鬱陵島

提供: miniwiki
2018/8/10/ (金) 23:28時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索
鬱陵島
座標 東経130度52分0秒北緯37.5度 東経130.86667度37.5; 130.86667
面積 72.82 km²
最高標高 984 m
最高峰 聖人峯
所在海域 日本海
所属国・地域 大韓民国の旗 韓国 慶尚北道 鬱陵郡
テンプレートを表示
鬱陵島
各種表記
ハングル 울릉도
漢字 鬱陵島
発音 ウルルンド
日本語読み: うつりょうとう
ローマ字転写: Ulleung-do
テンプレートを表示
ファイル:Ullundo.png
鬱陵島の位置

鬱陵島(ウルルンとう、うつりょうとう、朝鮮語: 울릉도)は、大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する日本海に浮かぶ直径10km程度の火山島である。

朝鮮半島から約130km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984m。平地はほとんどなく、道が悪いので車はほとんどが四輪駆動車である。住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している。江戸期の日本名は「竹島」または「磯竹島」、明治期1905年までは「松島」。近代になって西洋においては「Dagelet」などと呼ばれていた。最大の付属島は島の北東に位置する竹嶼で、他に観光地となっている観音島などがある。豪雪地帯でもある。

  • 人口:約1万160人(2007年)
ファイル:Ulleung island from above.jpg
鬱陵島の衛星写真(上が北)

歴史

三国史記によると、この島は于山国として独立していたが512年に朝鮮本土の国(新羅)に服属させられ、11世紀初頭には女真の侵攻によって滅びたと考えられている。やがて女真が滅びると朝鮮の支配下になるが、この島は朝鮮本土より遠隔地の海上にあり監察使が頻繁に来ることができないため、兵役や税を逃れる者が本土より多数移住していた。朝鮮王朝時代の記録によれば、晴れた日には鬱陵島が望洋亭や召公臺など、朝鮮半島の東岸部から見えるとの記載がある。

倭寇対策としての「空島」政策

13世紀から16世紀にかけて朝鮮本土や中国を荒らしまわっていた「倭寇」と呼ばれる海賊が鬱陵島を拠点に朝鮮本土を襲ったり、鬱陵島の島民までもが倭寇を装って(仮倭という[1])半島本土を襲うことがあったため、1417年、李氏朝鮮太宗はこの対策として、同島の居住者に本土への移住を命じた。いわゆる「空島政策」の発令で、その後460年以上に渡って無人島となった。

米子商人の鬱陵島拝領

ファイル:The license for crossing the sea to Ulleungdo.jpg
江戸幕府から米子商人にあたえられた鬱陵島渡海許可証(1618年)
ファイル:Liancourt Rocks8442.jpg
鳥取藩作成の『竹嶋之図』(1724年)  左が「竹島」(現、鬱陵島)、中央が「松島」(現、竹島)、右下が隠岐諸島
江戸時代の1618年~1697年、米子の商人が江戸幕府の許可の下、隠岐、現在の竹島(松島)を経由し、鬱陵島を開発していた。

1618年元和4年)5月16日、江戸幕府鳥取藩池田光政(松平新太郎)にあてて伯耆国米子(現、鳥取県米子市)の商人、大谷・村川の両氏に対し、鬱陵島(当時、竹島)への渡海免許をあたえ、将軍家の家紋を打ち出した船印をたてることを許可した[2]。これは、両商人が鬱陵島の独占的経営を幕府公認でおこなっていたことを意味する[2]

竹島一件

上述のように、隠岐の漁師などが空島であった鬱陵島へおもむいて海産物や竹などを採取し、これを独占的に米子商人が取引することは幕府によって認められていた。このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行し、幕府が李氏朝鮮に対し抗議した。自国領とみなす朝鮮がこれに反発。日朝間で長期間論争が続いたが、1697年元禄10年)1月、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉は、日本人の鬱陵島への出漁を禁じる措置をとり、その旨を李氏朝鮮に伝えた。こうして、日本の漁師たちが幕府の許可を得て鬱陵島に渡航することはなくなった。

春官志の記録

1745年(英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』には、「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、古くは竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島などとも呼ばれ、竹を産していたことが分かる。

空島政策の廃止

李氏朝鮮は長期間無人政策をとっていたため人は住んでいなかったが、1882年国王高宗は鬱陵島検察使・李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止、その後再び人が住み始めた。

近代

1840年頃から西洋や日本では島名の混乱により鬱陵島を「ダジュレー島/松島」と呼ぶようになった。(竹島外一島を参照)

1905年日露戦争日本海海戦が近海で行われ、1910年 日韓併合により日本領となる。

現在

1952年に発効したサンフランシスコ平和条約により、日本は済州島巨文島とともに鬱陵島の領有を放棄した(なお、竹島の領有権についてはこの条約に直接明記されていない)。同条約で日本政府は朝鮮の独立を認めたため、以降、日本政府は鬱陵島は朝鮮に帰属するものとして扱った。

当初は鬱陵島民の生業は農業が主体であったが、現在は観光と漁業の島になっている。

交通

大韓民国 慶尚北道 浦項市から約217km、船で3時間かかる。他に江原道東海市墨湖からも定期船航路がある。

水陸両用機により、浦項空港などから航空機を就航させる計画がある[3][4]

領有権争いのある竹島との関わり

鬱陵島から東南東へ約90kmのところには、日韓で領土問題となっている竹島(韓国名:独島)がある。現在、韓国がこの島を自国領であるとして、鬱陵郡に属する形で実効支配しているが、これに対して日本は「不法占拠」として抗議している。

