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障子

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s01:臨春閣の障子。聚楽第の遺構とも伝えられていたが、和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘・巌出御殿(いわでごてん)ではないかとされる。現在横浜三渓園
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s02:臨春閣の書院の障子。
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s03:聴秋閣の障子。聴秋閣は三代将軍家光の命により、佐久間将監が二条城内に建て、その後家光の乳母・春日局に下賜された茶屋。現在横浜三渓園

障子(しょうじ)は、現在の和風建築では明かりを通すように枠に(主に和紙)を貼っているものを指すが、元々はさえぎる道具(建具)の意味で[1]、現在のドア、戸、カーテン、ブラインド、衝立屏風までも含む。

概要

現在「障子」というとこの画像のように桟に和紙が貼られ、緩やかな光の差し込むものを云う。 しかし元々は「さえぎるもの」「ふさぐもの」の意味で[2][3]、建具一般を指した[注 1]。 「障子」の「障」には「さえぎる」という意味、「子」とは「小さな道具」という意味がある。 つまり「障子」とは文字の通り「さえぎる道具」である。

大陸伝来の「障子」も「屏風」も、寝殿の外壁に用いられた国産の「蔀」[4]も含めて、元々の言葉の意味は同じで、視線、風、光、寒さなどを「さえぎるもの」である。 例えば「衝立」は日本では「障子」と呼ぶが、中国では「屏風」である[5]。 それが時代とともにそれぞれの言葉で呼ばれるものが変化していった。

奈良時代の「障子」については正倉院御物などに僅かに残るものの[6]、その当時の上層住宅の内部についてはほとんど史料が残っていない。 平安時代後半、寝殿造の初期の時代においては、建物の内部に壁や間仕切りは少なく、柱だけの空間を帷(かたびら)類、つまりカーテンや、御簾(みす)と呼ばれる簾(すだれ)を用いて区切り、生活の場を作った[7]。御簾は今ならブラインドだが、それも含めて「カーテン状の障子」としておく。

その後の建具の発達により、次第に現在の襖やショウジ[注 2]に近いもので仕切られるようになる[8]。「カーテン状の障子」に対して「パネル状の障子」の発達である。 現在のショウジの原型は12世紀に平清盛の六波羅泉殿の指図[9]に現れる「アカリシヤウシ(明障子)」との記載が初見であるが、それが現在の障子に近いものであるのかどうかは不明である。 ただ、鎌倉時代の絵巻には舞良戸の内側に現在のショウジに近いものが建てられた姿が多く描かれるようになる。

しかし15〜16世紀頃までは製材や工具の制約が大きく、現在のショウジや襖に相当するものも相当に骨太であり、特に引戸を嵌め込む敷居や鴨居の溝、桶の加工は大変で、そのため様々な試行錯誤が繰り返されてきた。 現在の襖やショウジのようになるのは江戸時代以降である[10]

カーテン状の障子

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411:聖霊院の御簾

御簾

画像411は法隆寺・聖霊院の御簾(みす)である。簾(すだれ)の敬称で特に上等のものを指す[11]。 外から中は見えないが、暗い中からは外が見える(画像412)。 平安時代から鎌倉時代には、女性と貴人は直に姿を見せることは少なく、貴人のいる場所を「簾中」と呼んだりもする。 建物の外周では夜は蔀を閉じているが、日中はの上部は通常外側に開くので御簾はその内側に掛ける。 更に内側に四尺几帳を置く。 中世には日常は明障子に置き換えられるが、仏事や儀式など正式な室礼には御簾が懸けられた。

几帳

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421:東京国立博物館蔵「類聚雑要抄指図巻」より、几帳。

几帳(きちょう)と壁代(かべしろ)は布のカーテンである。帷(とばり)を何枚か横に縫い合わせる。 ここでいう帷は絹の布であり、当然人手の機織であるので幅は着物の反物を想像すると判りやすい。 決まっているので『類聚雑要抄』にも布の長さは書いてあるが、布幅の記載は無い[12]

上から下まで全て縫うのではなく、中間は縫わずに布を押し開けばその隙間から向こう側が見えるようになっている。例えば『年中行事絵巻』巻3「闘鶏」では主人家族の男は寝殿東三間の御簾を巻き上げてあげて見物し、西の二間には御簾を下ろし、その内側に几帳が建てられている。 そこを良く見ると主人の家族なのか女房達なのか、4人の女性が几帳の中程を開いて闘鶏を見物している[13]

