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[[ファイル:Class-A War Criminals in bus.JPG|thumb|350px|護送中のA級戦犯指名された人物ら。最前列通路側左が[[荒木貞夫]]、その斜め後ろが[[東條英機]]]]
 
'''A級戦犯'''(Aきゅうせんぱん)は、 [[第二次世界大戦]]の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による[[ポツダム宣言]]六條<ref>ポツダム宣言六條、「日本を世界征服へと導いた勢力の除去」 [[:S:ポツダム宣言#ポツダム宣言六条|ウィキソース上「ポツダム宣言」該当部分日本語訳]]</ref>に基づき、[[極東国際軍事裁判所憲章|極東国際軍事裁判所条例]]第五条(イ)項<ref>極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項 [[#極東国際軍事裁判所条例第五条|極東国際軍事裁判所条例第五条]]</ref>により定義された[[戦争犯罪]]に関し、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)により有罪判決を受けた者である。
 
  
条例では、a.[[平和に対する罪]]、b.(通例の)[[戦争犯罪]]、c.[[人道に対する罪]]の3つの罪が記載されたが、英語原文でこれらがabc順になっているため、項目aの[[平和に対する罪]]で訴追された者を「'''A級戦犯'''」と呼ぶ<ref>太平洋戦争研究会『東京裁判 パル判決書の真実』PHP研究所、2006年、pp.16-17.</ref><ref>野呂浩「パール判事研究 : A級戦犯無罪論の深層」、『東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編』31(2)、東京工芸大学、2008年、 p43</ref>。
+
'''A級戦犯'''(Aきゅうせんぱん)
  
項目b、項目cで訴追されたものをそれぞれ[[BC級戦犯|B級戦犯、C級戦犯]]と呼ぶが、そのほとんどがB級戦犯([[通例の戦争犯罪]])であった<ref>林博史「BC級戦犯裁判」p.2-3.</ref>。
+
第2次世界大戦後,連合国の国際軍事裁判で「平和に対する罪」により裁判された重大戦争犯罪人のこと。第2次世界大戦後,戦争の開始そのものが国際社会の公の秩序に対する犯罪行為であるとの考え方がとられ,侵略戦争を計画,準備,遂行し,共同謀議を行なったかどで罪に問われたもの。
 
 
日本が主権を回復した[[1952年]]4月28日の[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]発効直後の5月1日、[[木村篤太郎]][[法務庁|法務総裁]]から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となり、戦犯とされた人々のために数度にわたる国会決議もなされた。
 
 
 
== 逮捕までの経緯 ==
 
[[1945年]]([[昭和]]20年)[[7月26日]]、[[ポツダム会談]]での合意に基づいて連合国を構成する国のうち[[イギリス]]、[[アメリカ]]、[[中華民国]]の3国により、[[大日本帝国]]に対して13か条から成る[[降伏]]勧告「ポツダム宣言」が発せられた。第10項の中に「我らの[[俘虜]](捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。
 
 
 
同年8月8日には、イギリス、アメリカ、[[フランス]]、[[ソビエト連邦]]の4国が「欧州[[枢軸諸国]]の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」([[ロンドン協定]]・戦犯協定)を締結。ここで「[[平和に対する罪]]」という新しい[[戦争犯罪]]の概念が登場した。ただし、「[[人道に対する罪]]」については新しい概念とまでは言えず、[[1915年]]の[[アルメニア人虐殺]]に対する英仏露共同宣言にまで遡ることができるが、第二次世界大戦当時、人道に対する罪は[[慣習国際法]]として確立してはなかった<ref>{{Cite book|和書
 
|author=[[多谷千賀子]]
 
|title=戦争犯罪と法
 
|origdate=2006-12
 
|publisher=[[岩波書店]]
 
|isbn=9784000236669
 
}}</ref>。同年8月10日に日本がポツダム宣言を受諾。15日に終戦となった。
 
 
 
同年8月29日、日本の占領を行う連合国の中でも中心的な役割を持つことになるアメリカ政府は、連合国軍最高司令官となる[[ダグラス・マッカーサー]]([[アメリカ陸軍]]元[[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]])に暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令。その指令書の一項に「連合国の捕虜その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官または適当な連合国機関によって告発されたものは逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があったときは処罰される」とあった。翌30日、マッカーサーは[[厚木海軍飛行場|厚木飛行場]]に降り立ち、その夜、マッカーサーはCIC([[アメリカ陸軍情報部隊|対敵諜報部]])部長[[エリオット・ソープ]]准将に、[[東條英機]][[陸軍大将]]の逮捕と戦争犯罪人容疑者のリスト作成を命じた。アメリカ政府は占領政策を円滑に進めるために天皇の存在は欠かせないと判断していたため、[[昭和天皇]]の訴追はなされなかった。
 
 
 
同年9月2日、[[東京湾]]に碇泊した[[アメリカ海軍]]の[[ミズーリ (戦艦)|戦艦ミズーリ]]で、イギリスやアメリカ、中華民国、フランス、[[オランダ]]、ソビエト連邦などの連合国と日本の[[降伏文書]]調印式が行われた。同月9日、ソープは[[東條内閣]]の閣僚を中心に「戦犯容疑者」のリストをマッカーサーに提出。直ちに[[国務省]]に報告し、翌10日、国務省から了解の返電を受けた。
 
 
 
戦犯の逮捕は連合国軍最高司令官から[[終戦連絡中央事務局]]を通じて日本政府に通達され、本人には連合国軍の中でも最初に東京に駐留を開始したアメリカ軍の第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、100名をゆうに超える逮捕者を出した。なお、出頭命令を受ける前に[[杉山元]]は9月12日に自殺している(第二次戦犯指名リストには掲載されていた)。下記のA級戦犯容疑での逮捕者は計126名(5名は逮捕・出頭前に自殺)。
 
