1993 山内溥

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やまうちひろし

「アメリカの聖域ビジネスに手を出した」と、日米両国で大きな話題となった任天堂・山内溥社長の大リーグ「シアトル・マリナーズ」買収計画は、1992年夏多くのハードルを乗り越えて成功を収めた。

山内はマリナーズを買収した投資家グループ「シアトル・ベースボール・クラブ」の筆頭株主ではあるが、株主比率を50%未満に抑え、経営の実権を同クラブ社長に就任したJ.エリス(地元電力会社ピュージェット・パワーの会長)に譲り、球団経営の表面に出ないよう配慮したことが地元民や大リーグ機構の反発を回避できた大きな理由だといわれている。またシアトルは、対日貿易で大幅黒字を記録していて、一般市民の対日感情が良好であったことも幸いしたといえる。

山内は1927年11月7日生まれ。花札やトランプを製造販売する京都の老舗玩具メーカー任天堂の4代目社長だ。早稲田大学在学中の22歳のとき、先代が病没し急遽家業を継ぐことになり大学を中退して任天堂社長に就任した。冒険心が旺盛で、積極果敢なカリスマ的経営方針をとり、次々と新しい事業分野に手を広げていった。1958年にはプラスチック製のディズニー・トランプで大当りをとり、3年間で売上高を倍増させたこともあった。反面失敗したケースも少なくない。インスタントライスやふりかけ食品など異分野への事業多角化に失敗し、光線銃などのエレクトロニクス玩具への取組みも時機尚早で、1973年頃には倒産寸前の経営危機に見舞われている。

この任天堂の窮地を救ったのはテレビゲームの大流行であった。テニスや卓球をテレビ画面を使って遊ぶテレビゲーム機を開発し、これが爆発的にヒットした。一時は経営危機を招いたエレクトロニクスへの「早すぎた」取組みがかたちを変えて実ったのである。続いて1980年には「ゲーム&ウォッチ」を発売、子供たちの間で大ブームを呼んだ。さらに1983年には家庭用テレビゲーム機の「ファミコン」を発売、以後約10年間にハードは全世界で5000万台をこえ、ソフトは累計で5億本を上回るという、文字どおり「20世紀最大のヒット商品」へと育てあげた。

しかし1987年には日本電気ホームエレクトロニクスが16ビット機の「PCエンジン」を、また1988年にはセガ・エンタープライゼスが同じく16ビット機の「メガドライブ」を投入して、テレビゲーム市場を独走していた任天堂への追撃を開始した。しかし任天堂も1989年にポータブル・ゲーム機の「ゲームボーイ」、1990年には16ビット機「スーパーファミコン」を発売、その王座を譲り渡す気配はみえない。

山内は孤独を好み、人前へ出ることも外国旅行も嫌いという。ごくたまにテレビゲームを楽しむために、京都駅構内のゲームセンターに出かけるくらいで、市民も京都一の億万長者の姿を見かけることはほとんどない。