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| 参照方法 = 2017年11月
 
| 独自研究=2008年4月
 
}}
 
{{日本海軍}}
 
'''海軍兵学校'''(かいぐんへいがっこう)は、[[1876年]]([[明治]]9年)から[[1945年]]([[昭和]]20年)の[[第二次世界大戦]]終戦まで存続した、[[大日本帝国海軍]]の将校たる[[士官]]の養成を目的とした教育機関である。
 
  
== 総説 ==
+
'''海軍兵学校'''(かいぐんへいがっこう)
[[ファイル:Japanesenavalacademy001.JPG|thumb|300px|海軍兵学校生徒館(現在の海上自衛隊幹部候補生学校)]]
 
=== 概要 ===
 
[[戦前#日本史における「戦前」|戦前]]、'''[[江田島]]'''といえば、海軍兵学校を意味した。
 
  
海軍兵学校は、[[海軍機関学校]]、[[海軍経理学校]]とともに生徒三校と呼ばれた。<!--[[第二次世界大戦]]後に廃校になるまで、-->その規模では[[イギリス]]の[[海軍兵学校 (イギリス)|王立海軍兵学校]]<!--([[デヴォン州]][[ダートマス]])-->、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|合衆国海軍兵学校]]とともに、世界三大士官学校のひとつにも数えられ、全78期<ref group="注釈">1945年(昭和20年)3月に卒業した第74期生が最後の卒業生となったが、終戦時にはまだ第75期生から第78期生までが在校していた。海軍兵学校が廃校されることになると、同年10月には第75期生に限って卒業扱いにしている。</ref>から、総計1万2433名の卒業生を出して<!-- ×輩出-->いる。
+
日本海軍の士官養成機関。
  
江田島に通った軍人は、同じ釜の飯を食った海軍兵学校の同期(クラスと呼ばれた)を何よりも大切にした。日本海軍にいる限り、どうしても出世に差が生じ、クラスでも上官と部下になることもあったが、職務を離れれば「貴様と俺」で話が通じる対等の立場であるという不文律があった。クラス同士の会合は準公務として扱われ、また同級生が戦死した場合は残された家族を生き残った同級生が可能な限り面倒を見るという暗黙の了解が存在していた{{Refnest|group="注釈"|このことから[[野坂昭如]]の小説『[[火垂るの墓]]』の設定は、現実を無視した虚構であるとの[[宮崎駿]]による批判がある<ref>[[稲葉振一郎]]『ナウシカ解読―ユートピアの臨界』より</ref>。主人公らの父親は原作では大尉、アニメ版では巡洋艦艦長(大佐)、ドラマ版では戦艦艦長(大佐)と設定されているところ、このような者が戦死した場合にその子弟が餓死するなどほぼあり得ない話だからという。}}。こうしたことは美風として語られ、戦後に至るまで兵学校出身者の絆は強かった。
+
明治2 (1869) 年に[[海軍操練所]]が東京の築地に設けられ,翌 1870年海軍兵学寮と改名。第1期卒業生は 1874年で 37人。 1876年に海軍兵学校と改名。 1888年広島県江田島に移転し,1945年まで続いた。創立以来,イギリス式を採用,1873年に 34人のイギリス教官団が来日,最初は英語で授業を行なった。3~4年制で,卒業すると少尉候補生となり,1年から1年8ヵ月の練習航海や術科の講習,艦隊実習のあと少尉に任官。最後の卒業生は第 75期で,卒業生総数は1万 1182人。
  