 
 
また、アメリカの[[植民地]]である[[フィリピン]]での行為は、アメリカ軍が管理する[[マニラ軍事法廷]]で裁かれたため、フィリピンで[[捕虜]]にならず帰国していた者は日本で逮捕後、[[マニラ]]へ送還された。[[駐日ドイツ大使館|ドイツ大使館]]付警察武官の[[ヨーゼフ・マイジンガー]]は、前任地の[[ポーランド]]での行為が罪に問われたため、逮捕後[[ワルシャワ]]に送還された。
 
 
 
=== 第一次戦犯指名 ===
 
* 1945年9月11日に逮捕命令(計40名<ref>40名という数は、下記の外国人15名と、杉山元を含むもの。</ref>)。逮捕されたのは主に[[東條内閣]]閣僚だが、本来はA級戦犯とは関係のない、フィリピン方面の軍関係者や人体実験関係者、捕虜収容所関係者などのBC級戦犯もリストに混ぜられて、逮捕された。
 
** [[東條英機]](9月11日に[[自決]]未遂)、[[東郷茂徳]]、[[嶋田繁太郎]]、[[賀屋興宣]]、[[鈴木貞一]]
 
** [[岸信介]]、[[岩村通世]]、[[小泉親彦]](9月13日に自殺)、[[橋田邦彦]](9月14日に自殺)、[[井野碩哉]]、[[村田省蔵]]、[[寺島健]]
 
**上田良武<ref>海軍中将。海軍航空隊の功労者。</ref>
 
**[[本間雅晴]](B級戦犯<ref>マニラ軍事法廷で死刑判決を受けて、1946年4月3日に銃殺刑執行。「[[バターン死の行進]]」関連。</ref>)、[[黒田重徳]](B級戦犯<ref>マニラ軍事法廷で終身刑判決。後に減刑されて1951年に釈放され翌年帰国した。</ref>)、[[長浜彰]](B級戦犯<ref>マニラ軍事法廷で終身刑判決。銃殺刑。</ref>)、太田清一(B級戦犯<ref>中佐。マニラ軍事法廷で死刑判決。絞首刑。「[[マニラ大虐殺]]」関連。</ref>)、鈴木薫二(BC級戦犯<ref name="ohomori">[[東京捕虜収容所]]での「[[人体実験]]」関連。</ref>)、徳田久吉(BC級戦犯<ref name="ohomori" />)、飛田時雄(C級戦犯<ref>東京捕虜収容所付属病院の監視官を勤めた軍曹。</ref>)、長内茂(C級戦犯<ref>仙台捕虜収容所勤務の[[軍属]]。</ref>)、三浦宗一(C級戦犯<ref>仙台捕虜収容所勤務の軍曹。</ref>)、竹内寛(BC級戦犯<ref>東京捕虜収容所の大尉。</ref>)、ジェームズ・W・佐々木/佐々木薫一(BC級戦犯<ref>海軍捕虜収容所通訳官。</ref>)
 
 
 
* 1945年9月21日に逮捕命令(2名)。
 
** [[土肥原賢二]]、[[阿部信行]]
 
 
 
* 1945年10月22日に逮捕命令(1名)。
 
** [[安倍源基]]
 
 
 
==== 外国人戦犯 ====
 
* 1945年9月11日に逮捕命令(15名)<ref>ラジオ放送での対日協力者も、A級戦犯とは関係がなく、利敵行為として各国の軍法や国内法での反逆罪等に当たった。駐日大使等は戦犯ではなく証人であった。故にこれらからは1人も極東裁判の被告席に据わることはなかった。</ref>。
 
** [[テイモン]](日本占領中の駐日[[ビルマ国]][[大使]])、[[アウンサン]](ビルマ大使館付陸軍武官、ビルマ独立軍組織者)
 
**[[ホセ・ラウレル]](日本占領下で独立した[[フィリピン]]大統領)、[[ベニグノ・アキノ・シニア]](フィリピン国民会議議長)、[[ホルヘ・バルガス (フィリピンの政治家)|ホルヘ・バルガス]](駐日フィリピン大使)
 
**[[ワカタン・ウィチット]](駐日[[タイ王国|タイ]]大使)
 
**[[マーヘンドラ・プラタップ]](インド独立運動家、[[アリアン義勇軍]]指導者)
 
** [[ハインリヒ・スターマー]](駐日[[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]大使)、[[アルフレート・クレッチマー]](ドイツ大使館付武官・[[陸軍中将]])、[[ヨーゼフ・マイジンガー]](ドイツ大使館付警察武官、逮捕後[[ポーランド]]に移送)
 
** [[ジョシアス・パンディユンスト]]([[NHKワールド・ラジオ日本|ラジオ東京]]・[[オランダ語]]放送員)、[[リリー・アベック]](ラジオ東京・[[ドイツ人]]放送員)、[[チャールズ・カスンズ]](ラジオ東京・[[オーストラリア]]人放送員・[[オーストラリア軍]][[少佐]]時に日本軍の捕虜となる)、ストリーター(東京ラジオ放送原稿係・アメリカ人)
 
**[[ジョン・ポーランド]]([[上海]]ラジオ・オーストラリア人放送員)
 
 
 
=== 第二次戦犯指名 ===
 
* 1945年11月19日に逮捕命令(11名)。主要な大臣や軍上層部など。
 
** [[荒木貞夫]]、[[小磯国昭]]、[[松岡洋右]]、[[松井石根]]、[[南次郎]]、[[白鳥敏夫]]
 
** [[本庄繁]](11月20日に自殺)、[[鹿子木員信]]、[[久原房之助]]、[[葛生能久]]、[[真崎甚三郎]]
 
 
 
