1926 大量生産

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たいりょうせいさん Mass production


大量生産ということばは、規格化された単一の商品を大量に生産する近代的な方法を表すために用いられる。大量生産についての必要な前提条件は、大規模な生産を消化できる力、つまり潜在的なものにせよ、顕在化しているものにせよ、大量消費という能力である。大量生産と大量消費は相並んで進行する。そして、大量生産の動機はこれを大量消費に求めることができる。

大量生産の起源

大量生産はアメリカ合衆国で生まれたものであり、それも最近のことである。最初にはっきりと現れたのは20世紀初頭の10年間のことである。単に人力と資材を大量に集めるということであるならば、それはピラミッドの建設にもみられた。織布、家庭でのパン焼き、家の建築、木船の建造といった基礎的産業は、現在も古代エジプト当時とほとんど同じように行なわれており、違いがあるとしてもそれはほんの表面上の違いにすぎない。蒸気機関が発明されるまでは、小屋掛けの仕事場で物をつくり、作業は手仕事に頼るというのが産業のやり方であった。動力機械時代の到来とともに産業の座は家庭から離れ、新しい作業センター、つまり工場が設けられるにいたった。

初期の工場制度は不経済なものであった。当初は予想以上にリスクも資金の損失も大きかったし、労働者にとっては賃金は低く生活は不安で、製品の品質も低下した。時間を長くし、労働者数を増やし、機械も増設したが事態はよくならなかった。増やせば増やすほど、経営の仕方に内在する誤謬の規模を大きくするだけであった。人力や道具を集めただけでは不十分であったし、企業を支配した利潤追求の動機だけでも十分ではなかった。科学的に生産しようという動機こそが大量生産と呼ばれるものに発展したのである。

新しい方式は、工業活動を商業的および金融的に支配することが失敗に終わったあとを受けて現れた。工業の金融的支配が出現し進展した結果、株式会社の発達と労働者の反抗増大という二つの現象が顕著となった。金融的な目的から工場を人為的に結合して大会社組織にしたことは、産業における大規模化への第一歩であった。これは、完全な金融支配が自動的に完全な利潤追求上の利便をもたらすという理論に基づいて進められた。この理論は多くの肝要な事業原則を無視したものであり、その誤謬は重大な社会的反発を招いてから初めて明らかになったのである。

大量生産を成功させるための試験台にされたのは自動車産業である。おおかたの認めるところでは、フォード・モーター社が単独経営権下に単一目的をもって大量生産方式の最大規模の開発を成し遂げた開拓者とされている。したがって同社の経験を基にすれば、大量生産の歴史とその原則の叙述を簡明化することができよう。前述したように、大量生産はその方式によって生産された大量の商品を大衆が消化できる力のあることを前提としてのみ可能である。これらの商品は当然のことながら必需品、便利品にかぎられてくる。大量生産方式は便利品の生産分野で最も長足な発達をみせた。自動車は基本的かつ持続的な輸送用便利品の代表的なものである。

そこで大量生産は、大衆が自身ではまだ気づいていないと思われる大衆的需要の着想から出発し、使用上の便益は価格上の便益と釣合いがとれなければならないという原則に基づいて進められる。この原則の下ではサービスという要素が最重要視される。利潤とか拡張ということは、その結果として生ずる二の次の期待である。

フォード・モーター社の経験によれば、大量生産は大量消費に先行するものであり、コスト引き下げによって使用上の便益と価格上の便益の両面が達成されることにより大量消費が可能となるということであった。生産が増大すればコストは低下できる。生産が5倍になればコストは5割方引き下げられる。そしてコストダウンにより売値も下がれば、その製品を容易に買える人たちの数おそらく10倍になるのである。

