A級戦犯

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護送中のA級戦犯指名された人物ら。最前列通路側左が荒木貞夫、その斜め後ろが東條英機

A級戦犯(Aきゅうせんぱん)は、 第二次世界大戦連合国によるポツダム宣言六條[1]に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項[2]により定義された戦争犯罪に関し、極東国際軍事裁判(東京裁判)により有罪判決を受けた者である。

条例では、a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪の3つの罪が記載されたが、英語原文でこれらがabc順になっているため、項目aの平和に対する罪で訴追された者を「A級戦犯」と呼ぶ[3][4]

項目b、項目cで訴追されたものをそれぞれB級戦犯、C級戦犯と呼ぶが、そのほとんどがB級戦犯(通例の戦争犯罪)であった[5]

日本が主権を回復した1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効直後の5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となり、戦犯とされた人々のために数度にわたる国会決議もなされた。

逮捕までの経緯

1945年昭和20年)7月26日ポツダム会談での合意に基づいて連合国を構成する国のうちイギリスアメリカ中華民国の3国により、大日本帝国に対して13か条から成る降伏勧告「ポツダム宣言」が発せられた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。

同年8月8日には、イギリス、アメリカ、フランスソビエト連邦の4国が「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場した。ただし、「人道に対する罪」については新しい概念とまでは言えず、1915年アルメニア人虐殺に対する英仏露共同宣言にまで遡ることができるが、第二次世界大戦当時、人道に対する罪は慣習国際法として確立してはなかった[6]。同年8月10日に日本がポツダム宣言を受諾。15日に終戦となった。

同年8月29日、日本の占領を行う連合国の中でも中心的な役割を持つことになるアメリカ政府は、連合国軍最高司令官となるダグラス・マッカーサーアメリカ陸軍元帥)に暫定的な「日本降伏後初期の対日政策」を無線で指令。その指令書の一項に「連合国の捕虜その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官または適当な連合国機関によって告発されたものは逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があったときは処罰される」とあった。翌30日、マッカーサーは厚木飛行場に降り立ち、その夜、マッカーサーはCIC(対敵諜報部)部長エリオット・ソープ准将に、東條英機陸軍大将の逮捕と戦争犯罪人容疑者のリスト作成を命じた。アメリカ政府は占領政策を円滑に進めるために天皇の存在は欠かせないと判断していたため、昭和天皇の訴追はなされなかった。

同年9月2日、東京湾に碇泊したアメリカ海軍戦艦ミズーリで、イギリスやアメリカ、中華民国、フランス、オランダ、ソビエト連邦などの連合国と日本の降伏文書調印式が行われた。同月9日、ソープは東條内閣の閣僚を中心に「戦犯容疑者」のリストをマッカーサーに提出。直ちに国務省に報告し、翌10日、国務省から了解の返電を受けた。

戦犯の逮捕は連合国軍最高司令官から終戦連絡中央事務局を通じて日本政府に通達され、本人には連合国軍の中でも最初に東京に駐留を開始したアメリカ軍の第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、100名をゆうに超える逮捕者を出した。なお、出頭命令を受ける前に杉山元は9月12日に自殺している(第二次戦犯指名リストには掲載されていた)。下記のA級戦犯容疑での逮捕者は計126名(5名は逮捕・出頭前に自殺)。

また、アメリカの植民地であるフィリピンでの行為は、アメリカ軍が管理するマニラ軍事法廷で裁かれたため、フィリピンで捕虜にならず帰国していた者は日本で逮捕後、マニラへ送還された。ドイツ大使館付警察武官のヨーゼフ・マイジンガーは、前任地のポーランドでの行為が罪に問われたため、逮捕後ワルシャワに送還された。

第一次戦犯指名

外国人戦犯

第二次戦犯指名

第三次戦犯指名

第四次戦犯指名

その他

板垣征四郎木村兵太郎武藤章は外地で逮捕。橋本欣五郎は国内で単独で逮捕。(都合4名)

定義と問題点

A級戦犯はロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の定義により決定された。

極東国際軍事裁判所条例第5条 人並ニ犯罪ニ関スル管轄 本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。

(イ)平和ニ対スル罪
即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
(ロ)通例ノ戦争犯罪
即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
(ハ)人道ニ対スル罪
即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。