画像421が几帳(きちょう)で、持ち運び可能な台付きの低いカーテンである。 その構造は土居(つちい)という四角い木の台に2本の丸柱を立て、横木を渡す。それが几帳の「几」である。 それに「帳」、つまり帷を紐で吊す。 夏は生絹 (すずし) 、冬は練絹を用いた[注 3]

御簾の内側に立てるのは四尺几帳で、四尺とは土居(つちい)からの高さである。 6尺の帷5幅を綴じあわす。 表は朽木形文が多いがそれのみではない。 裏と紐は平絹である[14]。 三尺几帳は帷4幅、主人の御座の傍らなどに用いる。座っていれば高三尺で十分隠れる。 画像440の右上に奥方が寝そべって和歌を書いているが、その手前にあるのが三尺几帳である。 侍女達はその几帳のこちら側に居る。 (「几帳」も参照。)

壁代

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422:東京国立博物館蔵「類聚雑要抄指図巻」より、壁代。中段に南庇と母屋の境に巻き上げられている。

壁代(かべしろ)は几帳から台と柱を取って、内法長押(うちのりなげし)に取り付けたようなカーテンである。約3mの柱間を覆うのだから横幅も丈も几帳に使うものよりかなり大きい。 壁代は綾絹製で併仕立。表は几帳と同じく朽木形文などの模様で裏は白地である[15]

類聚雑要抄』巻第四には「壁代此定ニテ、七幅長九尺八寸也」とある[16][注 4]。 壁代は通常取り付ける高さより約2尺長い。 余った部分はちょうど几帳の裾のように外側に出す。 通常御簾の内側は四尺几帳だが、冬場は寒気を避けるために御簾の内側に壁代を掛け、その内側にまた几帳を立てた[17]

御簾を巻き上げるときは壁代も巻き上げるのを常とし、そのときは木端(こはし)という薄い板を芯にいれて共に巻き上げ野筋で結ぶ[18]。野筋とは帷に垂れ下がっている絹の紐である。 几帳にも付いている。 画像422の中段に御簾の裏側に巻き上げられた壁代が描かれている。

壁代の一種に引帷(ひきもの)というものもあり、室内を仕切るのに用いる[19]

軟障と幔

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424:軟障と幔

画像424は『年中行事絵巻』巻五「内宴」に描かれる綾綺殿(りょうきでん)とその前庭の場面で、ここに軟障と幔の両方が描かれている[20]

左が軟障(ぜじょう)で、今ならカーテンの一種である。 壁代や几帳は中程を押し開けば外が覗けるようになっているが、軟障は完全に縫い合わせて視界を遮り、覗けないようになっている。 室内で使い、高級品は大和絵が描かれたりする[21]

右が屋外で使うのが幔(まん)で、絵はなく太い鮮やかな縦縞である。 現在の幔幕と同じである。 寝殿造での儀式のとき、南庭の両サイドに張り、儀式の場と裏方を仕切ったりしている姿が『年中行事絵巻』の巻十などにある[22]

パネル状の障子

「御簾」「几帳」「壁代」なども障子なのだが、建具が多く記録に表れる寝殿造の時代以降にはそれぞれ「御簾」「几帳」「壁代」と呼ばれて「障子」と呼ばれることは少ない。その時代以降は「障子は木の骨組みに布や紙を貼った室内用の間仕切りパネル」[23]である。木枠付きの板の場合もある。

屏風と衝立

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s10:『伴大納言絵巻』に描かれた「昆明池障子」

パネル1枚に土居を付けて自立させたものが衝立、パネルに接扇(せつせん)という革紐で結んで複数枚繋げたのが屏風で[24]、屏風も衝立も古くは障子である。 衝立は日本では「障子」と呼ぶが、中国では「屏風」である[25]。 屏風は平安時代から「屏風」と呼ばれ、「障子」と呼ばれることは少ないが、衝立は日本では常に「障子」と云われた。 例えば内裏清涼殿にある「年中行事障子」や 「昆明池障子」、「荒海障子」はパネルに足の付いた衝立である[26]

衝立障子の歴史は古く、奈良時代・天平宝字5年(761年)の「法隆寺縁起井資財帳」には、橘夫人の奉納したものの中に「障子一枚」があるが、これも衝立のようである[27]。 この橘夫人の奉納した障子は高さ7尺(2.1m)、幅3.5尺(約1m)で[28]、現在の畳より大きく、現在の住宅の鴨居よりも高い。 当時の衝立は現在の衝立のイメージには収まらない。