大量生産の原理

工場の細目に関していえば、「簡素」が大量生産のキーワードである。これには三つの原則がある。(a)商品が原料から製品まで順序よく工場内を進行するよう生産工程を計画すること、(b)工員が自分から次の仕事をとりに行くのに任せず、次々に仕事を与えるようにすること、(c)作業を分析検討して、基本的構成部分にまで分解することである。この3原則は、内容は異なっても別途のものではなく、すべて(a)に包括される。原料に対する最初の加工作業から最終製品の生成にいたるまで、原料がどのように動いてゆくかを計画立てるということは、大規模な工場設計と、この生産ラインに沿った、各工程での加工作業ならびに各工程への資材、工具、部品の供給という問題を当然に含んでいる。個々の作業の進展に従ってこの配列を順序よく稼動させるには、流れ作業のなかの1点で作業が中断しないよう配慮しなければならない。以上の3基本原則は、当然流れ作業による生産ラインの基本設計のなかに含まれるものである。

このシステムは、最終的組み立てラインだけでなく、完成した製品に関連する種々の技術や職種全体にも通じて適用される。自動車の組み立てラインでは、何百という多数の部品がたちまちのうちに1台の車に組み立てられてゆくが、そこへ集まってくる部品もまた別の組み立てラインで何百という部品から組み立てられてきたものである。たとえばばね板は最終組み立てラインにいたって初めて現れてくるもので、全工程からみればとるに足らない部品のようにみえる。以前は1人の職人が鉄材を切断し、焼きを入れ、弯曲させてばね板をつくっていた。

典型的な一作業

わかりやすい説明として、ばね板ができるまでの過程を鉄鉱石、鋼塊、鋼片と小鋼片の段階を経て鋼板にまで圧延された段階からたどってみよう。

(1)製鋼工場から送られてきた鋼板はパンチプレスにかけて切断され打ち抜かれる。最初の工員は鋼板の一端をプレスに送り込み、止まったところでプレスの留め金をはずして打ち抜く。打ち抜かれた鋼板はベルトコンベアに落下し、熱処理炉の投入口へ運ばれる。(2)2番目の工員はその鋼板を、炉の中を通る別のコンベアに移す(炉内の温度は自動的に制御されている)。鋼板は炉を通過する間に一定の温度に加熱され、取出口から送り出されてくる。(3)3番目の工員は赤熱した鋼板をヤットコで取り上げ、曲げロールにかけて所要の湾曲を加えたまま、曲げロールごと油槽へ漬ける。油は作業員が勝手に制御できぬような機器で一定の温度に保たれている。(4)油浴から引き上げられると、同じ工員が弯曲した鋼板をはずして自然冷却させる。(5)4番目の工員が所定の温度に保った硝酸塩溶液に鋼板を漬ける。(6)5番目の工員がそれを点検する、という手順である。

フォードの車に装着するばね板は平均17枚の鋼板で構成されており、平均日産2万5000本であるから、この作業には上述のような生産ラインを多数設けなければならない。ばね板を構成する鋼板は最下部の主板から最上部のものまでそれぞれ長さも曲げ度も異なっているので、各サイズの鋼板をつくるための生産ラインが同時に前述の作業を行なって、しかも各ラインの終わりで同時に仕上がり、組み立てられるように調整されている必要がある。つくり方を以上に述べた鋼板そのものは、最も簡単なものである。

作業はこのあとさらに続く。(7)6番目の工員はコンベアで硝酸塩溶液から運び出されてきた鋼板を取り出し、ばね板に仕上げるため重ねた鋼板の穴にボルトを差し込む。(8)7番目の工員がそれにナットを取り付けて締める。(9)8番目の工員は左右両手のクリップをつけ、まくれを削り落とす。(10)9番目の工員がそれを点検し、(11)ばね板をコンベアにひっかける。(12)10番目の工員は目の前を通るコンベアにかけられたばね板を塗装する。コンベアはさらに移動して塗装されたばね板を乾燥機に送り込み、輻射熱で塗料の速乾が行なわれる。(13)コンベアはさらに進んで製品置き場に入り、ここで11番目の工員がコンベアからばね板をはずす。

