少弐頼尚
少弐頼尚 | |
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時代 | 南北朝時代、室町時代 |
生誕 | 永仁2年(1294年) |
死没 | 建徳2年/応安4年12月24日(1372年1月30日) |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 |
主君 | 足利尊氏→直冬 |
氏族 | 少弐氏 |
少弐 頼尚(しょうに よりひさ/よりなお)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将。少弐氏6代当主。
生涯
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こると賛同し、父・少弐貞経に従って九州における北条氏勢力であった博多の鎮西探題北条英時を滅ぼす。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が始まり、親政から離反した足利尊氏が九州へ落ち延びてくると頼尚は尊氏を迎えるために赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した菊池武敏、阿蘇惟直に大宰府(福岡県福岡市)を攻められ父・貞経が戦死する。
建武3年(1336年)、頼尚は足利勢と共に筑前国多々良浜の戦い(福岡市東区)で菊池氏らを撃破し、再び京都を目指す尊氏に従い畿内まで従軍する。頼尚は恩賞として筑前国、豊前国、肥後国、対馬国などの守護職を与えられる。
足利家で尊氏と弟の足利直義が対立した観応の擾乱が発生し、正平4年/貞和5年(1349年)に直義の養子・直冬が九州へ逃れると頼尚は娘を娶せて[1]直冬を擁立し、九州における足利勢力である九州探題の一色範氏と争うが[2]、直冬が没落したために領地の大半は没収される。
さらにそれより以前に南朝は後醍醐天皇の皇子である懐良親王を征西将軍として九州へ派遣し、忽名氏や谷山氏等の支援のもと島津氏を撃破した懐良は南九州へ入り菊池氏に迎えられていた。頼尚は今度は南朝と同盟し一色氏と交戦する[3][4]。
正平10年/文和4年(1355年)、一色範氏が九州から撤退し、共通の敵がいなくなると南朝勢力と再び敵対した。正平14年/延文4年(1359年)には大友氏時や宇都宮冬綱らと共に、菊池武光ら南朝方と筑後川の戦いで戦うも[5]敗れ、 正平16年/延文6年・康安元年(1361年)には頼尚は大宰府有智山城を追われた。
建徳2年/応安4年(1371年)12月24日、死去。享年78。
脚注
出典
- 『斑島文書』
- 『園太暦』(二十一)
- 『北肥戦誌』(三、九州所々軍之事)
- 『太平記』(二十八巻・大宰少弐以直冬為婿事、三十三巻・菊池合戦事)