
 
戦後ホーネッカーは、猜疑心の強い[[ヴァルター・ウルブリヒト]]による党査問会を経て、その下で活動を始めた。[[1946年]]には旧KPDと東ドイツの[[ドイツ社会民主党]]員によって組織された[[ドイツ社会主義統一党]](''Sozialistische Einheitspartei Deutschlands, SED'')の創立メンバーとなった。同年ホーネッカーはFDJ([[自由ドイツ青年団]])の創設者の一人となり、長らくその会長を務め、のちに小学校低学年からなる党の組織である「[[ピオネール]]」の子供たちからは、“エーリッヒおじさん”として親しまれるようになる。
 
 
 
1946年10月の選挙で大勝し、ホーネッカーは短命な議会でSEDのリーダーシップを獲得した。ドイツ民主共和国は[[社会主義国家]]として[[1949年]][[10月7日]]に成立した。そこでホーネッカーは[[1950年]]から[[中央委員会]]書記局の局員候補、[[1958年]]からは正式局員になった。研修のためモスクワに滞在していた1956年には、[[ニキータ・フルシチョフ]]による「[[スターリン批判]]」を直接経験することになった。
 
 
 
ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員として[[1961年]]に[[ベルリンの壁]]の建設を担当した。ソ連の指導者[[レオニード・ブレジネフ]]と良好な関係を保ち、ウルブリヒトが1960年代以降導入した「{{仮リンク|新経済システム|de|Neues Ökonomisches System der Planung und Leitung|en|New Economic System}}」に対して共産主義から外れつつあるとしてブレジネフの支援下で党内に反対の声を広げていった。
 
 
 
===指導者===
 
[[image:Stamps of Germany (DDR) 1972, MiNr 1760.jpg|right|thumb|220px|独ソ友好25周年記念切手(1972年)に描かれた'''ホーネッカー'''(右)とブレジネフ(左)]]
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1986-0421-010, Berlin, XI. SED-Parteitag, Gorbatschow, Honecker.jpg|right|thumb|220px|SEDの党大会での[[ミハイル・ゴルバチョフ]] (左)と([[1986年]])]]
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1987-0907-13, Bonn, Besuch Erich Honecker.jpg|right|thumb|220px|[[西ドイツ]]の首都[[ボン]]を訪問したホーネッカーと西ドイツ首相ヘルムート・コール(1987年)]]
 
[[1971年]]、健康を理由に辞任したウルブリヒト第一書記に代わって第一書記(後に書記長に改称)となり、東ドイツの新しい指導者となった。同時に国防評議会議長に就任した。[[1973年]]8月のウルブリヒト(第一書記辞任後も、国家元首である国家評議会議長の職には残っていた)の死後しばらくは、社会主義統一党の最高指導者(つまり実質的な東ドイツの最高指導者)であるホーネッカー、首相にあたる閣僚評議会議長[[ホルスト・ジンダーマン]]、元首である国家評議会議長[[ヴィリー・シュトフ]]に権限が分かれた「[[トロイカ体制]]」的な体制が採られたが、1976年10月になると[[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]によってホーネッカーが国家評議会議長にも選出され、名実ともに東ドイツの最も高い地位に付き、権力を一身に集めることになる。その座にあった[[ヴィリー・シュトフ]]は、閣僚評議会議長に格下げされた(首相だったジンダーマンは、儀礼的な役職の人民議会議長へ格下げされた)。
 
 
 
[[中央委員会]]経済担当書記には{{仮リンク|ギュンター・ミッターク|de|Günter Mittag}}を任命、[[シュタージ|国家保安省]]大臣には[[エーリッヒ・ミールケ]]を任命した。この三頭体制は、誰にも邪魔されることなく、東ドイツ支配階級、つまり約520人の党・国家幹部のエリートたちのトップとなった{{#tag:ref|[[:de:Hans-Ulrich Wehler|Hans-Ulrich Wehler]], ''Deutsche Gesellschaftsgeschichte, Bd. 5: Bundesrepublik und DDR 1949–1950'', C.H. Beck, München 2008, S. 218}}。
 
 
 