上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス。

これに基づいて極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指すことが一般的である[20]

代表検事アラン・ジェームス・マンスフィールド昭和天皇の訴追を強硬に主張。しかし首席検察官ジョセフ・B・キーナンが局長を務める国際検察局は天皇の訴追には断固反対し、免責が決定された。東京裁判の途中まで中華民国は天皇の訴追を強く要求していたが、中国国内で中国共産党軍の勢力が拡大するにつれて、アメリカの支持を取り付けるためその要求を取り下げた。

平和に対する罪人道に対する罪の適用は事後法であり、法の不遡及原則に反していることから、ラダ・ビノード・パール判事はこの条例の定義を適用せず、被告人全員の無罪を主張した。

ウィリアム・ウェブ裁判長は被告全員を死刑にすることに反対した。その理由として最大の責任者である天皇が訴追されなかったため量刑が著しく不当であるというものである。デルフィン・ジャラニラ判事は刑の宣告は寛大に過ぎ、これでは犯罪防止にも見せしめにもならないと強く非難し、被告人全員の死刑を主張した。BC級戦犯は約1,000名が死刑判決を受けている。

石井四郎関東軍防疫給水部731部隊隊長)は、関係資料をアメリカに引き渡すという交換条件により免責されている。

サンフランシスコ平和条約で、日本は東京裁判などの軍事裁判の結果を受け入れることが規定されており、法的には日本は国家として判決を受け入れているが、国内においてはそれを不服として異論を持つ者もいる。

極東国際軍事裁判に起訴された被告人

関東軍関係 
板垣征四郎 - 南次郎 - 梅津美治郎
特務機関 
土肥原賢二
陸軍中央 
荒木貞夫 - 松井石根 - 畑俊六 - 木村兵太郎 - 武藤章 - 佐藤賢了 - 橋本欣五郎
海軍中央 
永野修身 - 嶋田繁太郎 - 岡敬純
総理大臣 
広田弘毅(外交官) - 平沼騏一郎(司法官僚) - 東條英機(陸軍) - 小磯国昭(陸軍)
大蔵大臣 
賀屋興宣
内大臣 
木戸幸一
外務大臣 
松岡洋右 - 重光葵 - 東郷茂徳
外交官 
大島浩(駐ドイツ大使) - 白鳥敏夫(駐イタリア大使)
企画院総裁 
鈴木貞一 - 星野直樹
民間人 
大川周明(思想家)

上記の28名が1946年昭和21年)4月29日昭和天皇誕生日)に起訴された。このうち、大川周明は梅毒による精神障害が認められて訴追免除となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死したため、1948年11月12日に被告として判決をうけた者は25名となっている。