画像s10は『伴大納言絵巻』に描かれた内裏・清涼殿の東広庇北側[29]の昆明池障子である。絵巻なので広庇の幅は短く描かれているが、高さ6尺、横9尺(約2.7m)と云い、広庇の柱間を完全に塞いでいる。 形は衝立でも用途はほとんど紫宸殿の押障子・賢聖障子と変わらない。 寝殿造侍廊の前を覆った「立蔀」(画像621)も地面に置く衝立である。

『類聚雑要抄』にある室礼

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420:類聚雑要抄・巻2」[30]にある東三条殿の指図。

画像420は12世紀前半の『類聚雑要抄』巻第二[31]にある東三条殿(画像030)の塗籠を除いた寝殿・母屋から南庇にかけての室礼(しつらえ)の指図である。 柱(黒丸)の列が横に3列描かれている。 一番下の柱列が庇の外側の側柱(参考:画像213)の列で、下から1/3ぐらいにある柱列が母屋南側の入側柱、一番上の柱列が母屋北側の入側柱である。 なおこの指図の中の障子に限り太字で示す。

空間の仕切りをまず横の列を下から見て行くと、一番下の庇の南面、簀子縁側には四尺几帳が置かれている。 何尺と書かれていなければ四尺几帳である。 御簾は書かれてはいないが必ず掛けられる[32]

次ぎの列、母屋と南の庇の間の隔ても指図には省略されているが、文中に「母屋の四尺几帳の高さに巻き上げる。鉤あり、おのおの壁代を懸ける」[33]とある。 この図を含む記事のタイトルは「御装束」とだけあり、何月のものかは記されていないが、壁代を掛けているので冬場ということになる。

図の一番上の北庇との間は押障子鳥居障子画像450)が交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処である[34]。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いていたが、ここでは鳥居障子(襖)がその役目を果たしている。

縦の列、つまり側面を見ると、母屋に置かれた「帳」の東(右)に棟分戸と書かれているのが塗籠妻戸で、それを閉じて御簾を掛け、前に屏風が置かれている。 屏風は文字には現れないが折れ線の記号で描かれている。 「帳」の西(左)ははめ殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿ではこの位置には漆喰の白壁がある[35]。 南庇は両側(東西)を鳥居障子(襖)で仕切っている。 この「押障子」と「鳥居障子」はパネルとしての障子、つまり建具である。 建築図面にすると塗籠以外には壁の無い、柱だけの室内空間は実際にはこうしてカーテン状の障子、パネル状の障子で仕切って生活空間を作っていた。
(同指図の「障子」以外については>室礼#『類聚雑要抄』にある室礼を参照)

六波羅泉殿の障子

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430:平清盛の六波羅泉殿の指図[36]

多くの障子が史料上登場するのは平清盛の六波羅泉殿である[37]画像430の範囲だけでも「ヤリト(遣戸)」、「シトミ(蔀)」「カウシ(格子)」「「カヘ(壁)」「スキシヤウシ(杉障子)」「シヤウシ(障子)」「アカリシヤウシ(明障子)」「トリイシヤウシ(鳥居障子)」などが出てくる。 以下にパネル状の障子の内、明障子以外のものを先に説明し、明障子は「現在の障子の原型」として別に述べる。

遣戸障子

遣戸は現在の襖の原型であり、国産であって大陸には無い[38]。記録上は10世紀末頃を初見とする[39]。なお舞良戸(まいらど)も遣戸である。 立蔀のような格子(画像s06)を遣戸に用いることもある。 絵巻には現在の襖の原型を含む多くの障子が描かれるが、絵巻物自体が12世紀以降である。 それ以前については文献史料しかないが、物語を見ると『竹取物語』『伊勢物語』『土佐日記』には現在の襖のような遣戸は出てこない。 『宇津保物語』には壁代は出てくるがやはり遣戸は出てこず、10世紀末頃とされる『落窪物語』に始めて「中隔ての障子をあけたまふに」と襖のような遣戸が出てくる[40]。 『源氏物語』にも出てくる。 平安時代も末、12世紀頃には、内裏や寝殿の儀式のときの室礼の指図に「ショウシ」あるいは「障子」と書かれるものが多くあり、それらは引違戸の記号で書かれる(画像620)。