中央委員会アジテーション・プロパガンダ部門書記官であった{{仮リンク|ヨアヒム・ヘルマン|de|Joachim Herrmann}}とは日常的に党のメディア活動に関する協議を行い、党機関紙「[[ノイエス・ドイチュラント]]」のレイアウトや、[[ドイツテレビジョン放送|国営テレビ]]の報道番組{{仮リンク|アクトゥエレ・カメラ|de|Aktuelle Kamera}}のニュース構成までをも決めていた<ref>Martin Sabrow: ''Der unterschätzte Diktator.'' Der Spiegel, 20. August 2012, S. 46–48, hier S. 48</ref>。ホーネッカーは、[[シュタージ]]にも重要な意義を認めていて、週に一度は[[エーリッヒ・ミールケ]]と長い論議していた<ref>Günter Schabowski, ''Der Absturz'', Rowohlt, Berlin 1991, S. 115f</ref>。
 
 
 
就任当初は[[デタント]]の波に乗って[[西ドイツ]]と[[東西ドイツ基本条約|相互承認条約]]を結んで国交を樹立し、さらに[[国際連合]]加盟を実現する外交的成功を収めた。内政でも当初は文化政策を中心に開放を目指し、改革派と見られた時期もあった。しかし次第にその体制は硬直化して[[シュタージ]]による反体制派の取り締まりがエスカレートしていった。ホーネッカーは東西ドイツ国境の対人[[地雷]]を拡充し、国境の逃亡者には容赦のない射殺を命令した<ref name="schusswaffe">[http://www.chronik-der-mauer.de/index.php/de/Common/Document/field/file/id/46359 Protokoll der 45. Sitzung des Nationalen Verteidigungsrates der DDR], 3. Mai 1974</ref>。[[1974年]]に彼はこのことについて「銃器を効率良く使った同志は賞賛されるべきである」<ref name="schusswaffe" />と述べている。
 
 
 
経済政策では「新経済システム」で企業の独自採算制を認めるなどして生産性を高め、経済を発展させた<ref>南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 (講談社現代新書 1990年)P102</ref>前任のウルブリヒトと違い、ホーネッカーは産業の国有化・中央集権化を進めたが、1970年代後半以降[[西側諸国]]が経済構造の転換を進めたのに対して、[[統制経済]]・[[官僚主義]]のもとで硬直化した東ドイツの経済状況は悪化し<ref>南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P103-104</ref>、生活水準を維持するために[[西ドイツ]]から数十億[[ドイツマルク]]の経済支援を仰ぐようになった。にもかかわらず、[[1981年]]に西ドイツ首相の[[ヘルムート・シュミット]]を、{{仮リンク|フベルトゥスシュトック狩猟邸|de|Jagdhaus Hubertusstock}}に招待した際には、東ドイツは「経済的に世界水準に達し、世界で最も重要な産業国のひとつになった」と述べた。当時の様子を振り返ってシュミットは、「頭の良くない男({{lang|de|''Mann von beschränkter Urteilskraft''}})(=直訳:判断力の限られた男)」だと思ったと述べている<ref>zeit.de vom 19. Dezember 2008, Helmut Schmidt: Mein Treffen mit Honecker, Warum ich 1981 gern nach Schloss Hubertusstock gefahren bin [http://www.zeit.de/2008/51/Nachdruck-Schmidt-Honecker Merkur online vom 19. Oktober 2009]</ref>。同年には[[日本]]を訪問し<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1982/s57-shiryou-404.htm (4) エーリヒ・ホネカー=ドイツ民主共和国国家評議会議長の訪日に際しての共同コミュニケ(仮訳)]([[外務省]])</ref>、その際に[[日本大学]]から名誉博士号を受ける。日本の目覚ましい経済成長に強い関心があったようである。
 
 
 
こうした経済問題にも関わらず、ホーネッカーは1980年代に国際的な評価を求め、[[1987年]][[9月7日]]には西ドイツを訪問、首相[[ヘルムート・コール]]と[[ボン]]で会談した<ref>[http://www.ddr-im-www.de/index.php?itemid=131 Das Treffen Kohl – Honecker in Bonn (07. bis 11. September 1987)]</ref>。西ドイツ周遊期間には[[デュッセルドルフ]]、[[ヴッパータール]]([[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]の出身地)、[[エッセン]]、[[トリーア]]([[カール・マルクス|マルクス]]の出身地)、[[バイエルン]]にも訪問。9月10日に彼の生誕地[[ザールラント]]に訪問した際には、いつかは国境がドイツの人びとを切り裂くことはなくなるだろうということを感情的に演説している<ref>Martin Sabrow: ''Der unterschätzte Diktator.'' Der Spiegel, 20. August 2012, S. 46–48, hier S. 48</ref>。なお、この周遊は、[[1983年]]に企画されたが、しかし当時は東西ドイツ間の関係に疑念を抱いていたソ連の指導部から妨害されており、ゴルバチョフ政権になってから実現したものである。翌1988年にはフランスを訪問し、さらに[[アメリカ合衆国]]訪問も希望していたが、果たされることはなかった。
 