旧来のシステムでは1人の工員が前述のすべての工程に立ち会うか、あるいはバネ板が完成するまでを全部受け持ったが、そのために生産高はかぎられてしまっていた。同一の製品を大量につくろうとする場合は、1人の工員は全作業時間を通じて最も簡単な操作を繰り返さなければならない。1日8時間作業を続ける間、1人の工員は1分間で終わる作業を何度も繰り返し、480本を処理する。この1枚のばね板という簡単な部品は、同じ目的を達成するよう設計された他の何百万枚ものばね板と、強度、仕上げ、曲げ度などの点でまったく同一でなくてはならない。それだけに、自動機械、最も正確な計測機器、高温計による制御、合格・不合格判定ゲージなど近代的経営管理が事実上もたらしうる最善の設備を必要とする複雑微妙な作業内容となる。前述した鋼板は、全工程のなかでみればほんの些細なものに違いないが、それだけを考えた場合は大きな問題になる。たとえば、(1)では鋼鉄、(2)では熱、(3)では動力と油、(5)では硝酸塩溶液、(7)ではボルト、(8)ではナット、(9)ではクリップ、(12)では塗料、というように、それぞれ指定の場所に必要な資材が十分に準備されていなければならない。そしてこの簡単な工程のなかでも多くの技術や職種の秘密が用いられるのである。

この小さな部品の説明のなかにも工場全体を通じた製品生産工程の整然たる進行が明らかに示されている。それは、工場の他の部分で同じような工程を経てできあがってくる別の自動車部品と合流するからである。また、工員の作業の受け渡しが意味するものも示されている。すなわち各工員の作業は他の工員がそれを準備し、その者に引き渡すのである。さらに前述の原則(c)、つまり一つの作業をその構成部分にまで分解検討する点も示されている。ここに述べた部品は簡単なものといっても、鍛造などの重作業から微妙な電気器具のような卓上組み立てという軽い作業まで、他の幾多の作業が関連している点を度外視するわけにはいかない。ゲージ点検のなかには1インチの1000万分の1の精度を要求するものもあるからである。

大量生産方式がもたらす経済性は明白である。機械は常時稼動している。ばね板製作の全作業を1人で受け持つ人たちのためにすべての設備をいちいち用意するようなことは経済的に不可能であろう。プレス、炉、曲げ機、油槽などは、もし1人の工員が一つ一つの作業を順次行なうとすれば、その間は遊ばせておくことになる。大量生産方式の下では、ある作業から次の作業へと受け渡すこと自体が稼動なのである。価格上の便益がそこなわれれば商品の使用上の便益は減少する。しかし、機械の稼働時間に関する経済性はわずか一要素にすぎない。時間、資材、労働の経済性も考えなければならない。大量生産は、経済性の思想が購買者に及ぶことによってのみ、その存在理由が認められる。

大量生産の影響

しかしながら、広く論争の種となったのは大量生産の歴史でも原理でもない。問題は、その影響であった。大量生産が社会に及ぼした影響はどんなものであったか。

まず、大量生産方式が興隆した温床という点で当然視される経営面をみよう。そこには金融的支配とは明確に異なった工業的支配が顕著に力を増している。金融的支配は、その全盛時においてさえ、製品をよくするために費用をかけてでも製造方法を変更するという動きは示さなかった。より優秀な設備が発明されたら旧式な設備を即座に廃棄するということの経済性はあまりよく理解されていなかった。この新しい心構えを進展させたのは、大量生産方式のなかに強く根をおろした技術的支配であった。

大量生産が製品に及ぼした効果は、大量の製品についてこれまでの最高の品質が得られたという点である。大量生産の条件は、各作業にわたってそれぞれの点検に合格するような最高の品質を要求する。最高度の精密さが、すべての作業を支配しなくてはならない。あらゆる部品はすべて、設計に同時に合致するよう製造されなければならない。大量生産では修整要員は存在しえない。修整要員が存在するということは、即座に設計にあてはめられない部品が生産されることを意味する。豪華な工芸品の場合、精密度は注意深い手仕事のおかげで得られる。精密度を得るための手仕事を大量生産方式に導入することは、価格上の便益にどう照らしてみても大量生産を不可能にするといえよう。製品の標準品質は、それが正確に仕様どおりでないかぎり作業が進捗しないように機械がつくられているという事実によって保証されるのある。