現在の襖や障子の上下の桶(溝)の幅は襖や障子の幅より狭く、それで二枚の襖などが開いたときにはきちんと重なるが、この工夫は江戸時代からである[41]。 平安時代から室町時代の遣戸はそうはなっておらず、桶は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来る。 そのため遣戸を閉じたときに重なる部分に方立(ほうだて)、つまり細い柱を立ててその隙間を埋める。 実例は法隆寺・聖霊院[42]と、絵巻では『春日権現験記絵』に描かれている[43]

鳥居障子

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450:『枕草子絵詞』より鳥居障子。

画像450の襖状のものが鴨居の上まで含めて鳥居障子である。 寝殿造は今の襖や障子を前提とした建築物ではないので、内法長押(うちのりなげし)の位置が高い。 例えば寝殿造の工法を伝える西明寺の例では柱の芯々で9.4尺(2.84m)。柱と柱の間の開口部は8.3尺(2.5m)、内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)もある[44]。 その高さは東三条殿など最上級の摂関家の寝殿造でも同じで、現在の和風住宅の鴨居(約6尺)より約2尺(60cm)高いことになる。

その内法長押の位置が鴨居であったら襖は今より幅があるだけでなく、高さまで2尺も高くなってしまう。 当時は大工道具も未発達。 木材を縦に切る鋸はまだ無い[45]。柱や板は「打割製材」と言って画像aa0の右側のように割って作る[46]。 平鉋(ひらかんな)もない。 そんな時代に敷居や鴨居の溝を掘るのは大変で、そのため「子持障子」(後述)と云って、ひとつの溝に二枚三枚の明障子を填めることまである。

遣戸障子は今日から考えると実に武骨で大変重い建具であり滑りも悪い。今の襖なら指一本でも明けられるが、画像450の襖にも遣戸障子を開けるための40〜50cmほどのひもが描かれている。 また、現存する初期書院造、二条城大広間や園城寺・光浄院客殿の帳代構の襖にも、半ば装飾化はしているが同様に紐がつけられている。中世以前にはどれだけ重かったかがそれだけでも解る。 そのため日常生活にふさわしい遣戸障子、今でいう襖を収めるには、建物の一部である内法長押よりも下の位置に鴨居を取り付ける。 小泉和子によると内法長押の下一尺ほどのところに入れるという[47]。 それでも襖は今より一尺あまり高い。 そして鴨居と内法長押の間はやはり障子、つまりパネルを填める。 当時こうした形式の障子を神社の鳥居の形に似ていることから鳥居障子と呼んだ。

台記[48]に東三条殿(画像030)で開かれたかれた因明講仏事の室礼が記されているが、そこには東対西庇南第三間北側の鳥居障子を外し、母屋塗籠の妻戸の上と、その鳥居障子を外した部分に御簾を懸けるとある[49]画像450の鴨居は黒漆塗が塗ってある。 これは道具、建具であることを示している。 この当時の障子には軟錦(ぜんきん)が張られている。軟錦とは襖や障子の縁取り装飾として使用された帯状の絹裂地のことである。模様は違うが御簾(画像411)の縦についている帯と同じである。 画像450の鴨居の上、内法長押までの間の壁のように見える部分にも軟錦が貼られている。つまりそこも障子である。 現在では障子や襖は建物ではなく建具だが、鴨居や敷居は建物の一部である。 しかし寝殿造においては鴨居の上の、今なら塗り壁の部分も障子であり、敷居や鴨居も、その上のパネルも含めて取り外し可能な建具の一部である。

押障子

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452:『枕草子絵詞』より押障子

画像452は推定13世紀末の『枕草子絵巻』である[50]。 右下のパネルが押障子であり、一部に引き違いの襖のような遣戸障子が組み込まれているが押障子が長押の高さまであるパネルであることが良く判る。

内裏の紫宸殿で母屋と北庇を仕切る「賢聖障子」がもっとも有名であり、柱間に填めて間仕切りにする。 取り外し可能なパネルであり、現に紫宸殿では儀式のあるときだけ填めている[51]。 平安時代に入って間もない頃には「賢聖障子」という名はまだ無かったが弘仁12年(821年)の『内裏式』に紫宸殿の母屋と北庇を仕切る「樹板障子」が出てくる。 「賢聖障子」はその板障子に貼った絹布の上に中国の賢臣32名の絵を書いたものである[52]

脇障子

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440:『松崎天神縁起』の脇障子。

奈良時代から平安時代の寝殿造の初期までは高貴な人の寝室は塗籠の中に立てた帳台だった。それが時代とともに塗籠の外に出て、更に帳台を覆っていた絹のカーテン・帷(とばり)が、パネルとしての障子に変わる。 これを障子帳という[53]。 脇障子はその障子帳の入り口の脇のパネルである。