 
 
[[1980年代]]後半に[[ソビエト連邦]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]書記長が政治改革([[ペレストロイカ]])を始めた時も、ホーネッカーは強硬路線のマルクス・レーニン主義者のままだった。
 
 
 
=== 辞任 ===
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1007-402, Berlin, 40. Jahrestag DDR-Gründung, Ehrengäste.jpg|thumb|220px|東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら[[東側諸国]]の首脳陣]]
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1007-068, Berlin, 40. Jahrestag der DDR, Empfang.jpg|thumb|220px|[[共和国宮殿]]で行われた建国40周年記念晩餐会で、東側諸国の首脳らを前に挨拶をするホーネッカー。これが彼にとって最後の晴れ舞台となった(1989年10月7日)]]
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1108-036, Berlin, Demonstration von SED-Mitgliedern.jpg|サムネイル|右|220px|政治局員の行動を求めるデモ]]
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1108-038, Berlin, Demonstration von SED-Mitgliedern, Krenz.jpg|thumb|220px|right|エゴン・クレンツ]]
 
[[File:Thefalloftheberlinwall1989.JPG|thumb|220px|right|崩壊したベルリンの壁(1989年11月9日)]]
 
[[1989年]][[6月18日]]、自由選挙による[[ポーランド統一労働者党]]の潰滅を嚆矢にして[[東欧革命]]が勃発したが、その東欧革命の波涛は東ドイツにも波及し、民衆の抗議活動に歯止めがきかなくなった。夏の休暇シーズンになると多くの東ドイツ国民が休暇を利用して[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]や[[チェコスロバキア]]へ出国した。既に改革を進めていたハンガリーは自国内の東ドイツ国民を[[オーストリア]]経由で西ドイツへ出国させた。
 
 
 
このような状態になってもホーネッカーは、事態を憂慮する[[エゴン・クレンツ]](治安・青年問題担当書記、政治局員、国家評議会副議長)の進言にも「それがどうした」と言うだけで意に介さず、進言したクレンツに対しては長期休暇を命じて政権中枢部から遠ざけた<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN 4004302560)P5</ref>。その間にも国民の大量出国は続き、[[ライプツィヒ]]では民主化を求める[[デモ]]([[月曜デモ]])が行われるようになった<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P7</ref>。
 
 
 
[[10月7日]]、建国40周年記念式典のために東ドイツを訪問したゴルバチョフとの会談では、国内は何の問題もないと楽観視するホーネッカーの態度にゴルバチョフが業を煮やし、改革か引退かを迫った<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P10</ref>。その後行われたゴルバチョフとSEDの党幹部達との会合でもゴルバチョフが「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P8</ref>のに対し、ホーネッカーは、自国の発展をまくしたてるのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9</ref>。これによって、ゴルバチョフがホーネッカーに引導を渡したことが、他の党幹部達の目にも明らかになった。
 
 
 
同日夜に[[共和国宮殿]]で行われた[[晩餐会]]が終わると、ゴルバチョフはそのまま[[ベルリン・シェーネフェルト空港|シェーネフェルト空港]]へ直行し、そそくさと帰国してしまった。クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動したまえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P11</ref>。
 
 
 
この状況を見たクレンツや[[ギュンター・シャボフスキー]](政治局員、党ベルリン地区委員会第一書記)らの党幹部達は、ホーネッカーの追い落としを画策し始め、まず11日の政治局会議でそれまでの政治の誤りを認める声明を採択させた。自身のそれまでの政治を否定されたホーネッカーは12日に[[中央委員会]]書記と全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集すると、「国家が直面する諸問題は[[北大西洋条約機構|NATO]]の攻撃から生まれている」と演説し、自身への支持を訴えて巻き返そうとした。しかし、[[ハンス・モドロウ]](ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からはホーネッカー批判や辞任を暗に求める発言が出るなど、全くの逆効果に終わった<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P14-15</ref>。
 