第二次世界大戦中、国内の諸学校で英語教育が敵性語であるという理由で廃止縮小されるなか、[[井上成美]]校長の強い信念で従前通り英語教育が継続され、徹底した教養教育もなされた。このことが礎になって、[[坂元正一]][[東京大学]]名誉教授([[皇族]]の[[産婦人科]]担当医を長年務める)や、建築家[[池田武邦]](日本の高層建築のパイオニア)、[[板橋興宗]][[曹洞宗]]管長など、戦後、各界でリーダーとして活躍していた卒業生、元生徒も多い{{Refnest|group="注釈"|1970年7月に実施された同期卒業3,522人の職業状況は、水産19,鉱業26,建設83,食品42,繊維62,パルプ・紙22,化学104,石油19,ゴム12,ガラス・土石25,鉄鋼49,非鉄金属17,金属製品23,機械49,電気機器74,輸送用機械41,放送22,精密機械11,その他製造業25,商社117,商店(自営)91,金融・保険33,不動産11,陸運73,海運19,空運7,倉庫業7,電力・ガス47,サービス12,国家公務員123,防衛庁79,地方公務員165,公団公社63,その他公職15,教職320,農業22,宗教10,弁護士13,会計士・税理士20,建築士12,弁理士2,司法書士2,映画・芸能7,放送22,新聞出版・著述27,広告11,医師219,薬剤師2,病院事務長3,林業木材業5,設備工事7,団体46,その他72,職業不明939,死亡96であり、海軍兵学校のかつての在校生が戦後、広範な職業に就いていることがわかる<ref>[http://homepage2.nifty.com/navy76/sigotosyousoku/kiyuunodousei-b.html#genzail 海軍兵学校76期期友の動静]による。</ref>。}}。
+
*[[軍学校]] , [[士官学校]] , [[陸軍士官学校]]
 
+
   
戦後の学制改革に伴い、学歴としての「海軍兵学校卒業」は、その他の「海軍生徒学校卒業」および「陸軍生徒学校卒業」とともに、国・地方自治体・民間企業等における学歴免許等資格区分では[[短期大学]]卒と同等と扱われるようになった<ref>[http://www.vill-toyooka.jp/reiki_int/reiki_honbun/e7640098001.html 豊丘村規則第5号(昭和49年6月19日)別表第3]。</ref>。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
=== 批判 ===
 
行過ぎたエリート意識、貴族趣味、排他性が機関科士官、[[特務士官]]や戦争末期の[[学徒出陣]]による[[予備士官]]に対する差別、下士官兵への露骨な差別に繋がったとの批判もある<ref group="注釈">([[坂井三郎]]、[[阿川弘之]]らの著作に顕著。「Sol([[ドイツ語|独]]・ゾル;兵。兵学校出身者) vs spare([[英語|英]]・スペア;交換可能な「消耗品。」 [[学徒兵]]のこと)」。</ref>。
 
 
 
江田島が兵学校の所在地に選定された理由は、
 
# 軍艦の錨泊が出来る入江があること。
 
# 文明と隔絶し、いわゆる娑婆の空気に汚されずに教育に専念できる環境を持つこと。
 
# 気候が温暖で、安定していること。
 
この3点を備えていたためである。
 
 
 
=== 沿革 ===
 
[[File:Monument of Naval College&Surgeon College(IJN).JPG|thumb|海軍兵学寮の碑(左)及び海軍軍医学校の碑(右) 国立がん研究センター築地キャンパス構内 兵学寮の碑の揮毫者は[[齋藤實]]]]
 
[[File:Imperial Japanese Naval Academy Auditorium.JPG|thumb|大講堂(2010年代に撮影)]]
 
[[ファイル:Naval History Museum Japan 2010s.JPG|thumb|教育参考館(2010年代に撮影)]]
 
[[1869年]](明治2年)、前身の[[海軍操練所]]が東京・[[築地]]の元芸州屋敷内に創立開設された。[[1870年]](明治3年)、海軍兵学寮と改称し、[[1876年]](明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校。築地時代に[[明治天皇]]が皇居から海軍兵学校まで行幸した道が、現在の[[みゆき通り (東京都)|みゆき通り]]である。
 
 
 
[[1888年]](明治21年)に[[呉市]]の[[呉鎮守府]]に近接した[[広島県]]の[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[江田島町]](現在の[[江田島市]])に移転した。「本校舎の赤煉瓦は一つ一つ紙に包まれ軍艦でイギリスから運ばれた」と伝えられているが、{{要出典範囲|date=2015年3月|実際は当時レンガの生産を始めた[[安芸津町]](現在は[[東広島市]]安芸津町)で作られたという説もある。}}
 
 
 
