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{{Infobox 民族
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'''ウイグル'''({{Rtl翻字併記|ug|'''ئۇيغۇر'''|'''Uyghur'''|n|区=、}}、{{Lang-zh|维吾尔族}}、{{ピン音|Wéiwúĕrzú}})
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|religions  = [[イスラム教]][[スンナ派]]<ref>[http://www.cnn.com/2005/WORLD/asiapcf/04/20/eyeonchina.xinjiang/index.html CNN.com - Xinjiang: On the new frontier - Apr 21, 2005]</ref>
 
|related    = [[テュルク系民族|テュルク]]
 
|footnotes  = {{reflist}}
 
}}
 
 
 
'''ウイグル'''({{Rtl翻字併記|ug|'''ئۇيغۇر'''|'''Uyghur'''|n|区=、}}、{{Lang-zh|维吾尔族}}、{{ピン音|Wéiwúĕrzú}})は、[[4世紀]]から[[13世紀]]にかけて[[中央ユーラシア]]で活動した[[テュルク系民族|テュルク系]][[遊牧民|遊牧民族]]並びにその[[国家]]<ref group="注">『突厥与回紇史』では、モンゴル高原東部に興り、後に[[中央アジア|西トルキスタン]]や甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。</ref>及びその後裔とも<ref name="daijirin">『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項</ref>[[20世紀]]の政治的必要性からの名乗りともされる<ref name="moriyasu2007-32">{{harvnb|森安|2007|p=32}}</ref>「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在[[中華人民共和国]]の統治する[[新疆ウイグル自治区]]や[[カザフスタン]]・[[キルギス]]・[[ウズベキスタン]]など[[中央アジア]]に居住している<ref name="population">{{Cite web|url=http://www.joshuaproject.net/peoples.php?peo3=15755|title=Joshua Project - Uyghur Ethnic People in all Countries|accessdate=2012-07-12}}</ref>。人口は約1千万人<ref name="population" />。[[テュルク諸語]]の[[ウイグル語]]を話す[[ムスリム]](イスラム教徒)である<ref name="CNN20050421">{{Cite web|url=http://www.cnn.com/2005/WORLD/asiapcf/04/20/eyeonchina.xinjiang/index.html|title=CNN.com - Xinjiang: On the new frontier - Apr 21, 2005|accessdate=2012-07-24}}</ref> 。
 
 
 
本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。
 
 
 
== 呼称 ==
 
=== 古代中国での呼称 ===
 
中国史書では、'''袁紇'''<ref name="gisho">『[[魏書]]』太祖武帝紀・列伝第九十一 高車</ref><ref name="hokushi86">『[[北史]]』列伝第八十六 高車</ref>,'''烏護'''<ref name ="shintoujo-jou">『[[新唐書]]』列伝第一百四十二上 回鶻上</ref>,'''烏紇'''<ref name ="shintoujo-jou" />,'''韋紇'''<ref name="zuisho">『[[隋書]]』列伝第四十九 北狄</ref><ref name="hokushi87">『[[北史]]』列伝第八十七 鉄勒</ref>,'''迴紇'''<ref name ="kyuutoujo">『[[旧唐書]]』列伝第一百四十五 迴紇</ref>,'''回紇'''<ref name ="shintoujo-jou">『[[新唐書]]』列伝第一百四十二上 回鶻上</ref><ref name="shintoujo-ge">『[[新唐書]]』列伝第一百四十二下 回鶻下</ref>,'''迴鶻'''<ref name ="kyuutoujo" />,'''回鶻'''<ref name="shintoujo-jou" /><ref name="shintoujo-ge" />などと表記されてきた。
 
 
 
=== 突厥碑文による表記 ===
 
やがてテュルク系遊牧民自身でも文字([[突厥文字]])を使って物事を記すようになると、[[ファイル:Old turkic letter R1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter G1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter Y1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter O.png|10px]](Uyγur)<ref name="Tes">『[[テス碑文]]』。「[[ファイル:Old turkic letter R1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter G1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter Y1.png|10px]][[ファイル:Old turkic letter O.png|10px]]」は右から左へ読む。</ref>と表記した。
 
 
 
=== イルハン朝における表記 ===
 
[[イルハン朝]]の政治家[[ラシードゥッディーン]]はその著書『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ([[集史]])』の「ウイグル部族志」において、「ウイグル」とは[[テュルク諸語|テュルク語]]で「同盟」・「協力」の意であると記している。
 
<ref>ドーソン/佐口 1968,p326</ref>
 
 
 
=== 「新疆」 ===
 
現代ウイグル人の祖先と仮託されているウイグル人は自らの民族をテュルクと呼び中核集団をウイグルと呼んだが、[[トランスオクシアナ|マーワラーアンナフル]]や[[タリム盆地]]の[[オアシス]]都市の住民は、都市国家単位での緩い民族名称しかもたず、異教徒に対しては[[ムスリム]]、他所者に対して[[イェルリク]](土地の者)と呼ぶ程度であった<ref name="moriyasu2007-32"/><ref name="ooishi" />。
 
 
 
モンゴル帝国、[[ジュンガル]]への服属を経て、[[18世紀]]半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」また「新しい土地」を意味する「[[新疆ウイグル自治区|新疆]]」と呼ばれた。その後ロシアが[[中央アジア]]に進出し、[[1881年]]に[[中央アジア|トルキスタン]]を併合すると、清朝は[[1884年]]にタリム盆地・ジュンガル盆地を纏めて[[新疆省]]を設置した(1884-[[1955年]])。
 
 
 
=== ウイグル(維吾爾) ===
 
[[1921年]]、ソ連[[トルキスタン]]地方のタリム盆地出身者が「ウイグル」という呼称を用い始めたことをうけて、親ソ派でタリム盆地・ジュンガル盆地・東トルキスタン(イリ地方)一帯に[[新疆派|独立的な軍閥]]を形成した[[盛世才]]政権が、[[1934年]]に「ウイグル」という呼称と「維吾爾」の漢字表記を定めた。この呼称は[[中華人民共和国]]にも引き継がれている(維吾爾族、维吾尔族)<ref name="komatsu2000-376-377" />。
 
 
 
==民族・定義==
 
{{See also|テュルク系民族}}
 
[[ファイル:Verbreitungsgebiet der Turkv lker 1.PNG|thumb|250px|[[テュルク系民族]]の分布。]]
 
[[ウイグル語]]は[[テュルク諸語]]であるため、ウイグル人は[[テュルク系民族]]に属する。なお、テュルク系民族(トルコ民族)とは、「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる[[突厥]]、[[鉄勒]]、ウイグル、[[カルルク]]、[[バスミル]]、[[沙陀族]]などを一括りにした呼称」と定義される<ref name="moriyasu2007-30">{{harvnb|森安|1997|p=30}}</ref>。
 
 
 
森安孝夫(歴史学者)は、古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目の[[モンゴロイド]]であった<ref name="moriyasu2007-30" />としている。唐代末期に[[モンゴル高原|モンゴリア]]〜[[アルタイ]]地域を本拠としていた[[回鶻]](ウイグル・カガン国)が崩壊し、遺民の一部が甘州や[[天山山脈]]一帯から[[タリム盆地]]へ移動する<ref name="moriyasu2007-30" />。それによって、タリム盆地に先住していたトカラ語や西南部の東イラン語の話者<ref name="arakawa2010">{{harvnb|荒川|2010}}, 1部1章1</ref>がテュルク語化<ref name="tokketsuyokaikotsushi">『突厥与回紇史』中編8章4</ref>した<!--当時のトルキスタンはアルタイ山脈・パミール以西を指す『Hudud al-'Alam』、これらの地域は[[ペルシア語]]で「[[トルキスタン]]」(トルコ語を話すひとびとの土地)と呼ばれるようになる<ref name="moriyasuktoruko"/>-->。なお、テュルク民族が先住の非古テュルク語話者<ref name="arakawa2010" />の住民を虐殺したのではなく、共存していたといわれ、形質的特徴も多様である<ref name="moriyasu2007-30" />。
 
 
 
こうした言語からの[[民族]]の定義ではなく、近代的[[民族]]概念の観点からすれば、当時の住民は同じ民族意識をもっていたわけではない<ref name="moriyasu2007-30" />。たとえば、「民族集団」としてはモンゴル時代に被支配集団となったウイグルの残部でイスラム化した[[タリム盆地]]周辺のトルコ(テュルク)人や、[[カラハン朝]]下でイスラム化したトルキスタンのトルコ人は、それぞれの居住地である[[オアシス都市]]ごとに自己認識していた(「[[トルファン市|トルファン]]人」、「[[クチャ]]人」、「[[カシュガル市|カシュガル]]人」、「[[サマルカンド]]人」、「[[ブハラ]]人」など)。このようにタリム盆地周辺のオアシス定住民は固有の民族名称を持たず、異教徒に対しては「[[ムスリム]]」、異邦人に対しては「[[イェルリク]](土地の者)」と自己を呼称していた<ref name="moriyasu2007-32" /><ref name="ooishi">{{harvnb|大石|2003}}</ref>。
 
 
 
20世紀に入って、[[ロシア革命]]により成立した[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]は、民族政策として「民族別の自治」を掲げた。[[トルキスタン]]でも遊牧諸集団やオアシス都市の定住民の間に「民族的境界区分」が引かれ、諸民族が「設定」されていった。当時、トルキスタンには、[[1881年]]の[[イリ条約]]の締結の際にロシア領に移住したイリ地方の東トルキスタン出身者が多数いたが、彼らは[[東トルキスタン]]の政治的統一を志向する際に、古代の「ウイグル」という民族呼称を再び見出し、1921年のアルマ・マタ会議で民族呼称として決定される(後述<ref name="ooishi" />)。[[森安孝夫]]によれば、このとき「本来ウイグルではない旧カラハン朝治下のカシュガル人・コータン人までもウイグルと呼ぶようになった」として「新ウイグル」は「古ウイグル」は異なるとしている<ref name="moriyasu2007-32" />。
 
 
 
この呼称は[[中華民国]]統治下の新疆省にも知られるようになり、[[1934年]]、[[盛世才]]政権は従来当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」からウイグルの音写である「維吾爾」への改称を決め、省府議会で正式にこの民族呼称を採用させた。「維吾爾」という漢字表記も正式に確定し現在に至っている<ref name="komatsu2000-376-377">{{harvnb|小松|2000|pp=376-377}}</ref>。
 
 
 
==創生伝承==
 
ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。[[アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー|アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー]]『[[世界征服者の歴史]]』([[1260年]]編纂)と[[ラシードゥッディーン]]『[[集史]]』([[1314年]]編纂完成)がある。
 
 
 
特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となった[[ノア (聖書)|ノア]](ヌーフ)の3人の息子[[セム]]、[[ハム (聖書)|ハム]]、[[ヤペテ|ヤフェト]]のうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。
 
 
 
;[[ラシードゥッディーン]]『[[集史]]』ウイグル部族誌(1314)
 
*伝承:「[[ノア (聖書)|ノア]]の子のアブルチャ・カン即ち[[ヤペテ|ヤフェト]]の子のディブ・バクイの子のカラ・カンの子の[[オグズ・ハン|オグズ]]( اوغوز پسر قرا خان پسز ديب باقوى پسر يافِث پسر نوح عليه السّلام  Ūghūz pisar-i Qarā-Khān pisar-i Dīp Bāqūy pisar-i Abūlja Khān Yāfith pisar-i Nūḥ `alaihi al-salam.)<ref name="shuushi-331">{{harvnb|Али-Заде|1968|p=331}}</ref><ref name="shuushi-138">{{harvnb|M. Rawshan|M. Mūsavī|1994|p=138}}</ref>は、唯一神([[アッラーフ|アッラー]])のみを信じたので、叔父達や兄弟から攻撃を受けたが、彼はその親族の一部の援助を受けて打ち破り彼等の領地を併合した。彼は大会を開き、親族・異姓の集団・戦士達を鎮撫し、共に戦った親族の人々に“ウイグル”の名を授けた」<ref name="shuushi-331" /><ref name="shuushi-138" />
 
*古代:「ウイグリスターン地方(wilāyat-i Ūyghūristān)には2つの非常に大きな山があり、ひとつはブクラト・ブズルク( بوقراتو بوزلوق Būqrātū-būzlūq)、もうひとつはウシュクンルク・タンクリム( اوشقون لوق تنكريم Ūšqūn-lūq-tankrīm)であった。そのふたつの間にはカラコルム山(kūh-i Qarāqūrum)が鎮座し、カアン(Qā'ān;[[オゴデイ]]のこと)が建てられた都市はその山の名前にちなんで呼ばれている。その山のそばにクト・タク( قوت طاق Qūt-ṭāq)と呼ばれている山がある。その山々の一帯には10本の河(が流れている)場所と、9本の河(が流れている)場所がある。古い時代には、ウイグル諸部族の居住地は、これらの諸河川や山々や荒野(ṣuḥrā-hā)にあった。この10本の河にすむものたちがおり彼らはオン・ウイグル( اون  اويغور Ūn Ūyghūr)と呼ばれ、9本の河にいるものはトグズ・ウイグル( توغوز اوغوز Tūghūz Ūyghūr)と呼ばれている<ref group="注">on はテュルク語で数詞の「10」の意味で、tuγuz は同じく数詞の「9」の意味である。</ref>。この10本の河はオン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)<ref group="注">M. Rawshan & M. Mūsavī,本に従う。Али-Заде本本文では最初のアリフには[[シャクル]]が振られていないので「アルグン(Arghūn)」とも読めそうだが、Али-Заде本335頁註3によると اورقون ūrghūnとしている写本もあるため、M. Rawshan & M. Mūsavī,本の読みに従った。</ref>と呼ばれている。それらの名前を以下に説明すると、اييشلك Aīīšlik(部族)、 اوتنكر Ūtinkar?(部族), بوقيز Būqīz(部族),اوزقندر Ūzqundur(部族),تولار Tūlār部,تاردار Tārdār(部族),ادر Adar(部族:もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族:もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族),اوتيكان Ūtīkān(部族)である。3本の河畔に9部が、次の4本の河畔に5部がいる。9本目の Qamlānjū の河沿いには オン部族( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10本目の河畔に قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz 部がある。<!-- 山の一帯に、([[鄂尔浑河]]<ref>古名をon-kün河、突厥語で十日の意味</ref>と支流の)10本の河が、別の地区に([[土拉河]]<ref>古名を独楽河、突厥語で9の意味</ref>と支流の)9本の河があり、ウイグル諸部はその河沿いにある山里や草原に住んでいた。オン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)河沿いのウイグルは'''オン・ウイグル'''と称し、土拉河地区のそれは'''トグズ・ウイグル'''と称した。on-kün河流沿いには(10姓ウイグル)<ref>「その10の河はオン・アルグン(Ūn-arğūn)と呼ばれていた。それらの名前を以下に説明すると、 اييشلك Aīīšlik(部族)、 اوتنكر Ūtinkar?(部族), بوقيز Būqīz(部族),اوزقندر Ūzqundur(部族),تولار Tūlār部,تاردار Tārdār(部族),ادر Adar(部族:もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族:もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族),اوتيكان Ūtīkān(部族)、前の3本の河畔に9部が、次の4本の河畔に5部が、9本目の Qamlānjū の河沿いには オン部族( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10本目の河畔に قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz 部がある」<ref name="shuushi-334-336">{{harvnb|Али-Заде|1968|pp=334-336}}</ref><ref name="shuushi-139">{{harvnb|M. Rawshan|M. Mūsavī|1994|p=139}} </ref> -->その他名称不詳の部を含め122部がそれらの河に有った。数世代経ったがウイグル諸部族には決まった君長(pādshāhī wa sar-varī)が居らず、各部が武力争奪を始めると別の集団から長を立てていた。後に各部が共同利益の為に会議を開き、全体に命令を発する1人の全権君主(pādshāhī muṭalliq-i amr ki bar hamganān nāfidh farmān bāshad)を自分達の中から出すことを決議。全会一致で満場の意を受けて、アビシュリク( ابيشلك Abīšlik)部から最も聡明なマングダイ( منكوتای Mankūtāī /ないしマング・バイ منكوباى Mankū-bāī )を選出、イル・イルテベル( ايل ايلتبر Īl-Īltabar)の称号を授けた。また、ウズクンドゥル(اوزقندر Ūzqundur)部から品質性格の良好な人物を選んでキョル・イルキン( كول ايركين Kūl-Īrkīn)の称号を授けた。彼等二人は全民族と諸部族の君主(pādshāh-i jumhūr wa aqwām)となり、彼等の一族(ūrūgh/uruq)が100年間統治した。」<ref name="shuushi-331-332">{{harvnb|Али-Заде|1968|pp=331-332}}</ref><ref name="shuushi-139-140">{{harvnb|M. Rawshan|M. Mūsavī|1994|pp=139-140}}</ref><!-- Фаз̤лалла̄х Рашӣд ад-Дӣн,  ''Джа̄миʿ ат-тава̄рӣх̮'', том. 1. часть. 1., критический текст А.А. Ромаскевича, А А. Хетагурова, А.А. Али-Заде (Москва, 1968) pp.331-332. Rawshan&Muṣṭafá Mūsavī校訂本では、オグズの祖父を ديپ ياقوی Dīp Yāqūy と綴っている。(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadānī, ''Jāmiʿ al-tavārīkh'',  ed. Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995] ), vol. 1.,  p. 139-140.--><ref name="saguchi1968-320-321">{{harvnb|ドーソン|佐口|1968|pp=320-321}}</ref>
 