各被告の日米弁護人・補佐弁護人

被告 日本人弁護人 アメリカ人弁護人 補佐弁護人
荒木貞夫 菅原裕 ローレンス・マクマナス 蓮岡高明、徳岡二郎
土肥原賢二 塚崎直義→太田金次郎 フランクリン・ウォーレン 加藤隆久、木村重治
橋本欣五郎 林逸郎 E・R・ハリス 金瀬薫二、岩間幸平、菅井俊子
畑俊六 神崎正義 A・G・ラザラス中尉 国分友治、今成泰太郎
平沼騏一郎 宇佐美六郎 サムエル・J・クライマン大尉 澤邦夫、毛利与一
広田弘毅 花井忠 デイビッド・F・スミス→ジョージ山岡 安東義良、守島伍郎
星野直樹 藤井五一郎 ジョージ・C・ウィリアムス 右田政夫、松田令輔
板垣征四郎 山田半蔵 フロイド・J・マタイス 佐々川知治、阪埜淳吉
賀屋興宣 高野弦雄 マイケル・レヴィン 田中康道、藤原謙治、山際正道
木戸幸一 穂積重威 ウィリアム・ローガン 木戸孝彦
木村兵太郎 塩原時三郎 ジョセフ・C・ハワード 是恒達見、安部明
小磯国昭 三文字正平 アルフレッド・W・ブルックス 高木一也、三町恒久、小林恭一、松坂時彦
松井石根 鵜沢総明→伊藤清 フロイド・J・マタイス 上代琢禅、大室亮一
松岡洋右 小林俊三 フランクリン・ウォーレン (不明)
南次郎 竹内金太郎→岡本敏男 ウィリアム・J・マコーマック→アルフレッド・W・ブルックス 松沢龍雄、近藤儀一
武藤章 岡本尚一 ロージャー・F・コール 佐伯千仭、原清治、松崎蘶
永野修身 奥山八郎 ジョン・G・ブラナン 安田重雄
岡敬純 宗宮信次 フランクリン・ウォーレン 小野清一郎、稲川龍雄
大川周明 大原信一 アルフレッド・W・ブルックス 金内良輔、福岡文子
佐藤賢了 清瀬一郎草野豹一郎 ジェームズ・N・フリーマン 藪馬伊三郎、藤沢親雄
重光葵 高柳賢三 ジョージ・A・ファーネス大尉 金谷静雄、三浦和一
嶋田繁太郎 高橋義次 エドワード・P・マクダモット 瀧川政次郎、祝島男、鈴木勇
大島浩 塚崎直義→島内龍起 オウエン・カニンガム 内田藤雄、牛場信彦
白鳥敏夫 鵜沢総明→成富信夫 チャールズ・B・コードル 佐久間信、広田洋二
鈴木貞一 長谷川元吉→高柳賢三 マイケル・レヴィン 戒能通孝、加藤一平
東郷茂徳 穂積重威→西春彦 チャールズ・T・ヤング→ジョージ山岡 加藤伝次郎、新納克己
東條英機 清瀬一郎塩原時三郎 ビーバレー・M・コールマン大佐→ジョージ・F・ブルーエット 松下正寿
梅津美治郎 三宅正一郎→宮田光雄 ベン・ブルース・ブレイクニー少佐 小野喜作、池田純久、梅津美一

判決

絞首刑(死刑)

ファイル:Last writing of Muto, Tojo, Matsui, Doihara.jpg
A級戦犯(土肥原賢二、東條英機、武藤章)、及びB級戦犯松井石根の絶筆

なお、ウェッブ裁判長は死刑制度が廃止されていたオーストラリア出身で、23年にもわたる裁判官生活で死刑を言い渡すのはこれが初めてだったために、「極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する」の部分の口調はある意味の興奮があったという[21]。 この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある[22]

死刑1948年昭和23年)12月23日(皇太子明仁親王(現在の今上天皇)の誕生日)に執行された。

終身刑


有期禁錮


判決前に病死

訴追免除

処刑後の遺体の扱い

処刑された7人の遺体は横浜市西区久保山斎場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられた。しかし、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から遺灰(7人分が混ざった)を密かに回収し、近くの興禅寺に預けた。1949年5月に伊豆山中の興亜観音[2]に密かに葬られた。

その後、1960年昭和35年)8月16日愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移された。三ヶ根山には「殉国七士廟」が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されて今に至る。

裁判を免れたA級戦犯被指定者

不起訴により釈放


彼らの中には岸や正力や緒方のように第二次世界大戦後の日本社会の有力者になったり、それぞれの分野で相応に一定の社会的地位を築いたりした者もいた[24]。しかし、アメリカ合衆国政府が機密指定を解除して公開した中央情報局(CIA)の文書によって、岸・正力・緒方らは日本を親米化するためのアメリカ合衆国政府の協力者として位置づけられていたことが確認された[25]

その他の不起訴
自殺


A級戦犯容疑に該当しなかった被指定者

  • A級戦犯として逮捕されたBC級戦犯(11名)

ただしこのうち3名は死刑で、1名は死刑判決だったものの執行停止。2名が終身刑(のち減刑)。5名が有期重労働刑。

  • 外国人戦犯(15名)

その後

GHQによる言論統制

GHQプレスコードなどを発して検閲を実行し、戦犯擁護や極東国際軍事裁判批判などとの理由を付け削除や発行禁止などを行い言論を統制としてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムを実施したとの江藤淳らの主張がある。

主権回復後の赦免

参照: 日本国との平和条約第11条の解釈

日本の主権回復後の戦争犯罪人の取扱いについては、1952年4月28日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の第11条に規定されている。

