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[[ファイル:Harran1.jpg|thumb|right|300px|ハッラーンの廃墟]]
 
[[ファイル:Harran-beehouses.jpg|thumb|right|300px|伝統的な泥レンガの家(ビーハイヴ beehive)、トルコのハッラーン付近の村]]
 
'''ハッラーン'''('''ハラン'''、Harran)、別名'''カルラエ'''(Carrhae)は古代[[シリア地方]]の北部にあった都市の名で、現在は[[トルコ]]南東部の[[シャンルウルファ県]]にあたる。
 
  
== 概要 ==
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'''ハッラーン'''('''ハラン'''、Harran)、別名'''カルラエ'''(Carrhae)
古代[[メソポタミア]]北部およびシリア北部の商業・文化・政治・宗教の中心都市であった場所で、現在は非常に貴重な[[考古遺跡]]となっている。
 
 
 
また[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|大プリニウス]]によればハランの特産品は Stobrum の木から採れる香りのよい粘液であったとされる([[博物誌]] xii. 40)。ハランの街はメソポタミア神話の月の神[[シン (メソポタミア神話)|シン]]の祭儀の中心であり、[[バビロニア]]時代のみならず[[古代ローマ]]時代までその崇拝は続いた。
 
 
 
ハランはローマ時代には「カルラエ」と呼ばれたが、その遺跡はこの地方に今も残る。ハッラーンの街はローマ時代から[[サービア教徒]]の時代、[[イスラム教]]や[[十字軍]]の時代まで存続し、イスラム世界の学問の中心としても栄えたが、[[モンゴル帝国]]の襲来で廃墟と化し、以後再建されることはなかった。その遺跡は[[トーマス・エドワード・ロレンス|T.E.ロレンス]]が調査し、イギリスとトルコによる共同発掘調査が1951年から1956年まで続いた。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 古代のハラン ===
 
[[ファイル:Syria2mil.JPG|thumb|300px|古代オリエント・[[シリア地方]]の地図]]
 
ハッラーンはトルコとシリアの国境に近く、古代にはエデッサの名で知られた[[シャンルウルファ]](ウルファ)の街から南東へ44kmほどの位置にある。シャンルウルファからハッラーンまでの道は、トルコ南東部の農業の中心である灼熱のハッラーン平原をまっすぐ伸びている。
 
 
 
古代メソポタミア文明の都市としての最盛期には、ハランは南の[[ダマスカス]]からの道と、[[ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]と[[カルケミシュ]]を結ぶ道が交わる地点にあり、古代オリエントにおいては戦略的に非常に重要な地であった。なおかつ、ハランやエデッサは[[ユーフラテス川]]やその支流[[バリフ川]]の上流の平原にあり、土壌は肥沃で雨量もメソポタミア南部より多く、[[農耕]]が早くから行われた地であった。
 
 
 
[[アッシリア]]の[[粘土板]]文書において、ハランは「'''ハラヌ'''」(Harranu、[[アッカド語]]で道路・通り道・旅を意味する「harrānu」より)の名で、[[紀元前1100年]]ごろの[[ティグラト・ピレセル1世]]の時代以来頻繁に現れている。[[ヒッタイト]]の[[シュッピルリウマ1世]]は、ハラン付近を支配していた[[フルリ人]]の[[ミタンニ|ミタンニ王国]]を破り、ミタンニの王に[[シャッティワザ]]を擁立して条約を交わしたが、シュッピルリウマ1世の息子でカルケミシュの副王ピヤシリはミタンニ征服の途上でハランを焼き払った。
 
 
 
ハランは紀元前763年にも略奪されたが、[[アッシリア|新アッシリア]]の帝王[[サルゴン2世]]により復興された。
 
 
 
紀元前612年にアッシリアの[[シン・シャル・イシュクン]]は、[[新バビロニア]]と[[メディア王国|メディア]]に敗れて首都ニネヴェが奪われ([[ニネヴェの戦い (紀元前612年)|ニネヴェの戦い]])、アッシリアの亡命政権の首都はハランに移された。紀元前608年にアッシリアはハランでも敗れ、滅亡した({{仮リンク|ハッラーン陥落|en|Fall of Harran}})。紀元前605年にアッシリアと同盟を結んでいた、[[古代エジプト]]の[[ネコ2世]]が新バビロニアと戦った([[カルケミシュの戦い]]<ref>旧約聖書[[エレミヤ書]]46:2</ref>)。
 