 
 
これに勢いづいたクレンツ、シャボフスキーらはソ連の指導部やシュトフ首相などとも連絡を取ってホーネッカーを引き降ろす工作を進めて行った<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P15</ref>。
 
 
 
[[10月17日]]、政治局会議でいつものように議事を進行し始めようとしたホーネッカーに対し、突如シュトフが「エーリッヒ、ちょっと発言が」と言うと、続いて「ホーネッカー同志の書記長解任、およびミッターク、ヘルマン同志の解職を提案したい」と述べた。これに対し、解職対象のミッターク、ヘルマンを含めたホーネッカー以外の全政治局員が賛成を表明し、次々にホーネッカーを批判し始めた。ホーネッカーはそれに対しても顔色一つ変えなかったが、[[シュタージ|国家保安相]]の[[エーリッヒ・ミールケ]]が「暴露してもいいんだが…」とホーネッカーの不正を示唆する発言をすると「じゃ、言ってみろ!」と叫んだという<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P17</ref>。
 
 
 
ホーネッカーは観念したように解任動議を採決にかけざるを得なかった。ホーネッカーは自らへの更迭動議に賛成し、結果として全会一致で解任が決定された。後任にはクレンツが就任した。10月18日、党の[[中央委員会]]でホーネッカーは正式に退任したが、その際の演説でも「私は生涯を労働者階級の革命的事業とドイツの地に社会主義を打ち立てるという[[マルクス・レーニン主義]]的世界観に捧げて来た」「社会主義ドイツ民主共和国の建設と発展は、わが党及び私自身の共産主義者としての闘いの総仕上げであった」と述べ、最後まで頑迷なマルクス・レーニン主義者としての姿勢を崩すことはなかった<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P18</ref>。
 
 
 
後任のクレンツは緩やかな改革を行う一方で社会主義統一党の[[一党独裁制]]を維持しようとしたが、国内は日に日に拡大する反政府デモなどで混乱していった<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P18-19</ref>。
 
 
 
混乱のさなかの[[11月9日]]、「[[ベルリンの壁]]は私の認識では直ちに開放されます。」とシャボフスキーが誤発表(本当は「旅券発行の大幅な規制緩和」について[[11月10日]]に発表される予定であった)し、これが引き金となって[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁は破壊された]]。
 
 
 
結局クレンツも国民の支持どころか党員の支持を得ることも出来ず<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P27-28</ref>、[[1989年]][[12月3日]]には、ホーネッカーを初めとして旧中央委員会の全員が、SED党を除名された。
 
 
 
===末路===
 
1990年から[[1993年]]まで、ホーネッカーは[[冷戦]]犯罪、特にベルリンの壁を越えようとして死んだ192人に関しての訴追を回避した。ホーネッカーは1991年にモスクワへ発つ前に[[ベルリン]]の近くのソ連の陸軍病院に入院した。
 
 
 
しかし亡命先のソ連で保護が受けられないと悟ると、モスクワの[[チリ|チリ共和国]][[大使館]]に逃げこんだ。チリは第二次世界大戦前後からドイツ系[[移民]]が多かったうえに、かつて東ドイツはチリの[[アウグスト・ピノチェト]]軍事政権から逃げた左派系の人々の亡命を受け入れた(第34・36代[[チリの大統領|チリ大統領]]、[[UNウィメン]]代表を歴任した[[ミシェル・バチェレ]]もその一人)ので、ピノチェト政権が崩壊したことで保護が期待出来たのである。なお他にも[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と[[シリア]]がホーネッカーの受け入れを申し出たといわれる。かつて多くの東ドイツ市民が西側への亡命を求めて各国の大使館に逃げ込んだのと好一対であった。
 
 
 
結局、[[ソ連崩壊]]後の[[1992年]]にドイツへ移送されたが、1993年の裁判では癌細胞を自らに移植することで病気と偽った上訴追免除され、娘ゾーニャの居るチリの[[首都]]である[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]へ事実上[[亡命]]した。翌年の1994年5月29日に肝臓癌により81歳で没した。
 
 
 
