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'''ジョサイア・ウィラード・ギブズ'''('''Josiah Willard Gibbs''', [[1839年]][[2月11日]] - [[1903年]][[4月28日]])は[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]出身の[[数学者]]・[[物理学者]]・[[物理化学|物理化学者]]で、[[イェール大学|エール大学]]([[イェール大学]])教授。
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'''ジョサイア・ウィラード・ギブズ'''('''Josiah Willard Gibbs''', [[1839年]][[2月11日]] - [[1903年]][[4月28日]]
 
 
[[熱力学]]分野で[[熱力学ポテンシャル]]、[[化学ポテンシャル]]概念を導入し、[[相平衡]]理論の確立、[[相律]]の発見など、今日の[[化学熱力学]]の基礎を築いた。[[統計力学]]の確立にも大きく貢献した。[[ギブズ自由エネルギー]]や[[ギブズ-デュエムの式]]、[[ギブズ-ヘルムホルツの式]]等にその名を残している。
 
[[ベクトル解析]]の創始者の一人として[[数学]]にも寄与している。
 
 
 
ギブズの科学者としての経歴は、4つの時期に分けられる。[[1879年]]まで、ギブズは、[[熱力学]]理論を研究した。[[1880年]]から[[1884年]]までは、[[ベクトル解析]]分野の研究を行った。[[1882年]]から[[1889年]]までは、[[光学]]と[[光]]理論の研究をした。[[1889年]]以降は、[[統計力学]]の教科書作成に関わった。なお、彼の功績を称えて、小惑星(2937)[[ギブズ (小惑星)|ギブズ]]が彼の名を取り命名されている。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 少年/青年期 ===
 
ギブズは、[[アメリカ合衆国]][[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]で生まれ、同地で死亡した。[[ウィラード・ギブズ (言語学者)|同名の彼の父]]は、ニューヘブンにあった[[イェール大学]]の[[神学]][[専門大学院]]で[[宗教文学]]の教授をしていたが、今日では、[[アミスタッド号事件|アミスタッド号]] 裁判に関与したことで最も良く知られている(父親のほうも「ジョサイア・ウィラード」という名だった訣だが、息子である彼自身が「ジョサイア・ウィラード・ギブズ・ジュニア」として言及されることは、あまりない)<ref group="註">イェール大学構内にある、[[グローブ・ストリート墓地]]([[:en:Grove Street Cemetery|Grove Street Cemetery]])に、ギブズ親子は共に埋葬されているが、少なくともそうした文脈などで、二人を同時に言及する場合には、区別するために「シニア」と「ジュニア」が付けられている。</ref>。ギブズは、イェール大学のイェール・カレッジに就学し、[[数学]]と[[ラテン語]]とで表彰され、クラスにおける学業優秀者として[[1858年]]に卒業した。
 
 
 
=== 成人後 ===
 
ギブズは、イェール大学で研究を続け、[[1863年]]には[[博士号]]を取得した。それは、[[アメリカ合衆国]]における最初の[[工学]]博士号だった。その後、ギブズは、イェール・カレッジ講師となり、2年間はラテン語を、そして1年間は、彼が当時[[自然哲学]]と呼んでいたものを教えた。[[1866年]]、ギブズは、研究のため[[ヨーロッパ]]に渡り、[[パリ]]、[[ベルリン]]、[[ハイデルベルク]]で、各1年ずつ過ごした。彼がニューヘイブン地域から離れたのは、生涯でほぼこの3年間だけだった。
 
 
 
[[1869年]]、ギブズはイェール大学に復帰し、[[1871年]]に数理物理学教授に任命された。これは、アメリカ合衆国における、最初の数理物理学教授職だったが、彼が全く論文を発表しないためもあって無給だった。
 
 
 
その後、ギブズは、[[熱力学]]理論の発展及び発表に取り組みはじめた。[[1873年]]、ギブズは、熱力学的物理量を[[幾何学]]的に表現する方法に就いての論文を発表した。この論文に感銘を受けた[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]は、自らの手でギブズの概念を説明する石膏模型([[:en:Maxwell's thermodynamic surface]])を作成したのだった(この模型は、ギブズに贈られ、現在もイェール大学が大いなる誇りをもって所蔵している)<ref group="註">この石膏模型については [http://www.sv.vt.edu/classes/ESM4714/Gen_Prin/vizthink.html R.D. Kriz. "Visual Thinking" (Va. Tech College of Engineering Revised 02/11/95)] も参照のこと。曰わく、"now gathers dust in a display case next to a trash bin. " 「今では、ゴミ箱の隣の展示ケースの中で埃を被っている。」</ref>。
 