 
 
ハランにあり古くからの崇敬を集めていた月神[[シン (メソポタミア神話)|シン]]の神殿は、新アッシリアの[[アッシュールバニパル]]や新バビロニアの[[ナボニドゥス]]などにより何度も再建された。ローマ時代のシリアの歴史家[[ヘロディアヌス]](紀元[[170年]] - 紀元[[240年]]頃)もハランにあった月の神殿について言及している。
 
 
 
[[ユダ王国]]の[[ヒゼキヤ]]王と同じ時代、ハランはアッシリアに対し反乱を起こし、アッシリアに再征服される<ref>[[列王記]]下19章12節、[[イザヤ書]]37章12節</ref>。ハランに与えられていた特権の多くは奪われたが、[[サルゴン2世]]が後に回復した。
 
 
 
=== メディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ ===
 
新アッシリアが崩壊に向かう最中、ハランはその最後の王[[アッシュール・ウバリト2世]]の本拠となったが、紀元前609年に新バビロニアの王[[ナボポラッサル]]の軍勢に包囲され征服された。その後はハランは[[メディア王国]]の一部となり、さらに[[アケメネス朝]][[ペルシャ]]が引き継いだ。その支配は紀元前331年、[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の軍勢による征服と入城まで続いた。
 
 
 
紀元前323年6月11日にアレクサンドロスが没すると、ハランはその後継者たち([[ディアドコイ]])の争奪に巻き込まれる。[[ペルディッカス]]、[[アンティゴノス1世|アンティゴノス]]、[[カルディアのエウメネス]]らがハランを相次ぎ支配したが、最終的には[[セレウコス1世|セレウコス1世ニカトール]]の支配下になり[[セレウコス朝]]の{{仮リンク|オスロエネ|en|Osroene|label=オスロエネ地方}}(旧名のウルハイ Urhai から[[ギリシャ語]]化された)の首都となった。その後1世紀半にわたりハランは繁栄を謳歌した。
 
 
 
=== オスロエネ王国 ===
 
[[パルティア]]がバビロニア地方を征服した頃には独立状態になった。ハランやエデッサはペルシャのパルティアとシリアのセレウコス朝との緩衝国となり、[[アラブ人]]の{{仮リンク|アブガル朝|en|Abgar (disambiguation)<!-- 曖昧さ回避ページ -->|FIXME=1}})がパルティアの[[シャー]]の臣下となって{{仮リンク|オスロエネ|en|Osroene|label=オスロエネ王国}}[[紀元前132年]] - [[244年]])を3世紀以上にわたり治めた。
 
 
 
ハランは、ローマにはラテン語で「カルラエ」(Carrhae)の名で知られていた。[[共和政ローマ|ローマ共和国]]と[[パルティア]]の間で行われた[[カルラエの戦い]]([[紀元前53年]])の古戦場でもある。この戦いでは[[スレナス]]に率いられたパルティア軍が[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]率いるローマ軍を大敗させ、クラッススは捕まり殺されている。[[217年]]、[[カラカラ]]帝は[[シャンルウルファ|エデッサ]]から[[パルティア]]との戦いに赴く途上、この付近で近衛軍団長[[マクリヌス]]に殺された。[[ガレリウス]]帝は[[296年]]、パルティアを滅ぼした[[サーサーン朝]]の軍勢にこの付近で敗北している。
 
 
 
ハランはオスロエネ王国のもとで非常に早い時期から[[キリスト教]]を受容しその中心地のひとつとなった。最初から[[教会]]にする目的で公開的に建設された最初の[[教会堂]]もハランにあった。ハランには司教も住んでいたが、ハラン市民の大部分は古代からの月神や星辰への信仰を続けた。
 
 
 
=== ローマ帝国 ===
 
オスロエネ王国はローマの属国となり半独立を維持したが[[244年]]にローマ帝国に吸収された。
 
 
 
=== サーサーン朝 ===
 
ハランの地は勃興するサーサーン朝に飲み込まれその支配下にあった。
 
 
 