 
 
;[[アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー|アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー]]『[[世界征服者の歴史]]』(1260)
 
*「[[カラコルム]]から発する[[トール川|トグラ河]]と[[セレンガ川]]が合流するカムランジュ( قملانجو Qamlānjū)に双樹があった。<!--ひとつはクスク( قسوق Qusūq)と言われ、松に似て糸杉のように常緑で松毬(まつかさ)を持ち、もうひとつの方は野生の松だった。この-->双樹の間の丘に天から光が降り注ぎ、日ごと丘は大きくなった。<!--この不思議を見てウイグル人が畏れ近づいてみると、人の歌のような調子の良い音が聞こえ、夜は夜で周囲30歩の間は明々と輝いていた。-->やがて丘陵が開き、[[テント|天幕]]張りの5つの部屋が現れると<!--たが、それらの上には1本の銀線が張られてあった。そしてその-->各々に一人の子供が座っていた<!--おり、口の上にかかった管で哺乳されていた。族長たちは驚いて来てみると、この奇蹟を怪しみ畏れた。5人の子供は空気に触れると動き始め、その房室から出たので、人々は食物を与えた。彼らが話すようになると、その父母を尋ね求めたので、人々は彼らにかの双樹を示した。彼らはそこへ行くと、あたかも幼児が親に対するかのような敬意を表した。樹は口をきき、彼らにもっとも尊重すべき性質を涵養(かんよう)するよう忠告し、また名誉を得て長生きするよう望んだ-->。5人の子供はこの土地の人々から王子と同じように尊敬され、長男は'''ソンクル・テギン'''( سنقر تكين Sunqur Takīn /Sonqur Tegin),次男は'''クトル・テギン'''( قوتر تكين Qūtur Takīn/Qotur Tegin),三男は'''ブカク・テギン'''( توكاك تكين Tūkāk Takīn/Tükel Tegin),四男は'''オル・テギン'''( اور تكين Ūr Takīn /Or Tegin),五男は'''[[ボー・ハーン|ブク・テギン]]'''( بوقو تكين Būqū Takīn/Buqu Tegin)と命名された。ウイグル人は彼らが天より降臨したものと信じ、彼らの一人を君主に戴くことにした。そこで、末子のブク・テギンが美貌と才智に最も秀で、あらゆる言語と文字に通じていたので、ウイグル人は彼を推戴して[[ハーン|カン]]( خان Khān)とし、大祭を催して玉座に就かせた」<ref>{{harvnb|Qazwíní|1912|pp=40-41}}</ref><ref>{{harvnb|Boyle|1958|pp=55-57}}</ref><!-- ʿAlā al-Dīn ʿAtā-Malik Juvainī, ''The Taʾríkh-i-jahán-gushá of ʿAláʾu ʾd-Dín ʿAṭá Malik-i-Juwayní'', ed. Mírzá Muḥammad Qazwíní, vol. 1, (Layden, 1912), p. 40-41. ;  ''The History of the World-Conqueror  by ʿAla-ad-Din ʿAta-Malik Juvaini'', translated from the text of Mirza Muhammad Qazvini by John Andrew Boyle. vol. 1, (Manchester, 1958) , p. 55-57. --><ref name="saguchi1968-320-321" />
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古代 ===
 
{{See also|東アジア|中央アジア|中央ユーラシア|遊牧民}}
 
歴史上、ウイグルを含む[[モンゴル高原]]や[[中央アジア]]の[[遊牧民|遊牧民族]]はユーラシア大陸内陸部を拠点として[[遊牧国家]]を形成しつつ征服先に[[オアシス国家]]なども形成した<ref>{{harvnb|間野|1977}}</ref>。その活動領域は[[北アジア]]の[[モンゴル高原]]から中央アジア,[[イラン高原]],[[アゼルバイジャン]],[[コーカサス|カフカス]],[[キプチャク草原]],[[アナトリア半島|アナトリア]]を経て[[東ヨーロッパ]]の[[バルカン半島]]にまで及んだ。[[匈奴]],[[サカ]],[[スキタイ]]の時代から、[[パルティア]],[[鮮卑]],[[柔然]],[[突厥]],[[回鶻]],[[セルジューク朝]],[[モンゴル帝国]]などを経て近代に至るまで[[ユーラシア大陸]]全域の歴史に関わり、[[騎兵]]に裏打ちされた軍事力と[[交易]]で歴史を動かしてきた。
 
 
 
[[中国]]史料では[[狄]](古音ティク。または翟)と記される民族が[[テュルク系民族]]または遊牧民に関する最古の記録とされ、狄は'''赤狄''','''白狄'''などに分かれていた。[[狄]]は[[殷]]・[[周]]代に中国の北方([[山西省]]・[[河北省]])に割拠していたが、度々農耕民との間で戦争を交えた。[[春秋時代]]には[[衛]]・[[鄭]]・[[晋 (春秋)|晋]]などと折衝した。[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に[[中山国]]を建てるが[[紀元前296年]]に[[趙 (戦国)|趙]]によって滅亡する。その後この遊牧民族は[[中原]]からは姿を消し、紀元前4世紀頃には北方の南モンゴルにいた[[匈奴]]が中国文献に登場する<ref>『戦国策』、『史記』趙世家</ref>。
 
 
 
他方、古代の[[タリム盆地]]地域には古[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[トハラ人]]が居住し[[疏勒]],[[亀茲]],[[焉耆]],[[高昌]],[[楼蘭]]などの[[都市国家]]が[[交易]]により栄えたが、しばしば[[遊牧国家]]の[[月氏]]や[[匈奴]]などの支配下に入った。1世紀になると匈奴は分裂し、南匈奴は[[後漢]]に服属、北匈奴は後漢,[[烏桓]],[[鮮卑]]によって滅ぼされた。<!--3世紀後半から4世紀初頭に、[[西晋]]で[[鐙]]が発明されている。なお[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]を経て300年ぶりに中国を統一した[[隋]]の楊氏や[[唐]]を建国した[[李淵]]の祖先を辿ると関隴閥の[[鮮卑]]族出身といわれる。-->
 
 
 
====高車(袁紇部)====
 
[[File:东晋(16 Kingdoms).jpg|thumb|250px|五胡十六国時代の高車の位置]]
 
丁零人は[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に[[北魏]]から[[高車]]と呼ばれるようになる。「高車」とは4~6世紀の中国[[南北朝時代 (中国)|北朝]]におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する<ref name="gisho" /><ref name="hokushi86" />。
 
 
 
====柔然・北魏時代====
 
袁紇部は、モンゴル高原をめぐって[[拓跋部]]の[[代 (五胡十六国)|代国]]や[[北魏]]と争っていたが、後に台頭してきた[[柔然]]に4世紀末から5世紀初頭に[[柔然]]可汗国に従属した。また[[北魏]]と数度戦い、[[390年]]、道武帝の北伐で大敗を喫し<ref group="注">《『魏書』道武帝紀》「[[390年]]に道武帝が北伐を行って高車袁紇部を大いに破り、多数の奴隷と馬牛羊20万頭余を得る」</ref>、[[429年]]に北魏が[[外蒙古|漠北]]へ遠征して柔然を打ち破ると、高車諸部族は北魏に服属し[[内蒙古|漠南]]へ移住させられた。一時期、高車諸部は[[孝文帝]]の南征に従軍することに反対し、'''袁紇樹者'''を主に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。
 
 
 
[[487年]]、高車副伏羅部の[[阿伏至羅]]は柔然の支配から脱し、独立を果たす([[高車|阿伏至羅国]])。阿伏至羅国は柔然や[[エフタル]]と争ったが、[[6世紀]]に柔然に敗れて滅亡した。
 
<ref>『魏書』</ref>
 
====突厥時代====
 
{{Main|突厥}}
 
[[東ローマ帝国]]の史料である[[テオフィラクト・シモカッタ]](Theophylact Simocatta)の『歴史』にも「テュルク」として記されている。突厥は自らの言語(古テュルク語)を自らの文字([[突厥文字]])で記し、各地に[[突厥碑文]]を残した。
 
 
 
[[582年]]に突厥は[[東突厥]]と[[西突厥]]に分裂し、[[8世紀]]になるとウイグルがカルルクと共に突厥を滅した。
 
[[ファイル:Asia 600ad 2.jpg|thumb|280px|[[7世紀]]の東西突厥(Gokturk Khaganate)。[[隋]]、[[吐谷渾]](Tuyuhun)、[[サーサーン朝]]ペルシア。]]
 
 
 
===中世===
 
====鉄勒の回紇部の台頭====
 
6世紀~7世紀の鉄勒時代には'''烏護'''<ref name="shintoujo-jou" />,'''烏紇'''<ref name="shintoujo-jou" />,'''韋紇'''<ref name="zuisho" /><ref name="hokushi87" />などと記され、やがて'''迴紇'''<ref name="kyuutoujo" />,'''回紇'''<ref name="shintoujo-jou" /><ref name="shintoujo-ge" />と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に対し、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
 
 
 
[[隋]]代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88000、以東に11部・勝兵20000)は、[[唐]]代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を[[薛延陀]]部と争った。
 
 
 
[[648年]]に部族長の[[吐迷度]]が、姪である突厥の[[車鼻可汗]]と血縁にあった親突厥の[[烏コツ|烏紇]]と倶羅勃に謀殺される動乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗った。
 
 
 
7世紀後半に[[東突厥]]が再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、[[734年]]に[[毘伽可汗]](ビルゲ・カガン)が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、[[741年]]に[[懐仁可汗|骨力裴羅]](クトゥルグ・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗である[[白眉可汗]]を殺して突厥可汗国を滅ぼした。
 
<ref>『旧唐書』、『新唐書』</ref>
 
 
 
====ウイグル可汗国====
 
[[ファイル:East-Hem 800ad.jpg|thumb|250px|820年時点の版図]]
 
{{main|回鶻}}
 
744年、クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(- [[840年]])。回鶻可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たな[[モンゴル高原]]の支配者となった。
 
 
 
以後、彼ら回紇の筆頭氏族である薬羅葛([[ヤグラカル氏|ヤグラカル]])氏によって可汗位が継承された。唐との[[絹馬貿易]]や[[東ローマ帝国]]との[[シルクロード]]交易によって莫大な利益を上げた。また唐が[[安史の乱]]の勃発により西域の経営から手を引くと<ref name="chen">{{harvnb|陳|1991}}, 9章3</ref>、ウイグルは西域を巡って[[吐蕃]]と数十年に渡る戦いを繰り広げた。
 
 
 
====安史の乱====
 
[[755年]]、[[突厥]]出身の唐の軍人[[安禄山]]が反乱を起こし([[安史の乱]])、首都長安を占領する。[[粛宗 (唐)]]から[[回鶻]]に援軍が要請され、756年に[[葛勒可汗]]・[[葉護太子]]率いるウイグル軍と唐軍の連合軍は反撃を開始、757年11月に[[長安]]を奪回する。[[762年]]、唐の[[代宗 (唐)|代宗]]が安禄山の残党[[史朝義]]を討伐するため、ブグ・カガン([[牟羽可汗]])に対して再度援軍を要請してきたが、史朝義の唐侵攻の誘いに応じたブグ・カガンはウイグル軍10万を率いて[[ゴビ砂漠]]を南下。ウイグル軍に遭遇した唐の使節[[劉清潭]]から、唐への侵攻を踏みと止まるよう説得されたが拒絶した<ref name="moriyasu2007-293">{{harvnb|森安|2007|p=293}}</ref>。唐朝廷は震撼するが、[[僕固懐恩]]の娘のカトゥン(可敦)がブグの[[皇后]]であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得し<ref name="moriyasu2007-293" />、ウイグルは唐との連合を決定する。ウイグル・唐連合軍は洛陽を奪回し、史朝義は[[763年]]正月に追撃を受け自殺、8年に及ぶ安史の乱を終結させた。
 
 
 
====ウイグル・唐・吐蕃====
 
[[789年]]、[[吐蕃]]軍がウイグルに服属していた[[白服突厥]]と[[カルルク]]を引き込んで[[北庭大都護府]]を襲撃、現地のウイグル・唐軍は敗北した<ref name="moriyasu2007-349">{{harvnb|森安|2007|p=349}}</ref>。ウイグル軍はモンゴリアまで撤退し<ref name="moriyasu2007-349" />、ウイグル側にいた沙陀部も吐蕃に降った。この[[北庭争奪戦]]は792年まで続くが、最終的にウイグル軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。[[トルファン盆地]]とタリム盆地北部がウイグルの領国となった<ref name="moriyasu2007-350">{{harvnb|森安|2007|p=350}}</ref>。なお[[懐信可汗]](在位:[[795年]] - [[805年]])の代に[[マニ教]]が[[国教]]化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。
 
 
 
その後も吐蕃との戦争は続くが、[[821年]]にウイグル、吐蕃、唐の間に[[長慶会盟|三国会盟]]が締結された。この長慶会盟は従来、吐蕃と唐との停戦協定とされていたが、近年、[[森安孝夫]]が[[敦煌文献|敦煌文書]]の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した他、中国の[[李正宇]]も[[サンクトペテルブルク]]で[[敦煌文献|敦煌文書]]断片Dx.1462に同内容の文言を発見したため、ウイグル・、吐蕃・唐の三国間協定であったとされる<ref name="moriyasu2007-350" />。当時のウイグル・唐・吐蕃の国境は、[[清水県]]の[[秦州]]や[[天水]]と、[[固原]]([[原州]])をむすぶ南北の線が、唐と吐蕃の国境線で、東西に走る[[ゴビ砂漠]]が、ウイグルと吐蕃の国境であった。なお、ゴビ=アルタイ東南部の[[セブレイ]]にある[[セブレイ碑文]]が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる<ref name="moriyasu2007-353">{{harvnb|森安|2007|p=353}}</ref>。
 
 
 
====遊牧ウイグル国家の崩壊とその後の分散====
 
[[840年]]、ウイグルは内乱と[[キルギス]]族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊した<ref name="heibon">「世界大百科事典」平凡社1988(2007)所収「ウイグル族」記事。</ref>。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代の[[オングート]]となる<ref name="heibon"/>。
 
一部は[[吐蕃]],[[安西大都護府|安西]]へ逃れ、西の天山方面の[[カルルク]](葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初の[[イスラム王朝|イスラーム王朝]]である[[カラハン朝]]を建国した。甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてる<ref name="heibon"/>。他の主力となる一派は、東部天山の[[ビシュバリク]]([[北庭]])、[[焉耆回族自治県|カラシャール]]([[焉耆]])、[[トルファン市|トゥルファン]](高昌)を制圧し、[[タリム盆地]]周辺をかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建国する<ref name="heibon"/>。
 