 
 
ついで、ギブズは、『[[不均一な物質系の平衡に就いて]]』 "''On the Equilibrium of Heterogeneous Substances''"」という論文<ref>日本化学会編「化学の原典3 化学熱力学」2 不均一物質系の平衡について(J.W.Gibbs著、黒田晴雄訳)、学会出版センター、ISBN 4-7622-7383-X</ref>を、[[1876年]]と[[1878年]]の2回に分けて、発表した。不均一系平衡に関するこのギブズ論文が扱っているのは:
 
 
 
* 熱力学的系の[[平衡]]に関する一般理論
 
* [[熱力学ポテンシャル]]([[エンタルピー]]、[[自由エネルギー#ヘルムホルツの自由エネルギー|ヘルムホルツ自由エネルギー]]、[[自由エネルギー#ギブズの自由エネルギー|ギブズ自由エネルギー]])概念
 
* [[化学ポテンシャル]]概念
 
* [[相平衡]]、[[化学平衡]]の理論
 
* [[相律]]
 
* 界面の熱力学、電池の起電力の理論
 
* [[ギブズ集団]]のアイデア([[統計力学]]分野の基礎)
 
 
 
=== その後 ===
 
[[1880年]]、ギブズは、[[メリーランド州]][[ボルチモア]]に当時新設された[[ジョンズ・ホプキンス大学]] から 3000ドルの給与で招聘されたが、イェール大学側から2000ドルではどうかと提案されると、それで満足したらしく、ニューヘイブンに留まった。
 
 
 
1880年から[[1884年]]まで、ギブズは、[[アイルランド]]の[[数学者]][[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]] が考案した[[四元数]] の考え方と、[[ドイツ]]の数学者[[ヘルマン・ギュンター・グラスマン]]の「広延論(''Ausdehnungslehre'')」の考え方を組み合わせて、[[ベクトル解析]]という数学分野を産み出した(ギブズとは独立して、[[オリヴァー・ヘヴィサイド]]も、この分野の開拓した)。ギブズは、このベクトル解析を[[数理物理学]]の目的に沿うようにしている。
 
 
 
[[1882年]]から[[1889年]]まで、ギブズは、[[光学]]の研究を行ない、光の電気理論を新たに作り上げた。ギブズは、この時期に彼のベクトル解析理論を完成している。彼は、物質の構成を理論に持ち込むことを意図的に避けており、物質組成の種類によらない一般的な理論を組み立てた。[[1889年]]以降、ギブズは、[[統計力学]]の教科書の作成に取り組んだが、これは、イェール大学出版局により[[1902年]]に出版された。
 
 
 
ギブズは、生涯結婚せず、彼の姉及び義兄と暮らした。この義兄は、イェール大学の司書であり、''Transactions of the Connecticut Academy of Sciences''(「コネチカット州科学アカデミー紀要」)の出版人でもあったが、この雑誌に、ギブズの殆どの論文が発表されたのだった。
 
 
 
=== ギブズの死と、その後 ===
 
ギブズは、[[1903年]]に亡くなるまで、イェール大学に留まった。[[1897年]]には[[王立協会]]のフェローに選出された<ref>{{FRS |code = NA2523 |title = Gibbs; Josiah Willard (1839 - 1903)  |accessdate = 2011-12-11 }}</ref>。
 
 
 
ギブズが死亡したのは、[[ノーベル賞]]が創設後間もなくのことであり、彼がノーベル賞を得るというようなことはなかった。しかし、ギブズは、[[イギリス|英国]][[王立協会]]の[[コプリ・メダル]]を授与されており、これは、科学に関する国際的認知として当時では最も名誉なことであったとみなされている。
 
 
 
