100m道路

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100m道路(ひゃくメートルどうろ/ひゃくメーターどうろ)とは、都市の大通りのうち、100m以上の幅員を有するものの通称・総称である。これらは戦災復興の都市計画に基づいて建設され、実際には、名古屋市の2本と、広島市の1本が知られる。

概要

「100m道路」は、太平洋戦争での日本の敗戦後、日本本土空襲によって被災した日本各都市の復興のために戦災復興院が立案し、1945年昭和20年)12月に閣議決定された「戦災復興計画基本方針」のなかで計画されたものである[1]。戦災復興院は将来の車社会の到来を予想、主要幹線道路の幅員は大都市では50m以上、中小都市でも36m以上と定めたが、更に必要な場合の緑地帯防火帯を兼ねたものとして計画されたのが100m幅での道路建設であった[1]

当初は全国で24本の「100m道路」が計画されていたものの、日本占領軍であった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による、「敗戦国に立派な道路は必要ない」との反対や、1949年(昭和24年)のドッジ・ラインに基づく緊縮財政などによって、名古屋市の2本と、広島市の1本のみが実現した[1]

該当道路

ファイル:View from Nagoya TV Tower.jpg
久屋大通名古屋市
中央分離帯に位置する久屋大通公園を挟む各方向一方通行の車道(画像では高層ビルの谷間となっている部分すべて)で1本の道路である

以下の3本の道路が「100m道路」と呼ばれている。

名古屋市において「100m道路」を含む道路建設計画を、市助役の田淵寿郎が発案した際には、

その他

札幌市大通公園および釧路市柳町公園は共に「100m道路」に近似している。但し、前者は既に明治時代から存在しており、後者も運用を終えて不要となった運河を埋め立てる事により生じた広大な遊休地を(前者を参考に)考案・再活用したもので、「100m道路」計画との関連は無い。また、関東大震災後に帝都復興院総裁の後藤新平から、東京市に幅広な道路を建設するという案が出た事がある。大阪府道2号大阪中央環状線も、高速道路部分も含め幅員が100m以上あるが、成立過程も形態もほかと異なり「100m道路」の通称で呼ばれることもほとんどない。

なお、東京湾岸道路もその大部分が100mの幅員であるが[1]、「100m道路」と呼ばれることはあまりない。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 「日本再生の記憶と遺産」 『日本経済新聞』 2011年8月10日 朝刊社会面

関連項目