大量生産が機械工学に及ぼした影響は、同種の作業をとりまとめて大量作業を可能ならしめるだけでなく、手作業の熟練を高度に再現できるような単純機械をきわめて多様につくり出したという点である。この進歩を特色づけるものは、新しい原理の発見というよりも、むしろ古い諸原理の新しい組み合わせないしは応用といったものである。大量生産の下で、機械製造工業は従来の歴史とは比較にならぬほど発達し、新しい機械を絶えず設計することがあらゆる大製造業者の生産活動の一部となっている。

大量生産が従業員に及ぼした効果の評価は多様であった。大量生産の主要原理は、骨の折れる仕事をがまんするという旧来の肉体的意味における重労働はむだだということである。肉体的な骨折り仕事は人の手を離れて機械に負わされる。繰り返し頭を悩ます仕事は、製造作業に従事する者から設計に従事する者へと移される。機械はかくして人間を支配するにいたるといった論議に対しては、機械がむしろ人間の環境支配力を増大したと答えられるであろうし、また、絶えず古い機械を廃棄していっている時代には、機械に隷属するような兆候はまったくみられないものだといってもよいであろう。

大量生産の下では、熟練職工や創意に富んだ才能の持ち主に対する需要がより大きい。たとえばフォード・モーター社の工場に足を踏み入れてみると、熟練した技術者が集まっている大きな仕事場をいくつも通り抜けるが、彼らは製造自体ではなくて製造用機械類の建設や保守に従事している。大量生産の結果として熟練労働者は増大したのか、あるいは減少したのかという議論が従来行なわれてきたが、私見としては増大したものとみている。世界的にみて、普通の作業は従来は常に未熟練労働者の仕事であった。しかし近代における普通の作業は従来のような普通の作業ではない。ほとんどあらゆる労働分野において、1、2世代前より多くの知識と責任とが要求されるのである。

大量生産はまた、反復作業の単調さといわれるものと関連して検討されてきた。大量生産は作業自体を軽減するが、他方でその反復性を増大させる。その点で大量生産は資材の手当から仕上げまですべての作業を、一職人が通して行なう中世風な工匠方式とは正反対のものである。管理の行き届いた近代的工場では、単調化の傾向に対処するためしばしば職場転換が行なわれる。

大量生産が雇用削減の一手段であるとする批判は、もはやとるに足らぬ議論とされてから久しい。フォード・モーター社の経験によれば、製造作業の面で人員が削減された場合、いずれもそれ以上の仕事が新しくつくり出されている。不断の労働作業削減計画と併行して、不断の雇用増大がみられた。

大量生産が賃金や、管理職と労働者との間の人的関係に及ぼした影響については、ほとんど述べる必要がない。他のいかなる産業方式よりも高い賃金をもたらしたということは、おそらく大量生産に関して広く認められた事実であろう。理由は手近にある。大量生産方式は労働者により多くの収入を与え、それによってより豊かにさせることができる。社会に、労働者に、そして企業自身にも利益をもたらすように生産を組織することは経営の課題である。どの点で一つ失敗しても経営が拙劣だということになる。労働条件の混乱、低賃金、不安定な利潤などは経営の失錯を示すものである。経営の腕前一つで、大量生産方式ならでは創意発揮の機会をつかみえない何千という人たちのエネルギーを吸収できる。近代的方式が個人の機会をせばめるのではなくて拡大するのは、この点にある。

大量生産方式が社会に及ぼす影響については、人々が必要とするものについて供給が増大することと、生活水準の新たな向上をもたらすことが評価すべき要素である。余暇が多くなったり、つきあいが増えたり、個人的生活範囲が広がったりすることは、すべて大量生産の所産である。