 
 
====甘州ウイグル王国====
 
{{main|甘州ウイグル王国}}
 
滅亡したウイグル遺民の一部は[[河西回廊|河西]](現在の[[甘粛省]])に逃れて割拠し、[[甘州]]([[張掖市|張掖]])を中心に甘州ウイグル王国(甘州回鶻)を形成、[[1028年]]の[[タングート]]による甘州陥落まで勢力を保った<ref>『旧五代史』、『宋史』</ref>。
 
 
 
====天山ウイグル====
 
[[Image:Manicheans.jpg|thumb|right|180px|[[ソグド語]]によるマニ教典断簡([[トルファン市|トルファン]]・[[高昌故城]]出土)]]
 
{{main|天山ウイグル王国}}
 
安西に割拠した集団が天山ウイグル汗国を建国すると、定住化して「ウイグル(Uyghur)」とか「トゥグズグズ(Tughuzghuz)」などと呼ばれた。彼らは遊牧していた時代から[[ソグド人]]の影響を受け[[マニ教]]を尊崇していた。天山ウイグル王国では、[[仏教]]、[[ネストリウス派]][[キリスト教]]なども信仰され、高昌漢文化などを形成した<ref name="heibon"/>。タリム盆地に先住していた[[住民]]はこうして'''ウイグル化'''・'''トルコ化'''された<ref name="heibon"/>。
 
 
 
10世紀以降は、西から[[イスラム教|イスラーム教]]が普及してきたが、タリム盆地周辺東部では仏教が根強く、イスラム教国である[[西遼|カラ・キタイ]]([[西遼]])や[[モンゴル帝国]]に服属している間や地域のイスラム化が進行した14-16世紀の[[チャガタイ・ハン国]]の時代にも一般に仏教徒がいた<ref name="heibon"/>。
 
 
 
====12世紀:西遼への服属====
 
[[12世紀]]に入って、東から滅亡した[[遼]]の遺民である[[耶律大石]]が来るとウイグルは兵を提供して服属を誓い、西遼(カラ・キタイ)の建国を援けた<ref>『遼史』</ref>。
 
 
 
====モンゴル帝国時代のウイグル&#39385;馬王家====
 
[[13世紀]]に[[モンゴル高原]]で[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]が勃興すると、[[1211年]]にウイグル王(イディクト)'''[[バルチュク・アルト・テギン]]'''は帰順した。
 
 
 
チンギスは彼の帰順を歓迎して息女の一人'''[[アル・アルトン]]'''(『[[集史]]』では[[イル・アルタイ]] Īl-Altaī)を娶らせ&#39385;馬([[キュレゲン]])とした<ref>『元朝秘史』による</ref>。またバルチュク国王は[[ジョチ]]などチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された<ref>『[[世界征服者の歴史]]』</ref>。
 
 
 
以後の[[モンゴル帝国]]でウイグル王家は「'''ウイグル&#39385;馬王家'''」として[[コンギラト&#39385;馬家]]と並ぶ、'''&#39385;馬王家筆頭'''と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る。
 
 
 
モンゴル帝国および[[元 (王朝)|大元大蒙古国]]では、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出した。この時代、ウイグル王国地域を指して「ウイグリスタン(Ūyghristān)」と呼ばれた<ref>『[[世界征服者の歴史]]』や『[[集史]]』など</ref>。
 
 
 
===近世===
 
====ジュンガル====
 
{{Main|ジュンガル}}
 
 
 
;ジュンガルの創世神話とウイグル創世神話
 
ジュンガルの創世神話は樹木モチーフ<ref group="注">[[ガワンシャラブ]]の『[[四オイラト史 (ガワンシャラブ)|四オイラト史]]』「ドルベト、ジューンガルの一族は天から出た。管(チョルゴ)状の樹の下に幼児がおり、その樹液を吸って育ったので、その子孫をチョロースという」</ref>においてウイグル創世説話に類似しており、そのためジュンガルはウイグルの後裔ともされる<ref group="注">ほか、住地から[[ナイマン]]部族の後裔とも。{{harvnb|宮脇|2002|p=190}}</ref>。ジュンガルの首都は[[グルジャ市|グルジャ]]であった。
 
 
 
;タランチ移民
 
ジュンガルはタリム盆地周辺のオアシス住民をイリに移住させ、農耕に従事させた。これがのちに[[タランチ]](Taranchi)という集団となる<ref group="注">カルムク語のtaran (耕地、種子、穀物)に由来し、「播種人」を意味する。{{harvnb|大石|2003}}; {{harvnb|羽田|1982|p=253}}</ref><ref name="ooishi">{{harvnb|大石|2003}}</ref>。タランチ集団はのちに1864年に清朝へ反乱を起し、さらにロシアがイリを占領後、1881年に清朝へ同地域が返還される際、報復をおそれロシア領へ移住している<ref name="ooishi"/>。
 
 
 
====ジュンガルと清の戦争====
 
[[1688年]]、ジュンガルは東モンゴリア([[外蒙古|外モンゴル]])の[[ハルハ|ハルハ部]]に侵攻する<ref name="imatani2000-74">{{harvnb|今谷|2000|p=74}}</ref>。敗れたハルハ部のトシェート・ハーンは[[清]]の[[康熙帝]]に保護を求めた。[[1690年]]にはガルダンの甥の[[ツェワンラブタン]]が反乱を起こし、[[イリ地方]]とタリム盆地を制圧して清と結ぶ。
 
 
 
ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、[[ウランプトゥン]]<ref name="imatani2000-74" />(ウラン・ブトン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突する([[ウラン・ブトンの戦い]])。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していた<ref name="imatani2000-74" />が決着がつかず、ガルダンは漠北へ退いた。1693年にはハミのダルハン=ベク、アブド=アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近した<ref name="imatani2000-77">{{harvnb|今谷|2000|p=77}}</ref><ref name="hanada1982">{{harvnb|羽田|1982}}</ref>。[[1696年]]、康熙帝はジュンガル親征を開始し、ガルダンを[[チャオモード]](昭莫多)で破った<ref name="imatani2000-74" />({{仮リンク|ジョーン・モドの戦い|ru|Битва на Тэрэлже (1696)}}<ref name="okada2012">{{harvnb|岡田|2012}}</ref>)。敗走したガルダンは[[1697年]]4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死した<ref name="imatani2000-74"/>。ガンダルの息子タンチラはハミに亡命したがアブド=アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年ハミ地区は清の版図となった<ref name="imatani2000-77" />。
 
 
 
ジュンガルは[[ツェワンラブタン]]統治下、ロシア経由で工業化も進めた<ref name="imatani2000-78-79">{{harvnb|今谷|2000|pp=78-79}}</ref><ref name="haneda1942">{{harvnb|羽田|1942}} 7巻3号</ref>。[[北方戦争]]でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官[[ヨハン・グスタフ=レナット]]はイリで1732年まで軍事技術供与に携わっている<ref name="imatani2000-79">{{harvnb|今谷|2000|p=79}}</ref><ref name="yano1925">{{harvnb|矢野|1925}}</ref>。1715年、ツェワンラブタンはハミを襲撃するが、失敗する。追撃する清軍は翌1716年、敦煌、ハミ、バリクルに[[屯田]]を開く<ref name="imatani2000-79-80">{{harvnb|今谷|2000|pp=79-80}}</ref>。
 
 
 
====清による占領====
 
[[1755年]]、清の[[乾隆帝]]は康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する<ref name="kagami2008-85"/>。1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた<ref group="注">『清史稿』に記録。{{harvnb|今谷|2000|pp=98-99}}</ref>。[[1759年]]、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した<ref name="kagami2008-85">{{harvnb|加々美|2008|p=85}}</ref>。
 
 
 
清朝政府は、[[1762年]]、[[天山山脈]]北部に[[イリ将軍]]府を設置し、[[八旗|旗人]]による軍政を敷いた。ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下の[[回部]]として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、[[回疆]])、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、[[新疆ウイグル自治区|新疆]])と呼ばれた。その一方、[[ムスリム]]社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「'''[[ベグ官人制]]'''」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された<ref name="komatsu2000-305-311">{{harvnb|小松|2000|pp=305-311}}</ref>。このベグ官人制は[[1884年]]の[[新疆省]]まで存続した。こうしたペグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝が[[満州民族|満洲人]]による政府であり、漢化しながらも[[漢民族]]ではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆)との間に「多重文明圏」を形成し、[[中華思想|華夷秩序]]に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたもされる<ref name="kagami2008-47">{{harvnb|加々美|2008|p=47}}</ref>。なお、イリ将軍府は[[辛亥革命]]後に廃止されている<ref name="kagami2008-85"/>。
 
 
 
ジュンガルを継承した清朝も[[1760年]]以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行っている<ref name="ooishi"/><ref name="saguchi253">{{harvnb|佐口|1986|pp=253-291}}</ref>。[[1764年]]には[[満州|満洲]]の[[シベ族]]兵士が新疆辺境守備を命じられ移住した<ref name="chen1982">{{harvnb|陳|1982|pp=3-7}}</ref>。
 
 
 
====コーカンド・ハン国====
 
18世紀後半から[[中央アジア|トルキスタン]]の[[フェルガナ盆地]]を中心に[[コーカンド・ハン国]]が台頭する。清とコーカンド・ハン国の間で、コーカンド商人に対するハン国の徴税権などを付与する条約が交わされていたが、清はコーカンド・ハン国の敵対行為(武装蜂起の扇動など)に対して、19世紀初頭に新疆でのコーカンド・ハン国商人の活動の規制をはじめる<ref>『清史稿』</ref>。
 
 
 
=====ジャハーンギールとホージャ復古運動=====
 
[[1814年]]には、[[カシュガル・ホージャ家]]の[[ブルハーン・アッディーン]]の孫である[[ジャハーンギール・ホージャ|ジャハーンギール]]が、利権確保の為に[[ホージャ]]復活を掲げ、侵略を進めた<ref name="komatsu2000-310">{{harvnb|小松|2000|p=310}}</ref>。ホージャとは[[スーフィー]]の[[ナクシュバンディー教団]]に由来し、17世紀頃よりタリム・ジュンガル盆地でも指導者の称号として用いられ、ジャハーンギールはアク・タグルク(白山党)のホージャであった<ref name="komatsu2000-303-304">{{harvnb|小松|2000|pp=303-304}}</ref>。[[コーカンド・ハン国]]の[[ムハンマド・アリー・ハーン]]も、ジャハンギールを支援し、カシュガル、[[ヤルカンド県|ヤルカンド]](現・新疆ウイグル自治区莎車県)を占領し、清軍を放逐した<ref name="komatsu2000-310">{{harvnb|小松|2000|p=310}}</ref>。その後、コーカンド・清両国の交渉でコーカンドに与える権利の交換条件として反乱を煽ったジャハーンギールは逮捕されるが、1826年5月、フェルガナ盆地の地震をきっかけに脱獄し、私兵を引き連れ[[カシュガル市|カシュガル]]を拠点に、[[ヤルカンド県|ヤルカンド]]、[[イェンギサール県|イェンギサール]]、[[ホータン市|ホータン]]を占領する。清は[[イリ将軍]]の[[長齢]](チャンリン)、[[陝甘総督]]の[[楊遇春]]、山東巡撫[[ウルンガ]](武隆阿)、拡粛提督の[[斉慎]]に鎮圧を命じ、[[1827年]]の[[アクス市|アクス]]での戦いでジャハーンギール軍は敗北、[[1828年]]にジャハーンギールは[[北京市|北京]]で[[道光帝]]に処刑された<ref name="komatsu2000-310" />。当初ジャハンギールを支援したコーカンド国は、前記交渉後新疆内のコーカンド人に対する権利と引き換えに手を引いた。
 
 
 
ジャハーンギールの乱以降、清は禁輸政策をとる。これに対して1830年にコーカンド・ハン国はカシュガルを占領するが<ref name="komatsu2000-311">{{harvnb|小松|2000|p=311}}</ref>、清は戦乱をおそれ<ref name="imatani2000-128">{{harvnb|今谷2000|p=128}}</ref>、禁輸令を緩和する<ref name="komatsu2000-311" />。1832年にコーカンドのムハンマド・アリー・ハーンはイリ将軍に対して、ジャハーンギールを支持した住民の恩赦、没収された財産の返還、新疆のコーカンド人に対する支配権、新疆でのコーカンド商人への徴税権の承認を求めた<ref name="komatsu2000-311" />。[[道光帝]]は激怒するが、コーカンドの4要求のうち後の2つを認めた。
 
 
 
コーカンド・ハン国は、清朝から新疆でのコーカンド商人の保護だけでなく、新疆に居住するコーカンド商人からの徴税権と新疆における交易独占権を与えられた<ref>清史稿</ref>。
 
 
 
[[1840年]]からの[[アヘン戦争]]によって清が国力を衰退させると、新疆駐屯軍の経費も不足し、駐屯軍は北京政府に窮状を訴えるが、朝廷は現地でまかなえと返答するばかりであった<ref name="komatsu2000-312">{{harvnb|小松|2000|p=312}}</ref>。イリ将軍府(新疆政府)は臨時課税を行うが、これに反発して、ムスリム住民の反乱([[回民蜂起]])が勃発する<ref name="komatsu2000-312" />。
 
 
 
[[1850年]]から[[1864年]]にかけて[[太平天国の乱]]が中国全土で広がった。1856年には[[アロー戦争]]も勃発した。
 
 
 
[[1852年]]、ジャハーンギールの子[[ワリー・ハン]]が[[カシュガル市|カシュガル]]に侵入し、[[1857年]]には同地の占領に成功する。しかし、1850年頃よりロシアの南下がはじまり<ref>{{harvnb|小松|2000|pp=128-129}}</ref>、[[1865年]]、コーカンド・ハン国はロシア軍の侵攻を受ける。事実上の支配者のアリム・クーリーが戦死し、ワリー・ハンはカシュガルの[[ヤクブ・ベク]]のもとへと逃れる。
 
 
 
<!--回民の多くは非ウイグル族であり意味不明
 
====西北ムスリム大反乱====
 
{{Main|回民蜂起}}
 
19世紀後半には、清朝統治に対する不満から[[回族|回民]](ムスリム)による中国全土での[[回民蜂起]]が発生する<ref name="kyo" />。すでに1821年の[[雲南省]]で[[雲南パンズェーの乱]]が発生しておりすでに1853年の[[雲南省]]で[[パンゼーの乱]]が発生しており<ref name="imatani2000-133">{{harvnb|今谷|2000|p=133}}</ref>、[[1855年]]には楚雄府石羊廠で、楚雄府署の官憲知府が回民から徴兵したのに反発した漢族が回民を襲撃し、さらにそれへの報復として回民兵が[[昆明市|昆明]]郊外で漢族を虐殺、さらにそれへの報復として回民が昆明駐屯軍に虐殺される<ref name="imatani2000-133" />。この事件を受けて、各地のムスリムが蜂起し、1856年には臨安府の回民が漢族自警団によって皆殺しにされた<ref name="imatani2000-133" />。また、同1856年には[[杜文秀]]が大理など50余りの城市を陥落させ、清朝からの独立を主張し「スルターン・スレイマン」と名乗った。1860年には鶴慶、剣川、安寧を占領、翌年には保山、永勝、景東庁を陥落させ、雲南省の3分の2を占領した<ref>{{harvnb|今谷|2000|p=138}}</ref>。雲南省の清朝政府軍[[馬如龍]]は奪回戦を開始するが、鎮圧は進まず、清軍が大理を奪回するのは1872年だった<ref>{{harvnb|今谷|2000|p=139}}</ref><ref>{{harvnb|矢野|1925}}</ref>。
 
 
 