第11条(戦争犯罪)
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。

1950年代には、これに基づき国内外で収監されている戦犯の赦免や減刑に関する、以下の国会決議が採決されている。

ただし、A級戦犯については、赦免された者はおらず、減刑された者がいるのみである(終身禁錮の判決を受けた10名)。[26]

いっぽう、戦犯の国内での扱いに関しては、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる変化が生じている。

また、1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」についても一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。

これらは前年の1952年に、国内外で戦犯として収監されている者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の日本国民の署名が集まった事に起因する[27]。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11か国の同意を得たうえで、減刑された者については、

A級戦犯の「名誉の回復」については、1953年(昭和28年)7月9日の厚生委員会において、社会党社会民主党の旧称)の堤ツルヨが「戦犯で処刑されたところの遺族の問題であります。処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になつて保護されておるのに、早く殺されたがために、獄死をされたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。」「当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのは当然であると思います。」と答弁した[28]

重光葵東条内閣小磯内閣外務大臣を務め、A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年の刑を受けて、講和条約の発効と恩赦後に、衆議院議員に3回当選し、1954年に鳩山内閣副総理・外務大臣となり、日ソ国交回復交渉や国連加盟交渉に取り組み、1956年の国際連合総会で日本の国連加盟が全加盟国の賛成で承認され、重光の受諾演説に対して加盟国代表団から拍手で迎えられ[29]、その功績に対して公職引退後(死後)に勲一等旭日桐花大綬章を授与された。

賀屋興宣東条内閣大蔵大臣を務め、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑を受けた。賀屋興宣は連合国との講和条約の発効と恩赦による刑の執行終了後、衆議院議員に5回選出され、池田内閣法務大臣を務め、その功績に対して、公職から引退後に叙勲を打診されたが辞退した。

昭和殉難者としての靖国神社合祀

参照: 靖国神社問題

1978年(昭和53年)、靖国神社が死刑及び獄中死(平沼騏一郎は、病気仮釈放後の死去)の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。また、広田弘毅など非軍人を合祀したことでも例外的な措置であった。死亡の理由は「法務死」となっている。


靖国神社A級戦犯合祀問題の是非やそれに対し首相ら閣僚が参拝することに関しては非難する意見と個人の思想信条の自由という意見がある。1985年に内閣総理大臣・中曽根康弘(元海軍主計中尉)が靖国神社を公式と称して参拝(法律が定める首相の職務ではなく政府の行事でもないので法的・政治的には公式参拝ではない)した後、「靖国神社の国家護持」を唱える千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長の瀬島龍三(元関東軍参謀陸軍中佐)と合祀取り下げ論を話し始めた。

第3次小泉内閣下において民主党野田佳彦国会対策委員長は「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる」とし、「戦犯」の名誉回復および極東国際軍事裁判に対する政府の見解と内閣総理大臣の靖国神社参拝について質問を行った[30]。これに対して2005年10月25日に提出した答弁書において、政府は第二次大戦後極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した各級の罪により戦争犯罪人とされた(A級戦犯を含む)軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」とした一方で、戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、判断を避けた[31]。首相の靖国神社参拝に関しては公式参拝であっても、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、日本国憲法第20条第3項(国の宗教的活動禁止)に抵触しない」との見解を示している。