=== 第三次戦犯指名 ===
 
* 1945年12月2日に逮捕命令(59名)。軍の高官だけでなく、政財界に広く逮捕者。
 
** [[畑俊六]]、[[平沼騏一郎]]、[[広田弘毅]]、[[星野直樹]]、[[大川周明]]、[[佐藤賢了]]
 
** [[鮎川義介]]、[[天羽英二]]、[[安藤紀三郎]]、[[青木一男]]、[[有馬頼寧]]、[[藤原銀次郎]]、[[古野伊之助]]、[[郷古潔]]、[[後藤文夫]]、[[秦彦三郎]]、[[本多熊太郎]]、[[井田磐楠]]、[[池田成彬]]、[[赤木桁平|池崎忠孝(赤木桁平)]]、[[石田乙五郎]]、[[石原広一郎]]、[[上砂勝七]]、[[河辺正三]]、[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]、[[木下栄市]]、[[小林順一郎]]、[[小林躋造]]、[[児玉誉士夫]]、[[松阪広政]]、[[水野錬太郎]]、[[牟田口廉也]]、[[長友次男]]、[[中島知久平]]、[[中村明人]]、[[梨本宮守正王]]<!--皇籍離脱は不起訴釈放後-->、[[西尾寿造]]、[[納見敏郎]](12月13日に自決)、[[岡部長景]]、[[大倉邦彦]]、[[大野広一]]、[[太田耕造]]、[[太田正孝]]、[[桜井兵五郎]]、[[笹川良一]]、[[下村宏]]、[[進藤一馬]]、[[塩野季彦]]、[[四王天延孝]]、[[正力松太郎]]、[[多田駿]]、[[高橋三吉]]、[[高地茂都]]、[[谷正之]]、[[徳富蘇峰|徳富猪一郎(徳富蘇峰)]]、[[豊田副武]]、[[津田信吾]]、[[後宮淳]]、[[横山雄偉]]
 
 
 
=== 第四次戦犯指名 ===
 
* 1945年12月6日に逮捕命令(9名)。[[国際検察局]](IPS)が追加逮捕。
 
** [[木戸幸一]]、[[大島浩]]
 
** [[近衛文麿]](12月16日に自殺)、[[酒井忠正]]、[[大河内正敏]]、[[緒方竹虎]]、[[大達茂雄]]、[[伍堂卓雄]]、[[須磨弥吉郎]]
 
* 1946年3月16日に逮捕命令(1名)
 
** [[永野修身]]
 
* 1946年4月7日に逮捕命令(1名)
 
** [[岡敬純]]
 
* 1946年4月29日に逮捕命令(2名)
 
** [[梅津美治郎]]、[[重光葵]]
 
* 1946年11月5日に逮捕命令(1名)
 
**[[長谷川清]]
 
 
 
=== その他 ===
 
[[板垣征四郎]]、[[木村兵太郎]]、[[武藤章]]は外地で逮捕。[[橋本欣五郎]]は国内で単独で逮捕。(都合4名)
 
 
 
== 定義と問題点 ==
 
A級戦犯は[[ロンドン協定]]により開設された[[極東国際軍事裁判]]所条例の第五条(イ)項の定義により決定された。
 
 
 
<span id="極東国際軍事裁判所条例第五条">極東国際軍事裁判所条例第5条</span>
 
人並ニ犯罪ニ関スル管轄
 
本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。
 
; (イ)平和ニ対スル罪
 
: 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
 
; (ロ)通例ノ戦争犯罪
 
: 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
 
; (ハ)人道ニ対スル罪
 
: 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。
 
上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス。
 
 
 
これに基づいて極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指すことが一般的である<ref>極東国際軍事裁判の被告人のうち、[[松井石根]]は同裁判の判決においてA級に該当する被疑事実は全て「無罪」とされており、A級戦犯ではないとする説もある。</ref>。
 
 
 
代表検事[[アラン・ジェームス・マンスフィールド]]は[[昭和天皇]]の訴追を強硬に主張。しかし首席[[検察官]][[ジョセフ・B・キーナン]]が局長を務める[[国際検察局]]は天皇の訴追には断固反対し、免責が決定された。東京裁判の途中まで[[中華民国]]は天皇の訴追を強く要求していたが、中国国内で[[中国共産党]]軍の勢力が拡大するにつれて、アメリカの支持を取り付けるためその要求を取り下げた。
 
 
 
[[平和に対する罪]]・[[人道に対する罪]]の適用は[[事後法]]であり、[[法の不遡及]]原則に反していることから、[[ラダ・ビノード・パール]]判事はこの条例の定義を適用せず、被告人全員の無罪を主張した。
 
 
 
[[ウィリアム・ウェブ]]裁判長は被告全員を死刑にすることに反対した。その理由として最大の責任者である天皇が訴追されなかったため量刑が著しく不当であるというものである。[[デルフィン・ジャラニラ]]判事は刑の宣告は寛大に過ぎ、これでは犯罪防止にも見せしめにもならないと強く非難し、被告人全員の死刑を主張した。[[BC級戦犯]]は約1,000名が死刑判決を受けている。
 
 
 
[[石井四郎]]([[関東軍]][[防疫給水部]]731部隊隊長)は、関係資料をアメリカに引き渡すという交換条件により免責されている。
 
 
 
[[サンフランシスコ平和条約]]で、日本は東京裁判などの[[軍事裁判]]の結果を受け入れることが規定されており、法的には日本は国家として判決を受け入れているが、国内においてはそれを不服として異論を持つ者もいる。
 
 
 
== 極東国際軍事裁判に起訴された被告人 ==
 
; 関東軍関係 : [[板垣征四郎]] - [[南次郎]] - [[梅津美治郎]]
 
; 特務機関 : [[土肥原賢二]]
 