これらは[[西北ムスリム大反乱]]として発展し<ref group="注">矢野仁一や今谷明はこの雲南パンズェーの乱が西北ムスリム大反乱の先駆としてみなしている。{{harvnb|今谷|2000|p=136}}</ref>、[[1862年]]に陝西省と甘粛省で[[西北ムスリム大反乱]]<ref name="minzokumondai">『民族問題事典』平凡社、1995年。</ref> ([[回民蜂起]]) が発生する。漢族官憲による回族の弾圧、「[[洗回]]」と称して、平穏に過ごしていた回族市民らを[[虐殺]]したことが原因とされ、反乱は速やかに拡大した<ref name="minzokumondai"/>。非回民と回民の対立は雲南や大理での衝突以来、激化しており、[[涼州]] (現在の[[甘粛省]]) の大靖堡村の漢族が「[[洗回]]・屠回」と称して城中の回民の虐殺をはじめ、この「洗回」は周辺地域へ伝播していった<ref>{{harvnb|今谷|2000|p=136}}{{harvnb|今谷|2000|p=146}}</ref>。漢族を中心としてウズベク族・[[キルギス族]]・[[カザフ族]]のような[[テュルク系民族]]も蜂起に参加した。
 
-->
 
====回民蜂起====
 
19世紀後半には、清朝統治に対する不満から[[回族|回民]](ムスリム)による中国全土での[[回民蜂起]]が発生する<ref name="kyo" />。
 
*[[1863年]]3月17日、水定鎮近郊の三道河の回民200人がイリ地方の九つの砦の一つである塔勒奇(タルチ)城を攻撃したが、他の砦の清軍によって鎮圧された。
 
*しかし、翌1864年6月3日にはクチャの回民が蜂起し、砦を陥落させる。1864年(同治3年)6月26日に[[ウルムチ市|ウルムチ]]の回族[[妥明]]と[[索煥章]]らが指導して、反乱を起こす。回族蜂起軍は[[マナス県|マナス]]、[[ウス市|ウス]]を陥落させ、10月3日にウルムチの要塞を陥落させ、妥明は清真王と称した。1864年6月26日には、[[ヤルカンド県|ヤルカンド]]でも回族住民が蜂起した。
 
 
 
====イリ陥落====
 
{{Main|回民蜂起}}
 
陜西、甘粛で主に漢族からなるムスリムの回民が起こした反乱に乗じて、天山北路のイリ盆地ではカザフ族、キルギス族、ウズベク族が反乱を起こし、1864年11月10日に商業の中心地である[[グルジャ市|グルジャ]]と軍事・政治の中心地の恵遠城の両方で蜂起した。仏教徒の[[カルムイク人]]と[[シベ族]]は清朝側についた。グルジャは回民の軍勢が陥落させた。恵遠城の清軍は孤立し、北京と連絡を取るにはロシアを経由せざるを得なかった。恵遠城の清軍は12月12日の攻撃を撃退することに成功したが、反乱はジュンガリアの北部に広がった。これらの蜂起は、イリ政府の能力を超えたものであった。
 
 
 
*[[1865年]]正月、[[タルバガタイ地区]][[チョチェク市|チョチェク]]のモスクで清の役人とカルムイクの貴族が和平交渉を行おうとすると、回民の軍勢が襲撃し、2日間の戦闘の後、ムスリムがチョチェクの支配権を確立し、清軍の要塞は包囲された。カルムイク人の支援で清軍は秋までにタルバガタイ地区を奪回し、鎮圧に成功する。
 
 
 
清朝は反乱の鎮圧のために[[ロシア帝国]]に援助を求めたが、ロシア政府内部では、露清関係とムスリム国家が成立した場合との双方が議論され、結局ロシアは清軍のシベリア通過と恵遠城軍への穀物の売却を認めたのみであった。また[[1865年]]2月、[[セミレチエ州]]駐屯軍の[[ゲラシム・コラパコフスキー]]は東トルキスタンを植民地とすべきと主張している。
 
 
 
[[1865年]]4月、恵寧城がムスリム軍の攻撃を受けて、満州人・シベ族・[[エヴェンキ]]からなる8千人の守備隊は全滅し、恵寧城は[[1866年]]3月3日に陥落し、明緒将軍は自殺し、イリ地方は清朝の手から離れた。
 
 
 
==== ヤクブ・ベク政権 ====
 
[[ファイル:Veselovski-1898-Yakub-Bek.jpg|thumb|ヤクブ・ベク]]
 
{{Main|回民蜂起|ヤクブ・ベクの乱}}
 
[[1864年]]([[同治]]3年)夏、カシュガルで[[キルギス]]人の[[シディク・ベク]]が回民の[[金相印]]と蜂起した。翌[[1865年]]([[同治]]4年)、[[コーカンド・ハン国]]の[[アリム・クリー]]は、[[ヤクブ・ベク]]率いる軍団を派遣し、カシュガル・ホージャ家の[[ブズルグ・ホージャ]]([[ワリー・ハン]]の弟)とともにカシュガルに入り、シディク・ベク軍を撃破した。ヤクブ・ベクは1865年4月下旬の[[ヤルカンド県|ヤルカンド]]攻撃に失敗し、さらにクチャのラシッディーン・ホージャの軍に大敗した。ヤクブ・ベクは軍を整え、同年9月1日、清軍が守る[[カシュガル漢城]]を攻撃。カシュガル弁事大臣の[[奎英]]は自殺し、[[何歩雲]]ら投降した者はイスラム教への改宗を余儀なくされた。
 
 
 
[[1865年]]5月、[[タシュケント|タシケント]]に攻め込んできたロシア軍との戦いで[[コーカンド・ハン国]]のアリム・クリーは命を落とし、コーカンド・ハン国の兵はヤクブ・ベクに合流した。勢力が増大し、かつ[[イギリス]]や[[オスマン帝国|オスマン・トルコ]]からの援助を得た<ref name="mano-1977-198">{{harvnb|間野|1977|p=198}}</ref>ヤクブ・ベクはカシュガルとホータン、アクスを占領し、クチャ以外の天山南路を支配下に置く<ref name="kyo">『新編東洋史辞典』東京創元社、1980年。</ref>。こうして[[ヤクブ・ベク]]によって新疆の大半が清から離脱し、旧清朝領中央アジアの大半を支配するムスリム政権を樹立した<ref name="mano-1977-198" />。[[1867年]]、ヤクブ・ベクは[[バダウレト・ハン]]と名乗って名実ともに支配者となる。[[1867年]]5月にはクチャと[[コルラ市|コルラ]]を征服して天山南路を統一し、[[シャリーア]]に基づく統治を開始した。[[ブハラ・ハン国]]はヤクブ・ベクに対してアタリク・ガジ(信仰の守護者)の称号を与えた。
 
 
 
[[19世紀]]半ばには[[中央アジア]]をめぐって[[イギリス帝国|大英帝国]]と[[ロシア帝国]]との「[[グレート・ゲーム]]」が展開されており、すでにイギリスは[[1849年]]には英領インドを維持するためパンジャブ地方へ進出し、ロシア帝国は1853年にシルダリヤに進出していた<ref name="nagasawa2005-100">{{harvnb|長澤|2005|p=100}}</ref>。ロシア帝国は、[[1865年]]3月に[[タシュケント]](現在の[[ウズベキスタン]]の首都)へ侵攻、[[1867年]]に[[トルキスタン総督府]]を設置し、[[中央アジア]]への進出基地とした。1868年にはサマルカンドを占領して[[ブハラ・ハン国]]を占領する。1868年3月には[[コーカンド・ハン国]]はロシアとの間に保護条約を締結した。[[1868年]]、[[イギリス]]は新疆・チベット(当地方での英国の分離工作は一世期以上の長きに渡る)をロシアとインドとの緩衝地帯にする為、特使を派遣してヤクブ・ベク政権を承認し、以後ヤクブ・ベクはイギリスから武器供給を受ける。[[1870年]]、ロシアもヤクブ・ベク政権を承認した。
 
 
 
[[1870年]](([[同治]]9年)、ヤクブ・ベク軍は[[トルファン市|トゥルファン]]を攻略して新疆東部と[[河西回廊]]の連絡を断ち、[[白彦虎]]率いる陝西省・甘粛省の回民蜂起軍の残党を吸収し、[[1871年]]末までに妥明軍を破ってウルムチ・マナス・[[ピチャン県|ピチャン]]を占領した。そのため同年にはロシアがイリ地方への進駐に踏み切った。しかしヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、[[1872年]]には通商条約を締結<ref name="nagasawa2005-100" />して貿易を開始した<ref name="hei">『世界大百科事典 第28巻』平凡社、1988年。</ref>。[[1874年]]にはイギリスも通商条約<ref name="nagasawa2005-100"/>を結んで、大使を交換している<ref name="hei" />。さらにオスマン帝国の[[スルターン|スルタン]]の[[アブデュルアズィズ]]から[[アミール]]に封ぜられ<ref name="hei" />、軍事教官の派遣を受けた。
 
 
 
なおロシアは[[1873年]]には[[ヒヴァ・ハン国]]を占領。[[1874年]]には[[トルキスタン軍管区]]を設置。ロシアの保護国になったコーカンド・ハン国で内乱が起こるとロシア軍は[[1876年]]2月19日に侵攻、コーカンド・ハン国を滅ぼした。こうして[[3ハーン国]]をロシア帝国の保護国とし、[[フェルガナ盆地]]全域を支配下に収め、さらに[[1880年]]には遊牧集団[[トルクメン人]]を[[ギョクテペの戦い]]で制圧し、[[中央アジア|トルキスタン]]一帯をロシア帝国の支配下に組み入れた。
 
 
 
==== 清朝の新疆討伐 ====
 
[[ファイル:Zuo Zongtang2.jpg|right|thumb|200px|左宗棠]]
 
[[1872年]]([[同治]]11年)7月、清朝側は主戦派である[[左宗棠]]が兵を率いて[[蘭州]]に進駐し<ref>{{harvnb|今谷|2000|p=181}}</ref>、[[新疆ウイグル自治区|新疆]]討伐への準備を開始した。
 
 
 
;海防・塞防論争
 
しかし、[[1874年]]の[[日本]]による[[台湾出兵]]を受けて、沿海部各省は「台湾急なるを以て、西征を停解せん」と提議し<ref>{{harvnb|今谷|2000|pp=184-185}}</ref>、[[1875年]]([[同治]]13年・[[光緒]]元年)、新疆出兵について朝廷内で争議([[海防・塞防論争]])が発生した<ref name="komatsu2000-315">{{harvnb|小松|2000|p=315}}</ref>。[[李鴻章]]ら[[海防・塞防論争|海防派]]は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した<ref>{{harvnb|今谷|2000|p=185}}</ref>。[[海防・塞防論争|陸防派]]([[海防・塞防論争|塞防派]])である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した<ref>{{harvnb|今谷|2000|pp=186-188}}</ref>。
 
 
 
 
 
満州人の[[軍機大臣]]・[[文祥]]は左宗棠の建議を奏上<ref>{{harvnb|今谷|2000|p=187}}</ref>、朝廷の[[摂政]]<ref group="注">[[光緒帝]]は当時3歳のため、最終決定権は両太后、特に実権は西太后にあった。</ref>・[[西太后]]は左宗棠の塞防提案を裁可し、同1875年に左宗棠は新疆討伐の総司令<ref name="komatsu2000-315" />・[[欽差大臣]]に任命され、[[金順]]を副将に、新疆討伐が決まった。[[左宗棠]]は軍費[[白銀]]1千万両を朝廷に求め、国庫から5百万両が捻出され、諸外国から5百万両[[借款]]した<ref>{{harvnb|今谷|2000|p=189}}</ref>。ドイツのテルゲ商会が償還に協力したとされる<ref name="nishida1942">{{harvnb|西田|1942}}{{要ページ番号|date=2012-07-22}}</ref><ref name="imatani2000-189">{{harvnb|今谷|2000|p=189}}</ref>。左宗棠は武器製造工場の[[蘭州製造局]]を設立し、外国の技術を取り入れ新型兵器の製造に成功した<ref name="imatani2000-189" />。
 
 
 
[[1876年]]([[光緒]]2年)3月、左宗棠軍には[[湘軍]]の[[劉錦棠]]軍25営、張曜軍14営、[[徐占彪]]の蜀軍5営があり、これに新疆の各拠点の清軍を合わせ総数8万9000人となった<ref name="imatani2000-189" />。6月に劉錦棠軍がチムサに進駐し<ref name="imatani2000-190">{{harvnb|今谷|2000|p=190}}</ref>、ウルムチ近郊の[[ジムサル県|ジムサル]]を占領した。ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、[[馬人得]]・[[馬明]]・白彦虎らをウルムチなど要地に配備し、主力の2万人は[[トルファン市|トゥルファン]]と[[トクスン県|トクスン]]に、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たった。8月17日、清軍はウルムチ北部[[米泉市|米泉]]を制圧し、次いでウルムチを占拠し、さらに[[昌吉市|サンジ・シャヒリ]]と[[フトビ県|フトビ]]とマナス北城が陥落した。11月6日にマナス南城も陥落した。
 
 
 
翌[[1877年]]([[光緒]]3年)4月、清軍はウルムチを南下しダバンチェンの峠でヤクブ軍に壊滅的な打撃を与えた<ref name="komatsu2000-315" />。その後[[達坂城区|達坂城]]を砲撃、ヤクブ・ベク軍は投降した。清軍はトクスン、5月にはトゥルファンを制圧し、白彦虎はクチャへ逃亡する<ref name="imatani2000-193">{{harvnb|今谷|2000|p=193}}</ref>。ヤクブ・ベクは逃亡中の[[5月29日]]に死亡する<ref name="imatani2000-194">{{harvnb|今谷|2000|p=194}}</ref>。
 
 
 
ヤクブ・ベク死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長子[[ベク・クーリ・ベク]]が抵抗を継続するも、同年10月、清軍はクチャ、アクス、ウシュトゥルファン、11月にはカシュガルを占領し<ref name="imatani2000-194" />、12月下旬までに西の4城を陥落させた。1878年正月に清はイリ渓谷をのぞく新疆地方を再征服した<ref name="imatani2000-195">{{harvnb|今谷|2000|p=195}}</ref>。ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れた。この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在の[[ドンガン人]]である。
 
 
 
====清朝の戦後処理とロシアとの交渉====
 
イリ地方は、1871年以来ロシアの支配下にあったが、ロシアは[[クリミア戦争]]のため、清の進出に対抗できなかった<ref name="imatani2000-195" />。
 
 
 
1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日、[[黒海]]沿岸の[[リヴァディア (ウクライナ)|リヴァディア]]にある[[リヴァディア宮殿]]で十八カ条条約([[リヴァディア条約]])に調印した<ref name="imatani2000-196">{{harvnb|今谷|2000|p=196}}</ref>。しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7カ所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容だった<ref name="imatani2000-196-197">{{harvnb|今谷|2000|pp=196-197}}</ref>。清側では朝野の議論は沸騰し、[[左宗棠]]はロシアとの開戦を主張した<ref name="imatani2000-197">{{harvnb|今谷|2000|pp=197}}</ref>。結局、外交を担当した[[崇厚]]は[[西太后]]によって死刑を宣告されるが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚の死刑恩赦を進言、清は恩赦するにいたる<ref name="imatani2000-198">{{harvnb|今谷|2000|pp=198}}</ref>。
 
 
 
ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦を[[黄海]]へ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練ったうえで1880年4月、粛州を出発、ハミにいたり<ref name="imatani2000-198" />、ロシアと清の関係は緊張する。しかし、左宗棠は召還されロシアとの和平交渉が開始される、1881年2月、[[イリ条約]]が締結され、清朝が[[ザイサン湖]]周辺地方すなわち[[ホルゴス河]]以西のイリ西部をロシアに割譲し、イリの東側は清に返還されること、また賠償金も減額されロシア側へ900万ルーブルを支払うこと、粛州とトルファンにロシア領事館を設置することで合意された。この条約は不平等条約ではあったが、[[中央アジア]]地域の国境が画定され、この時の国境線は現在に至る<ref name="saguchi1986">{{harvnb|佐口透1986}}</ref><ref name="saguchi1963">{{harvnb|佐口|1963}}</ref><ref name="imatani2000-200">{{harvnb|今谷|2000|pp=200}}</ref>。
 
 
 