== 科学上の評価 ==
 
ギブズの死後、彼への敬意の一つとして、イェール大学は、「J.ウィラード・ギブズ記念理論化学教授職」を創設した。ノーベル賞受賞者[[ラルス・オンサーガー]] ([[:en:Lars Onsager|Lars Onsager]]) は、そのイェール大学での経歴の殆どの期間この職にあったが、彼が、ギブズと同様、新しい数学上のアイデアを、物理化学(特に統計力学)に応用することに何よりも関わったことを思えば、これはオンサーガーにとり極めてふさしい職名であった。
 
 
 
[[19世紀]]中葉、米国の大学は、[[科学]]に殆ど関心を示さず、古典に偏重していたから、ギブズの講義は、学生の興味を殆ど引かなかった。彼の業績に興味を持ったのは、他の科学者、特に、[[スコットランド]]の[[物理学者]][[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]だった。ギブズが論文を発表したのが、[[ヨーロッパ]]では余り読まれていない無名雑誌であったため、評価されるようになるのは遅く、ギブズの考えがヨーロッパで広く受け入れられたのは、論文が[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]により書籍の形でドイツ語訳され([[1888年]])、[[アンリ・ルシャトリエ]]によりフランス語訳されて([[1899年]])からだった。
 
 
 
N・ウィーナーは、ギブズが物理学の根本に統計を導入したことを極めて高く評価して、「アインシュタインやハイゼンベルクやプランクよりギップズのほうにこそ、二十世紀物理学の最初の大革命の功績は帰せられるべきだと思う」と評した。<ref>ノーバート・ウィーナー『人間機械論 第二版 人間の人間的な利用』鎮目恭夫・池原止戈夫訳、みすず書房、1979年</ref>
 
 
 
== ギブズの言葉 ==
 
*; ''A mathematician may say anything he pleases, but a physicist must be at least partially sane.'' :「数学者は自分の好き勝手を言えるが、物理学者は、少なくとも部分的には分別がなければならない。」
 
*; ''Mathematics is a language.'' (at a Yale faculty meeting) :「数学とは語学である。」(イェール大学学部集会にて)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* '''[[科学]]''': [[情報理論]]、[[情報量|情報エントロピー]]、[[四元数]]、[[ギブスの不等式]]
 
* '''[[電気]]''': [[マクスウェル方程式]]
 
* '''[[数学]]''': [[ギブズ現象]]、[[ベクトル解析]]、[[ベクトル積]]
 
* '''[[物理化学]]''': [[相|相 (物性)]]、[[相律]]、[[統計力学]]、[[ギブズ自由エネルギー]]、[[ギブズ-デュエムの式]]、[[ギブズ-ヘルムホルツの式]]
 
* '''人物''': [[ギルバート・ルイス]]、[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]、[[ラルス・オンサーガー]]、[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]、[[ウィリアム・スタンレー]]([[:en:William Stanley (physicist)|William Stanley]])、[[オリヴァー・ヘヴィサイド]]
 
* '''[その他]''': [[ウィラード・ギブズ賞]]、[[イェール大学]]、[[グローブ・ストリート墓地]] ([[:en:Grove Street Cemetery|Grove Street Cemetery]])
 
* '''リスト''': [[:en:Timeline of thermodynamics, statistical mechanics, and random processes|熱力学、統計力学、確率過程論関連の年表]]
 
 
 
== 註釈 ==
 
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{{Reflist|group="註"}}
 
 
 
== 文献 ==
 
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{{Reflist}}
 
{{参照方法|date=2011年12月}}
 
日付順
 
* Bumstead, H. A., "''Josiah Willard Gibbs''". American Journal of Science, 4, XVI. 1903. (「ジョサイア・ウィラード・ギブズ」)
 
* Longley, W. R., and R. G. Van Name, "''The Collected Works of J Willard Gibbs''". 1928. (「J ウィラード・ギブズ論文選集」)
 
* Donnan, F. G., and A. E. Haas, "''A Commentary on the Scientific Writings of J Willard Gibbs''". 1936. ASIN 0405125445(J ウィラード・ギブズの科学上の著作への注釈)
 
* Rukeyser,M., "''Willard Gibbs: American Genius''". 1942. ASIN 0918024579(「ウィラード・ギブズ: アメリカの天才」)
 
* Gibbs, J. Willard, "''The Early Work of Willard Gibbs in Applied Mechanics''". 1947. ISBN 1-881987-17-5(「応用力学についてのウィラード・ギブズの初期の業績」)
 