; 陸軍中央 : [[荒木貞夫]] - [[松井石根]] - [[畑俊六]] - [[木村兵太郎]] - [[武藤章]] - [[佐藤賢了]] - [[橋本欣五郎]]
 
; 海軍中央 : [[永野修身]] - [[嶋田繁太郎]] - [[岡敬純]]
 
; 総理大臣 : [[広田弘毅]](外交官) - [[平沼騏一郎]](司法官僚) - [[東條英機]](陸軍) - [[小磯国昭]](陸軍)
 
; 大蔵大臣 : [[賀屋興宣]]
 
; 内大臣 : [[木戸幸一]]
 
; 外務大臣 : [[松岡洋右]] - [[重光葵]] - [[東郷茂徳]]
 
; 外交官 : [[大島浩]](駐[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]大使) - [[白鳥敏夫]](駐[[イタリア]]大使)
 
; 企画院総裁 : [[鈴木貞一]] - [[星野直樹]]
 
; 民間人 : [[大川周明]](思想家)
 
 
 
上記の28名が[[1946年]]([[昭和]]21年)[[4月29日]]([[昭和天皇]]の[[誕生日]])に[[起訴]]された。このうち、大川周明は[[梅毒]]による[[精神障害]]が認められて訴追免除となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死したため、1948年11月12日に被告として判決をうけた者は25名となっている。
 
 
 