=== イスラム時代のハッラーン ===
 
[[651年]]にアラブ人がサーサーン朝を滅ぼし[[イスラム帝国]]を打ち立てた。イスラム教の時代の初期、ハッラーン(ハラン)やアル=ルファ(エデッサ)、[[ラッカ|アル=ラッカー]]などを主要都市とする北メソポタミア([[ジャズィーラ地方]])西部にはアラブ人のうちムダル部族が住み、ディヤルムダル(Diyar Mudar)と呼ばれるようになる。
 
 
 
[[ウマイヤ朝]]の最後の[[カリフ]]・[[マルワーン2世]]の時代にはハッラーンは[[スペイン]]から[[中央アジア]]までの大帝国を治めるカリフの座所となった。
 
 
 
=== サービア教徒のハラン ===
 
月神や星辰を崇拝していた人々は9世紀以後、[[アッバース朝]]の支配下で[[啓典の民]]の一つ「[[サービア教徒]]」を名乗り、ハッラーンを中心に独自の信仰を育んでゆく。ハッラーンの住民が「サービア教徒」を名乗るきっかけとして、[[830年]]の出来事が挙げられる。この年、[[アッバース朝]]のカリフ・[[マアムーン|アル=マアムーン]]が[[東ローマ帝国]]への遠征の途中にハッラーンを通過したが、ハッラーンの住民が異教を信じていることに驚き、[[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]・[[イスラム教]]など同じ[[啓典]]を信じる「[[啓典の民]]」への改宗を命じた。ハッラーンの住民はアッバース朝支配下で生きるため、[[クルアーン]]に言及される啓典の民の一つであるサービア教徒であると自称した。イラク南部にあった[[グノーシス主義]]のサービア教は当時すでに衰退しておりその実態はほとんど知られていなかったことが好都合な点であった。ハッラーンの自称サービア教徒と、クルアーンに言及されたサービア教徒との関係は、以後論争の的となる。
 
 
 
[[8世紀]]末から[[9世紀]]にかけ、ハッラーンでは[[古代ギリシャ語]]の[[天文学]]・[[哲学]]・[[自然科学]]・[[医学]]の文献を[[アッシリア人]]が[[シリア語]]に訳し、さらに[[アラビア語]]に翻訳していた。[[バグダード]]が翻訳および学問の中心となるまでの間、ハッラーンが古代地中海世界の知識をアラブ世界へと導入する学問の中心地となった。自然科学や医学における重要な学者がハッラーン出身の非アラブ人・非ムスリムの人々(サービア教徒やアッシリア人など)から多く輩出されたが、重要な化学者である[[ジャービル・イブン=ハイヤーン]](ゲーベル)がハッラーンで学んだという説もある<ref>{{cite web |url=http://www.1911encyclopedia.org/Geber |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2006年11月22日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070319064110/http://www.1911encyclopedia.org/Geber |archivedate=2007年3月19日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
 
 
[[1032年]]または[[1033年]]、農村部の餓えた[[シーア派]]住民や都市部の貧民によるムスリム民兵組織が蜂起して大都市ハッラーンを襲い、サービア教の神殿やサービア教徒のコミュニティを破壊し、以後サービア教徒は離散し消滅した。[[1059年]]から[[1060年]]にかけ、神殿は西ジャズィーラ(ディヤルムダル)地方で勢力を増していたアラブ人王朝(Numayrids)により要塞化された王宮として再建され、[[ザンギー朝]]の[[ヌールッディーン]]はこれを強固な要塞へと変えた。
 
 
 
=== 十字軍の襲来 ===
 
11世紀末には[[十字軍]]が中東に襲来した。ハッラーンを制圧した十字軍([[エデッサ伯国]]のボードゥアン2世とジョスラン1世)とムスリム勢力([[モースル]]のジェケルミシュや[[マルディン]]のソクマンなど[[セルジューク朝]]系の領主たち)の間で、[[1104年]][[5月7日]]に「{{仮リンク|ハッラーンの戦い|en|Battle of Harran}}」と呼ばれる決戦が[[バリフ川]]の谷間において起きた。この戦いは、アルメニア人の年代記作者{{仮リンク|エデッサのマチュー|en|Matthew of Edessa}}によればこの戦場はハッラーンから2日かかる場所であったとされる。{{仮リンク|アーヘンのアルベルト|en|Albert of Aix}}や、{{仮リンク|シャルトルのフーシェ|en|Fulcher of Chartres}}といった年代記作者たちはバリフ川とユーフラテス川が合流する[[ラッカ]]の対岸にある平野としている。この戦いで、十字軍側は敗れ{{仮リンク|ボードゥアン2世 (エルサレム王国)|en|Baldwin II of Jerusalem<!-- [[:ja:ボードゥアン2世 (エルサレム王)]] とリンク -->|label=エデッサ伯ボードゥアン2世|FIXME=1}}はセルジューク朝の兵士の捕虜となった(釈放された後は[[エルサレム王国]]の国王となった)。
 