海軍機関学校は[[関東大震災]]で校舎が全焼したため、一時期江田島の海軍兵学校の校舎を借りて教育が行われた。海軍兵学校の52期から55期まで、海軍機関学校の33期から36期までの生徒が同じ地で教育を受けて関係を深めた。
 
 
 
[[1939年]](昭和14年)より、採用生徒数(71期)は[[1936年]](昭和11年)の採用生徒数(300人)と比較して倍増(600人)した。これは[[1937年]](昭和12年)の第3次軍備拡張計画により、大型[[戦艦]]の建造、航空隊が倍増されるための要員確保のためであり、[[1941年]](昭和16年)には採用生徒数(73期)は900人となり、その後の採用生徒数は拡大の一途を辿った。
 
 
 
[[1943年]](昭和18年)11月15日には[[岩国市|岩国]][[分校]]が、[[1944年]](昭和19年)10月1日には[[大原 (江田島市)|大原]]、[[舞鶴市|舞鶴]]分校、[[1945年]](昭和20年)3月1日には[[針尾島|針尾]]分校がそれぞれ開校された。このうち舞鶴分校は[[海軍機関学校]]が分校として開学した。針尾分校は1945年(昭和20年)7月に[[防府市|防府]]の[[海軍通信学校|通信学校]]に疎開して閉校となった。1945年(昭和20年)12月1日までに全校が廃校となり、消滅した。
 
 
 
江田島の兵学校跡は、[[1956年]](昭和31年)以降、[[海上自衛隊]]の[[海上自衛隊第1術科学校|第1術科学校]]および[[海上自衛隊幹部候補生学校|幹部候補生学校]]になっており、明治時代の赤煉瓦の校舎や、大講堂、教育参考館などが残されている。
 
 
 
=== 生徒の採用 ===
 
以下の事柄は時代によって多少の違いがあるが、必要受験資格は受験年齢は16歳から19歳の年齢制限があり、身体条件を満たす者、中学校第四学年修了程度の学力、独身者、犯歴の無い者とされた。銓衡にあたり、最初に身体検査、運動機能検査で学術試験受験者が決定され、学術試験は5日間連続で行われた。学術試験は数学に始まり、英語(和訳)と歴史、物理、化学と国語(漢文も含む)、英語(英作文、文法)と地理の順に行われ、それぞれの学術試験の採点結果は当日に発表され、所定の合格点数に達した者のみが次の学術試験を受験できる篩い落とし選考であった。その後、面接試験を経て最終合格者が決定された。志願者の増加と共に内申書による事前選考が行われるようになった。日本海軍の人事政策では兵学校出身者は特別の事情がない限り、[[大佐]]まで昇進させる方針を採っており、採用生徒数は海軍の軍備政策と密接な関係にあった。
 
<!---データは? しかしながら、旧制[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]](現・東京大学教養学部)や旧制[[第三高等学校]](現・京都大学教養部)を初めとする旧制高等学校ナンバースクールと同格のレベル(あるいはそれ以上)とされ、---><!---また、全国から優秀な青年が競って志願した学校であり、募集人員が少なかった[[昭和]]の初期の海軍兵学校は倍率が高かった。--->
 
 
 
海軍兵学校設立の明治時代から、この海軍兵学校に入学するための予備校的な学校が、全国に存在していた。主な予備校的な学校には、明治初期から、東京の[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]]があり、明治中期以降になると、東京の[[海城中学校・高等学校|海軍予備校]]{{refnest|group=注釈|海軍兵学校・海軍機関学校合格者の学校別の内訳は次の通り<ref>中村文雄『軍諸学校入学資格獲得をめぐる私学と官学との抗争』</ref>。
 
* '''海軍兵学校学校別合格者数''' ※[  ]は東京府立尋常中学校([[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高]])の合格者数
 