== 各被告の日米弁護人・補佐弁護人 ==
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
! 被告
 
! 日本人弁護人
 
! アメリカ人弁護人
 
! 補佐弁護人
 
|-
 
| 荒木貞夫
 
| <small>菅原裕</small>
 
| <small>ローレンス・マクマナス</small>
 
| <small>蓮岡高明、徳岡二郎</small>
 
|-
 
| 土肥原賢二
 
| <small>[[塚崎直義]]→太田金次郎</small>
 
| <small>フランクリン・ウォーレン</small>
 
| <small>加藤隆久、木村重治</small>
 
|-
 
| 橋本欣五郎
 
| <small>林逸郎</small>
 
| <small>E・R・ハリス</small>
 
| <small>金瀬薫二、岩間幸平、菅井俊子</small>
 
|-
 
| 畑俊六
 
| <small>神崎正義</small>
 
| <small>A・G・ラザラス中尉</small>
 
| <small>国分友治、今成泰太郎</small>
 
|-
 
| 平沼騏一郎
 
| <small>宇佐美六郎</small>
 
| <small>サムエル・J・クライマン大尉</small>
 
| <small>澤邦夫、[[毛利与一]]</small>
 
|-
 
| 広田弘毅
 
| <small>[[花井忠]]</small>
 
| <small>デイビッド・F・スミス→[[ジョージ山岡]]</small>
 
| <small>安東義良、[[守島伍郎]]</small>
 
|-
 
| 星野直樹
 
| <small>[[藤井五一郎]]</small>
 
| <small>ジョージ・C・ウィリアムス</small>
 
| <small>右田政夫、松田令輔</small>
 
|-
 
| 板垣征四郎
 
| <small>山田半蔵</small>
 
| <small>フロイド・J・マタイス</small>
 
| <small>佐々川知治、阪埜淳吉</small>
 
|-
 
| 賀屋興宣
 
| <small>高野弦雄</small>
 
| <small>マイケル・レヴィン</small>
 
| <small>田中康道、藤原謙治、[[山際正道]]</small>
 
|-
 
| 木戸幸一
 
| <small>穂積重威</small>
 
| <small>ウィリアム・ローガン</small>
 
| <small>木戸孝彦</small>
 
|-
 
| 木村兵太郎
 
| <small>[[塩原時三郎]]</small>
 
| <small>ジョセフ・C・ハワード</small>
 
| <small>是恒達見、安部明</small>
 
|-
 
| 小磯国昭
 
| <small>三文字正平</small>
 
| <small>アルフレッド・W・ブルックス</small>
 
| <small>高木一也、三町恒久、小林恭一、松坂時彦</small>
 
|-
 
| 松井石根
 
| <small>[[鵜澤總明|鵜沢総明]]→伊藤清</small>
 
| <small>フロイド・J・マタイス</small>
 
| <small>上代琢禅、大室亮一</small>
 
|-
 
| 松岡洋右
 
| <small>[[小林俊三]]</small>
 
| <small>フランクリン・ウォーレン</small>
 
| <small>(不明)</small>
 
|-
 
| 南次郎
 
| <small>竹内金太郎→岡本敏男</small>
 
| <small>ウィリアム・J・マコーマック→アルフレッド・W・ブルックス</small>
 
| <small>松沢龍雄、近藤儀一</small>
 
|-
 
| 武藤章
 
| <small>岡本尚一</small>
 
| <small>ロージャー・F・コール</small>
 
| <small>[[佐伯千仭]]、原清治、松崎蘶</small>
 
|-
 
| 永野修身
 
| <small>奥山八郎</small>
 
| <small>ジョン・G・ブラナン</small>
 
| <small>安田重雄</small>
 
|-
 
| 岡敬純
 
| <small>宗宮信次</small>
 
| <small>フランクリン・ウォーレン</small>
 
| <small>[[小野清一郎]]、稲川龍雄</small>
 
|-
 
| 大川周明
 
| <small>大原信一</small>
 
| <small>アルフレッド・W・ブルックス</small>
 
| <small>金内良輔、福岡文子</small>
 
|-
 
| 佐藤賢了
 
| <small>[[清瀬一郎]]→[[草野豹一郎]]</small>
 
| <small>ジェームズ・N・フリーマン</small>
 
| <small>藪馬伊三郎、[[藤沢親雄]]</small>
 
|-
 
| 重光葵
 
| <small>[[高柳賢三]]</small>
 
| <small>[[ジョージ・A・ファーネス]]大尉</small>
 
| <small>金谷静雄、三浦和一</small>
 
|-
 
| 嶋田繁太郎
 
| <small>高橋義次</small>
 
| <small>エドワード・P・マクダモット</small>
 
| <small>[[瀧川政次郎]]、祝島男、鈴木勇</small>
 
|-
 
| 大島浩
 
| <small>塚崎直義→島内龍起</small>
 
| <small>オウエン・カニンガム</small>
 
| <small>内田藤雄、[[牛場信彦]]</small>
 
|-
 
| 白鳥敏夫
 
| <small>[[鵜澤總明|鵜沢総明]]→成富信夫</small>
 
| <small>チャールズ・B・コードル</small>
 
| <small>佐久間信、広田洋二</small>
 
|-
 
| 鈴木貞一
 
| <small>長谷川元吉→[[高柳賢三]]</small>
 
| <small>マイケル・レヴィン</small>
 
| <small>[[戒能通孝]]、加藤一平</small>
 
|-
 
| 東郷茂徳
 
| <small>穂積重威→[[西春彦]]</small>
 
| <small>チャールズ・T・ヤング→ジョージ山岡</small>
 
| <small>加藤伝次郎、新納克己</small>
 
|-
 
| 東條英機
 
| <small>[[清瀬一郎]]、[[塩原時三郎]]</small>
 
| <small>ビーバレー・M・コールマン大佐→ジョージ・F・ブルーエット</small>
 
| <small>[[松下正寿]]</small>
 
|-
 
| 梅津美治郎
 
| <small>三宅正一郎→[[宮田光雄 (内務官僚)|宮田光雄]]</small>
 
| <small>[[ベン・ブルース・ブレイクニー]]少佐</small>
 
| <small>小野喜作、[[池田純久]]、梅津美一</small>
 
|-
 
|}
 
 
 
== 判決 ==
 
=== 絞首刑(死刑) ===
 
[[ファイル:Last writing of Muto, Tojo, Matsui, Doihara.jpg|thumb|250px|A級戦犯(土肥原賢二、東條英機、武藤章)、及びB級戦犯松井石根の絶筆]]
 
* [[板垣征四郎]] - [[軍人]]、[[陸軍大臣|陸相]]([[第1次近衛内閣]]・[[平沼内閣]])、[[満州国]]軍政部最高顧問、[[関東軍]]参謀長。(中国侵略・米国に対する平和の罪)
 
* [[木村兵太郎]] - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官([[東條内閣]])(英国に対する戦争開始の罪)
 
* [[土肥原賢二]] - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)
 
* [[東條英機]] - 軍人、第40代[[内閣総理大臣]](ハワイの軍港・[[真珠湾攻撃|真珠湾を不法攻撃]]、米国軍隊と一般人を殺害した罪)
 
* [[武藤章]] - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)
 
* [[松井石根]] - 軍人、中支那方面軍司令官([[南京攻略戦|南京攻略時]])(B級戦犯、捕虜及び一般人に対する[[国際法]]違反([[南京事件 (1937年)|南京事件]]))
 
* [[広田弘毅]] - [[文民]]、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)
 
 
 
なお、ウェッブ裁判長は死刑制度が廃止されていたオーストラリア出身で、23年にもわたる裁判官生活で死刑を言い渡すのはこれが初めてだったために、「極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する」の部分の口調はある意味の興奮があったという<ref name="kyokun">{{Cite book|和書
 
|author=保阪正康
 
|title=東京裁判の教訓
 
|origdate=2008-07-30
 
|accessdate=2008-11-17
 
|edition=初版
 
|publisher=[[朝日新聞出版]]
 
|series=朝日新書
 
|isbn=9784022732200
 
|pages=233・249
 
}}</ref>。
 
この判決について、東條をはじめ[[南京事件 (1937年)|南京事件]]を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]で死刑を宣告された7被告は全員が[[BC級戦犯|BC級戦争犯罪]]でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、[[BC級戦犯|BC級戦争犯罪]]を重視した結果であるとの指摘がある<ref>「東京裁判における日本の東南アジア占領問題」梶居佳広(立命館法学2012.)P.223[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-56/kajii.pdf]</ref>。
 
 
 
[[死刑]]は[[1948年]]([[昭和]]23年)[[12月23日]](皇太子明仁親王(現在の[[明仁|今上天皇]])の誕生日)に執行された。
 
<!--出典なし--12月23日に死刑が執行されたことについては、[[水島総]]・[[渡部昇一]]ら[[自由主義史観]]の思想派が、「[[明仁|皇太子明仁親王]]の誕生日に合わせた事で、後の[[今上天皇]]の[[天皇誕生日]]と同じ日にA級戦犯が処刑されたという記憶を未来永劫国民に残し、天皇や皇族に対する国民感情を悪化させる[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の巧みな意図([[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]])があった」と主張している。-->
 
 
 
=== 終身刑 ===
 
{{col|
 
* [[荒木貞夫]]
 
* [[梅津美治郎]]<ref name="no2">獄中死</ref>
 
* [[大島浩]]
 
* [[岡敬純]]
 
|
 
* [[賀屋興宣]]
 
* [[木戸幸一]]
 
* [[小磯国昭]]<ref name="no2">獄中死</ref>
 
* [[佐藤賢了]]
 
|
 
* [[嶋田繁太郎]]
 
* [[白鳥敏夫]]<ref name="no2">獄中死</ref>
 
* [[鈴木貞一]]
 
* [[南次郎]]
 
|
 
* [[橋本欣五郎]]
 
* [[畑俊六]]
 
* [[平沼騏一郎]]<!--病気仮釈放直後に死去したので獄中死ではない。-->
 
* [[星野直樹]]
 
}}
 
 
 