竹島へは、2005年3月28日より鬱陵島の道洞港から大亜高速海運によって毎日観光船が運航され、日本人を含め外国人も乗船できる。竹島では、観光客は韓国が建設したコンクリート製の埠頭には上陸できるが、領土である岩には韓国人であっても足を踏み入れられない。

竹島への船の発着場でもある道洞の港や船には、独島が韓国領であることをアピールする巨大な看板などが並び、「独島」を冠した店名の食堂や土産物店などが林立している。道洞港から徒歩約15分の道洞薬水公園内には独島博物館があり、ここよりケーブルカーで登った展望台(標高317m)からは、晴天で空気が澄んでいれば、双眼鏡で竹島をかすかに望むことができる。この独島博物館は竹島の韓国領有をアピールするための博物館で、韓国の財閥 サムスングループの会長が国に寄付し、鬱陵郡が運営している。

竹島は鬱陵島の標高約200m以下では水平線の下に隠れるため海岸付近からは見ることはできないが、晴天で空気が澄んでいるときに高い山の中腹まで登れば、肉眼でもかすかに見ることができる(但し、肉眼で確認できるチャンスは年間に数日と言われている)。竹島(独島)を肉眼で見ることができるので「古来より朝鮮人が日本人より先に独島を発見していた」として、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている。

1964年には、江戸時代に発生した竹島一件の原因となった漁民安龍福を顕彰する「安龍福将軍忠魂碑」が鬱陵島に建立される[5](安龍福は将軍ではないが韓国では将軍と呼称されることが多い。また、現在の竹島を安龍福がはっきり認知していた証拠もない)。

また、独島博物館の入口近くには「対馬島本是我國之地(対馬は我が国の地)」と刻まれた石碑が立てられるなど、韓国人観光客が多く訪れる道洞港周辺は韓国人の一大愛国教育基地という様相を呈している。

2011年8月1日、自民党の国会議員である新藤義孝稲田朋美佐藤正久が鬱陵島の独島博物館などを視察するため韓国に向かったが、金浦空港で入国拒否され日本に引き返した[6]。その前日の7月31日には、3人と合流する予定だった下條正男拓殖大教授も仁川空港で入国拒否された[7]

噴火活動

今から約10,300年前に鬱陵島は大規模な噴火を起こしたことが明らかになっている[8]。このときの噴火の火山灰は鬱陵島から東南東方向に長軸を持ち、日本海本州における広域テフラの一つ(鬱陵隠岐 (U-Oki))として年代測定の材料の一つとして使われている[9]。最新の噴火は約5,000年前で、この時にアルボン溶岩ドームを形成した[10]

鬱陵空港建設計画

鬱陵島では、滑走路長1200メートルの空港を建設する計画が立てられている(鬱陵空港한국어版)。建設期間は5年、建設費は6400億ウォンとみている。

経緯

1970年に朴正煕大統領が最初に空港の妥当性の調査をしていた。

2010年12月20日、KDI(Korea Development Institute 韓国開発研究院)は鬱陵島の空港の経済性がないという結論を下した。鬱陵郡守はこれに対して異議を唱えた。

2011年1月5日、国土海洋部は、第4次空港開発中長期総合計画(2011年 - 2015年)を策定し、官報に告示。ここに鬱陵島空港の建設が含まれていた。ボンバルディア社製Q300モデルやATR社のATR42など、50人乗り旅客機が運航できるとみている。2030年になれば、年間100万人程度の航空需要で、経済性は十分だと予測した[11]。しかし、2016年には入札が撤回され見込みは立っていない[12]

脚注

注釈

出典

  1. 下條正男 『竹島は日韓どちらのものか』 文藝春秋〈文春新書〉、2004年
  2. 2.0 2.1 竹島問題一次資料保管庫「大谷・村川家への渡海免許」
  3. 独島‐鬱陵島を結ぶ航空便就航へ
  4. 鬱陵島に空の道、水陸両用機が年内にも就航見通し
  5. 下條正男 『竹島は日韓どちらのものか』 文藝春秋〈文春新書〉、2004年,21頁
  6. 韓国、自民3議員の入国拒否 ロイター 2011年8月1日
  7. 自民議員の入国拒否へ=竹島研究の拓大教授も―韓国 朝日新聞 2011年8月1日
  8. Nakagawa, et al. (2012). “SG06, a fully continuous and varved sediment core from Lake Suigetsu, Japan: stratigraphy and potential for improving the radiocarbon calibration model and understanding of late Quaternary climate changes”. Quaternary Science Reviews 36: 164-176. doi:10.1016/j.quascirev.2010.12.013. https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0277379110004440 . 2018閲覧.. 
  9. 日本海とその周辺に分布する鬱陵島起源の完新世テフラ 第四紀研究 Vol.52 (2013) No.5 p.225-236
  10. G. B. Kim, et al. (2014). “Post 19 ka B.P. eruptive history of Ulleung Island, Korea, inferred from an intra-caldera pyroclastic sequence”. Bulletin of Volcanology 76: 802. doi:10.1007/s00445-014-0802-1. https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs12303-012-0020-9 . 2018閲覧.. 
  11. 鬱陵島に小型空港推進...の50人乗り以下の規模の運航 imaeil.com 韓国毎日新聞 2011-01-06(朝鮮語)
  12. 鬱陵空港建設延期 大邱日報 2016-05-20 (朝鮮語)

関連項目

参考文献

外部リンク