==== 新疆省設置 ====
 
イリ返還をうけて清朝は[[1884年]]に[[新疆省]]を正式に設置し、イリ地方を含めた新疆全体に[[中国本土]]並みの行政が布かれた<ref group="注">{{harvnb|佐口|1971}}及び{{harvnb|今谷|2000|pp=202}}には中国史上初の事態とあるが、『敦煌吐魯番文書与唐史研究』にも中国本土並みの行政の記述がある。</ref>。清が自治権を認める従来の[[ベグ官人制]]を廃止したため、ウイグル人は自治権を失い直接支配下に入った<ref group="注">『[[清史稿]]』同治光緒年間の大清皇帝並びに皇太后は満州民族であり、栄禄・崇厚・崇綺・裕禄・奎俊などの満州人が各地方の総督となっているが、<!--自治を取り上げられたウイグル人は、漢民族の植民地になった-->{{harvnb|今谷|2000|202}}、{{harvnb|羽田|1982|loc=§2}}<!--第二章「清朝の東トルキスタン統治政策」-->{{harvnb|王柯|1995|p=15}}<!--には新疆省設置について「民族自治の権利が剥奪され、ウイグル人は漢民族出身者による直接支配下に入った」とある。-->では漢民族による支配としている。</ref>。その後1940年代半ばまで新疆省省長は当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任した。新疆省政府役人は当地を「桃源郷」になぞらえたといわれる<ref name="wang1995-15-16">{{harvnb|王柯|1995|pp=15-16}}</ref>。歴史学者の[[王柯]]は、その後、新疆省指導者の交代も省政府内部の暗殺やクーデタによるもので、「この種の政権の交代劇においても、ウイグル人は何の役割も果たせなかった」という<ref name="wang1995-16">{{harvnb|王柯|1995|p=16}}</ref>。他方、入植した漢人人口が当時3000人程度であった新疆南部では、省政府の人事権が及ぶのは県レベルまでであり、県レベル以下の行政運営はウイグル人が当たった<ref name="wang1995-18">{{harvnb|王柯|1995|p=18}}</ref>。
 
 
 
==近現代==
 
{{main|東トルキスタン}}
 
 
 
===ソ連===
 
{{Main|トルキスタン}}
 
 
 
===ウイグルの呼称の復活===
 
西トルキスタンには、[[1881年]]のロ清[[イリ条約]]の締結の際にロシア領に移住した[[イリ]]地方を始めとする新疆北西部出身者が多数いた。また、ジュンガル時代に入植された農耕民の末裔である[[タランチ]]集団は清朝への反乱([[ヤクブ・ベクの乱]]など)に加担していたため、[[イリ]]地方が清朝へ返還されると、清朝政府の報復処罰を恐れ、多くのタランチはロシア領の[[セミレチエ州]]などに移住している<ref name="ooishi"/>。
 
 
 
[[日露戦争]]において、それまで国際的には小国とみなされていた[[日本]]が[[ロシア帝国]]に勝利すると、それに触発されて[[1908年]]には[[青年トルコ人革命]]が起きる。青年トルコ人革命以降、[[汎テュルク主義]]がトュルク系民族に大々的に流行し、そうしたテュルク主義に影響されを受けていた[[ナザル・ホジャ]](Na§ar khv±ja ‘Abd al-TMamad)というタランチ集団の記者が1913年に[[アルトゥシャフル]]を「私たちの祖先の祖国であり文明的なウイグルの祖先たちの舞台であり、イスラーム戦士たちが前世紀に強大なテュルクのハーン国を樹立した場所」と表現している<ref name="ooishi"/>。またナザル・ホジャは[[1914年]]からは「Uyghur Balasï (ウイグルの子)」という署名をするようになっており、ムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されていた<ref name="ooishi"/>。
 
 
 
[[1913年]]11月の雑誌『シューラー』での記事では「テュルク文学はウイグル(ユグル、ウグル、漢語でホイフ)方言で始められた。オルホン碑文はより以前に書かれたが、真の意味で言うと、テュルク文学はウイグル語で始められた」とする論評が掲載されている<ref name="ooishi"/>。
 
 
 
===アルマ・アタ会議===
 
[[1921年]]、[[カザフスタン]]のアルマアタ([[アルマトイ]])<ref group="注">[[タシュケント]]という証言もある。{{harvnb|ラティモア|1951|p=167}}</ref><ref name="ooishi"/>において開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、[[ロシア人]]トルコ学者のセルゲイ・マローフ([[:ru:Малов, Сергей Ефимович|Сергей Ефимович Малов]])が「ウイグル」という[[民族]]名称の復活を発議し、同大会はこれを受けて、「ウイグル」民族名称を自ら名乗ることを決定した<ref name="ooishi"/>。このときの「ウイグル民族」とは、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であるが、「ウイグル」という民族呼称が復活されるまではタランチ集団や[[カシュガル市|カシュガル]]人、[[トルファン市|トゥルファン]]人など、民族名称というよりも祖先または自身の出身地を自称していた<ref name="ooishi"/>。この会議はソ連による中央アジア「民族的境界画定」政策の準備作業の一つとみなされているが、「ウイグル」呼称がこのときに発案されたのでなく、それ以前にもムスリム知識人の間で「ウイグル」呼称は使用されるようになっていた<ref name="ooishi"/>。なお、マローフは中国[[甘粛省|甘粛]]地方の[[サリグ]]・ウイグルの研究者でもあった<ref name="ooishi"/>。サリグ・ウイグルは[[16世紀]]初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた[[仏教]]徒のことを指す<ref name="ooishi"/>。
 
 
 
===中華民国時代===
 
[[1911年]]、[[辛亥革命]]が中国内地で発生する。新疆にも革命派が入り、1912年1月、イリの革命派が蜂起し、イリ将軍でモンゴル[[八旗|旗人]]の[[広福]]を臨時都督とする政府が樹立された<ref name="komatsu2000-371">{{harvnb|小松|2000|p=371}}</ref>。清の[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]が退位すると、ウルムチ知事であった[[楊増新]]が[[新疆省]]長・督軍となる<ref name="komatsu2000-371" />。雲南出身の楊増新は新疆を独立王国にしようとつとめた<ref name="komatsu2000-371" />。
 
 
 
他方、[[オスマン帝国]]は[[汎テュルク主義|汎トルコ主義]]を[[中央ユーラシア]]に広めようとしており、トルコ人の[[アフメト・ケマル・イルクル|アフメト・ケマル]]が新疆に派遣され、師範学校を設立し、この学校がカシュガルの民族主義運動の中核となった<ref name="komatsu2000-372">{{harvnb|小松|2000|p=372}}</ref>。
 
 
 
====盛世才による改名====
 
当時ソ連共産党党員でもあった遼寧省出身の漢人である[[盛世才]]は、1933年に軍を率いてクーデターを起こすと新疆軍閥を率いて1944年まで独立した政権を築いた<ref name="kagami">加々美光行 『中国の民族問題―危機の本質』 岩波書店、2008年</ref>。盛世才は従来の中華民国当局が用いていた「[[纆回]](ぼくかい)」を廃止して「ウイグル」民族を「設定」する指示を受け入れ、[[1934年]]に省府議会で正式採用させ「'''維吾爾'''」という漢字表記も定めた<ref name="kagami"/>。
 
 
 
===ハミ郡王家の反乱===
 
楊増新が1928年に暗殺されると、[[金樹仁]]が新疆省長になる<ref name="komatsu2000-373">{{harvnb|小松|2000|p=373}}</ref>。しかし金樹仁はメッカ巡礼などを禁止するなどムスリムへの弾圧政策を行い、さらに土着の小王国であった[[ハミ郡王家]]を消滅させようとする([[回土帰流問題]])と、これに反発した住民たちは1931年、大規模な反乱が発生する<ref name="komatsu2000-374">{{harvnb|小松|2000|p=374}}</ref>。ハミ郡王家軍は、回族の軍閥[[馬仲英]]に援助を求め、馬仲英軍はバルクルまで進出するが、新疆省政府軍が登場すると甘粛に撤退し、ハミ軍は山地へ撤退した<ref name="komatsu2000-374" />。
 
 
 
===トルファンの反乱===
 
ハミの反乱をうけて[[1932年]]には[[トルファン市|トルファン]]のイスラム教諸民族の反乱が発生する<ref name="komatsu2000-374" />。反乱軍はトルファンを掌握するが、ロシア白軍の残党を含む[[盛世才]]の省政府軍に敗北する<ref name="komatsu2000-374" />。その後トルファンは馬仲英に占領された<ref name="komatsu2000-374" />。
 
 
 
===東トルキスタン・イスラーム共和国===
 
1933年2月、タリム盆地南部のホタンで、[[ムハンマド・アミーン・ブグラ]]が蜂起し、漢人官僚を一掃して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍し、1933年11月に[[東トルキスタン共和国|東トルキスタン・イスラーム共和国]]を樹立した<ref name="komatsu2000-375">{{harvnb|小松|2000|p=375}}</ref>。なお、東トルキスタン・イスラーム共和国では漢語を話す回民は漢族と同様に排除され、トルコ語系の住民が構成員とされた<ref name="komatsu2000-375" />。
 
 
 
馬仲英軍がウルムチに向かうと、1933年4月12日にクーデターが起こり、[[盛世才]]が実権を握った<ref name="komatsu2000-375" />。盛世才はソ連に援助を要請し、1934年1月、ソ連軍が新疆に進軍、馬仲英軍は敗北する<ref name="komatsu2000-375" />。馬仲英軍は西に向かい、東トルキスタン・イスラーム共和国を壊滅させ、その後ソ連と交渉してソ連に亡命した<ref name="komatsu2000-375" />。
 
 
 
1941年には、アルタイ地区のカザフ族遊牧民のケレイ部族出身のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連とモンゴル人民共和国の援助をうけ、[[アルタイ民族革命臨時政府]]を樹立した<ref name="komatsu2000-378">{{harvnb|小松|2000|p=378}}</ref>。[[1944年]]10月にはイリ渓谷のニルカとクルジャで反乱が発生し、11月12日、[[東トルキスタン共和国]]が建国された<ref name="komatsu2000-378" />。このこの第二次東トルキスタン独立運動にはソ連赤軍が直接参加した<ref name="komatsu2000-378" />。翌年の1945年、アルタイ民族革命臨時政府と東トルキスタン共和国、さらにタルバガダイのゲリラ隊も合流した<ref name="komatsu2000-378" />。中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、[[東トルキスタン共和国|三区革命]]と呼ばれる<ref name="komatsu2000-379">{{harvnb|小松|2000|p=379}}</ref>。
 
 
 
===中華人民共和国政府による新疆併合===
 
[[ファイル: Xinjiang in China (de-facto).svg|thumb|200px|新疆ウイグル自治区]]
 
 
 
[[File:Flag of the People's Republic of China.svg|thumb|250px|中華人民共和国国旗]]
 
{{main|zh:三区革命}}
 
 
 
===人民解放軍による侵攻===
 
{{main|[[新疆侵攻]]}}
 
[[1949年]]、[[国共内戦]]を制した[[中国共産党]]は、新疆の接収を行うために、[[鄧力群]]を派遣し、イリ政府との交渉を行った。[[毛沢東]]は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を[[北京市|北京]]の[[中国人民政治協商会議|政治協商会議]]に招いた。しかし、[[8月27日]]、[[北京市|北京]]に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ(Ehmetjan Qasim)、[[アブドゥルキリム・アバソフ]](Abdulkerim Abbas)、[[イスハクベグ・モノノフ]](Ishaq Beg Munonov)、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、[[デレリカン・スグルバヨフ]](Dalelkhan Sugirbayev)らイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内[[アルマトイ]]で消息を断った。首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部の[[セイプディン・エズィズィ]]が陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。[[9月26日]]には[[ブルハン・シャヒディ]]ら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。12月までに[[中国人民解放軍]]が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された<ref>小松編 pp.378-381</ref>([[新疆侵攻]])。[[ウイグル族]]とソ連領[[中央アジア]]出身者、[[モンゴル族]]や[[シベ族]]、[[回族]]で構成された東トルキスタン共和国軍([[:en:Ili National Army|イリ民族軍]])を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族の[[ユルバース・カーン]]は白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。[[1950年]]、[[アラトゥルク県|伊吾]]で国民党勢力の残存していた地域へ侵攻してこれを制圧した({{仮リンク|伊吾の戦い|en|Battle of Yiwu}})。これによって新疆は中華人民共和国に帰属されることとなった。この地域の[[中華人民共和国]]による併合後、民族名称は'''ウイグル族'''(维吾尔族)と公式に定められ、現在に至っている。
 
 
 
中国政府は[[1950年]]ごろ、[[新疆ウイグル自治区]]に漢族を中心とする[[新疆生産建設兵団]]を大量に入植させた。その後、入植当初人口7パーセントだった[[漢民族|漢族]]が[[1991年]]には40パーセントになり、ウイグル族に匹敵する割合となり<ref group="注">[[新疆ウイグル自治区]]参照</ref>、駐留する[[中国人民解放軍|人民解放軍]]とあわせるとウイグル人よりも多いとも言われる<ref>[http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141223142314/http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm |date=2014年12月23日 }}</ref>。
 
 
 
====新疆ウイグル自治区の設置====
 
{{Main|新疆ウイグル自治区}}
 
[[1955年]]には中華人民共和国で2番目の自治区'''[[新疆ウイグル自治区]]'''が設置された。
 
 
 
===東トルキスタン独立運動===
 
{{Main|東トルキスタン独立運動}}
 
新疆ウイグル自治区では、1930年代に引き起こされたウズベク族、キルギス族を主体としてウイグル族やカザフ族を含んだ少数民族の分離活動が今も国内外で続いている。キルギス族、ウズベク族などがいくつかの地下組織を結成し、「東トルキスタン国」の建設を名目として活動していると言われ、特に1990年代以降の新疆ウイグル自治区では無差別殺傷事件などのテロ事件が起きている<ref>{{Cite web|url=http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pcterror.asp?id=009|title=海外安全ホームページ: テロ概要|publisher=[[外務省]]|accessdate=2012-07-13}}</ref>という情報がある。
 
 
 
[[2004年]][[9月]]、[[東トルキスタン共和国亡命政府]]がアメリカで樹立された<ref>[http://www.eastturkistan-gov.org/ 東トルキスタン共和国亡命政府](日本語あり)2012年7月24日閲覧。</ref>
 
 
 
[[2015年]]8月17日と18日、[[タイ王国|タイ]]の首都[[バンコク]]で死者20名、負傷者125名(うち邦人1名)を出す連続爆破テロ事件が起こった。タイ政府は、事件の1カ月前、亡命を目指していたウイグル族109人を中国に強制送還していた為、これに対する報復テロではないかとの見方が広がっている。<ref>2015年8月20日毎日新聞朝刊</ref>。また、タイと同じ軍事政権の[[エジプト]]などでもウイグル族の中国への強制送還が相次いでることは問題となっている<ref>{{Cite news|url= https://mainichi.jp/articles/20170722/k00/00m/030/097000c |title=ウイグル族の拘束相次ぐ 中国の要請か|work= [[毎日新聞]]|date=2017-07-21|accessdate=2017-08-17}}</ref>。
 
 
 
== 政治体制 ==
 
===君主号===
 
{{See also|ハーン}}
 
ウイグルの君主は[[突厥]]と同様に[[ハーン|可汗]](カガン:Qaγan)といい、中国で言う[[皇帝]]にあたる。[[皇后]]にあたるのは可敦(カトゥン:Qatun)という。
 
 
 
[[天山ウイグル王国]]の中期まではカガン(Qaγan)、ハン(χan)やイリグ (Ilig)(il+lig:「国持てる」の意味)といった称号を用いていたが、後期になると「カガン(Qaγan、可汗)」から「'''イディクト'''(Ïduq qut > Ïdï qut > Ī dī qūt、亦都護)」(「幸いの主」、「神聖なる吉祥」の意味<ref name="sugiyama2003">{{harvnb|杉山|2003}}</ref>)という称号を用いるようになった。
 
 
 