A級戦犯を描いた作品

脚注

  1. ポツダム宣言六條、「日本を世界征服へと導いた勢力の除去」 ウィキソース上「ポツダム宣言」該当部分日本語訳
  2. 極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項 極東国際軍事裁判所条例第五条
  3. 太平洋戦争研究会『東京裁判 パル判決書の真実』PHP研究所、2006年、pp.16-17.
  4. 野呂浩「パール判事研究 : A級戦犯無罪論の深層」、『東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編』31(2)、東京工芸大学、2008年、 p43
  5. 林博史「BC級戦犯裁判」p.2-3.
  6. 多谷千賀子 『戦争犯罪と法』 岩波書店(原著2006-12)。ISBN 9784000236669。
  7. 40名という数は、下記の外国人15名と、杉山元を含むもの。
  8. 海軍中将。海軍航空隊の功労者。
  9. マニラ軍事法廷で死刑判決を受けて、1946年4月3日に銃殺刑執行。「バターン死の行進」関連。
  10. マニラ軍事法廷で終身刑判決。後に減刑されて1951年に釈放され翌年帰国した。
  11. マニラ軍事法廷で終身刑判決。銃殺刑。
  12. 中佐。マニラ軍事法廷で死刑判決。絞首刑。「マニラ大虐殺」関連。
  13. 13.0 13.1 東京捕虜収容所での「人体実験」関連。
  14. 東京捕虜収容所付属病院の監視官を勤めた軍曹。
  15. 仙台捕虜収容所勤務の軍属
  16. 仙台捕虜収容所勤務の軍曹。
  17. 東京捕虜収容所の大尉。
  18. 海軍捕虜収容所通訳官。
  19. ラジオ放送での対日協力者も、A級戦犯とは関係がなく、利敵行為として各国の軍法や国内法での反逆罪等に当たった。駐日大使等は戦犯ではなく証人であった。故にこれらからは1人も極東裁判の被告席に据わることはなかった。
  20. 極東国際軍事裁判の被告人のうち、松井石根は同裁判の判決においてA級に該当する被疑事実は全て「無罪」とされており、A級戦犯ではないとする説もある。
  21. 保阪正康 『東京裁判の教訓』 朝日新聞出版〈朝日新書〉(原著2008-07-30)、初版、233・249。ISBN 9784022732200。アクセス日 2008-11-17
  22. 「東京裁判における日本の東南アジア占領問題」梶居佳広(立命館法学2012.)P.223[1]
  23. 23.0 23.1 23.2 23.3 23.4 23.5 獄中死

  24. 岸信介は東條内閣で商工大臣を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されたが不起訴となった。連合国との講和条約の発効後、衆議院議員に9回当選、石橋内閣で外務大臣を務めた後に、石橋内閣の後継として1957年2月25日~1960年7月19日まで内閣総理大臣を務めた。国民皆保険・国民皆年金制度の制定や、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の改定を実施し、その功績に対して勲一等旭日桐花大綬章大勲位菊花大綬章を授与された。
    正力松太郎は読売新聞社長、東条内閣で参与、小磯内閣で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されるも不起訴になった。釈放後は日本をアメリカ合衆国の国益のための有力な同盟国・友好国にするために、読売新聞日本テレビを宣伝報道事業者にした。正力松太郎は衆議院議員に5回選出され、第3次鳩山一郎内閣並びに岸内閣に於いて科学技術庁長官を歴任、更に国家公安委員長を務め、その功績に対して勲一等旭日大綬章勲一等旭日桐花大綬章を授与された。CIAから資金提供を受けていたという(正力マイクロ波事件を参照)
    緒方竹虎は朝日新聞副社長・主筆、小磯内閣国務大臣と情報局総裁を務め、鈴木貫太郎内閣で顧問を務め、A級戦犯被疑者としてGHQに逮捕され巣鴨拘置所に収監されるも不起訴になった。緒方竹虎は衆議院議員に3回選出され、吉田内閣では、副首相官房長官国務大臣を務め、その功績に対して勲一等旭日大綬章を授与された。アメリカから総理候補として期待され、CIAにより緒方政権樹立のための政界工作が行われたが、緒方は総裁公選を前に急死した。
  25. ティム・ワイナーの著書『CIA秘録』、有馬哲夫の著書『原発・正力・CIA』・『日本テレビとCIA』・『CIAと戦後日本』、吉田則昭 の著書『緒方竹虎とCIA』
  26. 参議院議員吉岡吉典君提出日本の戦争犯罪についての軍事裁判に関する質問に対する答弁書 1991年10月29日
  27. 「“A級戦犯”はなぜ合祀されたか」『靖国論集』)
  28. 第16回 衆議院議事録 -厚生委員会議事録16号- 昭和28年7月9日(木曜日)78ヶ目の質疑
  29. 外務省>報道・広報>演説>国際連合第十一総会における重光外務大臣の演説
  30. 野田佳彦「「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書」(質問第二一号)、2005年10月17日
  31. 小泉純一郎「衆議院議員野田佳彦君提出「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問に対する答弁書」(内閣衆質一六三第二一号)、2005年10月25日

関連項目

外部リンク