==評価==
 
[[ファイル:Peugeot 604 von Erich Honecker (IA-1000).jpg|thumb|ホーネッカーの[[公用車]]、[[プジョー・604]]]]
 
[[ファイル:60cx11espsuperlimo.jpg|thumb|ホーネッカーの公用車、[[シトロエン・CX]][[リムジン]]]]
 
[[ベルリンの壁]]を越えようとした人々を射殺するよう命じたり、ソ連の[[ペレストロイカ]]が始まって以降も民衆の抗議行動を弾圧するなど、負の面の評価が多く存在する。
 
 
 
また多くの東ドイツ国民が[[プレハブ工法]]の無機質な高層[[集合住宅]]({{仮リンク|プラッテンバウ|de|Plattenbau}})に住み、[[大衆車]][[トラバント]]が10年以上待たないと手に入らないという生活を送っていた中で、ホーネッカーはベルリン郊外、{{仮リンク|ヴァンドリッツ|de|Wandlitz}}の森の中にあるプール付きの邸宅({{仮リンク|ヴァルトジードルング (ベルナウ・バイ・ベルリン)|label=ヴァルトジードルング|de|Waldsiedlung (Bernau bei Berlin)}})に住み、3つの別荘や趣味の[[狩猟]]に使うための[[ランドローバー・レンジローバー|レンジローバー]]や[[メルセデス・ベンツ]]、[[シトロエン・CX]]や[[プジョー]]といった多数の[[西側諸国]]の[[高級車]]を所有するという<ref>伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』[[社会評論社]]、2009年 P51-52</ref>、いわゆる[[ノーメンクラトゥーラ]]的な贅沢な暮らしをしていた。
 
 
 
共産党国家では、[[ルーマニア社会主義共和国]]の[[ニコラエ・チャウシェスク]]とならぶ旧体制を象徴する存在で、もし健康を害していなければ当然法廷で責任を追及されたと見られている。その訴追裁判中止が決定されたとき、旧東ドイツでは抗議のデモが相次いだ。
 
 
 
ホーネッカーについて、[[ポーランド人民共和国]]末期の指導者だった[[ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ]]は、「彼は東ドイツを冷酷非情に支配した。彼は独断家だった。だが私は、この男にダイナミックな側面をあるのを看て取っていた」、「ある日、政治的会合の後で、彼は私に特注の酸素マシーンをくれた。彼のお抱え科学者が作ったもので、皮膚の再生を促し、健康を増進するという。眉唾だとは思ったが、一応自宅に持ち帰った。だが、実際に使ってみると、これが効果がある。ホーネッカーは、ちょうどこのマシーンのような男だ―最初は彼のことを眉唾だと思うかも知れないが、実際に試してみると、期待を裏切ることはない」と一定の評価を与えている<ref>リッカルド・オリツィオ著、松田和也訳『独裁者の言い分 トーク・オブ・ザ・デビル』(柏書房 2003年)P133</ref>。
 
 
 
== 家族 ==
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R71089, Berlin, Rückkehr FDJ-Delegation aus Sowjetunion.jpg|thumb|ホーネッカーと前妻[[エディト・バウマン]](1947年8月。右から2番目と3番目の人物)。なお、右端は後に国防相となる[[ハインツ・ケスラー]]。]]
 
1947年にFDJの活動家で年上の{{仮リンク|エディト・バウマン (政治家)|label =エディット・バウマン|de|Edith Baumann (Politikerin)}}と結婚し一女をもうけた。しかしホーネッカーは1952年に人民議会最年少議員だった[[マルゴット・ホーネッカー|マルゴット・ファイスト]]との間に娘ゾーニャをもうけ、翌年エディットと離婚してマルゴットと結婚した。マルゴットは1963年に東ドイツの人民教育大臣に就任し、1978年には[[教会]]や父兄の反対を押し切って高校生に軍事教練を義務化する制度を導入した。1989年のホーネッカー失脚とともに彼女も辞任した。
 
 
 
ゾーニャは[[チリ人]]男性と結婚して一男をもうけ、そのためチリがホーネッカーの最期の地となった。マルゴット夫人はドイツの裁判所により60,300マルクを追徴され、年金が生活の糧になっていた。2000年にはチリのジャーナリストによるインタビュー形式で回顧録を出版した。
 
 
 