===官職===
 
他種族や他国の首領にあたるのは大俟斤(Ulugh irkin)といい、身分としては匐(bāg)などがあり、官職としては以下などがあった。<ref>『[[ホショ・ツァイダム碑文|キョル・テギン碑文]]』</ref>
 
*葉護(ヤブグ:Yabγu)…最高位の爵位、近親者のみが与えられた、実権は無し。
 
*設(シャド:Šad)…非回紇諸部の兵権を司る官職、東部の突利失(Tölis)設と西部の達頭(Tarduš)設が置かれた。
 
*特勤(テギン:Tägin)…突厥語で奴隷の意、転じて可汗の子弟。実権の無い爵位、設と同程度の地位。
 
*都督(トゥトゥク:tutuq)…主要部族の部族長。
 
*大相…筆頭宰相
 
*宰相…十回紇の貴族から選ばれる内宰相3名と外宰相6名からなり、使節や可汗庭に於いて兵を監督する官職。
 
*将軍(センギュン:sängün)…実権の無い爵位。
 
*達干(タルカン:Tarqan)…十回紇の貴族から選ばれ、兵馬の監督や唐への使節を担う官職。突厥でいう匐(ベグ:bāg)。
 
*監使…可汗の親族か十回紇の貴族から選ばれ、征服された他部族や他国からの徴税、労役の割当を担当する官職。突厥でいう吐屯。
 
*梅録(ブイルク:buïruq)…近衛兵や伝令を務める官職。
 
*啜(チュル:Čur)…可汗の一族から選ばれ、軍事全般を担う官職。
 
*俟斤(イルキン:Irkin)・俟利発(イルテベル:Iltäbär)…征服した民族の部族長。
 
*阿波(アパ:apa)
 
 
 
===歴代指導者の一覧===
 
;伝説上の君主
 
#[[ボー・ハーン|ブク・カガン]]
 
 
 
;回紇部
 
;俟斤(イルキン)、頡利発(イルテベル)
 
#[[特健俟斤|特健(時健)俟斤]]
 
#活頡利発([[菩薩 (ウイグル)|菩薩]])(627年 - 646年)…特健俟斤の子
 
#胡禄頡利発([[吐迷度]])(646年 - 648年)…菩薩の子、瀚海都督、左驍大将軍。
 
#*[[烏コツ|烏紇]]…吐迷度の甥、突厥・車鼻可汗の婿。
 
#[[婆閏]](648年 - 661年)…吐迷度の子、瀚海都督。
 
#[[比粟毒]](661年 - 680年)…婆閏の子(甥)、瀚海都督。
 
#[[独解支]](680年 - 695年)…比粟毒の子、瀚海都督。
 
#[[伏帝匐]](695年 - 719年)…独解支の子、瀚海都督。
 
#承宗(719年 - 727年)…伏帝匐の子、瀚海都督。
 
#[[伏帝難]](727年)…承宗の子、瀚海都督。
 
#護輸…承宗の一族、頡利発
 
#葉護頡利吐発([[懐仁可汗|骨力裴羅]])…承宗の子
 
 
 
;[[回鶻]]可汗国の可汗(カガン)
 
#[[懐仁可汗]](骨力裴羅)([[744年]] - [[747年]])
 
#[[葛勒可汗|英武威遠可汗]](葛勒可汗)(747年 - [[759年]])
 
#[[牟羽可汗|英義建功可汗]](牟羽可汗)(759年 - [[779年]])
 
#[[合骨咄禄毘伽可汗|武義成功可汗]](長寿天親可汗)(779年 - [[789年]])
 
#[[忠貞可汗]](789年 - [[790年]])
 
#[[奉誠可汗]](790年 - [[795年]])
 
#[[懐信可汗]](795年 - [[805年]])
 
#[[滕里野合倶録毘伽可汗]](805年 - [[808年]])
 
#[[保義可汗]](808年 - [[821年]])
 
#[[崇徳可汗]](821年 - [[824年]])
 
#[[昭礼可汗]](824年 - [[832年]])
 
#[[彰信可汗]](832年 - [[839年]])
 
#[[コウソウ特勤|㕎馺可汗]]<ref group="注">「㕎」は「厂+盍」と書く。</ref>(839年 - [[840年]])
 
#[[烏介可汗]]([[841年]] - [[846年]])
 
#[[遏捻可汗]](846年 - [[848年]])
 
 
 
;[[甘州ウイグル王国|甘州(河西)ウイグル王国]]
 
;権知可汗、甘沙州回鶻可汗、可汗王
 
#[[英義可汗]](仁美)(? - [[924年]])
 
#烏母主可汗([[狄銀]]、テギン)(924年 - [[926年]])…仁美の弟
 
#[[阿咄欲]](926年 - [[939年]])
 
#[[順化可汗]](仁裕、奉化可汗)(926年 - [[959年]])…仁美の弟
 
#[[景瓊]](959年 - ?)…仁裕の子
 
#[[夜落コツ密礼遏|夜落紇密礼遏]](? - ?)
 
#[[禄勝]](? - ?)
 
#[[忠順保徳可汗王|夜落紇]](夜落隔、忠順保徳可汗王)(? - [[1016年]])
 
#[[夜落隔帰化]](1016年 - ?)
 
#[[夜落隔通順]](帰忠保順可汗王)(? - ?)
 
 
 
;[[天山ウイグル王国|西州(天山)ウイグル王国]]の克韓王
 
#ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン([[厖特勤]])([[844年]] - 856年頃)
 
#トルテュンチュ・イル・ビルゲ・テングリ・イリグ(? - [[954年]] - ?)
 
#トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ・カガン(? - [[983年]] - ?)
 
#ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ([[996年]] - ?)
 
#キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ボギュ・テングリケニミズ(? - [[1007年]] - ?)
 
#キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥル・キョル・ビルゲ・クチャ・ハン( [[1017年]] - 1024年頃)
 
#キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・バヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトミシュ・ウチュンチュ・アルスラン・ビルゲ・ハン(? - ?)
 
#テングリ・ボギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ(? - [[1067年]] - ?)
 
#喝里・ハン(1127年頃 - ?)
 
#華勒哥・王(1130年頃 - ?)
 
#月仙・帖木児・亦都護(? - 1209年頃)
 
 
 
;[[モンゴル]]領
 
#バルチュク・アルトゥン・亦都護(1209年頃 - 1229年)…月仙帖木児の子、1209年モンゴルに帰順
 
#キシマイン・亦都護([[1229年]] - [[1241年]])…アルトゥンの子
 
#サリンディ・亦都護([[1242年]] - [[1252年]])…キシマイン弟
 
#*ケスメズ(1242年 - [[1246年]])
 
#オグリュンチ(1252年 - [[1257年]])…サリンディ弟
 
#マムラク・テギン(1257年 - [[1265年]])…オグリュンチの子
 
#コスカル([[1266年]] - [[1280年]])…マムラクの子
 
#ネギュリル・テギン(1280年 - [[1318年]])…コスカルの子、1308年大元封-亦都護、1316年高昌王
 
 
 
;『亦都護高昌王世勲碑』に見えるイドゥク・クト
 
#テムル・ブカ(1318年 - [[1329年]])…ネギュリルの長子、高昌王
 
#センギ・テギン(1329年 - [[1331年]])…テムル・ブカの弟、高昌王
 
#タイピンドゥ(1331年 - ?)…センギ・テギンの弟
 
#エル・テムル(? - [[1353年]])
 
#セング・亦都護(1353年 - ?)
 
 
 
;『大宗正府也可札魯火赤高昌王神道碑』に見える高昌王
 
#月魯哥
 
 
 
;14世紀前半『ウイグル語印刷仏典奥書』に現れるイドゥク・クト(亦都護)<ref name="nakamura2009">{{harvnb|中村|2009}}</ref>
 
#キラシス・イドゥク・クト(? - [[1309年|1309]]/[[1318年|18年]])
 
#コンチョグ・イドゥク・クト(1309/18年 - [[1326年|1326]]/[[1334年|34年]])
 
 
 
;[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ汗国]]領イドゥク・クト(亦都護)
 
#?イドゥククト([[1339年]]頃)
 
#チン・テムル・イドゥク・クト([[1352年]] - [[1348年|1348]]/[[1360年|60年]])
 
 
 
;清末民初
 
新疆都督
 
#[[袁大化]]
 
;中華民国時代
 
#[[楊増新]](1912年、新疆都督。[[1928年]]、[[南京国民政府]]から新疆省長に任命)
 
#[[金樹仁]]
 
#[[盛世才]](1933-1944)
 
 
 
;東トルキスタン・イスラーム共和国大統領
 
*[[ホージャ・ニヤーズ]]([[1933年]] - [[1934年]])
 
 
 
;東トルキスタン共和国主席
 
#[[アリー・ハーン・トラ]](イリハン・トレ)([[1944年]] - [[1947年]])
 
;新疆省連合政権主席
 
#[[張治中]](1947年 - [[1948年]])
 
#[[マスード・サブリ]](1948年)
 
;イリ政権
 
*[[アフメトジャン・カスィミ]](1948年 - [[1949年]])
 
 
 
==言語と民族==
 
{{main|ウイグル語}}
 
<!--前述-->現代のウイグル人は、[[テュルク諸語]]の南東語群(チャガタイ語群)に属す[[ウイグル語]]を話す。タリム盆地は様々な民族の交流地であったため、紀元前からすでにモンゴロイドとコーカソイドの混血が始まっていた。歴史的にタリム盆地の民族は[[東イラン語]]や[[トカラ語]]を話し、古インドやイランの人種に属す人々を元として幾波にも渡って北のトルコ民族や東の漢民族の支配を受けた。[[11世紀]]までは[[ソグド語]]やトカラ語を使い続けた。
 
 
 
現在のようにテュルク系の言語を話すようになったのは、[[9世紀]]から[[12世紀]]にタリム盆地東部を支配した[[天山ウイグル王国]]、タリム盆地西部を支配した[[カラハン朝]]においてである。こうした過程は「テュルク化」といわれる。
 
 
 
===古代ウイグル語と新ウイグル語===
 
回紇部および回鶻可汗国時代までは、突厥と同じ[[古テュルク語|古代テュルク(突厥)語]]を話していたと思われる<ref>『[[テス碑文]]』,『[[タリアト碑文]]』,『[[シネ・ウス碑文]]』,『[[カラ・バルガスン碑文]]』</ref>が、天山ウイグル王国時代(9世紀 - 16世紀頃)になると、その言語はウイグル文字で表記される'''[[古ウイグル語|古代ウイグル語]]'''となる。
 
 
 
===文字===
 
{{main|ウイグル文字}}
 
[[バイ・バリク]]や[[オルド・バリク]]といった城郭都市を建設し、新たに「遊牧都城文化」ともいうべき<ref group="注">[[村上正二]]が提唱。</ref>文化形態を生みだした。
 
 
 
==人種・遺伝子==
 
現在のウイグル人は[[モンゴロイド]]と[[コーカソイド]]の混血であり、[[Y染色体ハプログループ]]も[[ハプログループR (Y染色体)]]、[[ハプログループJ (Y染色体)]]、[[ハプログループO2 (Y染色体)]]、[[ハプログループC2 (Y染色体)]]など多様なタイプがみられる。
 
 
 
==文化==
 
===文学===
 
[[カラハン朝]]の詩人[[ユースフ・ハーッス・ハージブ]]の『クタドグ・ビリク』([[1069年]])が最初のテュルク語文学とされる。以後、11世紀に[[マフムッド・カッシュガリ]]がおり、13世紀には[[アフマット・ユグナキ]]、14世紀には[[ユスーフ・サッカキ]]、15世紀には[[ルットフィ]]が現れた。17-18世紀の[[ウイグル古典文学]]の代表に、[[ヒルキティ]]、[[ゼリリ]]、[[ノビティ]]がいる。
 
 
 
現代では[[トルグン・アルマス]]の著作『ウイグル人』があるが、ウイグル民族主義であり分離主義者であるとして中国政府から発禁処分を受けた。また漢民族の作家[[王力雄]]による『私の西域、君の東トルキスタン』(2007<ref group="注">邦訳、集広舍、2011年</ref>)もある。
 
 
 
===音楽===
 
[[アラブ人]]・[[テュルク人]]・[[ペルシア人]]にみられる音楽の様式、[[マカーム]]の楽曲体系の一つである[[ムカム]]が[[無形文化遺産]]として知られる。
 
 
 
=== 料理 ===
 
[[ファイル:Uyghur Lagman.jpg|thumb|ラグマン]]
 
[[ファイル:Polu.jpg|thumb|米料理のポロ。祭日に食される。]]
 
 
 
{{Main|ウイグル料理|清真料理}}
 
 
 
==宗教==
 
===仏教===
 
====「ウイグル=コネクション」====
 
[[森安孝夫]]は,[[14世紀]]以降のモンゴル時代に[[敦煌市|敦煌]]などの[[河西地方]]にいたウイグル人仏教徒集団は、元は東部天山地方のウイグル王国から移住したとし、また、ウイグル人仏教徒は、東部天山・河西から華北・江南に及ぶネットワーク「ウイグル=コネクション」を展開したとした<ref name="moriyasu1983-224-227">{{harvnb|森安|1983|pp=224-227}}</ref><ref name="moriyasu1988">{{harvnb|森安|1988}}</ref><ref name="yamaguchi1985">{{harvnb|山口|1985}}</ref><ref name="matsui2008">{{harvnb|松井|2008}}</ref>。
 
 
 
==== チベット仏教====
 
[[松井太]]はこの「ウイグル=コネクション」では[[チベット仏教]]に帰依したウイグル人仏教徒が特に大きな役割を果たしたとしている<ref name="matsui2008"/>。
 
 
 
===スンナ派イスラム教===
 
[[Image:Muslim_distribution.jpg|right|350px|thumb|イスラム教宗派の分布図<br />黄緑:スンナ派<br />緑:[[シーア派]]]]
 
 
 
== 地理 ==
 
{{Main|東トルキスタン#地理|新疆ウイグル自治区#地理}}
 
 
 
===テンリ・タグ山脈===
 
[[File:Jengish Chokusu from BC.jpg|thumb|300px|ポベーダ山]]
 
東トルキスタンのほぼ中央に、ウイグル語で天の山を意味する[[天山山脈|テンリ・タグ]](تەڭرىتاغ Tengri tagh)という山脈があり<ref group="注">{{harvnb|マハムティ|2010|p=73}}においてテンリ・タグ山脈と表記している。</ref>、漢名ではこれに由来して[[天山山脈]]という。テンリ・タグ山脈の最高峰である[[ポベーダ山]]は[[キルギス]]の国境に位置し、標高は7,439mである。
 
 
 
テンリ・タグ山脈を背骨とし、北の[[アルタイ山脈]]([[モンゴル国|モンゴル]]国境)の間に[[ジュンガル盆地]]、南の[[崑崙山脈|クンルン山脈]]([[崑崙山脈]]とも。[[チベット自治区]]との境)の間に[[タリム盆地]]が広がる。
 
 
 
=== 主な都市 ===
 
* [[ウルムチ市|ウルムチ]] (Urumchi) - [[新疆ウイグル自治区]]の首府。
 
* [[カシュガル市|カシュガル]] (Kashgar)
 
* [[コルラ市|コルラ]] (Korla)
 
* [[アクス市|アクス]] (Aqsu)
 
* [[クチャ県|クチャ]] (Kucha)
 
* [[クムル市|クムル]] (Qumul)
 
* [[トルファン市|トルファン]] (Turpan)
 
* [[グルジャ市|グルジャ]] (Ghulja)
 
* [[アルタイ市|アルタイ]](Altay)
 
* [[チョチェク市|チョチェック]] (Chochek)
 
* [[ボルタラ市|ボレタラ]] (Boretala)
 
* [[カラマイ市|カラマイ]] (Qaramay)
 
* [[ホータン市|ホータン]] (Hoten)
 
* [[ヤルカンド県|ヤルカンド]] (Yarkent)
 
 
 
