日本橋川
日本橋川(にほんばしがわ)は、東京都千代田区および中央区を流れる一級河川。下流には「日本国道路元標」がある日本橋が架かる。15世紀から17世紀にかけて数次の水利工事が行われた結果、現在の流路が形成された。
行政指定
地理
JR水道橋駅西口近く、東京都千代田区と文京区の境界にある小石川橋で神田川から分岐、ここを起点として真南に流れる。以降はほぼ全流路に渡って首都高速道路の高架下を流れている。分岐直後から河川上空を首都高速5号池袋線の高架が覆う。本郷台地と麹町台地北部(九段坂)の間の低地沿いを流れ靖国通りと交差後、南東方向に流れを変える。雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に30 mまで接近し、この付近から首都高速都心環状線の高架下となる。神田橋、日本橋、江戸橋などを通過して、亀島川を仕切る日本橋水門付近でようやく川面が開けるが、空を望める川面は僅か500 m弱、中央区の永代橋付近で隅田川に合流する。
歴史
徳川家康が関東に移封され、後に江戸幕府が開幕して平川(現在の神田川上中流)につながる神田川開削の天下普請が行われた。このとき、三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となった。これは飯田堀、飯田川とも呼ばれていた。
以降、近代に至るまで流域は経済・運輸・文化の中心として栄えた。堀の両側には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わった。上流から鎌倉河岸、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸があった。河岸現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っている。
明治になると、道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通り)が埋め立てられ、飯田堀は開通した鉄道の飯田町駅との運河としても使われる。1903年(明治36年)、市区改正事業によって埋めた区間を再度神田川まで開削し、神田川の派川として日本橋川と呼ばれるようになる。
再整備構想
首都高速道路に流路を覆われているため、河川としての景観を害していると認識されることが多い。そのため、首都高速の高架橋を撤去の上、橋や護岸などの水辺環境を整備して観光地化するという構想が活発化している[2]。
流域の自治体
分流
橋梁
- 三崎橋
- 小石川橋通架道橋(JR中央本線)[3]
- 新三崎橋
- あいあい橋
- 新川橋
- 堀留橋
- 南堀留橋
- 俎橋(靖国通り)
- 宝田橋
- 雉子橋
- 一ツ橋(白山通り)
- 錦橋(明大通り)
- 神田橋(本郷通り・日比谷通り・首都高速神田橋ランプ)
- 鎌倉橋(外堀通り)
- 外濠橋(JR東北本線・東北新幹線、中央本線)[4]
- 新常盤橋(江戸通り)
- 常磐橋
- 常盤橋
- 一石橋(外堀通り)
- 西河岸橋
- 日本橋:(中央通り)- 都営浅草線・地下鉄銀座線・東西線日本橋駅の駅名になっている
- 江戸橋(昭和通り)
- 鎧橋(平成通り)
- 茅場橋(新大橋通り)
- 湊橋(箱崎湊橋通り)
- 豊海橋
- Crossroads with KandagawaRiver and NihonbashigawaRiver.jpg
水道橋駅付近で神田川から分岐する日本橋川、緑色の橋は三崎橋)
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首都高速都心環状線下の日本橋川(2011年7月23日撮影)
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日本橋の下を流れる日本橋川
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日本橋水門(2011年7月23日撮影)
脚注
- ↑ 1965年(昭和40年)3月24日「河川法第四条第一項の水系及び一級河川を指定する政令」
- ↑ [1]『日本橋地域における水辺空間を活かしたまちづくり』 に向けた提言 <概要版>
- ↑ 小石川橋通架道橋 1904-12-31 - 土木学会付属土木図書館、2018年6月20日閲覧。
- ↑ 常磐橋(外濠橋)1919-3-1 - 土木学会付属土木図書館、2018年6月20日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 日本橋川・亀島川流域連絡会 - 東京都建設局
- 水面から見たまち 日本橋川編 - 国土交通省
- 日本橋川の徒歩と舟の旅