13植民地

提供: miniwiki
2018/8/26/ (日) 18:16時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
ファイル:Grand Union Flag.svg
イギリス領北アメリカ植民地旗

13植民地(じゅうさんしょくみんち、: Thirteen Colonies)とは、イギリス第一次植民地帝国北米植民地をさす。1776年独立宣言、その後のアメリカ独立戦争を経て13植民地はアメリカ合衆国として独立した(建国時の13独立十三州とも呼ばれる)。

13植民地の位置と構成

13植民地(赤色部)図
ニューイングランド植民地群English版
中部植民地群English版
南部植民地群English版

概要

イギリス帝国では、1607年ヴァージニアに始まり、1732年ジョージアにいたる北アメリカ大陸東海岸に13植民地が形成された。フランス北米植民地とくらべると、ヨーマン(自営農民)として家族単位での植民と定住が一般的であり、そのため人口も多く、かれらは農地の確保を指向していたため、先住民であるインディアンと衝突することも多かった。イギリス国王特許状による自主的な運営がおこなわれ、政治的自由が認められており、その緩い支配は「有益なる怠慢」と称されていた。

13植民地の経済的な特色は、北部と南部では著しく異なり、中部はその中間的な特色を有していた。

プリマスマサチューセッツなどを中心とするニューイングランド植民地(北部植民地)はピューリタンが多く、自主独立の気風が強かった。この地域では庶民の立法機関であるタウンミーティング制度が発達していた。豊富な水力や木材を利用した工業も発達し、産業資本家や労働者の形成もみられた。農業の大規模経営は発展しなかった。

ヴァージニアやサウスカロライナなどの南部植民地では、プランテーションとよばれる大規模農業経営が広まった。そこでは当初白人の年季契約農を使用していたが、労働力不足からしだいにアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入するようになった。プランターの多くは保守的で、またカトリックの勢力が多かった。そこでは、本国の議会制度を模したカウンティ(郡)の制度が採用されることが多かった。

ニューヨークペンシルベニアなどの中部は小麦を中心とする農産物輸出がさかんであったが、奴隷制プランテーションは発達せず、農業と商業を中心に発達した。

植民地人口は18世紀に入って急増した。以下に、1700年と1780年の各植民地の人口を掲げる。

番号 植民地名 1700年 1780年 区別 沿革
白人 黒人 白人 黒人
1 ニューハンプシャー 5 0 87 0.5 自治植民地 1679年、マサチューセッツ湾植民地より分離。
2 マサチューセッツ 55 1 312 5 自治植民地 1629年、マサチューセッツ湾会社により設立。
1691年、プリマス植民地(1620年設立)を併合。
3 ロードアイランド 5.5 0.5 50 3 自治植民地 1636年、ロジャー・ウィリアムスにより設立。
4 コネティカット 25.5 0.5 202 6 自治植民地 1636年、トマス・フーカーにより設立。
5 ニューヨーク 17 2 237 21 領主植民地 1664年、ヨーク公(ジェームズ2世)。
6 ニュージャージー 13 1 129 10 領主植民地 1664年、ジョン・バークレー、ジョージ・カータレットにより設立。
7 ペンシルベニア 17.5 0.5 319 8 領主植民地 1681年、ウィリアム・ペン(クエーカー教徒)により設立。
8 デラウェア 2 0 42 3 領主植民地 1703年、ペンシルベニア植民地より分離。
9 メリーランド 27 3 165 81 領主植民地 1634年、ボルティモア卿により設立。
10 ヴァージニア 41.5 16.5 355 228 自治植民地 1607年、ヴァージニア会社により設立。
11 ノースカロライナ 10.5 0.5 188 93 領主植民地 1663年、クラレンドン卿ら8人の貴族により設立。
1729年、南北に分離。
12 サウスカロライナ 3.5 2.5 83 97 領主植民地 1663年、クラレンドン卿ら8人の貴族により設立。
1729年、南北に分離。
13 ジョージア 35 21 領主植民地 1733年、オーグルソープにより設立。
13植民地 223 21 2,205 575

人口の単位はそれぞれ千人である。

独立戦争へ

ファイル:Flag of the United States (1777-1795).svg
アメリカ独立当時の星条旗(星は13個、条は13条ある)

「有益なる怠慢」と呼ばれた植民地支配が転機を迎えたのは、フレンチ・インディアン戦争であった。この戦争で勝利したイギリスは、1763年宣言アパラチア山脈を越えての植民地人の進出を規制した。これが、「イギリス人」として戦争に協力した植民地人の怒りを買うこととなった。イギリスは戦費支出の増大による財政難から、それまでの緩やかな植民地支配から厳しい産業統制に転じ、砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)などを施行して13植民地に対する課税を強化した。これに対し、イギリス議会に代表を持たない植民地議会は「代表なくして課税なし」ととなえて抵抗し、一連の税法を廃止に追いこんだ。しかし、イギリス議会は1773年に東インド会社に茶取引を独占させる茶法を制定したため、植民地側の不満が頂点に達し、インディアンに扮した植民地人が、ボストンに入港したイギリス船内の茶を海に投棄するボストン茶会事件が起こった。イギリス側はボストン港閉鎖などでこれに対処したため、1774年、13植民地は大陸会議を開いた。1775年、両者はついにレキシントン・コンコードの戦いで武力衝突し、植民地軍ジョージ・ワシントンを総司令官に選んでアメリカ独立戦争に突入した。

参考文献

関連項目