==資源==
 
ウイグルは[[石油]]と[[天然ガス]]の埋蔵量が豊富で、[[1980年代]]後半から探査が本格的に開始された。1988年11月以降、タリム盆地で未開発の油田としては世界最大級の油田群が発見される<ref name="tarim">人民日報1989年10月20日-21日, 朝日新聞1994年5月15日, {{harvnb|王柯|1995|p=1}}</ref>。可採埋蔵量は100億バレル以上とされ<ref name="tarim"/>、確認埋蔵量は原油で60億トン、[[天然ガス]]で8兆立方メートルとされているが、油田地帯がばらばらで地質構造も極めて複雑であることから、ブレは大きいものと考えられている。
 
 
 
新疆の石油と天然ガスの埋蔵量は、それぞれ中国全体の埋蔵量の28%と33%を占めており、今日では[[油田]]開発が新疆の経済発展の中心となっている。[[西部大開発]]政策や[[西気東輸|西気東輸プロジェクト]]によって開発を促進し、[[1990年代]]後半から[[パイプライン輸送|パイプライン]]敷設や送電線建設などが活発化している。これには、中国国内最大の油田であった[[黒竜江省]]の[[大慶油田]]の生産量が近年では減少してきたために、新疆の油田の重要性が相対的に増していることも関連している。
 
 
 
===1990年代===
 
1990年にはウイグル人住民のデモに対して武装警察が発砲し、15名(数十名とも)が射殺される[[バリン郷事件]]がおきている<ref name=mouri1998-139>{{harvnb|毛里|1998|p=139}}</ref>。
 
 
 
1991年にはウイグル人作家[[トルグン・アルマス]]の著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であることを理由に発禁処分となり、著者も[[軟禁]]状態に置かれた<ref>{{Harvnb|新|2003}}</ref>。
 
 
 
バリン郷事件以降、反政府とみられるテロ事件も相次いでいる。1997年にも大規模なデモが発生し、鎮圧に出動した軍隊と衝突して、多くの死傷者を出した[[グルジャ事件]]が発生している。
 
 
 
[[1996年]]、[[中国人民政治協商会議]]全国委員を務める実業家の[[ラビア・カーディル]]が政治協商会議で[[漢民族|漢族]]によるウイグル人抑圧を非難する演説を行うが公安当局の間で問題となりラビアは[[1997年]]に全ての公的役職から解任された。ラビアの夫で作家の[[シディク・ハジ・ロウジ]]が行った書籍(John Graver, ''Chinese-Soviet Relations 1937-1945'')のウイグル語訳<ref> John Graver, ''Chinese-Soviet Relations 1937-1945'' (Oxford University, 1988, ISBN 978-0-19-505432-3) 。漢訳書は『対手与盟友』(劉戟鋒等訳、社会科学文献出版社、1992年)</ref>が当局より問題視されたといわれるが、シディク・ハジ・ロウジは1996年に米国に亡命した。[[1999年]][[8月13日]]、公安当局は、ウルムチ市内に滞在していた米国議会関係者に接触しようとしたラビアを国家機密漏洩罪で逮捕し、米国に亡命した夫に対して「不法に機密情報を漏洩した」として懲役8年の実刑判決を下した。
 
 
 
また同1999年1月より漢族の作家[[王力雄]]が新疆の民族問題に関する著作執筆のため、[[新疆ウイグル自治区]]で資料収集を開始すると、同年1月29日に新疆自治区国家安全庁(上級機関の[[中華人民共和国国家安全部|国家安全部]]は旧ソ連のKGBに相当する諜報機関)に国家機密窃取の容疑で拘束(法手続きを踏んだ正式な逮捕ではない)され、42日後に解放された。その経緯を『新疆追記』にまとめ、インターネット上で公表した<ref>『[http://blog.boxun.com/hero/wanglx/7_1.shtml 新疆追記]』</ref>。王力雄はその後、ウイグル問題に関する調査をもとに2007年10月『我的西域、你的東土』(邦題:私の西域、君の[[東トルキスタン]])を台湾で出版した<ref name="ourikiyu2011">{{harvnb|王力雄|2011}}</ref>。
 
===2000年代===
 
====上海協力機構====
 
中国政府は、中央アジア諸国の在外ウイグル人社会が、ウイグル民族運動の拠点となっていることを警戒し続けており、[[1996年]]には[[上海ファイブ]]、[[2001年]]には[[上海協力機構]]を設立し、国内の[[イスラム原理主義|イスラーム原理主義]]勢力の伸張を警戒する[[ロシア]]や中央アジア諸国と共に、分離主義、イスラーム過激主義に対する国際協力の枠組みを構築した。また、[[2001年]][[9月11日]]の米国での[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]以降、中国政府は[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]政権の唱える「[[対テロ戦争]]」への支持を表明し、ウイグル民族運動と新疆におけるテロを結びつけて、その脅威を強調している。
 
 
 
====公教育における漢語使用の義務化====
 
[[2003年]]には、これまで少数民族の固有言語の使用が公認されてきた高等教育で、[[中国語|漢語]]の使用が中国政府によって義務付けられた。
 
 
 
[[2005年]]、[[コンドリーザ・ライス|ライス]]米国国務長官の訪中を控え、米国から人権問題での批判を受けることを恐れた中国政府は、[[2005年]][[3月14日]]に「外国での病気療養」を理由にラビア・カーディルを釈放。ラビアは米国に亡命し、のち[[世界ウイグル会議]]議長に選出され、2006年には[[ノーベル平和賞]]候補にもなった。
 
 
 
===2009年ウイグル騒乱前後===
 
{{Main|2009年ウイグル騒乱}}
 
[[2008年]]3月には、新疆南部の[[ホータン市]]で、600名を超える当局への抗議デモが発生し<ref>[http://www.rfa.org/english/news/uyghur/uyghur-protest-04012008165807.html?searchterm=None Uyghurs Protest in China's Remote Xinjiang Region]  (RFA 2008年4月1日)</ref>、[[2009年]]6月には、[[広東省]][[韶関市]]の玩具工場で[[漢民族|漢族]]従業員とウイグル人従業員の間で衝突が起き、死者2名、負傷者120名を出し<ref>[http://www.voanews.com/chinese/w2009-06-27-voa39.cfm 広東漢族維族工人械鬥百多傷二亡] (VOA 2009年6月27日) </ref><ref>[http://news.xinhuanet.com/local/2009-06/28/content_11614608.htm 汪洋要求依法公正処理旭日玩具廠群体殴鬥事件] (新華網 2009年6月28日)</ref>、翌7月には、事件に抗議する約3,000名のウイグル人と[[中国人民武装警察部隊|武装警察]]が、[[ウルムチ市|ウルムチ]]市内で衝突し、140名が死亡、800名以上が負傷した([[2009年ウイグル騒乱]]<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/china/090706/chn0907061442007-n1.htm 【ウイグル暴動】ウイグル族が漢族襲撃、140人死亡] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110108154600/http://sankei.jp.msn.com/world/china/090706/chn0907061442007-n1.htm |date=2011年01月8日 }} ( MSN産経ニュース 2009年7月6日)</ref>)。
 
 
 
[[2009年ウイグル騒乱]]では中国当局は死者は197人でありほとんどが漢民族としているが、事件以降、ウイグル人1万人が行方不明となっている<ref>[http://www.epochtimes.jp/jp/2009/07/print/prt_d17425.html 「ウイグル人1万人が消えた」=ラビア・カーディル氏、日本記者クラブで会見] [[大紀元]] 2009年7月31日</ref>。
 
 
 
===日本との関係===
 
{{Main|日本と東トルキスタンの関係}}
 
 
 
ウイグル地域に日本人がはいったのは、1880年の[[大日本帝国]]のロシア駐在公使の[[西徳二郎]]がはじめてとされる<ref name="nakada1983">{{harvnb|中田|1983}}</ref><ref name="wang1995-32-33">{{harvnb|王柯|1995|pp=32-33}}</ref>。1902年から1908年および1910年にかけては[[大谷探検隊]]が入った<ref name="wang1995-32-33" /><ref name="oobayashi1974">{{harvnb|大林1974|pp=156-157}}</ref>。[[1905年]]には[[上海亜同文書院]]二期生の[[波多野養作]]、[[林出賢次郎]]、[[桜井好幸]]が入っている<ref name="oobayashi1974" /><ref name="wang1995-32-33" />。1906年には参謀本部将校の[[日野強]]と[[上原多市]]が入った<ref name="oobayashi1974" /><ref name="wang1995-32-33" />。このうち上原多市の現地での活動については不明な部分が多いが、中国側資料<ref>王樹楠「新疆図志」51巻。通宝、韓希良「辛亥革命在伊犁的見聞」『新疆文史資料選』1,1979年</ref>によれば、1907年にイリで[[陸軍武備速成学堂]]を設立した際に、軍事教官として日本人の「原尚志」を任命したという記録があり、これが上原ではないかと推定されており、イリ地方で1912年まで6年間活動していたともいわれる<ref name="wang1995-32-33" />。こうした大日本帝国軍部による情報収集活動はロシアの動向に関するものであったとされる<ref name="wang1995-32-33" />。
 
 
 
[[関岡英之]]によれば、大日本帝国陸軍は、[[満州]]、[[モンゴル]]、ウイグル、[[チベット]]や[[イスラム教]]勢力などを支援することによって、ソ連や中国共産党などの[[共産主義]]勢力を包囲する戦略として「防共回廊」政策があったと指摘している<ref name="sekioka2010">{{harvnb|関岡|2010}}</ref>。[[大日本回教教会]]を創設した[[林銑十郎]]や、[[板垣征四郎]]らが推進したといわれる<ref name="sekioka2010" />。[[関東軍]]は満州を中心に、[[土肥原賢二]]らの[[ハルビン市|ハルビン]][[特務機関]]がシベリアでの諜報活動、[[板垣征四郎]]少将率いる奉天特務機関が[[華北分治工作]]、[[松室孝良]]ら承徳特務機関が[[内蒙工作]]を展開するという三正面作戦を構えたとされ、このうち松室孝良は1934年2月に「満州国隣接地方占領地統治案」を起案し、そのなかで満州、モンゴル、イスラム、チベットの環状連盟を提唱した<ref name="sekioka2010" />。[[大日本帝国]]時代の諜報員に、[[西川一三]]がおり、 1945年に[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]より河西回廊を経てチベットに潜行した。戦後、[[インド]]を経て帰国した。ほかに[[木村肥佐夫]]も同様に諜報員としてチベットに入った。西川、木村にチベット入りを指示したのは[[東條英機]]であった<ref name="sekioka2010" />。
 
 
 
戦後、日本は1972年9月29日[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]、及び1978年8月12日[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]締結にともない、[[中華人民共和国]]との国交を正常化した。その際、中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮する外交方針をとったため、[[台湾]]を独立した国家とはみないことを約束するとともに、[[チベット問題]]やウイグル問題などを含め、中華人民共和国の「国内問題」について公式には積極的な態度をとるにいたっていない。しかし2000年代以降、激化する[[チベット]]やウイグルの動乱などを受けて、ウイグルにおける人権侵害の問題などを民間の活動が活発化し、2008年(平成20年)6月、在日ウイグル人と日本人支援者によって[[日本ウイグル協会]]が設立され、[[世界ウイグル会議]]の傘下団体として活動を行っている。
 
 
 
[[2009年ウイグル騒乱]]直後の2009年7月にラビア・カーディルが二度目の来日を果たしたが、中国外交部の武大偉副部長は宮本雄二駐中国大使を呼び、「日本政府が即刻、カーディルの日本での反中国的な分裂活動を制止することを求める」と述べ中国政府の強い不満を表明した<ref name="RecordChina20090730">[http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=33922 中国が日本に「強い不満」、世界ウイグル会議・カーディル議長訪日で] [[Record China]] 2009年7月30日</ref>。中国政府は、カーディルが騒乱の黒幕だと断定している<ref name="RecordChina20090730" />。
 
 
 
[[2012年]][[4月23日]]、[[日本ウイグル国会議員連盟]]が[[自由民主党 (日本)|自民党]]本部で結成され<ref>[http://japanuyghur.blog52.fc2.com/blog-entry-101.html 日本ウイグル協会公式ブログ] (2012年4月23日). 2012年7月13日閲覧。</ref><ref name="rfuj">[http://d.hatena.ne.jp/rfuj/20120424/1335243055 RFUJからのお知らせ ラジオフリーウイグルジャパンブログ] (2012年4月24日). 2012年7月13日閲覧。 </ref>、日本の[[外務省]]、[[安倍晋三]]、[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]、[[三原じゅん子]]<ref>[http://ameblo.jp/juncomihara/entry-11231302398.html 三原じゅん子オフィシャルブログ] (2012年4月23日). 2012年7月13日閲覧。</ref>、[[山谷えり子]]、[[古屋圭司]]、[[衛藤晟一]]、[[新藤義孝]]らが参加している<ref name="rfuj"/>。顧問は[[安倍晋三]]、[[中曽根弘文]]、[[鴻池祥肇]]らが務めるなど、日本の[[国会議員]]でもウイグル問題を取り扱うようになっている。また同日、[[日本の地方議会|地方議会]]でも東京都庁で[[日本ウイグル地方議員連盟]]が発足した<ref name="rfuj"/>。
 
 
 
==映画==
 
*[[佐野伸寿]]監督『[[ウイグルから来た少年]]』2008年<ref>[http://www.uplink.co.jp/uyghur/intro.php ウイグルから来た少年 公式サイト] 2012年7月13日閲覧。</ref>。新疆ウイグル自治区から[[カザフスタン]]の[[アルマトイ]]に亡命したウイグル人の少年などを描いた。
 
 
 
==画像==
 
<center><gallery>
 
File:Khotan-melikawat-chicas-d03.jpg|[[ホータン市|ホータン]]にて。
 
File:Khotan-mercado-chicas-d01.jpg|ホータンにて。
 
File:Khotan-mercado-gente-uigur-d01.jpg|ホータンにて。
 
File:Khotan-melikawat-chicas-d02.jpg|[[メリカワト遺跡]]にて。
 
File:Taklamakan-uigur-d01.jpg|[[タクラマカン砂漠]]にて。
 
File:Khotan-mercado-chicos-d01.jpg|ホータンにて。
 
File:Khotan-melikawat-chicas-d06.jpg|メリカワト遺跡にて。
 
File:Khotan-mercado-d41.jpg|ホータンにて。
 
File:Khotan-fabrica-seda-d03.jpg|ホータンにて。
 
File:Khotan-fabrica-seda-d18.jpg|ホータンにて。
 
</gallery></center>
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=注}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|colwidth=20em}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 『[[魏書]]』(列伝第九十一 高車)
 
* 『[[隋書]]』(列伝第四十九 北狄)
 
* 『[[北史]]』(列伝第八十六 高車、列伝第八十七 鉄勒)
 
* 『[[旧唐書]]』(列伝第一百四十五 迴紇)
 
* 『[[新唐書]]』(列伝第一百四十二上 回鶻上、列伝第一百四十二下 回鶻下)
 
* 『[[旧五代史]]』(外国列伝二)
 
* 『[[新五代史]]』(四夷附録第三)
 
* 『[[宋史]]』(列伝第二百四十九 外国六)
 
* [[ラシードゥッディーン|ラシードゥッディーン・ハマダーニー]]『[[集史]]』( جامع‌التواریخ ''Jāmiʿ al-tavārīkh'')
 
: {{cite book|editor=А.А. Али-Заде|title=Джа̄миʿ ат-тава̄рӣх̮ |volume=1|chapter=1|place=Москва|origyear=1314|year=1968|ref={{SfnRef|Али-Заде|1968}} }}
 
: {{cite book|editor=Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī|totle=Jāmiʿ al-tavārīkh|place=Tihrān|origyear=1314|year=1994|ref={{SfnRef|M. Rawshan|M. Mūsavī|1994}} }}
 
* [[アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー|アター=マリク・ジュワイニー]]『[[世界征服者の歴史]]』( تاريج جهانگشاء ''Ta'rīkh-i Jahān-gushā''')
 