** 明治30年9月 総数179名 海軍予備校([[海城中学校・高等学校|海城中・高]])55名、攻玉社([[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社中・高]])32名、府県立[[尋常中学校]]51[ 3 ]名、その他36名、家庭自学者5名。}}、神奈川の[[神奈川県立湘南高等学校|湘南中]]、[[神奈川県立横須賀高等学校|横須賀中]]、[[逗子開成中学校・高等学校|逗子開成中]]、兵庫の[[篠山鳳鳴高等学校|鳳鳴義塾]]、広島の[[修道高等学校|修道中]]、山口の[[山口県鴻城高等学校|鴻城中]]、高知の[[高知県立高知小津高等学校|海南学校]]、佐賀の[[佐賀県立三養基高等学校|三養基中]]などが知られる<!--広島や呉市内だけでも明道や、東京のと同名の海城など複数の私立があった。-->ようになった。その後、大正時代頃になってくると、先駆的な私立の予備校的学校の進学実績は減少していった。なお、これらの予備校的な学校は、戦後の学制改革により制度が変更がされ、海上自衛隊との関連はなくなった。
 
 
 
また、第65期(昭和9年4月入学)から第69期(昭和13年)4月入学)の入学試験倍率は20倍を超えていた<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/nyuusijyoukyou1.html 海軍三校入試状況調べ(自 昭和 9年 至 昭和20年)]。</ref>。この期は、[[ナンバースクール (東京都)|東京府立ナンバースクール]]に、湘南中、横須賀中、[[神奈川県立希望ヶ丘高等学校|横浜一中]]などの他、[[宮城県仙台第一高等学校|仙台一中]]、[[麻布中学校・高等学校|麻布中]]、[[兵庫県立神戸高等学校|神戸一中]]、[[広島県立広島国泰寺高等学校|広島一中]]、[[広島県立呉三津田高等学校|呉一中]]、[[熊本県立済々黌高等学校|済々黌]]、[[佐賀県立佐賀西高等学校|佐賀中]]、[[鹿児島県立鶴丸高等学校|鹿児島一中]]に、[[外地]]の朝鮮・[[龍山高等学校 (ソウル特別市)|竜山中]]、台湾・[[台北市立建国高級中学|台北一中]]なども含めた全国の数多ある中学が上位合格者数を競いあっていた<ref>[http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub2-12.html 海軍兵学校第69期(1938年4月入学)名簿]などによる</ref>。
 
 
 
なお、海軍兵学校は、兵科上級将校になるためには通らなければならない学校であった<ref group="注釈">ただし、兵科士官の絶対数が不足した1942年以降、旧制高等学校・旧制専門学校卒業以上の学歴を有する者が海軍予備学生を経て兵科士官になる制度が導入された。</ref>。一方、大学工学部などを卒業し技術士官になる途はあった。[[東京大学|東京帝国大学]]等の成績優秀な学生で海軍委託生になれば、海軍に籍を置き士官に准ずる給与支給があり、卒業後は技術士官の地位が約束された。海軍委託生は海軍兵学校生より運動系の科目の内容は緩和されていた。また、一般の大学生と違い陸軍の軍事教練の単位を取る必要も無く、この面でも優遇されていた<ref group="注釈">この制度で委託生を経て技術士官になった者に、[[盛田昭夫]]などがいる。</ref>。
 
 
 
=== 生徒の教育 ===
 
教育期間は始め3年制、[[1927年]](昭和2年)より3年8ヶ月、[[1932年]](昭和7年)から4年制となったが、中国における事変拡大の影響を受け、[[1934年]](昭和9年)入校の66期が3年9ヶ月に短縮された後、戦線の激化に伴い[[1935年]](昭和10年)入校の67期(3年3ヶ月)、[[1936年]](昭和11年)入校の68期(3年4ヶ月)、[[1937年]](昭和12年)以降の69期 - 71期(3年)、[[1940年]](昭和15年)入校の72期(2年10ヶ月)、[[1941年]](昭和16年)入校の73期(2年4ヶ月)と教育期間が短縮されていった。兵学校においては、最上級生を1号、以下2号、3号、4号と称した。
 
 
 
英国式の術科重視の教育が行われ、卒業後は少尉候補生として[[練習艦隊]]に配属され、遠洋航海など実地訓練や術科講習を経て任官した。当初は兵学校生徒のままで参加したが、[[1897年]](明治30年)より、24期生が少尉候補生として航海を行った。この練習航海も太平洋戦争の開戦により、[[1941年]](昭和16年)の69期生の航海を最後に終了した。
 
