モハンマド・モサッデク
モハンマド・モサッデグ(ペルシア語: محمد مصدق、1882年5月19日 - 1967年3月5日)は、イランの民族主義者、政治家。同国の首相を2期務め、1951年に石油国有化政策を行った(→アーバーダーン危機も参照)。
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プロフィール
生い立ち
イランの首都となるテヘランで、ガージャール朝の縁戚にあたる名家に生まれる。フランスに留学しソルボンヌ大学卒業を経て、スイス・ヌーシャテル大学で法学博士号を取得。
政界へ
イランへの帰国後にイラン立憲革命に参加、国会議員となりアフマド・カバム内閣で財務大臣となる。パフラヴィー朝成立後の1944年に国民戦線を結成、民族主義を標榜しながら政治経済の両面で影響を及ぼしていたイギリスへの抵抗運動を始める。
イラン首相
就任
1945年8月の第二次世界大戦の終結後、トゥーデ党が1949年に非合法化されるとほぼ唯一の反植民地主義的勢力(=反イギリス勢力)となり国民の支持を得、1951年に行われた民主的選挙によりイランの首相に就任した。
石油国有化政策
第二次世界大戦においてイランは、北はソ連、南はイギリスに占領され(→イラン進駐)、戦後もイギリスの影響力の強い政権が続き、アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)はアバダンの石油を独占し利益を独占、イラン国内に石油による利潤はほとんどもたらされない状態が続いていた。そのような中、以前から存在した石油生産の国有化案を民族主義者モサッデグは「石油国有化政策」へとつなげていった。
イギリスは懐柔案として「アングロ・イラニアン石油会社の利益をイギリスとイランが半々ずつ受け取る」という石油協定の改正を提案するが、モサッデグはこれをイギリスのイラン支配継続の意図をみて断固として反対した。石油国有化はイランの完全な主権回復を主張する運動のシンボルとして国民の支持を得て盛り上がりを増し、1951年の首相就任後に石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し(イギリスのイラン支配の終結)、石油産業を国有化する。
それによりイギリス、その後ろ盾となるアメリカを始めとした西側諸国から猛反発を受けたことから、対抗するためソ連に接近。1953年にはソ連・イラン合同委員会をつくり、ソ連と関係を深めていった。このことは西側諸国にイラン共産化の危機感を抱かせたが、実際にはモサッデグは共産化を警戒し、またソ連もモサッデグを「ブルジョワ」と警戒し、積極的に受け入れようとしていなかった。
失脚
イラン産石油はイギリスやアメリカの国際石油資本(メジャー)の報復より国際市場から締め出され、それによりイラン政府は財政難に瀕し、国民戦線の内部では離反者が出るなどしてモサッデグの支持は失われていく。
アメリカとイギリスは再び石油利権を取り戻すため、CIAにより大量の資金を軍人・反政府活動家などへ投入することで暴力による政府転覆を目指す内政干渉の秘密工作を行い(エイジャックス作戦、英: TPAJAX Project)、その結果1953年8月15日から19日の皇帝派によるクーデターによってモサッデグを含む国民戦線のメンバーは逮捕され失脚した。
これにより、ファズロラ・ザヘディ将軍が首相に就任し、民主的政権からモハンマド・レザー・パフラヴィーの独裁世襲による王政となった。
死去
モサッデグは不公正な裁判により死刑判決を受けたが、執行されず3年間投獄され、その後に自宅軟禁となるが軟禁中の1967年に死去した。1979年に起きたイラン革命の時には、モサッデクの顔の写真や絵画を掲げて讃えられた[1]。
脚注・出典・参考文献
- ↑ 新・映像の世紀 第4集 世界は秘密と嘘に覆われた 2016年1月24日放送
関連項目
- ウィンストン・チャーチル
- アーマンド・ハマー
- 日章丸事件
- アーバーダーン危機
- 1953年のイランのクーデター - モサッデクが失脚したクーデター。
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