画像440は『松崎天神縁起』に出てくる播磨守有忠の居間で、右上で播磨守の妻が畳みの上で横になっている。 これは寝ているのではなく居間で夫婦がくつろいでいる図である。 妻は寝そべって歌を書いている。 妻の背後に黒い漆塗りの柱二本が見えるのが寝室「障子帳」である[54]。 『枕草子絵巻』の鳥居障子(画像450)の鴨居もやはり黒塗りだったが、建物は白木でも道具や建具は漆塗にする。 その二本の黒い柱の間に帷(とばり:カーテン)が下りるが、ここがその寝室、障子帳の入り口である。 二本の黒い柱の外側の短い壁のように見えるものにも軟錦が貼られている。 つまりこれはパネルの障子で脇障子という。

このように絵巻などに出てくる軟錦が貼られた狭い袖壁「脇障子」はそこが固定された障子帳であることを示す記号でもある。 固定された障子帳、つまり障子帳構を座敷飾りとしたものが初期書院造の「帳台構」である[55]。 なおこの「障子帳」は室内に単独で立てられたものではなく既に建物に組み込まれている。 この段階の「障子帳」を「障子帳構」と呼ぶことがある[56]

副障子

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442:『源氏物語絵巻』の副障子

副障子(そえしょうじ)とは壁に添える装飾用のパネルのことである。 やはり軟錦が周囲に貼られる。 絵巻に腰の高さの低い副障子が描かれているとそこが常居所(じょういじょう)、つまり居間を表す。 絵巻での初出は平安時代(12世紀前半)の画像442、『源氏物語絵巻』「宿木」段の清涼殿朝餉間(あさがれいのま)である[57]

先の『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間(画像440)では、播磨守(左)の背後にあるのが副障子である[58]

12世紀半ば過ぎの『病草子』「不眠症の女」にも副障子は描かれている[59]。 鎌倉時代の絵巻では『法然上人絵伝』(画像a80)や『慕帰絵詞』(画像481)の塗籠の中にも描かれている。 周囲に軟錦(ぜんきん)が貼られ、高級なものでは大和絵が描いてある。 『病草子』「不眠症の女」は主人の部屋ではなく侍女の部屋のためか大和絵ではなく唐紙である。 また『春日権現験記絵』の紀伊寺主の屋敷には更に格の低い、軟錦は張られているが無地の副障子が出てくる[60]

杉障子

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460:『慕帰絵詞』の杉障子の絵

遣戸障子が現在の襖であるとは限らないのがこの杉障子である。 単に「杉戸」とも云い、黒漆塗りの框に杉、檜、槙などの一枚板を嵌め込んでいる[61]。 杉は檜と同様に真っ直ぐな木で上質なものは縦に割りやすい。 今なら製材機で簡単に板が作れるが、平安・鎌倉時代にそんなものは無く、それどころか大木を縦に切る大鋸(おが)すら15世紀からである。 寝殿造の時代には板は割って作り、仕上げは槍鉋(画像aa2)で削る。 それで幅広の板まで作っている(画像aa0)。

なお木材は杉だけとは限らず杉障子も含めて板障子とも呼ばれるが、杉障子という用語が良くでてくることから杉を使う場合が多かったと思われる。 なお、内裏紫宸殿の「賢聖障子」も板のパネルに絹を張り、その上に絵を描いたものであるが[62]、杉障子・杉戸は絹などを貼らずに、板に直接絵を書く。 画像470は『慕帰絵詞』にある杉障子である。ここでは建物の外周に使われており、その杉戸には鳥や草木が描かれている。馬もよく描かれる。

現在の障子の原型

明障子

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s06:極楽坊の格子遣戸と明障子
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s05:聴秋閣の腰高障子。中央の開いているその両側が腰高障子。

平清盛の六波羅泉殿の指図(画像430)の左上に「アカリショウシ」(明障子)の記載がある。それが壁、遣戸などとともに寝殿の外との隔ての位置に出てくる[63]

鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子はちょうど画像s06画像s09のように外側には蔀、または舞良戸が描かれ、現在のショウジ[注 2]に近づくが、『山槐記』にある指図には「アカリショウシ」とあるだけで、その外側に蔀なり舞良戸なりがあったのかどうかは判らない。 従って鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子と同じかどうかは判らない。 もちろん指図を書くのは内部の室礼の為で、従って視線は中から、そして明障子の外側までには関心が無かったということも考えられる。