* Wheeler, L. P., "''Josiah Willard Gibbs, The History of a Great Mind''". 1952. ISBN 1-881987-11-6 (「ジョサイア・ウィラード・ギブズ。偉大なる精神の歴史」)
 
* Gibbs, J. Willard, "''Scientific Papers''". 1961. ASIN 084462127 「J. ウィラード・ギブズ科学論文集」
 
* Crowther, J. G., "''Famous American Men of Science''". 1969. ISBN 0-8369-0040-5(「米国人著名科学者」)
 
* Seeger, R., "''Men of physics : J. Willard Gibbs, American mathematical physicist par excellence''". 1974. ASIN 0080180132(「物理学者たち: 偉大なる米国人数理物理学者、J. ウィラード・ギブズ。」)
 
 
 
== 外部リンクおよび参考図書 ==
 
* マックチューター数学史アーカイヴ "''[http://www-gap.dcs.st-and.ac.uk/~history/Mathematicians/Gibbs.html Josiah Willard Gibbs]''". School of Mathematics and Statistics. University of St Andrews, Scotland.(「ジョサイア・ウィラード・ギブズ」)
 
* AIP, "''[http://www.aip.org/history/gap/Gibbs/Gibbs.html Josiah Willard Gibbs] 1839-1903''". 1976, 2003.(「ジョサイア・ウィラード・ギブズ」)
 
* Friel, Charles Michael, "''[http://www.shsu.edu/~icc_cmf/bio/gibbs.html J. Willard Gibbs]''".(「J. ウィラード・ギブズ」)
 
* Jolls, Kenneth R., and Daniel C. Coy, "''[http://www.public.iastate.edu/~jolls/ Gibbs models]''". Iowa State University.(「ギブズモデル」)
 
* "''[http://jwgibbs.cchem.berkeley.edu/jwgibbs_bio.html Dr. J. Willard Gibbs]''".(「J. ウィラード・ギブズ博士」)
 
* Rukeyser, Muriel, "Willard Gibbs", Ox Bow Press, Woodbridge, CT, ISBN 0-918024-57-9 [Reprint of first edition published in 1942].(「ジョサイア・ウィラード・ギブズ」1942年初版のリプリント)
 
 
 
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アメリカの物理学者,理論化学者。エール大学卒業後実験的研究にたずさわり,1863年アメリカで最初の工学博士となった。 66年フランスとドイツに留学し,G.キルヒホフ,H.ヘルムホルツらのもとで学び,帰国後エール大学の数理物理学教授となって (1871) ,終生この大学で理論的研究に専念した。 76~78年,多成分多相系の平衡についての論文を発表,[[化学ポテンシャル]]や[[自由エネルギー]]の概念を展開したが,[[相律]]を導き出したきわめて数学的な内容であったのと発表された雑誌がアメリカの地方学会誌であったために,92年 [[F.W.オストワルト]]がドイツ語訳を公刊するまで埋もれていた。ほかに熱力学の化学への応用,浸透圧,表面張力,電気化学に関する研究などは近代物理化学の基礎をなすものといわれる。 1902年には論文『統計力学の基礎原理』 Elementary Principles in Statistical Mechanicsを発表,のちの量子統計力学への道を開いた。
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ジョサイア・ウィラード・ギブズ

ジョサイア・ウィラード・ギブズJosiah Willard Gibbs, 1839年2月11日 - 1903年4月28日

アメリカの物理学者,理論化学者。エール大学卒業後実験的研究にたずさわり,1863年アメリカで最初の工学博士となった。 66年フランスとドイツに留学し,G.キルヒホフ,H.ヘルムホルツらのもとで学び,帰国後エール大学の数理物理学教授となって (1871) ,終生この大学で理論的研究に専念した。 76~78年,多成分多相系の平衡についての論文を発表,化学ポテンシャル自由エネルギーの概念を展開したが,相律を導き出したきわめて数学的な内容であったのと発表された雑誌がアメリカの地方学会誌であったために,92年 F.W.オストワルトがドイツ語訳を公刊するまで埋もれていた。ほかに熱力学の化学への応用,浸透圧,表面張力,電気化学に関する研究などは近代物理化学の基礎をなすものといわれる。 1902年には論文『統計力学の基礎原理』 Elementary Principles in Statistical Mechanicsを発表,のちの量子統計力学への道を開いた。



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