 
 
第二次世界大戦中も英語教育は継続された。[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]が英語教育を廃止し入試科目からも外すと、{{誰範囲|date=2015年3月|海軍兵学校もこれにならうべきだという声}}が強くなった。しかし、[[井上成美]]校長は、「一体何処の国の海軍に、自国語しか話せないような海軍士官がいるか」、「いやしくも世界を相手にする海軍士官が英語を知らぬで良いということはあり得ない。英語が今日世界の公用語として使われているのは好む好まないに拘らず明らかな事実であり、事実は素直に事実と認めなければならぬ。外国語のひとつも習得しようという意気のない者は、海軍の方から彼らを必要としない。私が校長である限り英語の廃止などということは絶対に認めない」と却下し、英語教育継続に伴っておきた校長排斥運動に関しても、「これらの運動に従事する人物の主張するところ、概ね浅学非才にして島国根性を脱せず」と断じ、兵学校の英語教育は従来通り行った。海軍兵学校内では従来通り外来語の使用も容認している。このことは、戦後、大学に入り直すなどして再出発することになった卒業生達から相当感謝されている<ref>阿川弘之「井上成美」</ref>。
 
 
 
==== 五省 ====
 
海軍兵学校の教えとして有名な「[[五省]](ごせい)」は[[松下元]]校長が考案したもので、兵学校の精神を代表するものとして名高い。諸外国の軍人をも感動させたといい、戦後、英訳されて[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス海軍兵学校]]でも採用された。海上自衛隊にも引き継がれている。
 
{{main|五省}}
 
 
 
ただし、これが考案されたのは[[1932年]](昭和7年)で、海軍兵学校の歴史から見れば末期の一時期のこととも言える。どの程度重視したかは当時の校長や教官の姿勢にも左右されており([[永野修身]]校長の時代は重視されず、唱和されることもあまりなかったという証言もある)、常に重んじられていた訳でもないらしい。リベラリズムと柔軟性を重んじた古参の海軍軍人の中には「帝国海軍の風潮になじまない」として好感を持たない者も少なからず存在していた<ref group="注釈">[[大井篤]]などは「あんなの我々の時代にはやっていない」と述べている。</ref>。
 
 
 
=== 生徒の待遇 ===
 
兵学校生徒には、[[下士官 (日本海軍)|海軍一等兵曹]](昭和17年以降は海軍上等兵曹)と[[下士官 (日本海軍)|海軍兵曹長]]の中間ともいえる階級を与えられていた。これは、[[陸軍予科士官学校|陸軍予科士官学校(陸軍士官学校予科)]]生徒は「将校生徒」として階級が与えられず予科卒業後に「[[士官候補生]]」となり順次兵下士官の階級が与えられ、士官候補生たる[[軍曹]]として[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校(陸軍士官学校本科)]]・[[陸軍航空士官学校]]に在校し、たとえ[[皇族]]であっても陸軍現役兵科将校を目指す者には下士官兵を体験させ、原則的に原隊において隊附勤務も行わせ実務を学ばせる陸軍とは対照的であった。夏の帰省時には、純白の第二種軍装が一際映え、郷里の誇りとして町を挙げての歓迎会が開かれたほど人気があった。
 
 
 
<!--ただし、当時の気風として、「士官、下士官、兵、牛馬、候補生」と呼ばれるほど、海軍部内において候補生は酷使される存在であったといわれる。{{要出典|date=2010年2月}}-->
 
 
 
海軍兵学校の卒業生は卒業席次([[ハンモックナンバー]])順に昇進していった。これが人事の硬直化を招いた<ref group="注釈">のちに大将、海軍大臣になった米内光政(29期。125人中68番)や及川古志郎(31期。189人中76番)、海軍大学校すら出ていないのに中将になった[[木村昌福]](118人中第107位)などの例外もあり、人事の硬直化はむしろ「[[軍令承行令]]」の絶対化によるものとされる。</ref>。
 
 
 