== 表彰 ==
 
訪日中の1981年5月、[[日本大学]]より名誉博士号。1985年、[[国際オリンピック委員会]]より金メダル勲章授与。[[カール・マルクス勲章]]受章5回。[[レーニン勲章]]受章。
 
 
 
== 語録 ==
 
*「存在する理由がなくならない限り、(ベルリンの)壁は50年でも100年でもあり続けるだろう」(1989年1月19日の演説。その10ヶ月後に壁は崩壊した)
 
*「常に前へ、後退はありえない!」(決まり文句の標語)
 
*「もはや牡牛やロバでさえ、社会主義の発展を停めることはできない。」(1989年10月7日、建国40周年の際の演説。この11日後に失脚。1年後には東ドイツが解体されて西ドイツに編入された。)
 
*「未来は社会主義のものである。」(1980年代前半)
 
 
 
==関連書籍==
 
*『私の歩んだ道―東ドイツ(DDR)とともに』(著:エーリッヒ・ホーネッカー 翻訳:安井栄一 [[サイマル出版会]] 1981年)
 
*:ホーネッカーの来日時に翻訳版が出版されたホーネッカーの自伝。
 
*『転落者の告白―東独議長ホーネッカー』(原題:{{lang|de|Der Sturz Honecker im Kreuzverhör}} 著:ラインホルト・アンデルト、ヴォルフガンク・ヘルツベルク 翻訳:佐々木 秀 [[時事通信社]] 1991年)
 
*:失脚直後の1990年に行ったホーネッカーへのインタビュー。自らを失脚に追い込んだゴルバチョフ、クレンツらへの恨み言を述べる一方、自らの失政やウルブリヒトからの権力奪取の課程については、自己の業績の過大評価や自己弁護に終始したものとなっている。
 
 
 
==関連項目==
 
*[[ベルリンの壁崩壊]]
 
*[[ギュンター・シャボフスキー]]
 
*[[エーリッヒ・ミールケ]]
 
*[[グッバイ、レーニン!]]
 
  
 
==脚注==
 
==脚注==
 
<references />
 
<references />
  
== 外部リンク ==
 
{{Commons category|Erich Honecker}}
 
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2018/9/1/ (土) 00:16時点における最新版


エーリッヒ・ホーネッカー
Erich Honecker, 1912年8月25日 - 1994年5月29日

東ドイツの政治家。 1929年ドイツ共産党に入党,30~31年ソ連留学,35年反ナチス活動を理由に逮捕され,ソ連軍によって解放されるまで 10年間獄中生活をおくった。第2次世界大戦後は青年組織づくりに活躍し,46年自由ドイツ青年同盟議長。社会主義統一党結成に参画し,49年人民議会議員。 56年から2年間のソ連留学後,58年に社会主義統一党中央委員会書記,同政治局員。対西ドイツ強硬派の W.ウルブリヒトの退陣に伴い,71年5月党第一書記 (1976年書記長と改称) に就任。同年6月には国防評議会議長も兼任し党と軍の最高指導者となった。西ベルリンの地位などについて妥協的態度をとり,ベルリン協定 (72.6.) ,東西両ドイツ基本条約 (72.12.) などの調印に好影響を与えた。 76年国家評議会議長 (元首) 就任。 80年以降東西対話を訴えて西側諸国との対話を促進,87年西ドイツへ公式訪問したが,東ドイツ国民の西ドイツへの大量流出,民主化要求を受けて,89年 10月すべての役職を辞任。東西ドイツ統一後ソ連へ出国したが,92年旧東ドイツ時代の「ベルリンの壁」逃亡者射殺命令により起訴され帰国後逮捕。裁判が開始されたが高齢と病気を理由に釈放,家族の住むチリへ出国した。

脚注


公職
先代:
ヴィリー・シュトフ
東ドイツの旗 ドイツ民主共和国
国家評議会議長

第3代:1976 - 1989
次代:
エゴン・クレンツ
先代:
ヴァルター・ウルブリヒト
東ドイツの旗 ドイツ民主共和国
国防評議会議長

第2代:1971 - 1989
次代:
エゴン・クレンツ
党職
先代:
ヴァルター・ウルブリヒト
ドイツ社会主義統一党書記長
第2代:1971 - 1989
次代:
エゴン・クレンツ




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