 
 
=== アイユーブ朝 ===
 
[[ファイル:Harran.jpg|thumb|[[アイユーブ朝]]時代のハッラーン大学の廃墟]]
 
 
 
[[12世紀]]の終わり頃、ハッラーンとラッカはともに[[アイユーブ朝]]の王子たちが置かれた。アイユーブ朝のジャズィーラ地方の支配者だった[[アル=アーディル]]はハッラーンの城塞を強化した。
 
 
 
=== モンゴルの襲来 ===
 
しかし[[1250年代]]に入り、[[モンゴル帝国]]の襲来([[フレグの西征]])でジャズィーラの諸都市はことごとく破壊された。大都市だったハッラーンも完全に破壊され、以後再建されることなく放棄され現在に至っている。[[スンニ派]]の[[ハンバル学派]]の高名な学者[[イブン・タイミーヤ]]の父はハッラーンからの難民でダマスカスに移住していた。[[13世紀]]のアラブの歴史家[[アブ・アル=フィダ]](アブー・アル=ファイド、1331年没)はハッラーンを廃墟と記している。
 
 
 
== 現在のハッラーン ==
 
[[ファイル:Harran2.jpg|thumb|right|300px|ハッラーンのビーハイヴ・ハウス]]
 
現在のハッラーン地方は、[[アドベ|日干しレンガ]]で造られ木材を一切使わない、伝統的なドーム屋根の「ビーハイブ・ハウス」([[養蜂箱|蜂の巣箱]]状住宅)で有名である。この形状は中が涼しく、灼熱のこの地でも快適に過ごせるようになっており、この3000年以上基本的な設計は変わっていないとみられる。[[1980年代]]までは一般の居住用にも使われていたが、現在残っているこの型の住宅は観光客のための展示用であり、ハッラーンの住民のほとんどは遺跡から2km離れた新しい村に移っている。
 
 
 
現在は遺跡となっている古代都市ハッラーンでは、市の城壁や要塞が今も形をとどめており、市の城門のうちの一つは今も建っている。また中世に栄えた大学は、アイユーブ朝時代の建築の一部が残っている。近傍にある紀元前4世紀の墳墓も発掘がすすめられている。
 
 
 
ハッラーンの新しい村はトルコの中でも貧困な地方にある寒村で、ハッラーン平原での生活は夏の高温のため過酷である。住民の多くはアラブ系で、伝統的な様式に従い暮らしており、遺跡の観光客に近寄って商売やガイドなども行っている。この地のアラブ人は、[[18世紀]]に[[オスマン帝国]]により移住させられてやってきたとされている。
 
 
 
ハッラーン平原を流れていたバリフ川水系の支流群が1980年代末に涸れて以降、平原の多くの個所で農耕が放棄された。しかしトルコ政府がチグリス・ユーフラテス上流で計画する灌漑計画「{{仮リンク|南東アナトリア計画|en|Southeastern Anatolia Project}}」により灌漑工事が行われ、再度緑を取り戻しつつある。[[綿花]]や[[コメ]]の栽培も再開されている。
 
 
 
== 旧約聖書のハラン ==
 
ハランは[[旧約聖書]]で、[[アブラハム]]が[[カナン]]の地に移る前に住んだ場所ともされている。[[地中海]]沿いにある都市国家[[ティルス|ティール]]の交易相手の中には、[[シリア]]や[[パレスチナ]]の諸都市とともにハランの名も見られる([[エゼキエル書]]27章23節)。
 
 
 