=== 選修学生 ===
 
[[1920年]](大正9年)から[[1942年]](昭和17年)の間、兵学校には'''選修学生'''制度が存在した(第23期まで存在する)。選修学生制度とは、優秀な[[准士官]](海軍兵曹長)および海軍一等兵曹の中から選抜して、生徒教育に準じた教育を行う課程であった。この制度は、海機、海経にも設置されていた。ただ、この課程を卒業したとしても[[特務士官]]という立場に変わりはなく、毎期の採用人数も極少数であった。一方で、これに類似する陸軍の[[陸軍少尉候補者|少尉候補者]]制度は1945年の陸海軍解体まで存続し、陸軍士官学校・陸軍航空士官学校には多くの少尉候補者学生が学び少候出身の現役将校を輩出し、かつ少尉候補者出身者の卒業後の人事の扱いは士官候補生出身者と同等であった(陸軍には特務士官の制度は存在しない)。
 
 
 
=== 職員 ===
 
職員として、校長、[[副校長]]、[[副官]]、[[教頭]]、[[教官]]、監事長、監事、[[分隊長]]、[[軍医長]]、主計長、附など置かれた(時代により違いがある。)。このうち、教官は、教頭の命を承け学術教育を担任した。監事は監事長の命を承け訓育を担任した。ちなみに、兵学校の文官教師は[[東大]]出身者の上位3番まで、[[京大]]は2番まで、[[広島高等師範学校]]は首席までと定められていた。
 
 
 
== 海軍機関学校 ==
 
{{Main|海軍機関学校}}
 
 
 
海軍の機関科に属する士官を養成するために、[[1881年]](明治14年) - [[1887年]](明治20年)と[[1893年]](明治26年) - [[1945年]](昭和20年)に海軍機関学校が置かれる。
 
 
 
[[1874年]](明治7年)に横須賀に'''海軍兵学寮分校'''が置かれる。[[1878年]](明治11年)'''海軍兵学校附属機関学校'''となる。[[1881年]](明治14年)に'''海軍機関学校'''となる。[[1887年]](明治20年)に廃止される(機関学校第4期生は海軍兵学校に編入され、兵学校第16期生となる。[[井出謙治]]海軍大将がこのケースに該当する)。[[1893年]](明治26年)に再置される。関東大震災によって校舎が罹災したため、[[1923年]](大正12年) - [[1925年]](大正14年)は江田島の海軍兵学校内に移り同校生徒と共に教育を受ける。1925年(大正14年)に京都府中舞鶴に移転する。[[1942年]](昭和17年)11月に、従来、将校を兵科と機関科とに区分していた将校制度が改正されて機関科将校が「将校」へ統合されたことに伴い、[[1944年]](昭和19年)10月に廃止され、新たに'''海軍兵学校舞鶴分校'''となる([[海軍機関科問題|兵機一系化]])。ただし、「機関学校」の名称は横須賀・大楠に既設の[[海軍工機学校]]が改正して継承された。舞鶴分校は[[1945年]](昭和20年)11月30日に廃校となる。
 
 
 
機関術・整備技術を中心に機械工学・科学技術(火薬・燃料の調合技術)・設計などメカニズムに関わるあらゆる事象の研究・教育を推進した。また、機関科将校の術科学校であり、投炭技能や造船技術の訓練を[[下士官]]に施していた工機学校が閉校していた[[1914年]](大正3年) - [[1928年]](昭和3年)の間は、工機学校に代わる組織として「練習科」を併設した。なお従来の機関将校育成コースは「生徒科」と称した。しかし、機関学校卒業生徒の昇進の最高位は「[[中将]]」までで、それ以上の職位は兵学校出身者が就いた。そのため、志願者の多くは兵学校を志望するので、機関学校の合格者は兵学校の入学試験前に入校手続きを行い、兵学校の受験を禁じる措置が執られていた。
 
 
 
また、将来将校となるべき生徒以外にも、[[准士官]]および[[下士官]]を選修学生として教育した。
 
 
 
== 海軍経理学校 ==
 
{{Main|海軍経理学校}}
 
 
 
海軍の主計科に属する士官を養成するために、1882年 - 1883年と1889年 - 1945年に海軍経理学校が置かれる。
 
 
 