当時の明障子に張られたのは和紙とは限らず、すずし(生絹)も使う[64][注 3]。 一方で、その当時から障子紙は現在のもの程度の薄い和紙が使われていたという記録もある。清盛の外孫にあたる東宮、後の安徳天皇が満一歳なって平清盛の屋敷を訪れたときに、清盛に教えられるまま指につばをつけて明障子に穴をあけたことが『山槐記』に記されている[65][66]

腰高障子

鎌倉時代の絵巻に現れる明障子はちょうど画像s09のように、の下半分を填めたままにし、蔀の上の部分を開放して、そこから日差しを取り入れる姿が多い。 この姿を障子1枚で実現したものが南北朝時代の観応2年(1351年)に描かれた本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』の僧房に描かれている。下半分を舞良戸仕立て、上は明障子で「腰高障子」と呼ぶ。 画像s05は当初二条城内に建てられた茶屋・聴秋閣であるが、中央の開いているその両側が腰高障子である。 この腰高はは少し低く見えるが通常約80cmで、蔀の下半分とほぼ同じ高さである[67]

子持障子

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s07:元興寺極楽坊の子持障子

鎌倉時代以降、蔀や舞良戸の内側に現在の障子に似た明障子がセットで用いられることが多くなるが、鉋が未発達で上下の溝を掘ることが大変だったために、ひとつの溝に二枚、三枚の明障子を填めることがある。これを「一本溝子持」「子持障子」という[68]。 子持でない場合もあるが、溝を掘る手間の削減ということで合わせて紹介する。

一枚のケース

溝ひとつに明障子一枚なら子持障子とは云えないが、問題は明障子の溝が2本ではなく1本しかないことがある。実例は東寺太子堂の格子戸と明障子の組み合わせである。 格子遣戸は二枚でそれぞれ溝を持つが、明障子は1枚だけである。 外が蔀ならば明障子二枚とも採光出来るが、外が遣戸なら片側しか採光出来ない。 明障子はその片側だけ用意している[69]

二枚のケース

画像s07は元興寺極楽坊の本堂正面の子持障子で、画像s06の鴨居の部分である。 ひとつの溝に二枚の明障子が入っている。 太い桶に二枚の障子をいれると、召合わせ、つまり障子の重なっていない方の端がガタガタしてしまうので、召合わせの縦框(たてがまち)、つまり重なる方の障子の縦枠はそのままにして柱側、重ならない方の縦框をほぼ溝幅に合わせて作る。こうすると、明障子は外れることなく、引き違うことができる[70]

三枚のケース

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s09:十輪院の正面

三枚のケースは奈良の十輪院の本堂正面にある(画像s09)。 十輪院の正面は五間、柱間寸法は中央の一間だけが9尺、他は全て7尺である[71]。 三枚のケースはその9尺の正面中央である。その両脇は普通に子持二枚組みである。 この場合は桶、つまり上下の溝は障子2枚分である。両側の障子は室内から見て桶の外側、真ん中の障子は桶の内側で、両側の障子の柱側の縦框を溝幅に合わせる。真ん中の障子は左右どちらも桶の半分の幅である。そして通常はその左右に心張り棒を入れて真ん中の障子を外から開けられないようにしている。開けられるのは真ん中の障子だけで、そのときはどちらかの心張り棒を外し、そちらに開く。

四枚のケース

四枚のケースは最古の方丈建築とされる京都・龍吟庵の方丈である。 もっとも現在の四枚組みの襖やショウジでも溝は2本なので1本溝に二枚のケースと大差無いのだが、龍吟庵の四枚は中央の二枚が幅広で、両端の二枚の幅が短く、開くのは中央の幅広二枚だけで、両端の短い障子は実際にはほとんど動かさない[72][73]。 その点は十輪院の本堂正面と同じだが、この場合は両端の短い障子は溝を共有する相方が常にあるので、十輪院のように心張り棒を使わずに済む。

鴨居、敷居の桶

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s08:法隆寺・聖霊院の明障子の縦框

なお、画像s07の現在なら鴨居に相当する部分は現在と同じように鴨居に掘る場合もあるが、掘るのではなく、十輪院の本堂では内法長押に桶端、つまり土手になる部分を打ち付けたり、あるいは慈照寺東求堂(とうぐどう)では鴨居に桶端を打ち付けたりして掘る手間を避けている[74]