[[創世記]]11章31節、12章4-5節では、[[テラ (聖書)|テラ]]が息子[[アブラハム]]、孫の[[ロト (聖書)|ロト]]({{仮リンク|ハラン (聖書)|en|Haran|label=ハラン}}の息子)、アブラハムの妻[[サラ|サライ]]とともに、[[カルデア]]の[[ウル]]から[[カナン]]の地に向かう途中にハラン(Haran、Harran、Charan、Charran ; [[ヘブライ語]]では חָרָן)に至り、そこにとどまった。テラはハランで没し、アブラハムは75歳の時にハランを出てカナンに向かった。学者たちは聖書のハランを現在のハッラーンと同定している。同じく創世記27章43節では、ハランには[[ラバン]]が住み、その妹[[リベカ]]は[[イサク]]と結婚した。後に、イサクの双子の息子[[エサウ]]と[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]は対立し、ヤコブはカナンを出てハランに住むラバンのもとへ逃げ、ラバンのところで働き20年を過ごす(創世記31章38-41節)。
 
 
 
テラの息子でロトの父{{仮リンク|ハラン (聖書)|en|Haran|label=ハラン}}は地名のハランと間違われやすいが、両者はヘブライ語での綴りが違う(הָרָן)。イスラム教では、人名のハーラーン([[ハラン (聖書)|ハラン]])は地名のハッラーンと結び付けられている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* Chwolsohn, Daniil Abramovic, ''Die Ssabier und der Ssabismus'', 2 vols. St. Petersburg, 1856. [Still a valuable reference and collection of sources]
 
* Green, Tamara, ''The City of the Moon God: Religious Traditions of Harran''. Leiden, 1992.
 
* Heidemann, Stefan, ''Die Renaissance der Städte in Nordsyrien und Nordmesopotamien: Städtische Entwicklung und wirtschaftliche Bedingungen in ar-Raqqa und Harran von der beduinischen Vorherrschaft bis zu den Seldschuken'' (Islamic History and Civilization. Studies and Texts 40). Leiden, 2002 .
 
* Rice, David Storm, "Medieval Harran. Studies on Its Topography and Monuments I", ''Anatolian Studies'' 2, 1952, pp. 36-84.
 
  
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聖書名ハルラン。現トルコの[[ウルファ]]の南方約 38km,バリク川沿いにあった古代都市。キリキアとアッシリア,アナトリアとバビロンを結ぶ重要な通商路の交差点にあたり,月神シン礼拝の中心地でもあった。アブラハムはウルを出てカナンへ入る前一時ここに滞在した (創世記 11・31~32) 。ローマ時代にはカルラエと呼ばれ,M.クラッススがパルティア人に敗れ (前 53) ,カラカラ帝がパルティア遠征を準備中に暗殺され (217) ,のちの皇帝ガレリウスがササン朝ペルシア軍に敗れた (296) のは,この地においてであった。マルクス・アウレリウス帝からゴルディアヌス3世の時代まではローマの支配下にあり,その後はローマとササン朝の取合いとなったが,639年アラブ人に征服された。
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== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Category:Harran, Şanlıurfa}}
 
 
* [http://www.pbase.com/dosseman/harran Pictures of the city]
 
* [http://www.pbase.com/dosseman/harran Pictures of the city]
 
* [http://www.livius.org/ha-hd/harran/harran.html More pictures]
 
* [http://www.livius.org/ha-hd/harran/harran.html More pictures]
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2018/10/27/ (土) 16:07時点における最新版

ハッラーンハラン、Harran)、別名カルラエ(Carrhae)

聖書名ハルラン。現トルコのウルファの南方約 38km,バリク川沿いにあった古代都市。キリキアとアッシリア,アナトリアとバビロンを結ぶ重要な通商路の交差点にあたり,月神シン礼拝の中心地でもあった。アブラハムはウルを出てカナンへ入る前一時ここに滞在した (創世記 11・31~32) 。ローマ時代にはカルラエと呼ばれ,M.クラッススがパルティア人に敗れ (前 53) ,カラカラ帝がパルティア遠征を準備中に暗殺され (217) ,のちの皇帝ガレリウスがササン朝ペルシア軍に敗れた (296) のは,この地においてであった。マルクス・アウレリウス帝からゴルディアヌス3世の時代まではローマの支配下にあり,その後はローマとササン朝の取合いとなったが,639年アラブ人に征服された。

外部リンク

座標: 東経39度02分北緯36.867度 東経39.033度36.867; 39.033



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