[[1882年]](明治15年)に'''海軍主計学舎'''が置かれる。[[1886年]](明治19年)に'''海軍主計学校'''となる。[[1883年]](明治16年)に廃止される。再開までの期間は、政府主計官から選抜した。1899年(明治32年)に'''海軍主計官練習所'''として再置される。1907年(明治40年)より'''海軍経理学校'''に改名。1945年(昭和20年)11月30日に廃校となる。
 
 
 
主計官は兵科・機関科と比べて視力・色覚の制限が緩く、海軍志願ながら不合格となった者達にとって、数少ない受け入れ先であった。
 
 
 
主計官の任務は金銭出納・需品管理のみならず、酒保の運営や調理などの軽作業から、[[戦闘詳報]]の記録や「お写真」<ref group="注釈">[[御真影]]、海軍の特に士官は陸軍と文部省が用いた御真影という語を用いず、また、お写真は海軍大元帥の姿であった。昭和天皇は海軍訪問時には海軍式の敬礼を行った。</ref>の管理など重要な記録・儀式まで幅広い。経理学校では簿記のみならず主計官の職分すべてを教育した。
 
 
 
== その他 ==
 
[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]と違って、[[外地]]人、外国人の入校は許可されなかった。
 
 
 
戦後日本の[[海上自衛隊]]では名称を[[海上自衛隊幹部候補生学校]]としているが、海外の海軍幹部候補学校には'''海軍兵学校'''の訳を当てることが多い<ref>[http://www.mod.go.jp/nda/obaradai/boudaitimes/btms200607/usna/usna200607.htm 米海軍兵学校学生来校] - [[防衛大学校]]</ref>。
 
 
 
== 関連人物 ==
 
=== 校長 ===
 
*[[川村純義]]:明治3年10月27日 -
 
*[[中牟田倉之助]]:明治4年11月3日 -
 
*[[松村淳蔵]]:明治9年8月31日 - ※[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス]]式教育の導入
 