先に平安時代から鎌倉時代には桶は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来、そのため法隆寺・聖霊院などでは遣戸を閉じたときに重なる部分に方立(ほうだて)、つまり細い柱を立ててその隙間を埋める[75]と書いたが、同じ聖霊院の子持でない明障子は画像s08のように桶は明障子と同じ幅だが、閉じたときに隙間が出来ないように縦框の溝より上の部分の見込みが明障子二枚の二つの桶の土手分を埋めるようにそこだけ幅広に作ってある。 この外側は夜間は蔀で塞がれる。

なお、画像s08の明障子の桟は現在のショウジの桟とは見付けも見込みも全く違い、格子の桟とほとんど変わらない。これがかつての明障子である。ただし、明障子の縦框は古いもののようだが、敷居と明障子の桟は平鉋掛けで室町後期以降の修理である。建具は傷みが早く、鎌倉時代のものが残るのは極めて希である。 法隆寺・聖霊院には側面には鎌倉時代や南北朝時代の建具、具体的には蔀が残るが、この正面の明障子の外側の蔀は江戸時代元禄4年(1691年)の制作である[76]

雨戸

現在のショウジはガラス戸や雨戸で保護されている。例えば和室のショウジの外側は縁側であり、その縁側の外側はガラス戸と雨戸である。ガラス戸が出来る前は木製の雨戸だけだった。 その雨戸が登場したのは桃山時代で、記録に登場するのは豊臣秀吉の聚楽第の平面図からである[77]。 なお、現存遺構としては二条城黒書院や大広間である。そこでは戸袋が大きく、雨戸だけでなく、昼間用の明障子も一緒に収めていたという[78]

脚注

注記

  1. 『建築大辞典』には「①平安時代に現れた障屏具の総称。〔そうじ〕ともいう」とある(建築大辞典1993、pp.719-720)。 『日本史広辞典』には「屋内の間と間の隔てに立てて人目を防ぐもの。もとは板戸、襖、明障子、衝立、屏風などの総称」とある(日本史広辞典、p.1081)。つまり建具・障屏具の総称ということになる。
  2. 2.0 2.1 以降現在の障子は「ショウジ」と記す。
  3. 3.0 3.1 すずし(生絹)とは生糸を練らないで織った絹織物で薄くて軽い[1]。一方練絹は練り糸を織った絹織物である[2]。すずし(生絹)よりは防寒に役に立つ。
  4. 『類聚雑要抄』は東三条殿の室礼を記したものなので、この「壁代此定ニテ、七幅」などからは母屋の柱間寸法は10尺ということになる。(川本重雄2015)。