: {{cite book|editor=Mírzá Muḥammad Qazwíní|title=The Taʾríkh-i-jahán-gushá of ʿAláʾu ʾd-Dín ʿAṭá Malik-i-Juwayní|place=Layden|origyear=1260|year=1912|ref={{SfnRef|Qazwíní|1912}} }}
 
: {{cite book|author=John Andrew Boyle, tr|title=The History of the World-Conqueror  by ʿAla-ad-Din ʿAta-Malik Juvaini|volume=1|place=Manchester|origyear=1260|year=1958|ref={{SfnRef|Boyle|1958}} }}
 
* {{cite book|和書|author=コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|translator=[[佐口透]]|authorlink=アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|title=モンゴル帝国史 1|publisher=平凡社|origyear=1834|year=1968|isbn=978-4582801101|ref={{SfnRef|ドーソン|佐口|1968}} }}
 
* 『大辞林』三省堂、1988年。
 
* {{cite book|和書|editor=京大東洋史辞典編纂会|title=新編東洋史辞典|publisher=東京創元社|year=1980|isbn=978-4488003104|ref={{SfnRef|京大東洋史辞典編纂会|1980}} }}
 
* 『民族問題事典』平凡社、1995年。
 
* 『世界大百科事典 第28巻』平凡社、1988年。
 
* 『新疆文史資料選』1、1979年。
 
* 『突厥与回紇史』
 
* {{cite book|和書|author=森安孝夫|authorlink=森安孝夫|title=興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国|publisher=講談社|year=2007|isbn=978-4062807050|ref={{SfnRef|森安|2007}} }}
 
* {{cite book|和書|author=小松久男|authorlink=小松久男|title=世界各国史4 中央ユーラシア史|publisher=山川出版社|year=2000|isbn=978-4634413405|ref={{SfnRef|小松2000}} }}
 
* {{cite book|和書|author=今谷明|authorlink=今谷明|title=中国の火薬庫―新疆ウイグル自治区の近代史|publisher=集英社|year=2000|isbn=978-4087811889|ref={{SfnRef|今谷|2000}} }}
 
* {{cite book|和書|author=荒川正晴|authorlink=荒川正晴|title=ユーラシアの交通・交易と唐帝国|publisher=名古屋大学出版会|year=2010|isbn=978-4815806514|ref={{SfnRef|荒川|2010}} }}
 
* {{cite book|和書|author=間野英二|authorlink=間野英二|title=中央アジアの歴史|publisher=講談社|year=1977|isbn=978-4061158580|ref={{SfnRef|間野|1977}} }}
 
* {{cite book|和書|author=陳舜臣|authorlink=陳舜臣|title=中国の歴史(六)|publisher=講談社|year=1977|isbn=978-4061847873|ref={{SfnRef|陳|1991}} }}
 
* {{cite book|和書|author=陳舜臣|title=中国の歴史 12 清朝二百余年|publisher=平凡社|year=1982|ref={{SfnRef|陳|1982}} }}
 
* {{cite journal|和書|author=羽田明|authorlink=羽田明|title=明末清初の東トルキスタン|journal=東洋史研究|publisher=東洋史研究会|volume=7|number=5|year=1942|issn=0386-9059|ref={{SfnRef|羽田|1942}} }}
 
* {{cite book|和書|author=羽田明|title=中央アジア史研究|publisher=臨川書店|year=1982|isbn=978-4653007517|ref={{SfnRef|羽田|1982}} }}
 
* {{cite book|和書|author=佐口透|authorlink=佐口透|title=18-19世紀東トルキスタン社会史研究|publisher=吉川弘文館|year=1963|ref={{SfnRef|佐口|1963}} }}
 
* {{cite book|和書|author=佐口透|title=19世紀中央アジア社会の変容|series=岩波講座 世界歴史 近代8|publisher=吉川弘文館|year=1971|ref={{SfnRef|佐口|1971}} }}
 
* {{cite book|和書|author=佐口透|title=新疆民族史研究|publisher=吉川弘文館|year=1986|isbn=978-4488003104|ref={{SfnRef|佐口|1986}} }}
 
* {{cite book|和書|author=矢野仁一|authorlink=矢野仁一|title=近代支那史|publisher=弘文堂|year=1925|ref={{SfnRef|矢野|1925}} }}
 
* {{cite book|和書|author=宮脇淳子|authorlink=宮脇淳子|title=モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで|publisher=刀水書房|year=2002|isbn=978-4887082441|ref={{SfnRef|宮脇|2002}} }}
 
* {{cite book|和書|author=岡田英弘|authorlink=岡田英弘|title=読む年表 中国の歴史|publisher=ワック|year=2012|isbn=978-4898311783|ref={{SfnRef|岡田|2012}} }}
 
* {{cite book|和書|author=加々美光行|authorlink=加々美光行|title=中国の民族問題―危機の本質|publisher=岩波書店|year=2008|isbn=978-4006001940|ref={{SfnRef|加々美|2008}} }}
 
* {{cite book|和書|author=長澤和俊|authorlink=長澤和俊|title=シルクロード入門|publisher=東京書籍|year=2005|isbn=978-4487800582|ref={{SfnRef|長澤|2005}} }}
 
* {{cite book|和書|author=王柯|authorlink=王柯|title=東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題|publisher=東京大学出版会|year=1995|isbn=978-4130261135|ref={{SfnRef|王柯|1995}} }}
 
* 王柯『多民族国家 中国』岩波新書、2005年。
 
* {{cite book|和書|author=西田保|authorlink=西田保|title=左宗棠と新疆問題|publisher=博文館|year=1942|ref={{SfnRef|西田|1942}} }}
 
* {{cite book|和書|author=毛里和子|authorlink=毛里和子|title=周縁からの中国:民族問題と国家|publisher=東京大学出版会|year=1998|isbn=978-4130301152|ref={{SfnRef|毛里|1998}} }}
 
* {{cite book|和書|author=王力雄|authorlink=王力雄|title=私の西域、君の東トルキスタン|publisher=集広舍|year=2011|isbn=978-4904213117|ref={{SfnRef|王力雄|2011}} }}
 
* {{cite book|和書|author=関岡英之|authorlink=関岡英之|title=帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」|publisher=東京大学出版会祥伝社|year=2010|ref={{SfnRef|関岡|2010}} }}
 
* {{cite book|和書|author=オーウェン・ラティモア|authorlink=オーウェン・ラティモア|translator=中国研究所|title=アジアの焦點|publisher=弘文堂|year=1951|page=167|ref={{SfnRef|ラティモア|1951}} }}
 
* {{cite book|和書|author=イリハム・マハムティ|authorlink=イリハム・マハムティ|year=2010|month=1|title=7.5ウイグル虐殺の真実 ウルムチで起こったことは、日本でも起こる|series=宝島社新書 304|publisher=宝島社|isbn=978-4-7966-7455-3|url=http://tkj.jp/book/?cd=01745501|ref={{SfnRef|マハムティ|2010}} }}
 
* {{cite journal|和書|author=中村健太郎|authorlink=中村健太郎|title=14 世紀前半のウイグル語印刷仏典の奥書に現れる「Könčög イドゥククト王家」をめぐって|journal=内陸アジア言語の研究|volume=14|year=2009|month=6|ref={{SfnRef|中村|2009}} }}
 
* {{cite journal|和書|author=中田吉信|authorlink=中田吉信|title=新疆ウイグル自治区と日本人(一)|journal=アジア・アフリカ資料通報|volume=21|issue=5|year=1983|ref={{SfnRef|中田|1983}} }}
 
* {{cite journal|和書|author=大林洋五|authorlink=大林洋五|title=新疆を訪れた日本人|journal=愛知大学国際問題研究所紀要|volume=54|year=1974|ref={{SfnRef|大林|1974}} }}
 
* {{cite journal|和書|url=http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/89/contents-49.pdf|format=PDF|title=テュルク語定期刊行物における民族名称「ウイグル」の出現と定着|author=大石真一|journal=[[北海道大学]]スラブ研究センター研究報告シリーズNo.89「東欧・中央ユーラシアの近代とネイションII|year=2003|month=3|ref={{SfnRef|大石|2003}} }}
 
* {{Cite journal|和書|url=http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2104/1/NairikuAjiashiKenkyu_23_25.pdf|author=松井太|title=東西チャガタイ系諸王家とウイグル人チベット仏教徒: 敦煌新発現モンゴル語文書の再検討から|publisher=弘前大学学術情報リポジトリ|journal=内陸アジア史研究|volume=23|pages=25-48|date=2008-03-31|ref={{SfnRef|松井|2008}} }}
 
* {{cite journal|和書|author=新免康|authorlink=新免康|year=2003|month=1|title=新疆ウイグルと中国政治|journal=アジア研究|volume=49|issue=1|pages=37-54|publisher=JAASアジア政経学会|url=http://www.jaas.or.jp/pdf/49-1/37-54.pdf|ref={{SfnRef|新|2003}} }}
 
* [[三上次男]]・[[護雅夫]]・[[佐久間重男]]『人類文化史4 中国文明と内陸アジア』([[講談社]]、[[1974年]])
 
* [[榎一雄]]『講座敦煌2 敦煌の歴史』([[大東出版社]]、[[1980年]]、ISBN 978-4-500-00451-5)
 
* [[山田信夫 (歴史家)|山田信夫]]『北アジア遊牧民族史研究』([[東京大学出版会]]、[[1989年]]、ISBN 4130260480)
 
* [[大川周明]]著『回教概論』(中公文庫、1993年)
 
* [[横山宏章]]『中国の異民族支配』集英社新書、2009年。
 
* 楊経敏『回紇史』(広西師範大学出版社、2008年、ISBN 978-7-5633-7451-9)
 
* 新疆ウイグル自治区人民政府外事弁公室、劉宇生、劉暁慶、張浜 (著)『新疆概覧―シルクロードの十字路』[[山口昭]], 張淑芳, 張乃恒 訳, 文芸社,2003年(原著2001年)
 
 
 
==関連項目==
 
* [[オグズ]]
 
* [[堅昆]]
 
* [[テュルク諸語]]
 
* [[テュルク系民族]]
 
* [[トルキスタン]]
 
* [[東トルキスタン独立運動]]
 
* [[東トルキスタン共和国亡命政府]]
 
* [[2009年ウイグル騒乱]]
 
* [[世界ウイグル会議]]
 
* [[日本ウイグル協会]]
 
* [[ユグル族]]
 
* [[中国の少数民族]]
 
* [[ラビア・カーディル]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.tandfonline.com/doi/ref/10.1080/02634930903577136#tabModule Sean R. Roberts "Imagining Uyghurstan: re-evaluating the birth of the modern Uyghur nation" ]
 
* [http://ethnos.exblog.jp/i7 テュルク&モンゴル ethnos.exblog.jp > 東トルキスタン]
 
* [http://uyghur-j.org/ 特定非営利活動法人 日本ウイグル協会 - Japan Uyghur Association]
 
* [http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/ssrc/social/kiyou/kiyou24/24-10.pdf 水谷尚子「『革命的東トルキスタン』紙のタタール人記者 ムニール・イブラギモヴィチ・イェルズィン回想録」][[立命館大学]]社会システム研究所紀要『社会システム研究』第24号、2012年3月。
 
* [http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/89/contents-49.pdf 「テュルク語定期刊行物における民族名称「ウイグル」の出現と定着」大石真一郎][[北海道大学]]スラブ研究センター研究報告シリーズNo.89「東欧・中央ユーラシアの近代とネイションII」2003年3月.
 
* [http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/931/1/AA11349168_13_l139.pdf 松井太「ウイグル文シヴシドゥ・ヤクシドゥ関係文書補遺」][[弘前大学]]人文社会論叢. 人文科学篇. 13, 2005。弘前大学学術情報リポジトリ。
 
* [http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2084/1/history_world200201_1-7.pdf 松井太「中央ユーラシアのネットワークとウイグル商人」]
 
* [http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2290/1/ToyoBunkaKenkyu_11_455.pdf 松井太「文字文化からみた草原とオアシスの世界」][[学習院大学]]「東洋文化研究」11, 2009。(弘前大学学術情報リポジトリ)
 
* [https://web.archive.org/web/20150904025819/http://homepages.utoledo.edu/nlight/uyghpg.htm Introduction to Uyghur History and Culture]{{En icon}}
 
* [http://www.kenjisoft.com/judict/ 日本語 - ウイグル語辞書]
 
* [http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_6&wr_id=47&page=3 CHINA-ウイグル族]
 
* [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2987245/?tool=pmcentrez Separating the post-Glacial coancestry of European and Asian Y chromosomes within haplogroup R1a]
 
* http://secher.bernard.free.fr/Articles/R1b_Myres.pdf{{リンク切れ|date=2012年7月}}
 
 
 
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[[中央アジア]]に住むチュルク系([[チュルク語系諸族]])の民族。漢字では回鶻,廻紇,畏兀児,維吾爾などと記される。史上に初めて姿を現すのは 6世紀末で,外モンゴルのセレンゲ川([[セレンガ川]])流域で遊牧生活を送り,[[突厥]]に服属していた。744年突厥を打倒して,部族長[[クトルク・ボイラ]]がウイグル帝国の初代[[カガン(可汗)]]となる。755年の[[安史の乱]]では唐朝を援助して反乱の鎮圧に介入した。[[シルクロード]]を支配し,ソグド商人の往来によって[[マニ教]]を信奉した。839年キルギス人の侵入で帝国は崩壊し,ウイグル人は四散したが,甘粛,天山方面に移ったものはそれぞれ王国を建て,ことに天山のウイグル王国は長く繁栄した。10世紀には[[サーマン朝]]のもとでイスラム化した。12世紀には[[モンゴル帝国]]に服属して自治を保ったが,のち[[チャガタイ・ハン国]]に併合された。17世紀の初め,預言者ムハンマドの子孫と称するホージャ家 ([[カシュガル・ホージャ家]]) がカシュガルに移住してきて教権を握り,白山党,黒山党に分かれて対立抗争した。18世紀に[[清]]の支配下に入り,19世紀にはカシュガルの[[ヤクブ・ベク]]の指導下に大反乱を起こしたが鎮圧され,1884年,ウイグル人統治のために新疆省が置かれた。1944年ウイグル人はカザフ人らとともに東トルキスタン共和国を建てたが,1950年中国に吸収され,1955年[[シンチヤン(新疆)ウイグル(維吾爾)自治区]]を形成した。人口は約 1516万 (1990) 。
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ウイグルئۇيغۇرچە / Uyghurche: ئۇيغۇر‎、Uyghur‎、中国語: 维吾尔族拼音: Wéiwúĕrzú

中央アジアに住むチュルク系(チュルク語系諸族)の民族。漢字では回鶻,廻紇,畏兀児,維吾爾などと記される。史上に初めて姿を現すのは 6世紀末で,外モンゴルのセレンゲ川(セレンガ川)流域で遊牧生活を送り,突厥に服属していた。744年突厥を打倒して,部族長クトルク・ボイラがウイグル帝国の初代カガン(可汗)となる。755年の安史の乱では唐朝を援助して反乱の鎮圧に介入した。シルクロードを支配し,ソグド商人の往来によってマニ教を信奉した。839年キルギス人の侵入で帝国は崩壊し,ウイグル人は四散したが,甘粛,天山方面に移ったものはそれぞれ王国を建て,ことに天山のウイグル王国は長く繁栄した。10世紀にはサーマン朝のもとでイスラム化した。12世紀にはモンゴル帝国に服属して自治を保ったが,のちチャガタイ・ハン国に併合された。17世紀の初め,預言者ムハンマドの子孫と称するホージャ家 (カシュガル・ホージャ家) がカシュガルに移住してきて教権を握り,白山党,黒山党に分かれて対立抗争した。18世紀にの支配下に入り,19世紀にはカシュガルのヤクブ・ベクの指導下に大反乱を起こしたが鎮圧され,1884年,ウイグル人統治のために新疆省が置かれた。1944年ウイグル人はカザフ人らとともに東トルキスタン共和国を建てたが,1950年中国に吸収され,1955年シンチヤン(新疆)ウイグル(維吾爾)自治区を形成した。人口は約 1516万 (1990) 。



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