*[[伊藤雋吉]]:明治10年2月20日 -
 
*松村淳蔵:明治10年8月23日 -
 
*中牟田倉之助:明治10年10月31日 -
 
*伊藤雋吉:明治11年1月18日 -
 
*[[仁礼景範]]:明治11年4月5日 -
 
*[[本山漸]]:明治13年12月8日 -
 
*伊藤雋吉:明治14年6月17日 -
 
*松村淳蔵:明治15年10月12日 -
 
*[[伊東祐麿]]:明治17年1月21日 -
 
*松村淳蔵:明治18年12月28日 -
 
*[[有地品之允]]:明治20年9月28日 -
 
*[[吉島辰寧]]:明治22年4月17日 - ※校長代理
 
*本山漸 少将:明治23年9月24日 - 明治25年2月19日
 
*[[山崎景則]]:明治25年7月12日 -
 
*[[坪井航三]]:明治25年12月12日 -
 
*[[柴山矢八]]:明治26年12月20日 -
 
*吉島辰寧:明治27年7月21日 -
 
*[[日高壮之丞]]:明治28年7月25日 -
 
*[[河原要一]]:明治32年1月19日 -
 
*[[東郷正路]]:明治35年5月24日 -
 
*[[富岡定恭]] 少将:明治36年12月28日 - 明治39年11月19日
 
*[[島村速雄]] 少将:明治39年11月19日 - 明治41年8月28日
 
*[[吉松茂太郎]]:明治41年8月28日 - 明治43年12月1日
 
*[[山下源太郎]]:明治43年12月1日 - 大正3年3月25日
 
*[[有馬良橘]]:大正3年3月25日 -
 
*[[野間口兼雄]]:大正5年12月1日 -  
 
*[[鈴木貫太郎]]:大正7年12月1日 -
 
*[[千坂智次郎]]:大正9年12月1日 -
 
*[[谷口尚真]]:大正12年4月1日 -
 
*[[白根熊三]]:大正14年9月8日 -
 
*[[鳥巣玉樹]]:昭和2年4月1日 -
 
*[[永野修身]]:昭和3年12月10日 - ※[[ドルトン・プラン|ドルトン教育法]]による「自啓自発」の教育を推進。
 
*[[大湊直太郎]]:昭和5年6月10日 -
 
*[[松下元]]:昭和6年12月1日 - ※「五省」を発案
 
*[[及川古志郎]]:昭和8年10月3日 -
 
*[[出光万兵衛]]:昭和10年11月15日 -
 
*[[住山徳太郎]]:昭和12年12月1日 -
 
*[[新見政一]]:昭和14年11月15日 -
 
*[[草鹿任一]]:昭和16年4月4日 -
 
*[[井上成美]]:昭和17年10月26日 - ※兵科・機関科の統合を推進
 
*[[大川内傳七]]:昭和19年8月5日 -
 
*[[小松輝久]]:昭和19年11月4日 - ※講堂失火事故に際し引責辞任
 
*[[栗田健男]]:昭和20年1月15日 -
 
 
 
=== 主な卒業生 ===
 
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== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
* [[豊田穣]] 『同期の桜』([[光人社]]文庫、1994年) ISBN 4769820518
 
* 豊田穣 『江田島教育』([[新人物往来社]]、新版2000年) ISBN 4404004389
 
* セシル・ブロック 『江田島-イギリス人教師が見た海軍兵学校』(西山真雄訳、銀河出版、1996年) ISBN 4906436749
 
* [[徳川宗英]] 『江田島海軍兵学校究極の人間教育』(講談社、2006年)
 
* 太平洋戦争研究会編『海軍江田島教育』(新人物往来社、1996年、新版2003年) ISBN 4404024444 
 
*『江田島海軍兵学校 別冊歴史読本』(新人物往来社 2008年)
 
*『今こそ知りたい江田島海軍兵学校 世界に通用する日本人を育てたエリート教育の原点』
 
*: 平間洋一、市来俊男、雨倉孝之ほか4名 (新人物往来社 2009年)
 
* [[海軍教育本部]] 編『帝国海軍教育史』第1 - 9巻・別巻 ([[原書房]]:明治百年史叢書、1983年)
 
* 真継不二夫 『海軍兵学校-江田島健児の記録』(朝日新聞社、1970年)
 
*『写真集海軍兵学校 江田島本校 岩国分校 大原分校 舞鶴分校 針尾分校』(秋元書房 1990年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[海軍大学校]]
 
* [[軍学校]]
 
* [[陸軍幼年学校]]
 
* [[軍服_(大日本帝国海軍)#生徒]]
 
* 同期ノ桜・保万齢([[江田島銘醸]])
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.mod.go.jp/msdf/onemss/ 海上自衛隊第1術科学校]
 
* [http://www.city.etajima.hiroshima.jp/ 広島県江田島市]
 
* [http://www.arch-hiroshima.net/a-map/hiroshima/etajima.html 建築マップ 海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校 / 旧海軍兵学校]{{リンク切れ|date=2018年1月}}
 
* [http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/hyoushi.html 海軍兵学校]
 
* [http://www005.upp.so-net.ne.jp/doukinosakura/totupupeiji/mokuji-1.html 同期の桜海兵第71期] 海軍兵学校第71期生による海軍兵学校内の生活の記録
 
* [http://www.naniwa-navy.com/kaigunsyokyuusikankokoroe1.html 海軍初級士官心得] 72期公式ホームページ[http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/ 「なにわ会HP」]より
 
 
 
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2018/9/24/ (月) 22:51時点における版

海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)

日本海軍の士官養成機関。

明治2 (1869) 年に海軍操練所が東京の築地に設けられ,翌 1870年海軍兵学寮と改名。第1期卒業生は 1874年で 37人。 1876年に海軍兵学校と改名。 1888年広島県江田島に移転し,1945年まで続いた。創立以来,イギリス式を採用,1873年に 34人のイギリス教官団が来日,最初は英語で授業を行なった。3~4年制で,卒業すると少尉候補生となり,1年から1年8ヵ月の練習航海や術科の講習,艦隊実習のあと少尉に任官。最後の卒業生は第 75期で,卒業生総数は1万 1182人。

*軍学校 , 士官学校 , 陸軍士官学校  



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