=== 有期禁錮 ===
 
{{main2|有期禁錮については[[禁錮]]を}}
 
{{col|
 
* [[重光葵]] (7年)
 
|
 
* [[東郷茂徳]] (20年<ref name="no2">獄中死</ref>)
 
}}
 
 
 
=== 判決前に病死 ===
 
* [[永野修身]] ([[1947年]][[1月5日]]没<ref name="no2">獄中死</ref>)
 
* [[松岡洋右]] ([[1946年]][[6月27日]]没<ref name="no2">獄中死</ref>)
 
 
 
=== 訴追免除 ===
 
* [[大川周明]] ([[梅毒]]による[[精神障害]]が認められ訴追免除)
 
 
 
== 処刑後の遺体の扱い ==
 
[[ファイル:殉国七士墓.jpg|thumb|殉国七士墓]]
 
処刑された7人の遺体は[[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]の[[久保山斎場]]で火葬され、遺骨は米軍により[[東京湾]]に捨てられた。しかし、[[12月25日]]に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から遺灰(7人分が混ざった)を密かに回収し、近くの[[興禅寺]]に預けた。1949年5月に伊豆山中の興亜観音[http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7154/index.html]に密かに葬られた。
 
 
 
その後、[[1960年]]([[昭和]]35年)[[8月16日]]に[[愛知県]][[幡豆郡]][[幡豆町]][[三ヶ根山]]の山頂付近に移された。三ヶ根山には「[[殉国七士廟]]」が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されて今に至る。
 
 
 
== 裁判を免れたA級戦犯被指定者 ==
 
;不起訴により釈放
 
{{col|
 
* [[青木一男]]
 
* [[安倍源基]]
 
* [[阿部信行]]
 
* [[天羽英二]]
 
* [[鮎川義介]]
 
 
 
* [[安藤紀三郎]]
 
* [[石原広一郎]]
 
* [[岩村通世]]
 
* [[岸信介]]
 
* [[葛生能世]]
 
|
 
* [[児玉誉士夫]]
 
* [[後藤文夫]]
 
* [[笹川良一]]
 
* [[正力松太郎]]
 
* [[須磨弥吉郎]]
 
 
 
* [[高橋三吉]]
 
* [[多田駿]]
 
* [[谷正之]]
 
* [[寺島健]]
 
* [[梨本宮守正王]]
 
|
 
* [[西尾寿造]]
 
* [[豊田副武]]
 
* [[真崎甚三郎]]
 
* [[里見甫]]
 
* [[緒方竹虎]]
 
 
 
* [[村田省蔵]]
 
* [[井野碩哉]]
 
* [[上田良武]]
 
* [[鹿子木員信]]
 
* [[久原房之助]]
 
|
 
* [[有馬頼寧]]
 
* [[藤原銀次郎]]
 
* [[古野伊之助]]
 
* [[郷古潔]]
 
* [[井田磐楠]]
 
 
 
* [[池田成彬]]
 
* [[石田乙五郎]]
 
* [[上砂勝七]]
 
* [[河辺正三]]
 
* [[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]
 
|
 
* [[木下栄市]]
 
* [[小林順一郎]]
 
* [[小林躋造]]
 
* [[松阪広政]]
 
* [[水野錬太郎]]
 
 
 
* [[長友次男]]
 
* [[中村明人]]
 
* [[西尾寿造]]
 
* [[岡部長景]]
 
|
 
* [[大倉邦彦]]
 
* [[大野広一]]
 
* [[太田耕造]]
 
* [[太田正孝]]
 
* [[桜井兵五郎]]
 
 
 
* [[下村宏]]
 
* [[進藤一馬]]
 
* [[塩野季彦]]
 
* [[四王天延孝]]
 
* [[高地茂都]]
 
|
 
* [[津田信吾]]
 
* [[後宮淳]]
 
* [[横山雄偉]]
 
* [[酒井忠正]]
 
* [[大河内正敏]]
 
 
 
* [[大達茂雄]]
 
* [[伍堂卓雄]]
 
* [[長谷川清]]
 
}}
 
 
 
彼らの中には岸や正力や緒方のように第二次世界大戦後の日本社会の有力者になったり、それぞれの分野で相応に一定の社会的地位を築いたりした者もいた<ref><br>
 
[[岸信介]]は東條内閣で[[商工大臣]]を務め、A級戦犯[[被疑者]]としてGHQに逮捕され[[巣鴨拘置所]]に収監されたが不起訴となった。[[日本国との平和条約|連合国との講和条約]]の発効後、[[衆議院議員]]に9回当選、[[石橋内閣]]で外務大臣を務めた後に、石橋内閣の後継として1957年2月25日~1960年7月19日まで[[内閣総理大臣]]を務めた。[[国民皆保険]]・国民皆年金制度の制定や、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]の改定を実施し、その功績に対して[[勲一等旭日桐花大綬章]]、[[大勲位菊花大綬章]]を授与された。<br>
 
[[正力松太郎]]は読売新聞社長、[[東条内閣]]で参与、[[小磯内閣]]で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され[[巣鴨拘置所]]に収監されるも不起訴になった。釈放後は日本をアメリカ合衆国の国益のための有力な同盟国・友好国にするために、[[読売新聞]]や[[日本テレビ]]を宣伝報道事業者にした。正力松太郎は[[衆議院議員]]に5回選出され、[[第3次鳩山一郎内閣]]並びに[[岸内閣]]に於いて[[科学技術庁]]長官を歴任、更に[[国家公安委員長]]を務め、その功績に対して[[勲一等旭日大綬章]]と[[勲一等旭日桐花大綬章]]を授与された。CIAから資金提供を受けていたという([[正力マイクロ波事件]]を参照)<br>
 