出典

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  1. 迎井夏樹1973、p.70
  2. 迎井夏樹1973、p.70
  3. 高橋康夫1985、p.23
  4. 高橋康夫1985、pp.19-20
  5. 小泉和子2015、p.41
  6. 小泉和子2005、pp.56-77
  7. 小泉和子2005、p.108
  8. 小泉和子2005、pp.132-136
  9. 山槐記、治承2年11月12日条・巻1,p.162
  10. 高橋康夫1985、p.102
  11. 建築大辞典1993、p.1478
  12. 類聚雑要抄、pp.598-600
  13. 年中行事絵巻、p.18上段
  14. 関根正直1925、pp.8-9
  15. 関根正直1925、下、p.6
  16. 類聚雑要抄、p.596
  17. 小泉和子1979、p.23
  18. 関根正直1925、下、p.7
  19. 小泉和子2015、p.41
  20. 年中行事絵巻、p.28下段
  21. 関根正直1925、下、p.9
  22. 年中行事絵巻、pp.50下段-53上段
  23. 小泉和子2015、p.40
  24. 小泉和子2015、p.43
  25. 小泉和子2015、p.41
  26. 小泉和子2005、p.84
  27. 高橋康夫1985、p.23
  28. 高橋康夫1985、p.23
  29. 小泉和子2005、p.84
  30. 類聚雑要抄、p.555
  31. 類聚雑要抄、p.555
  32. 小泉和子2015、p.43
  33. 川本重雄1998、p.168
  34. 小泉和子2005、p.87
  35. 年中行事絵巻、p.22下段・p.24上段
  36. 山槐記、治承2年11月12日条・巻1,p.162
  37. 山槐記、治承2年11月12日条・巻1,p.162
  38. 高橋康夫1985、p.42
  39. 川本重雄1987、p.75
  40. むしゃのこうじ2002、pp.49-50
  41. 高橋康夫1985、p.102
  42. 高橋康夫1985、p.93
  43. 春日権現験記絵、下,p.6下段,p.7上段
  44. 日本建築史図集2011、p.112
  45. 竹中大工道具館2009、p.20
  46. 竹中大工道具館2009、p.20
  47. 小泉和子2015、p.40
  48. 台記』仁平4年(1154年)10月21日条
  49. 川本重雄2005a、pp.180-181
  50. 枕草子絵詞、p.47
  51. 高橋康夫1985、p.28
  52. 高橋康夫1985、p.27
  53. 小泉和子2015、pp.38-39
  54. 小泉和子2015、pp.38-40
  55. 小泉和子2015、p.39
  56. 小泉和子2015、p.39
  57. 源氏物語絵巻、pp.30-31
  58. 松崎天神縁起、p.53下段
  59. 病草紙、p.99
  60. 春日権現験記絵、下・p.13上段
  61. 小泉和子2005、p.135
  62. 高橋康夫1985、p.27
  63. 山槐記、治承2年(1178年)11月12日条
  64. 高橋康夫1985、p.27
  65. 山槐記、治承3年(1179年)12月16日条
  66. 高橋康夫1985、p.46
  67. 伝統のディテール1972、p.104
  68. 伝統のディテール1972、p.102
  69. 高橋康夫1985、pp.100-101,図3-2
  70. 高橋康夫1985、pp.103-104
  71. 鈴木嘉吉他1981、p.20
  72. 高橋康夫1985、p.104
  73. 伝統のディテール1972、p.103 写真25
  74. 伝統のディテール1972、p.102
  75. 高橋康夫1985、p.93
  76. 高橋康夫1985、p.92
  77. 高橋康夫1985、p.81
  78. 高橋康夫1985、p.82

参考文献

書籍・論文

  • むしゃのこうじ・みのる 『襖(ふすま)』 (ものと人間の文化史)法政大学出版局、2002年。
  • 関根正直 『増補宮殿調度図解』 六合館、1925年。
  • 迎井夏樹 「障子」 『建築もののはじめ考』 新建築社、1973年。
  • 金春国雄編 『建築大辞典』 彰国社、1993年。
  • 高橋康夫 『物語・ものの建築史-建具のはなし』 鹿島出版会、1985年。
  • 小泉和子 『家具と室内意匠の文化史』 法政大学出版局、1979年。
  • 小泉和子 『室内と家具の歴史』 中央公論新社、2005年。
  • 小泉和子編 『図説日本インテリアの歴史』 河出書房新社、2015年。
  • 川本重雄 「寝殿造の歴史像」 『古代文化-特集/寝殿造研究の現状と課題』 (第39巻11号) 古代学協会、1987年。
  • 川本重雄・小泉和子編 『類聚雑要抄指図巻』 中央公論美術出版、1998年。
  • 川本重雄(初出2005) 『寝殿造の空間と儀式』 中央公論美術出版、2012年。
  • 伝統のディテール研究会 『改定・伝統のディテール』 彰国社、1972年。
  • 竹中大工道具館・文、安田泰幸・画 『水彩画で綴る大工道具物語』 (竹中大工道具館収蔵品)、朝倉書店、2009年。
  • 日本建築学会編 『日本建築史図集』 (新訂第三版)彰国社、2011年。
  • 日本史広辞典編集委員会 『日本史広辞典』 山川出版社、1997年。

史料

  • 「類聚雑要抄」 『群書類従 第26輯』 続群書類従完成会、1929年。
  • 史料大成19 『山槐記』 内外書籍、1935年。
  • 小松茂美 日本の絵巻1 『源氏物語絵巻・寝覚物語絵巻』 中央公論社、1987年。
  • 小松茂美 続日本の絵巻13 『春日権現験記絵』 中央公論社、1990年。
  • 小松茂美 続日本の絵巻22 『松崎天神縁起』 中央公論社、1992年。
  • 小松茂美 日本の絵巻8 『年中行事絵巻』 中央公論社、1987年。
  • 小松茂美 日本の絵巻7 『餓鬼草紙 地獄草紙 病草紙 九相詩絵巻』 中央公論社、1987年。
  • 小松茂美 日本の絵巻10 『葉月物語絵巻 枕草子絵詞 隆房卿艶詞絵巻』 中央公論社、1988年。

関連項目