[[緒方竹虎]]は朝日新聞副社長・主筆、[[小磯内閣]]で[[国務大臣]]と情報局総裁を務め、[[鈴木貫太郎内閣]]で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され[[巣鴨拘置所]]に収監されるも不起訴になった。緒方竹虎は[[衆議院議員]]に3回選出され、吉田内閣では、[[副総理|副首相]]と[[官房長官]]と[[国務大臣]]を務め、その功績に対して[[勲一等旭日大綬章]]を授与された。アメリカから総理候補として期待され、CIAにより緒方政権樹立のための政界工作が行われたが、緒方は総裁公選を前に急死した。</ref>。しかし、アメリカ合衆国政府が機密指定を解除して公開した[[中央情報局]](CIA)の文書によって、岸・正力・緒方らは日本を[[親米]]化するためのアメリカ合衆国政府の協力者として位置づけられていたことが確認された<ref>ティム・ワイナーの著書『CIA秘録』、[[有馬哲夫]]の著書『原発・正力・CIA』・『日本テレビとCIA』・『CIAと戦後日本』、[[吉田則昭]] の著書『緒方竹虎とCIA』</ref>。
 
 
 
;その他の不起訴
 
* [[牟田口廉也]] - 不起訴により別の軍事法廷に送致
 
* [[秦彦三郎]] - シベリア抑留中で不起訴
 
* [[赤木桁平|池崎忠孝(赤木桁平)]] - 病気により釈放(不起訴)
 
* [[本多熊太郎]] - 病気により釈放(不起訴)
 
* [[徳富蘇峰]] - 不起訴により自宅拘禁解除
 
 
 
;自殺
 
{{表3列|
 
* [[小泉親彦]]
 
* [[近衛文麿]]
 
|
 
* [[橋田邦彦]]
 
* [[本庄繁]]
 
|
 
* [[納見敏郎]]
 
*([[杉山元]])
 
}}
 
 
 
=== A級戦犯容疑に該当しなかった被指定者 ===
 
*A級戦犯として逮捕されたBC級戦犯(11名)
 
ただしこのうち3名は死刑で、1名は死刑判決だったものの執行停止。2名が終身刑(のち減刑)。5名が有期重労働刑。
 
*外国人戦犯(15名)
 
 
 
== その後 ==
 
=== GHQによる言論統制 ===
 
[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は[[プレスコード]]などを発して[[検閲]]を実行し、戦犯擁護や極東国際軍事裁判批判などとの理由を付け削除や[[発行禁止]]などを行い[[言論統制|言論を統制]]として[[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]]を実施したとの[[江藤淳]]らの主張がある。
 
 
 
=== 主権回復後の赦免 ===
 
{{複数の問題
 
|独自研究=2014年1月
 
|wikify=2014年1月
 
|section=1}}
 
{{See|日本国との平和条約第11条の解釈}}
 
日本の主権回復後の戦争犯罪人の取扱いについては、[[1952年]][[4月28日]]発効の[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)の第11条に規定されている。
 
 
 
; 第11条(戦争犯罪)
 
: 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
 
 
 
[[1950年代]]には、これに基づき国内外で収監されている戦犯の[[wikt:赦免|赦免]]や減刑に関する、以下の国会決議が採決されている。
 
 
 
* [[1952年]]6月9日参議院本会議にて「[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/013/0512/01306090512049c.html 戦犯在所者の釈放等に関する決議]」
 
* [[1952年]]12月9日衆議院本会議にて「[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0512/01512090512011c.html 戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議]」
 
* [[1953年]]8月3日衆議院本会議にて「[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/016/0512/01608030512035c.html 戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議]」
 
* [[1955年]]7月19日衆議院本会議にて「[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/022/0512/02207190512043c.html 戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議]」
 
 
 
ただし、A級戦犯については、赦免された者はおらず、減刑された者がいるのみである(終身禁錮の判決を受けた10名)。<ref>[http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/121/touh/t121012.htm 参議院議員吉岡吉典君提出日本の戦争犯罪についての軍事裁判に関する質問に対する答弁書 1991年10月29日]</ref>
 
 
 
いっぽう、戦犯の国内での扱いに関しては、それまで[[極東国際軍事裁判]]などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、[[1952年]](昭和27年)5月1日、[[木村篤太郎]]法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる変化が生じている。
 
 
 
また、[[1952年]](昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」についても一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
 
<!-- 1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、そして1953年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が[[日本社会党|社会党]]を含めて圧倒的多数で可決された。--><!-- 冒頭部と重複。かつ戦犯の全てが赦免されたわけではなく、A級戦犯は赦免されていない。この点、事実と異なる記述のためコメントアウト -->
 
 
 
これらは前年の1952年に、国内外で戦犯として収監されている者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の日本国民の署名が集まった事に起因する<ref>「“A級戦犯”はなぜ合祀されたか」『靖国論集』)</ref>。そして「[[恩給法|恩給改正法]]」では受刑者本人の[[恩給]]支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、<!-- 1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。--><!-- 重複 -->サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえで、減刑された者については、{{要出典範囲|1956年までに出所が完了したとされる。|date=2014年2月}}
 
 
 
A級戦犯の「名誉の回復」については、[[1953年]](昭和28年)7月9日の厚生委員会において、[[日本社会党|社会党]]([[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]の旧称)の堤ツルヨが「戦犯で処刑されたところの遺族の問題であります。処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になつて保護されておるのに、早く殺されたがために、獄死をされたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその[[英霊]]は[[靖国神社]]の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。」「当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのは当然であると思います。」と答弁した<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/016/0790/01606230790005c.html 第16回 衆議院議事録 -厚生委員会議事録16号]- 昭和28年7月9日(木曜日)78ヶ目の質疑</ref>。
 
 
 
[[重光葵]]は[[東条内閣]]と[[小磯内閣]]で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を務め、A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年の刑を受けて、講和条約の発効と恩赦後に、衆議院議員に3回当選し、1954年に[[第1次鳩山一郎内閣|鳩山内閣]]の[[副総理]]・外務大臣となり、日ソ国交回復交渉や国連加盟交渉に取り組み、1956年の[[国際連合総会]]で日本の[[国際連合|国連]]加盟が全加盟国の賛成で承認され、重光の受諾演説に対して加盟国代表団から拍手で迎えられ<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html 外務省>報道・広報>演説>国際連合第十一総会における重光外務大臣の演説]</ref>、その功績に対して公職引退後(死後)に勲一等旭日桐花大綬章を授与された。
 
 
 
[[賀屋興宣]]は[[東条内閣]]で[[大蔵大臣]]を務め、極東国際軍事裁判でA級戦犯として[[終身刑]]を受けた。賀屋興宣は[[日本国との平和条約|連合国との講和条約]]の発効と[[恩赦]]による刑の執行終了後、[[衆議院議員]]に5回選出され、[[池田内閣]]で[[法務大臣]]を務め、その功績に対して、公職から引退後に叙勲を打診されたが辞退した。
 
 
 
=== 昭和殉難者としての靖国神社合祀 ===
 
{{See|靖国神社問題}}
 
[[1978年]](昭和53年)、[[靖国神社]]が死刑及び獄中死([[平沼騏一郎]]は、病気仮釈放後の死去)の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。また、広田弘毅など非軍人を合祀したことでも例外的な措置であった。死亡の理由は「[[法務死]]」となっている。
 
 
 
{{col|
 
* [[板垣征四郎]]
 
* [[梅津美治郎]]
 
* [[木村兵太郎]]
 
* [[小磯国昭]]
 
* [[白鳥敏夫]]
 
|
 
* [[土肥原賢二]]
 
* [[東郷茂徳]]
 
* [[東條英機]]
 
* [[永野修身]]
 
* [[平沼騏一郎]]
 
|
 
* [[広田弘毅]]
 
* [[松井石根]]
 
* [[松岡洋右]]
 
* [[武藤章]]
 
}}
 
 
 
[[靖国神社]]の[[A級戦犯合祀問題]]の是非やそれに対し首相ら閣僚が参拝することに関しては非難する意見と個人の思想信条の自由という意見がある。1985年に内閣総理大臣・[[中曽根康弘]](元[[大日本帝国海軍|海軍]]主計[[中尉]])が靖国神社を公式と称して参拝(法律が定める首相の職務ではなく政府の行事でもないので法的・政治的には公式参拝ではない)した後、「靖国神社の国家護持」を唱える[[千鳥ケ淵戦没者墓苑]]奉仕会会長の[[瀬島龍三]](元[[関東軍]]参謀[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中佐]])と合祀取り下げ論を話し始めた。
 
 
 
[[第3次小泉内閣]]下において[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[野田佳彦]]国会対策委員長は「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる」とし、「戦犯」の名誉回復および極東国際軍事裁判に対する政府の見解と内閣総理大臣の靖国神社参拝について質問を行った<ref>[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a163021.htm 野田佳彦「「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書」(質問第二一号)、2005年10月17日]</ref>。これに対して2005年10月25日に提出した答弁書において、政府は第二次大戦後極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した各級の罪により戦争犯罪人とされた(A級戦犯を含む)軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」とした一方で、戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、判断を避けた<ref>[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b163021.htm 小泉純一郎「衆議院議員野田佳彦君提出「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問に対する答弁書」(内閣衆質一六三第二一号)、2005年10月25日]</ref>。首相の[[靖国神社]]参拝に関しては公式参拝であっても、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、[[日本国憲法第20条]]第3項(国の宗教的活動禁止)に抵触しない」との見解を示している。
 
 
 
== A級戦犯を描いた作品 ==
 
* 『[[大東亜戦争と国際裁判]]』([[小森白]]監督、[[新東宝]]、1958年)
 
*『[[落日燃ゆ]]』([[城山三郎]]著、[[新潮社]]、1974年)
 
* 『[[プライド・運命の瞬間]]』([[伊藤俊也]]監督、[[東映]]、1998年)
 
* 『[[南京の真実]]』第一部「七人の死刑囚」([[水島総]]監督、チャンネル桜エンタテインメント 、2008年)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[極東国際軍事裁判]]
 
* [[ラダ・ビノード・パール]]
 
* [[靖国神社問題]]
 
* [[BC級戦犯|B・C級戦犯]]
 
* [[ニュルンベルク裁判]]における[[ニュルンベルク裁判#被告人|被告人]]
 
* [[戦犯]]
 
* [[戦争犯罪]]
 
** [[日本の戦争犯罪]]
 
** [[アメリカの戦争犯罪]]
 
* [[逆コース]]
 
* [[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/peace/nurchartr.html 国際軍事裁判所規約]
 
  
 +
日本の場合,1946年5月から東京で開かれた[[極東国際軍事裁判]]において,東条英機以下 28名がA級戦犯として起訴され,絞首刑7名,終身禁錮刑 16名,禁錮 20年1名,禁錮7年1名の判決が下された。
 +
 
{{A級戦犯}}
 
{{A級戦犯}}
  

2018/8/29/ (水) 19:39時点における版

A級戦犯(Aきゅうせんぱん)

第2次世界大戦後,連合国の国際軍事裁判で「平和に対する罪」により裁判された重大戦争犯罪人のこと。第2次世界大戦後,戦争の開始そのものが国際社会の公の秩序に対する犯罪行為であるとの考え方がとられ,侵略戦争を計画,準備,遂行し,共同謀議を行なったかどで罪に問われたもの。

日本の場合,1946年5月から東京で開かれた極東国際軍事裁判において,東条英機以下 28名がA級戦犯として起訴され,絞首刑7名,終身禁錮刑 16名,禁錮 20年1名,禁錮7年1名の判決が下された。